先頭車両   若林 亨


 先頭車両がやってくる。黄色っぽいライトをふたつ灯して遠いところからゆっくりと近づいてくる。列車到着のアナウンスが流れたかと思うと、その巨大な水中眼鏡をかけたかのような四角い顔の先頭車両はあっというまにプラットホームへ侵入してきた。徐々に減速しているはずだが、それでも完全に止まり切るまではある程度の速度を感じる。
 雄二はひとつ大きく息を吐いて背中を丸めた。先頭車両が見え始めてからずっと息を止めていたのだ。毎朝利用している通勤電車だった。いつもは真ん中あたりの車両に乗っているのだが、今日は気分転換のつもりでプラットホームの前の方へ立っていた。しかしそれは全く余計なことだった。妙に落ち着かなかった。今自分が立っているのは三両目の止まる位置なのだが、本当にここまでやってくるのかと心配になり、ドアが開いても自分だけが乗り損ねてしまいそうな気になって思わず息を止めてしまったのだ。
 すいているドアからご乗車くださいというアナウンスが聞こえる。
 まだ降りる人が続いているのに雄二は慌てて飛び乗った。真ん中あたりの車両にくらべると幾分すいていたが、それでもドア付近では体が触れ合って汗の臭いがする。いつもと同じ七時半の電車に乗っているのに明らかに気分は違っていた。全員が顔見知りの中へひとりだけ見ず知らずの者として放り込まれたようなよそよそしさを感じた。窓から見える景色も違って見えた。街中を走っているはずなのに樹木や木立ばかりが目に入ってきた。ぐんぐんとスピードが上がっているようだ。圧迫感がある。
 雄二はまた息を止めていた。緊張したり興奮したりすると息を止めてしまう癖がついてしまった。疲れがたまっているせいだ。それは自分でもよく分かっていたが、大方のサラリーマンの平均的な疲れ方だと思うと、それくらいのことでいちいち弱音を吐いていられなかった。それに疲れがあってこそ達成感が得られる。我慢してこそ成功がある。そういうものだと思っている。
 すぐそばには中学生くらいの女の子とその母親らしい女が立っていた。今日は八月二十日だからまだまだ夏休み中だ。朝早くからどこへ出かけに行くのだろう。いったんそのふたりに気を取られてしまうともうそのことばかりで頭の中がいっぱいになった。これも最近の変調のひとつだった。例えば部屋の電球が切れたので仕事帰りに買ってこなければならなくなったとすると、起き抜けからそのことが気になってしまい、電球電球電球電球と頭の中で繰り返していないと忘れてしまいそうなのだ。そして実際に忘れてしまう。三日も四日も続けて忘れることもある。これが仕事の場合だと深刻だった。会議の時間を間違えたり、会議そのものを忘れてしまったり。だから気分転換が必要だと思っていた。
 女の子はジーンズにサンダル、そしてTシャツ姿だった。もう体の向きを変えることすら出来ないほどに混み合った中で、ピンク色の小さなバッグを大事そうに胸に抱きかかえている。かなり窮屈そうだ。母親の方は余裕があった。最初は女の子と一緒にドア付近にいたのだが、少しずつ中の方へ移動していった。どのあたりがすいているのかよく知っている。
 雄二がこのふたりに気を取られたのは偶然ではなかった。
 今から十五年程前に、雄二と妻の友子は意識して子供を作ろうと努力した時期があった。お互い三十歳の頃だ。もともと英語が得意だった友子は大学を出てから予備校で英語を教えたり家庭教師をしたりしていたが、もっと納得のいく資格が欲しくなり、二年間司法書士の勉強をして合格した。すぐに司法書士事務所への就職も決まり気持ちにも余裕が出来たので、このあたりで子供が欲しいと言い出したのだ。子供を産んで育てるにはちょうどいいタイミングだと。結婚して五年がたっていた。雄二も課長に昇格したばかりで気分を良くしていたのでよしとばかりにふたりして励んでみたのだが、願うようにはいかなかった。努力は三年間で終わった。友子の方が徐々に子供へのこだわりをなくし、あとは成り行きに任せようということになった。もしそのとき子供が出来ていたら今ごろは中学生だ。目の前の女の子ぐらいにはなっているだろう。
 雄二はまた息を止めていた。はっと気付いて慌てて空気を吸い込むとめまいがした。体が軽いと感じる。食欲不振でこの一ヶ月間に体重は三キロ減っている。
 はちきれんばかりに膨れ上がった乗客の塊が動き出した。途中のターミナル駅に着いたのだ。ぎゅうぎゅう詰めはここまでだった。ここから雄二の降りる駅までは座ることができる。
 左右からはさみつけられたままで女の子が降りてゆく。少し遅れて母親が降りる。雄二もまた流れのままに勢い良くプラットホームへ押し出されていった。
 ターミナル駅の北側はビジネス街で、南側は古くからの住宅地だった。親子は住宅地側へ降りていった。母親は早足だった。女の子は携帯電話を見ながらゆっくり歩いている。だからすぐに間隔が開いてしまう。すると母親は立ち止まって女の子を待つ。再び一緒に歩き出す。でもまた間隔が開く。母親は立ち止まる。そんなことを繰り返している。
