その日、恩地平助が休憩室へいくと、先にテーブルにつき昼食を食べていた堂幡美和が、こちらをみて手招きをした。なにか面白い話でもあるのか、といった顔で、向かい合って腰をおろした平助に、美和はさっそく話しかけてきた。
「ねえ、聞いてくれる、うちの祖父ちゃんな、今年になってから、ずっと引きこもりになってるねんけど」
「祖父さんの引きこもり……、なんじゃそら」
「祖父ちゃん、人付き合いもないし、もともとちょっと変人やねん、けど、もう半年以上も家から一歩も出てないんよ。おかしいやろ」
「どこも具合が悪うないのに、そんなんやったら、おかしいわなあ」
神戸のJR住吉駅と、人工島の六甲アイランドを結ぶ電車、六甲ライナーが平助と美和の職場なのだ。所属会社は違うものの、ともに派遣社員であるところから、身分的な連帯感めいたものがあり、正社員の駅員にくらべ互いに気安く言葉を交わし合った。
女子駅員のすべてが派遣社員であるなかで、とくに美和とはよく世間話をした。美和は平助と話すとき、年齢が離れすぎているのにも、あまり違和感を感じないようによく喋った。お互い世代を越えて、ウマが合うのだろうと平助は思っている。
「ウチは、私と祖父ちゃんの二人だけやろ。なんか、こっちが疲れてしまって、もう、どうにかしてえ、ってところやねん」
「そやからいうて、お祖父さんと孫娘の二人暮らしという、世間的には極めて特殊な環境が、引きこもりの原因とは考えにくいしなあ」
そんな難しい問題をもってきても、答えようがない。相談する相手を間違えてるがな。平助は当たり障りのない返事を返しながら、袋からコンビニで買ったカップ麺とアンパンを取り出した。
「もう、他人ごとやからいうて、もっと真剣に聞いてや。それでな、恩地さんに祖父ちゃんの話し相手を頼もうかなとか、思てるねんけど」
「ちょっと待った、そら同情はするけどもや、僕はそういうことの専門家と違うからな、堂幡ちゃんには悪いけどミスキャストやで」
美和はこの春に短大を卒業して、この職場に勤め出して半年になったばかりだ。こんな若い娘からの相談なら、頼まれなくとも聞いてやりたいくらいだが、それが祖父さんの話し相手というのでは考えものだ。カップ麺の蓋を開け、据え置きの湯沸かしポットから湯を注ぎながら、平助は断る言葉を探す。
「恩地さんのこと、尼崎に住んでて定年になるまで、腕のいい旋盤工として鉄工所に勤めていたみたい、て話したら祖父ちゃん、なんか関心を持ったみたい。腕のいい、は私が付け加えたってんけど」
美和はそう言って、いたずらっぽく笑った。
「そらおおきに、堂幡ちゃんのお祖父さんて、幾つやのん」
「大正九年うまれの八十七歳、そんなん私と話が合うわけないやんか。職場の話しをしても、ふん、ふんと興味なさそうに頷くだけやし。でも、このまえの恩地さんのトイレ騒動のことを喋ったら、その男は相当な粗忽者だな、と珍しく反応してたわ」
「もう、そんなことを家にまで持ち帰って話すなよ。あの時のことは、思いだしたくもないわ」
顔をしかめながら平助は、アンパンの包装を破ってかぶりついた。
「ごめん、でも祖父ちゃんと年代が近いからかなあ、恩地さんのことを話すと、よく聞いてくれるもん」
「あほな、六十六歳と八十七歳やったら、そんなもん親子に近いやないか」
少しムキになってまくしたてる平助の口から、頬張ったアンパンの飛沫があたりに飛び散る。
「もう、やめてよ」
美和が反射的に叫び、食べかけのサンドイッチの包みと茶のペットボトルを両手で覆えば、並んでかけている女性駅員までが、顔をしかめつつ慌てて弁当を手で隠した。
十日まえのことだ。六甲ライナーは無人運転の電車で、平助はアイランドセンター駅のホームで事故防止のため、監視の任務についていた。
朝の七時から十時まで、三分おきに発着する電車のラッシュが一段落したのを見計らい、トイレへむかった。なにしろ交代なしの三時間立ちづめの作業で、切迫状態で駆け込んだトイレで清掃員に声をかけられた。
「男の人が女子トイレに入ってるみたいやけど、どないしょう」
年配の女性清掃員は、まるで平助がくるのを待ち受けていたかのように声をかけてきた。
どうせ変質者か、痴漢のたぐいに違いない。用を足し終えた平助は、気味が悪いと後込みをする清掃員の先に立って、女子トイレに入っていった。
そこで、洋式トイレの前に立つ初老の男をみて、なぜ女子トイレに居るのかと、かなり荒っぽい言葉でもって問い質した。そのとき、個室のなかから男を呼ぶ女の声がした。男は、体の不自由な妻に付き添っていたのだった。平助は早とちりをして無用な疑いをかけたことを、平身低頭して男に詫びたのだった。
ところが、話はそれだけではすまなかった。男が平助の名札に書かれた名前を憶えていて、客に対する態度が無礼過ぎると駅側に抗議をしたのだ。
平助は駅長から「充分に状況を把握せずに、お客様に暴言を吐き、不愉快な思いをさせた」と散々あぶらをしぼられたあげくに、始末書まで書かされる羽目になった。
「けど、堂幡ちゃんんのお祖父さんも、僕を粗忽者やなんて酷いなあ」
「うちの祖父ちゃんむかし刑事やったから、テレビを見てても、しょうもない事をしよってとか言って、独り言でよう怒ってるわ」
美和の祖父さんが兵庫県警の元刑事だったということは、いつだったか彼女と雑談をしていて平助は聞いたことがあった。
「刑事やったころ、くちなわの堂幡と、呼ばれてたとか言ってたわ」
「くちなわ……」
「くちなわて蛇のことやろ、犯人を蛇みたいに執念深う追うから、そんなあだ名がついてたらしいわ」
「なるほどなあ、言い得て妙や、すると尼崎にもいてはったんや」
「うん、尼崎の南東署にながいこといた、とか聞いたことあるけど、またなんで……」
「あ、いや、僕も尼崎にはながいこと住みついているから」
数人の若い駅員が、談笑しながら部屋に入ってきた。
「恩地さん、さっきの話しマジで考えておいて」
それを機に、昼食を食べ終わった美和は、平助にそう言い残して、同僚の女性駅員とともに休憩室を出ていった。
くちなわの堂幡か……、美和があの、くちなわの孫娘だったとは……。
美和が休憩室から出ていったあと、平助は反戦運動に明け暮れていた四十年まえに思いをめぐらせた。
美和と昼食時に話してから、五日ばかりがたっていた。その日は公休日で、平助は美和の家を訪ねることにした。いつもなら腰痛の治療で、週一回通う鍼灸院の予約までキャンセルしての訪問だ。
昨日の朝のことだが、出勤してきた美和と住吉駅のホームで珍しく出会った。
その折り、駅まで迎えにいくから、明日、祖父ちゃんの相手をしにきてくれないか。ちょうど恩地さんも私も、ともに公休だから是非にと、強い調子で誘われたのだ。考えれば、平助の公休日をまえもって知るなど、どうも監視員の誰かから、ローテーションの予定表を入手したのに違いない。
相手の要請とはいえ、初めて訪問するのに手ぶらで、というのも恰好がつかない。JR尼崎の駅前で、どら焼きの箱詰め千二百円也を奮発して買い込み、駅にむかった。
美和が住むのは神戸市も西のはずれにちかい塩屋駅で降りると聞いているから、これから電車に乗っても一時間近くはかかりそうだ。いつもそうするように、平助は自分の腕時計にちらりと目をやり、さらに十時を回ったばかりのホームの時計をみあげて、自分の時計との差がないのを確認した。
塩屋駅では降りた電車がいってしまうと、一旦ホームの階段をのぼり改札口を出た。それから美和に聞いていたとおりに、駅舎の海側の階段へむかった。上から眺めると、真下を国道が並行していて、タクシーが待ち受ける駅前の広場などはない。数十メートル先が海で酷く狭い土地に、JRと私鉄の線路と国道とが並行している。
美和が迎えにきているはずだがと思いつつ、階段を下りていくと「恩地さーん」と呼ぶ声がした。みると少し離れたバス停に白塗りの乗用車が止まっていて、そばで美和が手をふっている。
「おおっ、ああ」
思わず、平助の声がうわずった。いつもは濃紺のブレザーにスラックスの、駅員の制服姿ばかりみなれているものだから、彼女のTシャツにデニム地の超ミニスカート姿は目をひいた。若い娘の、すらりと伸びた脚と白い太股が刺激的で、平助の思わず視線を宙に泳がせる様もぎこちない。
「ここは止めたらあかんとこやから、はやく乗って」
美和に急かされて車に乗り込み五、六分ばかり走ると、閑静な住宅街に入っていく。やがて、美和は一軒の生垣に囲まれた民家の庭先に車を乗り入れた。
「恩地さん、こっち」
車を降りたところで、窺うように周囲を見回す平助に、先にいって玄関のドアを開けた美和が手招いた。
「ただいまあ、祖父ちゃん、お客さんをお連れしたよう」
美和の呼びかけにも、なかからの応答はない。平助はためらいながらも、美和にうながされて靴を脱いだ。みると下駄箱の上に黒の電話機がおかれている。いまどき黒電話も珍しいが、置いてある場所も懐かしい気がした。
妙なことに感心している平助に、美和はスリッパを揃えて出し、自らもカンジキみたいな大きなスリッパを履いた。歩きながら床を磨くという、東急ハンズなどでよくみかけるヤツだ。
美和のあとについて通された部屋は、日当たりのよい庭に面した座敷だった。そこで平助は、縁側に置かれた籐製の安楽椅子にかけ、こちらをみつめる老人と目があった。老人は少し足が不自由なのか、肘掛けにステッキが立て掛けられてある。
僅かに白髪の残る頭部と、無数の染みぼくろに覆われた顔は一見柔和な印象だ。だが、目があったときの一瞬の眼差しの鋭さは、辣腕刑事のころの名残なのか。
老人のまえにおかれた、テーブル上の大きなガラスの灰皿が、縁側にまで入り込む日射しを受けて、プリズムのような虹色を座敷の天井に映していた。封を切ったロングピースとライターが、老人のすぐ手の届く位置に置かれてある。
「祖父ちゃん、いつも話している恩地さんよ。こちら、私の祖父ちゃんです」
「あ、これはどうも、恩地です」
美和は同時に双方を紹介し、平助はあわてておじぎをした。
「少々膝が痛むもので、掛けたままで失礼する。孫がいつもよくして貰ってるそうで、有り難く思っております」
ぎこちなさそうに頭をさげる平助に、老人は低いが張りのある声で挨拶を返した。
「恩地さん、祖父ちゃんは滅多に他人と喋ることなんかないから、いっぱい話をしたって」
美和は縁側の隅に置いてあった丸椅子を持ってくると、平助に勧めながら言った。
「口に合うかどうか、わからんけど」
どら焼きの入った紙バッグを渡す平助に、美和は「有り難う、気を遣わせてごめんな」と小声で言って受け取った。
「祖父ちゃん、お茶をいれてくるね」
