「ずいぶんと、ご機嫌だな」
ふりむくと、そいつはぼくのすぐ背後に立っていた。誰だか知らぬが、いつのまに部屋のなかまでついてきている。朦朧とする意識のなかで、訝るぼくをじっとみている。
その夜、清掃のパート勤めをしていたパチンコ店に行くと、店長が無断欠勤を咎めてきた。持病の頭痛がおきてどうにも気分がすぐれず、三日ばかり無断欠勤してしまったのだ。
口論になった挙げ句仕事を辞めてしまった。原因はこちらにあるのに、腹いせの自棄酒を飲み、したたかに酔ったぼくが、第一あけぼの荘に帰り着いたのはたぶん午前一時は過ぎていたと思う。鍵穴にうまく鍵が差し込めずに何度もやりなおした末にやっと自室のドアを開けたぼくは、そこに見知らぬ男をみて一瞬部屋を間違えたかと思った。
「あんた、誰や」
ぼくはそう問いかけたような気がするが、そのあとの記憶は思い出せない。
目覚めると靴を履いたまま、倒れるようにして上がりかまちのところで寝込んでいたらしい。二日酔いの酷い倦怠感のなか、手を伸ばして畳の上に転がる目覚まし時計をつかんでみると丁度針が重なっていて正午ではないか、よくも寝込んだものだ。
それにしても、考えれば妙だ、まったく見覚えのない人間が部屋に居たな、あれは酔ったうえの錯覚だったのか、未だ覚醒しきらない頭でとりとめもないことを考えていると、なんだか部屋の外が騒がしくなった。
やがて、無遠慮に板張りの廊下を踏みならす足音と、一つはスリッパを引きずるようにして板を踏む不規則な音とがドアの外を通り過ぎる。隣人のキクちゃんが、男を同伴して帰ってきたらしい。キクちゃんは以前に同棲していた男から酷い暴力をうけたらしく、それが原因で足に障害が残ったときくが、足音ですぐに彼女だとわかるのだ。
キクちゃんが、ここへきたのは三年前だ。以前はどこにいたのかは、本人も詳しくは喋りたがらない。ぼくの部屋へ挨拶にきて、音川キク江といいます、どこでもキクちゃんと呼ばれていたから、おっちゃんもそう呼んで、といった。
そして狸穴安男(まみあなやすお)です、とアパートの家賃控え帳に書かれた名前をみせるぼくに、へえ、これで狸穴って読むの、まるでイメージぴったりやんか、とあっけらかんとして笑ったのを憶えている。
そのぼくは、中学を卒業してから住み込みで働いてきた風呂屋の廃業で職と寝ぐらを失い、この第一あけぼの荘にきて五年になる。
木造の二階建てで、玄関に部屋数だけの郵便受けと下駄箱がならぶ。六畳一間で隅に小さな板敷きの流し台、トイレと風呂は共用という昭和の遺物ともいうべきアパートだが、家賃が二万五千円と格安なのだけが唯一の魅力でもあった。
当時まだ四十歳だったぼくは、もう少しましなところをと、腰掛けのつもりだったのが、そのままずるずると今日まで住みついてしまっている。
足音がドアのまえを通り過ぎると、ぼくは急いで昨日から履いたままの靴を脱ぎ捨てた。まだ頭の芯が重く、緩慢な動作ながら隣室との境になっている壁際に這うようにしてにじり寄り、壁にピタリと耳をつけた。
隣室ではテレビがつけられ、何かのコマーシャルの弾んだ歌声に混じってキクちゃんの甲高い喋り声と、低くて聞き取りにくいが応答する男の太い声が壁をとおして聞こえた。ぼくは悪趣味だとは思いながらも、キクちゃんが男を連れ帰るたびに、こうして隣室の様子をうかがうのだ。
いきなり男の声が大きくなり、子供の泣き声とキクちゃんの声が交差して聞こえ、ドアの開閉する音にぼくは弾かれたように壁から離れた。
廊下を擦る足音がしたかと思うや、ノックもせず、いきなりぼくの部屋のドアが開けられた。ずかずかと部屋に入ってきたキクちゃんは、マキという四歳になる娘の手を引いていて、しかも左の小脇にぼくの同居猫のクロを無造作に抱えている。微かなお香の香りがするが、キクちゃんは男がくると決まってお香を焚くようだ。
キクちゃんが引っ越してきた当初は、薄暗い廊下を芋虫みたいに這いずり回っていたマキが、あれから三年たったいまは、憎まれぐちの一つもきくようになっている。キクちゃんには、もう一人珠代という中学生の娘がいるが、マキとは異父姉妹だともきいている。
「しばらく、ここに居とき」
部屋主のぼくにかまうことなく、キクちゃんはマキを促した。その一瞬の隙をつき、クロがキクちゃんの腕をすり抜けて畳の上に飛び降りた。部屋に上がり込みクロを抱きかかえようとするマキと、素早く逃げるクロとの追いかけっこがぼくのまわりで始まった。
「ごめんな、あの男、猫が嫌いらしいわ、クロをみるなりヒステリー起こして怒鳴りよるねん」
キクちゃんは、少しきまり悪げにいった。これまでにも、こんなことは度々あったから、いまさら驚くこともない。
「面白いこというて笑わすから、もっと話のわかる奴か思ってんけど、今度もはずれやな」
やや早口で喋るキクちゃんのショートパンツから剥き出た脚には、何かに刺されたらしい痕が幾つもあり、なかには掻きむしって瘡蓋になっているのをぼくは黙ってみつめる。
四十歳まえだというキクちゃんは、丸顔にクルリとした瞳に色白の小柄な体躯はちょっと男好きのするタイプだ。反面、気の強そうなところも貌に現れていて、それが男と諍いになる原因なのかもしれない。
クロはキクちゃんが外出をしているあいだの、マキのよい遊び相手だ。まわりに同じ年頃の子供がいないせいもあり、どうかするとマキは日がな一日クロと遊んでいるようだ。
もともと、クロは一年ばかりまえの雨の夜に、アパートの玄関脇で震えながら鳴いていたのをマキがみつけて保護をしたのだ。動物は飼わせないという管理人のバアさんと一悶着あったが、ぼくは猫にもマキにも同情心がわき、なんとか飼わせてやってくれと頼み込んだ。
「大目にみてやってください。いいことをすれば、その分またよいことがありますよ」など柄にもなく講釈をたれれば、相手は寝たきりの主人のことが頭をよぎったのか、黙ってしまった。
翌日、病床に伏すご主人にと、菓子折をさげてふたたび管理人室を訪れ、改めてクロのことは自分が責任を持つと頼み込み、バアさんも渋々認めたかたちになったのだ。あのとき、まだ生まれてまもない子猫だったのに、クロはマキとともに成長している。
「狸穴さん、これクロにお土産、あっそれから……」
「ビールやろ、そうくるやろ思い、ちゃんと買うたるがな」
ぼくはいいながら部屋の隅の冷蔵庫から三百ミリの缶ビールを二缶取り出してキクちゃんに差し出した。
「えっ、あるの……、ごめんな、こんどお礼をするわ」
キクちゃんは五百円玉を畳のうえにおいて、くっくっと笑った。彼女が笑うたびに目につく糸切り歯の欠けた痕の黒い窪みが、いやがうえにも目立った。
キクちゃんはぼくの手から両手で缶ビールを受け取ると、近ごろとみに立て付けの悪くなったドアを尻で押し開けて出ていった。あとにドラッグストアの袋が残されていて、みると猫用の缶詰が二缶入っていた。
キクちゃんは普段にあまり酒類を飲まないから、ビールの買い置きもしていないのだろう。そのくせ男を連れ込むたびに、なぜか必ずといっていいほど、ぼくにビールを買ってきてくれと頼んだりするのだ。こちらも酒類の買い置きはしない主義だが、それは、あれば抑制がきかなくなり二日酔いをするまで飲んでしまうからだ。
もっとも定職もなく年中金欠病の身としては、ビールを買い込む余裕などありはしないのが本音だ。さきのビールだって、アパートの周囲に伸び放題に蔓延っていた雑草を、このまえ暇つぶしに刈り取ってやった謝礼として管理人のバアさんがくれたものだ。