 雄二は最初からふたりの後をつけようと思ってさっきの駅で降りたのではなかった。すぐに車両へ戻ることが出来なかっただけだ。体調も良くなかったのでプラットホームのベンチでしばらく休んでいてもよかった。そうするつもりだったのかもしれない。しかし実際は親子の後をつけて改札を抜けてしまった。そしてそのままずっとふたりのすぐ後ろを歩いている。
 また目まいが始まった。それを止めようと思って体に力を入れるとよけいにふらふらする。目の前の道は大きくゆがみ、上り坂になったり下り坂になったりして雄二の平衡感覚を狂わせた。
 親子の間隔はどんどん開いていた。女の子が立ち止まってしまったので、後ろを歩いていた雄二が追い越してしまいそうになる。
 暑い。とても暑い。息をするたびにのどがひりひりする。
 そして母親が振り返った。携帯電話に夢中になっている女の子の方へ駆け足で近づいて大きな声を出した。
「ぐずぐずしないでちゃんとついてきなさい」
 その瞬間、雄二の体に新たな異変が起きた。今まで感じていた暑さが一気に遠のいて、木陰の涼しさがやってきたかと思ったら、そのあとすぐ身震いするほどの冷気に襲われたのだった。

「ぐずぐずしないで」
 友子はとうとう声を荒げた。三ヶ月ほど前の晴れた日曜日のことだ。久しぶりにふたりで映画を見に行こうとしていたのだが、一時間たっても雄二の外出の準備ができなかった。ポケットの中身を何度も確かめたり戸締りを繰り返したり着替え直したりしてなかなか外へ出てこない。着替え直したと思ったらまたポケットの中を確かめて、また同じように戸締りの確認を始める。友子の中で張り詰めていたものが切れた。
「あなたこのところ変よ。何をするのも遅くなったわ」
 言われるまでもなく雄二自身も気付いていた。何事に対しても優柔不断で自信が持てなくなっていることを。たとえばTシャツを二枚買うつもりで店に入っても、商品を眺めているうちに二枚でよかったのか三枚の方がいいのかと迷ってしまい、そのうち本当に買っていいのか買わないほうがいいのかと悩んで時間だけが過ぎていくというようなことがたびたびあった。買わないまま店を出てもすぐに、どうして買わなかったのかと後悔し始めて結局慌てて買いに戻ることもあった。もともとは即断即決が信条の活発的な男だった。逆境に強く、難題に立ち向かってそれを乗り越えることに喜びを感じるタイプの人間だった。友子もそんな力強いところにひかれていた。ところが半年前に三LDKの一軒家を買ったその直後から雄二に変化が現れ始めた。
 それは念願のマイホームだった。共働きで子供がいなかったこともあり、思いどおりに貯蓄することが出来た。一千五百万ずつをキャッシュで出し合うというのが約束事だった。物件もすんなりと決まり、引っ越してからは十八畳のLDKで何度もパーティーを開いてみんなからうらやましがられた。人生最大の買い物をして十分な達成感があるはずだった。しかし雄二にはそれが大きなつまずきだった。
 一千八百万あった貯金が一気に三百万に減ってしまった。この現実にまずおどろいてしまったのだ。一千八百万の貯金があって、そこから一千五百万使ったのだから三百万しか残らないのは当然のことなのだが、実際にそうなってしまうと雄二は急に貧乏になったような気がした。一軒家を手に入れたことの代償だと理屈では分かっているのだが、それを素直に受け入れることが出来なかった。だれかの罠だと思うようになった。俺を貧乏にするための罠にかかってしまった。ちくしょう、だまされてしまった。家を買って満足するなんて嘘だ。やられた。これまでもふたりで金を出し合って車を買ったり海外旅行をしたりしていたが後悔はしなかった。すべて納得して使っていた。しかし今回は違う。とにかく額が大きすぎて取り返しがつかないのだ。まだ三百万の貯金があるのにもう何も買えない。たとえ電球一つでも買ったらますます貧乏になってしまう。これからいくら頑張ってももう貯金は増えないだろう。元の一千八百万円まで戻すことは不可能だ。ああどうしよう。
 それから雄二は一日に何度も何度も貯金通帳を眺めるようになった。家を買うまでは五つの銀行と郵便局に通帳を持っていたが、いまは二つに減っている。定期預金はすべて解約しているから単純にふたつの通帳の残高を足せばいい。何度計算しても三百万だった。それでも雄二は飽きずに通帳を眺めた。
 ふたりの生活費は結婚以来それぞれが同額を負担し合ってきた。思わぬ出費が必要なときのために少し多めに集めてきた。その積み立てが百万近くになっている。雄二はその共同の貯金さえうらめしく思った。勝手に使うことの出来ない金だ。それがまたしゃくにさわっていらいらさせる。この百万を自由に使いたい。あとさきのことを考えずに一気に使い切りたい。きっと気持ちがいいだろうな。
 ある日友子に尋ねた。貯金はいくらぐらい残っているのかと。はしたないことだとは思ったが気になって仕方がなかった。大体自分と同じぐらいのはずだ。自分が貧乏なら友子も貧乏だ。それならそれでいい。結婚した当初はお互いたいした貯金もなかった。そこからこつこつとためて家を買うまでになった。ふたりとも振り出しに戻ったと思えばいいだろう。
 しかし雄二は裏切られた。
「そうねえ。千五百万ぐらいかしら」
 友子はさほど考えずに簡単に答えた。
「おいおい、まじめに聞いてるんだぞ」