そういって美和が部屋を出ていったあと、平助も老人も、互いが目を逸らせて口をつぐんだままだ。平助は間の悪さを取り繕おうとして部屋のなかをみまわし、小さな仏壇が祀られてあるのに気づいた。平助の立つ位置からは背後になっていて、すぐには気づかなかったのだ。
「あの、お仏壇を、拝ませていただきます」
平助は老人に声をかけると仏壇のまえに歩み寄り、おもむろに正座をした。仏壇の中央には、小さな位牌が安置されている。位牌に刻まれた戒名の、最後の大姉という文字からすると女性だ。平助は、老人の亡妻なのだろうと思った。小さくそっと鈴を打ち鳴らすつもりが、手にちからが入り過ぎてヒヤッとするくらい大きく鳴り響き、慌てて鈴に手を触れて余韻を止めた。神妙な面持ちで合掌をしたあと、平助はふたたび縁側の老人のもとにもどった。
老人は相変わらず無表情で、テーブルの上の封を切ったロングピースを抜き取り口にくわえた。平助はすかさず、傍のライターを手に取り火を点けてやった。老人は旨そうに煙を吐くものの、相変わらず黙ったままだ。
話しの糸口をつかめぬまま、平助は沈黙に抗しきれずに口をひらいた。
「あの……、僕の顔を憶えてはりまへんか」
「……」
老人は煙草をくゆらしながら、無言で平助をみつめている。
「もと尼崎南東署警備課の堂幡刑事、むかし反戦連盟の活動をしていた恩地平助でんがな」
「……」
「ま、忘れてはっても無理おまへんけど。かれこれ四十年から昔の話でっさかいな」
「やはり、キサマだったか」
老人はそう言い、吸いかけの煙草を捻るようにして灰皿に押しつけた。
そうだ、あのころ行きつけの喫茶店で、灰皿に押しつけ捻り消された吸い殻をみつけ、さては、くちなわがきていたな、と勘ぐったものだ。人の癖は、年月が経っても、簡単には変わらないものらしい。吸い殻を灰皿に押しつける際に、眉間に皺を寄せるのも、あの当時とかわらない。
老人がやっと、平助のことを思いだしたらしい。いや、老いたりとはいえ、かつて刑事であった人物だ。顔を合わせたときに、すでに気づいていたに違いない。
「へえ、この通りですわ、警部もお顔の色もええし、お元気そうでんがな」
「お世辞を言うな、それに、その呼び方はやめんか」
「くちなわの堂幡と、陰で呼ばれていたぐらいの腕利き刑事でっさかい、定年退官のころには偉うなってはりましたんやろな」
取りあえず話しかけたものの話題がなく、相手を持ち上げることで話しをつなぐしかない。ま、ここまでくればバカになるのもよしとするか、平助は腹を決めた。
「警部のままでおわったからな、出世とはまるで縁がなかった」
「僕が捕まってあげてたら、もうちょっとは出世できてたかもしれまへんな」
「バカを言え、キサマみたいなチンピラを捕まえたからとて、昇進の足しにもならん」
ギロリと平助を一瞥した老人の口元が、僅かに緩んだのをみてとり、平助も少しは気持ちが落ち着いてきた。
「キサマ、女房は」
「いてまへん、独りですわ」
「ずっと独り身か」
「これといった良縁にも恵まれずに、このとおり歳だけ取りましたがな……」
平助の話に、老人は「ふん」と頷き、突然に話を変えた。
「それで、美和はなんと言ったんだ」
平助が訪れた理由が、いまひとつ飲み込めないようだ。
「その、お祖父さんが引きこもりになったから、話し相手になってやってくれと……」
「美和は、そう言ったのか」
「へえ、やっぱりお孫さんでんな、心配してますのや」
平助の言葉には応えず、老人はふたたび黙ってしまった。美和の言葉どおりに、引きこもりと言ったのが、まずかったかな。こうなったら昔ばなしをして、老人の関心を引くしかない、平助はそう考えた。
「あのころ朝潮橋にあった、国際見本市展示館で開催された中国物産展のときでっさかいな。古い話や、僕が警部を知ったのは」
「やめんか、その警部は」
「けどあのとき、見張られている方がまったく気づいてないのに、刑事の方から声をかけてくるちゅうのも、何やようわからなんだなあ」
「ベラベラとよく喋る奴だな、そんなことは憶えがないぞ」
喋りだしたらとまらない相手に、老人は握りしめた拳を僅かに震わせて苛立っている様子だ。だが平助にしても、切り出した話題を中途半端で終わらせれば、あとが持ちそうにもない。
あのころ、まだ国交がなかった中国の物産展は、右翼団体などが連日のように開催阻止を叫んで押しかけてきたものだ。そんなときには会場警備についていた平助も、他の警備員らとともにスクラムを組み、戦闘服に身を固めた右翼の行動隊とむきあった。あるとき、彼らと一触即発の緊張した睨み合いになった折りだった。
「親からもらった体を、粗末にするな」
スクラムを組む平助に、背後から声をかけた者がいた。振り返ると、そこにいたのが若き日の堂幡刑事だった。それが当時、尼崎南東署の警備課の刑事であることを、平助はあとで知ることになった。
「あれは昭和三十九年でしたわ、五月の準備段階から後片づけが終わる九月いっぱいまで、僕は警備員として尼から毎日通ってましたさかい」
「そんな昔のことを、よくもハッキリと憶えているものだな」
「ちょうど東京オリンピックの年で、街中どこへ行ってもオリンピックで沸いてましたさかい、よう憶えてますねん」
「キサマ独り身と言ったが、女はいるんだろう」
「えっ……、二十代のころ、いっとき同棲したことがおましたけど、相手の女が出ていってからは、ずっと独りですわ」
いきなり話題を変えた老人の質問に、一瞬平助は戸惑った。言葉を投げかけておいて、相手の表情の動きから内心の動揺を探ろうとする職業意識だけは、いまだに抜けきらないようだ。
刑事だった老人は、あのころ平助たち仲間のたまり場であった喫茶店に、それとなく顔を覗かせていたはずだ。そこでウエートレスとして働き始めた崎山恵子と、自分が同棲していたことも知っているはずではないのか。いや、そんなことまでは、もう記憶にないのかも知れないなあ。平助は思いをめぐらしながら、老人の顔をみた。
そこへ美和が、急須に茶飲み茶椀や菓子鉢を載せたトレーを、両手でささげるようにして部屋に入ってきた。菓子鉢には平助が持参した、どら焼きが盛られていた。
「なんか、話が盛り上がってるようやん」
美和はトレーをテーブルに置きながら、平助と老人に微笑みかける。
「恩地さん、どうぞ」
美和は急須から注いだ茶を平助に勧めると、つづけて老人にも茶を注いでやっている。
「祖父ちゃん、このお菓子は恩地さんから頂いたんよ」
美和の話しかけに老人は目を細め、自分のためにどら焼きの包装を剥がしてくれている美和の手元を見つめている。
平助はそんな二人の様子を眺め、この老人はこんな若い女と二人だけで、この家に住んでいるのかと、つい、嫉妬めいたものを感じてしまう。
しかし、またなんで祖父さんと孫娘なんや、平助は湧きあがってくる疑問を紛らわそうと、庭に視線をむけた。久しく手入れをされていないのか、庭は伸び放題に雑草が蔓延っていた。
「恩地さん、祖父ちゃんは自分から愛想をしないから、遠慮せんと気を楽にして」
「いやあ、もうそんな気を遣わんといてや」
平助は濃い緑茶をひとくち啜ると、恐縮した面持ちで言った。
「甘やかして育てたこともあって、これといって行儀作法も教えてはおらんが、まあ、よくここまでになったものだと思っている」
「もう祖父ちゃん、いちいちそんなこと言わんでも……」
老人が平助に話しかけるのを、美和が口をとがらせて睨み付けた。
「あの、美和さんとは、ずっと二人でお暮らしですか……」
「うん、まあ、事情があってな、美和は女房が育てた婆さん子だ。ところが、三年まえに、女房のやつが俺より先にあちらへ逝ってしまった。それからは、俺との二人きりの暮らしというわけだ」
老人はそう言い、なにか思いに耽るように遠い目をした。なんとなく場がしんみりとなり、平助はいらぬことを問うたことを後悔した。
「ちょっと、庭をみせてもろても、よろしおまっか」
平助は場の空気から逃れようとして、椅子から立ち上がると縁先に歩み出て庭をみわたした。
「祖父ちゃんが手入れをしなくなってからは、草ぼうぼうなんよ」
そんなに広くはない庭でも、これだけ生い茂れば手で引き抜いていたのでは間に合わない。平助は、踏み石のうえに脱ぎ捨ててあるビニール製のつっかけ草履をはいて庭へ降りた。
「堂幡ちゃん、鎌とかは、あるんかなあ」
平助の問いかけに、美和は縁側の突き当たりに置いてある物入れから、鎌と軍手を取り出してきて平助に差し出す。鎌はながらく使わないとみえて赤錆ているし、軍手も使い古した汚れが付着したままだ。
「祖父ちゃん、恩地さんが草を刈ってくれるんやて、よかったわねえ」
美和が老人に話しかけるのを聞きながら、平助は屈み込むと手始めに足元の雑草を刈り始めた。しばらくして、照りつける日射しのもとでの作業は厳しく、なにかに刺されたのか首筋が痛がゆい。今日のところは一先ず、この草を刈って退散とするか。軍手のままで刺された首をこすりながら、平助はそう腹に決めた。
「恩地さん、ちょっと買い物にいくけど、お願いね」
しばらくして縁側からする美和の声に、平助は顔をあげ無言のままで鎌を持たない左手をあげて応えた。
「おい、こっちへきて、ひと息入れんか」
老人の声がして顔をあげた平助が腕時計をみると、草刈りをやり始めてからまだ二十分そこそこにしかならない。もう少し片付けてから、と言いかけて、そうだ、本来の目的は老人の話し相手を頼まれたのだったと美和の言葉を思い出した。草刈りの作業を中断した平助は、傍の柿ノ木の枝別れのところに、脱いだ軍手を挟むと縁側へ近寄っていった。
「おい、そこの冷蔵庫をあけてくれ」
首にかけたタオルで額の汗をぬぐう平助に、老人はさらなる用事を言いつけた。その、いちいち命令的な言い方に少々ムカついたが、相手が年長でもあり、さらには美和の手前もある。仕方なく突っかけ草履を脱ぎ捨て、言われるままに平助は座敷に上がり込んだ。
老人のいるところからみて、座敷の斜め突き当たりの隅に、持ち運び用の小型の簡易冷蔵庫が置いてある。
冷蔵庫に近づき開けると、二段に仕切られた内部には、茶を入れたペットボトルの他にミネラル水のペットボトルと缶ビールがつめ込まれていた。
「なかに茶があるだろう。ああ、それそれ、それからビールも持ってきてくれ」
平助は言われたとおりに、冷蔵庫から茶のペットボトルと缶ビールを持ってきた。それから、老人の湯飲み茶碗にペットボトルから茶を注いでやった。茶は、麦茶を濃くしたような色をしていた。
老人はひとくち飲んでから、湯飲みを持った手を平助の顔の前に差し出し、これは数種類の薬草をブレンドしたもので心臓病や高血圧に効くのだなどと、うんちくをかたむけた。
