私はホームレスの男の指定した駅で降りた。そこは乗ってきた電車の終点だったが、もう一つ別の私鉄も通っていて、その線はさらに他の町へとつづいていた。
駅を出たところにバスターミナルがあり、たくさんの人たちが行き先ごとに並んでいた。私が行こうとしている乗り場は一番端っこにあり、そこには白いストッキングをはいた女子高生が二人立っていた。私は彼女たちの後ろに並び、しばらく待っているとバスが来た。
思ったよりも早かった。先日、ホームレスが「そこに行くバスは少ないので、電車を降りてから一時間は待ってもらわないといけないよ」と言っていたのだが、運がよかったのか、五分も経たないうちにやって来た。
行き先を確かめてからバスに乗った。乗客は、私と女子高校生の二人と、私より四、五歳は若いだろう、五十五、六歳の中年女性の四人だけだった。
中年女性は私とは反対の左側の座席に座った。チューリップの花を逆さにしたような白い帽子をかぶり、品のいい萌葱色のセーターにベージュ色のスラックスをはき、かかとの低い、これもベージュ色の靴を履いていた。座席の前には、大きな紙袋が置いてあって、中には花が入っていた。
女は、少しの間、興味深そうにこちらを見ていたので、声をかけようかと思ったのだが、この女も私と同じ村に行くのだろうかなどと考えているうちに機会を逸してしまった。
窓の外を眺めると、バスは大通りの道を走っている。両側に二階建ての古い商店が延々とつづく。自転車屋、酒屋、中古車販売店、金物店、携帯電話の取次店。シャッターを下ろしている店などほとんどなかった。そういえば私の故郷への道もこれとよく似ていた。
中学校から高校を卒業するまで、日曜日を除き、ほぼ毎日、こんな道を駅に向かって歩いた。村には中学校はなく、駅を越えた向こう側にある街の中学校まで通わなければならなかった。当時はまだバスは通っておらず、村から学校までは五キロ以上歩かなければならなかった。街に入ると道が急にアスファルトで舗装されていて、だから、そこに辿り着くと、いつも華やかな気分になった。
それにしてもなぜ、今、ホームレスの男の頼みなどを聞いてやる気になったのか。ずっと電車の中で考えつづけていたのだが、よくわからない。
ホームレスの男と知り合ったのは、定年になってからまもなく、健康のためにと朝夕、近くの公園に散歩に行くようになってからである。いつも行くので、公園に住んでいる彼の顔をよく見かけた。ところがいつか公園の近くにある図書館に行ったとき、そこでも彼を見かけて、つい会釈をした。それで、次に公園に行って彼に会ったときも同じように会釈をした。それがきっかけだった。それから季節の挨拶を交わすようになり、朝出会うと五分程度喋るようになった。年齢が少し上のようだが、それほど離れていないためか、お互いに親しみが持てたようだ。ホームレスは近所から空き缶を集めてきて、どこかに売っているようなので、ときどき、アパートのゴミ置き場に集められている空き缶をいただいて、持って行ってやるようになり、いっそう親しい関係になった。親しいといっても五分程度喋り合う程度に過ぎない。ただ、私は市民講座のカメラクラブに入っていて、ときどき、彼にカメラの被写体になってもらうことがある。彼の顔は、これまでの苦闘が刻まれていてなかなか味のある顔をしている。彼を撮った写真が、市のコンクールに入選したことがある。それで、展示する許可を頼んだのだが、そのとき、おれの願いも聞き届けてくれるなら許可してやってもいい、とやや冗談めかして言うので私もできることならなんでもすると答えた。
その頼みとは、一度自分の代わりになって彼の故郷を訪れ、風景をカメラに収めてきてくれないかというものだった。「故郷はどこか」と尋ねたら、案外近くで、電車で一時間も乗れば行けそうなところだった。「こんなホームレスをしているので故郷には帰れない。それに、もし帰ったら、いろんな問題がおこるかもしれないしな」と言った。少し困惑している私を見て、「期限は切らない、気が向いたときでいいから」とも言った。「いつになるかわからないよ。カメラをやってる人間は撮ろうという気が起こらない限りシャッターを押せないものだから」と少しもったいぶって言ってやったら、「ああ、いいよ、気が向いたときでいいから」と言うので同意した。
約束をしてからすでに半年近くなる。そのことについてすでに忘れかけていたのだが、不意に先日思い出した。息子にはがきを出したのだが、住所不明で送り返されてきたのを郵便受けで見つけたときにふとそう思ったのだ。理由はわからない。
息子とはもう長い間会っていない。三年ほど前、離婚した妻が癌で亡くなったと息子から連絡が入り、それから一ヶ月ほどたったときに、私が東京までわざわざ出向いて彼に会った。「お前には肉親と言えるものはもうおれしかいないのだから、これからはもう少し親密にやろうや」と言ったが、「ああ」とだけ彼は返事をした。お互いに喋ることもなく、黙ってビールを三本ほどあけてから、息子が、「おれ、これから行くところがあるから」と言い、それで別れた。
黙って去っていく彼の後ろ姿を眺めていると、小さいとき、息子をプールに連れていってはじめて泳ぎの練習をさせたときの顔が浮かんできた。赤い水泳帽をかぶり、さかんに水を怖がり、泣いていた顔が。
妻との離婚は私の不倫が原因だった。私は平身低頭謝ったが、妻は許さなかった。
離婚後二年ほどは不倫をした相手と同棲していたのだが、彼女に若い男ができて出て行った。それ以後、私はアパートで独り暮らしをしている。
息子から電話を掛けてくることはめったにない。私の方から掛けると、ああ、とかうんとか返事をする。ただそれだけだ。しかもその電話にしたって彼が引っ越しをし、電話番号を変えたらしく、最近、まったく通じなくなった。
いったいどこへ行きやがったのだ、と思った途端だった。そういえば、おれはホームレスに彼の故郷の写真を撮ってきてやると約束したんだったなと、なんの脈絡もないのにそう思ったのだ。すると、早くその約束を果たしてやらねばと思うようになった。
それで、夕方、ホームレスに会ったとき、さっそく「いよいよ約束の写真を撮りにいってもいいという気になってきた。今週の金曜日あたりに行ってくる」と言うと、突然、彼の顔は緊張した。「よく憶えていてくれた、よく憶えていてくれた」
と、彼は、私の手を握り、泣き声になった。
「けっして忘れていたわけではないが、その気になかなかなれなくて、ごめん」
私は彼の喜びように戸惑いながら答えた。
「そうでしょう。そうでしょう。たかが写真のモデルになっただけで、わざわざ一日費やしてもらって、遠いところにまで足を運んでもらうのだから。こんな引き合わない取引はないからな」
