電車ともだち   奥野 忠昭



 まだ四月、それも朝だというのに 駅のホームはかなり暑い。日差しがきつく真正面から降ってくる。
 私は、ホームの端の方、先頭車両が止まるあたりに立って、掌をかざしながら線路側を見る。
 線路にそって枕木を縦にしたような柱が並び、有刺鉄線が張られている。柱と柱の間からは、急ぎ足で駅に向かって歩いてくる人々の群れが見える。
 腕時計を見る。八時七分だ。あと一、二分で、きっとそこに吉野さんが現れるだろう。
 横を見ると、乗客たちが三列に並んでいて、どの表情にも明るさがない。みんな不機嫌そうな顔付をしている。
 再び前を向くと、思った通りだ。吉野さんが現れる。逆光のため表情はわからないが、真っ直ぐ前を向き、小学生のように両手を振ってやってくる。いつもの紺の背広を着ている。
 突然、列車の到着を告げるアナウンスが始まった。三列に並んでいる乗客たちがいっせいに前のめりになっていく。
 二ヶ月前までは私も今度くる電車に乗っていた。だが、吉野さんが遅れだしたので、彼にあわせるために次の電車に変えた。と言ってもたかだか十分遅らせただけである。
 列の動きに気をとられている間に吉野さんは広告板の後ろに消えた。
 吉野さんとは、昔からの知り合いでも、職場の同僚でもない。いつも同じ電車に乗り、話をちょっと交わすだけの、ただの電車ともだちである。
 最初に声をかけたのは私の方だ。まったく同じストライプのネクタイを締め、いっしょの列に並んでいる男に気づき、親しみを覚えたのだ。
 なんと言ったのかは覚えていない。声をかけると、彼はネクタイを見て、一瞬恥ずかしそうにしたが、彼もまた、親しそうに私に応答してきた。ネクタイは構内の出店で買ったのだと言った。私もそうだった。次の日、お互いに、ネクタイを替えてきたが、それもまた同じだった。以来、四年近く、同じ車両に乗り、とりとめもない話をしている。スポーツの話とか、景気の話とか。だが、プライベイトな話は一切しない。だから、勤めている会社も役職もわからない。家族構成もはっきりとしない。年齢も定かではない。ただ、私の年齢に近いことだけは確かだ。私は先月五一歳になった。定年まであと九年、小さな市の市役所に勤めていて、総務や庶務関係の仕事をしている。
 吉野さんは、私の仕事がわかってから、ときどき「公務員はいいよ。私の仕事に比べれば」と言う。そんなとき私は必ず「それは昔のこと、今は、たいへんなんですから」と答える。ひょっとして吉野さんは自営なのかもしれない。
 そんなことを思い出していると、今度は、自分の仕事のことが思い浮かんできた。
 昨日、朝早く、都心にある上級官庁に行き、最近多発する行政訴訟に関する研修を受けた。難しい法律用語がやたら多用されるので、よく理解できなかったが、何とかわかろうとして必死に努力した。休憩時には、昨日やり残した仕事のため、携帯を使い、工事会社に電話をかけた。「できるだけ早く来てもらえないか、何とかもっと早くしてもらいたい」とさかんに懇願した。「だって、急なものですから、こちらにも予定というものがあるので」「そこを何とか」といった問答を繰り返し、夕方、他の仕事を終えてから来ることを約束させた。前日、一階の市民課の係長から、「大変だ、便所が詰まって、水が溢れている」という連絡が入り、慌てて見に行くと、男性用のトイレがすべて壊されていた。誰かが金属バットのようなもので、たたき壊したような形跡があった。それも三箇所とも。早速、使用禁止の張り紙を貼らせて、工事会社に電話をしたが、日程があかないということで、二日後ということになった。だが、夕方近く、今度は課長から電話があった。「何とか早くなおしてくれ、明後日では遅すぎる。すでに市民から苦情が出ている。トイレを放っておくのは市民をないがしろにしていることや、知り合いの議員にいいつけてやると言って、うるさい議員の名をあげとるんや。明日、直してや。そんなことぐらいよう交渉せんようやったら無能課長って言いふらすで」となじられた。最近の機構改革とかで庶務課が廃止されこんな仕事まで、こちらに回ってきた。何でも総務にやらせようと上は思っているらしい。課員は課員で、課長が人がいいから何でも引き受けてくると言っている。
 研修を終えると、慌てて役所に帰った。広報誌の最終チェックをしておかなければならない。少しでも問題を起こすような記事があればたいへんである。神経を尖らせて読んだ。途中で、若い職員があわててやってきた。「えらいことです。午後三時から民生委員の会と区長会があるが会議室がダブルブッキングになっています」と言った。ちょっとしたミスらしい。何とかしなければ。隣の図書館に電話してもすでに会議室は予約済みだ。仕方がない、書類保管室の少し広いスペースを使って会議室の代理をさせねばと、係の職員を連れて早速、いろんなところから椅子やテーブルを集めて、臨時の会議室を作り上げた。民生委員の会はそこでやってもらうことにする。だが、きっと会長は文句を言うだろう。何でわしとこは書類保管室で、区長会は会議室なんやと。謝るより他手がないと腹を決めた。助役から、人員削減の件、もう片がついたか、と電話がかかってきた。組合がなかなか頑固で、まだ納得仕切れていません、もうちょっと待ってください、と言った。何をもたもたしている。そんなことで、総務の課長が勤まるか、もっとがつんとやれ。今、組合は一番力の弱いときや。市民は行政側についとる。組合長を脅せ。なんかネタないのか、例えば女のこととか、と言った。ええ、と力なく答えると、ここ数日中に何とかせんと次の移動でどこへとばされるかわからんよと脅しを受けた。まあ、削減人数を少し減らすことで組合のメンツを立てて、折り合いをつけるしかしかたがないと思っている。だが、その後が面倒だ。どこの課を少なくするかで、また、一悶着しなければならない。その後、ゴミ処理に関しての他市からの視察団の受け入れの準備。これも環境課長からえらい小言をうけた。俺たちの仕事はゴミを集めることで、お客さんの接待をすることではないと。したいのなら勝手にやれとなじられた。そこを何とかと言ってなだめ、説明してくれることを取り付けた。夕方、便所の工事を見届け、慌てて、葬儀会館へ。福祉課長の母親のお通夜。やっぱり顔を出しておかないとわるい。それからもう一度、職場へ帰った。今度の定例議会へ提出する案文の検討。きっちり仕上げておかないと助役からまた文句を言われる。帰宅は午後十一時。