「いわゆる、長寿薬というやつですかな」
「それほどのものではない。いつむこうへ行ってもよいのだが、アレのために、いま少しこちらにいてやりたいと思っとる」
アレというのは美和のことらしく、年頃の孫娘のことが気がかりであるようだ。
「そのビールはキサマが飲め、俺が注ぐと気を遣うだろう、自分で開けて飲んでくれ」
言い忘れていたように、老人は缶ビールに目を落として言った。
「僕でっか、いやあ昼間っからのアルコールは弱いなあ。警部こそどうぞ」
「俺は飲まん。医者が命と引き替えるつもりなら飲め、などとぬかしおるからな。普段は酒の類はないのだが、美和がキサマに飲ませるために昨日買い入れてきたのだ」
そういうことなら、あえて辞退するのも、かえって美和に悪い気がする。そのうえ、この老人の相手をするには少々の酒が入っている方が、こちらも度胸が据わるというものだ。そう決め込むと、平助はさっそく缶ビールのプルタブを引き、そのままくちへ持っていき流し込む。日の照りつけるなかでの作業で、喉が渇ききっていたところだから喉越しの旨さに、缶の半分くらいまで一気飲みをしてしまった。
体内にビールが染み渡る快感に、それまでぎこちなかった老人との会話が自然体でできそうに思えてきた。
「警部、先ほどの話しですけど……」
「いい加減にせんか、その呼び方は」
「へえ、それで、あの中国物産展のとき、何で僕に声をかけはったんです。あれ以来、そのことを疑問に思てましてん」
「つまらん事を、思い続けるものだ……」
老人はつっけんどんに言い、手にしたままだった湯飲み茶碗を口もとへ運び、ずずっと音を立てて残りの茶を飲み干した。
「そうかて、それまでは自分が公安に付きまとわれてることに、まったく気づいてしまへんでしたから」
「……」
「素人考えでもマークしている相手に、できうる限り素性を知られんのがその道のプロやと思いまっけど、それをわざわざ素性を証すような行為をしやはったのは何でやろと……」
膝にあずけた両の手で空の湯飲み茶碗を支え持った老人は、仰ぐように天井に視線をむけたまま黙っている。自分の言葉に老人が気分を害したと悟った平助は、この場をどう取り繕うかと考え始めたとき、老人が口を開いた。
「まだ若い命を無駄死にさせるのも、哀れだと思ってな」
「大袈裟やな、けど、なんでそう思わはったんでっか」
「キサマが、自分の命を粗末に考えているのを知ったからだ」
小刻みに震える手で湯飲み茶碗をテーブルにおくと、老人は両腕を組み平助の顔を見据えた。
「あの当時、毎晩のようにキサマのアパートを張り込んでいると、夜中にキサマがパンツを洗っている影が二階の台所の窓に映るんだな」
「……」
「ほどなく窓が開き、キサマが外の張り渡したロープに洗ったパンツを干すのをみて、その日はもう人の出入りはないと、張り込みを解き引き揚げたものだ。そのうち、こいつ死ぬ覚悟でいやがるな、と思うようになった」
そういえば、よく流しでパンツを洗ったものだったな。それにしても、あのボロアパートまで夜ごと張り込まれていたんか、平助はいまさらに驚いた。
「せやけど、パンツ洗うのが、なんで死ぬ覚悟ですのや」
「公安を甘くみるな。どこで、どのような死にざまを見せようと、薄汚れた下着をつけていて死に恥をさらすな、キサマらのあいだで囁かれていたことだろうが」
そういえばあのころ、仲間の先輩活動家から何度も聞かされた話があった。あるところでの座り込みの闘争のおり、次々に機動隊にごぼう抜きされていくなかで一人のズボンが脱げた。そのとき醤油で煮染めたようなパンツが露わになり、それがテレビの中継で映し出されたことがあったらしい。そのことがよほど衝撃的であったとみえ、ことあるごとに、汚れた下着はその者の恥ばかりか、活動家の品格を貶めるとまで言われたものだ。
「キサマの居たアパートから、すぐのところに風呂屋があったな。パンツの履き替えがなくなると、風呂屋の斜め向かいの雑貨屋でよくパンツを買っていただろ。パンツだけは、こまめに毎日履き替えていたようだな」
くそっ、そんなところにまで探りを入れていたのか。単に昔話をするつもりだったのに、過去の屑籠をひっくり返されて、いまさらに平助は戸惑ってしまう。
だが、老人の言う通り、あの当時のことを顧みると、たしかに思い当たることばかりだ。
機動隊との攻防で、催涙弾の直撃をうけたヤツがいた。救急隊により、パンツひとつにされてストレッチヤーに横たわる若者を目撃したことがある。そのとき、先輩活動家の言った話は本当だと、平助は思った。それからは、デモや座り込みなどの動員のかかった日などは、パンツだけは洗濯したてのものか、真新しいのを穿くことを心がけていたものだった。
「そら気を遣わせてすんまへんでしたなあ。四十年たって、いまやっと謎がとけましたわ。ハハハ」
そろそろ話題を変えたいと思っていた平助は、ちょうど落としどころが決まったとばかりに、ちょっと戯けた調子で笑ってみせた。
「こんどは俺から、キサマに聞いておきたいことがあるんだがな」
「へえ、またなんでっしゃろ」
また改まってなんや、職場での孫娘の様子でも聞こうというのかと、平助は老人の顔を改めてみた。
「大学教授のTの講演と映画会をするのに、神戸からフイルムを運んだことがあったな」
「十六ミリの映画会は度々やってましたけど、神戸からフイルムを運んだいうたら尼崎の文化会館でやったときですわ。あそこには三十五ミリの映写設備がありましたさかい」
そういえば、あのときは神業に近いことをやって、映画のフイルムを神戸から尼崎の文化会館まで運んだんやったなあ……。老人の言葉に、平助はもう忘れかけていた出来事を思い浮かべた。
老人の話は、当時、平和運動家で有名だったT大学教授を東京から招き、ベトナム反戦の講演と映画会を催したときのことだ。
本来なら東京から列車便で送られ、前日に到着するはずのフイルム缶が、輸送途中で行方不明になったのだ。
代わりのフィルムを取り寄せる時間もなく、途方にくれかかっているときだった。ちょうど三日まえから神戸港の埠頭に接岸している中国貨物船が、北ベトナム側から撮った記録映画のフイルムを積んできていることを知らされた。そこで、急遽そのフイルムを使おうということになったのだったが、肝心のフイルムは税関で差し止められていた。
そこで平助たちは、前日から神戸のホテルに泊まっていたT教授に連絡をとり、税関まで出向いてフイルムの通関交渉を依頼した。幸いにして教授の交渉が効を奏したのか、当日の午後になって、なんとかフイルムは国内での上映を許可されたのだった。
ところが、上映会場までフイルムを運ぶのが、これまた大変だった。というのも、当時はベトナム反戦運動が盛り上がっているなかでの、こうした催しに対する公安警察などの妨害行動も、また激しかったからだ。
「キサマらが税関を出てから、俺はずっと尾行をしておったのだ」
「我々もそういうことを予想して、交通量の多い阪神国道を走りました。うっかり交通量の少ない旧西国街道などを走ると、検問で止められ、難癖をつけられた末にフイルム共々一晩留めおかれたら、その夜の映画会はパーでっさかいな」
夕方の国道はラッシュと重なり、警察も検問などで車を止めにくい状況なのを見極め、軽自動車のスバル360で車と車の間を巧みに走り抜けたのが正解だった。平助は話しながら、当時を思い返した。
「芦屋あたりまではそれでも、つかず離れずで尾行ていたのだが、尼崎市内に入ったころにはキサマらと大分離されてしまっていた。つまりキサマらを見失ったのだ。国道も裏道の県道の検問も避けて、どうやって会場までフイルムを運び込んだのだ」
老人の口調は穏やかだが、平助を見つめる眼差しはすでに、くちなわの堂幡になっていた。
「あのときは尼に入るとすぐに、文化会館とは反対方向つまり海側へ向かって工場地帯を走りましてん。S製鋼裏の空き地までいき、そこに止めていたパラダイス映劇の宣伝カーに、フイルム缶を積み替えたんですわ」
「そうか、キサマ中国物産展が終わってからは、パラダイス映劇の使い走りをしておったんだったな」
「物産展の警備員をしたことがわざわいしてか、どこも使うてくれまへん。もう何でもええわ、という気持ちで張り紙をみて面接したら、あそこだけやったなあ、何も言わんと使うてくれたのは」
「館主に、キサマのことを過激思想の持ち主だと忠告しても、映画館の使い走りに右も左も関係ないと笑っていやがった」
するとあのころ、どこへ勤めても二、三日ながくても一週間もすると断られていたのは、公安からリストがまわっているせいだと思っていたが、実際にはこの老人が通報していたのか。
「してやられたもんだ、まさかストリップショーの宣伝カーに、フイルムを積み込んでやがったとはなあ」
老人はそう言うと、籐椅子の背もたれに体をあずけ、自嘲的な笑みをうかべた。かつて、市内中心部の繁華街の裏通りにあったパラダイス映劇は、そのころにはピンク映画とヌードショーの二本立て興行だった。
そこでの平助は、館内掃除からポスター貼り、映写技師が近くのパチンコ店に出かけたまま戻ってこないときには、代わりに映写機を回しもした。さらにはヌードショーが入れ替わると、乗用車の屋根に派手な看板を取り付けた宣伝カーに乗り、市街を流してまわるのも主要な仕事であった。
「しかし文化会館に、ど派手な宣伝カーで乗り込めば、いやでもこっちの目にもつくはずだがな」
「ですから、宣伝カーで一旦パラダイス映劇までいき、そこでまた自転車に積み替えましたんや」
「三度目は自転車に積み替えたか、これは予想外だったな……」
「荷台にフイルム缶を古チューブでくくりつけて走れば、誰が見ても映画館のフイルム運びですわ。三人のメンバーがそれどれ違うコースを走り、僕だけが文化会館を目指しましたんや。他の三人は、関係のないニュースフイルムの缶を積んでたんですわ」
「陽動作戦というわけか……」
言葉にいちいち反応する老人をまえに、次第に調子づいた平助は、二缶目のビールをあけて旨そうに喉へ流し込んだ。そんな平助をじっと見据えていた老人は、突然に上体を起こそうとして、激しく咳き込んだ。平助が老人の背中をさすろうと腰を浮かせかけると、痰の切れる音がした。老人はティッシュを取り出して両の手でくちもとにあて痰を吐くと、たたんだティッシュを足元の屑籠に落とし入れた。
「しかしだな、文化会館の正面玄関と物品搬入用の裏口付近には、数人の刑事が張り込んでいたし、キサマらを見失ったあと、俺も張り込みに合流していたんだ。どの入り口からも、一向にフイルムを運び込んだ様子はない。ヤツらもとうとう諦めたな、俺はそう思いかけた。ところがだ……」