それでもパチンコ店の掃除にいっていたときには、午後十一時から深夜一時までの二時間を時給千円の契約だった。だから毎日つめて働けば六万円ほどにはなったものを、などと、いまさらに後悔したりもするのだ。
あの時、素直に詫びればよかったものを、ふてくされて、じゃあ辞めます、などといってしまったのが悪かった。
まあ、そんなことをいまさら悔やんでも仕方がないが、このままだと目の前に迫った月末の家賃が払えないのが頭痛の種だ。
そのとき、壁を通してキクちゃんの啜り泣くようなあえぎ声が聞こえた。昼間から連れ込んだ男とセックスが始まったらしい、ヤモリの如く壁にへばりつくぼくの耳に、その声は大袈裟で、多分に男を喜ばせようとするキクちゃんの演技に違いない。
アパートは入居者の、ほとんどが七十歳以上の高齢者であるから、昼間から男を引っ張り込もうが、セックスで声をあげようが何ら頓着されることはない。ただ、八十歳になる管理人のバアさんだけが出入りする者を目敏くチェックしては、世間話にかこつけて吹聴するのが小うるさいだけだ。
ふと気づけば、マキがぼくを真似て、傍にきておなじように壁に耳をつけていて、小声で、あちらへいけ、と叱った。
その日は朝からどんよりとして、いまにも降りだしそうな空のもと、ぼくは持病の頭痛症状がおきていて、しばらく安静にと敷きっぱなしの布団に臥していた。風呂屋を失職したころから症状は現れ、特に、湿度のたかい雨天の前後は要注意なのだ。
ぼくの部屋は、玄関に一番近い管理人室の真向かいであった。管理人室の一日中つけっぱなしのテレビの音と、歳の割には甲高い管理人のバアさんの話し声に寝たきりの主人の咳払いなどが、ドアを通して寝ているぼくの耳を直撃する。
突然にノックと同時にドアが開けられ、断りもなく二階の住人であるトナカイさんが入ってきた。こんな気分の良くないときには、なおさらこの人の顔などみたくもないのに。
「よう、わるいけどさぁ、少し融通してくんない」
トナカイさんはそういい、右手の親指と人差し指で輪をつくってみせた。大学時代を東京で過ごしたとかいい、何かというとインテリくずれを気取る彼の中途半端な関東訛りを、わざとらしくて辟易している。どうせまた、いつもの酒代に困ってのことなのだろう。
数日まえの夜だったが、トイレにいこうと部屋から出ると、酔っぱらって帰ってきた彼が、アパートの玄関先で管理人のバアサンから小言をいわれているところをみた。
「毎晩飲みに出て、酔っぱらって帰る人に生活保護は出ないんですよ。役所にいいつけられて保護をうち切られたら、出ていってもらいますからね」
バアサンの嫌味にも、トナカイさんは慣れた様子で黙ってペコリと頭をさげ、悪びれる様子もなく階段を踏み鳴らしてあがっていくのだった。
「悪いけど目下失業中ですわ、文無しで貧乏と心中しようか考えてるところですがな」
「五千円といいたいところだけど、なんとか二千円ばかり頼むよ、これ担保につけるからさぁ」
トナカイさんが紙袋から、おもむろに旬をすぎた女優のヘアヌードアルバム誌を取り出し、布団の上におく。
「ぼくにカネの話をしても無駄やで、こっちが借りたいくらいや」
なにを考えてるのや、こんなもの、ぼくはアルバム誌を一瞥しただけで頑として断る。
「シケてるねえ、二千円のカネもないのかよう」
アルコール依存症のトナカイさんは、そういって顔を近づける。シケてるのはお互い様やろ、彼の内臓をやられているのか生臭い息から逃れようと、ぼくは腹のなかでいい返しながら布団のうえで起き上がる。安酒の飲み過ぎで日本人離れしたかぎ鼻の先だけが赤く酒焼けしているトナカイさんは、酒が切れれば土色の顔が酔うと赤黒を通り越してどす黒くなる。おまけに強度の近視で、丸い黒縁メガネの奥からニラまれれば、誰だって必要以上にこのひとに接近したくはない。
「これさぁ、キクちゃんのモノだけど、そっちに譲ってもいいんだけど……」
トナカイさんは、ズボンのポケットから取り出した女もののショーツを、ぼくの目のまえでヒラヒラとさせた。
そういえば、昨日トイレでトナカイさんと並んで用をたしたとき、彼は「キクちゃんの部屋の窓の下に下着が落ちている、きっと干していて風で飛んだのだ」といっていたから、それに違いない。心が少し動いたが、もしかして彼一流の食わせ物かも知れない。仮に本物だとしても当然ながら、こちらには取引を成立させる資金の持ち合わせもない。
ぼくが黙っていると、トナカイさんはショーツをズボンのポケットにねじ込み「いずこもおなじ秋の夕暮れか……」などと呟きながら、諦めて帰っていった。
キクちゃんが越してきて間もない頃彼女から、どうしてトナカイさんなのか訊ねられたことがある。そこで、真っ赤なお鼻のぉう〜、と節をつけて唄ってやったら、そのときのキクちゃんの、すごく納得した顔を思いだす。
あけぼの荘の住人としては、ぼくより先住民のトナカイさんだが、いまだに得体の知れない人だ。歳は五十なかばだというが病気もちで仕事もなく、生活保護を受給して暮らしているらしい。本人によると結婚歴はなく、ずっと独りをとおしてきたというから、そこのところは、ぼくと同類なのだ。悪い人ではないが、人をくったようなところがあり、程々に付き合う相手だ。
それというのも、トナカイさんと知り合ったころだ。ぼくが、ここへ入居したのは家賃の安いのが気にいったからだと、いったことがあった。そのときトナカイさんは「知らないのか、君の部屋の家賃が安いのは、むかしこれがあったんだよ」と首に手を添えていったのだ。
それが嘘だとは、他の入居者に聞いてすぐにバレたのだったが、そのこと以来、ぼくは彼のことを半分しか信用しないことにしている。
ところが、このまえの夜に酔って帰ったとき、たしか見知らぬ男が部屋にいた気がする。ときが経つほどその思いが鮮明に思い出されて、もしかして、もしかするのか……、なにかがみえるのかクロが天井の一角をじっとみあげていたり、トナカイさんのいった話が、このごろとみに気になりだした。
数日が経った日の昼下がり、枕元でマキとクロが騒ぐものだから寝てもいられず、ぼくは、風呂屋から持ってきた年代物の十四インチのテレビを所在なくみていた。
すると、隣室のキクちゃんの部屋をノックする音が何度もした。管理人のバアさんなら、一度ノックして返事がなければ出直すはずだ、などと思いながら、様子を窺おうと十センチばかりドアをあけて覗いてみた。するとキクちゃんの部屋のまえに立つ背広姿の男と目があった。ぼくはその顔になんとなく見覚えがある気がした。ぼくは直感的に、留守とも知らずにキクちゃんの客がきたのだと思った。
只今そこはお留守ですが、どちらさまで、言づてがあれば承っておきますが、廊下にでたぼくは矢継ぎ早に言葉をぶっつけた。
「あ、いや、わたしE中学の教師でありますが、実は音川珠代さんの……」
容貌から五十歳前後かと思える男は、なにか怪しまれているのかと思ったらしくて、顔を真っ赤にしてボソボソと自己紹介をはじめた。
「珠代なら、近くのコンビニへいけば会えるとおもうけど……」
「えっ、そこにいけばあの子に会えるのですな」
くちを滑らせたあとで、しまった、と思った。ぼくは学校にいっているはずの珠代が、コンビニのまえなどで同年配らしき数人の若者と昼間からたむろしているのをよくみかけていた。
教師であるこの男が、そんな珠代のところへ立ち寄り、登校をうながせば珠代はぼくを恨むにちがいない。そうなれば、ぼくとしては大いに困ることになるのだ。