 何も仕事の不満を言っているわけではない。多くの仕事はこんなものだ。最近、教頭をしている友人が過労で倒れたと言ってきた。行政改革とかで人員がやたら減らされ、仕事の量はそのままである。しかし、これも時代の風潮、どこともやられていることだ。民間はもっと厳しいかもしれない。それに、公務員にはリストラがないし、倒産もない。けっこういいほうではないか。
 また、家庭の方だってうまくいっている。文化住宅で一人暮らしをしていた母が亡くなったり、ひとり娘が結婚して家を出て行き、女房は勤めている会社で、成績がいいということで、重要な立場に就かされ、帰りが遅くなり、会話らしい会話をほとんどしなくなった。寂しくはなったが、この年ではそんなことはたいしたことではない。
 ただ、朝、電車を降りて、仕事場に向かう途中、ふっと身体全体がざわめくようなへんな気持になる。心の芯が何かを求めて蠢いているような。
 電車はしこたま人々を詰め込んで重そうに駅を出ていった。プラットホームは一瞬静かになり、乗り遅れた乗客が残念そうに電車を見送っている。
 階段から吉野さんが現れた。白いワイシャツに濃紺のネクタイ。ただ、シャツの上のボタンがはずれ、結び目がそれより下にずれている。
「やあ、やっぱりお先にご到着ですね」
 吉野さんは、頬の両脇にハの字形の皺をよせて笑った。
 乗客たちはまたも増えだした。数分も経たないのに、プラットホームは人でいっぱいになった。
 私たちは三列の真ん中あたりに並んだ。
 ここまではいつもといっしょだ。だが、後が違う。今日は、私は役所には行かない。休暇をとったのだ。吉野さんの誘いに乗って、これから彼といっしょにどこかへ行くのだ。
 一昨日、二時間あまり残業をして、帰りの駅にやって来たとき、後ろから肩をたたかれた。振り返ると吉野さんがいた。
 行きの電車はほとんど毎日顔を合わせ、いっしょに電車に乗って、話をするのだが、帰りはまちまちなので、めったに会うことはない。だが、一年に数回はそういうこともある。たまに、ホームで出会ったとき、駅の喫茶店に入ってお茶を飲み、しばらくとりとめもない話をする。
 だが、その日、吉野さんは私を喫茶店に誘わなかった。すぐ、横に並んで、しばらく黙って佇んでいたが、意を決したような緊張した声を出した。
「あんたとこ、年休を取るの、難しいの?」
 突然のことで、いったい何を言い出すのだろうといぶかりながら、何も答えず、彼の顔を眺めていた。
「かなり難しいのですか」
 またも同じことを繰り返した。少し落胆の様子が伺えた。
「いいや、それほどでもないけれど」
 何も考えずに答えた。
「休暇、ぜひとってくれませんか。明日ってことではあまりにも急だから、明後日ならどうです。私にちょっと付き合ってくれませんか」
「付き合う?」
「行ってみたいところがあるんですよ、あなたもどうかと思って、なんか、渡辺さんって、最近疲れているようだから」
「疲れている?」
 これもまた驚きだった。それは私が吉野さんに感じていたことではないか。ここ二ヶ月ほど、以前の吉野さんと少し違っていた。疲れているというか、緊張しているというか。ときどき、私の喋ったことに答えないことだってある。
「いいところがあるんですよ、渡辺さんを一度そこへ連れて行きたくて」
 そう言うと、顔を伏せて、くっくと笑った。その時だけ、何だか生き生きとしていた。
「いいじゃないですか、一日ぐらい」
 今度は詰問口調になった。
 そう言われればそうだ。一日ぐらい休んだって罰は当たらない。女房にも知られず、仕事場にも知られず、わけのわからないところをうろつくのもいいかもしれない。ただ、吉野さんはなぜわざわざ私を連れて行こうと思ったのか、そこのところがもう一つよくわからなかった。
 その時、帰りに寄った例のホームにある喫茶店での吉野さんが漏らしたひとことが気になった。
「人ってさ、せっぱ詰まったとき、自分の本当に行きたいところがわかるんじゃないですか」
 私が「自分が本当に行きたいと思っているところがわからない」と言ったとき、そう答えたような気がする。そう言えば、私は、時々、自分が本当に行きたいところがどこなのか知りたいと痛切に思うときがある。そこに行けば身体の細胞まで反応しそうなところ。
 では、吉野さんは自分の行きたい場所が見つかったのか。それを私に伝えたいのか。
「ううん。急に休暇を取れと言われてもね」
 私が答えた。
「わかります。でも、そこを何とか工面して。きっと気に入ってもらえると思うんですがね」
 私には、年休というのがあることは知っているが、ここ数年とったことがない。そのことが急に腹立たしくなってきた。いろいろ仕事が入るだろうが、そんなものを一日ぐらいほっぽり出したってどうってことはないだろう。課長代理に、すべてお前の判断でやってくれ、と頼めばいいことではないか。
「疲れていると言われると、何だか、一日ぐらいのんびりしたいですね」
「そうでしょう。行きましょうよ」
「でもね、はっきり言えないんですよ。突然、のっぴきならない仕事が入るもので」
 それでも私はまだ少し躊躇した。何だか怖れを感じたのだ。
 吉野さんは、少し軽蔑するような笑いをした。決断力のない男だなと思ったのかもしれない。
「明後日ですよ、大丈夫でしょう」
