「こんにちはー。初めまして、HIROでぇす」
私は営業スマイル全開であいさつした。ドアを開けた四十歳くらいの男性は、嬉しそうに私を部屋の中に案内してくれた。すでにガウン姿で、白い筋が目立つ頭髪はまだ乾ききっていない。
三〇二号室はここのホテルで二番目に安い部屋だ。手前には所狭しとソファやテーブルやテレビなどが置かれ、奥のほうに大きなダブルベッドが控えている。テレビからは白人女のあえぎ声が流れてくる。
私はゆっくり服を脱ぎビキニ姿になった。男はいつの間にかガウンを脱ぎ捨て、全裸でベッドに寝そべっている。ゆるんだ腹の肉が私を悲しい気持ちにさせる。
「なんて、呼んだらいい?」
私はベッドの縁に腰かけながら、男の胸に手を置いた。そのまま、ざらつく肌をなでる。
「なんでもいいよ。君はヒロちゃんっていうんだ」
「そう、アルファベットでHIROよ」
私は男のたるんだ体を粘っこく撫でる。
「学生?」
「うん、でも未成年じゃないわ。親元で暮らしてるんだけど、お小遣い足りなくてぇ」
私は頭の足りない女子大生みたいなことを言いながら、男の乳首に舌をあてる。手は下半身のものを握った。ゆるんだ体とは反対にそこだけ元気がよい。
舌先で引っかくように乳首を舐めると、男は息をつまらせた。固くなった乳首を執拗にいたぶりながら、下半身の柔らかい二つのたまを優しくもむ。そのまま、体を下の方にずらし、男の股に顔をうずめた。ペニスががまの穂みたいに屹立している。
「すごーい。こんなの口におさまらないよぉ」
私は、まるで金魚のひれが揺らめくように、舌をその根元にまつろわせながら言う。男は満足そうに私の頭に手をおいて促した。それに応えるため、私はゆっくりと下から上へ丹念に舌を這わす。先の部分をくわえ舌を動かした。男のものがピクンと痙攣する。だが、体は愛撫にゆだねきっている。私は嬉しくなって、もっと深くくわえた。
あと十分ほどフェラをしてあげよう。そうしたら攻守を交代しよう。
デリバリーヘルス、六十分コース。本番はない。
ホテルを出て時計を見ると、八時になるころだった。私はネオンがうるさいほど瞬くホテル街を抜け、駅に向かって小走りした。今夜は社長が家に来る。早く部屋に戻らなければ。
ホームに滑り込んできた電車に乗ると、私はホッと一息ついた。辺りを見回す。
平日のこの時間は少しすいている。会社が終わってすぐ帰宅する人はもう少し前の時間に、ショッピングに立ち寄ったり飲みに行ったりする人はもう少し後の時間に乗るからだ。一年前まで私もそうだった。今は……。
暗い外を映す窓ガラスを鏡に見立て、つり革につかまった自分の姿を見つめる。
頭の上に無造作に束ねられた茶色い髪。ラビットファーを使ったピンクのショート丈ジャケット。白いウールのプリーツスカートからは膝頭がすんなり見え、その下にウェスタン調のブーツが全体のバランスを壊さぬ程度に野性味をだしている。腰から下がるウエストポーチは大好きなブランドのマークが並んだ皮のポーチ。
前に座る男がチラチラと視線を投げかける。私は気づかないふりをして、ジッと外の闇に目を向けていた。
最寄の駅で降りるとコンビニに駆け込む。とりあえず冷奴があれば社長は満足する。私は豆腐を買うと足早にマンションに向かった。
下町の雰囲気が残る古い住宅街は外灯がとぼしかった。そこを五分ほど歩きつづけると急に明るい光が目に飛び込んでくる。私が暮らすマンションだった。エントランスに高くそびえる何本もの照明が、五階建ての建物を蜃気楼のように浮き上がらせていた。
「ヒロ?」
マンションの敷地に入ろうとしたとき、すれ違った人に急に呼び止められた。私は驚いて振り向いた。
小柄な女性が立っていた。明かりを頼りにその顔を見定める。黒髪のショートカットにフランス人形みたいに目鼻だちのはっきりした色白の顔。
「……きょうか?」
私は疑わしげにつぶやいた。白い息が口から漏れる。たぶん、その声は彼女に聞こえなかったに違いない。しかし、彼女は私の反応を見て、安心した様子で近寄ってきた。
「ものすごく久しぶり。元気だった?」
親しげな口調と愛らしく整った顔は中学時代の記憶とすぐに結びついた。全然変わっていない。十五歳の佐藤響花が目の前にいるようだった。
「ここに住んでるの?」
彼女は目の前のマンションを見上げた。つられて瀟洒なタイル張りの壁を見る。
「今、何してるの? 昔、デザイン会社に勤めてるって聞いたけど、まだ働いてるの? それとも、専業主婦?」
私はあいまいに首をかしげた。どう対応していいか分からず、苦しまぎれに腕時計をチラッと見やった。彼女は敏感にその所作に気づいたようだった。