なぜなら、珠代はコンビニから消費期限がすぎて破棄される食品をよく持ち帰った。深夜に消費期限の切れる弁当やおにぎりであったり、菓子パンとか加工した麺類だったりする。珠代は店長と仲がよいのか、毎日のようにそれらの食い物を貰ってくると、必ずといっていいほど、ぼくにもお裾分けをしてくれるのだ。パチンコ屋の清掃の仕事を辞めて収入が途絶えてからは、毎日が慢性的な飢餓状況のなかにある。それだけに、珠代には心底から感謝しているのだ。教師が立ち去ったあとも、ぼくはこのことで、珠代が気を悪くしないことを願った。
キクちゃんに、新しい恋人ができたらしい。らしい、というのは本人から告白を聞かされたわけではなく、十日ほどまえから昼夜をとわずに、壁のむこうで男の話し声がするからだ。それまでは、なにかといえば、ぼくのところにきていたキクちゃんが、ほとんど顔をみせなくなった。これまでにも、キクちゃんが夜に男を連れ込んだときなど、マキがぼくのところで泊まるにくるのは珍しくなかったが、このところ連日泊まっていくようになった。そうなると、珠代は一体どこで寝ているのかなどと、それはそれで気にもなるのだ。
もっとも、キクちゃんのところに男がいつくのは、これまでにもあったから驚きはない。このまえの男など、いついていた三ヶ月のあいだ、キクちゃんから小遣い銭をせしめてはパチンコ屋がよいするしか能のない奴だった。そのくせキクちゃんがでかけると、嫉妬して暴力を振るいだし、そのたびに彼女がぼくの部屋へ逃げ込んできたりしていた。
そんなある日、男はキクちゃんと大喧嘩のあげく、ぷいっと出ていったまま戻ってこなかった。一方のキクちゃんは、額と目の回りに拳大の青痣が、ながいあいだ治らずに残っていた。
それなのに、懲りもせずにまた男を引き込んでいるのだ。どうやらキクちゃんには、おなじ過ちをくりかえさない、などという教訓などありはしないのだ。ぼくは、そんなキクちゃんを、いつも腹立たしい思いでみている。
先ほどから男の怒鳴る声と、キクちゃんの悲鳴に似た声が壁を通して聞こえているが、ぼくはそれを白けた思いで聞き過ごす。なぜならそんな諍いのあとなのに、きまって子供を追い出しておいてセックスがはじまるからだ。そんなとき、キクちゃんの悲鳴に似た喘ぎ声や、男の激しい息づかいまでが手に取るように聞こえて、ぼくは傍にいるマキの両耳を塞ぎたくなるほどだ。
そんなだから、マキがいきなり駆け込んできたのにはちょっと驚かされた。
「おっちゃん、母ちゃんがっ」
ぼくの顔をみるなりマキはそう叫び、顔を引きつらせて泣きはじめた。みると、あとを追ってきたのか足元にクロもいる。
「どうした、クロ」
クロに訊ねても、仕方がないが、人間予期せぬ事態のまえでは馬鹿げた行為をするようだ。
ふたたび廊下に慌ただしい足音がして、こんどはトナカイさんが血相をかえて飛び込んできた。
「キクちゃんが大変だっ」
彼のただならぬ様子に一体なにが起こったのか、ぼくは事態がわからぬままに部屋の外にでた。目に飛び込んできたのは、男に髪の毛を掴まれたキクちゃんが、廊下を引きずられているところだった。
痛い、痛いと泣き叫びながら、それでも男の腕を掴んでひきずられていくキクちゃんをまえに、ぼくはどうすることもできずに立ちつくした。みると珠代がキクちゃんの部屋の前にいて、暴力を振るわれる母親を青ざめた表情で眺めている。つぎの瞬間、なにかに突き押されるように、ぼくは男に突進していった。
「しっかりしろよ、死にはしないから」
朦朧とした意識のなかで、ぼくに話しかけている者がいる。いつぞや勝手にぼくの部屋に入り込んでいた男のような気がする。なにかをいおうとするが、思うようにくちも開かず声もでない。
「まあ、女を助けようと行動したのは、称賛に値するね」
なにをいいやがる、おまえは何者なのだ。声を振り絞るように問いかけるが声がでない。
すると、こんどは耳元で「狸穴君」とぼくを呼ぶ者がいる。さらに目を凝らすと、輪郭がはっきりとしてきて、心配そうに覗き込むトナカイさんの顔があった。どうやら、ぼくの部屋に寝かされているようだ
「あの男は?、もう一人ここにいたやろ」
「君とぼくの他には、だれもいないよ」
起き上がろうとするぼくを押しとどめながら、トナカイさんは首を横に振った。
トナカイさんの話によれば、ぼくはキクちゃんに対する乱暴を止めようとして、逆に激昂した男にぶん殴られたうえに、とどめの足蹴りをくらい、あっけなく、その場で昏倒してしまったらしい。
一方のキクちゃんは、アパートの玄関先から男にセメントのたたきまで蹴り落とされ、仰向けにひっくり返ったときに後頭部を打ち軽い脳震盪をおこしたということだ。
管理人のバアサンが警察を呼んだために、相手の男はそのまま逃げ出していき、二度と戻ってはこなかった。キクちゃんがこの男と同棲してから、わずか十日目であった。
キクちゃんの頭の怪我を知って心配するぼくに、娘の珠代が傍から「大丈夫や、このひとはサイボーグやねん、むかし大怪我したときに頭蓋骨をセラミックで補強したるから」といって笑った。
珠代は母親のことを、このひとなどというのだ。もし、珠代の話が本当なら、ここにくる以前にも、男に暴力を振るわれて怪我をしたのだろうか。
その騒ぎのあった夜、ぼくは介抱してもらった礼にと、缶ビールを提げてトナカイさんの部屋を訪ねた。
「あんなめに遭っても、男が欲しいのですかねえ」
話が昼間のことに及ぶと、トナカイさんがしみじみとした面持ちでいった。ぼくは答えようがなく、黙っているとトナカイさんは続けた。
「ぼくはこの歳になるまで、恋愛経験もありません、ですから、ああいう気持ちはわかりません」
「えっ、それ本当なんですか、まさに希少種というべき存在ですな」
「機会がなかったんです。これまでの人生で、身近に接した異性といえば母親だけでした。いまに思えば、自分にはある意味で母は恋人のような存在でもあったのかなぁ、その母親も五年前に他界しましたがね」
トナカイさんは、しんみりといい目を伏せた。
大仰に驚いてみせたものの、こちらも似たようなものだ。ずっと風呂屋の裏側にいて、釜焚きをしていたぼくは、風呂屋の主人の家族以外の人々とあまり関わりはなかった。トナカイさんとおなじで、この歳になるまで恋愛をするような機会もなかった。それでも、ぼくはトナカイさんのように、母親のことをそんなふうに思ったことはない。
ただ、人並みに性の欲望だけはどうにもならず、燃料の廃材の陰で週刊誌のヌード写真などをみながら、よく自慰行為にふけったものだった。
キクちゃんは、ぼくがこれまでの人生ではじめて親しく接した女性でもあるが、それはトナカイさんもおなじに違いない。無口になり、ひたすら缶ビールを飲むトナカイさんをみながら、ぼくはそんなことを思っていた。
あの騒ぎから、半月ばかりがたっていた。その日の昼下がりのこと、顔の痣が化粧で隠せるところまで回復したのか、久々に外出したキクちゃんが男を伴って帰ってきた。男を部屋に待たせておいて、いつものようにキクちゃんがマキを預けにきてから二時間ばかりが過ぎた。退屈して膝のうえで眠ってしまったマキを抱いて壁にもたれていると、キクちゃんが玄関へ男を送っていく様子だ。いつものことながら、男同伴で戻ってきたときにくらべ、男を送り出すときのキクちゃんは寡黙で、スリッパを擦る音と板張りの廊下の軋む音だけがドアのむこうを通り過ぎる。