「いや、明日にならないとわかりません」
「でも、だいたいは行けそうでしょう」
「まあね」
 そう答えながらも、どうしても即決することはできない。一抹の不安が残った。仕事を休むことへの不安感なのか。それとも吉野さんへの不安感なのか。
 次の日は早くから出張だった。当然、いっしょの電車には乗れない。吉野さんに会えるのは次の次の日。行く当日になる。
「明日は、研修で出張しますので、返事は、当日ってことになりますが」
「ああ、いいですよ。どっちにしたって私は行くつもりですから」
 それから少し、野球の贔屓チームの戦い方についてしゃべりあった。
 帰宅駅に着き、改札を出て、別れ際、「いい返事をお待ちしていますよ」と吉野さんは言った。
 列車の到着が近いことの放送があった。人々はきちんと整列を始めた。吉野さんと私は、いつもと同じように、列の真ん中に立った。こんなとき、会話はほとんどしない。ただ、今日は話す必要がある。私が彼の提案を受け入れたかどうか言わなければならない。だが、すっと言葉が出てこない。
 列車がきた。プラットホーム全体がざわつく。人いきれでむっとする。
「ごめん。やっぱり、急に、一昨日の夜、経理課長の親父が亡くなったもので、今日が葬式で休めないんです」そう言おうか。
 一抹の不安が残っている。知らない男の口車に乗せられて、とんでもないところへ連れて行かれるのではないか。
 ええい。自分は何と小心者か、すでに行くと決めておきながら、今さら何を迷っている。そう思ってみてもやはり、すぐには言い出せない。吉野さんも何も尋ねてこない。
 駅はいつもより混んでいた。二分遅れで着いたからかもしれない。ラッシュアワーの二分は大きい。人が、かなり増える。それでも、しがみつくようにして二人は離れなかった。並んで車内に入った。車内でもくっつき合っていた。
 途中、三つの駅にとまった。たくさんの乗客が乗ってきた。中へ押されたが、つり革を離さず、奥には行かなかった。
「次、降りてくれませんか」
 吉野さんは、突然顎を扉のほうにしゃくった。もう、すでに答えを聞いているというように。
「ああ、次ですか」
 私も了解済みのように答えた。
「そう、次」
 吉野さんはうれしそうに頷いた。
 二人は乗客をかき分け、苦労しながら降りた。そこは乗換駅で、支線の電車のホームが向かい側にあった。すでに電車が一台止まっていた。
「あれに乗ってください」
 二人は階段を駆け上って向かいのホームへ急いだ。

 支線の電車に一時間ほど乗り、さらに乗換駅で降りて、支線の支線に乗りかえた。電車はなかなかこないので、少し早いが昼飯だと言って、立ち食いそばを食べた。
 その間に一度だけ「どこへ行くんですか」と尋ねてみた。「私の田舎」とだけ答え「いいところがあるんですよ」と言った。
 一両だけの電車が来た。それに数駅乗り、小さな駅で降りた。改札はなく、降りるとき、運転手が切符を見にきた。定期を見せ、追加料金を払った。
 駅の周りには木々が沢山あった。駅のすぐ横から道は上り坂になっていた。
「ちょっと歩いてもらわないといかんのですわ」
 吉野さんは言いにくそうに言った。
「我々の住んでいるところから小一時間も離れれば、こんなところがあるなんて」
 私は言った。
 歩くのは苦手だ。いや、苦手になったと言ったほうが正しい。大学を卒業するまでは、毎日、往復十キロは歩いていた。駅から遠く離れた村に暮らしていたので、いつも朝六時には家を出て、高校や大学に通った。歩くことなどまったく苦にはならなかった。それがどうだ、今はもう一キロも歩けばくたびれてしまう。
 上り坂を少し歩いただけなのに、額や首筋が汗ばんできた。日差しがきつく、帽子を被ってくればよかったと悔やまれた。
 気分は悪くない。どこへ連れて行かれるのかわからないことがいっそう気分を高揚させる。
 吉野さんの足は速い。だが、私も彼に遅れることはなかった。足がいつもよりも軽く動いた。
 ふくらはぎの緊張が妙に親しみを覚える。道端から照り返してくる光の感触も心地よかった。
「もう少しで峠の頂上に着きますから」
 そう言いながら、吉野さんは振り返る。
「なかなか健脚じゃないですか」吉野さんが言う。
「いや、若いときは歩くのは苦にはなりませんでしたが、今はもう……」
「同じです。私も若いとき、ずっとこの道を歩いていたんですから。……あれっ?」
 吉野さんは急に立ち止まり、天の方を向いてしきりに鼻を動かした。
 吉野さんにつられて私も天を仰いだ。綿雲の向こうに透き通った青空が見えた。
「ううん、あったかもしれんな」
 吉野さんは意味不明のことを言った。
「何なんですか」
「いや、峠まで行けばわかりますよ」
「何か臭うんですか」
「まあね、若いときは私の鼻はよく効くことで有名だったんだが、今はからっきしだめ」
 吉野さんは自分に言い聞かせるように言った。
 周囲が全部杉林に入った。急に温度が下がり、肌の体温が流れ出ていくのがわかるほどだ。光も遮断され、暗い穴に入っていくようだ。今までが明るかったので、瞳孔の調節がうまくいかないらしく、闇夜の道を歩くように足元がおぼつかなかった。ただ、ひんやりとした風が、新鮮な酸素をいっぱいに含んでいて、軽やかに吹きつけてくる。
「ああ、空気がおいし」
 思わず言う。
「ここに住んでいたときは気づきもしなかったけれどね」
 吉野さんが答える。
 木漏れ日が斜めに走る。  
 杉林が切れると、あたりが畠で、野菜畠やビニールハウスなどがあった。
「やっぱりな」
 吉野さんが言った。理解しかねて私が戸惑っていると、吉野さんは片腕を大きく前に突き出して遠くを指さした。指先の方向には高いコンクリートの煙突があり、そこから白い煙が真っ直ぐに上っていく。
「村の風習でね、朝に葬式を上げるんですよ。それで、ちょうど今頃、焼くんです」
「はあ?」