「急にそんなこと言われても分からないわ」
「計算してくれよ」
「え〜、なんなのよ、ちょっと待って、……現金で計算したら……やっぱり千五百万ぐらいかしら」
「おい、まじめに答えろよ」
「答えてるわ」
「友子、ほんとにそれだけあるのか」
「あると思うわ」
「千五百万か」
「ざっとね」
「どうしてそんなに持ってるんだ。だったら友子ひとりでこの家が買えたんじゃないか」
 三千万ぐらいの家にしようと言ったのは雄二だった。友子はもっと安い家で十分だと言っていた。三LDKなんてもったいないと言っていた。しかし雄二はみんなに自慢したかった。これをステップにして人生をより充実させようと思っていた。
 まだ千五百万の貯金があると聞いて雄二は友子に大きく水を開けられたと感じた。別に競っていたわけではなかったが、同じぐらいの年収で同じぐらいの使い方をしていてどうしてこれほどまでに差がついてしまったのか理解できなかった。友子はたしかによく働いていた。結婚当初は塾や予備校の講師をかけもちしながら徹夜で和訳の仕事をこなしたりしていた。司法書士として独立してからも家庭教師は続けていたし、和訳の仕事も断っていなかった。立派だ。なかなかできることではない。しかしそれにしても三千万もの貯金は多すぎる。合点がいかない。
「おい」
 と雄二はしつこく尋ねた。
「おまえ、何か変なことをしてるんじゃないだろうな」
「なによそれ」
「簡単に稼げるアルバイトでもしてるんじゃないだろうな」
「だから何なのよそれ」
「たとえばだな」
 そう言いかけて雄二は再び落ち込んだ。これはおかしい。なんだか変な方向へ向かっている。友子を問い詰めてどうするんだ。自分の問題だ。自分を問い詰めていくのが筋ではないか。
「実はね、株でもうかってるのよ」
 友子はそう言って自分の部屋から株取引に関する本を何冊か持ってきた。
「言ってなかったかしら。ごめんなさいね。昼間にちょっと時間があるものだからネットで買ってみたのよ。そうしたらいきなり値上がりしてね、びっくり。それからはまっちゃったわ」
 ぱらぱらとページをめくりながら友子は具体的な銘柄の値上がり幅や売買益を口にする。雄二の知らない世界だった。ベンチャー企業向けの新興市場に上場している会社の株を売買しているのだという。そういえば友子宛に証券会社からの郵便物が多いと感じたことはあったが、司法書士として独立しているのだからセールスのために送ってきているのだと思って深くは考えなかった。
「確定申告しないといけないからきちんと帳面もつけてるのよ。いつのまにか司法書士の仕事よりこっちの方が忙しくなっちゃったわ」
 そう言って次に友子が持ってきたのは売買実績の一覧表だった。束になってファイルに閉じられていた。そこにはどの株をいついくらで買っていくらで売ったのか。利益が出たのか損をしたのか。それがひと目で分かるように日付順に並べてあった。詳しく見なくてもかなりの利益が出ていることぐらいはすぐに分かった。三年ほど前から始めていて、最近は二日に一度ぐらいのペースで売買していた。
「別に隠していたわけじゃないのよ。あなたいつも忙しそうにしてるから話すタイミングがつかめなかったのよ」
 友子は悪びれることなく言った。
 友子の千五百万円の貯金。その理由がわかっても雄二は気分が晴れなかった。自分はこれからどんどん貧乏になっていく。友子はこれからますます金持ちになっていく。この妄想から逃れられなくなっていた。妄想はまたいろいろなところへ飛び火した。今まで気にならなかったことが気になり出したのだ。確かに入れたはずのものがなくなっているのではないかと心配になり、外出時には何度もかばんの中を確かめるようになった。気が済むまで出し入れを繰り返す。財布の中身に関してはもっと執拗だった。毎朝所持金をメモしておき、帰宅後に金の出入りをチェックするのだが、合わないと眠れなかった。その日一日の行動を何回も洗い直した。そしてレシートは何日たっても捨てられなかった。
 しつこいほどの戸締りの確認。コンセントは抜いたかどうか。冷蔵庫の戸は閉まっているか。トイレの水は流したか。変調はますます広がっていくばかりだった。
 まったくそんなことだから友子に怒鳴られてしまう。
「ぐずぐずしないで早くしてよ」と。

 雄二はベッドの上で目を覚ました。何かが変だ。天井が高すぎる。回りにはベッドがいくつも並んでいた。広い部屋だった。体を起こそうと思ったらすぐに白衣の女が近づいてきた。それで分かった。ここは病院なのだ。
「気分はどうですか。苦しくないですか」
 看護師はやさしくほほえみかけてくるが、雄二はなぜか腹が立った。自分がどうしていま病院のベッドに横たわっているのか、その理由が分かると余計に腹が立った。朝から体調は最悪だった。めまいがひどかった。途中の駅で降りてしまい、そのまま見知らぬ親子の後をつけて歩き始めた。そのうち地面が盛り上がったり沈んだりしておかしくなってきたなと思ったらすーと暑さが遠のいて、冷たい感触が一気に体の中へ入ってきた。それから先の記憶がない。
「脱水症状があります。先生に見ていただきますからそのまま待っていてください」