「私、近所に引っ越してきたんだ。また今度、お茶でもしよ」
きれいに口角をあげて笑顔をつくると、手を振って立ち去っていった。私は一言も彼女に声をかけることができなかった。
「今日、マンションの前で中学んときの同級生に会った」
夕食後、私はオープンキッチンのシンクで洗い物をしながら、ソファに座っている社長に話しかけた。
社長は私が部屋に戻って急いで夕食の準備をしているときにやって来た。豆腐に小口ネギとショウガのすりおろしとカツオ節をのせて、料理ができるまでのつなぎにしてもらう。
トリ肉のガーリックソテーにグリーンサラダに即席のコンソメスープという簡単な食事のあと、社長はワイングラス片手にゆったりと寛いでいた。手持ちぶさたにグラスを軽く揺すっている。赤黒い液体が透明のガラスの中をクルクルと回っている。
「こんなところで会うなんて珍しいんじゃないか」
「案外、こっちに移り住んでる子もいるみたい」
私の生まれ育った町はこの街から車で一時間ほど離れた場所にあった。ベッドタウンとか衛星都市とかいうのかもしれないが、私にとってはただの古びた田舎くさい町という印象しかない。一地方都市であるこの街だって中心部の繁華街以外は十分古ぼけていた。
私は濡れた指を折りながら数えてみる。右手の指が全部握られた。小指を再びあげるかどうかで迷ってしまう。
「何年ぶりで会ったんだろ。いつかの同窓会で会ったんだけど」
「おまえは同窓会に行くようなガラじゃないだろ」
社長がからかうように言った。水道の水を止めて言い返す。
「昔はもっと純粋でロマンチストだったの」
自分で言いながらも笑ってしまう。ロマンチストだって。社長もつられて笑った。
「ヒロはバリバリの現実主義者だよ」
私は手をぬぐうとキッチンからリビングに向かった。社長の隣に座る。彼は私にもワインをついでくれた。グラスの足を持って軽く回す。濃いルビー色の液体は見た目の華やかさとは違って、重たく湿った土のような香りがした。
「たしか、響花が結婚したばかりのときに会ったのが最後だと思う。六年まえくらいかな」
「俺と出会う前のことか」
社長の言葉にうなずく。彼に出会ったのは私が二十五歳のとき、今から二年前のことだ。
短大を卒業したあとに勤めたデザイン制作会社は不況のあおりを受けて潰れてしまった。そのあと、知り合いの紹介を受けて、社長が経営する映像制作会社に再就職したのだ。
四十になったばかりの社長は、映像の才能よりも営業の手腕の方が高く、業界でやり手とウワサされていた。長身痩躯に仕立てのよいジャケットをラフに着こなし、いかにも若手の起業家然としている。なので、女性からは人気があり、想像に違わず女性に手を出すのも早かった。
たいした事務仕事もできず男受けのよさだけで会社内を過ごしてきた私が、社長と関係を持つのに時間はかからなかった。社長は私の言うことを聞いてくれ、欲しいものは何でもくれた。私は与えられるがままに受け入れてきた。
「ロマンチストのヒロにも会ってみたかったな」
私は社長の手からワイングラスを取るとローテーブルの上に置いた。
「じゃあ、今の私は嫌い?」
体を寄せて彼の耳元でささやく。片腕で力強く抱き寄せられた。肉つきの薄い胸板が私の体を支える。頭の中で今日会った男と比べてしまう。
同じくらいの歳なのにあの男は鈍重な体つきだった。私を感じ取ることのできない鈍い体。
社長は少しだけ違った。細身の体は抱きしめると両腕に収まってしまう。守ってあげたくなる。だが、骨と筋肉の硬い感触が私の侵食を拒んでいるようで鋭かった。私を突き放す石のような体。
どんな男も似たようなものだ。
私は社長の頭に手を回し、頬やまぶたや唇に自分の唇をおろす。
ソファの横に置いてある水槽の照明が妙に現実味を帯びてうるさい。私はキュッと目を閉じた。
社長は私を抱きあげると寝室にむかい、ベッドの上にそのままなだれ込んだ。私にのしかかり、乱暴にキャミソールとブラジャーをたくしあげ、乳房をむさぼる。その獣のような強引さが気持ちよい。尖った乳首を甘噛みされ、私は身をこわばらせる。声をもらした。
社長はそれを聞いて、より気を昂ぶらせたようだった。私の下半身に手を伸ばし、下着だけを脱がせる。スカートを身につけたまま、太ももを開かせた。
数時間前に名も知らぬ男の指でいじられたヴァキナに、今は社長が舌を這わせている。ナメクジがからみあうような湿った感触と音。皮膚をつたって流れ落ちていくしずく。甘い電流が走るたびに頭の中が白くなる。
急に、さっき目に入った水槽を思い出した。緑の藻の中へ鈍重に身をうずめている金魚。
