わたしのパソコン史   なりた もとこ


 初めてコンピューターというものを見たのは、入社して何年目だっただろうか、もう、二、三十年くらい前になる。
 それは、社長室の隣、窓のない小さな部屋に絨毯を敷いておかれていた。机ひとつくらいの大きさで、東芝製。五千万円もしたそうだ。主に給与計算に使われていたが、人件費に比べると安くなるらしかった。いつもエアコンが稼働していて、その部屋を掃除するときは埃をたてないように掃除機をそっとかけるのだと秘書の女性がひそひそと話してくれた。機械物の好きな部長がコンピューター担当の女性の操作を監督して、終えると鹿皮で丁寧に拭った。なにやら神秘的なコンピュータールームだった。
 それから何年か経って、大型オフコンが導入された。社長は年頭の挨拶でオフコン導入に触れ、会社の発展を祝った。大型オフコン導入と同時にコンピューター技術者が何人か入社してきた。みな、専門の学校を出た人たちだった。コンピューターを扱う部署も新しくできて、システム担当と名前が付いた。東芝の担当者の出入りも頻繁になり、部署ごとの説明会も開かれた。コンピュータールームはガラス張りの大きな部屋に変わり、システム担当の部屋から見ると、SF映画の一場面のように思えた。
 そのころ、わたしは子会社に出向となり、経理もすべて手作業に変わった。わたしの勤めていた会社は中小企業だ。その子会社はまさに零細企業だった。早くコンピューターでなければ処理できないほどの売上を達成し、黒字会社にしたいと仕事に励んだ。
 このころ、個人向けのワープロが発売され、夫の友人が七十万円で買って話題になっていた。便利なんやろか? と夫に聞くとさあー? と首をかしげ、七十万ではよう買わんといった。
 数年経って、家庭向けのワープロが手ごろな価格で売り出された。小さなディスプレイに、打った文字が二行ずつ表示されるカシオのワープロをわたしも買って、年賀状を作った。このワープロはいくらだったのだろう。数万円というようなものだったと思うが憶えていない。夫の友人の買ったワープロの値段を憶えているのに自分のワープロの値段は忘れてしまっている。ほんの数年でこんなに値段が変わるのかと驚いたが、それほどワープロ普及のスピードは速かった。
 職場ではシステムの講習会でカルクの使い方を教えて貰った。売上も順調に伸び始め、本社の古くなった機種をまわして貰って、わたしの所属する子会社でもコンピューターが売上や在庫管理を両側に穴のあいた大きな用紙にジャージャーと音をたてて印字するようになった。
 文書の作成もワープロに変わった。それまで文書の作成はわたしの嫌いな仕事のひとつだった。字が上手でない上に肩が凝る。注意の集中が少しでもとぎれると書き間違える。ホワイトで消して汚くなった文書は上司に叱られる。和文タイプのタイピストは気まぐれな性格で、機嫌が悪いとなかなか引き受けてくれない。彼女の機嫌を取りつつタイプを頼むのは気疲れする仕事だった。
 ワープロはローマ字入力ができる。若い頃英文タイプを習って六ヶ月間のコースを卒業し、一応ブラインドタッチで一分間62語のラインには達していたが、三十歳過ぎて再就職するまで英文タイプは十年以上さわっていなかった。タイプのキーに目を遣り文字を探そうとするとどこにどの文字があるかわからず、なかなかはかどらない。ところがキーの上に両手を置いて目を横の原稿にだけ注ぐと不思議なことに指がひとりでに動いて原稿通り印字していった。自転車と同じだ。指で覚えたことは指がひとりでに動いて仕事をしてくれる。不思議だった。
 わたしは喜んでワープロを使った。文書作成はもちろん、カルク機能を利用して売上動向の管理や売上予測をグラフに作り、会議の資料に役立てた。商品の動きをグラフで見ていると、数字というものが如何に雄弁に販売状況や経営の状態、さらには流行の動向から女性の心理状況まであらわしているかと感歎した。現在の経理システムの生みの親であるベニスの商人から、IBMや東芝のコンピューター技術者に至る先人の知恵に感心し、感謝した。
 我が家のワープロも大きな画面のシャープの書院に進化していた。書院にもカルク機能がついていて、仕事を持ち帰って家でグラフを作ることもあった。
 わたしが文学学校へ行き始めたのはこのころだっただろうか。書院は提出する作品を打つのにも役だった。あの頃、原稿は手書き派のチューターが多かった。ワープロで打った原稿を毛嫌いする人もあった。ワープロで打った文章はうすっぺらい。脳と手は連動していて、手で書くからこそ良い文章が書ける。ものを書くものの常識だと言われていた。わたしはフン、と思った。ヘミングウェイはタイプライターを使っていなかったかな? 1874年、レミントン社が初めてタイプライターを量産し、早速マーク・トウェインが買い求めたと言われている。それ以来、二十世紀の英文学はタイプライターとともにあるのではないか。もちろん、英文タイプライターでは日本語のように漢字変換というやっかいな一手間はいらないのだけれど。
 コンピューターの導入に当たって(零細企業の方の)社長はちょっとさわるだけで万能のコンピューターがなにもかもしてくれると思っていたようだった。事務の担当はひとりいれば十分になる。人件費が大幅に節約できる。営業の仕事もコンピューターの指示通りすればうまくいく。神様のようなコンピューター。本社のシステム担当者は魔法のような力ですべてを処理してくれる。