しばらくして、キクちゃんがぼくのところへやってきた。マキに飲ませるつもりなのか、手に缶ジュースを一つ握っている。さらにぼくの膝で眠るマキに目をやり「あら、寝たん」といいつつスリッパを脱ぎ捨て部屋に上がり込むと、向かい合わせにペタンと座り込む。
そのとき、たくしあげたワンピースの裾から剥き出た両太股の奧に一瞬黒い下着がかいまみえ、ぼくはがらにもなくどきまぎする。
「ずっと抱いてんと、そこらに寝かせておいてくれたらいいのに、優しいんやね、狸穴さんは」
キクちゃんはそういって微笑み、缶ジュースのプルタブを引くと自らうまそうに飲み、缶からくちを離すと「飲み」といって残りをぼくに差し出した。ぼくが受け取った缶ジュースを一口飲むと「間接キッスやな」といって屈託なく笑った。
それからキクちゃんは、このまえの騒動で迷惑をかけたからと、ぼくに今日の夕ご飯をご馳走するといいだした。それならばと、トナカイさんのことをいうと「狸穴さんはウチのために、からだを張ってくれたから」といって強引に約束をさせた。
「あんなとこから、クロがみてるわ」
開けっ放した天袋から、二人を見おろしているクロに気づいたキクちゃんの笑い声で、マキが驚いたように目を覚まして泣き出した。慌ててまだ少し残っているジュース缶を持たせるとマキは泣きやみ、そのままキクちゃんに連れられて部屋からでていった。
その日の夕方になって、ぼくはキクちゃんの誘いで夕食を食べにでかけた。途中コンビニのまえを通りかかった際に、キクちゃんは店先に座り込んでいる娘の珠代を目敏く見つけて、夕飯を食べにいこうと声をかけた。すると、日ごろ母親のいうことに口答えばかりしている珠代が意外と素直に頷きついてきた。
キクちゃんは、一キロばかり離れた県道沿いにあるファミリーレストランへいこうといったが、ぼくはそれより県道へ出る手前にある亀田食堂にいこうと提案した。
ぼくは亀田食堂には何回かいっていて、その理由は、何よりも値段の安さにあった。所持金の乏しいときなど、六十円の並盛飯に四十円の味噌汁をぶっかけてかき込めば百円玉一つで空腹が癒せた。そんな客に対しても、店主は何もいわないのが、また気分よかった。
亀田食堂のまえまでくると、キクちゃんと珠代は「えーっ、ここ……」と声を揃えていい、互いに顔を見合わせ絶句した。
軒先に色とりどりの提灯が吊り下げられた出入り口付近には、赤や黄色の短冊が貼り付けられ、車が通過するたびに蛍光インクで書かれた本日のお勧めメニューなどの文字が派手に浮かび上がった。さらに店主の好みなのか、日中でも表にむけて演歌のテープがながされている環境だから、二人がためらうのも無理はない。
それなのにぼくは、住宅街のなかにあって、この店の醸し出す周囲とのちぐはぐ感が笑えて、なんとも気にいっていた。
亀田食堂ではテーブルにつくと、キクちゃんは早速ビールを注文したうえで、ぼくに遠慮せずと好きなものを食べてと勧めた。
「狸穴さんはウチのために、からだを張ってくれたんやもんな」
キクちゃんはぼくにビールを注いだあとも、何度もそうつぶやいた。そのあと、キクちゃんは二人の娘と相談していたが、手垢に汚れたメニュー表から目を離すと、厨房にいる店主にむかって声を張り上げ、ハンバーグ定食を三人まえ注文した。それでは、こちらもおなじモノを、といいかける言葉を遮り、キクちゃんはぼくのために鰻丼を注文してくれた。
キクちゃんが、からだを張って稼いだものを、と少しばかり胸が痛んだ。けれども、鰻丼にいたっては、このまえに喰った記憶すら憶えていないほどであったから、目の前の誘惑に抗しきれずにあっさりと好意に甘えることにした。
「狸穴さん、まだ仕事みつからへんの」
ぼくのグラスにビールを注ぎたしながら、キクちゃんが問いかける。
「うん、特技でもあれば有利なんやろけど、なにもないしなぁ」
「風呂屋の釜焚きしてたんやったら、ボイラーの資格とかあるのやろ」
「それが、ぼくが居た風呂屋は設備投資を惜しんで、昔ながらの廃材を集めてきては燃料にしてたからな、そんなものはないな」
ぼくの少し投げやりないいかたにも、キクちゃんは本当に心配してくれているらしく、黙って頷き溜息をついた。
「おっちゃん、市民プールの監視員募集してたで、いったらええねんや」
マキの相手をしていた珠代が、横合いからくちをはさんできた。
「他人のことをいうてる場合か、あんたこそ、いつもコンビニのまえでウロウロしてるけど、変な男にかかわりなや」
「なんやのん、そういう自分こそ変なおっさんばっかり連れてくるくせに」
キクちゃんの厳しい口調に、珠代も負けじといい返した。
「珠代ちゃん、おっちゃんのこと気にかけてくれてアリガトな。せっかく知らせてくれたのにプールの監視員は、おっちゃんなんかよりもっと若い人の仕事や」
もとはといえば、失業中の自分を気にかけてくれての親子の応酬だ。困惑したぼくは、慌てて二人のなかに割ってはいった。
「けどな珠代ちゃん、お母さんのいうこともホンマやで、やっぱり学校へはいかなあかんやろ」
「もうええわ、そんな話」
話しかけるぼくに、珠代は憮然とした面持ちでプイと横をむいてしまった。ぼくは、しまったと思ったがあとのまつりだ。余計なことをいわねばよかったと、自分のくちの軽さが悔やまれた。
すると、こんどはキクちゃんが割り込んできた。
「私はそんなことをいってないで、嫌やったら学校なんかいかんでもええわ」
「えっ、けど、義務教育のあいだはいっておかな、将来に困ることになるで」
思ってもみないキクちゃんの言葉に、ぼくはがらにもなく説教じみたことをくちばしる。
「ウチかて学校いってへん、まともにいったんは小学五年ぐらいまでや、中学は入学式もいかんかった」
「………」
そのとき、注文したハンバーグ定食につづいて、ぼくのまえに鰻丼がおかれた。珠代はさきほどの会話を忘れたように、マキと話興じながら食べ始めた。
「けど、学校へは、いかんで済む話とちがうやろ」
「学校へいくよりも働け、いわれてた」
「………」
「ウチが小学校に入ったころに、親は離婚しよったからな、母親は娘が大きくなってくると、ちょっとでも早う働かせて、食い扶持を稼がそう思てたんやろな」
キクちゃんはハンバーグ定食に目を落としたままいい終わると、箸をとり表面にたっぷりとソースのかけられたハンバーグを端から崩してくちにいれた。
ぼくにしても、先ほどから蓋をとった鰻丼の香ばしい匂いが鼻先にまといつくなか、空腹感は我慢の限界にきていた。それでも話のなりゆきから、ここで鰻丼を頬張るのは真実味に欠ける行為に思えて、わきあがる唾液を呑み込みながら痩せ我慢をする。
「このまえ、珠代ちゃんを訪ねて先生がきてはったがな」
「担任がきてたんは、このひとが目当てや」
「お母さんのことを、このひとなどと呼びな、それに、アホなことをいうたらアカン」
なんとか、会話の落としどころをつくり、話を収めようとするが、思いとは逆の方向へとそれていく。
「ウチな、トナカイから聞いて知ってんで、まえに居酒屋で担任とこのひとがいるとこみたんやて」
「珠代ちゃん、あの男のいうことなど、信用したらあかんがな、嘘つきが服を着て歩いているみたいなもんや」
「担任とこのひとはテーブルにいて、トナカイはカウンターで二人に背をむけてかけてたんやて、そうしたら、担任も初めのうちは、おかあさん朝はちゃんと起きて学校へいかせてください、とか話してたらしいけど、そのうち酔ってきたらホテルへいこうとかいいだして、このひと口説かれてたんやて」