「大丈夫だ」と雄二は言い返した。仕事の打ち合わせがある。今何時だ。九時半か。タクシーに乗ればまだ間に合うぞ。俺が中心になって進めているプロジェクトだ。俺がいないとだめなんだ。
 ベッドの上で体を起こしてみたが、頭が相当に重かった。
「だめですよ。どうぞ水を飲んで休んでいてください」
「大丈夫だ」
「いえ、大丈夫じゃありません。だいぶ疲れがたまっているようなので先生に見てもらいます」
「いやだ。仕事に行くぞ」
「はい、分かりました。でも診察を受けてからにしてください」
 ひじを擦りむいているのは道で倒れたときのものだろう。腰も少し痛い。看護師の言うとおり相当に疲れている。このまま再び暑い中へ出て行くのは無謀ではないかと自分でも思った。

 前日はあれから病院で点滴を打ってもらい、疲労回復の薬をもらって出勤した。とにかく体を休めるようにと忠告されたが、いったん会社へ足を向けていたのでとりあえず出社して同僚に顔を見せてからすぐに家へ戻った。遅刻して、さらに早退するなんて初めてだった。三十八度程度の熱もあった。体調をくずしてしまったことが情けなくて恥ずかしくてくやしいことではあったが、家へ戻って部屋のベッドに体を横たえた途端、そんなことはすべて後回しだとばかりに深い眠りに落ちた。そして十五時間眠りつづけた。
 今朝の目覚めは意外にもすっきりとしていた。ハムやレタスも少しは食べられたので大丈夫だと思った。しかし実際は疲れが取れていなかった。熱だけが下がっていたのでだまされたのだ。いつもの時刻に家を出て駅まで歩いているうちに勘違いに気付いたが引き返さなかった。今日はひとつ車両をずらせて、二両目に乗ってやろうと思う。気分転換、気分転換。昨日はまったくいいことがなかったので今日は挽回しなくてはならない。
 実際に乗ってみると二両目はすいていた。週刊誌を広げられるほどの余裕があった。たまたまなのかもしれないが雄二は少し得をした気分になった。ところがふた駅過ぎたあたりで急に電車が止まってしまった。
「線路内に人が立ち入りました影響で先の電車が止まっております。お急ぎのところ誠に申し訳ございませんがいましばらくお待ちください」
 そんなアナウンスが流れる。すいている二両目に乗り込んだのはラッキーだった。ぎゅうぎゅう詰めだったらそれだけで疲れてしまう。
 雄二は長丁場を覚悟して少しでも楽にしていようと、車両連結部分ドアに背もたれて目を閉じた。昨日の疲れがぶり返してくる。やはり休んだほうがよかったかもしれない。膝を曲げてその場にしゃがみこもうとした時、もたれていたドアが勢いよく開いた。あっと思って踏んばろうと思ったが足に力が入らなくて、雄二は仰向けのままじゃばらの中へひっくり返ってしまった。
 大柄の男が上からのぞき込む。そして顔を近づけて声をかけてくる。
「あれ? おまえひょっとして雄二じゃないか」
 ワイシャツのボタンがはちきれそうなほどに胸板が厚く、腕もぱんぱんに張っていてまるで相撲取りの体格をしていた。ひとりで完全に通路をふさいでいた。男は雄二が自力で立ち上がるのを待ってから、もう絶対間違いないという口ぶりで話しかけた。
「久しぶりじゃないか。変わってないなあ。なんというか、その、頼りなさそうなところがさ、あの頃のままだぜ、はっはっはっ」
 体も大きければ声も大きい。顔も大きい。目、鼻、耳、口すべてが大きい。
「おまえあれからどうしたんだ。ちゃんと大学へ行ったのか。二浪したんだろう。かなり落ち込んでたよな。俺なんかはラグビー推薦で行けたからラッキーだったけどおまえ達ガリ勉は大変だったよな。受験戦争だもんな」
 最初はまるで思い出せなかったが、だいぶ謎解きをしてくれたおかげでようやく記憶がよみがえってきた。そうだ、こいつは木下だ。高校三年生のときの同級生の木下おさむだ。ラグビー部のレギュラーで全国大会へも出場していた。高校選抜のメンバーにも選ばれて合宿に参加するほどの実力だった。学校ではまともに授業を受けずにいつもグランドを走り回っていた。悪ふざけが大好きで、国語の時間に英語で受け答えをしたり、アニメのキャラクター姿で登校したりしてかなり目立っていた。暑苦しくてやかましいやつだった。雄二の苦手なタイプだ。だから偶然二十五年ぶりに再会してもまるでうれしくない。
「ところでおまえ、いま何やってるんだ」
 木下の分厚い手のひらが雄二の肩に乗ってきた。挨拶代わりに軽くぽんと叩かれただけだったが、いまの雄二にはそれさえもかなりの圧力だった。膝ががくんと折れてしまった。
「おいおい、どうしたんだ」
 木下はしゃがみ込んでしまった雄二の体を左右からはさみつけて軽々と持ち上げた。そのはさみつける力がまた強かったために両肩が内側にめりこんで雄二の体はさらに細く縮こまった。
 こいつのあだ名を思い出したぞ。「ブル」だ。ブルドーザーの「ブル」。
 思い出したばっかりに雄二はまた落ち込んでしまった。さっさとどこかへ消えて欲しかった。
「相変わらず幽霊みたいなやつだな。そんなので大丈夫か」
「ちょっと体調が悪いんだ」
「そうか、ところでおまえ、いま何やってるんだ。サラリーマンか」
 また同じことを聞いてくる。うっとうしいやつだ。