「どう、しましてん」
ツマミもなしにビールばかり飲んだせいか、喉元まであがってくるゲップを堪えながら、真顔で話す老人に平助は相槌をうつ。
「観客を装って会場内にいた者から、予定時間どおり映写が始まっていると伝えてきた。出入り口はすべておさえているなかで、キサマどうやってフイルムを運び込んだのだ」
思い出ばなしをしているとは思えない老人の真剣な表情に、まるで過去の封印を解く快感じみた思いに、平助はとらわれはじめていた。
「入り口には警察が張り込んでいると予測してましたよって、裏道づたいに、文化会館の真裏にあった蒲鉾工場に走り込んだんですわ」
「しまった、蒲鉾工場か。あそこはほとんどが女工で、労組もキサマらとの関わりはないものと、毛頭から張り込みの対象にもしていなかったんだ」
平助が驚くほど、老人の声は大きかった。
「あらかじめ、労組に話しをつけてありましたよってに、待ち受けていた労働者らの協力で、文化会館との境界になっている二メートル近いコンクリート塀を、フイルムと共にのり越えましたんや」
「それならばこっちも、裏門に張り込ませていたから、気づくはずだがな」
「乗り越えた場所から裏門までは三十メートルほどしか、離れてまへんでしたさかいな。そこで、もろに飛び降りたら気づかれまっさかいに、ロープをズボンのベルトに結わえて塀の内側から何人かで持ってもらい、弾みをつけんようにゆっくりと着地したんですわ」
「しかし、フイルムの缶はけっこう重いだろうが」
近くを廃品回収車が巡回しているとみえ、近づくスピーカー音を煩わしげに老人は顔をしかめた。
「もちろん、フイルム缶もロープにくくりつけて、おなじやり方ですがな。のり越えた場所と裏門とのあいだには、夾竹桃の木が何本か植わっていて、薄紅色の花がちょうど満開やった。それらが視界を遮るかっこうになり、夕闇が迫っていたのも幸いして、こちらから裏門が見通せまへん。当然のこと裏門からもこちらの動きがわかりまへんわな。ま、そこらは蒲鉾工場の連中が調べて、乗り越え場所を決めてくれてましたんや」
「……」
「あそこまできて見つかれば、すべての苦労がオジャンでっさかい。あとはもう、必死でフイルム缶をかついで非常階段を駆け上り、三階の映写室にたどりついたときには、思わずバンザイを叫びたい気持ちでしたがな」
「結局のところ、キサマらに完全にウラをかかれていたわけか」
握った拳を小刻みに震わせた老人は、平助を睨みつけて呻いた。
「あのときはかれこれ十日間ほど、自分のアパートへも帰る余裕もなく準備に追われてましたよってに、アクシデントがあっても、なんとか乗り越えられましたんやろな」
「いま、なんと言った……。キサマ、あの時期にはアパートには帰っていなかったのか……」
「そうです、連日にわたる打ち合わせや準備行動で、仲間のところを泊まりあるいてましてんや」
「……」
「この四十年間のあいだに文化会館は建てかわり、名称も変わりましたけど、蒲鉾工場はいまもありますわ」
老人は平助を睨んだまま、なにを考えているのか、話しかけても黙りこくったまま頷きもしない。
なんとなく場の空気が白けたところに、玄関の方で「ただいま」という声がして美和が帰ってきたようだ。腕時計に目をおとすと、すでに二時に近い。老人の相手をするのも、そろそろ限界と考えた平助は、ここいらで退散を決め込むにはちょうど頃合いに思えた。
まもなく廊下を擦るスリッパの音がして、美和が顔をだした。
「お昼にお鮨を買ってきたから、恩地さんもここで祖父ちゃんと一緒に食べてあげて」
そう言って、手に提げてきたビニールの包みをテーブルの上に置いた。
「あの、今日のところは、これで失礼しようかと思てたんやけど……」
「恩地さん、これ広げておいてもらえる、私ちょっとお茶を入れ替えてくるし」
平助の言葉を聞き流した美和は、そう言ってふたたび部屋をでていった。いとまを乞うつもりが、機先を制されたかっこうになり、平助は仕方なく、テーブルのうえのビニールの包みを開けようと手をのばした。ところが、どうしたことか結び目があまりに固く結ばれていて、なかなかほどけない。
中腰になって懸命に結び目と格闘する平助の腕を、いきなり老人がステッキの先で小突いた。
「おい、あそこにハサミがあるから、持ってきて切ったらどうだ」
なにを偉そうに、あんたの部下やないぞ。憤然とする平助など頓着しないといったふうに、老人はステッキの先で廊下の突き当たりの物入れを指し示す。ほんま、ムカつく年寄りやで、平助はふてくされながらも、言われたとおりにハサミを持ってくると、包みに突き刺した。それをみて老人がまたしても口を開く。
「結び目を切ればよいものを、切り裂くやつがあるか」
なんや、いちいち命令しやがって……。思わず手を止めた平助は顔をあげて老人をみる。
「なんだ、キサマ……」
老人の言葉に我に返った平助が、みると手に持ったハサミの切っ先が老人にむけて、顔から僅か三十センチばかりの至近距離にあるではないか。
「あっ、こら、えらいすんまへん」
慌ててハサミを持った手を後ろに隠して詫びる平助を、老人は睨み付けた。
そのうち美和が新たに茶を入れて戻ってくると、アルミホイルのスシ桶をかこんで三人の会食がはじまった。
初めは調子よく語り合っていた昔ばなしだが、どこが気に入らなかったのか中途で老人が不機嫌になってしまい、最後は気まずいものとなり面白くなかった。美和が缶ビールを勧めたが「昼間は、あまり飲まないから」と言って頑なに断り、努めて老人の顔をみないようにした。
昼食がすむのを待ち、平助はさっそく美和に「人と会う約束があるから」とその場しのぎの嘘を囁いた。美和は平助に、もっと居て老人の相手をしてやってほしそうだったが、一刻もはやくこの家から退散したかった。
「美和が居なくてもかまわん、また話に来んか」
「へえ……そのうち、また……」
老人が声をかけても、平助は返事を濁らせて玄関にむかった。
話し相手になってくれというから、わざわざ電車賃を使うてきてやったのに、あの横柄な態度は何様や思とるんや。もう二度ときたるか……。平助は駅まで送るといってついて出てきた美和のまえでも、老人に対する腹立ちを隠さなかった。
「今日は、ほんまにごめんな。祖父ちゃん他人と滅多に話すことないから、すごく喜んでたわ」
ハンドルを握りながら、美和は少しばかり申し訳なさそうに、助手席の平助に話しかけてきた。平助にしても気持ちが落ち着くにしたがい、些細なことで立腹したことを、己が人間の小ささをみせつけたようできまりが悪く、車に乗ってからはずっと無口だった。
「祖父ちゃんと、どんな話しをしてたん」
「うん、まあ、むかし話しや」
「むかし話しって、どんなこと」
「いろんな話しや……」
「そんなん、答えになってないやん」
気のない受け答えをする平助に、美和は苛立ったように問いかける。
「昭和のころの話しや」
「祖父ちゃん、話し相手ができたと喜んでたやろ。ときどき私に昭和時代の話しするけど、返事に困るんよ」
「二人とも、むかし話でしか話が盛り上がらんいうのも、考えたら哀しいわなあ」
平助はそう言い溜息をつく。そのとき美和が左に急ハンドルを切った。カーブにさしかかり、いきなり対向車が現れたのだ。平助は無意識に体を支えようと伸ばした右手が、横にいる美和の太股をわしづかみにする形になった。
「あっ、わるいっ、ごめん、ごめんな」
まずいことになったと、焦って詫びる平助だが、美和はすれ違った車のドライバーに腹を立てたのか、ボケ、ちゃんと曲がれっちゅうねん、とか独り言みたいに荒っぽい言葉を呟いている。
しかし、不本意ながら大っぴらに触ってしもて、思わぬ得をした感じやなあ。平助は美和の反応がないのに安堵した。
「恩地さん、またきたってくれる」
「えっ、うん、そ、そやな……」
「祖父ちゃんも、恩地さんがまた、きてくれるのん楽しみにしてるんよ……」
「お祖父さんは、ほんまに喜んではったんかなあ」
「喜んでたに決まってるやん。こんど、外に連れ出したってや」
「あかん、いくら堂幡ちゃんの頼みでもそら無理やで、僕には自信がないわ」
「さっき、太股を触ったやろ」
美和はまえをみつめたまま、表情も変えずに言った。なんや、しっかり嵌められとるやないか、平助には返す言葉もない。
「わかった。堂幡ちゃんに頼まれたら、もう僕も弱いなあ」
「よかったあ、祖父ちゃん喜ぶわ。私が居なくてもいったってな。ビールも冷蔵庫に冷やしておくし」
祖父の守り役を確保したことで安堵したのか、美和は快活に笑って言った。
美和から二度目の依頼をうけたのは、最初の訪問から十日ばかりが過ぎてのことであった。勤務中の移動で、おなじ電車に乗り合わせた平助に美和が話しかけてきた。
「恩地さん、明日は休みなんやろ。それで、お願いがあるねん」
相手の都合も確かめずに、いきなり用件を切り出してくる厚かましさにも、美和にかかれば平助には断る術もない。
「わかった、草刈りの続きやろ」
「違う、あれやんか」
平助の問いかけに、美和は車内の吊り広告を指した。みあげると広告には『ふるさとの銘菓フェスタ』という文字が踊っている。
「へー、お祖父さん、甘党とは知らんかったなあ」
「祖父ちゃんな、三重県の関町が郷里やねん。新聞の広告をみて懐かしそうに、私に関の銘菓を買ってきてくれ言うねんよ」
「菓子を買うぐらい、おやすいご用や、場所はファッションマートか。今日はアイランドセンター駅が持ち場やから、帰りに寄って買っていったるわ」
南魚崎駅を発車した電車は、すぐに全長六百メートルの六甲大橋にさしかかった。いきなり視界が拡がり、運河と海の境界あたりを出航いくフェリーの船影が望めた。
「それやったら、なにも恩地さんに頼まなくても私が買うやん。あのな、祖父ちゃんを連れていったってほしいねん。私とやったら拒否反応おこすけど、恩地さんとやったらいくかも……」
「そやろか、僕となんかより孫娘と出かける方が、ずっと楽しいやろに。それに車やったら、難なくいけるがな」
「祖父ちゃん、私の運転する車には、一度も乗ったことないねんよ。大丈夫や、心配いらん言うても、頑として乗ろうとはせんわ」
「堂幡ちゃんも、車の運転は信用ないねんな」
孫娘の運転を怖がる老人が平助には可笑しくて、つい笑ってしまった。
「去年あたりまでは、一緒に電車で三宮とか食事に出かけたりしてたのに、今年になってからは、なんでか外へ出るのを嫌がりだしてん」
「わかった、明日は堂幡ちゃんの家へいって、お祖父さんを誘ってみたるわ」
「ほんま、よかった、嬉しい、だから恩地さん好きやねん」
