階下から、遠慮というものを知らないかのようなモーターの唸り声が聞こえてくる。妻の沙代子が掃除機をかけているのだろう。浩介は腕を伸ばして枕もとの携帯電話を手にとった。側面のボタンを爪の先で押すと上部の小さな窓に時刻が表示された。まだ九時やんけ。たのむわー。思わず声に出してそのまま手の中の携帯を畳に転がした。開け放された窓から夏の明るい青空が見える。顔だけ反対側に向けると沙代子の布団がちゃんとたたまれてあった。
昨夜、正確には今日になっていたのだが、夜中の二時ごろに赴任先の東京から車を飛ばして帰ってきたのだ。大手スーパーで働く彼には盆は仕事が忙しくて休めそうもないので七月のこの時期に休暇を取ったのだった。四日しかない休みを少しでも有効に使おうと仕事が終わってすぐ東京を発った。急に決めたことだったが、帰ることは前もって報せておいたから沙代子は一応起きて待ってはいたが浩介の顔をみるなり、子どもたち学校があるからあたしも寝るわ。そう言って二階へ引き上げていってしまったのだ。見たこともない膝丈のネグリジェを着ている。四十を過ぎた妻の身体の線はどことなく崩れていて、生地の上からでも腹が出ているのが目立つ。浩介はそんな彼女の後姿を見てため息をついた。
食卓テーブルにはナスの煮付けとなぜかお好み焼きがおいてあった。
浩介はシャワーを浴びて、バスタオルを腰に巻いただけの格好でお好み焼きの皿をレンジに入れて温めのボタンを押した。冷蔵庫から一本だけあった缶ビールを出してお好み焼きが温まる前に半分ほど一気に飲んでしまった。やっと一息ついたと思ったとき、レンジがチンと教えてくれた。そのとき浩介は手にしていたビールの銘柄が以前のものと違うことに気がついた。このまえの五月の連休明けに帰ってきたときもそうだったような気がする。あのときはたしか沙代子の実家からもらったのだと言っていた。なんでいつものにしないんだと訊く浩介に沙代子は「ほかに誰も飲まないんだし、これがあるんだからわざわざ買うことないでしょ」とそっけなく言った。
食事がすんでも身体はくたくたなのに頭だけが妙に冴えて眠れなかった。車で東京大阪間を行き来することなど滅多にない。いつもは新幹線で帰ってくる。そのせいなのだろう、訳のわからない興奮が付きまとっているような気がする。酔って寝てしまうにはビールが足りない。帰ってくるのがわかっているのだからビールくらいもっと用意しておけ。ここしばらくこちらの仕事が忙しくて帰るに帰れないこともあったが、沙代子のほうから出向いてくることもなかった。やれ、実家の親がどうしたの町内会の役員に選ばれただのと理由をつけては東京に来ることを拒んでいた。最初はそれを訝しがった浩介だったが「更年期でしんどいんよ」と妻の消え入りそうな声を電話で聞いてからは何も言わなくなった。それにしては、だ。二ヶ月ぶりで顔を合わせたんだ。もう少し嬉しそうにしても罰は当たらんやろうに。
浩介は空いた皿を流しに運び、洗面所で歯だけ磨いて二階へ上がっていった。中学と高校生の娘たちの部屋は固くドアが閉まっている。父親が帰ってきても二ヶ月振りであっても彼女たちには関係のないことなのだろうか。ふと浩介は寂しくなった。
寝室に入ると沙代子は壁際で背中を向けて寝ていた。腰にタオルケットを巻きつけている。その下から剥き出しのふくらはぎが白く浮かんでいた。並べて敷いてある布団の上に浩介のパジャマがあったが彼はトランクス一丁で大の字に寝転んだ。しばらく豆電球の明かりを見つめていたが半身を起こして沙代子の肩をつかんで自分のほうを向かせた。沙代子の口元に笑みが浮かんだように見えた。帯のように巻きついたタオルケットを忙しなく取り払い、彼女のネグリジェの裾から手を入れた。そのとき薄目を開けた沙代子がおどろいて浩介の手を振り払った。そのことに、浩介自身がもっとおどろいた。
「疲れてるんやし、寝たら?」
それだけ言って彼女は手探りでタオルケットを引っ張ると、夫から身を守るように被って再び背中を向けてしまった。それをもう一度引き剥がして挑もうという気力がさっきの沙代子のひと言で萎えてしまっていた。
横になると波に揺られているようでなかなか寝付けなかったが、新聞配達のバイクの音が聴こえる頃になってようやく眠りについた。それなのに五時間ほどで起こされてしまったのだ。
タバコを吸いたくなったが荷物はリビングに置いたままだ。掃除機の音がやんだと思ったら階段を上がってくる足音がした。
「あら、もう起きたん。ゆっくり寝れた?」
開けっ放しの襖から顔を覗かせて沙代子は屈託のない笑顔を見せた。
寝れるわけないやろが。起こされたんや。その掃除機に。口には出さずに妻を見つめていると沙代子はすっと目をそらせた。
「お天気いいし、布団干すからもういいんやったら起きて下へいってくれる」
「サチらは? 学校って夏休みとちがうんか」
布団の上であぐらをかいて足元に押しやっていたタオルケットをたたみながら、浩介は次女の名前を口にした。すでに陽射しが差し込んできているベランダに自分の布団を抱えて出ようとしていた沙代子が
「サチはクラブ。ユキは今月いっぱいは講習があるから学校よ」
そんなことも知らないの、といったふうな口調で応えるとさっさとベランダへ出ていった。手すりに干した布団を身を乗り出して布団叩きでたたいている。