「あれが吾が村の焼き場、今じゃ斎場とか言うんですかね」
「じゃ、村の誰かが亡くなったということですか」
 私はじっと白い煙の行方を眺めた。
「いったい、誰が死んだんだろう?」
 吉野さんは首を傾げ、白い煙を見つづける。
 煙は、ただ一筋で、弱々しく上っているのに、何かひきつけるものがあった。こんな煙があることを忘れていたような気がする。
 目を道端に移すと、大きな木が生えていて、老婆が一人、倒れそうになるのを杖で必死に支えて立っていた。老婆は煙のほうをじっと見ている。奥には小さな地蔵さんの社が見えた。
「誰が死んだんだよ」
 吉野さんが突然彼女に向かって大声を出した。老婆は驚いたようにこちらを向いた。近づいてくる私たちを警戒するかのように杖を強く握りしめた。
「誰が死なはったんかな」
 吉野さんは今度は方言で尋ねた。老婆は相変わらず黙っている。
「米吉の息子の吉信だがな」
 吉野さんが大声を出した。
「米吉ったんの?」
「そう」
 吉野さんは老婆が誰なのか確かめるかのように目を凝らしながらどんどん近づいていく。私は、道端に佇んでそれを眺める。
「あの秀才の吉信さんかい」
「そう」
「そうけ」
 老婆はようやくほっとしたように身体の緊張を解いた。黙って吉野さんを見る。納得したように何度も頷く。
「ああ、そいでも、二年前はたいへんやったな」
「ああ、うん、ああ」
 吉野さんは口ごもる。少し身体をすぼめ、ちらっとこちらを向いた。少し困惑しているふうだ。私に聞かせたくない話かもしれない。
「それで、さ、誰が死んだっけ」
 吉野さんは話をもとに戻そうとした。
「藤谷佐太郎さん」
 凛とした声が長閑な空気を切り裂いた。老婆から発せられたとはとうてい思えない強い声だった。
「ああ、そしたら、おばあちゃんは『ふじさん』け」
 老婆は何度も頷く。それから、慌ててもんぺのようなズボンのポケットを探り、白いハンカチを出して目頭を押さえた。
「佐太郎さんが死んだんけ」
 老婆は、小さく頷き、いっそう深くハンカチを押さえる。
「それで見送りに」
「佐太郎さんが天に昇りはる」
 老婆が煙を指さす。吉野さんも煙の方を向く。
「そうけ、佐太郎さんが死んだんけ」
 今度は吉野さんが萎れる。何度も頷き、同じ言葉を繰り返す。
「じゃあな、ゆっくり見送ってあげな。佐太郎さん、喜ばはるわ」
 老婆は子供のようにこっくりをする。
「佐太郎さん、病院で死にはった。誰もいない病室で、一人で。奥さんが先に死にはったから」
 瞬間、二年前に死んだ母、四年前に死んだ義父のことが胸を刺した。二人とも夜中に病状が悪化し、病室で一人で死んでいった。病室には、医師か看護師がいたかもしれないが、彼らはきっと、脈拍を知らせる機械のほうを向いていたに違いない。
「佐太郎さん、おばあちゃんに看病して欲しかったんと違うか。きっと」 
 吉野さんが言った。
 老婆は何度も頷き、それから子供のように声を上げて泣いた。
「ゆっくり見送ってあげや」
 吉野さんはそっと老婆から離れて、私の方に近づいてきた。
 私たちはまた歩き出した。吉野さんはときどき空を仰いだ。
「佐太郎さんとふじさんは若いときは、いい仲だったらしいわ。親父が何度もそう言っていた。ふじさんは村ではめったにいない美人やったと。私が十五、六の時にはもうけっこうなおばさんになっていたけれど、それでも美人やったな。佐太郎さんは村では一、二の大地主の息子で、許嫁もおって、戦争に行く前に祝言を挙げさせられたらしいわ。ふじさんも佐太郎さんが戦争に行っている間に無理矢理、近くの親戚の家に嫁にやられたということや」
「ふじさん、ずっと佐太郎さんのことが好きだったんでしょうかね」
「そうかもしれんな」
 吉野さんはすでに下りだしている道を途中で止まり、もう一度頂上の方を見た。すでに、そこからは煙突も煙も見えなかった。
「親父の話やと、佐太郎さんが出征するとき、ふじさんはあのお地蔵さんのところで見送っていたという話や」
 そうか、それならあそこで二度、佐太郎さんを見送ったことになるなあ。
 ふっと、小さな旗を振り、ふじさんが出征兵士を見送る姿が思い浮かんできた。出征兵士を送る姿なんか知らない。俺たちが生まれた頃にはもう戦争は終わっていた。それにもかかわらず、若いふじさんがもんぺ姿で地蔵さんの木の陰から必死に旗を振りつづける姿が思い浮かんでくる。
「ふじさんの旦那も戦争に取られ、戦死したらしいわ。ふじさんは戦争未亡人で、子供を一人抱えて、その後ずっと後家を通した。佐太郎さんとふじさんは密会しているらしいという噂は村で何度もたったが、実際それを見た人は誰もいなかった」
 吉野さんはそこで一度、息を止めて、ごくりと唾を飲みこんだ。
「純愛ですね。今じゃ考えられませんけれど」
 私が言った。
「残酷な話ですわ。当時、みんなそれなりに、時代の不幸を背負わされていたからね」
 吉野さんは顔を曇らせながら言った。「時代の不幸」という言葉がやたら印象深く心にしみた。
 峠を下りるとそこにも地蔵さんがあり、民家が何軒か立っていた。みんな大きな家だったが、その多くは閉められていて、人のいる気配はなかった。跡取り息子が都会に出て、後を次ぐものがいないからだろう。家が立派なだけ、これもまた残酷に見えた。
 両脇に何軒かの農家が点在したと思うと、また、田んぼがあるような道をしばらく歩くと、片側に山がせまり、もう一方は崖になっているところに来た。
 山側には十段近い階段があった。吉野さんは何の躊躇もなくその階段を上りだした。私も後をつづいて登った。登り切ったところにはかなり広い広場があった。うっすらと芝生が敷き詰められていて、奥には平屋の長い建物があった。昔の校舎のようだ。今は廃屋になっている。
 サクラは運動場を取り囲むようにして植えられ、まだ出たばかりの青葉が、陽を青く染めていた。
 私は、広場の真ん中あたりに佇んだ。まわりから微かな葉ずれの音が聞こえてくる。