単語の連発で喜ぶ美和に、平助はうまくのせられたな、と思う反面、こうなったら、もう乗りかかった船やないか、となかば開き直りの心境でもあった。
翌日のこと、平助はふたたび堂幡老人のところへ出かけることになった。本来なら今日の休みは鍼灸治療院へいき、それから近くのスーパーへ立ち寄り三日分の食料を買い込む予定だった。あとは夕方までごろ寝をしながら、読みかけの歴史小説を読み切るつもりだった。しかも、この日は美和は出勤日の筈で、家に居るのは老人だけなのだ。それを考えると、つい足取りは重くなりがちで、平助が先方に着いたのはすでに正午に近かった。
チャイムを押しても返事がなく、やむなく玄関のわきから庭にまわってみた。すると縁側の籐椅子には老人が掛けていて、茶色の膝掛けがずり落ちそうになっていて、どうも、居眠りをしているようだ。
縁側の踏み石のうえにはすり切れたつっかけ草履があり、柿ノ木の枝の分かれ目には、平助がこのまえ訪れたおりに挟んだ軍手がそのままにある。まるでこの屋敷内は、あれからずっと時間がとまっているかのようだ。
「今日は」
声をかけても反応がないので、さらに近寄って、ふたたび声をかけると、老人はピクリと体を動かして目をあけた。
「ごめんやっしゃ、恩地ですけど、チャイムを押しても返事がおまへんので、庭へまわらせてもらいましたんや」
「なんだ、返事など、かまわんからあがってこんか」
老人は上体を起こしながら、けだるそうに目をしばたいた。
「そこに突っ立っておらんと、あがって茶でも飲まんか」
「へえ、そのまえに、今日はちょっと僕の方から、外へお誘いしようかと思てますねんけど」
老人の膝からずり落ちた膝掛けを床から拾い上げ、もとに戻してやりながら平助は老人の顔を窺った。
上がり込んで老人と面と向かえば、また昔ばなしになるしかない。出来うる限り老人と距離をおいている方が、前回のような話の成り行きから、気まずい思いをせずにすむだろう。
「外へだと、せっかくだが、俺は外出はせん……」
「たまには昼飯を食いがてら、六甲アイランドでやっている、ふるさとの銘菓フェスタなどは、どうでっしゃろか。警部の郷里、関の銘菓も売ってるそうでっせ」
「俺の郷里をよく知っているな、美和から聞いたのか」
「へえ、活動に挫折したころ、あの辺には目的もなく、よういきましたわ。鈴鹿越えのSLの引く列車を、日の暮れるまで飽かずに山の中で眺めていたり、人影のない宿場町を歩いたり、あの当時の僕にはなにか癒されるものがありましたわ」
「山の中だが、たしかに、いいところだ。むかしは山持ちも多くいて、いまよりは裕福だったかもしれんな」
老人は話題が郷里のことになると、顔をほころばせた。
「郷里の話が出たところでいきまひょや、心配はいりまへんで、僕がついてまんがな」
「しつこい奴だ、俺は、外へはいかんと言っただろう」
ふたたび表情を硬くした老人は、苛ついたようにテーブルのうえのロングピースの箱から一本抜き取った。
「今日は天気もよろしおま、家のなかでとぐろを巻いてばかりいたんでは、黴が生えまっせ。そや、更科の蕎麦を知ってまっしゃろ、ほれ南東署の筋向かいにおましたがな」
蕎麦屋で更科といえば、そのころから尼崎では、ちょっとした有名店であった。
「僕はいったことはおまへんが、アイランドセンターに、更科が支店を出していると聞きましたけど」
「蕎麦を食うだけなら、ここで出前を取ればいい」
「けどおなじなら、出かけて更科の蕎麦を食いまひょや、こうして思案してるうちに、いけまっせ」
老人のくわえたタバコに、傍のライターで火をつけてやりながら、平助は調子よく喋った。
「まえに、キサマが若いときに、夜中にパンツを洗っていた話しをしたな」
「警部が張り込んでいたら、台所でパンツを洗う僕の影が窓に映っていた、いう話でっしゃろ、聞きましたがな」
「いまは俺が、昼間にパンツを洗っとる」
「なんでっか、それ……」
平助は、思わず老人の顔をみた。
「つまり、なんだな、歳のせいかシモの方が近うなってな、便所にいくまでに、持ちこたえられんことが度々あってな……」
「なんや、そんなことでっかいな。歳をとったら、ありまっしゃろ、そんなことも」
「軽々しく言うな、キサマなどに、なにがわかるかっ」
老人は語気を荒げて平助を睨みつけたが、すぐに庭にむけて顔を逸らせた。頬を紅潮させた老人の横顔に、平助はしまったと思った。
もし自分がその立場やったら、どうするやろ。粗相した汚れ物を、美和みたいな若い娘にみられるくらいなら、もう死んだ方がましや。年若い孫娘に、知られたくないばっかりに、昼間に汚した下着を洗ってどこかに隠したりして、夕方に美和が戻ってきても目につかないようにしているのか、この老人は……。けど、その気持ち、ごっつうわかるわ……。無言で庭を眺める老人の目のさきに、刈り残されたススキの穂が揺らいでいる。
「警部それやったら、なに一つ心配はいりまへんで、電車はトイレのある快速に須磨で乗り換えたらよいし、六甲ライナーの駅は比較的小規模でっさかいに、いざという時に便所が遠くて困ることはないと思いますわ」
平助は、わざと陽気に話し、なんとか老人を誘い出そうと努力した。
「妙な奴だなキサマも、そんなに俺を連れて出たいのか」
「もう、ええ加減に、美和さんに心配かけるのはやめなはれや」
老人は黙ったまま小さく頷き、灰皿にタバコを押しつけた。どうやら気持ちが、出かける方に傾いてきたらしい。
「よし、そうと決まったら、美和さんに連絡しておきますわ」
「余計なことをするな、美和には内緒だ」
「そら無理ですわ、あそこまでいって内緒いうてもわかりまっせ」
「仕事先に電話などかければ、美和も気が散って集中できんだろう。相手は電車だ、人命を預かっているのだぞ」
美和から、連れ出してくれと頼まれたとも言えず、平助は老人の意見に従うことにした。
とにかく、駅までのタクシーを呼ばねば、電話機の傍には当然タクシー会社の番号もあるはずだ。平助が電話をかけにいこうと、部屋を出て廊下を歩きだしたそのときだった。なにか縁側の板場に倒れる音がした。振り向くと、籐椅子の傍で老人が、すわり込んでいるのがみえ、驚いた平助は慌てて老人の傍へ戻った。
「大丈夫でっか……」
「なんでもない、脚が痺れただけだ」
老人はそう言って、平助が拾い上げたステッキを、ひったくるようにして取り上げた。
老人も久し振りの外出に、少しばかり興奮気味だった。JRと六甲ライナーの接続駅である住吉駅までは無事に着いた。ここは駅舎がプラットホームの上にある橋上駅のために、ホームのなかほどに設置されたエレベーターに乗り改札口にむかった。ところがJR住吉駅の改札を出たところで、突然に老人はステッキに両の手で体を預けるようにして立ち止まってしまった。
「どないしましてん、具合でも悪いんでっか」
平助が促しても、老人は黙って立ち竦むばかりだ。だが、通行量の多いこの場所で、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。なんとしてでも隣接する六甲ライナーの駅までは、老人を歩かせるしかない。
「すぐそこがライナーの駅でっさかい、なんとか歩けまへんか」
「しばらく、こうしておれば大丈夫だ」
「そんな、ここは通行の邪魔になりますがな……、ほんなら、こうしまひょ、警部、僕の肩につかまりなはれや」
腹をくくった平助は、老人を背負っていくことにした。持病である腰痛の悪化が心配だったが、我が身を庇ってもいられない。老人も久方振りの外出がこたえたのか、意外なほど素直に平助の言葉にしたがった。自分より背が高くて大柄な老人を背負った平助は、傍目を気にする余裕などなかった。躓いて転ばぬように気を配りながら、よろよろと二十メートルばかり離れた六甲ライナーの乗り場へと歩いた。
途中で老人が手に持っていたステッキを落としたが、拾う術もない。
「どうしました、救急車の手配をしましょか」
必死の形相で改札口にたどりつくと、その様子をみて居合わせた駅員が驚いて声をかけた。
「いや救急車はよろしいわ、ちょっと休んだらなおると思いますよって。それより、そこでステッキ落としましてん」
駅員はすぐさま走っていき、ステッキを拾ってきてくれた。
「へー、非番の日は介護ボランティアですか、それはまた、ご苦労様です」
若い駅員は感心した様子ながら、平助が老人を背負っているためにステッキを渡すことができずにいる。
平助にしても荒い呼吸を押さえながら礼を言ったものの、まさか背負っているのが美和の祖父だともいえない。
そんな駅員とのやり取りを耳にして、こんどは駅務室から助役が顔をだした。これ以上は、騒ぎを大きくしたくない。このことが口伝てに広がり、それが美和の耳に入ったのでは、どうしようもないではないか、平助は次第に焦ってきた。
「よかったら南魚崎駅の倉庫に、使わなくなった車椅子があるから、気に入ったのを引っ張り出して、使ってもらっていいですよ。なに遠慮はいりませんから、あ、そうだ。こちらには、なかで休んで貰っていて、恩地さん、あなた、そのあいだに取りにいってらっしゃいよ」
助役は平助と老人の両方にせわしなく視線を動かし、愛想笑いまで浮かべて言った。
「ご配慮ありがとうございます、そうさせていただきます」
平助は助かったと内心で小躍りしたいくらいの気持ちを抑え、丁重に頭をさげた。背中で老人がなにかを言いかけたが、余計なことを喋られても困る。思い切り尻のあたりをつねりあげると、黙ってしまった。
「警部、便所へいきとうなったら、はやめに駅員さんに、言いなはれや」
気がかりなことを老人に言い含めると、駅務室に老人を待たせておいて、平助は車椅子を取りにいくことにした。
南魚崎駅へは、起点の住吉駅から数えて二駅目で、電車は四分あまりで着いた。
ホームで平助は、行き違いの住吉行きの電車から降りてきた女性駅員に、美和がどの駅にいるかを訊ねてみた。すると、終点のマリンパーク駅の改札窓口にいるらしくて、自分は堂幡ちゃんと勤務交代してきたのだと教えてくれた。
なにしろ営業キロ数四・五キロの電車だ。蕎麦屋の更科も銘菓フェスタも、終点の一つ手まえのアイランドセンター駅で降りればよい。もしいくとすれば、美和のいるマリンパーク駅には、最後にいくことになる。
車椅子が保管されているのは、南魚崎駅のホームの真下にある倉庫なのだ。ここは乗降客も少なくいつも閑散としているが、電車の運転司令室をはじめ、設備課、保全課などがあり関係者の出入りは多かった。平助は設備課へいき、住吉駅の助役から、倉庫の車椅子を使ってもよいとの許可を受け、借り出しにきた旨を申し出た。