リズムにあわせるように動く沙代子の腰を見ていた浩介は、立ち上がってベランダにいくと横に並んで何気なくを装いながらジーンズの尻を撫でた。
「ん、もおっ。朝っぱらから何すんのよ」
沙代子は持っていた布団叩きを振り上げた。その顔にはっきりと拒否の様子が見て取れた。以前なら、少なくとも正月に帰った頃には口では嫌がっていても目が笑っていた。「おかあさんいてはるからあかん」と、正月にだけ呼び寄せる浩介の母の手前、夜もそう言いながらもしがみついてきていたではないか。
浩介は叱られた犬のようにすごすごと部屋を出ていった。
着替えてから牛乳を飲み、リビングで所在なげに裏の家との境界のフェンスに絡み付いて咲いているアサガオを眺めているとインタホンが鳴った。階段の下から見上げたが沙代子は掃除機をかけているらしく音には気づいていないようだ。どうしようかと迷っているともう一度「岡田さん」と呼ぶ声が間延びしたインタホンとともに聞こえた。
「おーい、だれか来たぞ」
二階に向って呼びかけながら浩介は玄関へ降りた。サンダルをつっかけて施錠されていないドアのノブを回した。扉を開けると門の外に一台の軽トラックが停まっていて、作業服を着た小柄な男がダンボール箱を抱え、門扉に片手をかけ今にも開けようとしていた。
「どちらさん?」
相手の男は出てきたのが浩介だったことが意外だったような表情を見せたが、すぐに営業用のスマイルに変わって「板橋商店からきました。ガス器具の取り付けのことで……」と言った。言いながら視線は浩介の後ろの何かを探しているように絶えず落ち着きがなかった。浩介は自分よりは年上の、五十過ぎのように見えるこの男を、なぜか一瞬、このまま追い返したいような気になった。男は浩介がなかなか門扉を開けないので作業服の胸ポケットに付けている社員証をこちらに向けて示しながら名前を名乗った。
「池沢……さん?」
浩介は社員証の写真と目の前の男を交互に見た。地黒なのか、顔や半袖の作業服から見えている腕が小麦色に日焼けしていて逞しそうで、小柄というよりは貧相な感じがするのをどうにか助けていた。
「あーっ、ごめんなさい、日にちを変えてもらおうと思ってて連絡し忘れてたわ。どうしよう」
後ろで大きな声がして沙代子が二人の間に割って入るように駆けてきた。
「なんやねん」
「あ、あのね、ガスコンロを新しいのに換えようかなって思って。あたしが前に働いていたガス屋さんの人なんよ。まけてくれるって言うから……」
「ほな、換えてもらったらええやないか」
「あ、でも、せっかくあなたが帰ってきてるのに、うるさくしたら悪いし……」
沙代子は上目遣いで浩介を見た。あほらし。そう思うんやったら掃除機かけるのをもっとあとにせえ。寝てるところへどかどか入ってきてからに。浩介がむっとした顔を見せると、池沢というその男は、お休みやったんですか、ほな出直してきましょうか、と沙代子に返答を求めるように言った。
「ええですよ。入ってください」
浩介は門扉を開けて男を促した。表の軽トラックの車体には去年の暮れまで沙代子がパートで働いていたガス器具販売店の名前が描かれている。社員でも何でもなかったのに辞めて半年以上もなるのに、そんなにまけてくれるものなのか。池沢を玄関に招き入れる妻を見ながら浩介は首をかしげた。
奥の台所から沙代子の明るい声が聞こえている。昨夜からはじめて耳にするような気がした。咳払いをしながらリビングに入っていくと台所にいた沙代子があわててやってきた。浩介は彼女を無視して食卓テーブルに座ると、カウンター越しに池沢の背中を見つめた。肩幅は自分のほうが広い。背だっておれが勝っている。散髪にでも行ったのだろうか。耳の後ろから襟足にかけてのラインがいやにこざっぱりとしている。浩介は自分の後ろ髪をかきあげてみた。
沙代子はふたりの間に立ってどちらに話しかけようかと迷っているようだ。
「うちのが、無理言うたんとちがいますか」
「あ、いや、そんなことないですよ」
池沢は振り向いて人懐っこそうな笑顔を見せた。浩介は目の端で沙代子の表情を窺った。
「勝手に決めたんは悪かったけど、去年の秋に売り出しやったその残りやねん。どうせ在庫処分で安いからって、言うてくれはって……」
ね、ね、と言わんばかりに同意を求めている沙代子に、池沢は「そういうことです」と浩介のほうを再び笑顔で見た。何をそんなに笑っているんだ、と浩介は眉根を寄せた。営業用の笑いを振りまけばすべてまるく収まるとでも思っているのか。浩介はチラチラと台所に視線を投げかけた。池沢が手袋をはめた手で古いガスコンロを取り外しにかかった。五徳とバーナーキャップを外し、天板を取ると各バーナーの骨組みだけが残った。コンロの中がよほど汚かったのか、沙代子の悲鳴とも驚嘆とも取れる声が聞こえた。池沢が「ちょっと掃除しときますわ」と言った。浩介はソファに移動して新聞を広げた。しかし神経は後ろの台所に集中していて活字を追うだけで何も頭に入っていない。ふいに沙代子が「あっ」と叫んだ。何事かと振り向くと、たいへんたいへん、と言いながら浩介が座っている横にあるリビングボードの引出しをかき回している。どないしてん、と訊いても沙代子は答えない。顔を上げて台所を見ると池沢がなにやら指を押さえている。浩介の視線に気づいて照れ笑いをした。
「指、切らはってん」
