テレビ番組で、インターネット上の仮想社会で好きなキャラクターになって、仮想生活を楽しむ人たちの特集を見た。中年男が若い女性になって男たちと恋のアバンチュールを楽しんだり、いつものメンバー(といっても、仮想社会上で知り合ったキャラクターたち)と一緒にフットサルをして汗? を流したり、あるいは、島を買い取ってそこを開発し、他人に貸し出す事業に乗り出したり……。
インターネットが登場した初期の頃から、仮想社会をネット上に作って人々を集めるゲームは存在したが、その頃と決定的に違うのは、今の仮想社会ゲームでは、その中で稼いだ金が現実の金に換わることだ。先程の島の開発でいえば、現実に金をゲーム運営会社に支払ってネット上に島を買い、そこを造成し、ネット上の建築デザイナーに金を払って住宅を建ててもらったりして貸し出すのである。それを住民が見学して、気に入れば開発者に金を払って借りるのである。
実際、仮想社会の中だけで金を稼いで生活している人たちの姿も紹介されていた。パパの仕事は? と訊かれた子供が「ゲームをしてるだけじゃん」と納得のいかない顔で答えていたのが面白かった。ゲームばっかりしていたら勉強しろと怒るくせに、と言いたいのだろう。
私も最初見ていた時は、仮想社会のキャラクターになってどこが面白いのだろうと思っていた。体の触れあわない恋なんて恋とはいえないだろうとか、スポーツは心身が一体となる感覚が楽しいのであって、現実に汗が出ないのにスポーツドリンクを飲んでいる場合かと画面に向かって突っ込んでいたが、ハタと自分のことを思ってしまった。
仮想社会で楽しむ人たちは、小説を書いている自分とひょっとしたら同じ感覚なのではないのだろうか。女性になったり、若者になったり、老人になったりして小説を書いている自分と同じなのでは?
そう思うと、彼らが急に近くに感じ出した。小説を書くにはある程度の訓練が必要で、誰もが書けるというわけではないが、仮想社会のキャラクターなら誰でもなれる。ロールプレイングゲームのようにプログラマーの想定した世界の外には出られないキャラクターと違って、自由に行動できるというのも、小説世界を自由に書ける作者に似ている。
ラカンの言うように、人間は「象徴界」と「想像界」にしか生きられないとすると、仮想社会に生きる人たちはまさに人間の人間たる所以を示しているといえるだろう。
(よ)
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