私は目をつぶった。意識にふたをする。与えられる刺激が体の奥を熱く震わせ、あえぎ声が止まらない。より多くを味わうために、感覚だけを研ぎすまし、ベッドに身を沈めた。
寝室は、昨夜の熱い戯れがウソのように穏やかだった。社長はとうに出勤してしまっている。私はゆっくりとベッドから起き上がると、カーテンを開けた。すでに太陽は真上に近づいている。窓を開ける。冷たい空気が流れ込んできて、キャミソールからはみ出た肌を刺した。
私は窓枠にもたれて外を見渡した。周りの家々の屋根が町全体を押さえ込んでいるように見える。青空の下にくすんだグレーの瓦の波。下に目を落とすと、きれいに手入れされたマンションの庭でさえ茶色く冬枯れしていた。
私は身を震わすようにして窓を閉めると、冷え切った寝室をあとにした。
リビングには陽射しが容赦なく入り込んできて無闇に明るい。キャミソールにデニムのホットパンツを身に着けた格好でフローリングの上に寝転がった。床暖房がついているし、日の光も浴びているので、今が真冬だということを忘れてしまいそうだ。
昼過ぎに携帯電話にデリヘルの店長から電話がかかってきた。
「HIROちゃん、今日も来てくれる? HIROちゃんは人気者だから、指名してくるお客さんが多くて。連日お疲れのとこ申し訳ないけどさぁ」
「それなら、給料はずんでくださいよぉ」
「看板娘にそう言われちゃ逆らえないなぁ」
私は夕方に出勤することを告げた。しばらく社長はマンションに来ないから、時間を気にしなくてもいい。
半年前に『好きなときに、好きなだけ』というフレーズに惹かれて、その手の冊子に載っている電話番号をプッシュしたのが始まりだった。入店して一ヶ月で私を指名する客が増えた。リピーターではない男たちだった。
店長が嬉しそうに私を呼び、事務所のパソコンを見せてくれた。デリヘル店に関する口コミサイトだった。デリヘルを利用する男たちが、いろいろな店の感想を書き込んでいた。
「ブルーエンジェルのHIROちゃんは、美人でスタイルもモデル並み。この値段でこんなコが出てくるとは!」
「HIROちゃんはサービス心が旺盛でテクもすごい。思わず延長しちゃいました」
「HIROちゃん、またお金ためて会いに行くよ〜」
携帯電話を切ったあと、そんなことを思い出して私は笑った。どんな男でも私の横にいるためにはお金が必要なのだ。
寝転がったまま、携帯を床の上に滑らせた。思ったよりも遠くに離れ、窓際のクラッスラの植木鉢に当たって止まった。
広すぎるリビングには、ソファとローテーブルのセット、壁際に水槽が一つあるだけだ。テレビもオーディオもマガジンラックもパソコンも何もない現実感の乏しい部屋。白い天井を見上げると、ガラスを散りばめたシャンデリアが真上にあった。いつか私めがけて落ちてくるに違いない。ここで短い人生を閉じるのだろう。勝手な想像をふくらませる。
私は這うように床の上を移動すると、水槽の前に頬杖をついた。
「トト」
私は指先で水槽の表面をつつく。
長さ六十センチほどの水槽には、透けるような白地に赤の斑模様の出目金が一匹泳いでいる。白く半透明な尾ひれや背びれが柔らかく動き、生い茂った水藻のアナカリスがそれと共振するようになびく。おかげで、一匹では大きすぎる水槽も寂しくは見えなかった。
なんとなく中が汚れている。この前、水を取り替えたばかりなのに。私はよくよく水槽をのぞき込んで、思わず声をあげた。
藻に半透明の丸い小さな粒がいっぱい付いている。これは、卵なんだろうか。
金魚を飼うのは初めてで、金魚が一匹でも卵を産むなんて知らなかった。トトがメスだってことも今初めて知った。
一年前、社長がこのマンションを用意してくれたときに、すでにトトはここにいて、今と同じように優雅にひれを揺らめかせていた。
「一匹じゃ寂しいだろうから、次は自分で買い足しなよ」
社長はそう言っていたが、そんな気は起きなかった。買いに行く手間も面倒だし、これ以上世話するものを増やしたくない。
私はどうしていいか分からず、黙って水槽の中を見つめていた。アナカリスが揺れるたびに卵も揺れる。緑色に半透明の玉が映える。きれいだと思った瞬間、鳥肌が立った。
この卵、どうなっていくのだろう。
私は神妙な気分で揺れる玉を見つめた。
「こんばんは。HIROです」
おずおずと開けられた六〇二号室の扉の向こうには、二十歳そこそこの男が立っていた。お客さんが若い男の子なのは気分的に嬉しい。
さすがに女子大生と名乗ると会話の端から年齢の偽りがバレそうな気がする。今回は二十五歳OLということにしておこう。