吉野さんは、ゆっくりと校舎のほうへ歩いていく。立ち止まり、身体を直立させる。どこか一点を見つめているようだ。薄くなった髪の毛だけが揺れる。私は佇みながら、それを目で追った。彼の表情は見えない。それでも必死の形相をしていることがわかる。
 彼は手を何度かぐるぐる回し、片足を大きく上げて、力一杯投げる格好をした。
「ストライク」
 私は大声を出した。吉野さんは振り返って笑った。だが、泣きそうな顔にも見えた。
「こんな小さな村でも、子供がいっぱいたしね、二チームは作れたよ。その中でも俺は一番うまかったな。球も速く、足も速かったし。本気でプロ野球の選手になろうと思っていた」
 彼は、何度も投球をする真似をした。
 吉野さんは、再び、広場からこちらのほうへやってきた。顔色は悪く、一気に力をなくしたようにも思えた。
 さらに広場の端、サクラが植わっている辺りまで歩いていき、向こうを向いている。
「ここまで来ませんか。私の生家が見えますから」
 私は、彼の横まで行き、サクラの枝を掴み、村の方を向いた。白壁の家や昔風の頑丈そうな二階建ての家々が見えた。
「この方向で一番大きな家があるでしょう。あれですよ」
 村の真ん中あたりに、瓦葺きの大きな屋根に白壁が金属のように光っている豪壮な家が見えた。だが、生家にしては新しすぎる。
「あれですか? すごい家ですね」
「嘘ですよ。生家なんてありませんよ。叔父に家を売ったら、隣にあった彼の家も取り壊して、土地をいっしょにしてあんな豪華な家を建てたんですよ」
「すごいじゃないですか」
「今時、村の家なんか買うやつがいるものかとか何とか言って、俺の家を二束三文にねぎってね、ただみたいな値段だった。それなのに、村の中でただうずくまっていさえすれば、大金持ちになれるなんて、おかしいとは思いませんか。先ほど通ってきた峠の向こうに、大工場がやってきてね、そこにあった村の土地が高く売れてね、みんな大金持ちになったんです」
 吉野さんは再び、必死の形相で自分の生家があったあたりを眺めた。そうか、吉野さんの生家も完全に消えてしまったのか。
 私の住んでいた故郷の家も数年前に倒壊した。結婚して父母は町で暮らしていたが、父が四十歳で病死し、それで、伯母に頼みこんで農協に勤めさせてもらい、母が幼いときに暮らしていた家に、小学三年生の時移り住んだ。
 私が就職し、母を連れて再び村を出てから、その家はまた空き家になった。一年前、親戚の人から家が倒壊したと連絡が入り、すぐに見に行った。 
 柱が倒れ、屋根がすっぽりと下に落ち、屋根だけが土の上にのっていた。家がかろうじて建っていたときに何度か帰ったことがあったが、その時にはまだ、高校時代の英単語のノートや教科書、雑誌類がかろうじて残っていた。だが、倒壊した屋根の下では、もうそれらはすべて腐っているだろう。そう思うと気持がざわついてきた。嫌な気がする。自分の中でも何かが腐っていくような気がする。慌てて、村から目をそらし、石垣の下の方を見た。
 道は舗装されていて、木々の影のため黒っぽかった。そこを老婆が一人通っていく。前屈みになり、杖をうまく使って歩く。歩幅が小さいが、しっかりとした足どりだった。
「あれっ? ふじさんじゃないですか」
 思わず声をあげた。吉野さんも下を覗き、数回頷いた。ふじさんに間違いない。ふじさんが、どこか目的地に向かって必死に歩いて行く。
「さあ、それじゃ行きますか」
 吉野さんは校門蹟の方に歩き出した。
 石段を下りた。割れ目から雑草が伸びていた。
「こっちを通って行きます」
 吉野さんは独り言のように言って、あぜ道のような細い道に折れた。まっすぐ行けば村の中に入るのだが、それを嫌っているようだ。
 田んぼの多くは昨年刈り取られた稲の切り株のままの休耕田になっていたが、所々には野菜も植えられ、イチジクの果樹園もあった。あぜ道にはまだタンポポの花も咲いていた。
 再び、私の育った村を思い起こした。
 あの時代、私はいったい何を考えていたのだろう。何も思い浮かばない。吉野さんのように野球の選手になろうという夢もなかった。ただ、確実に感じていたことが一つあった。それは、自分には長い長い未来があるということだった。有り余るほどの時間があり、いろんなことがいっぱいできるように思っていた。だが、今、その大半を使い果たしたように思う。当時、こんなにも速く未来がなくなるとは思いもよらなかった。
 あぜ道から山道に入った。あたりには雑木がいっぱい生えていて、道に覆い被さっている。ときどき、枝が道に突き出ていて頬にあたった。
 しばらく登ると道が三つにわかれていた。右横、上、左上と。そこで吉野さんが立ち止まった。
「この上でちょっと寄りたいところがあるのでね、またここに下りてこなければならないから、あなたはここで休んでいてくれませんか」
 吉野さんの顔は異常に引き締まっていて、絶対それを守ってくれといった表情だった。私はかなり疲れていたので、それを聞いてほっとした。
「わかりました。ここで休憩していたらいいんですね」
「ああ、わるいね」
 吉野さんは、左上の細い道を走るようにして上っていった。ここまで上ってきて、さらによくあんなに速くのぼれるものだ。
 ちょうどいい切り株があり、そこに腰を下ろした。汗が引いていくのが感じられ、すがすがしかった。これだけでも吉野さんといっしょに来たかいがあった。
 下から人が上がってきた。野球帽を被った男だ。年齢も吉野さんと同い年ぐらい。顔も腕もたくましそうだった。
 男は大きな目玉をこちらに向けた。
「吉信はどこへ行った」
 突然、大声を出して私を睨み付けた。
「吉信?」
 驚きながらも、私もまた彼を睨み付けた。
「吉野吉信」
「知りませんね。何でしょうか?」
 とっさに嘘をついた。
「しらばくれるな。吉信といっしょに来たんだろう。吉信はどこへ行った」