 木下は、俺にも同じ事を聞いてくれといわんばかりににこにこしていた。それがまた嫌味だったので雄二はもう目を閉じてしまった。車両連結部分の分厚い布はほどよいクッションで、すぐにでもぐっすり眠れそうな気がした。
「面白くないやつだな。話にならないじゃないか」
 木下はそう言って舌打ちしている。車両には再びアナウンスが流れる。まだしばらくは動きそうにない。
「おい、どうしたんだよ。本当に具合が悪いのか」
 そうだとうなずいた。とても疲れてるんだ。だからもうほっておいてくれ。
「これ渡しておくから。また連絡くれよ」
 名刺を渡されたが、目がかすんでうまく読み取れなかった。そのまますぐに上着の内ポケットへしまい込むと、木下はさらにもう一枚名刺を出してきた。
「今のは表向きのやつなんだ。本当はこっちだ。よろしくな」
 二枚目ははっきりと読み取れた。
 パワーコンサルティング株式会社 代表取締役社長 木下おさむ。
「株をやってるんだ」
「株?」
 雄二の体からさらに力が抜けてもう本当に崩れ落ちそうになった。よりによって株の話が出てくるとは最悪だった。
「興味があるんだったら相談に乗ってやってもいいぞ」
 雄二は必死に首を振った。
「しかしまあ株ってのは本当にギャンブルだな。損も得もどっかーんとくからな、はっはっはっは。どっかーんとくるからおもしろいんだ、はっはっはっは。たまらんぜ全く。どっかーんだからな、はっはっはっは」
 木下の体がさらにひと回り大きくなって雄二の目の前で揺れていた。雄二は首を振りつづけていた。友子も株でもうけている。そうか、友子もどっかーんともうけたんだ。俺の知らないところでどっかーんともうけたんだ。どっかーん、どっかーん、どっかーん。
「おまえ本当に顔色が悪いぞ」
「ああ、すまんなあ」
「おい、くれよ」
「は?」
「は? って、名刺だよ。持ってるんだろう」
「ああ」
「交換するのが礼儀じゃないか」
「ああ、すまんなあ」
 名刺ケースはバッグの中だ。いつも通勤時はバッグの底に入れておいて、会社へ着いたらその中から何枚かを携帯用の名刺入れに移し変えている。
 今日に限ってバッグには書類がたくさん入っていた。昨夜二時までかかって作成した企画書やライバル会社の資料、過去五年間におけるロス再製造一覧表、外注費削減のための協力会社各社への案内書。どれも数字だらけだ。その数字だらけの書類の下に名刺ケースがあるはずだった。入れっぱなしにしてあるのでなくなるはずはない。追加注文した二百枚も出来上がってきたばかりだ。……
 何回も何回もバッグの中をかき回して雄二は慌て始めた。おかしいぞ。いや絶対にある。書類を全部取り出してバッグの中を空にした。あまりにも乱暴に取り出したので書類が床に散らばってしまった。
「おい、なかったらいいんだぞ」
 木下もちょっと慌てていた。
 おかしいじゃないか。
 友子は俺に内緒で株でもうけていた。あの家を買ってもまだ千五百万の貯金があるという。もう一軒家を買うつもりだろうか。今度は自分ひとりのための家を買うつもりなんだろうか。どうして俺だけが貧乏になっていくんだ。三百万ぐらいの貯金はすぐになくなってしまう。そうなったら俺はどうなるんだ。あの家にいられるだろうか。友子は俺のことを邪魔者扱いしないだろうか。
 散らばった書類を拾い集めながら雄二はなおも首を振り続けていた。
「おまえ……」
 木下は腕組みをしながら雄二を見下ろしていた。
「おまえ、そんなにぐずぐずしたやつだったか」
 雄二の体から余力のすべてが抜けていった。

 勤め始めて二十三年になるが、仕事上でぐずぐずするなと怒鳴られたのは初めてだった。雄二にとってそれは二重の驚きだった。ひとつは自分自身が怒鳴られたこと。もうひとつは部長が怒鳴ったこと。
 部長はそんな人ではなかった。営業部長でありながら数字をうるさく言う事はなく、ミスやトラブルにも寛大で、倫理や常識を押し付けることもなかった。温厚すぎてかえって頼りないぐらいだったが、雄二にはぴったりの上司だった。売上げが順調に伸びているのも部長のおかげだと思っていたし、今後の成長も部長が鍵を握っているとさえ思っていた。それが急におかしくなった。
 出張に持っていく書類のひとつに雄二の印が抜けていてそれを前日に指摘されていたのだが、直前のチェックの時に押せばいいと思ってそのままにしておいたらいきなり、ぐずぐずするなと怒鳴られたのだ。重要書類ではないのでたとえ印鑑漏れがあっても部長の判断で先へ進めることが出来る。これまではそれで通ってきた。しかし今回は怒鳴られてしまった。不意をつかれて慌てて判を押したら今度は、軽くなでつけるようなその押し方が気に入らなかったようで、もっと心を込めて押せ、自分が全責任を負うのだというぐらいの覚悟で押せと畳み掛けられた。そのときの部長はひきつった顔をしていた。何かに脅えおののき、その恐怖心から逃れるためにあえて大声を出しているかのような借り物の表情だった。
 雄二は部長に同情した。部長の苦しみが理解できた。そうだ、三ヶ月前に社長が脳梗塞で倒れてからすべてが狂い始めたのだ。
 社長が倒れた翌朝の臨時朝礼で専務は言った。
「いいか、よく聞いてくれ。まことに気の毒だがこのままではこの会社はだめになる。確実にだめになる。おまえたちのせいだ」