男は、そう言うと、ありがとうを何度も繰り返し、私の手を握った。それから、ちょっと、ちょっとと言って、私をテントの入り口まで連れていって、彼は中に入った。そっと中を覗くと、廃材を器用に組み合わせ、ちょっとした居間のミニチュアのようだった。
低い床まで作ってあって、その上に、畳がわりにマットが敷かれていた。うまく作っているなあと感心した。まるで専門家が作ったようにさえ思えた。それに、部屋はきちんと整頓されていて奥には小さな本箱があり、上には額に入った女の写真が飾られていた。その横にはポータブルラジオまであった。
彼は部屋の横の方で何かを探していたが、入り口から腰をかがめて出てきて、大事そうに一枚の写真を差し出した。
「これが若いときのおれの写真だ」と言った。
モノクロの小さな写真だった。全身を撮した写真で、無地の背広を着て立っている。髪は七、三に分けられてはいるがまだ少年のような顔に見えた。鼻筋も通り、整った顔だった。女の子にもてそうな顔だ。それがこちらを向いて笑っている。
「ほほう」と私は思わず声を出した。
「おれだって若いときはあったんだ」
ホームレスは笑った。よく見ると確かにそこには今の彼と通じるものがある。
「なかなかなもんじゃないですか」
「最初からホームレスなんかじゃないよ。小倉洋介という立派な名前もあったんだから」
「ふうん、小倉洋介さんか」
「そうよ。なかなかいい名前だろう」
彼は肩を寄せるようにして、恥ずかしそうにした。
私は写真を見ながら、小倉洋介かと言ってみた。なかなかぴったりの名前だった。だが、なぜ、私に若いときの写真など見せるのかと訝った。
彼はそれから、小枝を拾ってきて、地面を紙がわりにして、細々と村への行き順や撮ってきてほしい場所などを説明した。私は手帳を出して、それをメモした。
「申し訳ないが、写真を撮るだけではなく、もう一つ」
彼は、そう言うとつばを飲み込んだ。
「もう一つ?」
「そう」
ホームレスは顔の前で手を合わせてお願いのポーズをとり、にこやかに微笑んだ。干からびた手の甲には血管が浮き出ていた。
「この写真を見せて、おれのことで思い出せることを何でもいいから聞き出してきてほしいんだ」
「誰から?」
「誰からでもいいんだ。まあ、友達の俊治とか兄貴の忠史とか、二、三の心当たりはあとで言うから」
「何でもいいの?」
「そう。もちろん、悪口でもいい。おれは若いときから人様によく思われるようなことは何ひとつやってこなかったから」
男はしばらく写真の中の自分をじっと見つめていたが、彼の目がこんなに力のこもったのは初めてだった。
「ああ、わかった。しっかり聞いてきてやるよ」と言った。
なぜ、そんなものを聞いてきてほしいのかわからなかったが、それはきっと尋ねてはならないことのように思えて、聞きたい欲望を抑えた。
バスはいくつかの停留所に止まったが、乗り降りする人は少なかった。五つ目ぐらいのところで女子高生は降り、乗ってくる人はなく、バスにはチューリップ帽の女と私とだけになった。
バスは峠を登りはじめた。突然、下の方に旧家風の建物が見えた。瓦が強い陽光で銀色に輝いている。ますます私の故郷とよく似ている。私の村からの道にも、峠から街の方へ下りたところにこのような家があり、そこには私が中学校に入った直後から憧れていた少女が住んでいた。大柄な女の子で、大人びた感じのする子だった。だが、私は彼女には一度も声をかけられなかった。ただ、遠くから眺めているだけだった。
もし、あのとき、と私は突然に思った。彼女にせめてラブレターでも出していたら、いや、一度でもデートに誘えていたら、今の自分はずいぶん変わっていただろう。何だかそんな気がする。もし、そういうことができる少年だったら、伯母の持ってきた見合い話に有頂天になって乗ってしまったり、その反動のような形で結婚してから若い女に夢中になったりしなかったのではないか。
バスは峠の頂上まで上った。ホームレスが公園で説明したところによると、そこには梨畑が広がっているはずなのだが、梨畑はどこにもなく、新築の建て売り住宅がひしめいていた。
「まあ、まったく違っているわ」
突然、横の女が大声を出した。
「お宅、こちらのご出身で?」
私は思わずチューリップ帽の女に声をかけた。女ははじめて自分が大声を出したことに気づいたようだ。恥ずかしそうに頸をすくめ、軽く会釈をして、にこりと笑った。目尻にはかなりの皺が走ったが、頬が引き締まっていて気品があった。
「ええ、何年ぶりかしら? 二十年は経っていますわ」
「ずいぶん変わったんでしょうね」
「そりゃもう、まったく。この辺一体は昔は梨畑でしてね。お宅は村のお人じゃなかったんですか」
「ええ、ちょっと用事で」
「そうですか」
女は何だかがっかりしたような感じだった。
「私は子供の頃から、二十歳まで」
ひょっとしてこの女がホームレスのことを知っているかもしれない。私はカメラバッグから、男の写真を取り出し、そっと彼女に手渡した。
「ちょっと、この写真見ていただけません。この男の人、見たことないですかね」
女は上目遣いの表情で、驚いたように私を見つめた。明らかに警戒したようだ。
「警察のお人ですか?」
「いやいや、そんなんじゃなくて。この男から頼まれましてね。何でもいいから自分について思い出を聞き出してきてくれって。理由はわからないんですけれどね」
「へえっ、この人ね」
女はじっと写真を見た。
「あなたより六、七歳上かな、いや、それほどでもないかもしれない」
私の言葉には反応せず、じっと見つめている。記憶を探ってくれているようだ。何だか思い出したふうでもある。
「小倉洋介と言うらしいんですが」
「小倉洋介。聞いたことがあるような気もするけれど」
女はさらに精神を集中させて見つめている。なんだか異常に真剣な顔付だ。
「わかりません」
女は、動揺したような表情をしている。だが、静かに写真を返してきた。
「わかりませんか」
今度は私ががっかりする。
「思い出を聞いてきてくれって?」
女が聞き返した。
「そうなんですよ」
「ほおっ……」
「よくわからないんですけれどね。なぜだか」
「思い出ね」
女はしばらく沈黙し、感慨深げに、思い出、思い出と口の中で繰り返している。
「わたしには、何だかわかりそう」
突然、女は私を見つめて言う。
「わかりますか? 私にはさっぱりと……」
「同じような人もいるんだわと思ったの、わたし」
「同じような人って?」
今度は私が女を見つめ直す。
「わたしも探し物をしに帰ってきたんですの。ここに。思い出じゃないんですけれどね。いいえ、やっぱり思い出かな」
「思い出?」
「ちょっと違うんですけれど、よく似たものよ。人様に言えば笑われるから、言うのは、よしますけれどね」
女は恥ずかしそうに下を向くと、くすっと笑った。だが、その笑いは、何だか悲しそうだった。この女、何を探しに来たのだろうか?