「あなたは何か勘違いなさっているのだと思いますよ。私はただ一人で、峠の頂上に行きたいだけで」
「嘘言うな。吉信が知らない男といっしょにこの村にやってきたって、電話が入ったんだ。この道を上がって行ったって」
 心臓が緊張し、せっかく引いた汗が再び滲んできた。
「あなたはその方とどういうご関係で?」
「あいつとは同級生だ。一番のともだちで、それが二年前に、家にやって来て、一年経ったら絶対返すからと言って頼むものだから、かあちゃんにないしょで、貯金みんはたいて金を貸してやったんだ。だのに、会社が倒産してもう返せないって。あの野郎、絶対許せないね。あの金は息子を大学に入れてやるために貯めた金なんだ」
 男は片腕を何度も地面にたたきつけるように振りつづけた。
「へえ、そんなことが」
「あいつを信用して貸してやったのに。それを裏切るなんて。子供の頃はあんなやつではなかったのに」   
 男の声は突然弱々しい声に変わった。
「あいつがピッチャーで俺がキャッチャー。地区の大会でも優勝したんだ。それがえらいかわりやがって、財産をみんな売り払い、最後には母親がまだ住んでいた家まで売り飛ばしやがってよ。母親が老人ホームへ行くという最後の夜、首くくって死んだがな」
「何ですって」
「親不孝もいいとこや」
「そんなことが……」
「おまえ、ほんまに知らんのか。紺の背広を着た男や。いや、知っとるやろう。知ってるという顔をしている」
 男とこんな話をしているうちに上から吉野さんが下りてきたらどうする。
「すみません。男の人と道連れになって、ここまでいっしょに来ました」
「そうやろう。やっぱりな」
「でも、知らない人です」
「わかった。それでどっちへ行った」
「こっち」
 私は右横の道を指さした。
「私は上に行くので別れました」
「本当やな」
「本当です」
「きっと雅美の家や。こっちに雅美の家がある」
「雅美って?」
「あいつの昔の恋人や。就職してお互い離ればなれになってしまったから、自然にわかれたようなものやけど。きっと雅美に金借りるつもりや。雅美の旦那が死んだことは知っとるからな。いや、ありがとう。雅美が金貸さないうちになんとかせんと」
 男は、右横の林の中の道を走るようにして消えていった。
 私はしばらく茫然としていた。吉野さんにそんなことがあったのか。ひとの裏ってわからない。何だか疲れていることは気づいていたが、そこまでつらい状態だとは思わなかった。
 ではいったいなぜ、不義理をしているこの村に私を連れて帰ってきたのだろう。何をするために。
 吉野さんが去っていった左側の坂道を少し上った。両側から雑木が迫ってくるが、ひとが歩くには支障がなかった。
 左側の雑木が途切れているところから上の方がよく見渡せた。古い墓石がいくつも見えた。くすんだ墓石が陽を吸い取るような陰気な表情で並んでいた。ところどころには新しい墓石もあり、それだけが金属のように輝いていた。
「母親が首くくって死んだ」という先ほどの男の声を思い出した。足を止め、墓石から目をそらした。
 見てはならないものを見ているような気がした。
 身体を反転させ、もとの場所に戻った。
 再び木の根っこに座った。涼しい風が吹いてきて、額の汗を乾かした。
 微かな声が墓の方から聞こえてきた。ひとの泣き声のように聞こえる。だが、じっと耳をそばだてると何の音もしない。
 左横の坂道から小石が落ちてきた。靴の音がして吉野さんがおりてきた。
「ごめん、ごめん、待たしたね」
 ほほえみを送ってきたが、目が真っ赤だった。
「さあ、行こう」
 吉野さんは、慣れた登山者のように一歩一歩踏みしめながら真ん中の道を上り始めた。
「いいところだと思うよ。きっと来てよかったと思ってもらえる」 
 吉野さんはまた同じことを言った。
 先ほどのことを言おうかと思ったが止めた。黙っている方がいい。
 分かれ道がいくつかあった。吉野さんは常に右側の道を選んだ。林は深くなっていった。両側は杉木立になり、湿気が強くなっていく。道はすでに上りではなくなっている。時には少し下ることもある。
 吉野さんの足は速まった。何かに吸い込まれていくようだ。ついていくのがつらい。でも休憩しましょうかとは言えない。それを言わせない迫力がある。
 木々のトンネルを抜けて、明るい場所に出た。岩ばかりでできている広場だった。その向こうに川が流れていた。幅、四、五メートルほどの狭い谷川だ。
 近づいていった。水は、石と石の間を水しぶきを上げて流れ、ところどころで小さな虹を作っていた。
 私の村にもこれと同じぐらいの川が流れていて、そこで笹舟を浮かべ、競わせて遊んだことを思い出した。
 近くにあるクマザサを見つけ、笹舟を折って流した。昔と同じようにくるくる回転しながら流れていく。それを目で追っていると、向こうに滝があることに気づいた。笹舟はそこで消えた。
 滝はかなり高かった。それに、水量もあり、真っ逆さまに落ちていく。かなり迫力があった。私たちはその頂きに立っていた。水は、途中の岩にはじかれて、しぶきを上げ、音をたてて落ちていく。音は単調なようでけっして同じ音ではない。
 滝の落ちたところは広い滝壺になっている。紺色の水をたたえている。落ちる水を絶えず受けつづけ、泡の輪を何重にも作っている。
 両岸は崖だが、滝壺に通じている道が見える。引き返せばすぐにそこに行けそうだ。
 おやっと思う。そこにひとが一人動いているのが見えた。白い髪を後ろでくくった頭と、木綿の上着と太いズボン。河原の岩に這いつくばり、ズボンからはみ出したか細い脚を蟹のように蠢めかせている。
「あれ、ふじさんではないのか?」
 身体が前のめりになり川側に傾く。あぶない、ふじさん。驚いて叫ぶ。あれでは淵に転げてしまう。
 助けなきゃ。私がよこの道に戻ろうとする。吉野さんは強い力で私の腕を掴む。さかんに首を横に振る。どうして?