シャワーから出てきた男は腰にタオル一枚を巻いた姿だった。ベッドの縁に腰かけたビキニ姿の私を品定めするように視線でなめまわす。そして、肩が触れ合うようにして横に座った。
「年上のおねえさんは、イヤ?」
私は男の耳元でささやく。嫌がられる、なんてちっとも思ってはいない。男の視線を十分意識しながら、「ビキニのリボン、はずして」と甘い声でねだった。男は私を抱くようにして後ろの結び目を解く。現れた乳房を優しく両手で包み、そっと顔をうずめてきた。
「俺、年上の女の人、好き。でも、HIROは可愛いから、俺と同じくらいの年に見える」
「そういうこと言ってくれると嬉しいな。サービスしちゃう」
男の膝の間にかがみこむと、そっとタオルを外した。露わになったペニスを乳房の間にはさむ。
「ねえ、知ってる? 金魚は一匹でも卵を産むって」
私は自分の胸を外側から真ん中に寄せる。男が軽く息をもらした。
「……メスだったら、そんなもんじゃん」
「え?」
「ニワトリだって、毎日勝手に卵産むだろ」
昔、家で飼っていたニワトリを思い出した。クックとコッコは二羽ともメンドリで、交互に卵を産んでいた。
そうか、メスは一匹でも卵を産むんだ。
私は手を動かしながらも、頭ではまったく別なことを考えていた。
ホテルからの帰り、駅から出てコンビニの前を通り過ぎると、突然、肩を叩かれた。
「ヒロ、今、会社帰り?」
振り返ると、響花がビニール袋を提げて立っていた。
「うん」
私は言葉少なげに答える。
「そっかぁ、ヒロはずっとOLしてるんだぁ。エライね。結婚は?」
「まだ」
「じゃ、独り暮らしなんだ。よかった、心強いな」
彼女は並んで歩きながら楽しそうにしゃべる。
「地元から一時間くらいしか離れていないのに、この辺ってまったく知らないのよね。知り合いもいないし。一から始めるにはいいかなとは思ったんだけど、まだ馴染んでないから、しゃべる相手もいなくて」
一から? 私は彼女の言葉に首を傾けた。
「あんた、ダンナさんの仕事の関係とかで、東京に住んでたんじゃなかった?」
彼女は不思議そうな表情で、私の顔色をうかがっている。私は怪訝に思って眉根を寄せた。
「知らないんだ?」
彼女は何がおかしいのかクスリと笑った。
「何を」
「地元に帰ったら、みんな知ってて、遠巻きに慰めてくれるのよ。田舎のネットワークってすごいよね。だから、ヒロも知ってるもんだとばかり思ってた」
私はここ一年ほど、実家に帰っていない。地元とのつながりは、たまに母から送られてくるメールしかなかった。
「私、今、独り暮らしてるの」
「なんで? 離婚したの?」
気軽に聞いてから、口を押さえた。こんなにストレートに言葉にしてしまったら、失礼かもしれない。
彼女とは中学の三年間クラスが一緒だったが、同じ仲良しグループではなかった。当時から、響花は誰とでも親しく話せるタイプの子で、クラスの子からも好かれていた。しかし、その長所は、時々私を理由なくイラつかせた。だから、仲が悪いというわけではなく、私が彼女を一方的に避けていたのだ。
「気にしないで」
響花は、立ち止まった私に反応して、さらりと答えた。
「夫が病気で死んでね。一人で東京にいるのも寂しいから、こっちに戻ってきたの」
私は口に当てた手を離すことが出来なかった。こういうとき、なんと答えればいいのだろう。指の隙間から白い息がもれる。
「……ごめん。……いつから?」
「嫌だ、謝らないで。こっちに引っ越して来たのは、一週間前。仕事が決まってね。これで一人でも暮らしていける。ヒロはこっちに住んで長いの?」
彼女はおもむろに歩き出した。私もそれについて行く。
「一年くらい経つかな」
ふーん、彼女は白い息を長く吐き出す。
「じゃ、それまでは実家に住んでたんだ? 実家からこの街に通勤してたの?」
「そう」
「デザイン会社で何やってるの? 絵を描いたりしてるの?」
私は彼女の顔に視線を投げつけた。どうして、彼女は私が答えられないことばかり話すのだろう。
「あんたには関係ないでしょ」
私のつっけんどんな言い方に、響花は少しひるんだようだった。歩みが一瞬止まる。だが、次の瞬間、何事もなかったかのように歩き出し口を開いた。
「今はそこに住んでるんでしょ。何階?」
彼女が指を差す。その一角だけホッコリと明るい。瀟洒なマンションの庭に灯された照明が、そこを隣接する住宅地から際立たせていた。
「五階」
「わぁ、最上階。結構いい値段するでしょ。私、今の部屋を借りるとき不動産屋でこのマンションも見たのよ。私の安い給料では手が届かなかったわ」