 顔を真っ赤にして専務は一時間近くしゃべり続けた。全員が理解するまで何度も話し合ってから仕事を進めていった社長に対し、専務は会議というものが大嫌いで、報告書や企画書といった書類も時間の無駄だと言い放った。専務といってもこれまでは自分が経営する別のデザイン会社の仕事に熱心で、雄二の会社へはほとんど顔を見せていなかった。派手に接待を繰り返して大きな仕事を取ってくるというタイプの経営者で、実際にそのデザイン会社は単なるデザインの仕事だけにとどまらず、企業のプロモーションをまるごと請け負ったり新商品販促のコンサルティングなども手がけていた。その中の印刷に関係する仕事が雄二の会社へ回っていたのだ。不定期ではあったが、一回一回の金額が大きく、支払いも確実だったのでありがたい取引先だった。
「俺の会社が大きな仕事を回してやってるからおまえたちはそれに甘えてろくに努力もせずにやってこられたんだ。そうだろう、感謝しろ。でもこれからはそうはいかないぞ。もっと闘争心を持って仕事をしてくれ。まずは工場だ。工場は全員八時前には来い。準備なんてものは前の日に終わらせておくんだ。八時半には刷り出してないとだめだ。九時になってようやく機械が回ってるような印刷所がどこにあるんだ。甘えるな。それから営業諸君も考え直してくれよ。真っ昼間から大勢が集まって会議なんかするな。恥ずかしいだろう。物事を決めるのは責任者だけでいい。他のやつはもっと外へ出て走り回れ。分かったな。自立せよ」
 そしていきなりノルマが課せられた。今までは単なる努力目標でよかったのだが、それでは営業とはいえないとばかりにひとりひとりに具体的な数字が示された。いままでの倍以上の数字で、全員が悲鳴をあげた。しかし冗談ではなかった。
 部長の様子が変わったのはこの時からで、ひとりひとりの営業マンの負担は課長である雄二の負担になり、雄二の負担はまた部長の負担となって全員を苦しめていった。
 ほどなく雄二は後輩から相談を受けるようになった。入社十年目の小川はすぐにでも辞めたいと言って来た。
「この会社が好きです。この仕事が好きです。本当は辞めたくないんです。でも専務のあの強引さに付いていけません。一時間も大声でしゃべり続けろだなんてまるで拷問です」
 小川は月例報告のことを言っているのだ。営業マンは一ヵ月ごとにその月の成績と翌月への意気込みを専務に報告することになったのだが、小川は最初からそれを苦手にしていた。レポートではなくてすべて口頭でしなければならない。おまえは押しが弱いからだめなんだ。声が小さすぎる。声が小さいのは腹に力が入ってないからだ。根性がないからだ。そんな風に責められて、一時間専務の前でしゃべり続けることを強制されたというのだ。話題はなんでもよく、ただただ大きな声でしゃべり続けなければならない。小川にとってそれはとてもつらいことだった。パソコンに精通していて事務処理能力にはすぐれていたのだが、なにぶんおとなしい性格なのでエンドユーザ―との直接の営業には向いていなかった。だから営業部に所属していながらも外回りはしていなかった。そんな小川に一時間もしゃべり続けろというのは無理な注文だった。デザイン部門への転属もかなえられず、しばらくして小川は辞めていった。
 もうひとりは入社三年目の黒田だった。黒田の場合ははっきりと体の変調が見られた。まずは髪の毛が抜けていった。そしてやせた。専務が指揮をとるようになってから一ヶ月たらずのうちに五キロ落ちたという。小川と違ってバスケットボール部出身の黒田は大柄で声も大きく誰に対しても物怖じしない男だったが、そんな黒田にも弱点があった。後輩を指導することが出来ないのだ。人当たりよし、セールトークよし、体力十分、上昇志向ありで営業マンとしては申し分ないのだが、意外にも後輩の面倒をみるのがだめだった。俺の真似をしておけと言うばかりで日報の書き方ひとつ教えることが出来ない。しかし専務の方針は、黒田を課長に抜擢して十人の後輩の面倒をすべて見させようということだった。適性を無視した強引な人事だった。案の定苦手な事務仕事が増えてストレスがたまる。それにいままで自分がしてきた仕事を部下に振り分けなければならない。すると自分の売上げが減る。それでまたストレスがたまる。
 弱音を吐いた事がない陽気な男が「きついなあ」とこぼすようになった。
「専務はアホですね。文句なくアホですよあのおっさんは」
 酒に強いはずの黒田がすぐに酔っ払った。酔ってしきりに毒づいた。
「数字が欲しいなあ。数字さえあったら楽なんだけどなあ」
 それは雄二も同じだった。
「数字がほしいなあ」
「欲しいなあ」
「あのおっさんはアホですね」
「アホだな」
「脳梗塞で倒れてくれないかなあ」
「倒れてくれ」
「死んでくれないかなあ」
「死ね」
「流れ玉に当たって死ね」
「突き落とされて死ね」
「刺されて死ね」
「轢かれて死ね」
「おぼれて死ね」
「火あぶりだ」
「さらし首だ」
「市中引き回しだ」
 雄二も酔っ払って一緒に毒づいた。ふたりして死ね死ねと叫びながら夜道をくねくねと歩いた。
「課長、大丈夫ですか。最近かなり疲れているみたいですが」
