浦島草
夕食を作ろうとして土生姜がないことに気づき、彼女は帽子とサングラスをして表に出た。
歩いてスーパーマーケットまで行き、土生姜を買って帰ろうとしたが、別に急いで作る必要はないと思うと、何だか戻るのが馬鹿馬鹿しくなった。夫はどこかで女と食べているのだ。
三ヵ月前、夫のワイシャツに付いていた化粧品の匂いに戸惑い、迷った末、次の土曜日に会社に電話を掛けて、夫が仕事をしていないことを知った。彼女は事を荒立てないように、いつもと変わりなく振る舞った。一時の気の迷いだと自分に言い聞かせた。ひょっとしたら自分が悪かったのではないかと、躊躇いながら、初めて自分の方から抱いてくれるよう求めたが、夫は疲れているからとやんわりと拒絶した。
きちんと話をしなければと思いながら、日は過ぎていくばかりだった。
彼女は気がつくと、今まで歩いたことのない小路に入り込んでいた。両側の家の前には、競うように植木鉢が並べられている。
その中の一つに、見たこともない奇妙な形の植物があった。小振りのヤツデに似た葉の間から細長いメガホンのようなものが生え、開口部から蔓が円弧を描くように伸びて垂れ下がっている。
彼女はサングラスを取り、葉の間から生えているのは、やはり花なのかしらと思って、じっと見ていた。
「やっと咲きましたねえ」
突然そばで声がした。驚いて振り返ると、髪に白髪の交じった見知らぬ男が笑いかけている。彼女はあわててサングラスを掛けようとしたが、男の端整な顔に惹きつけられて、その手を止めた。
「もうそろそろだと思っていたんですよ」
男は彼女の横に並んで、その花を見た。男の包み込むような低い声に彼女はどきどきした。
「何度見ても面白い形ですね」
彼女は片手を頬に当て、動悸が少し治まるのを待ってから、「何という花なんですか」と口に出してみた。
「浦島草です。ほら、花の中から蔓みたいなのが伸びてるでしょう」と男は指をさした。節のない細長い指だった。体の奥が熱くなり、顔が火照った。
「あれが浦島太郎の釣り糸のように見えるから名付けられたんです」
彼女は男の手をつかんで自分の胸に押しつけたい衝動に駆られた。自分でも予期せぬ感情だった。彼女は男の横顔を見詰めた。今腕を取られたら、そのまま男に体を預けてしまいそうだった。
男は彼女の視線に気づくと、再び笑いかけた。
「秋には赤い実がなりますけど、食べてはいけませんよ。毒がありますから」
そう言うと、男は彼女から離れていった。彼女は半ば放心しながら、男の背中を見送った。
気づくと夕闇が迫っていた。体の奥には熱の余韻が残っている。小路をゆっくりと引き返しながら、今日こそ女の話をしなければと彼女は考えていた。
毒茸
彼から「今晩、そっちに行ってもいいか」という電話を受けた時、彼女は返事をためらった。奥さんの癌が肺に転移し再入院して一ヵ月、彼から逢いたいと言われたことはなかったし、彼女も事が決着するまでは逢わないでおこうと決めていたから。
「奥さんの傍にいた方がいいんじゃない?」
「怖いんだよ」
「何が怖いの」
「女房がじっと俺を見るんだ」
彼女は一度だけ会ったことのある奥さんの顔を思い浮かべた。おっとりとした古風な顔立ちに切れ長の目。その目は男を通して私を見ていると彼女は思った。彼から奥さんの子宮癌を告げられた時にも感じた足許の揺らぐ感覚が再び彼女を襲った。
彼女は来ることを承諾し、電話を切ると部屋の片付けを始めた。十二年前知り合った当初は毎週のように泊まりに来たので部屋はいつも整頓されていたが、ここ数年は一ヵ月に一回程度なので服や雑誌が散らばっている。
彼は八時過ぎにやってきた。疲れた顔をしている。久し振りに手の込んだ料理を作り、彼の好きなワインも買っておいたが、彼はほとんど口をつけず、シャワーを浴びると早々にベッドに横になった。
食器を片付け、シャワーを浴びると、彼女もベッドに入った。彼は彼女を抱き締めたが、それが儀礼的であることはすぐに分かった。彼女も同じように抱き締めながらじっとしていた。