トナカイさんも、子供相手にくだらぬことを喋るものだ、まてよ、するとあの教師はどこかで見覚えがあると思っていたが、これまでにもキクちゃんのところに何度も訪れていたのか……。
ぼくは、先ほどから沈黙してしまったキクちゃんの表情をうかがおうと視線をむけるが、彼女は黙々とくちを動かしていて、こちらをむこうともしない。
「眺めてても、腹はふくれんよってに、いただきます」
しらけたムードが漂うなか、ぼくは珠代とキクちゃんの顔をみないようにして、鰻丼をかき込んだ。
それから三日ばかり経った昼過ぎのこと、便所へいき用を足しながら、裏庭に咲く紫陽花の花を窓から眺めていた。そこへ掃除にやってきた管理人のバアサンが、珍しく話しかけてきた。
バアサンの話は、八十歳を過ぎてアパートの毎日の便所と風呂の掃除が過酷になってきた。そこで、自分に代わりぼくに毎日の掃除を引き受けないか、というものだった。
そのいい方が、仕事もいかずに日中から部屋でゴロゴロしているあんたに、仕事をまわしてやるのだといわんばかりに聞こえ、少しムッとした。一応考えておきます、と答えておき、トイレから戻ってくるとマキがきていたが、気分が優れず小うるさく思えた。
「おっちゃん、しんどいねんから外で遊びや」
マキはコクリと頷き、クロを抱いて部屋から飛び出していった。そこへ、ふたたびバアサンがやってきた。手に梅の実をいれたザルを持っていて、「あげる」といって上がりかまちに置いた。
じっさい、生梅の実などもらっても、ぼくにはどうしようもない代物だ。礼もいわず黙っていると、バアサンは人差し指で隣室との境の壁を指さし、次ぎに親指をたてて顔を歪めてみせた。キクちゃんのところへ男がきているのを、揶揄しているつもりらしい。相手になるのも面倒くさく、さらに黙っていると、こんどは先ほどの掃除の件をもち出した。
「掃除を引き受けてもらえるなら、その分を毎月の家賃から一万円を差し引きますわ」
「まあ、一応考えておきます」
ぼくは、先刻とおなじ返事をしておいたが、よく聞こえなかったのか、部屋を出ていくとき半ドア状態で「明日からでも頼みますよ」といい残してドアを閉めていった。
アパートの掃除の月一万円が相場なのか安いのか、思案しながらバアサンがくれた梅の実をつまんで囓ってみた。青臭い渋さと酸っぱさで吐き出しそうになるのを無理に呑み込んだ。
そういえばキクちゃんの奢りで鰻丼を食ってからは、まともに食事といえるものはくちにしていない。というのも、珠代がコンビニの店長と仲違いしたとかいって、消費期限切れの弁当を持ってこなくなったからなのだ。もしかするとそれはいい訳で、あのときの、ぼくの説教めいた話し方を怒っているのかと、少々気になってもいる。
買い置きの即席ラーメンはとうに食い尽くしたし、部屋の中の食えそうなものなど、すでに漁りつくしていた。そこで、いくらかは腹の足しになるかと、二つ目の梅の実をつまんだ。
どうせ、あの欲どうしいバアサンがくれた梅だ。近隣の庭先に落ちていたのを、人目を盗んで拾ってきたものに違いない。ほとんど黄色く色づき、なかには黒く変色しているのもあった。黄色く熟した梅の実を囓るうちに舌が慣れてきたのか、いっときの空腹しのぎにはなるかと思えた。
廊下にキクちゃんの足音がして、ぼくは咄嗟に梅の実をいれたザルを卓袱台の下に隠す。ノックもなくドアが開けられ、スッピンの顔のままでキクちゃんが入ってきた。
「狸穴さん、三日間だけのバイトあるけど、やってみる」
顔をみるなりキクちゃんはそういって、反応を確かめるようにぼくの顔をみつめた。
「やるやる、カネになるのやったら、どんな仕事でもする」
収入のないぼくを心配し、仕事を探してきてくれたキクちゃんに感激をした。ぼくの気持ちを確かめたキクちゃんは、先方に話してみるからオーケーとなったら、仕事の内容は相手から直接聞くようにといった。
ちょうどいい機会だと、ぼくは管理人のバアサンからアパートの掃除を持ちかけられたことをキクちゃんに打ち明けた。
「簡単に掃除いうけど、トイレにお風呂場、それに外まわりとか結構時間がかかるんよ。毎日の掃除に、月一万円なんて安すぎるわ」
「じつのところ、受けるかどうか迷っていたところや」
「よし、ウチにまかしとき、交渉したるから」
キクちゃんは自信ありげにいい残し、まだ部屋には男がいるのか、あたふたと部屋から出ていった。
翌日、ぼくは布団に寝そべったまま、ひたすら空腹に耐えていた。昨日は腹の足しにと梅の実を渋みを堪えて何個か囓ったあげく、腹を下して朝方までトイレ通いをするはめになり最悪だった。
それに、夜中にはまたあの男がきたのだ。やつはぼくの意識が朦朧としているときに限ってやってくる。こんどはなにもいわないで、じっと下痢と腹痛に苦しむぼくをみおろしていた。それにあの生気のない顔は、このぼくとおなじくらいに貧相にみえる。いつの間にかやつはいなくなったが、下痢でトイレの往復は朝方までつづいた。
不眠と腹下しで、全身のちからが抜けてしまい、朝から薬缶に汲んだ水道水ばかり飲んでいる。なにか食うものを買いにと、財布を逆さにして振れば五十円玉一枚一円玉が三枚、灼けて茶色に変色した畳に転がった。文無しもここに極まった思いだが、こうなると動かないことが余分なエネルギーを使わないうえで、最良の過ごし方だった。
畳に目を這わせると、管理人のバアサンがくれた梅の実が、卓袱台の下にザルに入れて置いたままだ。やっと下痢症状が治まったところなのに、無意識に梅の実にのばしかけた腕を、慌てて引っ込めた。
すると今度はキクちゃんが持ってきた猫用の缶詰が、部屋の隅に転がっているのが目にはいった。このところクロはキクちゃんのところにいったきりで、戻ってこようとしない。クロはクロなりに食い物のあるところをよく知っていて、近頃はアパート内の餌をくれそうなところを渡り歩いているのだ。そのせいか、飼い主のぼくとは逆に、まるまると太っている。
普段はホームセンターなどの特価で買入れたフードをやっているが、たまにキクちゃんが缶詰を買ってきてくれたりする。そんなうちの一個が、まだ開缶せずにあった。
ぼくはそろりと身を起こすと、缶詰のところまで四つん這いでいった。手にとり改めてみるとレッテルには、鶏のささみホタテ貝柱入りと、かなり贅沢なものだ。
卓袱台のうえでプルタブを引き起こして蓋をあけると、鶏肉のいい匂いが寄ってきて鼻のまわりにまとわりついた。
はやる気持ちを抑えながら、箸でつまんでくちへいれると、当然ながらも鶏肉の旨味が口中にひろがった。だが、そのまま食べるのも能がない、小皿にとりソースをたらせて食ってみると、これが意外といけるではないか。ぼくは久し振りのご馳走に舌つづみを打った。
玄関先がざわつき、話し声からすぐにキクちゃんだとわかるが、廊下に大股の足音が重なるのはお客さま同伴らしい。ぼくは仰向けに寝ころび、天井をみつめて意味もなく嘆息した。
しばらくしてマキがやってきて「おっちゃんに」と手にもつ紙袋をぼくに差し出した。なかにはハンバーガーが二つ入っている。一個はマキの昼飯で、あと一つはぼくにキクちゃんからの差し入れに違いない。
勝手にそう解釈して、キクちゃんの気遣いに感激しつつ、一つをマキの手にもたせるともう一個のハンバーガーにかぶりついた。慌てて頬張るものだから喉に詰まり、拳で胸を叩きながら傍らの薬缶の水を口づけで流し込む。自分のハンバーガーを手に持ったまま、不思議なものでもみるようにぼくをみつめているマキと目が合った。