傷テープを握りしめ、ティッシュの箱を抱えて沙代子は立ち上がり、さして広くもないリビングを小走りで台所に向った。一部始終を見ていた浩介は今度は身体をひねって台所に目を向けた。コーヒーメーカーやトースターや食パンなどが邪魔をして全体が見通せないカウンターの向こうで、沙代子と池沢が向き合って立っていた。うつむきかげんの池沢の顔はコーヒーメーカーの陰に隠れている。沙代子は池沢が差し出した指に傷テープを巻いているのだろう。覗き込むようにしながら、近づきすぎではと思うほどに顔を寄せて、テープひとつ巻くくらいで何をそんなに時間をかけているんだと、浩介は小さく舌打ちした。テープくらい自分で巻け。だいたい沙代子も沙代子だ。たかが切り傷でそんなに慌てることもないだろう。命まで取られるわけじゃなし。
「はい、これでええわ」
池沢に向けた笑顔のままで沙代子は振り向いた。浩介は盗み見を咎められたような気がして新聞に目を落とした。それから、なんでおれがあわてなあかんのや、と腹を立てた。この場を離れてパチンコにでも行きたい気分だったがそれもできなかった。
「ちょっと二階片付けてきます」
浩介に言ったのか池沢になのか、あやふやな声をかけて沙代子は廊下へ出て階段を上がっていった。新しいコンロが取り付けられるのを見ていなくていいのかと思いながら、浩介もソファから立ち上がった。台所では池沢が再び手袋をして古いビルトインコンロを抜き取ろうとしている。カウンターの端に立って今度はおれが沙代子の代わりに作業のすべてを見てやるぞ、と言わんばかりに腕組みをした。池沢が取り外したコンロを慎重に持ちながら台所を出ていった。すぐに戻ってきて、ふちの油汚れを洗剤で拭き取り、ぽっかりと口をあけている場所に新しいコンロをはめ込む作業に取りかかった。
「はあ、簡単なもんですなあ」
こんなもんくらいおれでもできるわ。と皮肉をこめたつもりだったが池沢には通じない。TVコマーシャルで見たことがある、表面が黒光りをしていて自分の顔が映りそうなしゃれたコンロが収まった。まわりを洗剤の染み込んだ布で拭きながら「今日から料理に腕をふるってもらってください」と池沢は笑った。浩介は「まあ、猫に小判みたいなもんとちゃいますか」と切り返した。どうせ自分はあさってまでしかいない。焼き加減がうまく調節できる両面焼きのグリルがあっても、従来のものより一段と火力が強くても、食わせてもらえるのは限られている。子どもたちも久しぶりだからどこかへ食べに行こう、と言うかもしれない。三日間で沙代子はどんな料理を出してくれるのか。第一、あいつにそんなにレパートリーがあったとは思えない。
「あ、終わったん?」
掃除機を持って沙代子が顔を出した。池沢は無言でエスコートするような手つきで台所を示した。うわあ、と沙代子は両手を胸の前で組んで小躍りした。
「美味しいもん作ってくれってさ」
「つくるつくる。もちろんやわ」
言いながらその目は池沢を見ていたように浩介は感じた。
なんだろう、沙代子のこのはしゃぎようは。二階から降りてきたとき化粧までしていたではないか。それが悪いというのではないが、何か引っかかる。
使い方の説明を受けながらとてもおれには使いこなせないな、と浩介は思った。
「それじゃあ、請求書のほうはまた送ってくると思いますんで……」
ダンボールを抱えて出て行こうとする池沢に、沙代子が「冷たいものでも飲んでいって」と声をかけ、冷蔵庫をあけて麦茶が入っている容器を取り出した。
「本当ならビールでも、って言いたいんだけど、車だし仕事中だし、ね」
本当なら、とはどういう意味だ。浩介は聞き捨てならないといった顔をしたが沙代子は相手にしなかった。ビールを飲んでも数時間ここで過ごせば酔いも覚めるということなのか。今度は台所にいる池沢を睨んだ。しかし池沢は抱えていたダンボールをその場に下ろして、失礼しますといいながら食卓テーブルに近寄ってきただけだ。手にしたタオルで首筋の汗を拭きそのタオルをズボンの尻ポケットにねじ込んだ。作業服の脇に汗じみが広がっていた。
「はい、おとうさんも……」
沙代子に促されて座った池沢の向かいに浩介も腰を下ろした。沙代子の差し出した麦茶のグラスを池沢は会釈をして受け取り一息で飲み干した。空のコップに沙代子はおかわりを注いだ。向き合ったまま浩介は何をしゃべればよいのか思案していた。
沙代子がパートで働き始めたころ、親切なんだけど小姑みたいに口うるさい上司がいる、と聞かされたことがあった。仕事はできるし誰にでも親切で、でもわたしにだけはうるさいのよね。なんかいやだなあ。そうため息をついていた沙代子に浩介は、それはおまえが見込みがあるからや。どうでもいいと思ったら注意もしてくれへん。ありがたいことやと思わな。パートやいうても働いてる限りは手ぇぬいたらあかん、がんばりや。
そう言って励ました。上司の名前は池沢と聞いたような気もするがはっきりと覚えていない。そのうち年に数回しか帰れなくなり、沙代子も仕事の話はしなくなった。まあ機嫌よく行っているのだろうと安心していた。だから昨年の暮れで辞めると聞かされたときもそれほど驚きもしなかった。もともと沙代子の小遣い稼ぎのようなものだという感覚でいたから。
その小うるさい上司が目の前にいるこの男なのか。ただのガス会社のおっさんやないか。
「指、大丈夫ですか」