思い出ね、今度は私が独り言を言う。すると、またふっと、自分の故郷のことが思い浮かんでくる。父が病死した後、母親と一緒に長い間暮らした竹藪の中の一軒家。小学三年の時、母親が農協に勤めるということで、街から母親の故郷であるその村へ引っ越してきた。そして、私が高校を出て、小さな町の市役所に勤め始めたとき母親を連れてそこを出た。
おれは故郷のことなど思い出したくもないな、と思った途端に逆に、私が高校を選択したときのことが思い浮かんできた。私は、普通高校に行きたかったが、母親は承知しなかった。街に住んでいる叔父までやってきて「お前は父親がないのだから大学へなどいけない。普通高校では就職がない。工業高校に行け」と言って私を説得した。あのとき、母親の言うことなど無視して、普通高校に行っていたら、これもまた、私の人生は少しは変わっていただろう。
バスは止まった。
「ここが終点なんですけれど」
座ったままにいる私たちに運転手が声をかけた。
「ここが終点? すみません」
二人は同時に答え、同時に立ち上がった。外を眺めるとそこはまだ村の入口だった。だが、急に道が狭くなり大型バスが入れるような幅ではなかった。
バスを降り、道に出ると、真昼の日射しが頭上から降ってきた。それが道に反射して眩しかった。両脇は田んぼで、ところどころに農家らしい家が広い庭を道の方に向けて建っていた。だが、進むにつれて、両脇が山に囲まれ、谷川が片側を流れ出した。家は、片側のみとなった。これも私の故郷の村とよく似ていた。しかし、谷の村なんてどこもみな同じようなものなのかもしれない。
女は、しきりにあたりを見渡している。
「村の中はあまりかわっていないわね」
女は呟くが、晴れやかな声ではない。
「村を出てから帰られるのは初めて?」
「いいえ、両親や、兄がいるときはよく帰ってきました。でも、両親が亡くなり、兄が、商売に失敗して、家田畑を全部売り払って村を出てからは一度も」
それが二十年前か? と私は思う。兄はどうしたんだろうか?
二人は、かなり村の中に入ってきた。だが、人に出会うことはなかった。道は無人で、アスファルトの細い路面が銀色の川のようだ。
私はズボンのポケットを捜し、手帳を取り出す。
「すみません。ここに行きたいんですが?」
手帳を開き、ホームレスから最初に訪ねて行って写真を撮ってきてくれと言われた場所を指さす。女は私の描いた雑な地図を眺めている。
「ここあたりが今私たちがいるところだと思いますけれど。こんな道ありましたかしら? 確かに、このお地蔵さんはあります。それはもう少し歩いたところで右に折れる道があるので、そこを少し折れたところです。でも、それから後はよくわかりませんわ。こんなところの道……どうだったかしら?」
女は怪訝そうな表情で何度も首を振る。いい加減な地図だし、それにホームレスが村を離れてからすでに三十五、六年は経っていると言っていたんだから。彼の記憶だって曖昧になるのも無理はない。しかし、この地図をもとにして行けるところまで行ってみよう、それより他方法はない。まずは、地蔵のあるところまで行ってみよう。
「ありがとうございます。とりあえず行ってみますわ」
そう言ってから、しかし、二人は同じ方向に歩いた。
「ここですわ」
谷川に沿っている道と山側に向かう道との交差点に来た。私は右に折れるが、彼女はまっすぐ行くらしい。
「ありがとうございました。探し物が見つかりますように」
私が言った。女は少し笑うとまた視線を下げた。
私はつづけて言った。
「また出会うかもしれませんね」
女はそれに答えるように何度も頷いた。それからそっと私を見た。瞬間、彼女の目線が少女のように見え、顔付も若やいでいた。私は戸惑った。
また、出会うな、そんな気がした。私は何度もお辞儀を繰り返し、右の道にそれた。だが、できれば彼女の探し物に付き合いたかった。
坂道を登っていく。両脇に農家の家が建っているが、どの家にも人は出ていない。中には、はっきりと無人だという家もある。昔、庄屋か豪農だったに違いないと思われる家もあるが、そのような家に限って、門は堅く閉められ、扉の隙間から中を覗くと、庭には雑草が軒先近くまで伸びている。
両脇が雑木の林になり、道はさらに細くなった。周りには家がなくなった。と、道の横に狭い田んぼのような土地があり、先端が前方に突き出て崖になり、石垣が積まれている。どうも男が言っていた場所はここではないか。確か前が石垣になっていると言っていたが、家はない。私は、道からそれて、その土地に入り、崖の縁に立った。点在する家々の屋根が見渡せた。今、自分が辿ってきた細い道がくねくねと下の家々の間に見え隠れする。向こう側には崖を伴った山肌が見える。男が自分の家の前を説明していたのと合致する。だが、振り返っても、男が言っていたような家はどこにもない。ここは畠でもなく果樹園でもなく、ただ雑草と雑木の生い茂った狭い荒地にすぎない。荒地につづく山の斜面はうっそうと茂っている竹藪だった。
「兄貴が跡を継いでいるはず。きっと、今でもそこに住んでいるはず。兄貴は母親思いだったから、墓のある村を離れるはずがない。そこに家を建て、今でも住んでいるはずだ。町の会社勤めを終えてから、もう一つ、居酒屋でバイトをし、その金で、田んぼを買っていたくらいだから。今じゃ一人前の百姓になっているはず」
ホームレスの男はそう言って、公園の空を仰いだ。男の脳裏には、きっとここに建っている立派な家の姿が見えていたに違いない。
こんなところを写真に撮るわけにはいかんな、と私は思った。撮るものが何もない。ただ雑草が生えているだけだ。