「それいらんのなら、おっちゃんが食べてやろか」
照れ笑いしながら話しかけると、マキは咄嗟にハンバーグを持った手をうしろへまわして隠し、激しく首を横に振った。
一時間ばかりが経ち隣室のドアを開閉する音がして、キクちゃんのお客が帰るようだ。その気配に気づいたマキが、ぼくの制止をきかずにドアを開けたために、ずんぐりした男の横顔と送って出るキクちゃんの姿が垣間見えた。
玄関まで客を送って出たキクちゃんは、その足でぼくのところへやってきた。いつものようにつかつかと上がり込み、壁に凭れているぼくのまえに座りこんだ彼女からは、仄かなお香の香りがした。
「狸穴さん、このまえ話した仕事の件な、団長に話したら明日からきてくれいうてたわ」
「ほんまか、けどその団長いうのはなんのことや」
「消防団の団長やんか、本名は中野さんやけど、どこでも団長で通ってるみたい、それで日当も一万円くれるらしいんよ」
ぼくは、キクちゃんの言葉に内心で小躍りした。一万円の日当なら三日で三万、これで今月の家賃をクリアできたわけだ。
「アリガトな、キクちゃんのおかげや、神さま仏様キクちゃん大明神さまや」
「団長さんに、ウチの名前をいったらわかるから、七時までに来てくれいうてたから、朝ちゃんと起きていってよ」
今月の家賃を払えるメドがついたことで安堵し、つい軽口を叩くぼくに、キクちゃんは少し心配げに念をおした。
キクちゃんが帰ったあと、ぼくは早速トナカイさんのところへ、通勤用に自転車を借りにいった。腹の調子はよくなったのか、と訊ねるトナカイさんに、もう大丈夫です、と答えたものの、なぜ、そのことを彼が知っているのか不思議に思った。
翌朝、ぼくは六時に起床すると、トナカイさんから借りておいた自転車で出かけた。こんな早朝に起き出すのも久し振りなら、仕事に出かけるのもまた久し振りであった。
キクちゃんから聞かされていた場所は、あけぼの荘から五キロほど離れた地区だった。そこは旧農村地域の集落で、農家らしい土蔵のある屋敷などがそこここにみうけられた。先方と落ち合う約束の消防のポンプ小屋は、マンションや建て売り住宅に囲まれるように田畑が点在している一郭にあった。
近寄っていくと、ポンプ小屋のまえには軽トラックが止められていて、傍らで数人の男たちが何やら談笑していた。
「団長、あの人やないか」
なかの一人がぼくをみていうと、男たちは一斉にこちらをむいた。
「自転車は、そこにおいとけや」
男らは五人いて、団長と呼ばれた男が歩み寄り、ポンプ小屋の横手に自転車を置くように指図した。この男が中野なのか、ぼくはひと目みて、昨日キクちゃんのところにきていた男だとわかった。
「あの、狸穴といいますが、音川さんより……」
自己紹介をするぼくの言葉を遮るようにして、中野は皆にむかって「いくど」と声をかけた。皆はそばの軽トラックの荷台に飛び乗り、促されてぼくも荷台に乗った。荷台にはところ狭しとスコップなどの道具類の他に特大のゴム長靴が積まれていて、ぼくはその隙間に遠慮気味に腰をおろした。そんなぼくに、中野がコンビニの袋を押しつけるように手渡しながら「腹が減ってはいくさができんでのう」といってニヤリとした。
中野が助手席に乗ると若い男が運転する軽トラックはすぐに出発したが、どこへいくのか、そればかりか仕事の内容さえ説明がないのだ。走り出すと年配の男が「これを被れ」といってぼくに麦わら帽子を手渡した。男は笑いながら、照りつけるなかでの作業やから、帽子を被らなければ日射病になるぞ、といった。
荷台には、この他に、やはり地元の者らしい壮年の男が二人いて、よそ者はぼくだけのようだった。先ほど中野から渡された袋のなかを覗くと、菓子パンと紙パックの牛乳が入っていた。躊躇することなく、パンを取り出してかぶりついた。
本当のところ、果たして空腹をかかえての肉体労働は、過酷で中途で倒れるのではないかと不安だったから、中野の気配りには大いに感謝した。きっと、そんなぼくの事情を、キクちゃんが中野に伝えていたのに違いない。
「あの、仕事は、どこまでいきますんや」
菓子パンと牛乳で空腹が満たされ、気持ちの余裕ができたぼくは、おずおずと年配の男に言葉をかけた。
「大川の取水堰や、そこから村まで水路をさらへるのが仕事や、僅かの田んぼのための溝さらいなど、若い者は敬遠して人手が集まりよらん、そこで、おまはんに頼んだわけや」
男は、ぼくの顔をみながら説明した。大川はこの地域を流れる一級河川で、そこの取水堰から流れる灌漑用の水路を、田植えの時期をひかえての清掃作業というわけなのだ。取水堰から、この男らの村まで五キロ強はありそうだから、それを三日間でさらえるとなるとかなり強行軍に思えた。
男の話では、取水堰から男らの集落までに、三カ所の旧集落を用水路は通過していて、上の集落から水を貰うために一番下手の集落が田植えまえに水路の清掃をするのだという。四百年もの昔から、この習わしは続けられているのだと、男は得々として喋った。
ただの、どぶ川としか思っていなかった水路が、いまだに灌漑用として役割を果たしていることを、ぼくは初めて知った。
取水堰近くの住宅街のなかで車を降りると、軽トラックはそのまま走り去っていった。ぼくはここで特大の腰のあたりまである長靴を履かされた。巾二メートルばかりの水路は、藻とヘドロに覆われて、その臭気に目眩がしそうだ。ヘドロのなかを歩くとズブズブと沈みそうで、思わずこの仕事を引き受けたことに後悔の気持ちがわいた。
このとき中野が、背後から馴れ馴れしく話しかけてきた。
「朝早うからすまんのう、その分早めに昼飯は食わせるからのう」
「えっ……、昼飯も食わせてもらえますんか」
「ああ、腹一杯食わせるがな、ほならかかろかあ」
中野はそういって笑い、他の者をみまわしながら声をかけた。
キクちゃんから聞かされたのは日当一万円ということだったが、そのうえ昼飯つきなら条件として悪くはない。このところずっとの空きっ腹が、昼には飯が食えると思っただけで鳴った。
ときどき中野が「ガラスの破片や金属類などがあるから、気をつけてやれ」などと声をかけてきた。それにしても、夥しく水面を覆いつくす藻や塵などをスコップや備中鍬などですくい取る作業は、久しく力仕事から遠ざかっていたぼくには過酷そのものであった。
水路は旧集落のなかを抜け、小学校の傍までくると登校時の児童たちが水路のなかで塵と格闘する我々に好奇の目をむけていく。さらに水路は、新興住宅街や工場の塀に沿って蛇行し、ときには突然に暗渠に入ったりした。
やがて水路は県道に沿って流れ、水路の投棄物も自転車やテレビなどが泥に埋まっていて引き揚げるのに一苦労だ。ぼくはもう疲労困憊の極みで、できるなら、このまま逃げ帰りたい心境になる。
「おい、ここらで昼にするかい」
中野の一声で、みなは一斉に作業をやめた。水路から上り特大長靴を脱ぐと、ぼくは疲れと空腹とで目眩に襲われて、その場に座り込みそうになるのを辛うじて堪えた。中野がケータイで呼んだ軽トラの荷台に再び乗り込み、三分ばかりで亀田食堂に着いた。
水路のなかにいて、少し方向音痴になっていたようだが、亀田食堂の付近まできていたのは意外であった。みなのあとについて店内へ入っていくと、店主が不思議そうにぼくの顔をみた。
「昼からも気張ってもらわな、いかんからのう、なんでも馬力の出るモンを食うてくれや」
テーブルにつくと、中野はそれぞれの顔をみながらいい「おまはん、鰻はどうや」とぼくの顔を覗き込む。