「大丈夫だ」
「仕事中、ぼーっとしてますよ」
「眠れないんだ」
「課長、ほんとに大丈夫ですか」
「おう、なんだこれしき。平気だ平気だ」
「じゃあもう一軒行きましょうか」
「おう、行こうじゃないか」
 それからの記憶はなかった。どうして家にたどりついたか分からないほど深酔いして、翌朝は自己嫌悪に陥った。酒はほとんど救いにはならなかった。
 結局黒田も辞めていった。
 このころから雄二につまらないミスが目立つようになった。書類の書き損じやメールの送り忘れ、電話の聞き違い、名前の呼び間違い。食事中の食べこぼしも多くなった。食べこぼしてシャツを汚しても気にしなくなった。ええっと今日は何をするんだったっけと真顔で同僚に聞くこともあった。
「課長、やっぱり少し休んだほうがいいですよ」
 昨年入社したばかりの後輩にも気を使わせるほどだった。
「君こそ休んだらどうだ。顔色が悪いぞ」
「僕は大丈夫ですよ。若いですから」
「だったら俺も大丈夫だ」
「あのー、課長すいません。この前の打ち合わせで問題になった広告媒体の変更の件ですが」
「変更?」
「はい」
「変更って何言ってるんだ。そんなことありえないだろう。あそこまで詰めていていまさら変更なんてできるわけないだろう」
「いえ、変更になりました。たしかに打ち合わせの途中まではそのままで行こうということだったのですが……」
「途中までは?」
「はい」
「………」
「あの……」
「どうしたんだ、はっきり言えよ」
「はい、すいません。課長はあの席で最後に少し居眠りをされまして……」
「は? 居眠り? ばかいえ、そんなことするわけないだろう」
「すいません。でもあの……」
「先方は常務が来てたんだぞ。最終のOKをもらう席だったんだ。いくら疲れていてもそんな席で居眠りなんか……」
「すいません。すぐに起こそうとしたのですが、先方がそのままでいいとおっしゃったもので……」
 すいませんなどと言っているが目の前のこの男は強く引き締まった顔をしている。自信に満ちている。うそを言っている顔ではない。俺はやはり居眠り……を……したんだ……。
「それで翌日部長が謝りに行かれました」
「………」
 雄二はもう声が出なかった。回りにあるものすべてが自分から遠ざかっていくようなさびしい気持ちに襲われた。
「課長、一度病院へ行かれた方がいいと思います。お願いします」
 ああそうしようと心の中で答えていた。

 家を出たことを後悔した。最初は休むつもりだった。休んで病院へいくつもりだった。きのうはあの後、部長からも強く促された。休んでも迷惑はかからないぞ、かえって今のまま仕事を続けている方が迷惑だ、病院へ行け、と。商談中に居眠りをしたなんて許されることではない。他にも相手の名前を呼び間違えたり、静止されてもしゃべり続けたり、そうかと思ったらまったくしゃべらなくなったりすることがあった。雄二も自分の中の異変に気付いていたが、意識してそれを打ち消していた。自分がそんな非常識な人間になってしまったことを認めたくなかった。
 今日は先頭車両に乗り込もうと思う。それで車両替えの気分転換も終わりだ。こんなことをしてもどうにもならないことが分かった。変に気疲れするだけだ。いつもと違うことをすると余計なエネルギーがいる。余計なことはしないほうがいい。それでなくても疲れているのだ。
 先頭車両は相当に混んでいた。奥のほうにいるひとりを降ろすためにドア付近の十数名がいったんプラットホームへ降りて再び乗り込む。するとドアが閉まらなくなる。ようやく動き出したと思ってもどんどんと隙間を奪われて窮屈になっていく。
 今、自分の顔はゆがんでいるなと思った。体のどこにも力が入らなかったが、顔だけは正直だった。助けてくれと叫んでいるのだ。立っていられるのは左右から挟みつけられているからだ。そうでないと倒れてしまう。ブレーキがかかって体が揺れた拍子に手からかばんが離れそうになった。反射的に指に力を入れて引き戻そうとするが、もうどうでもいいと思う。かばんの中のものに執着がなくなった。何が入っているのかも正確には分からない。名刺ケースはあるだろうか。アプローチ資料は入っているだろうか。最近急に物忘れが激しくなったので手帳とは別に大判のメモ用紙を持ち歩くようになった。それに大きな字で書いていく。十時、相澤。S社の見積りに変更あり。部長怒る。十二時、うどん三百五十円。木曜日出張、帰りは未定、要確認、泊まり?。相澤に電話、急。駐禁の件、急。始末書、急。
 急な用事でなくても一応急と書いておかないとだめだ。ぐずぐずしてしまう。ぐずぐずしていたら怒鳴られる。部長に怒鳴られる。友子にも怒鳴られる。
 顔がゆがんでいるなと思った。いや、思ったのではなくて本当にゆがんでいる。自分の顔ではなくてすぐ側にいる女の顔がゆがんでいる。前後左右からはさみつけられてかなり息苦しそうだ。二十代前半だろうか。その真新しい紺色のスーツからは、これからキャリアを積んでいくのだという意気込みが感じられる。
 そのうち女の表情に怒りが含まれていることが分かった。怒りの矛先は真後ろの男に向けられていた。