彼はそれ以上何もしようとはしない。彼女は我慢できなくなって、「奥さんが死んだらどうなるの」と彼の耳元で囁いた。
彼は腕を外し、天井を向いてから「分からん」と呟いた。
結局そのまま眠ってしまい、翌朝、溜まった仕事を片付けなければと会社に向かう彼と一緒に、部屋を出た。
夜中に雨が降ったらしく、道路が濡れている。近道をするために公園に入り、小径を歩いていると、芝生の中に白いものが見えた。何だろうと彼女は立ち止まった。
白いものは茸だった。直径五センチほどの茸が少し距離を置きながら三つ生えていた。
彼女は屈んで茸を見た。緑の芝生の中、透き通るような白さが際立っている。こんなに綺麗なんだもの、毒茸に決まってるわと彼女は思いながらも、一つを手に取らずにはいられなかった。
顔を上げると、彼は遠くの方でこちらを見ている。彼女は茸を手にしたまま、小走りに近づいていった。
「ねえ、茸が生えてた。これって毒茸よね」
その時、彼の携帯電話が鳴った。彼がポケットから携帯を取り出す。
「もしもし……うん、分かった、すぐに行く」
彼は携帯を折り畳んでポケットにしまうと、歩き始めた。
「誰から」
「娘から」
彼女は思わず立ち止まった。
「危ないらしい」
彼はぽつりと言うと、足早に歩いていく。
彼女は白い茸を手にしたまま、彼の後ろ姿を見送った。
揚雲雀
夫のウォーキングに付き合いながら、彼女は不倫相手の別れの言葉を反芻していた。
「実はお袋が認知症になって」と彼は言った。「それで女房が面倒を見ているのだが、その姿を見ていると、何だか申し訳なくなって……」
想像だにしていなかった理由に、彼女はただ驚くしかなかった。驚きながら、それなら仕方がないとその理由を即座に受け入れている自分がいた。五年間の関係が何の予感もなしに絶たれることは意外だったが、関係が終わる時はそんなものかも知れないという気持ちもあった。
しかし、今、思い返してみると、本当だろうかという気がしてくる。意表を突く理由をこしらえて、体よく別れようとしたのではないか。
彼と知り合ったのは、彼女が始めた海外の民芸品を扱う店がなかなか軌道に乗らず、悪戦苦闘していた時だった。商工会から紹介してもらったのがコンサルタントの彼だった。民芸品を輸入することでアジアの人々を援助するというコンセプトに共感した彼女は、彼と一緒にベトナムやカンボジアに買い付けに行った。
彼との関係が始まって、彼女は真剣に離婚を考えたことがある。しかし、民芸品店の利益だけでは生活が出来ないこともあって、踏ん切りがつかなかった。彼の方も、今の関係が最適だと思っている節があった。
もしあの時、自分が離婚して結婚を迫っていたら、彼はどうしただろうと彼女は考える。ひょっとしたら、私が彼の母親の面倒を見ていることになったのだろうか。
「私、お店やめようかしら」
彼女は並んで歩いている夫に言った。
「儲かってないのか」
「そんなことないけど……」
「だったら続けたらいいじゃないか」
「でも、パートするより効率が悪いし、買い付けや何かであなたにも迷惑を掛けてるし……」
「おや、やっと分かってくれたか」
「分かってますよ、前から」
彼女が民芸品店を開きたいと言った時、「こっちに一切迷惑をかけないのなら、好きにしてくれ」と夫は答えた。迷惑というのは金銭のことだと理解した彼女は、夫名義の金には一切手を付けなかった。資金繰りが苦しくなった時、彼女は何度夫に借金の保証人になってもらおうかと思ったかしれない。しかし意地でもそれはしたくなかった。
店をやめるのは、実は不倫関係が終わったからと言えば、驚くだろうか。
上空から甲高い雲雀の鳴き声が聞こえてきた。彼女は立ち止まって顔を上げた。真っ青な空に薄い雲が散らばっている。
彼女は雲雀の姿を捉えようと目を凝らしたが、なかなか見つからない。鳴き声に耳を澄まし、この方向かとじっと見詰めていると、ようやく姿を捉えた。かなりの上空だった。
「どうしたんだ」