私は口をつぐんだままだった。私はこのマンションの家賃がいくらなのか知らない。知ろうと思ったこともない。女一人で住むには分不相応な部屋なのかもしれない。
「あんたはどこに住んでんの」
自分の話はしたくなかったので、仕方なく彼女に問う。
「私はここから十分くらい行ったところ。緑公園の横のハイツの二階」
行ったことのない場所だった。ここに住むようになってから、駅とマンションとの往復しかしていないことに今更ながら気がついた。
「昼間は仕事に行ってるけど、夜や休日はいるから、いつでも遊びに来て」
響花はコンビニのビニール袋を持ち替えた。ガサガサと耳障りな音が夜道に広がる。自由になった手に息を吹きかける。白いもやが彼女の顔を包む。私は黙ってその様子を見ていた。
「それじゃ」
響花は手をあげて立ち去っていく。気づくと私はその後姿に声をかけていた。
「金魚が卵産んだんだけど、どうしたらいい?」
突拍子もない質問に振り向いた響花は、とまどった顔をしていた。
「金魚?」
「そう、飼ってる金魚、メスだって知らなかった」
私の支離滅裂な言葉とは裏腹に、響花の答えは端的だった。
「親とは別の水槽に移し変えたほうがいいよ」
「別の?」
「そうじゃないと、卵が孵るまえにやられちゃうから」
何故、彼女にこんなこと聞いているのか。自分でも分からなかった。
水槽を覗き込む。
卵は相変わらずアナカリスの緑に抱かれるようにくっついていた。トトが水藻の周りを泳ぐせいか、塊から離れてしまったものもある。いくつかは、ガラスの壁面に引っ付いていたり、下の小石に沈んでいたりしていた。
昨夜、響花に言われたとおり卵を移し変えるため、ふたを開けた。水藻をついばんでいたトトは驚いてせわしなく水槽の中を泳ぎまわる。
私は水の中に手を入れる。ひんやりした感触が腕を包む。トトの尾ひれが慌しく触れた。
卵が絡みついたアナカリスを根ごとすくい取る。水滴をしたたらせながら隣の容器に移す。予備の水槽がないので、バカラの花瓶に小石を敷き水を汲み置きしておいた。
透明の花瓶の中にたたずむ緑色の水藻。その影に半透明の玉がひっそりと付着している。花瓶と藻と卵。それらは一体化した一つのオブジェのようだった。
私は床に寝転びながら、その造形物を眺める。
藻は生きている。花瓶は生きていない。では、卵は? この中に生命が眠っているのだろうか。
濡れたタオルを洗濯かごに入れるため立ち上がった。と同時に、腹部の奥から陰門へとドロッとしたものが伝わり落ちる感触があった。
もう一月経ったのか。
私はお腹をさすりながら、花瓶と卵を振り返った。目の端に、半透明のひれがいやらしく蠢いているのが映った。
この数日間はデリヘルの仕事をすることができない。私は、キャミソールにホットパンツ姿でリビングに寝転がりながら、爪を磨いていた。滑るような爪の表面にワインレッドのマニキュアをゆっくりと塗っていく。それが乾いたら、トップコートを上に塗る。手の指が終わると、次は足だ。
足の爪を乾かしながら、壁際に並ぶ花瓶を見た。
緑の藻が静かにたたずんでいる。卵は葉陰にあるものの半透明のもやみたいなものに包まれて、一つ一つの粒の形が不明瞭だった。
私は横に視線を移した。水藻のなくなった大きな水槽に金魚一匹だけではあまりにも寂しく見えた。元気づけるために、ガラスの壁面を指で突っついてみた。だが、トトはそんなこと気にも留めず泳ぎまわっている。小石の上などを目を凝らして見てみたが、移し損ねた卵たちはどこにもなかった。
腹の奥から滲みでる鈍痛が少し重たくなる。私はうつぶせから横向きになった。お腹をかかえるように体を丸める。窓の外の灰色の空をじっと眺めた。
この部屋は居心地がいい。この部屋は私を甘やかす。私はもっと自由のはずなのに。
コンビニに行ってサンドイッチでも買ってこようと、長袖Tシャツの上に黒のロングニットカーディガンを羽織り、ファーマフラーを巻いた。
外は曇り空のためか案外暖かい。薄い雲の合間から太陽が白く透けている。
マンションの敷地から道路に出て足を止めた。コンビニとは反対の方向を見る。ここから十分……響花の言葉を思い出す。私は軽い気持ちで行ったことのない方向に歩きだした。
道に沿って単調な住宅街が続く。庭先に山茶花の花びらが散り落ちていたり、門の影で犬がほえていたり、軒下に洗濯物が下がっていたり、所帯じみた町並み。育った田舎町とよく似ていた。
しばらく進むと、右手の家並みの一部がポコッと切り取られたように空いていた。そこが公園だった。すべり台とブランコと鉄棒だけの小さな子供の遊び場。