「各駅に配備してある車椅子を、昨年に新型と交換しましたんや、旧型やけど、どないもなってしまへん。どうせ処分するつもりですよってに、よかったら家まで借りて帰ってもよろしいで」
倉庫まできて鍵を開けてくれた顔見知りの係員は、本気とも冗談ともつかぬことを言った。さらに別れ際には「あんた、介護ボランティアまでしているのか」と、ここでも感心顔で問われた。
ふたたび住吉駅に戻ってきた平助は、借り出した車椅子に老人を乗せてホームにむかった。あとを追ってきた女性駅員が、平助の押す車椅子を電車に載せるために、急いで備え付けのボードを用意しかけた。電車よりホーム側が十センチばかり低いためなのだが、少々の段差は、自分のちからで押し載せるから大丈夫だ、と言って断った。そのかわり、蕎麦屋の更科を知っているか訊ねると、予想したとおりで、アイランドセンター駅まえビルの飲食街にあると言い、自分も何度かいったことがあると言って笑った。
平助が駅員と話しているあいだ、老人は久々に歩いたのがよほどこたえたらしく終始無言だった。それでも、美和と同年くらいな駅員に孫娘をだぶらせているのか、その制服姿をずっと見つめていた。
そのうち電車が到着して、車椅子を載せようとするが、思惑に反して老人を乗せた車椅子は意外と重い。満身のちからを込めて何度も引っ張り上げようとするが、いま一息のところで引き戻されてしまう。
「大丈夫か」
老人が初めて口をひらいたが、必死の思いの平助に応答する余裕はない。傍でみかねた若い男が手を貸してくれ「せいのうっ」とかけ声とともに車椅子を車内に引っ張り込んだのだった。
アイランドセンター駅で電車を降りると、映画館や店舗などの複合商業ビルと、隣接するホテルへは専用通路で結ばれている。周辺は、病院や高級マンションなどの高層ビルが建ち並ぶ、六甲アイランドの中心部なのだ。
改札口を通る際には、駅務室の窓から女性駅員が、車椅子を押す平助をみて驚きの表情を隠さない。もっとも、車椅子の老人が同僚の祖父だと知るよしもないから、片手をあげる平助に表情を崩さないまま会釈で応えている。
この職場にきて二年になるが、平助は一度もこの飲食街には足を踏み入れたことがない。あか抜けた高級レストランが並ぶビル内では、普段に昼飯を食うにしては、場違いなところに思えたからだ。
ビルを入ったところの電光案内板によると、目指す更科は三階にあった。連絡橋を渡ってくればそこは二階だから、当然にすぐ上が三階だ。わざわざエレベーターを探すのも、面倒に思え、平助は車椅子を押して目の前のエスカレーターに乗ろうとした。そのとき、どこからみていたのかビルの警備員が走り寄ってきた。
「もし、それは危険です。あちらにエレベーターがありますから」
丁寧だが、命令的な口調で制止をされた。ふと目を落とすと、車椅子からみあげる老人の冷ややかな眼差しにあい、思わずムッとする。
エレベーターを降りると、すぐに更科の看板が目にはいった。そのまえにトイレは大丈夫かと老人に問いかけると、住吉駅で駅員に連れられていったと言うので、そのまま店に入ることにした。
店のまえでは、老人にメニューがよくみえるように、陳列ケースのまえで車椅子を止めてやった。みると彩色鮮やかな料理サンプルに目移りするが、総じて一人前で三千円以上というのがやたら多い。平助にとっては、昼飯に三千円もの奮発は滅多にないことで、思わず気持ちが引いてしまうのも情けない。
横合いから会計は老人が持つというので、それならば一番値のはりそうなのをと、さもしい根性を丸出しに品選びをする。そうして、蕎麦しぐれ膳三千六百円がよさそうだと、なかば誘導的に決めたメニューを指すと、老人は黙って頷いた。
いまから久し振りの馳走にありつけると思えば、車椅子を押す平助の腕にもちからがこもり、店の屋号が染め抜かれた暖簾を颯爽とくぐった。
ランチタイムはとっくに過ぎていて、店内は客もまばらだ。平助は応対の店員に、窓際の席をと要望した。窓際なら明るいし窓の外の風景も眺められて、久々に外出した老人も喜ぶに違いない。店員は窓際のテーブルまで案内すると、すかさず椅子を一脚よけて車椅子の入るスペースをあけてくれた。
老人とむかいあって席に着くと、窓からは駅に発着する電車や、人工川の流れる広場を歩く人々の姿が眺められ眺望は抜群だ。
ところが一枚ガラスの大窓からは、昼下がりの陽光が容赦なく差し込んでくる。平助は注文をききにきた店員に、ブラインドを下ろせないかと頼み込むと、すぐさま薄いレース地のカーテンを引いてくれた。
「キサマの粗忽なところは、あい変らずだな」
店員がいってしまうと、平助が火をつけてやったタバコを一口吸い、老人が口をひらいた。人の僅かな失敗を捉え、あとで話しのタネに持ち出すとは、なんという嫌な性格なんだ。
「ほれ、喫茶店に勤めていた、キサマの同棲相手の女がいたな」
「それは、崎山恵子のことでっかいな」
いきなり、遠い昔にかかわった女のことを持ち出されて、平助は戸惑いながら老人をみた。
「ああ、それそれ、その崎山恵子がキサマのことをよく言っていたな。行動力や気配りは申し分ないのに、慎重さに欠けるとな。要するに粗忽者だということだ」
「彼女が……僕のことをでっか……」
「こんなことも言ってたな、よくいっても二番三番止まりで一番には絶対になれない人間だと、あの年頃の娘にしてはよく分析しているなと思ったものだ」
老人は遠い過去をほじくり出すように、ぽつぽつと語る。それもそのはず、崎山恵子と平助の出会いは四十年もまえのことだ。
そのころ、平助はアパート近くの商店街にあった喫茶店に、仲間たちと毎日のように顔をだしていた。いわゆる、たまり場になっていたのだ。そこに新しくウエートレスとして勤めだした、崎山恵子と知り合った。反戦デモや集会に、誘えばついてくる彼女の物怖じしない態度に、平助は好意を持つようになった。気が合ったというのか、二人がプライベートな仲になるまでに、そう時間はかからなかった。
彼女は以前は物置だったという、喫茶店の二階にある三畳の部屋に住み込んでいた。そんな彼女の境遇に心を痛めた平助は、あるとき自分のアパートにこないかと誘ってみた。
「恵ちゃん、僕と一緒に住まへんか。散らかし放題の六畳一間やけど、物置よりましやと思う」
「本気なん、あんた本気で言うてくれてるの」
「冗談でこんなことを言うか、気持ちが決まったらいつきてもええ、待ってるから」
路上の立ち話ながら、そのときの人目もはばからない嬉しげな顔を、平助は彼女のことを思いだすたびに忘れられない。その日の夜遅く、彼女は喫茶店の閉店後にスーツケース一つさげて平助のもとへやってきた。平助と崎山恵子との暮らしが、はじまったのだった。
ところが、その後一年足らずで、崎山恵子は突然に平助のまえから姿を消してしまった。理由も別れも告げずに出ていった彼女が、ふたたび平助のまえに現れることはなかった。彼女は九州の唐津からきたと言っていたが、日常の活動に没頭するなかで、彼女の郷里の話さえゆっくりと聞いてやることもなかった。思い出すにつけ、平助には青梅を囓ったような渋い苦さだけが、心の底にこびりついている。
警備課の刑事として平助をマークしていた老人が、崎山恵子と自分の関係を知っているのも当然だろう。あの当時、刑事が探りにきても、なにも喋るな、と平助はいつも彼女に言い含めていた。だから彼女が刑事と、そのような深い会話を交わすはずもない。もしかして、老人は自分をからかっているつもりだろうか、見え透いた作り話にも思える。
平助が疑念をめぐらせかけたとき、注文の料理が運ばれてきた。盛り蕎麦の他に旬の野菜の揚げ物や刺身など、何種類もの鉢がならぶのをみて、老人は満足げな表情で、吸い終わったタバコを灰皿に押しつけた。
「しかし、考えたら妙な因縁ですわなあ、警部とこうして、むかい合うて飯を食うてるやなんて」
かぶりついた海老天の香ばしさが口中に広がるなか、平助は久し振りの美食に、ちょっとした幸福感に浸り饒舌になった。
「そういえば、ビラ貼りで仲間が逮捕されたとき、憶えてはりまっか。深夜に抗議にいった我々と、南東署の玄関でもみ合いになったことがおましたなあ、あのとき、何人もの仲間が公務執行妨害で逮捕されたのに、後方で指揮をしていた警部と、僕は何度も目があっていながら逮捕されまへんでした。あとで考えて、なんでやろと思てましたわ」
「キサマなど、はなから対象外だった。捕まえるより、女と逢い引きさせておくだけで、よいからな」
「……と、言いますと……」
「いまにして思えば、あの時にキサマが十日も家を空けていたのに、女を信じなかったのは、俺の不覚だったな」
「あの時とは、T教授を呼んだ講演と映画会のことでっか、神戸から隠密行動でフィルムを運んだときの……」
「そうだ、こちらがキサマらの行動を掴もうとしても、崎山恵子はキサマと会っていない、それどころか居所もわからないの一点張りだった」
あのときは、予断のならない状況のもとで、彼女のいる喫茶店に電話をかける気持ちの余裕さえなかったのだ。
「せやけどでっせ、警察は毎晩のようにアパートに張り込みをかけていたんと違いまんのかいな」
「キサマが崎山恵子と同棲をはじめてからは、その必要はなくなったからな。そのおかげで、こちらもずいぶんと情報を得ることができた。我々としては、キサマらの同棲には大いに助けられたわけだ」
茶碗蒸しの蓋をとりながら、老人は勝ち誇ったように笑いを浮かべた。
老人の言葉を信じるなら、偶然に、自分が崎山恵子と会わなかったために、無事にあのときの映画会は開催できたというのか。
そういえば南東署での深夜の騒動のときも、前日の夜に自分はあの夜のビラ貼り行動の計画を彼女に喋っていたんだ。いまさらに気づけば、ビラ貼りやチラシ配布などの行動日には、まるで待ち伏せされていたかに警察の手がまわっていて、仲間が検挙されることがしばしばあったのも事実だ。言われてみればそれも、平助と仲間らのたまり場であった喫茶店に、崎山恵子がウエートレスとして勤めだしたころから、頻繁になったように思えなくもない。
崎山恵子は、自分が彼女に好意を持っていると知って近づき、聞き出した情報を警察に伝える、レポ役であったというのか。自分と同棲をしたのも、彼女にしてみれば警察から指示されたことを、遂行していたに過ぎなかったというのか。ありえるのか、そんな信じられないことが。卓上の料理も、耳にほどよい音量でながれている古い唱歌のBGMも、平助には逆に苛立ちをつのらせた。
「慎重な者になら、使い古された、あんな手口などは、なかなか通用するものではない。いささか遅きに失するが、悔やむなら女好きで粗忽者の己を悔やむんだな」