夫が十メートルほど向こうから、こちらを見ている。彼女は近づいていき、「雲雀よ」と言って空を見上げた。大体の方向が分かっているので、今度はすぐに雲雀の姿を捉えることができた。
「どこだ」
「あそこよ」
彼女は上空の一点を指さした。夫はしばらく見詰めていたが、「分からん」と顔を戻した。
「よく見なさいよ、あそこじゃないの」
「もういい。俺は雲雀を見に来たんじゃない。ウォーキングに来たんだ」
夫は再び歩き始めた。
その背中を見詰めていると、夫とは所詮見るものが違ったのだという思いがふつふつと湧いてきた。
雲雀の声が一段と高くなった。彼女は振り返って上空を見上げた。小さな雲雀が懸命に羽ばたいている。
ラ・フランス
彼女はテーブルクロスの上に、ラ・フランスの入った陶器の果物鉢を置いた。今日の日のために追熟させておいた中から、食べ頃の物を選んだのだ。
昼過ぎ、チャイムが鳴った。ドアを開けると、彼が立っていた。紺のスーツに臙脂のネクタイをしている。
耳から顎にかけて滑らかな曲線を描いており、やっぱりいい男だと彼女は思う。三ヵ月間逢わなかった間、男の嫌なところをあれこれと思い浮かべていたのに、こうして逢ってみると、それが何だったかきれいに忘れている。
ダイニングルームに入ると、彼女は彼に坐るように言った。その向かいに彼女も腰を降ろす。
二人の間にラ・フランスがある。彼の好物だから、何か言うかなと思っていたが、彼は目の前にラ・フランスがあるのも気付かないようだった。
「食べる?」
彼女が手で指し示すと、彼はちらっと目をやってから、
「いや、いらない」
と再び彼女に視線を向けた。
彼と知り合ったのは七年前だった。三十七歳の女と二十歳の男の恋。彼女の友人たちは羨ましいと言いながらも、どこか呆れた口調だったし、金で買ってるんじゃないのという陰口も耳に入ってきた。
彼女は外からの雑音を一切無視した。彼を自分好みの男に仕立て上げるために金を使うのは全然惜しくなかったし、妊娠すればたとえ別れても、こちらに子供という結果が残るという計算があった。しかしそううまくはいかなかった。
今年の夏頃から急に電話が来なくなり、三ヵ月我慢して、彼女の方から電話を掛けたのだった。その時に、別れたいと彼が言った。
「別れたいんなら、私の所に来て、ちゃんと理由を話してちょうだい」
理由は聞かずとも分かっていた。新しい彼女ができたのだろう。
目の前に坐った彼がぼそぼそと話し始める。会社の研修で知り合ったこと、両親が結婚のことをうるさく言うこと、そのつもりで付き合っていること……。相手の年齢が二十三と聞いて、彼女は一瞬むっとなったが、すぐに気を取り直し、その子に進呈しましょうという気持ちになった。
「分かった。別れましょう。よく来て話してくれたわね。心配しないで、私は大丈夫。結婚式に怒鳴り込んだりしないから……なんて言うと余計に心配しちゃう?」
彼が笑った。白い歯にどきりとする。審美歯科の治療費を払ったのも彼女だった。
玄関のドアを出たところで、彼女は握手を求めた。彼はちょっと戸惑ってから手を握ってきた。指が長く、しっかりとした感覚。不意に胸が締め付けられた。
絶対にイヤ。この男を他の女に進呈なんか絶対にイヤ。この男をここまで育てたのは私なのよ……。
彼が手を離そうとして力を緩めても、彼女は逆に力を込めた。彼の顔に戸惑いの表情が表れた。
彼女は握っていた手を引っ張った。彼が倒れかかってくる。その体を彼女は抱き締めた。
胸に頬を埋めながら、「行かないで」と呟いた。彼は体を硬くしたまま、じっとしている。シャツの中からオーデコロンの香りがする。彼女が選んだ物だった。
不意に涙が溢れてきた。自分でも思いがけなかった。
しばらくして、彼がゆっくりと彼女の体を離した。
「ごめんなさい」
そう言うと、彼は二、三歩後ずさりし、廊下を去っていった。
ダイニングルームに戻ると、彼女はテーブルに突っ伏して泣いた。
自分でもこんなに泣いたのは初めてと思うほど泣いた後、顔を上げると、目の前にラ・フランスがあった。