右手の中指に巻いた傷テープに血が滲んでいる。池沢はチラッと目をやってから、よくあることですし……と笑った。そばから沙代子が黙ってもう一枚傷テープを池沢の前に置いた。二杯目の麦茶を流し込んで池沢は椅子から立ち上がり、ごちそうさまでしたと浩介に頭を下げた。リビングを出て行く池沢の後ろから沙代子がついていった。玄関のドアが開いて閉まり、そのあとしばらくしてからやっと軽トラックのエンジンをかける音が聞こえてきた。
テーブルに池沢の忘れていった傷テープが残っていた。浩介はこれまでに感じたことのない空気にさらされているような気分だった。女の直感、というものがあるのなら男の直感だってあるかもしれない。
戻ってきた沙代子が台所のコンロの前で立ったりしゃがんだりしている。用もないのにガスの火を点けたり消したりもしている。その横顔を浩介はカウンター越しに見つめていた。以前から欲しがっていたのだからしかたないか、と自分自身に納得させた。
結婚して子どもができても浩介はずっと忙しかった。ふたりの子どもの育児はほとんど沙代子に任せきりだった。この家に引っ越してくるときでさえ彼は仕事だからと、朝に引越しの荷物とともに前のアパートを出て、夜は新しい家に帰ってくるといった具合だった。下の娘がまだ幼稚園で、浩介の顔を見て「パパ、よくおうちがわかったね」と言ったものだった。長女のユキはともかく下のサチは小さいころは浩介になついていた。あまりかまってやれなくても姿を見ればパパ、パパとついてまわった。それがいつの頃からか、出張やら単身赴任が長引いてきた頃からだ。何ヶ月ぶりかで帰ってきても「あ、帰ってたんや」と一瞥して自分の部屋に引き上げてしまう。おれは遊びに行って家を空けていたわけではない。おまえたちのために行きたくもない東京や名古屋でひとりで暮らして働いているんだ。浩介は何度かそう叫びたくなったことがある。
そろそろ昼だな、と時計に目をやったとき玄関が開いて「ただいまあ」という声と勢いよく閉まるドアの音が聞こえてきた。そしてすぐに「おかあさん、おかあさん」とサチが顔を出した。
「ねえ、いまそこで池沢のおっちゃんに会ったよ。うちに来てはったん? 今日は何の用やったの」
台所にいた沙代子は指を口に当ててサチの言葉を遮った。それから窺うようにゆっくりと首をこちらに向けた。浩介は気づかないふりをしながら頭の中で娘の言った言葉を繰り返していた。
「池沢のおっちゃん」とはどういうことだ。ただの仕事先の上司のことを沙代子ならともかく、娘が親しみを込めて呼ぶなんて。それにサチの訊き方からすれば池沢がこの家にくることが日常化しているようにとれる。浩介は振り向いて「サチ」と呼ぼうとしたが沙代子に促されたのか追い出されたのか、サチはもういなかった。台所で沙代子が、お昼何がいい? と訊いていたが浩介はそれには応えず、問い詰めたくなるのをこらえて「サチと顔見知りなんか」と、やんわりと訊ねた。ええ、まえに自転車の修理をしてくれはったことがあってね、と沙代子はさらりと言った。以来、通学であの店の前を通るので言葉を交わすようになったのだというが、浩介は半分は信じていなかった。
二階へ行ったはずのサチが階段を下りてきた。台所に入り、冷蔵庫を開けてなにやらしていたと思ったらすぐに出て行こうとするので浩介は娘を呼び止めた。サチは面倒くさそうにふりむいた。
「昼ごはん、一緒に食べへんのか?」
「いい」
それだけ言うと母親に「ユッコんちへいってくる。そのまま塾へ行くから」と告げて浩介のほうは見向きもせずに行ってしまった。呆気にとられている浩介に沙代子が台所から「まあ、むつかしい年頃だし……」と、とりなすように苦笑いの顔を見せた。
冗談やない。池沢のおっちゃんに会ったよ。と嬉しそうに言っていたではないか。通学の途中に言葉まで交わしておきながら何がむつかしい年頃だ。その年頃の女の子はおやじ全般が嫌いなのではないのか。父親になつかないのにどうしてよそのおっさんになつくんだ。おかしいやないか。ここで何か言えばきっと沙代子に反論される。仕事だ仕事だと言って家庭を顧みないからよ、と、まるですべての責任が浩介にあるように噛みついてくるかもしれない。そしてあげくは、だからわたしも……と言われるかもしれない。妄想だと思いながら浩介は、沙代子の池沢を見るまなざしに「おんな」の部分を見たような気がしてならない。
あれもこれも言いたいことや訊きたいことがあるけれど、とりあえず久しぶりに帰ってきたのだ。ここは我が家なんだし、家族と過ごす貴重な時間を一人のおっさんのために壊されたくはない。気を取り直して浩介は沙代子が用意した昼ごはんを食べ始めた。ちょうどそのとき高校生のユキも帰ってきた。
「お昼なに……って、あら、おとうさんいてたん? いつまでいるん?」
床にカバンを放り投げ、自分はソファに足を投げ出して座りながらユキは、浩介のほうを見ようともしないで制服のポケットからケータイを取り出して見入っている。
「ユキ、先に着替えてきなさい」
沙代子がチラッと浩介を見て言った。それでも動こうとしないユキに沙代子はもう一度語気を強めて急かした。しぶしぶ立ち上がったユキは廊下に出るときに台所のガスコンロに気づき、「わっ、コンロ替わってるやん。池沢さんにやってもらったん?」と訊いているのを沙代子は「早くいきなさい」と叱った。
浩介は黙っていた。何ひとつとして確証はないのだ。