私は、少し坂を下り、上方に石垣の全景が見えるところまでやってきた。石垣でも撮っておこうか。家がなかったという証拠にはなる。ファインダーを覗いた。すると、石垣の上のほうにうっすらと家が見えた。平屋の瓦屋根の下に褐色の戸袋と板戸に囲われた古い家。かつて私が住んでいた家とそっくりな家。それが宙に漂うように建っていた。あれっ、あんなところに家が、私は驚いてそれを凝視しようとした途端に、すっと消えた。
幻覚だったようだが、以前、そのような家が建っていたことは間違いない、と思えた。
カメラから眼をはずし、石垣の上を眺めた。背高いエノコロ草やススキが陽に映えて揺れている。その上には、陽をしこたま吸い込んだ空間が竹藪を越えて青空までつづいていた。
私が住んでいたところも今きっとこのような状態だろう。母がまだ生きていたとき、母の友達からしょっちゅう電話が入り、村の報告を受けていたのだが、ある日、昔住んでいた家はちょっとした風で倒れ、近所の人たちが総掛かりで、家の後始末をしたという報告を受けた。
昔住んでいた家が朽ち果てるというのは予想以上にショックだった。自分の心まで朽ち果てたような気がした。母も、その日は何も食べず、何度も外に出ては故郷の方を向き、涙ぐみながら手を合わせていた。土地はすでに村を出ている親戚の者の所有なので、荒地のまま放ってあるそうだ。
先ほど見た縁側と戸袋のついた家を荒地の上に想像しながら、私はしばらく佇んでいた。すると、背中に何かかすかな気配を感じた。人がやってくる感じだ。振り返ると、坂下から、大きなひさしのついた白い帽子を被った女性が鍬を逆さにして、柄を杖がわりにしながら登ってくる。
よかった。ようやく村の人に会える。
女性が近づいてくるのを待った。
「すみません」
私は丁寧に頭を下げた。女性は何も言わず疑い深そうな眼で私を覗き込んだ。
「あの石垣の上に、昔、家があったと思うんですが、憶えていらっしゃいますか?」
「家ね、あったかな?」
「建っていませんでした?」
「そうね?」
彼女は何度も首をかしげる。この村の人間とは限らない。他村から来た人かもしれない。
「失礼ですが、この村の方で?」
「そうよ。この村に産まれて、この村で育って、この村の男と結婚して、この村で死んでいく女よ。そばにいてくれと親に泣きつかれたもんでね、村の男と結婚してしもうたがな。私もせっちゃんみたいに町の金持ちと結婚していたら、今頃は左うちわで、畑仕事もなんもせんでよかったのに。ほんまに」
村の女は不機嫌そうに、まるで独り言のように言った。
「せっちゃん?」
私は何気なく尋ねた。
「せっちゃん。私の同級生。親が町のいい家の男見つけてきて、結婚させたがね。せっちゃんも偉いわ。しょうもない男と結婚せんと。村の放蕩もんとつきあっていたが、さっさと別れて。えらいわ、ほんまに」
女はズボンのポケットから手ぬぐいを出すと顔を拭いた。
「そう言えば、せっちゃん、この間、わたしの夢に出てきたんよ。近いうちに一度村に帰るって。私の夢、ようアタるんよ。ほんとに」
女はまたも手ぬぐいで顔を拭く。
「どうして、せっちゃんのことなんか夢で見たんかな。最近は思い出しもしなかったのに。あんたを遠くから見たとき、あれ、やっぱりせっちゃんが帰ってきてると思ったんよ」
「私をですか?」
「そうよ」
女はようやく明るい表情にかわり、声を出して笑った。
「遠くから見るとよう似とったんよ」
「へええ!」
「何でまちごうたんやろな。男の人やのに。私も、もうぼけてきたのかな。嫌やわ」
女はまたも大きな口を開けて笑う。
「せっちゃんとよくお会いになっているんですか?」
「若いとき、何回か村に帰ってきたときは。それからは一度も」
女の話を聞いていると、せっちゃんという女性に興味が湧いてきた。
「せっちゃんのこと憶えとるの、もう私ぐらいと違うか。年上の人はみんな死んでしもたし、あの人を知ってる人はほとんど村から出て行ってしもたし」
女の視線は下をの方を向いた。しばらく何も言わなかった。
「ああ、そうそう。家のことやがな」
女はようやく視線を上に向け、眉間を寄せて、しばらく目を閉じた。
「そう言えば、あったかもしれん。あそこには。でも、私の実家はこのあたりと違うからな。もっと奥の方やったから。でも、なにせ、当時、たくさんの疎開者や引き揚げ者が村にやってきていて、この上あたりにバラックを建てたり、廃屋を借りたりして住んでおったわ」
「疎開者ですか?」
「一時、村は疎開者や引き揚げ者で賑やかやったからな。あのときが、村が一番輝いとったときと違うか。農家の人はええとみんなから言われたりして。そう言えば、せっちゃんのおばちゃん、そんなことを私らにしょっちゅう言うとった。お父さんに内緒で米や野菜を疎開者や引き揚げ者の家に持っていってあげたって。あのおばちゃん、ほんまに優しい人やったからな。せっちゃんも、あのおばちゃんによう似とったわ。やさしい子やった」
ホームレスは疎開者の子供だったのだろうか? どうしても村の子供だったとは思えない。
私は、バッグから写真を取り出す。
「ところで、この人を知りませんか」
女はぎくっとしたように身をそらす。一気に緊張感を漂わせ、私を睨むような表情をした。すぐには写真には手を出さない。それはチューリップ帽の女と同じだ。
「いえいえ、警察とかそんなんじゃなくて。ここで暮らしていた人なんですがね。自分を知っている人がいるかどうか確かめてきてくれと言われたもので」
女はようやく写真に手にやると、じっと眺めた。
「小倉洋介と言うんですがね」
「小倉洋介。聞いたことないな」
「知りませんか」
「ああ、なかなかいい男やね。でも、村はまだ遅れておったし、当時は男の子に興味を持ったらあかんと親からきつく言われておったから、男のことはよう知らんのや」
「じゃ、横山俊治さんというのは?」