「大丈夫、大丈夫」
 吉野さんは微笑んでいる。腕の力はますます増す。けっして放してくれそうもない。力を抜いて身体をもとに戻すと、ようやく腕を放してくれた。
 ふじさんは水際の岩に辿り着いたが、そこからは動かない。食い入るように淵を覗いている。吉野さんはそのふじさんを見つづける。
 ふじさんは、ときどき、頭を上げ、滝の方を眺める。よく見えないが、目が爛々と輝いているように思う。
 ひょっとして、ふじさんが若いとき、佐太郎さんとこの滝を見に来たのかもしれない。何の脈絡もないのにそう思う。すきっとして力強く落ちる滝の姿が当時の佐太郎さんに似ているのかも……。
 そうか、吉野さんも雅美さんとここに来たのか。
 相変わらず滝の音が聞こえる。谷川のせせらぎの音もする。どの楽器だってこの音は出せない。しばらく滝や水の音に聞き惚れる。
「なかなかいいでしょう」
 背後から吉野さんの声がする。
「いい音ですね。何とも言えない」
 心の底がざわめいている。しかし、職場に行くときのあのざわめきではない。まったく正反対。身体が音と共鳴し合っているような心地よさだ。
「私の村にも谷川がありましてね、でも滝はありません。滝はいいですね」
「私の自慢の一つです。一度、見せたかったんですよ」
 それから、私と吉野さんは川原に入り、大きな岩の上に並んで座った。吉野さんは川をじっと見つめている。
 雅美さんとのことを思い出しているんですか、と尋ねてみたかった。
 私は立ち上がり、また、下の滝壺が見えるところまで進んだ。吉野さんはついてこなかった。下を覗き込んだ。白い水しぶきと、はげしい音、水の泡が見えた。だが、ふじさんの姿はなかった。横におかれていた杖もなかった。
 しばらく、藍色の淵を眺めていた。ふじさんの姿が淵の底に見えるような気がした。しかし、それは今のふじさんではなく、黒髪をしっかりと後ろに束ね、若々しいふじさんだった。
 しばらくそんな状態を続けてから、後ろを振り向くと、今度は吉野さんがいなかった。道のほうに目をやったとき、笹の間に白いワイシャツがちらりと見えたようにも思ったが、姿はどこにもなかった。
 確かに笹が動いている。空気も揺れている。そこにいた気配が感じられる。しかし、吉野さんはいない。
 どうも上の方へ行ったようだ。私が疲れていることを気遣って、自分だけもう少し上のほうを見てこようと思ったのかもしれない。私があまりに熱心に滝を見つめているもので、声をかけるのがわるいと思ったのかも。すぐに戻ってくるだろう。
 私は、再び、吉野さんといっしょにいた岩のところへ戻った。岩にもたれながらせせらぎの音を聞いていた。すると急に、水の中に足を入れたくなった。
 靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンをたくし上げ、水に入った。川底の岩角が足裏を突き刺した。痛みが走った。しかし、痛みよりも冷たさのほうが強かった。心地よさと冷たさが身体の芯を貫いた。
 幼いときから、今日までの水の感触が一気に甦ってきた。
 あなたほどお風呂の好きな子はいなかった、とよく母に言われた。普通、子供は風呂をいやがるものだが、お風呂に入れると、満足そうに喜んだという。先日、生まれたばかりの赤ん坊をお湯に浮かべている映像を見た。ほとんど目は開いていないのに、ありありと満足していることがわかった。両手、両足を器用に動かし、お湯の中を難なく泳いだ。生まれたての人間には泳ぐ能力がある、使わないから退化するのだ、とコメンテーターが説明していた。
 夏、伯母の家の深い井戸から水をくみ上げ、パンツひとつになって、従兄と頭から水をかけ合ったことも思い出す。木の桶から水が頭上にかぶせられると、一瞬、息が止まりそうだった。頭に当たった水しぶきがどっと首の肌を洗い、肩や背中に流れ落ちた。意識が遠のくほど冷たかった。だが、けっして不快ではなく、落ちきった後のすがすがしさは、生まれたときの感じとはこんなものではなかったかと思わせるほどだった。従兄と二人、何度もかけ合った。今、そのことを思い出しただけで肌が緊張する。あの感触が今もなおどこかに残っている。
 川の中を歩き回った。岩の上に乗ったり、水の中に入ったり。単調な動作なのに飽きなかった。ときどき、川の水を掬って飲んだ。夏の井戸水の味に近かった。少し疲れてきたのでまた背を岩にもたせかけて休んだ。
 吉野さんはまだ帰ってこない。
上に昇っていったことだけは確かだ。少し心配になる。私は、靴下や靴をはき、横の細い道に出て、そこを上りだした。階段になっていて、湿気のためか濡れていた。
 平らな道になったり、坂道になったりした。急な斜面があり、鎖を持って登らなければならなかった。
 雑木の下に谷川が見えた。道の横は崖だったが、崖下には藍色の淵が水をたたえていた。笹もなく、岩が突き出ていて、その先端に行くと、ちょうど飛び込み台のようになっていた。木と木の間に縄が張ってあって、端に行かないように注意してあった。だが、そんな縄など、なんなく跨げた。