「えっ、昼間からそんな、くちが腫れますがな」
いまは、なんでもええから早いとこ飯を食わせてくれ、ぼくはテーブルに据え置きの麦茶をがぶ飲みしながら、それでも一応は恰好をつけて遠慮をしてみせた。
「まだまだこれからや、どんどん精をつけて気張ってくれな」
中野は笑いながらいい、ぼくのために大声で鰻丼を注文してくれた。
鰻丼を食えるのは有り難いが、中野はぼくがキクちゃんとおなじあけぼの荘の、しかも隣室の住人だと知っているのだろうか。だが、いまのぼくには、そんなことはどうでもよくて、食い物にありつき、この飢餓状況から抜け出せればいいのだ。
ぼくは、ともすれば挫けそうになる気持ちを、日当一万円の欲と道連れで三日のあいだ頑張りとおした。最終日の作業が終わったとき、中野は封筒に入れた三日間の日当を手渡しながら「また人手が要るときには頼むわな」といったが、疲れ果てていたぼくは曖昧に返事をしておいた。
帰途にスーパーに立ち寄り、よく頑張った自分に褒美のつもりでビールを買うと、目についた一盛り二百円のコロッケを買った。コロッケはビールのアテにもなり、同時に腹も満たせるから一石二鳥なのだ。
あけぼの荘までもどると、玄関にトナカイさんがいた。ぼくが自転車を借りた礼をのべると「あの……」トナカイさんは何かをいいかけてあたりを気にかける様子でくちをとじた。
ぼくは、それ以上に彼には構わず、自分の部屋にはいると、音もなく背後にトナカイさんがついてきていてギョッとした。
「あ、あの、じつは音川さんのことですが……」
仕方なく、ぼくが注いでやったビールを一息に飲み、トナカイさんは口をひらいた。
彼のいうには、キクちゃんに新しい男ができたらしい、自分はこの目で確認した、とかなり自信ありげにいった。いつものことでしょう、とぼくが受け流すと、いや、あれは恋人です、新しい恋人が出来たのです、とムキになり、ぼくのビールを勝手に注いで飲み干した。
そういえば、バイトにいっていた三日のあいだキクちゃんに会っていない。夕方アパートに戻ってからも、彼女が訪れることもなかった。もっとも疲労困憊のぼくは、部屋に帰りつくなりぶっ倒れて寝ていた。
「それでは、また情報があれば教えます」
そういうと、トナカイさんは目の前のコロッケを一個つまんで腰をあげた。
なにが情報だ、誰も頼みもしないのに、玄関先でぼくの手に提げていたビールに目をつけて飲みにきただけなのだ。それに五個入りのコロッケを三個も食いやがって、ぼくはトナカイさんが帰ったあともしばらくは彼の厚かましさに腹がたった。
まてよ、このところ、クロもキクちゃんのところへいったきりだ。あるいは猫好きの男が現れたのか、などとふと思った。飼い主が腹を空かせていても、クロにだけはちゃんと食わせていたのに、犬にくらべて猫は恩も義理もないな、ビールの酔いがまわるにまかせてぼくは様々の妄想のなかで眠りにおちていった。
翌日の昼過ぎ、マキがキクちゃんの使いでぼくを呼びにきたが、いつもは遊んでいくのがすぐに帰っていった。なんの用かと思ったが、キクちゃんの仲介でいったバイトの報告がてら部屋をたずねた。ノックをすると「入って」とキクちゃんの声がした。機嫌がいいのか声が弾んでいる。
ドアを開け部屋のなかをみたぼくは、慌てた。なんと部屋のなかにはキクちゃんとあの中野がいた、それに中野の膝にマキとクロまでがのっているではないか。ぼくはどうしていいかわからず、挨拶するタイミングも失い立ったままだった。
「よう、このたびはご苦労やったな、おかげで助かったわい」
中野はマキの頭を撫でながら、人懐っこい笑みを浮かべていった。
「狸穴さんのこと、よう気張ってくれはった、いうて団長さんも喜んではるんよ」
横合いからキクちゃんが言葉をはさみ、やっとのことでぼくは照れ笑いをしながら中野に会釈をした。
「これ、よかったら狸穴さんも頂いて、団長さんの畑で採れたんよ、みて美味しそうやろ」
キクちゃんは大振りのトマトを三つ手にすると、ドアを背にして立つぼくの傍にきて手渡しながらいった。なぜか今日のキクちゃんは、やけに女っぽく感じる。
「あ、こらどうも、立派なトマトですな」
ぼくはそれだけいうと、二人に背をむけてドアを押し開けキクちゃんの部屋を早々に辞した。
なにが立派なトマトや、ぼくは部屋へ戻るなり、手に持つトマトを畳のうえに投げ出した。キクちゃんは、わざわざあの男の持参したトマトをお裾分けするために、ぼくを部屋に招いたのか、それにしてもマキとクロの中野にたいする懐きようは、どうしたことか。
ぼくは畳のうえに転がるトマトを一つ手に取ると、腹立たしさを紛らすつもりでかぶりついた。ボタボタと汁を垂らしながら、かぶりついていると、果汁が染みたのか歯茎に鈍い痛みを感じた。
その日の夕方になって、こんどはキクちゃんがぼくの部屋にやってきた。団長さんはウチにばかりか子供らにも優しいとか、これまでの男は、どうしてか猫嫌いが多かったが、あの人にはクロもよく懐いてたやろ、むかし乳牛も飼ってたそうで動物好きなんや、などとキクちゃんはのろけをいった。
なにをいってる、クロはぼくが飼っている猫だ、などと心中で反論しながら気のない返事をするぼくに、キクちゃんは話題を変えた。
「それで、アパートの掃除のことやけど、ウチ管理人のオバサンと話をつけたったから」
「それで、どうなった」
男のことより、肝心な話を先にせんかいな、またしても内心で愚痴りながら、ぼくは真面目な顔でキクちゃんの顔をみる。
「いままで掃除料として各部屋ごと毎月千円払ってるやろ、二階と一階とあわせて部屋数が一七室やから一万七千円や、狸穴さんに月一万円やったらむこうが七千円ピンハネしてることになるやん」
「そら、そうなるわなあ」
キクちゃんもええとこ突くやないか、ぼくは管理人のバアサンの困惑した顔を思い浮かべた。 部屋数が十七室と半端なのは、もともとあけぼの荘に浴場はなかったものを、周辺の銭湯がなくなり入居者全員で大家の工務店と団体交渉し、三年まえに一部屋分を潰して一階に浴場を設けた経緯があった。
「ケチらんと払ったってよ、いうたったわ。そうしたら狸穴さんの家賃から、掃除代として一万七千円を差し引くことで大家の了解をとりますいってたわ」
「一万七千円も差し引いたら、月八千円の家賃ですむ、助かるなあ」
「 廊下から玄関まわり、お風呂にトイレまでするのに当然や」
「トイレも……か」
「当然や、トイレとか朝は混むから、昼間がええわ、お風呂は終い風呂にはいったついでに掃除をしたらええやろ」
キクちゃんは、掃除の段取りまでアドバイスをして部屋を出ていった。ぼくは、またもやキクちゃんに借りができてしまったようだ。
それから数日が経った日の朝の十時ごろ、まだ寝ているぼくの部屋に管理人のバアサンがやってきた。月一万七千円を家賃から減額することで、アパートの清掃を依頼することで大家から了解をもらった、と報告にきたのだった。ぼくはキクちゃんから聞かされた話の一部始終は、管理人のまえでは知らぬふりを通した。
バアサンはさっそく明日から頼みますといい、いまから掃除の場所などの説明をするから一緒にくるようにいった。
バアサンはトイレ内の箒やモップ、洗剤などの置き場に連れていき、専用のゴミ袋は管理人室にあるから、その都度取りにくるようになどと要領を説明した。たかが掃除ではないか、そう思うぼくが鼻先でフンフンと頷くのをみて、バアサンはトイレと風呂は男女共用だし、特に女の人は清潔にしておかねば嫌がられるから、気をつけてください、と念をおした。
