最近、久々におもしろい本を読んだ。青木隆嘉の「ニーチェを学ぶ人のために」(世界思想社)という本である。こういう本は、一気に読むというわけにはいかないが、毎日これを読むのが楽しみだった。長年ニーチェを研究してきた人だけあって、実にニーチェをわかりやすく、かつ、刺激的に紹介してくれている。もちろん、私は、ニーチェの大思想を獲得しようなどという大それた考えはない。ただ、彼らの言う言動を日常の周りのことに引きつけて誤読的に読んだだけである。
たとえば、世界というのは目的などなく無意味に反復されるだけの世界であり、日々進歩するなどという妄想にとらわれてはならないとさかんに強調し、それに耐えうる勇気を説く。
これを我々に当てはめれば、同人誌など何かの目的のためにやっているなら、たとえば、自分の作品を上達させ、運がよければ、将来、文壇にでも登場できるのではないか、などと考えてやっているのなら、それはただの妄想であり、無駄なことである。また、そのようなことが仮に起こりえたとしても、それもまたたいした意味のないことでもある。
まず、こういった現実をしっかりと受け止め、耐え、その上に、なおかつ同人誌活動や小説を書く意味を考えなければならない。これは、実にきついことである。
同人誌活動をやることも、小説を書くことも、多くは妄想を頼りにしてやっている。たとえば、小説を書き、同人誌に発表さえすれば、かなりの人が読んでくれ、中にはそれを評価してくれる人がいるに違いないとか、自分には小説を書く力が潜在的にあり、それはまだ開花されていないだけであり、小説を書いておれば、いつかは開花するに違いないとか。しかし、それは自分に都合のいい単なる妄想に過ぎないのではないか。さらにもっと本質的なことからいえば小説など書いて何の意味があるのか。意味があると考えているのはただの妄想ではないのか。
しかし、これらの妄想を妄想と認めた上でも、なおかつ、同人誌活動をやり、小説を書こうとするのが同人誌である。それはなぜか。これについても青木・ニーチェはちゃんと答えを用意してくれている。
彼らは、世界を意味づけていたすべてを失ったとき、むしろ人間は解放されたと考える。そして、そのような世界にあって、最も人間的な行為、理想的な行為として、ギリシャ人が提示した「プラクシス(実践)」という行為をあげる。プラクシスとは他者との交流のうちに、それ以外では経験しようのない「すばらしさ」に出会う自己完結的な行為である。
他者との出会い、動機からも目的からも解放された自己完結的行為こそもっとも人間的な行為であるとするなら、同人誌活動こそ、それに近い行為ではなかろうか。その証拠に、若い頃のニーチェは同人誌的なグループを作り、そこで多様な意見を争わせ、大いに楽しんでいたようである。私も、もし、同人誌活動のよって立つ基盤を求めようとするなら、ここにしかないと考えている。人間的行為の場としての同人誌。
さらにそれに加えてもう一つ、気に入ったニーチェの言葉を書き記しておきたい。(ただし、これは決して孫引きではないことを断っておく。)
創造者が求めるのは道連れであって、死体ではな く、また畜群や信者たちでもない。創造者が求める のは共に創造する者たち、新しい諸価値を新しい板 の上に書く者たちである。
(『ツァラトゥストラ』上・吉沢伝三郎訳) (O)
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