しかし、食事がのどを通らない。お茶でようやく流し込むとはしを置いた。沙代子が何かを感じたように食べる手を止めた。いつでも受けて立つ、といったふうな表情で浩介を見た。ごちそうさん……。そう言って浩介は立ち上がった。ちょっとパチンコ行ってくる、とリビングを出たが、聞こえたのかどうなのか沙代子の返事はなかった。
真夏の昼下がりの陽射しに頭頂部を焦がされそうだ。寝不足もあって浩介は軽いめまいを感じた。車でくればよかったと思いながら駅までの道を街路樹や建物の陰を選んで歩いた。それでも足元から熱気が這い上がってくるようだ。
かつて沙代子が勤めていたガス器具の販売店は駅へ行く途中にある。幹線道路に面していて車の往来も激しく、浩介はこちらにいるときでも一、二度前を通ったくらいでいつもは住宅地の中を抜けていた。まだ小学生だったサチが登校するとき一緒に歩いたこともあった。必ず吠えてくる犬や生垣の隙間から出入りする猫を相手にしたり、花といえば桜とコスモスぐらいしか知らない浩介は、サチが立ち止まりながら口にする草花の名前を必死で覚えようとしたものだった。サチもまた、父親に教えることをよろこんでいたように思えた。その娘が、親戚ならいざ知らずまったくの他人の男を「池沢のおっちゃん」と親しそうに呼んでいる。
思考が堂々巡りになってきた。浩介は首を振ると足を速めた。幹線道路まで出てガス器具のサービスショップの前を通ることにした。そうしたからといって何がどうなるわけでもないのだが、池沢の顔などもし居たとしても見たくもないと思いながら足は自然とそちらを向いていた。
中古車センターやラーメン店や焼肉屋と並んでサービスショップはあった。たいして広くもない間口のドアは閉まっていた。ガラス越しに中が見通せるのだが浩介は首をまっすぐにもたげたまま歩いていった。ただ、通り過ぎるときに目の端で素早く中の様子を見た。誰かが机に向っている背中だけが見えた。建物のとなりは駐車場になっている。白く乾いた地面が陽射しを跳ね返していた。さきほど池沢が乗ってきたのと同じ軽トラックが二台停まっていて車体の下の陰に猫が長くなっている。何となく拍子抜けしたような気分で浩介は駅までの道を急いだ。
めったにやらないパチンコをあらためてやったところで勝てるわけもない。無意味に踊って跳ねたあと、奈落の底に転げ落ちていくパチンコ玉を目で追いかけながらため息をついた。ドリンクワゴンを押して飲み物を販売している女の子からコーヒーを買った。こんな仕事もあるんだ、とメイド服の後ろ姿を眺めながら思った。千円、二千円があっというまに消えていく。結局、三十分ほどの間に五千円も負けてしまった。足元に玉の入った箱をいくつも積み上げている客を横目で見ながら、東京から一体何をしに帰ってきたんだろう、と浩介は思った。そして、こんなことではいけない、せっかくの休みを無駄にしないためにも家族とともに過ごさねば……と立ち上がった。
帰りも結局、日盛りの中を歩くはめになった。他に時間をつぶす場所も手段も思いつかないまま、浩介は足を引きずるようにして家に向った。
「ただいまあ」と、玄関を開けても沙代子の返事がない。子犬のようにじゃれつかれても困るがせめて「おかえり」の一言くらいは欲しい。耳を澄ますと二階から沙代子の笑い声が漏れ聞こえてくる。なんだ、電話か。そう思いながら汗をかいた顔を洗おうと洗面所の扉に手をかけたとたん、浩介の心に稲妻のように閃くものがあった。誰に電話をしているんだ。俺のいない間にかける相手は一体誰だ。池沢しかありえないだろう。浩介は足音を忍ばせて二階へ上がっていった。この暑いのに部屋の襖を閉めきって沙代子は電話をかけている。上がりきった場所で両手をついて四つん這いになり再び耳を傾けた。
「うん、そう……。やあねえ、そんなんと違うわ」
「あはは……。わかったってば。だから、帰ったら連絡するって。ほんと」
浩介は四つん這いの状態のまま二、三段後退りをしてから立ち上がり、足音を荒げて階段を踏みしめた。
「あっ! じゃあまたね」
急に声をひそめてそう言ったかと思うと浩介の鼻先で襖が開いた。沙代子は手にした携帯電話を大切なもののように胸に押し当てている。気のせいか頬が上気しているようだがあわてた様子もなく、おかえりと言うと浩介の横をすり抜けるように階段を下りていった。
誰に電話してたんや、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで階段の上から沙代子を睨みつけた。が、その姿はとうに台所に消えていた。取り残されたような気持ちのまま下りてゆくと「ビールでも飲みます?」と沙代子が訊いてきた。曖昧な返事をしていると缶ビールとコップがテーブルに置かれた。浩介は黙ってそれを持ってソファに移動した。開け放たれたベランダの窓から思い出したように涼しい風が吹いてくる。庭の一部にはまだ陽が照り付けていてフェンスに絡んだアサガオがみな萎れてうつむいていた。
「なあ、俺が留守のあいだ何もなかったか」
庭に目をやったまま浩介が口を開いた。
「なに? 急に。どういう意味」
一瞬の沈黙のあと笑いながら沙代子が応えた。
「いや、ほら、サチにしても中二やろ。学校の成績とか進路のこととか……。ユキかて高校決める大事な時期や入試のときに居てやられへんかったし」
「へえ、そんなん心配してるんや。めずらし……」