横山俊治というのはホームレスが最も親しくしていた友だちだ。「彼やったらわしのことは絶対知っとるからぜひ会ってきてくれ。そして、思い出を聞いてくれ」と言われていた。
「ああ、としちゃんなら知っとるよ。でも、もうはよう死んだが」
「死んだ?」
「若いときのあいつの友だちなら、ろくなやつやないな。ばくちが好きで、家の牛まで夜中に盗み出して売り飛ばしたっていうから。何でも自分のためやない、友だちの女が妊娠したからそれを堕ろす金を工面してやるためやとかなんとか言っていたらしいけれど、そんなの嘘にきまっとるわ」
「死んだんですか」
「深夜便のトラックの運転手をしておってな。事故に巻き込まれて。歳取ってからはまじめに仕事をしとったんやがな」
ああ、これで私もお手上げだ。彼が名指しで会ってきてほしいと言ったのは兄の忠史と親友の俊治だけだった。ただ、彼らに会っても絶対おれの居場所は言わんといてくれと何度も念を押された。もうホームレスの居場所を聞かれる心配はない。だが、後は誰に聞いたらいいかわからない。誰でもいい、近所の人たちなら誰でもということだったが、近所の人たちと言われても、誰も外には出ていない。わざわざ家に行くのも気が引けた。
それに、彼のことを誰も知らないということに強い衝撃を受けた。そういえば自分も同じかもしれない。二年ほど前、町の中学から高校までいっしょで、私と同じように市役所に勤め、若いとき、時々いっしょに酒を飲んだ男と、偶然、電車の中で出会った。「おい、この間、お前とこの小学校の同窓会があったそうやな、おれの友達がそう言ってたで。参加したのか?」と言った。私のところにはそんな通知が来なかった。誰も現住所を知らなかったのかもしれない。あるいは転校生なので、全員私のことを忘れてしまったのかも……。聞いたときは何とも思わなかったのに、今、それが重大なことのように思えてくる。
「昔のことをよく知っている人いませんかね?」
私は前の女にすがるような声を出した。
「あそこの、ほれ、門のある大きな家。吉田一路さんに尋ねたらどうやろか。この村の区長さんをやってくれとるし。あの人が知らなんだら、誰に聞いてもわからんわね」
女は持っていた鍬の先を使って、今通ってきた道の下の方にある大きな家を指した。
それならその人に聞いてみるより他はないな。その人なら、崖の上の家に住んでいた家のことは知っているだろう。
私は礼を言って下に向かって歩き出した。しばらく歩いたとき後ろにまた人の気配がした。先ほどの女が走りながら私に近づいてきた。はあはあ、息を切らせている。鍬は道端に置いてきたのか手ぶらである。
「ひとつだけ、言うの忘れていた」
私は立ち止まって彼女を待つ。
「誰にも言ってないことやけど、あんたにだけは言いとうなってな」
女は息を整えながら言う。
「せっちゃんのこと?」
私は不意に出た言葉に自分でも驚いた。
「そうや。ようわかったな。勘がええわ。その通り、せっちゃんのことや」
女はしばらく無言で立ち止まり、何かを決心しているように思える。
「せっちゃん、誰にも言わんといてな、と言って私にだけ教えてくれたんよ」
女は私の顔を窺う。
「あの子、妊娠しとったんよ。好きな人の子を」
「ほう。それで?」
「せっちゃん、結婚させてと親に頼んだんやが、親がえらい反対してなあ。相手の男、大工の見習いをしとったんやが、学校もろくに出てなかったし、不良みたいなやつだったし。せっちゃん、親思いやったから、親の反対に逆らえなかったのと違う。まだそんな時代やったからね。駆け落ちしようということで、せっちゃんが後から追いかけるという約束で、男が勤めていた親方の金をごまかしたり、知り合いからせいいっぱい借金をしたりして先に逃げたんよ。でも、結局はよう行かなんだ。せっちゃんは親の言うとおりに男と別れて、子供を堕ろして」
「ほう、そんなことがあったんですか。人生っていろいろありますからね」
ふっと、私はその駆け落ちしようとした男がホームレスではなかったかと思った。そう想像すれば、この女もまた、写真を見て、記憶の隅に駆け落ちしようとした男のことがかすかに残っていて、それで私にわざわざせっちゃんのことを教えにきてくれたのではないか。
「ああ、とうとう言ってしもうたわ。今まで誰にも言わんかったのに。嫌な人やね、私。絶対誰にも言えへんてせっちゃんと約束していたのに。でも、せっちゃん、親の言うことを聞いてよかったと思うわ。あんな男といっしょになっていたらろくなことはない。ばくちで大きな借金をして、暴力団が彼を捜しにこの村までやって来たというんやから」
女は、汚れた手ぬぐいで何度も汗を拭く。
もし、逃げた男がホームレスなら、彼のことが誰からも忘れられていたとしても、きっと、せっちゃんの心の中にだけは生きているだろう。
私は、私を置いて逃げた女のことを思った。ブランドものが好きな女だった。金があればそれにつぎ込んで、サラ金に手を出し、かなりの借金を作って逃げた。後で私がそれを払った。彼女はまだ私のことを憶えているだろうか。
「ありがとう。いろいろ教えてくれて」
ホームレスが逃げた男なら、先ほど出会ったチューリップ帽の女がせっちゃんではないのか。何だかそう思えてならない。
突然、村の女の表情は変わった。
「あ、そうや。私、こんなことしてられんのや。仕事、仕事。じゃ、私はこれで」
女はくるりと背を向けると再び坂をのぼり始めた。どこに置いてあったのか、再び鍬を杖にしている。
彼女の背を追いながら、私はしきりにチューリップ帽の女のことを思った。ぜひ、もう一度彼女に会いたい。彼女の名前がせっちゃんかどうか確かめたい。
今どこにいるのだろう。彼女が行きそうなところはどこだろうか?