 尻を触られているのだ。どうにかして体を回転させて真後ろの男を確認しようとしているのだが、体に自由がきかなくて首だけしか回っていない。
 触っている男は帽子を目深にかぶっていた。ボタンダウンのシャツにグレーのスラックス姿で、ごく普通のサラリーマンに見えた。雄二と同じぐらいの年だ。大きめのビジネスバッグを女の尻に当て、その間へ手のひらを入れていた。雄二の位置からはそれが良く見えた。手の甲で女の尻をなでている。それもはっきりと分かった。
 女の表情はだんだん険しくなり、周りに訴えるような力強いものに変わっていった。積極的に雄二と目を合わせようとしている。しかし雄二には余裕がなかった。今はもう回りの出来事に関心を示すだけの余裕がない。そんな余裕があるのならすべて自分の為に使いたかった。疲れ果てている自分を少しでも回復させるために使いたかった。
 女はもがいている。右へ左へと首を振り、どの男が触っているのかを必死に確かめようとしている。髪は乱れていた。歯を食いしばっているためか、頬の筋肉が左右へ引っ張られ、目尻も吊り上がって顔全体が平べったい感じに変わっていた。
 駅到着のアナウンスが流れると同時に女は抵抗を止めた。まっすぐに前を向き、いま自分の中で荒れ狂っているものを静めるかのように体全体でゆっくりと息をしていた。
 ドアが開くと乗客はかたまりのままプラットホームへ押し出される。女も男も雄二もほとんど同時に車両を出た。とその瞬間、女は男の腕を捕まえて「この人痴漢です」と叫んだ。
「この人痴漢です。この人痴漢です」
 それは甲高い声だった。湿り気のない、乾き切った声だった。すぐに駅員が寄ってきた。
 女、男、駅員の三人が同時に何かしゃべっている。
 先を急ごうと歩き出したところで雄二は不意に後ろから腕を捕まれた。
「あなたが証人です。ちょっと来てください」
 触られていた女だった。顔はまだ平べったいままだった。
「あなた、見てましたよね。あたしが触られているのを見てましたよね」
「はあ……」
「すみませんが一緒に来てもらえませんか」
 車両の中でもみくちゃにされているときは小柄に見えたが、そうではなかった。女は肩幅が広く、胸や腰回りも大きくて頑丈そうな体をしていた。腕をつかむ力も強かった。
 雄二は腕を捕まれたまま階段下の駅員詰め所前まで早足に引っ張られていった。尻を触っていた男もまた女に手首を捕まれたままだった。
「すぐに警察を呼んでください」
 女は興奮して叫ぶ。
「おいちょっと待てよ。俺が何をした」
 男はそう言って女の腕を振り払う。
「痴漢です」
「してない」
「何言ってるんですか。そのかばんをお尻に当ててそっちの方の手で触ってたでしょう」
「触ってない」
「いいえ、手の甲でなで回してました」
「証拠でもあるのか」
「あります。この人が証人です」
 女は勢いよく雄二を指さした。
 女と男と駅員の三人がそれぞれに張り詰めた表情で雄二を見つめる。しかし雄二はいま自分が非常に重要な立場に立たされていることを理解できないほどに疲れていた。立っているのがやっとだ。女の怒りも男の怒りも関係ない。
「あなた見てましたよね」
「………」
「あなた、あたしが触られているのをずっと見てましたよね」
「あー」
「あーじゃないでしょう。はっきり言ってください」
 女は雄二をにらみつける。
「俺は触ってないからな」
 そう言って男もまた雄二をにらみつける。
 女の声も男の声も雄二にはサイレンのような一本調子の音にしか聞こえなかった。何を言っているのかよく分からない。
「あなたどうして黙ってるんですか。見てたじゃないですか。どうして言ってくれないんですか。見て見ぬ振りをするなんて許せませんよ。痴漢の味方をするんですね。だったらあなたも痴漢です」
 女の人差し指がぴーんと伸びて雄二の目の前までやってきた。
 痴漢……。
 ああ、それで結構だ。痴漢でもなんでもかまわない。好きにしてくれ。それよりもたれかかるものが欲しいんだ。つらくて立っていられない。横になりたい。眠りたい。
「あたしが触られているのを面白がってみてたんですね」
「………」
「そうなんですね」
「あー」
「なんですか。ぐずぐずしないではっきり言ってください」

 雄二は長いベンチに体を横たえていた。ラッシュアワーは過ぎている。しかし電車はまだ次から次へとやってくる。
 痴漢騒ぎから解放されてなんとか反対側のプラットホームまでやってきたものの、そこで力尽きてしまった。ふらふらっと無意識のうちにプラットホームの一番端まで歩いてきてそのまま近くのベンチに倒れ込んでしまった。もうここで眠ってしまうより仕方がない。もうあの家へ戻ることは出来ない。
 電車がやってくるたびに先頭車両へ飛び込みたいという衝動に駆られる。消えてなくなりたいと思う。しかし体が動かなかった。だれかこの体をごろごろと転がして線路へ落としてくれ。こっぱみじんにしてくれ。
 黄色っぽいライトをふたつ灯して遠いところからゆっくりと近づいてくる、その巨大な水中眼鏡をかけたかのような四角い顔の先頭車両。そいつをただうらめしそうに眺めているだけだ。

 

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