私は隣家の塀にサッと身を隠した。
公園には一組の女性と子供がいた。その女性が響花に見えたのだ。私は塀の陰から様子をうかがった。
子供はまだヨチヨチ歩きで懸命に女性のあとを追いかけている。女性は立ち止まってかがみ、腕を広げる。子供は無心に突き進み、勢いよく女性の腕に飛び込んだ。二人の笑い声が聞こえる。
それは響花ではなかった。
彼女は独り暮らしだと言っていたじゃないか。私は自分の慌てぶりが可笑しく思えた。
それでも、私はその母子と思しき二人の幸せな時間を壊さないように身を潜めていた。
しばらくして、母子は手をつなぎながら公園の向こう側に消えていった。これからお昼ご飯なのだろう。
私はゆっくりと公園の中に入る。腰の高さまでしかない鉄棒に両腕をついた。辺りを見回すと、公園の先に二階建てのアパートがあった。他は一軒家ばかりだ。響花はあそこに住んでいるのだろうか。平日のこんな時間は会社に行っていて、部屋にはいないだろう。そう思うと安心した。
安心したため気が大きくなった。部屋の前まで行ってみることにした。アパートの二階には四つのスチール製のドアが等間隔で並んでいた。ドアの横にはみな律儀に表札を掲げていた。しかし、佐藤の文字はどこにも見当たらなかった。一階の表札も調べてみたが、そこにもなかった。
ここにいるのが当たり前の心持ちで来たので、狐につままれたような気分になる。もしかしたら、アパートを間違えているのかもしれない。もしくは、私みたいに他人名義の部屋に住んでいるのかもしれない。
そこまで考えて、私は彼女の結婚後の名字を覚えてないことに気がついた。もう一度、二階に上がって表札を見てまわる。昔に聞いたはずだが、まったく思い出せなかった。
彼女は今も亡くなった夫の姓のままで暮らしているのだろうか。それとも、一から始めると言っていたとおり、名前だけでも旧姓に戻っているのだろうか。
突然、携帯電話がなる。社長からのメール着信音。
私は考えることをやめ、おもむろにホットパンツのポケットから携帯を取り出す。『今夜行く』電報のように短い文章が表示されていた。
「やっぱり、ハワイはいい」
そう言いながら社長は紙袋を私に手渡した。中を開けると、ブランドのロゴが並ぶバッグだった。
「ありがとう。わあ、新作だ」
私は紙袋から取り出すと、バッグを肩にかけ雑誌のモデルみたいにポーズを取った。胸元まで深く開いたUネックのピンクのニットに紺のスキニージーンズ、白のバッグ。鏡なんか見なくても分かる。私にぴったり似合っている。社長が満足そうに目を細めた。
「ヒロは何を身につけても様になるから、買いごたえあるな」
私は無造作にバッグを床の上に置いた。社長に身を寄せて、上目遣いで見上げる。
「じゃ、次は何をねだろうかな」
「おいおい、さっそく次のおねだりか。それだったら、今度一緒にハワイに行くか」
社長は笑いながら屈託なく誘った。
「嫌よ。だって、奥さんの実家の別荘なんでしょ。なんか気兼ねしそう」
即座に断る。リゾート旅行なんか欲しくない。この部屋にずっと居られれば、それで十分だ。
私はリビングを見渡した。つられて社長も首をめぐらす。
「相変わらず何もない部屋だな。女の子なら雑貨とか雑誌とか置いてありそうなもんだろ」
「いいの。私、ごちゃごちゃ飾られた部屋って嫌い」
「だからって、さすがにテレビやパソコンは必要だろ。おまえ、毎日この部屋にいて退屈じゃないのか? テレビくらい買ってやる」
「別にいらない」
「服やバッグや化粧品は遠慮なく欲しがるくせに。ヒロは変わってるよ。そんなやせ我慢してると本当に買ってやらないぞ」
服やバッグや化粧品は私を引き立ててくれる。私に満足感を与えてくれる。テレビなんかが私の役に立ってくれるとは思えない。
「本当に欲しいものがあったら、自分で何とかする」
社長は私の言葉を聞いて鼻で笑った。侮蔑と憐憫が混ざったような鼻息。この囲われ女が自分で何ができるというのだ、と目が語っている。
「あの花瓶はなんだ? 中に草みたいのが入ってるけど」
社長は唐突に話題を変えた。
「卵が入ってるの。トトが産んだ卵」
「へぇ、その金魚メスだったんだ」
彼は片手で花瓶を持つと、目の高さまで持ち上げた。
「で、このドロンとした中に卵が入ってるの?」
私も横からのぞきこんだ。昼間見たときよりも半透明のもやが広がっていた。卵の粒らしいものはまったく見えない。
「これ、腐ってるんじゃないの」
社長は事もなげに言った。
「うそ、なんで腐るの? もう生まれてこないの?」
食らいつくような反論に、彼は驚いた顔で私を見返した。