再び、ポケットから手帳を出し、ホームレスから指示を受けながら描いた村の地図を見た。彼女のいるところ、彼女のいるところ、と何度も目でなぞる。
手帳をじっと見たからといってそんなところが見つかるわけがない。でも、見つづけているとき、ふっと、小さな長方形を幾つかかためて書いてあるところに目がとまった。するとここに違いない、と思えたのだ。父母もここで亡くなっているのだし、故郷に帰ってきて最初に訪れるのはこういうところではないのか。
それは墓地だった。普通、墓地は山の上が多いのだが、この村の墓地は、村の真ん中にあった。ホームレスがここあたりに墓地があると言うのでそれを表すのに小さな長方形をくっつけて記した。
そういえば、彼女の大きな紙袋の中に花が入っていた。あれは確か仏花だった。急いで行けばまだ彼女がそこにいるかもしれない。地図によれば、ここからそれほど遠くない。絶対そこだ。吉田一路なんかどうでもいい。尋ねていったって、どうせ、小倉洋介なんか知らないよ、そのような男が本当にこの村にいたのかねと言うに決まっている。よし、急がねば。
墓地は簡単に見つかった。私は墓地全体が見渡せる路地の端に立つ。急いで歩いてきたので、五月半ばというのに首筋から汗が滲み出てくる。
墓地と言っても、ちょうど辻公園のようなところにあり、周りを民家で囲まれている。見慣れていた墓地とはかなり違う。平地にある墓地は、普通、寺の敷地内にあるか、民家から少し離れた場所にあるもので、このように家に囲まれ、その玄関先にあるというのは珍しい。それに、墓石も小さく、古びている。多くは砂岩のような弱い石で出来ていて、崩れているものが多い。花崗岩のものも中にはあるがかなり腐食している。貧しい村の墓地という感じだ。せっちゃんの家も貧しい農家だったに違いない。いくら農業がもてはやされた時代だといっても、そう裕福なはずはない。だから両親は何としてでも裕福な家へお嫁にやりたかったに違いない。それが娘の幸福を願う親の気持ちだろう。
路地の一角から墓地全体が見渡せた。陽が墓石の上に降り注ぎ、明るく反射していた。人っ子一人いない。静まり返っている。墓石の明るさが静寂さをいっそう強める。
どうやら私の勘がはずれたようだ。チューリップ帽はいない。だが、よく見ると、一箇所、朱色の鮮やかな仏花が見えた。今しがた供えられたような。
私は狭い墓石の間の通路を通り、花に近づいた。ずんぐりとした朱色と黄色の仏花が数本、竹筒にさされている。その隣の小さな竹筒にも、近くの野辺で摘んできたに違いないタンポポの花がさされていて、墓石の間を吹き抜ける風にゆらめいている。タンポポの後ろには、墓石と墓石の間に挟まれて、河原に転がっていたような丸い石が置かれている。色はあせて他の墓石と同じように錆びた鉄粉色をしている。水子の墓かもしれないなと思う。と、瞬間、それに手を合わせているチューリップ帽の女の姿が見える。背を丸めてしゃがみ込み、微動だにしないで。
すると、今度は、私が息子と最後に別れたレストランでの光景が浮かんできた。離婚話の時「子供には会いたいときに会わせてくれ」と妻に頼んだのだが、絶対だめだといって妻はそれを拒否した。「私はあなたを信じていません。信じられない人にどうして子供を会わせられましょう」と言った。「養育費だって、慰謝料だって、十分にもらっていないのだから、これくらいのことは聞いてください」と妻は鬼気迫る声で言った。「子供が大きくなって、あなたに会いたいといったらそれは自由。それまで待って」とも。それで、別れるとき、最後に食事をして別れることにした。「最後の晩餐だな」と思いながら子供の好きなハンバーグ定食を食べた。三人でいっしょに食事をするのが珍しかったので、息子ははしゃいだ。「ね、こんど、また、プールに連れていって。ぼく、二十五メートル泳げるようになったんだから。お父さんに見せたい」とも言った。「いいよ」「いつ」「じゃ、今度の日曜日」「絶対やで」「絶対」そう言い合った。うれしそうな息子の笑顔が今も目の前にちらつく。
あたりを見回した。墓石が斜めになったり、傾いたりしながら建っている。墓石には名が刻まれているがそれらを判読できない。たとえ判読できたとしてもその人のことを憶えている人はいないだろう。無数の名もなき死者たちがじっとこちらを向いている。
また、チューリップ帽の女が丸石に手を合わせる姿が思い浮かぶ。体を丸石に傾け、石に溶け入るような感じで。
あの女、いったいどこへ行ったのか? いったい何を探しているのか?
もう一度会いたいという思いが痛切に起こってくる。
再び、手帳を出して眺めた。しかし、無駄だった。何も思いつかない。
仕方がない。諦めるよりほかないか。
手帳をポケットにしまうと、しばらく墓地全体を眺めた。陽の光が石の群れのうえに降り注ぎ、陽炎が立ち上っている。後ろの黒い板塀が、ゆらゆらゆらめいている陽炎を浮き立たせ、まるで霊たちが、墓石からそっと起き上がっているように思った。
墓石はすべて古びていた。立派な墓石などどこにもなかった。しかも大小まちまちで、雑然としていて、墓石の間の通路がまるで迷路のようだった。しかし、それがかえって親しみを覚えた。人の自然な終結の姿のように思えた。
墓石に囲まれ、日溜まりの中に静かに佇んでいると、私までもがまるで一つの墓石のような気がしてくる。ただ、そうやって立っていると、先ほど起き出した霊たちの声が聞こえてきた。「あなたは見たことがないね。ここの村の人とはちがうね、ここには入れないよ」と。
そうだ、きっと小倉洋介の両親もここには入れてもらえていないはずだ。
小倉洋介からそこにぜひ行ってきてくれと頼まれたところがもう一箇所ある。
私はかなり急な坂道をいっきに登った。足もだるく、心臓の鼓動もはげしい。なぜこんなにも苦労して彼の要求を聞き入れたのか。馬鹿なことを安請け合いしたものだ。ごめん、どうも道がみつからなくってねとか何とか言って帰ってもいいはずだ。すでに村の風景や墓地の風景、路地の風景をカメラに収めた。懐かしさを刺激するのならこれだけで十分だろう。
だが、私の心はそれを許さない。小倉洋介を思い出す人を見つけたい。彼との約束は守りたい。それにせっちゃんともう一度会いたい。
私は小山の頂上に近いところまで登り、そこから今度は村の端に向かって歩いていく。先ほどバスを降りた方向である。木の間から谷底に広がる村が見える。対面の小山の下を流れる谷川の線が銀糸のように見える。
村人に知られず、村を抜けるにはこの道しかないようだ。横山俊治が牛を盗み、街に売りに行くために通った道はここしか考えられない。せっちゃんの恋人が親方の金を猫ばばして村を抜けようとしたときもこの道を通ったに違いない。