「いくら四十年まえのことにしても、崎山恵子を利用した警部……、いや警察は、汚なおまっせ……。僕は彼女との人生を真剣に考えてましたんや」
「もう遠い昔のことだ。キサマがいまだに独身を通していることと、崎山恵子が居なくなったこととは、なんの関係もないだろうが」
なにをぬかしやがる、あのときの自分は、崎山恵子と正式に結婚してもいいと、本気でそう思っていたのだ。それを利用価値がなくなったからと、自分から引き剥がすようにして郷里へ帰すとは。……まてよ彼女は本当に唐津に帰ったのか。もし、そうでないとしたなら、老人は崎山恵子のおおよその居場所を知っている可能性もあるのでは……。
いま、ここで彼女の居場所を問い質してみるか……、だが、いまさら、それを知ってどうなるというのだ。実際に崎山恵子と再会することができたとしても、平助のことなど、もはや彼女の記憶の断片にも残っていないかもしれない。彼女のいまが、孫たちに囲まれた幸せな暮らしの日々ならば、なおさらに逢うことなど、なんの意味もなさないではないか。
さきほどから、箸をやすめたままの平助の視線の先には、大方の料理をたいらげて、蕎麦湯をすする老人の満足げな顔があった。
昼飯を食べおわると、あとは当初の目的である、銘菓フェスタの開催場へいくしかない。
勘定を済ませ蕎麦屋を出たところで、トイレの案内板が目に入った。平助は老人に、ここでトイレにいっておいたらどうかと尋ねた。老人が頷くのをみて、平助は案内板に従いトイレへと車椅子を押して歩いた。
「キサマ、俺に座って小便をさせるつもりか」
車椅子から降りた老人は、洋式便所につれて入ろうとする平助に文句を言った。
「この方が楽でっせ。できたら、ついでにどっちも、しておかはったらよろしがな」
平助は老人を宥めておいて個室のドアを閉めると、自らも小便器のまえに立ち用をたした。
用をたしながら平助は、爺さんの付き添いでよかったと、いつか女子トイレで変態呼ばわりをした男のことを思い出していた。
それにしても、老人の話は本当なのか……、蕎麦屋での会話を反芻しかけたとき、老人の呼ぶ声がした。平助は「ハイ」と大きな声で返事をした。
開催場であるビルは駅を挟んだむこう側であるから、もときた専用通路を一旦戻る。普通は駅を素通りして、ふたたび専用通路をいくのだが、平助は改札口のところで足を止めた。
「あの、トイレはどうします」
「さきに蕎麦屋を出がけに、いったばかりだろ」
平助の問いかけに、老人は憮然として応えた。わかっているが、ここなら改札を入ったところにトイレがあるからと思って、気を利かせて訊ねたのに。ムッとした平助は、足早に車椅子を押して歩き始めた。
「おい、もっとゆっくりといってくれ、振動がひどすぎてかなわん」
「へい、すんまへん」
ここは歩行者が滑らないようにと、通路の表面に一定の間隔をおき横溝が設けてあるのだ。勢いよく押せば小刻みの振動が、もろに車椅子に伝わるらしい。
銘菓フェスタの会場では、老人は郷里の名物だという餅菓子を買った。取り次ぎ役の平助に代金を渡しながら、土産にどうだというから遠慮して「僕は、けっこうです」と答えた。
にもかかわらず、老人はおなじ箱入りをもう一つと代金を渡し「これはキサマの分だ、旨いぞ」と郷里の銘菓を自慢した。
「この五年ばかり、墓参りにも帰省ってはおらんのだ。動けるうちに、もう一度いってみたいが、とても無理だな」
「そない大層に言わんかて、美和さんの車でいったら、じきでんがな」
「いや、とても美和の車には、危なっかしくて乗っておれん」
首を横に振りながら話す老人に、いつか美和の言った通りだと思い、それ以上は平助も逆らわなかった。
「これから、どうしますか」
目当ての菓子を買ったあと、会場をひとめぐりしたところで、平助は老人に訊ねた。なぜなら、すべてが若者志向であるこの街に、老人の興味を引くところや喜ばせるところなどは、食うことの他にはないと思えたのだ。
「この次の駅には美和が居るのだろう、いってみるか」
駅にむかう連絡橋を渡りながら、老人は彼方に小さく望めるマリンパーク駅舎の屋根を手で指した。
「マリンパーク駅に、美和さんがいるのを知ってはりまんのか」
「住吉駅でキサマがこれを借り受けにいっているあいだに、助役さんに訊ねたんだ」
老人は言いながら、車椅子の肘掛けを叩いた。すると、老人を美和の祖父だと知った助役は、ひょっとすれば美和に連絡している可能性もあるな、平助は思った。
アイランドセンター駅とマリンパーク駅間の所用時間は、おおよそ一分で、電車は乗ったと思うまもなく着いた。マリンパークと駅名はハイカラだが周辺に民家もなく、高校と大学があるがホームに人が溢れるのは、これらの登下校時だけだ。駅と隣接する開業したばかりのファミリープールもシーズンオフで、乗降客もまばらだ。
ホームの山側にあるエレベーターでコンコースに下りると、平助は車椅子を押し、鰻の寝床のような狭く細長い通路を歩いた。改札口は駅舎の海側に一カ所あるだけで、そこには美和が居る筈なのだ。
「すまんが、急いでトイレに寄ってくれんか」
すれ違う人も、追い越していく人もいないコンコースをいくなかで、突然に老人が平助を振り仰いで言った。トイレまでは十数メートルで、平助は半ば駆け足で車椅子を押し、トイレへ行き着いた。
ここは、どの駅舎の洋式トイレも車椅子が入れるようにスペースを広くとってあり、車椅子を押して個室に入ると、平助は老人に訊ねた。
「自分で、ちゃんとできまっか」
「いらん心配をするな、キサマは外で待っていてくれ」
だからといって、放っておくわけにもいかない。平助の手を借りながら、老人は車椅子から降りた。さらに、老人が仏頂面で洋式便器を背に立つと、平助は身障者用に設置されている鉄パイプ製のアームを引き寄せてやる。立ち座りは、このアームで体を支えながら行えばよいのだ。ズボンや下穿きを下げるのを手伝おうか、と思ったがそこまで言うのは気がひけた。
「ほな、外で待ってまっさかい、すんだら呼んでもらえまっか」
そう言い残して、平助はトイレの個室から出ると扉を閉めた。
しばらくして、外の通路で待っている平助に、老人の呼ぶ声がした。どうしたのか、慌ててなかへ入ると、老人が怒ったように平助を睨み付けている。
「どない、しやはりましてん」
「しくじって、しまった」
「えっ……」
異臭が鼻をついて、平助はすぐに状況を悟った。同時に頭のなかが真っ白になった。どないしょう、こんな場合どないしたらええねん。狼狽えてしまった平助には、次ぎに自分がとるべき行動さえ浮かばない。
そんな平助の目に、壁際の赤いボタンが目に入った。緊急時にトイレ使用者がこのボタンを押せば、駅務室に異常が知らされる。
そや、非常ボタンを押して、とにかく駅員を呼ぶしかない。便座にかけた老人の肩越しに、非常ボタンに手を伸ばそうとする平助に、老人が叫ぶように言った。
「待てっ、美和は呼ばないでくれ」
咄嗟に手を引っ込めた平助の背中に、冷たいものが走った。そうや、これを押したら美和が駆けつけてくるのや、平助は自分のうかつさに、さらに狼狽した。
「すんまへん、ちょっと待っていてくれはりまっか」
トイレを飛び出した平助は、コンコースを駆けながら迷っていた。老人の替えのパンツを買うにも、この駅の回りにはそのような店など一軒もない。かといってアイランドセンター駅まで戻り、パンツの購入にショッピング街まで走っていったとしても、ここに戻ってくるには往復二十分はかかる。老人をあの状態のままで、それだけのあいだ待たしておくのは酷だろう。だが駅務室へいけば、美和に事情を話さなければならなくなる。老人の気持ちを思うと、それはできない。やはり、センター駅まで戻るしかないな。そう決めた平助が、上りのエスカレータを駆け上がろうとしたときだ。
「恩地さんやないの、ここで、なにをしてるん」
ちょうど駅を巡回してきた清掃員の女が、エスカレーター脇の階段を下りてきて平助に声をかけた。
「あっ、ええとこで遇うたわ」
さっそく事情を話す平助に、五十代半ばの清掃員は「とにかく、トイレへいこう」と先にたって歩いた。後をついて歩きながら、平助には彼女の後ろ姿が、このうえなく頼もしい存在に思える。
「そら、大変やわ、困ったやろ」
清掃員は平助を慰めながら男子トイレまでくると、その一郭にあるモップの洗い場をかねた清掃用具置き場の鍵を開けた。
「恩地さん、これを」
なかから真新しいタオルや雑巾を取り出して、いまだ平常心を取り戻せない平助に手渡した。
「警、あ、堂、いや、恩地です、ちょっと開けまっさかいに」
思わず警部と言いかけ、さらに堂幡と言い直そうとしたが、清掃員に美和の祖父と知れてはまずいと、平助は咄嗟に言い換えた。扉を開けると、なかで老人は頭を抱えるようにして、便器にかけていた。
「失礼します」
水を汲んだバケツをさげ、ビニール袋を小脇に抱えたを清掃員は、平助のあとから個室に入ると素早くドアを閉めた。
「すんまへん、僕がやりますわ」
「ええから、手を貸してや」
気を遣う平助に構わず、清掃員は便器のそばに屈み込んだ。
「どうも、とんだことになってしまい……」
老人は恐縮しきっていて、みている方が気の毒なくらいだ。
「すぐに、しますからね」
清掃員は老人に話しかけながら、手慣れた仕草で作業着のポケットからハサミを取り出し、老人の汚れたパンツを切り裂いていく。
「ちょっと、腰をうかされへんやろか」
清掃員の指示に、平助は老人の両脇に腕を差し入れると、満身のちからを腰と腕に集中して相手の体を持ち上げた。そして僅かに尻が浮くと、清掃員はすかさずに挟まっているパンツを引っ張り出した。腰に鈍い痛みが走り、平助はせっかく治りかけた腰痛が気になった。
平助はふたたび腕にちからを込めると、老人を抱きかかえるように持ち上げ、便器のまえに立たせた。
「すんまへん、僕がやりますわ」
いくらなんでも、すべてを清掃員に任せて、傍観者を決め込むわけにもいかないと思った。
「いいから、服が汚れないように持っていてあげて」
そんな平助の思いを見透かしたように清掃員は言い、タオルで汚物の付着した老人の尻や股間を丹念に拭き取っていった。平助が老人をみると、観念したように、目をつむっている。清掃員は拭き終わると、ビニール袋から紙おむつを取り出して、平助に差し出した。
「へー、こんなもんまで置いたりまんのか」
「これ、トイレ内の忘れ物や、役にたってよかったわ」
紙おむつまで常備しているのかと感心する平助に、清掃員は本当によかったという顔をした。
「これ、どないするんやろ」