「なんでって、これ無精卵だろ。スーパーで売ってる玉子だって放っといたら腐るのと一緒だ」
下腹部の内臓を絞るような疼痛に襲われて、私はお腹を抱えて顔をゆがめた。ヌルッとした液体が膣を通りぬける。
私は社長の手から花瓶を奪うと、トイレに駆け込んだ。白く濁った液体を便器に投げ捨てる。緑の藻と小石も便器の底に張りつく。ためらいもせず水を流した。みんな下水管の中に落ちていくのだろう。
私は花瓶を床に放ったまま便器に座り込むと、お腹を抱えた。
すっかり暗くなった空の端に、満ち始めた月が浮かんでいる。月光が余計に寒さを募らせた。
私はマンションの塀にもたれて、響花が通りかかるのを待っていた。昨日の夜は会えなかった。今夜こそは捕まえたい。
駅の方から、見覚えのある人影が歩いてくる。
「響花」
私から声をかけた。
「ヒロ、どうしたの」
彼女は白い息を出しながら駆け寄ってきた。
「あんたのせいで、私、バカ見たじゃない」
私の言葉の意味に見当がつかないのか、彼女は口を軽く開けたまま目を大きく見開いた。
何の説明もされずに私の部屋に引っ張られてきた響花は、私が指差す水槽を見て戸惑いながら声を出した。
「もしかして、もう片方、死んじゃったの?」
「違う。もともと一匹なの」
私の返答を聞いて、彼女はますます戸惑いの表情を見せた。
「じゃあ、産まれた卵って……無精卵だったわけ?」
「そう。私、あんたの言うこと聞いて、わざわざ別の入れ物に移したのに。とんだお笑い種よ」
私が響花を理不尽に責めていると、彼女は笑い出した。
「だって、普通ツガイの卵だと思うじゃない」
「有精卵とか無精卵とか普通は考えないって。卵といったら子供が生まれてくるもんでしょ」
彼女は笑いを収めてから言った。
「昔、ヒロん家でニワトリ飼ってたじゃない。その玉子孵らなかったでしょ」
急に実家のことを話されて、私はびっくりした。確かにクックとコッコは玉子を産んでいたが、そこから雛が産まれてくるとは考えたことがなかった。食べるための玉子だと、家族全員が思っていたに違いない。
「なんで、うちにニワトリがいたこと知ってんの?」
私の的のずれた質問に、彼女は少しはにかみながら答えた。
「中学の時、私バド部だったじゃない。体力つけるために、早朝ランニングしてて。ヒロん家の前も通ってたのよ。いつもニワトリが鳴いてるの聞こえてた」
クックとコッコは早朝から騒がしかったらしい。だが、私はあまり覚えていない。毎日気づかずに寝ていたからだ。
「私もニワトリ欲しいな、と思ってさ、一度ヒロん家の玉子を盗ったことがあるのよ」
クラスメイトが早朝、鳥小屋に手を突っ込んでいる姿を想像することは今でも昔でも難しい。
「その玉子、暖めてみたんだけど孵らなかったの。最後に割れちゃったんだけど、中身が青黒くなってた。すっごく臭かったし」
「それって、立派な泥棒じゃない。響花がそんなことしてるなんて知らなかった」
私は彼女の昔話を聞いて少し落ち着いた。急に昔の記憶がよみがえってくる。たまに、朝から父親が怒っているときがあった。「あのニワトリどもめ、毎日片方ずつしか産まないだけでも厚かましいのに、どちらも産まないとはどういうことだ」私はそれを聞くたびに、大人げないなと思っていた。そんな日のどれか一回は、響花のせいだったのだ。
「ごめんなさい」
いきなり彼女がポソリと謝った。
「昔、玉子一つ盗ったことなんて、もう時効。謝らないで」
「そっちじゃなくて、金魚の卵の方。もっと、ちゃんと事情を聞けばよかったね」
殊勝な彼女の言葉を聞いて私は首を横に振った。あのとき、私が彼女との会話を快く思っていなかった。早目に会話を打ち切ったのは私のせいだ。
「あんまり、あれこれ話したくなかったから」
私は彼女から視線をはずして言う。
広い水槽の中でトトが静かにひれを揺らしている。白く透きとおった皮膚に赤の斑。色味のない水槽の中で、その赤だけが精彩を放っていた。メスにふさわしい綺麗な色。
「ヒロはここに一人で暮らしてるの?」
響花が落ち着いた声で話しかける。私は部屋全体を見渡しながら答えた。
「そう。この部屋で飼われてんの」
「飼う?」
「以前に働いてた会社の社長の愛人になっちゃったの、私。マンション借りてくれて、生活費もくれて、働かなくてもいいし、欲しいものは何でも買ってくれる。あれもそう」
私は床に置かれている白いブランドのバッグを指した。
「まだまだ、いっぱいある」
私は寝室のドアを開ける。付属のウォークインクローゼットを彼女に見せた。
「うわ、すごい」