 打ち合わせをしていくと、そんなことはないのだと言うことがわかってきた。できるのは販売管理、在庫管理だけ。経費管理は今まで通り本社で行う。導入に当たっては仕事量も当面大幅に増える。バグを減らしていくまでの半年か一年間は手作業と平行でコンピューター化を進め、手作業とコンピューターの記録を照合してチェックしていく。
 社長はまもなくコンピューターの悪口を言い始めた。コンピューターは金食い虫だ。こんな面倒なものが日本に普及するはずはない。役立たずのコンピューターを導入させるのはなにかの陰謀だ。わたしは必死で社長をなだめた。あまり気にしないでください。コンピューターと手作業の並行作業もそのうちに終わります。コンピューターは神様でも悪魔でもなくて人間の使う、ちょっと便利な道具に過ぎないのですから。
 ちょうどバブルの最中だった。かなり値の張るフランス製化粧品の売れ行きは右肩上がりに上がっていった。当初、年間五百万円の目標すらも達成できず、苦しんでいた頃が嘘のように、ついに十年目には十億の売上を達成、昭和天皇が亡くなられた晩、真っ暗な町の中で隣のホテルの一室で目標達成記念パーティを開いた。あまり騒がないで帰ろう。といったが、フランス製化粧品の関連会社から提供されたルイヴィトンのバッグやディオールの香水を福引きの景品で当てた美容部員たちは浮き浮きした気持ちを隠せないようだった。
 しかし、強欲なフランスの会社が黙っているわけがない。十年目の契約更新はしない。自社で直接販売をすると言い出した。しかもその交渉の最中、その会社のグループは世界的に有名な乗っ取り屋によって買収され、我が社の取引先の会社だけ、グループから切り離されて、某アメリカの大会社に売り飛ばされてしまったのだった。独占販売権はそのアメリカの会社に移り、我が本社はこの化粧品会社の株をアメリカの会社に売ってしまった。
 出向していたわたしは本社に帰ったが、この会社で採用した人たちはすべてアメリカの会社に移籍した。彼らは一人を残して一年以内にみな首になってしまったそうだ。
 わたしは本社の社長に、やはり、あの十年目条項は契約のとき、もっと粘るべきでしたねと、後悔を込めていったが、社長は、いや、あれで良かったんだ、あの商品の寿命はそろそろ終わりだ、株を売ったことで十年間の経費はみんなカバーしたし、それ以上の結構良い利益もあったんだ、といった。その通り、翌年にはその商品の売り上げは急速に落ち、五億を割り、三億を割り、あとは大会社の力だけで細々と続いているようだ。
 わたしは五十五歳になっていた。一旦退職金を貰って嘱託として本社に帰ってみると、机の上から大きなブラウン管のディスプレイは姿を消して、液晶の小さな画面に替わっていた。しかも事務職は一人に一つの端末装置、管理職も一つをデスクに置いていた。年頭の挨拶ではペーパーレスのオフィスを目指すという言葉もあった。営業社員は小さなポケットに入る機器を持ち、出先の公衆電話から売上や経費を送信するようになるということだった。
 ウィンドウズ95も出て、社長以下全員が講習を受けることが義務づけられた。いやがる部長が文句を言いながら講習を受けに部屋を出て行くと、若い社員の笑いが起こった。
 わたしもボーナスでパソコンを買った。使いやすいように会社で使っているのと同じ機種を選んだ。この値段は今でも憶えている。売り出し中の機種の一つ前の機種で店頭ディスプレイに使っていたものが格安だったのだ。十八万円だった。
 二、三十年前、五千万円のコンピューターは十八万円のパソコンの能力の十分の一も無かっただろうと、五千万円のコンピューターを使っていた部長が言っていた。
 入力の早さや正確さではわたしはとても若い人にはかなわない。わたしはエクセルに熱中した。一枚のシートで自分の部署の試算表を作った。毎月の個人別の販売実績、経費の明細、損益、更にそれらの達成率も一目でわかるように工夫してみた。こういう作業が楽しかった。串刺し計算、ピポットテーブル、マクロ、参考書を見ながらパソコンをいじり廻してこういう技法を開拓し、おぼえるのも楽しかった。
 翌年からパソコンが一人一台行き渡り、通達も、経費処理も、決済もすべて画面上で行うオフィスのペーパーレス化が本格的に導入されると年頭挨拶で発表された年、わたしは退職した。
 退職金でウィンドウズ98を買った。田舎に引っ越して、しばらく経つといろいろな付き合いができてくる。一度パソコンで集会のチラシを作ってあげたのがきっかけで、いろいろなチラシやパンフレットの作成を頼まれる。チラシのデザインを考え、写真やカットを入れて作り上げるのが楽しい。CDのカット集もいくつか揃えた。もちろん完全なボランティア作業だ。数年前、息子のお下がりを貰ってXPに代わった。二年前からはブログもはじめた。
 このごろは高齢者にも結構パソコンが普及している。しかし、壊すといけないからと怖がってさわれない人もいる。せっかくのパソコンにカバーを掛けて、パソコン教室の復習以外には絶対に使わず、奥さんには手も触れさせない人もいる。少々無茶苦茶にさわっても壊れませんよ。パソコンは使うための道具です。使わなければただの箱ですよ、といっても、うちはものを大切にするのが代々の家訓だといって、購入年月日を本体の側面に墨書して大切に保存している。パソコンは道具だということを理解して貰うのは難しいものだ。パソコンを神や悪魔のように思っていたあの社長のことを思い出す。

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