「めずらし、て親やったらあたりまえやろ。俺が家にいてるんなら勉強かて見てやれるけどそれもでけへんし、自分の子どもの成績ぐらい知っててもええやろが」
「心配せんかて、塾へ行ってるしそれにたまに家で……」
浩介は、沙代子がはっと息を飲んだ気配を背中に感じた。それっきり沙代子は黙ってしまった。流しで食器でも洗っているのか水音だけが聞こえる。続きを促すように浩介が振り向くと、視線をしっかり受け止めた沙代子が真一文字に結んだ口元に笑みを浮かべて、
「家であたしが見てます。勉強」
と言い切った。浩介はしばらく反応を窺うように黙っていたが沙代子がそれ以上何も言わないので「そやな。おまえは頭、ええもんな」と自嘲気味につぶやいた。
家庭を顧みなかったわけではないのだが、子どもたちの大事な時期に家に居なかったのは確かだ。しかしそれは仕事で、だ。長女のユキが中三のときはすでに単身赴任で東京にいた。三者面談の結果や成績のことなど何も知らなかった。職場に同じような年頃の子を持つ同僚がいて、ときどき進路のことで妻と言い争いになる、という話を聞かされたことがあった。そんなときでも浩介は、うちはどうなんだろうとは思うものの、普段から離れているのだから改めて訊いたところで適切なアドバイスもできないのなら沙代子に任せるしかない、と考えた。第一、沙代子自身もそんな相談を持ちかけてこない。金銭的な面での心配はさせたくないから子どもたちのためにせっせと働くだけだ。
ずっとそう思っていた浩介だったが、今年の春に例の同僚から、自分の娘の進学先も知らないなんて親として失格だと言われた。知らないわけではなかった。一応、学区内のどの高校に決めたのかというくらいは沙代子から聞かされていた。ただ、それがどの程度なのか、いわゆる進学校なのかそうでないのかは聞いていない。東京の人間に大阪の、有名私学なら別だがそれ以外の高校の話をしたところでわかるはずがない。だから曖昧に笑ってごまかしたけれど今はちがう。父親としてちゃんと娘の進学先の情報を知りたいと思うし、どんな高校生活や中学生活を送っているのかをせめて帰ってきたときだけでも夫婦で話したいし、子どもたちからも訊きたいと考えていた。
二ヶ月前に帰ってきたときも同じ思いだった。ユキに「どや、高校は」と訊ねたら「まあまあ」という返事が返ってきた。「まあまあてどんなんやねん」と訊き返したら「入ったばっかりでわからへんわ」と面倒くさそうに言い捨てた。何やその言い方は、と怒鳴ろうとして浩介は言葉を飲み込んだ。怒鳴る以前に大切なのは他にあるはずだ、と考えた。たとえば最低でも週に一回連絡を取り合うというのはどうだろう。それもメールではなく手紙で。そう思い、それを提案したこともあった。しぶしぶ承知した娘たちだったが彼女たちなりにがんばったのだろう。何通かの手紙が浩介のもとに届いた。しかし、当の浩介のほうが挫折してしまった。まず帰りが遅い。それでもなんとか寝る前に書いていたがやがて何を書けばいいのかわからなくなり、忙しさにかまけていつのまにか途絶えてしまった。そのことを電話で詫びるとサチから「おとうさんは言うばっかりやわ」と非難されたことがある。だからこそ今度は絶対に、という思いがあったのに沙代子はそんな浩介の思いを「めずらしい」のひとことで片付けてしまった。あなたがいなくてもわたしたち親子三人でやっているんだから、と言わんばかりだ。
ふっとあの男、池沢の笑った顔が浮かんだ。それを打ち消すように浩介はビールを飲み干し立ち上がったものの、リビング以外に居場所がなかった。しかたなく再びソファに腰を下ろした。なんとなく座りごこちの悪さを感じた。彼は身体をずらせて横になった。クッションを枕代わりにして、隣家の建物の影が伸びてきた庭を眺めていたがそのうち眠ってしまった。
「おとうさん、起きて。ご飯よ」という声で目を覚ました。天井の照明が眩しくて腕で目の上を覆った。首をめぐらすとすでに外は暗くてベランダの窓にはレースのカーテンが引いてあった。足元でテレビが賑やかな音を立てていた。
「早く食べてしまってよ。片づかへんし……」
沙代子が口のものを飲み込みながらそう言った。なんだ、食事の支度ができたから起こしてくれたのじゃあないのか。放っておけばいつまでも寝てるから、だから声をかけたのか。同じ起こすのなら仕度が出来たときに起こしてくれよ。浩介は口には出さずにゆっくりと身体を起こした。食卓には沙代子とユキが向かい合って座っていた。ユキは浩介が食卓につくのを見計らったようにごちそうさま、と言って席を立った。
「あ、なあユキ」
浩介は箸を持とうとした手を止めて思い出したように呼び止めた。ユキは黙って振り向いた。用があるのなら早く言えといわんばかりにこちらを見ている。この家に帰ってからこいつの笑った顔をまだ見ていないなと、浩介は肩を落とした。「なに?」催促のようにユキが口を開いた。
「いや、明日は日曜だし学校の講習もないんやろ」
「………」
親の問いかけにも応えないような子どもに育てた覚えはない、と歯ぎしりをしたい気持ちを押さえて浩介は言葉を続けた。
「サチも家にいるんやったらみんなで出かけるのもええかな、と思って」
「みんなでって、どこへいくの」
沙代子が訊き返してきた。
「そうやな……日帰りのキャンプなんかどうや? 昔よく行った……」
「いやよ。だるいし……」