響花は声をあげた。天井まで細かく仕切った棚にはブランドもののバッグがビッシリと積んである。洋服掛けにはファーのジャケットからシルクのワンピースまで所狭しとかけられている。ついでに、寝室のチェストの中身も見せる。引き出しいっぱいの時計とアクセサリー。外国製の高級化粧品。
次第に響花は無口になっていった。私だけがしゃべっている。あのワンピースはハリウッド女優が着ていたのと同じデザインだ、このネックレスは限定品でもう手に入らない、その化粧水はフランスから直輸入されたものだとか、どうでもいいことばかり。
どうしようもなくなって、私は口を閉じた。ベッドの縁に座り込む。シーツから一昨日の社長の匂いがして気持ちが悪くなった。
「楽に暮らして、たくさんの物に囲まれて、ヒロは幸せなんだね?」
響花の声はとても優しかった。私は答えられない。
部屋を出て行こうとする彼女に私は尋ねた。
「響花の今の名前はなんていうの?」
彼女はにっこりと微笑む。その名字は確かにあのアパートの表札の中にあった。
焦げくさい。
私は覚束なげに身を起こした。あのままベッドの上で眠ってしまったようだ。
どこからか燃えている臭いがする。カーテンをめくった。窓の外一面が灰白色の煙に覆われている。夜目にもかかわらず、蒸気みたいなものが湧き上がっているのが見えた。
驚いて窓を開け、下をのぞき込んだ。真下の部屋の窓の隙間から絶えることなく煙が立ち上ってくる。窓越しに赤いものがちらついているのが見えた。息をのんだ瞬間、体の中に有害な気体が入り込み、私はむせながら部屋に戻った。勢いよく窓を閉める。
床に座り込んで荒い息を何度も繰り返す。体の中に新鮮な空気を送り込む。
お尻や脚がじわじわと温かい熱気に包まれていく。
私の下に真っ赤な炎が燃えさかっている。波のようにうねり雷のように轟き、私を飲み込もうとしている。下半身を炎に包まれながら、顔を上げ部屋の中を見渡す。私はここで死んでいくのだろうか。視界に揺らめく緋色が何かを思い出させた。
両手をついて腰をあげた。炎なんて錯覚だ。まだ、フローリングはしっかりしている。私の足も動く。熱せられた床をはだしで歩いた。
私は寝室を抜けてリビングの端に向かう。
トトは静かに尾ひれを揺らめかせていた。
ふと、響花のことを思い出した。
夫と住みなれた家を離れるときに、彼女は何を持ち出していったのだろう。それは、今も彼女のもとに残っているのだろうか。別れがけに見せた彼女の笑みが胸中によみがえり、はやる鼓動を落ち着かせた。
私は水槽のふたを取り外す。水中に手を入れ、エアポンプを投げ捨てる。トトが慌てたように泳ぎだした。
私は両手で水槽をかかえると、蒸し風呂のような部屋をあとにした。
「ヒロ!」
マンションから少し離れた路上に座り込んでいると、私を呼ぶ声が聞こえた。顔をあげると、響花が素足にサンダル履きで私のもとに駆け寄ってきた。
「なに、野次馬してんのよ」
私は憎まれ口をたたく。
「もう、心配したのにぃ」
彼女は私の肩に手を置くと地面にしゃがみ込んだ。ハーフパンツから伸びたふくらはぎが寒そうだ。しかし、肩に置かれた手は暖かだった。
マンションから噴き出る炎は夜空の月を焦がしそうな勢いだった。それは明るく暖かでこんな冬の夜には妙に魅力的に見えた。消防士が懸命に消火活動を続ける周りで、付近の住人が無意味に集まって眺めている。
「いかにも着の身着のまま野次馬に駆けつけましたって格好してる」
私の嫌味な口調に、響花はうんざりした表情で答えた。
「着の身着のままは、ヒロでしょ」
私は自分の服装を改めて見直した。タンクトップにデニムのホットパンツ。足には玄関に出しっぱなしだったマーブル柄のレインブーツを履いている。ちぐはぐな格好だ。
「部屋から持ち出してきたのはそれだけ?」
響花は私の横に置いてある水槽に目をやった。
「うん」
私の軽々とした返事に彼女は驚いたようだった。「なんで……」と言いかけたまま口をつぐむ。
響花はおもむろに視線を斜め上へとあげる。私もつられて顔をあげた。マンションの五階、私がいた部屋は、煙に包まれていた。時おり赤い波のような炎が窓にちらつく。
「あそこに、私のものなんかないしね」
私は水槽に目を向ける。水が半分くらいに減ったものの、トトは気にすることなく優雅にひれを揺らしながら泳いでいる。透き通るような白い体に浮き上がる赤の模様は、こんなところで見てもきれいだった。
「嬉しそうだね」
響花が水槽をのぞき込みながら言った。
炎に照らされた私の横顔は、たぶん、笑っているのだろう。
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