手にしたものの、紙おむつの装着の仕方に戸惑う平助に代わり、「これで、おわりましたから」
清掃員は老人に話かけながら、慣れた手つきで装着してくれた。
「あとは、私がしておくから」
汚した便器の清掃を気にかける平助に、清掃員は老人を車椅子にかけさせるように促した。
手際よく処理をしてくれた清掃員のおかげで、美和に知れることも、利用客の目にふれることもなく済んだ。
「私な、腰を痛めるまでは介護士しててん、こんなん、どういうことあらへん」
清掃員はさらりと言ってのけると、平助に耳打ちをして「これ、入れておいたらええわ」と言って、残りの紙おむつを車椅子のポケットに差し入れた。
「ほんま、おかげで助かりましたわ」
平助はこのとき、心底から清掃員の好意に頭を下げた。
美和には、このことを黙っていてくれと、清掃員に口止めをしようかと平助は迷った。しかし、かえって不審がられそうで、平助は清掃員がなにも聞かないのを幸いに、黙っておくことにした。かわりに、老人が買ってくれた菓子箱を差し出し、ほんの気持ちだと言って強引に受け取らせた。
老人はトイレでの一件が余程のショックだったのか、あれから黙りこくったままだ。傍目にも酷く落ち込んでいる様が窺えて、思わず同情心がわく。
この駅は、乗降客が少ない時間帯には駅員は駅務室に引っ込んでいて、客は用件があれば窓口のインターホン越しに、駅員とやりとりする仕組みになっている。
美和と顔を合わせても、なにくわぬ顔をしていればよいのだ。しかし老人は、どうするかな。などと考えながら、平助は車椅子を押していった。
「恩地さーん」
前方から呼ぶ声に、みると改札口横の窓から女性駅員が、身を乗り出すようにしてこちらをみている。
「あの、堂幡さんは、遅番の昼休みでいま南魚崎駅です。もしきたらそう言って、とのことでしたから」
彼女は、わざわざ駅務室から出てきて、改札口までやってきた平助に言った。時計をみると二時半だから、ずいぶんと遅い昼飯だ。
「私と交代で、さっきの電車でいったから、いま着いたぐらいかな」
駅員は、愛想笑いをしながら、さらにつけ加えた。
平助と駅務員とのやり取りを聞き、老人がなにかを言い出すかと思い、チラと車椅子に目をやったが口をつぐんだままだ。
「美和さんが居ないとなると、もう戻りまっか」
老人は美和が居ないことを知ると、ひときわ疲れた顔で頷いた。平助はふたたび車椅子の方向を変え、ホームにむかった。
「窓口に誰もいないのに、あの駅員は、なぜ我々がくることがわかったのだ」
「通路とホームには、そこいらじゅうに監視カメラがありますよってに、なかでモニターをみてましたんやろ」
老人は平助の説明を聞き、感心したように頷いた。平助はホームにむかいながら、美和にケータイで連絡をとった。美和は、平助に老人を連れてきたことへの礼を述べたあと、
「いまからお昼やねん、慌ててこなくても、ゆっくりと連れてまわってやって」
と言って先に切ってしまった。慌てるもなにも、もう、いくところがないのだ。
ホームでは折り返しの電車が停車中で、先ほどの駅員が先回りをして、開いたドアのまえでボードを持って待っていた。ボードの上を車椅子を押して乗り込もうとすると「大変ですねえ」平助の耳元で囁いた。まるで事情を知っているかのような駅員の言葉に、平助は苦笑いしながら頷いた。電車が動き出すと、駅員はドアのむこうでボードを片手にさげて直立し挙手の礼で見送っていた。その仕草が大袈裟に思えて、平助はまた苦笑した。
南魚崎駅に着くと、車椅子用のボードを持った若い男性駅員が待機していた。平助と老人の乗っている車両のドアが開くと、素早い動作で電車とホームのあいだにボードを渡した。マリンパーク駅から、さきの女性駅員が連絡をしていてくれたのだ。ホームに降り立ち平助が駅員に礼を述べると、つづけて老人が感激した様子で駅員に手を差し伸べて何度も礼を言った。
「どうぞお気をつけて、いってください」
恐縮した面持ちの駅員は、平助と老人にわざわざ帽子をとって言った。
この駅は五層の高架駅で、電車が到着したホームは最上階になっている。平助は車椅子を押して、ホームからエレベーターで四階の改札口まで下りた。美和のいる休憩室は二階だから、改札口を通り抜け、ふたたび地上へ下りる別のエレベーターに乗らねばならない。
駅のコンコースは運河をまたぐ連絡橋と繋がっていて、そこはもう一般の道路と変わらない。したがって電車に乗らない通行人や、自転車までが通る。すぐ傍の階段を横目に、平助もエレベーターが空くまで待つしかない。
しかし、五分を過ぎるとさすがに苛立ってきて、次のエレベーターには多少無理をしても乗らなければと、平助は気持ちを固めた。降りてくる人を避けるギリギリまで、車椅子をエレベーターの扉に近づけ、まえに他人を割り込ませないようにした。
停止したエレベーターの扉が開いた。平助は人が降りるのを見計らい、車椅子を押してエレベーター内へ突進した。作戦は成功し、車椅子と扉のあいだは、あとから乗ってきた人でいっぱいになった。
エレベーターが降下を始めると、平助は扉の横にある行き先ボタンを押していないのに気づいた。慌てて押そうにも、前に立つ人に遮られて手が届かない。「二階で降ります」と叫んだときにはエレベーターはすでに通過していた。
一階に着いたエレベーターから人々が降りていったあと、幸い乗り込んでくる人もない。
「すんまへん、もういっぺん、このまま二階まであがりますわ」
平助がふたたび二階へ昇るつもりでいると、老人が口をひらいた。
「キサマの粗忽さは、いまに始まったわけではあるまい。ここまで下りたついでだ、その辺をみてみるか」
「みるようなもん、おまへんけど、ちょっといってみまっか」
老人のくちから憎まれ口が飛び出して、元気を取り戻してくれたようだ。少し気が楽になった平助は、エレベーターの外に車椅子を押して出た。
少し離れれば酒蔵や歴史的な街並みがあるが、この駅舎のまえは運河沿いの護岸になっていて、民家もない殺風景なところだ。近くに、三百トンクラスのケミカルタンカーが係留されていた。
運河の対岸では、盛んにクレーンが移動して大型の艀から、屑鉄の積み荷を降ろしているのが窺えた。老人はそんな光景に興味をそそられたのか、さらに護岸の傍までいってみるという。
護岸の縁までくると、タンカーの船尾に、第一栄進丸の船名と、小さく唐津と書かれてあるのが読みとれた。
それをみて平助は、ふたたび唐津出身だった恵子のことを思った。
「警部、これは僕の勘ですけど、ひょっとして崎山恵子は関西に、いやもっと近い阪神間あたりに、ずっといてたんと違いますんか」
「いまさら、むかしの女のことなど無駄なことを考えるな。あの女がどこにいようと、どんな暮らしをしていようと、いまのキサマには関わりのないことだろう」
対岸に建つ美化センターの、巨大な屋根と角張った白い煙突が、傾きはじめた陽光に映えている。老人はそんな風景に目をとめたまま、平助を諭すかのように話す。
「そら、いまになって四十年まえの過去をほじくっても、どうしようもないことですわ。ただ、彼女は初めから警察の囮として僕に近づいたにしろ、一緒に暮らしながら、なぜ突然に失踪したのか……」
「あの映画会の折りには、崎山恵子からキサマらの情報がまったく入らなくなった。俺はてっきり、キサマに彼女の情が移ったと解釈した。まさかキサマが十日間もアパートに帰らず、女とも会っていないとは、思ってもみなかったからな」
「つまり、なんでっか……彼女が内通者としてふさわしくなくなったから、僕のところから出ていかせたと……」
「男女の関係にはなっても、彼女がキサマのような男に惚れることはないと決めつけていたんだ。しかしながら、問題があるようだと、ボロを出さないうちに引き離すのが常套的なやり方だ」
「そんな……」
「結果としては、こちらの早とちりだったわけだ」
低空で運河の水面を舞う鴎を目で追いながら、ぼそりと老人が言った。
「彼女が、そんな警察のやり方を納得してたとは、思えまへん」
「じつを言えば、パークの売春取り締まりの一斉手入れで、検挙した女の一人を、更生させる目的でキサマらのたまり場になっていた喫茶店に、おくり込んだ。それが崎山恵子だった」
かつて昭和四十年代ごろまで、阪神電車の出屋敷駅から少し離れた歓楽街の一郭に、スタンドと称する小さな飲み屋が軒を連ねる場所があった。飲み屋とはかたちばかりで、実際にはスタンドを装った売春窟で、その界隈を指して出屋敷パークと称されていたのだ。
崎山恵子は、そこで売春行為で検挙され、内通者になることで逮捕を免れ、ウエートレスとしてあの喫茶店へきたというのか。そんなことがあるのか……。
突然に運河の水面にさざ波がたち、風が動いた。
いまになって思えば、この老人と再会などしなければよかった。そうすれば彼女のことも、単なる思い出の中に閉じ込めておけたものを。泥濘のようなずぶずぶとした思いが、心底から突き上げるのを耐えながら、平助は運河をみつめた。
セメント工場のホッパー、白煙を噴き上げる製油工場の煙突、タグボートに曳航される艀の航跡、傾きかけた陽にすべてが赤味をおびて映えている。
不意に老人が口をひらいた。
「この風景を眺めていると、南東署にいたころの尼崎を思いだすな」
「けど、空がキレイすぎますわ、あのころの尼は煤煙と埃で工場の止まる正月以外は、晴れててもどんよりしてましたさかいなあ」
平助の言葉に、老人は黙って口もとに笑みをうかべた。
そろそろ、引き揚げるか、平助がそう思ったときだった。
「恩地さーん」
振り向くと、美和がこちらへやってくる。二人が遅いので、様子をみにきたらしい。
「いつまでもこんな所で、なにをしてたん」
近づくと美和は、そう言って老人と平助の顔をみくらべた。
「よく、ここがわかったな」
答える老人の表情が、美和をみてほっとしたように緩む。
「車椅子を押して、恩地さんがエレベーターに乗るのがモニターに写っていたと、司令室の職員が話しているのを聞いたものやから」
そう言いながらも美和は、二人が長いこと岸壁にいたのが、まだ腑に落ちない顔だ。
「お祖父さん、久し振りに外出して正解や、だいぶ元気がでてきたようやで」
車椅子の向きを変えた平助は、美和に囁いた。
「祖父ちゃん、恩地さんに連れて出てもらって、よかったわねえ」
美和は嬉しそうに、老人に顔を近づけて話しかけた。
「さあ、いきまひょか」
平助はそんな二人に声をかけ、ゆっくりと車椅子を押し始める。美和は肘掛けをもつ老人の右手に、そっと自分の手をかさね並んで歩き出した。
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