父親の言葉を遮るように言ってユキはリビングを出ていった。沙代子は浩介にかかわりたくないというふうで目を合わせようとしない。お茶漬けをかき込むとそそくさと椅子から立ち上がり、台所に食器を運んでいった。浩介はテーブルに残った自分のぶんの料理にのろのろと箸をつけた。
ひさし振りに囲む家族の食卓、のはずだった。長女のユキからは今度こそ高校生活のあれこれを聞き、次女のサチには適確なアドバイスをするはずだった。おとうさんの向こうでの仕事の話や、少し早いが冬休みには東京へ来るか? と誘ってみるつもりもしていた。表参道にできるという新しいファッションビルや渋谷やお台場の話など、きっと、目を輝かせて聞き入ってくれるだろうと勝手に考えていた。何がいけなかったのだろう。全て自分のせいなのだろうか。
「なあ、正月のときはみんな一緒に初詣にも行ったよなあ。ユキも受験生やいうのんで熱心に拝んでたよなあ。百円かそこらの賽銭で」
たった半年前のことなのに遠い昔のような気がする。浩介はそのあとに続くであろう沙代子の、自分と同じ気持ちをこめた言葉を待っていた。
「もう、自分の生活があるんだし……」
台所から沙代子の声がした。遠慮がちではあるが、もういいかげんにすれば? と言わんばかりに聞こえた。今日二度目の耳にする言葉だ。昼にサチのときにも沙代子はそんなことを言っていた。むつかしい年頃で自分の生活があれば親といっしょに行動はしないというのか。どこの子どももそうなのか。どこの親も同じなのか。自分だけが子離れできていないだめな父親だと、暗にほのめかされたようだった。
「ほな、放っといたらええのんか」
「まあ、そうなんじゃないの。あんまり干渉されたくないのよ。あたしにも覚えがあるわ。あなたかてそうでしょ?」
「おまえはおれに干渉されとうないんか?」
「は? なに言うてんの。親にやんか。若いときのこと」
沙代子が鼻で笑ったような言い方をした。彼女のそんな言い方は今に始まったことではないのだが浩介はこのときに限ってそれがひどく気に障り、持っていた箸をテーブルに叩きつけた。カウンターの向こうで一瞬息を飲む気配が伝わってきた。
「おまえがそんなんやから子どもらもおれを親とも思わへん言い方をしよるんや」
「そんなんて、どんなんやのん。あの子らも大きくなってるんやもの。いつまでも親の言いなりになるわけないやん。そうしようと思うほうがおかしいわ」
さきほどの気配は気のせいだったのかと思うほど沙代子の反撃が始まった。
浩介は黙ってカウンター越しに妻を見つめた。ふいに今朝、ガスコンロを取り付けにきた池沢に対する沙代子の仕草が思い出された。
「あのガス屋のおっさんにはやさしいしゃべり方してたなあ。子どもらもおっちゃんて言うてなついてるみたいやしな」
できれば言わずにおこうと思っていた言葉だった。心にしまったまま残りの日を過ごして東京に帰ってしまえばきっとそのうち忘れるかもしれない。何ひとつ確証はないのだし、たとえ娘たちが知り合いという気安さから「おっちゃん」と親しく呼んでいても、それはそれでいいではないか。そう思っていたのに、つなぎ止めていた糸が切れてしまった。疑問、疑惑、疑心といったものがあとからあとから溢れ出してくる。いったん唇に乗った言葉は浩介の戸惑いなどおかまいなしに一人歩きし始めた。
「あいつが帰るとき外までついて行ってなかなか戻ってけえへんかったし、おれがパチンコから帰ってきたときも、わざわざ暑いのに二階の締め切った部屋で電話してたやろ。それに第一、何で指切ったくらいであんな大騒ぎするんや。傷テープくらい自分で巻かせたらええんや」
これでは嫉妬に狂ったみじめな旦那だ。そこまで言って浩介はカウンターの奥から沙代子がこちらを見ているのに気づいて口をつぐんだ。呆れたような憐れむような目をしている。自分の妻からそのように見られるなど意外だった。いつの間にいったい何があったというのだ。家族の気持ちが離れていくようなことが何か起こっただろうか。二ヶ月前はどうだっただろう。いや、もしかしたらもっと以前から少しずつ絆が綻びていたのかもしれない。父親のいない家に父親代わりに出入する男の影を、このとき浩介は初めて感じた。
「子どもみたいなこと言わんといて。アホらし……」
言い捨てて沙代子はリビングを出ていった。ひとり残った浩介は冷蔵庫からビールを取り出してきてベランダ側の窓に歩み寄りカーテンを開けた。ガラスに自分の姿が映っている。窓に額を押しつけて目を凝らすと、庭の芝生が室内の明りに照らされて白く浮かび上がっている。娘たちが幼い頃、時間を見つけては庭でよくバーベキューをしたものだった。匂いにつられて隣家の人たちや飼い犬までもが顔を出す。いつも最後は隣近所を巻き込んでのパーティーになってしまった。
「おたくのご主人は子煩悩でよろしいなあ」
「奥さんの口から出るんはご主人ののろけばっかりや、ってうちのんが言うてましたわ」
おたがい近所のそんな言葉を何度も聞かされた。そのたびにこそばゆいような気持ちで妻の顔を見た。沙代子はまんざらでもない笑顔で話の輪に入っていった。時おり女房たちの間からあからさまな笑い声がひびく。どの家の子も年齢は似たり寄ったりで、慣れてくると子犬みたいに庭を転げまわっている。普通の家族の普通の休日の一こまだった。忙しい仕事の合い間を縫っての家族サービスだったが浩介はそれを苦とは思わなかった。むしろ誇らしげでもあった。