下ぶくれのいびつな形。緑色の地を茶色の点々が覆っている。そこからふっと甘い香りがした。
熊の胆
夫の愛人と名乗る女性から電話が掛かってきたのは、一週間前のことだった。
女はいきなり「あたし、政彦さんの子供を妊娠してます」と言った。
声の感じからすると、かなり若いと思われる。新手のオレオレ詐欺? 彼女はびっくりしながらも、まずそんなことを思った。
「そうですか。それでは一度夫に確認してみます」
女が笑い出した。
「政彦の言うとおり、奥さんはやっぱり女偉丈夫だわ」
女の砕けた言い方に彼女はむっとなった。
「何が目的なんですか」
「目的?」女がまた笑う。「あたしは政彦との間に子供が出来たことを、あなたに知らせたかっただけ」
「お金ですか」
「そんなこと、何も言ってないでしょ」
「だったら、何でしょうか」
いやあ、さすがだわ、受話器から離したのか女の声が遠くなった。
「奥さん、一度会いません? あたし、会いたくなっちゃった」
「夫に事実を確認してからでないと、何とも申し上げられません」
「あ、そう。それじゃあ、政彦に訊いてみて。それから返事ちょうだい」
電話が切れた。彼女は自分が激しく動揺していることに気づいた。
夫は測定機器製造販売の小さな会社を経営しており、メンテナンスと営業を兼ねてベトナムに出張に行っている。帰ってきたら真相を訊こうと思っていたが、帰国予定の日、電話があり、バンコクに飛ぶことになったと夫が告げてきた。
「山下という女性から電話がありました」
「……誰だって」
「や、ま、し、た。あなたの愛人で子供が出来たんですって」
電話が急に切れた。彼女はかけ直したが、通じなかった。
どうやら本当らしいと感じた彼女は、履歴に残った女の電話番号に掛けてみた。
「どう。政彦、何て言ってた」
「出張から帰ってきませんので、まだ確認は取れていません」
「そうよね。ハノイからバンコクに行ったんでしょ」
かっと頭が熱くなる。夫が女に電話している様子がありありと浮かんでくる。
女の挑発に乗ってはいけないと思いながら、「わたくしもお会いしたいので、日にちと場所を決めてもらえますか」と彼女はゆっくりと言った。
「そうねえ」と女は考え込んでから、明後日の一時、Kホテルの喫茶店を指定してきた。赤いセーターが目印、と女が言った。
その日、起きた時から胃の調子が悪かった。朝食も食べずにソファに横になっていたが、昼近くになっても治らない。癪だけど女との約束をすっぽかそうと思い始めた時、ふっと亡くなった母の姿が頭に浮かんだ。胃弱の母が時折黒っぽい物を飲んで顔をしかめていたこと……。母の口から出たクマノイという言葉が、子供だった彼女にはまるで何かのおまじないのように聞こえたものだった。
まだあるかも。彼女は母の遺品を納めた木箱を天袋から引っ張り出し、探してみた。
底の方に、光沢のある緞子の袋があり、触ると固い感触がある。手に取って中身を出すと、サラシに包まれた掌大の物で、持ち重りがする。サラシを解くと、黒くて平べったい丸い石のような物が出てきた。所々欠けている。
彼女には見覚えがあった。あたしにもちょうだいと手を伸ばすと、母は怖い顔をして、「あんたが飲むもんじゃない」と手を叩いたのだった。
彼女は一欠片を取ろうと爪を掛けたが、思いの外固く、まな板の上で包丁を使って削り取った。
それを口に入れる。何の味もしないと思った瞬間、痺れるような苦味が来た。彼女はすぐに飲み込みたいのを我慢した。
彼女は口直しにリンゴジュースを飲もうとしてやめた。苦味を感じている方が効くような気がしたし、実際、胃のもたれが消えている。
時間を見ると、まだ間に合う時刻だった。彼女は化粧をし、服を慎重に選んでから、サングラスをして家を出た。
熊の胆の苦味を噛みしめながら、彼女は約束のホテルに向かった。
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