あくる日の朝から、ぼくは慣れない手つきでアパートの廊下などの共用部分の掃除をはじめた。
アパートの住人たちは、廊下をモップがけをしているぼくをみて怪訝な顔をしていく者や「ご苦労さま」と労いの言葉をかけていくものなど、入居者の反応も様々だ。とにもかくにも労働報酬を得るためには、他人の目線など気になどしてはいられないのだ。
何日か過ぎたある日のこと、ぼくは廊下をモップで拭いていた。するとキクちゃんの部屋のドアが半開きになっていて、そこからクロが顔をのぞかせている。ぼくが小声でよぶと、クロは小走りにぼくの足もとまでやってきた。すかさずクロを抱き上げると、自分の部屋へ連れて戻りドアを閉めた。
用水路清掃のアルバイト代で買ってきたものの、いままでクロに食わせる機会のなかった、猫用の鶏肉の水炊き缶詰を開けてやった。クロはさかんにピチャピチャと音をたてながら食っている。そんな様子を眺めるうち、クロとこんなふうに過ごすのも久し振りに思えた。
しばらくして、マキがクロを探しにきたが、クロはもうどこへもいかない、というと半べそをかきながら帰っていった。
その日の夜十時を過ぎて、ぼくはそろそろ浴室の掃除を兼ねて終い風呂に入ろうかと浴室にむかった。入浴は午後五時から十時のあいだと定められていて、キクちゃんのアドバイスにより、こうして最後に入浴と掃除をおこなうことにしていた。
今日もなんとなく終わったな、湯船につかりながらホッとしていると、いきなり戸が開けられ、驚いたことにキクちゃんがはいってきた。
「あっ、ごめん、札に気ぃつかんかったわ」
浴室に男女の区別はないから、女性がはいるときだけ只今女風呂と赤色で書かれた木の札をかけることになっていた。入浴の順番をとるために、先に木札をかけるのはよくあることだから、ぼくはその木札をてっきり見落としたのかと思った。ぼくは慌てて浴槽から出ようとして立ち上がりかけ、下半身の露出に気づいてふたたび湯のなかにしゃがむ。
「気にせんでもええんよ、狸穴さんがいるのわかってて、はいってきたんやから」
キクちゃんはためらいもなく、ぼくのつかっている浴槽にはいると一気に身を沈めた。そのためにあふれ出た湯が、タイル床の石鹸いれを押し流す。
浴槽は大人二人ぐらいがゆったりはいれる大きさながら、全裸のキクちゃんをすぐ目のまえにして、気にするなといわれても無理なことだ。
しかも、キクちゃんはなんだって、ぼくがいるのを知っててこのような行為をするのか。そんなぼくの疑問を察するかのように、キクちゃんがくちをひらいた。
「ねえ、団長さんがウチにこないか、というねんけど、狸穴さんならどうする」
中野が、あの野郎、まさかキクちゃんを嫁にしようなどと思っているのか……。思いもしない言葉に、ぼくは困惑した。
「団長さんのところ、もともと農家やったから家も大きくて敷地も広いんよ、奧さんは早くに亡くなったらしくて、そんなところに一人で住んでるから、ウチに子供らをつれてきてくれたら賑やかで楽しいやろな、ていうんよ」
話しながら接近するキクちゃんに押されて、ぼくは努めて身体が触れないように後退する。戸惑うぼくを面白がるようにキクちゃんは身体のむきをかえ、ぼくに背中をむけるとそのまま押してくるのだ。浴槽のコーナーに追いつめられたぼくは、キクちゃんの尻に触れ、そのヌルリとした感触に触発され、キクちゃんを抱きすくめたい衝動を必死でこらえた。
「いけよ、キクちゃんにも子供にも優しいんやろ、男運がついてきたんやないか、これ逃したらもうないぞ」
いい終わるとキクちゃんはザバッと立ちあがり、ぼくは頭から湯の飛沫を浴びた。
「ほんとに、ほんとにそう思うのん……」
「ほんまや、ぼくがキクちゃんの立場やったら玉の輿と思うな」
ぼくの方にむき直り、そう問いかけるキクちゃんの逆三角形の陰毛の翳り。そこからしたたる滴をみつめるぼくは、熱にうかされたときのような、うわごとみたいにいった。
「いい人なんやね、狸穴さんは」
そういうと、キクちゃんはくるりと背をむけ、そのまま浴室から出ていった。しばらくして、脱衣場のドアを開閉する音がした。あとに残されたぼくはこんなふうに、キクちゃんと接することは、もう二度とないだろうと思った。
キクちゃんが浴室に闖入してきた日から、すでに十日あまりが経っていた。クロはずっとぼくのところにいて、変わったことといえば、キクちゃんの勧めにより、清掃の仕事にいこうかと思っている。これも中野の口利きなのだが、車庫入りしたバスの車内清掃で時給千円くれるという。ただ車庫までが遠く、しかも夜の九時から十二時の時間帯だから、未だ気持ちを決めかねていた。
そんなある日、キクちゃんが明日にアパートを出て中野のところへいくと、ぼくのところにいいにきた。そんなに早く決めて実行するとは思っていなかったぼくは、ただ困惑するばかりだ。
「狸穴さんがいってくれた通り、この機会を逃したらもう後はないと思って決めたんよ。マキはともかく、珠代が素直に賛成してくれたから吃驚したわ」
そういって話すキクちゃんの顔を、ぼくは言葉もなくぼんやりとみつめていた。
明くる日の昼すぎ、午前中にアパート内の清掃を終えたぼくは、いつものように所在なく、クロと戯れながらごろ寝をしていた。部屋の外が騒がしくなり、キクちゃんやマキの声に混じって中野の声もする。キクちゃんは本当にここから出ていくのか、そっとドアの隙間からみると玄関先に中野の軽トラックが止められていた。
覗いているドアの隙間から、クロが部屋の外に飛び出していった。ぼくはクロを追って玄関まで走り出ると、軽トラックの荷台には小さな整理タンスと衣装箱が積み込まれていて、荷物の運び出しは終わっていた。
「いま、挨拶にいこうとしてたんよ、狸穴さんにはお世話になったけど、元気でいてね、いい仕事がみつかれば、知らせるから。それからちゃんとご飯を食べるんやよ」
「キクちゃんもな、たまにはここへも遊びにおいでや」
いつになく、しおらしいキクちゃんの言葉に、ぼくは胸が熱くなり、おろおろとして大して意味のないことをいっていた。
マキがクロを腕のなかに抱いて連れていくといい張り、ぼくはマキからクロを取り返そうとして珠代まで加わり諍いになった。大人げないと思うが、クロまでがいなくなるとなんだか取り残された気になって、とことん落ち込みそうな気がした。そこへ中野がきて、諍いのなかに割ってはいった。
「それやったらクロに決めさせたらどうや、狸穴さんと暮らすのか、我々のところにきて暮らすのか、クロのこれからをクロ自身に決めさせるんや」
「あ、それがいいわ、まさしく名案だわ」
いつの間にか、管理人のバアサンまでがでてきて、横合いからくちを挟む。マキがぼくの顔を睨み付けながら、クロを地面におろした。
「クロ、おいで、クロどうした」
見送るぼくと、引っ越していくキクちゃんたちの間にいるクロは、ぼくの呼ぶ声にもためらうことなくマキの足もとへ駆け寄った。
「ハハハ、これできまりやな」
中野の声にマキはクロを抱き上げ、軽トラの運転席に乗り込んだ。キクちゃんは珠代と軽トラの荷台に乗り込み、見送る我々にお辞儀をした。トラックが走り出すとキクちゃんと珠代は、角をまがって見えなくなるまで手を振っていた。
「とうとう、いってしまったんだな」
声に振り向くと、間近にトナカイさんの顔があった。
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