少し下り坂になり、身体が楽になった。雑木も少なくなり出した。ホームレスが次のように言っていた。「道は行き止まりのようなところに出、そこは広場のようになっていて、村全体が見渡せる、そこから急に下り坂になって、町へ通じる道に繋がっていく」って。その広場のようなところに彼の写してきてほしいものがある。
あれっと思う。前方に白いものがちらっとゆらめいた。チューリップ帽のようだ。私は凝視する。やはりチューリップ帽の女だ。間違いない。
こんなこと、と驚く。あまりにも偶然過ぎる。まるで、約束でもしておいたようではないか。でも、こういうことだってあるのだ。予感が的中することだって。
チューリップ帽は崖の端の方に蹲って村を眺めている。まだ、私に気づいてはいない。やはり私たちは出会う運命にあったのだろうか。それとも私の思いが彼女を引き寄せたのだろうか。
「やあ、奇遇ですね。またお会いできました」
私は大声を出した。女は蹲ったまま振り向いた。私を認めると慌ててハンカチで目頭を押さえて拭った。どうも泣いていたようだ。それから立ち上がって丁寧にお辞儀をした。私もつられてお辞儀をした。私を見てもあまり驚いてもいないようだ。まるで私を待ち受けていたとでもいうふうに思える。
「いや、ここに写すものがあってね」
カメラを指さして陽気に言い、さらに、それに付け加えるようにして言った。
「本当にお会いできてよかった。お会いしたかったんですよ」
女は静かに私を見つめるだけだ。見られてならないところを覗き見されたような不快さは示さない。
「本当によかった。あなたもここで何か……」
私は言いかけた言葉を慌てて閉じた。言ってはならないことのように思えたからだ。
「小倉洋介さんの思い出見つかりました?」
チューリップ帽の女性が私に尋ねた。
小倉洋介、彼の名前を憶えていた。不思議なことだ。一度聞いただけで名前など憶えられるものではない。以前から彼の名前を知っていたのではないか。
「いいえ、誰も」
「そうですか。長い間ご不在だったらそんなものですわね」
「でも、あなたを知っている女性に会いましたよ。あなた、せっちゃんと言うんでしょう」
私は思いきって聞いてみた。
「せっちゃん?」
「昔、親友だった人にお会いしました。夢に出てきたんですって、せっちゃんが、近々、この村に帰ってくるって。彼女に会ってやってくださいよ。喜びますよ」
私は懇願するように言った。
「残念。私、せっちゃんなんかではありませんわ。旧姓、吉田真理と言いますの。ほら」
女は、チューリップ帽を脱いで裏返して私に手渡した。縁のところに「田村真理」と刺繍してあった。
「ね」
「ええ」
私は帽子を返したが、不思議とがっかりしなかった。この女がせっちゃんでも吉田真理でもどちらでもいいような気がした。
「私を知っている人は、もうこの村にはいないと思うわ。でも、それでいいの。私には忘れないものがあるから」
女は何度も自分でうん、うんと頷きながら、言った。
それは、墓地にあったあの小さな石だろうと思った。だが、それは言わなかった。
「みんな、故郷に帰ってくるの、昔を懐かしむためだと思っているでしょうけれど、そうじゃないのよね」
女は強く言った。
小倉洋介だってそうではないだろう。それは確かだ。では何のためだ。わかりそうでわからない。
「ここで好きな人を見送ったんだって、せっちゃんは」
私は、努めて陽気な声で言ってみてから、先ほど村の女から聞いた話をかいつまんで彼女に伝えた。女は私の話を真剣に聞いていた。聞き終わったとき、ひとつ大きなため息をついた。かなり悲しげな響きだった。
「そう、そう、小倉洋介さんが写してきてくれって言ったもの、何ですの?」
女は話をそらせるように言った。
「ああ、忘れていた」
私はあたりを見渡した。大木の楠から、少し離れたところの、小さな岩が地面から少しだけ突き出ている前に、幹が縄状に捻れているような感じの木が一本あった。あれだな、と思った。小倉洋介も突き出ている岩の近くだと言っていた。あの木に間違いない。あたりにはそれらしき木がない。
「あれですよ」
私が意気込んで言った。
「洋介が小学生のとき、学校で苗木をもらってきて植えたんだって。ここを去るまでずっと世話をしてきたって。ちゃんと残っていてよかった」
私は走るようにして根もとに駆け寄った。さわさわと葉擦れがし、それが私に言葉をかけてきたように思った。
これをあいつが植えたのか。こんなに大きくなったのを見せてやったらさぞ喜ぶだろうな。村には小倉洋介を憶えているやつがいなかったが、こいつだけはしっかりと憶えていた。そう思えた。根は地面に食い込み、それほど太くはないが、幹は、少し捻れながら力強く伸びていた。枝は広くのびのびと伸ばし、先にはハート型の小さな葉を無数につけていた。それが吹いてくる風にゆれ、降ってくる陽光を水しぶきのように散らせている。
葉と葉との間から、細い木漏れ日が私を歓迎するように降ってくる。
「お前は小倉洋介の子供だ。お父さんは都会の公園でお前の親類のような木の下で元気に暮らしているよ」
私はそう言いながら何度も深い亀裂が入っている木の幹をさすった。
「それ、南京ハゼって言うんですよ。かなり大きくなってますね」
後ろから声がした。振り返ると、女も木をしげしげと眺めている。
再び、前を向き、頸を上に傾けながら、葉裏の黄緑の揺らめきにうっとりとする。葉裏とは思えない。明るい緑黄色の水のゆらめきだった。
私と同じように南京ハゼを眺めている女の気配を背中にありありと感じる。
「もう何年経つんでしょうね。こんなに大きくなって」
女はいっそう感情を込めて言った。
それが私には「あの子も生まれていたら、きっとこんなに大きくなっているんだわ」と聞こえた。
私は、南京ハゼの周りを何度も回った。遠景から、あるいは、木に近づいて、その他あらゆる角度から何枚もの写真を撮った。最後に、チューリップ帽の女を幹の前に立たせて撮った。女はにこやかに笑ってくれた。
「きっと小倉洋介は喜びますよ」と私は言った。
木を撮ったところからバス停までは近かった。坂をいっきにくだったところがバス停だった。
チューリップ帽の女といっしょに帰った。バスもいっしょに乗った。だが、突っ込んだ話は何もしなかった。子供の頃よく聴いた歌とか、起こった事件とかを話題にした。女は、城卓也の「骨まで愛して」とか、山本リンダの「こまっちゃうナ」などを高校生時代によく歌ったと言っていた。「私は橋幸夫のいつでも夢をだ」と答えた。
ただ、どこかでまた「落とし物をひろいに来たのよ」と言った。「何をひろいに?」と聞いてもやはり笑って答えなかった。「それが見つかったの?」と聞くと、「今更みつかるわけないわね」とこれも笑った。