庭を見つめながら十年以上も昔のことを思い出し、今の自分と照らし合わせ、浩介は見捨てられたような気持ちになった。愛しあって一緒になったのではなかったのか。職場で知り合い、結婚を意識し、二人でがんばって働き、今の家に越してきた。その頃から出張が増え、やがて一年や二年の単身赴任を余儀なくされるようになっていった。それでも沙代子が留守を守ってくれているからという思いが支えになっていた。
浩介はサッシを開けた。とたんにむっとした空気に身体中を覆われた。ベランダの脇に置いてあるエアコンの室外機から出る熱風がそれに輪をかけている。サンダルをつっかけて庭に下りた。リビングの灯りと隣家の一階の窓から漏れる灯りが狭い庭をぼんやりと照らしている。庭の隅に浩介がレンガを積んで造ったバーベキューコンロが黒くうずくまっている。使わなくなって久しい。今はその上に板を渡し植木鉢が並んでいた。浩介は鉢をよけてそろりと腰を下ろした。その位置から顔を上げると二階の自分たちの部屋が見える。こんな時間に沙代子はもう眠ってしまったのか、閉ざされた窓は闇の中に溶け込んでいた。ずっと手にしていた缶ビールを開けて口をつけた。ぬるくなった液体が喉を流れていく。口の中には苦味だけが残った。ひとくち飲んだだけのビールを浩介は足元の芝生に捨てはじめた。サンダルの足に飛沫がかかるのもかまわず一心に缶を傾けている。全部捨てたあと、いつも飲むのとは違う銘柄のビール缶を彼は力任せに握り潰した。
明日の夜に東京へ戻ろう。娘たちともろくに会話もないままだったが、何日いても同じことだろう。沙代子は何と言うだろうか。案外、あ、そう。だけかもしれない。はやる気持ちで東京から夜通し車を飛ばして帰ってきたのに、帰りを待ちわびてくれていたのは最初の数年だけだった。長期の単身赴任なんかするものじゃあない。浩介は握り潰した缶をその辺に放り投げようとしたが、持ったまま立ち上がった。顔のそばで蚊がまとわりついている。手で追い払ったがしつこくつきまとう。音だけで姿は見えない。浩介は苛立たしそうに自分の顔をぴしゃりとたたいた。同時に持っていた缶をその場にたたきつけたが芝生の上では缶は跳ねることも音を立てることもなく、ただ足元に転がっている。いまいましげにそれを踏んでから彼はサッシを開けて中へ入った。
誰もいないリビングがこんなにもよそよそしいものだとはじめて知った。
エアコンの軽い唸りとつけっぱなしのテレビの音や、明るい照明があってもそこに人がいないというだけでまるでモデルルームのようだ。いや、さっきまでの生活の匂いがあるからよけい感じるのかもしれない。サチは塾から帰ってきたのだろうか。ユキはもう下りては来ないのだろう。沙代子もまたひそかに誰かと話を交わしているのか。
カーテンを引こうとして浩介はふと手を止めた。窓の外を誰かが通り過ぎたような気がしたのだ。だがそれは気のせいで本当はこちらを見ている自分の顔が映っているだけだ。そう思い、一瞬目をそらせてふたたび顔を上げたとき、窓の外の闇に池沢の笑った顔があった。もちろんそれも自分だとわかってはいても浩介は思わず拳でガラスをたたいた。たたいたところでどうなるものでもない。それでも浩介は立ちはだかる男に挑むように何度も何度も窓をたたいた。いつ下りてきたのか背後で沙代子の声がした。
「なにしてるの。おとうさん」
「あ、いや、なんでもない。ちょっと音がしたから」
我に返った浩介は振り向き、後ろ手でカーテンを閉めながら首を振った。沙代子は近づくと彼をどかせてカーテンの隙間からガラス越しに外を見渡した。
「何かいたの? のら猫でしょ。最近よく来るんやわ」
「ガス屋の池沢ていう猫やろ」
皮肉っぽく浩介がそう言うと沙代子の肩がかすかに動いた。
「アホなこと言わんといて。何を証拠にそんなこと言うん」
つり上がった目で睨んで、その場を離れようとする沙代子の腕を浩介はつかんだ。
「証拠なんかなんぼでもある。聞かせたろか」
「ん、もうっ。放してよ。しょうもないこと言うてんとさっさとお風呂入って寝たら?」
身体をよじって逃れようともがく沙代子を浩介は抱きすくめた。突然、沙代子の口から小さく悲鳴のような声が漏れた。
「やめてよ。痛いやんか。ええかげんにしてよ」
「それが証拠や。おれに触られるんがそんなにいやか」
沙代子は顔を赤くして口をつぐんだ。うつむいて身体をこわばらせている彼女の首筋に唇を這わせながら浩介は囁いた。
「いつからや。いつから出入りするようになったんや。もうあいつとはヤッタんか」
「そんないやらしい言いかたせんといてよ」
突然、きっぱりと顔を上げて沙代子は反論した。嫌悪感に満ちた目で自分を見つめているのに気づき、浩介は全身の血が逆流していく気がした。それとともに、いいようのない寂しさがつま先まで駆け下りてくるのも感じていた。
この腕の中にいるのは誰なんだ。おれの知らない女なのか。たった数ヶ月でこうも変わってしまうのか。あきらめたように沙代子から手を離した。
「明日の晩に、帰るわ」
その言葉にも沙代子の表情は変わらなかった。
理由を訊くでもなく引き止めるでもなく、黙ったままTシャツの前をかき合わせ首筋に手をあてている。
浩介は目を合わそうとしない妻に背を向け、カーテンを少しだけ開けて窓の外に視線を移した。
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