 それを跨いで、岩の端に行くと、淵は真下に見えた。白い渦が抽象絵画のような模様を作っている。岩にあたる水の音が聞こえてくる。身体を前に乗り出せば、谷川まで一直線だ。じっと水面を見ていると、それが目の前に浮き上がってくる。藍色と言うより空色に近い。水のほうが空よりも遙かに迫力がある。空には実体感がないが水はそれが圧倒的だ。透明な青さは私を誘う。私はさらに岩から身を乗り出そうとする。恐ろしさより誘惑の方が強い。柔らかな青さ、その中へ身を託してみたい。
 私の分身が吸いこまれるように真っ逆さまに落ちていく。身をさらに乗り出す。
 危ない。とっさに身を引く。
 足が震えている。頭もくらくらしてくる。身体を反転させ、もとの道に戻る。バランスを失って転びそうになる。危なかった。鼓動が高まる。何ということだ。
 慌てて、再び、上に向かって歩き出す。本当に危ない。ああいうところでは日頃思いもしない気分になる。
 道はどんどん細くなり、クマザサが頬を擦った。
 吉野さんはどこにもいない。
 先ほどの崖のところで、私の前を落ちていった分身を思い出す。ひょっとして……、と思う。まさか、と思う。
 怖ろしさが一気に増す。
 今まで歩いてきたところにも分かれ道がいくつもあった。谷川に沿って歩いたとは限らない。ちょっとした見たいものがあって、そこに行き、すぐに引っ返したかもしれない。すでに先ほどの場所に戻っていて、逆に私を捜し始めているのでは……。
 身を翻して、元来た道を引っ返す。
 帰りは速かった。すぐに滝が落ちているところに着いた。だが、やはり、吉野さんがいなかった。
「吉野さーん」
 何度も大声で叫んでみたが、何の応答もない。
 再び岩の上に座った。心細さがますます強まった。いったいどこへ行ったのか。ひとを誘っておいて、こんなところに置いてきぼりにするなんてひどい。いったいどういうことだ。許せない。
 だが、いくら待っても吉野さんは帰ってこなかった。
 あたりが暗くなってきた。苛立ちと腹立たしさが頂点になった。
 私が上に行っている間にここに帰ってきて、私が先に帰ったと勘違いして帰ったのかもしれない。
 立ち上がって、来た道を引っ返した。
 明日、吉野さんに会えば、せいいっぱい抗議してやろう。せっかくいい場所に連れてきてもらって感謝していたのに、これではまったくだいなしではないかと。
 さらに道を下った。杉木立の間から、谷川がすぐ近くに見えた。気になったので覗くと、おやっと思った。流木の端っこに一本の杖が引っかかっている。あれはふじさんの杖ではないのか。だとすると、……? じっと目を凝らす。暗くてよくわからない。最初見たときにははっきりと杖だとわかったのに、よく見ると、ただの棒のようだった。
 再び歩き出す。青い淵の水面が思い浮かぶ。ふじさんと吉野さんが大の字になりながらゆったりとたゆたっている。目をつむり、水と一体となって、恍惚の表情を浮かべている。
 足を早める。走り出す。恐怖感に包まれる。

 三日間ほどは、新聞がくるのを待ちかねて、社会面を眺めた。夕刊は、駅で買って読んだ。テレビのニュースも見た。だが、ふじさんのことも吉野さんのこともまったく話題にはなっていなかった。
 ただ、吉野さんはあれ以来、駅のプラットホームには現れない。住所も電話番号も聞いてはいないので、家に帰ったのかどうかさえわからない。
 私は、いつもの時間に、前と同じようにプラットホームに立っている。すると、吉野さんの声が聞こえてくる。
「人間ってさ、せっぱ詰まれば、自分の本当に行きたい場所がわかるものですよ」と。

「もしもし、もしもし」
 突然、後から声をかけられた。振り返ると、見知らぬ男が立っていた。彼はにこやかに笑っている。彼は右手の人指し指でさかんに自分のネクタイを指さしている。見ると、私と同じ柄だった。
「駅の安売りで買ったんでしょう」男は言った。
「よく、お会いしますね」男が付け加えた。
 確かによく見かける顔だ。
「そうですね」と私が答える。
「いつも、この電車ですか。私もです」
 男は、人の良さそうな笑いを再び送ってきた。
 電車が来た。扉が開き、肩を擦り合わせながら、男といっしょに車内に入った。
 ふたりは頬を触れあわせるほどの近くに立ち、しばらく黙ってお互いを見つめ合っていた。目の下の濃い隈はかすかに震えている。頬骨を取り巻く皺も深く刻まれている。
 汗の穴まで疲れていそうな男の顔を見ていると、ふと、今度は、私がこの男を伴って、田舎に帰るのではないか、と思った。いやきっとそうなる。
 先日、吉野さんといっしょに見た滝の姿や、彼を捜しに行って見下ろした青い淵が突然思い浮かんできた。白いしぶきの帯、紺色の水。
 そう言えば、田舎にも一箇所深い淵があった。淵は、川が曲がるところにできていた。道から淵までそれほど高くはなく、近づくことはたやすかったが、道から見降ろす位置が一番美しかった。
 水を豊かに抱きかかえ、うずくまるようにして青く映える、そんな淵が、満員電車の乗客の上にはっきりと見えてきた。                                                             了

 

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