「落とし物をひろいに」という言葉で私は思い出したことがある。それは先日何気なくテレビのインタビュー番組を見ていたときのことだ。沖縄出身の若い女性歌手がかなり重い病気にかかり、実家で療養していたときの体験を語っていた。親戚のおばさんから「そりゃきっとあんたが魂(まぶい)をどこかに落としてきたに違いない。魂(まぶい)を拾ってこなければもとの体には戻らんよ」と言われたと言っていた。魂(たましい)のことを沖縄では「まぶい」と言うらしい。落としてきたところは祈祷師が見つけるそうだ。女性歌手は祈祷師といっしょに拾いに行き、みるみる体の調子がよくなったと言っていた。そんな馬鹿なこと、と苦笑しながら聞いていたが、あの「まぶいを落としたに違いない」という言葉だけは心に残った。私もどこかで「まぶい」を落としてきたのではないかと思ったのだ。それも一回ではなく何度も。ひろえるものならひろいに行いたいとも思った。落としたところなど祈祷師に教えてもらわなくても自分でわかるとも。でも、そんなことはしばらく経つと完全に忘れてしまった。チューリップ帽の女から「落とし物をひろいに」と何度も聞かされるまでは。ひょっとして彼女もあの番組を見ていたのではないか。それで……。でも、私は何も尋ねなかった。
女とは、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んで別れた。喫茶店でも個人的な出来事は何も喋らなかった。ただ、私が高校を卒業した翌年はケネディー大統領が暗殺されたとか、彼女が高校の時、ビートルズが来日したのだとか、そんな話をした。「いろいろありましたな」「いろいろありましたね」と言い合った。喫茶店の費用も割り勘にした。「いろいろお世話になりました」「いいえ、こちらこそ」と挨拶を交わし、扉を開けて外に出た。ふたりの乗る私鉄が違うので改札も別だった。「では、私はこちらから」「お元気で、お幸せに」それから、どちらからともなく手をさしのべて握手をした。彼女の手は柔らかくて、少し冷たかった。
帰ってすぐポジフィルムを現像に出し、仕上がってくるまでには三日間かかった。その間、公園には行かなかった。
出来上がってくる時刻を待ちかねるようにして写真屋へ行き、フィルムをもらってきて、すぐライトボックスでいいのを選び、スキャナーとパソコンで丁寧にプリントした。ピントも露出も構成もうまくいっていた。
ただ、写真を焼いている最中に、ふと郵便受けが気になった。無駄だと思いながらも、アパートの玄関先にある集団の郵便受けを見に行った。息子から住所変更届けが届いていないか気になったのだ。だが、どこからも郵便物は届いていなかった。
再びパソコンの前に座り、プリントした木の写真を何度も見た。ハゼの葉を撮した写真が特に気に入った。陽の光を通した明るい緑黄色と透明感がよく出ていた。葉と葉が重なりあってできている影が淡黄色と調和し、この世のものとは思えないほど美しかった。長い間見ていてもまったく飽きなかった。心がどんどん澄んでいく。
小倉洋介はきっと喜ぶだろう。彼の木がこんなにも大きく、木の葉いっぱいを青空にそよがせているのを見れば、彼を知っている者が誰もいなかったと言っても、兄貴の消息はわからなかったと言っても、きっと衝撃を受けないだろう。ホームレスの笑顔が目の前に浮かんでくる。よし、その笑顔をいただこう。ぜひ小型カメラを持っていって撮ってやろう。傑作ができるかもしれない。
私は、次の日、朝食を早めにすませると、写真を持って早速公園に出かけた。小倉洋介の喜ぶ顔を早く見たかった。
朝日が公園の木々を斜めから照らし、先日のハゼの木と同じように、透きとおった緑色の葉裏を水の煌めきのように揺らせている。
だが、私は入り口を入って右に折れてしばらく歩いたところで立ち止まった。何だかいつもと様子が違うのだ。おかしい。
「おや?」
公園の端っこの、フェンスのところにいつも張られているテントがないのだ。慌ててテントがあった場所に行ってみた。そこには、飯ごうや水筒やアルミの食器やいろんなものが散らばっていた。あいつ、テントを張るところをかえたのか。誰かに追い出されたのか。
どうしたんですか?
後ろから肩を叩かれ、振り向くと、ここでよく見かける中年男が立っていた。いつも私が来る時刻にジョギングをしている男だ。
「そこに住んでいたホームレスね、昨日、死んだよ」
「ええっ、死んだ?」
「昨日の夕方、ここで倒れていたのを私らが見つけて救急車で運んだんだ。病院について行ったやつから聞くと、心筋梗塞だって。けっこうこういうところの生活はきついからね、長生きはできんわな」
男はそう言うと、また、ジョギングの姿勢をとった。
私は何等か冗談を言われているような気がした。
「嘘でしょう。彼、元気だったもの」
「突然だよ。彼が倒れるのを見たっていうやつもいたよ。木が倒れるようだったって。みんな驚いたんだから」
「それじゃ、今、彼はどこに?」
「わからんな。市の福祉課が来てどこかへ運んでいった。警察も来て、身元のわかるものを探していたが、何も見つからなかったようだよ。困っとったわ」
さらに彼の様子を尋ねようとしたが、男はうるさそうにすぐに走り出した。
「何ということだ、何ということだ」
何度もそう呟いた。
ものが散乱していた。彼が愛用していたアルミの食器とか、米を炊くための鉄製の鍋とか、毛布とか、寝袋とか、段ボールとか、いっぱい散らばっていた。マットレスも本箱もあった。だが、ポータブルラジオと女の写真はなかった。
しかたがないので、私は持ってきた写真を一枚一枚テントの跡に置いた。
それを上から眺めた。悔しさが襲ってきた。もう一度彼に会いたい。この写真を彼の目の前に置いてやりたい。
せめて、彼の遺体を探し出し、棺の中にこの写真を入れ、遺骨の一部をもらって村を訪れ、あの南京ハゼの根もとに埋めてやろう。
その時、いつも彼のテントをしっかりと結びつけていた木が一本そこに立っているのに気がついた。
それは南京ハゼだった。幹は少し捩れていて、樹皮はワニ皮の鱗状に深くえぐられている。それは、皺の深かった小倉洋介の手の甲に似ていた。幹は、ところどころで折れ曲がっていて、決して他の木のように真っ直ぐには伸びていないが、上を見上げると、葉は幹に似合わず、小さくて柔らかそうだ。風がそっと吹いてきて、ハート型の小さな葉が丘の上の木と同じように葉裏を黄緑色に透き透らせて、水底に映る波紋のように揺れていた。なんだか彼がまだそこにいるような気がした。
下を見ると私の撮ってきた木の葉の写真も上の葉と呼応するように木漏れ日を受けてゆらめいていた。それらを飽きずに眺めていると、ふと、これが小倉洋介のまぶいではなかったか、と思えてきた。
了 |