娘の香苗が自分の部屋に引っ込んだ後、見るとはなしに見ていたクイズ番組が終わった。恭子はダイニングテーブルのリモコンを取り上げるとテレビを消し、首を捻って電子レンジの時計を見た。零時を回っている。
夫の克彦が午前様になることは、少なくともここ数年間の恭子の記憶にはない。研究所の仕事が煮詰まってくると、会社に泊まり込むことは、たまにあったが、そうでない時はどんなに忙しくとも日付が変わる前には必ずといっていいほど帰宅していた。
恭子は先に寝ようと立ち上がった。寝入った途端、物音で起こされるのは嫌だったが、仕方がない。
その時、チャイムが鳴った。恭子はどきりとした。夜なので、昼間より大きく聞こえる。体を硬くしていると、また鳴った。恭子は足音を立てないように静かに歩いてインターホンの受話器を取った。
「どちら様ですか」小声になる。
「おれ」克彦の小さい声だった。
「何なの。チャイムなんか鳴らして」思わず大きな声になった。
「開けてくれ」
「鍵は?」
それには応答がなく、恭子は玄関に行った。鍵を開けると、克彦が肩から提げた鞄を揺らして入ってきた。酒臭い息が掛かる。
「お酒、飲んでるの?」
「ああ」
克彦は壁に手をついて革靴を脱ごうとしたが、体が揺れるためうまくいかない。
「酔ってるんじゃないの」
恭子は呆れた声を出した。克彦の酔っている姿を目にするのは、結婚して以来初めてのことだった。
克彦は尻餅をつくように床に腰を下ろすと、両手を使って靴を脱いだ。立ち上がってもうまく歩けないらしく、壁に手をつきながら進んでいく。
「鍵はどうしたの」
鍵とドアチェーンをし、放り出されたバッグを取ると、恭子は克彦の背中に声を掛けた。しかし克彦は答えずに居間に入ってしまった。
居間に行くと、克彦はソファーに横になっていた。濃紺の背広の上着がめくれ、ネクタイも緩んでいる。そんな姿を見るのも初めてだった。
「皺が寄るから、まず服を脱いでよ」
恭子は克彦の肩を揺すった。しかし克彦は目を開けない。こんなところで寝ないでよと思いながら、「ねえ」と恭子はさらに強く両肩を揺すった。
克彦がゆっくりと目を開けた。
「服を脱ぎなさい」
恭子がそう言うと、克彦は片手をついて体を起こした。
「すまん」
克彦は首を深く折るようにして頭を下げた。
「分かってるんなら、すぐに脱いで」
克彦は頭をゆっくり上げると、背中をぴんと伸ばし、膝を揃えてその上に両手を置いた。体がわずかに揺れている。それを止めようとしているのか、体に力を入れているのが分かった。
「恭子」
克彦が恭子の目を見上げながら、はっきりとした口調で言った。恭子は驚いた。夫が自分の名前を呼ぶことなどほとんどない。大抵は、ねえとか、ちょっとである。
「何ですか」
恭子は意識して軽く答えた。
「……別れてくれ」
言いながら克彦は頭を垂れた。
恭子はぽかんとなった。
「どういうこと」
克彦が首をすっと上げ、再び恭子の目を見た。
「別れると言ってくれ。頼む」
酔いで眼全体はどろんとしているが、瞳は真っ直ぐこちらを向いている。
不意に怒りが来た。
「あなた、鍵は?」
努めて冷静な口調で言った。
「え?」
「鍵はどうしたの。持ってるの?」
克彦はあわてたようにズボンや上着のポケットを手で押さえた。
「鞄の中じゃないの?」
「……落とした」
「落としたって、どういうこと」
下らないことを訊いていると思ったが、怒りが治まらない。
「ないんだ。だからチャイムを押して……」
「鍵をなくすまで、酔っぱらわないでよ」
「いや、酔ってない」
「何言ってるのよ」思わず声が大きくなった。「酔ってるじゃないの。酔ってるから鍵をなくしたんでしょ。酔ってるから別れてくれなんて言えるんでしょ。そんなことは素面の時に言うことよ。お酒を飲んで言うなんて、卑怯だわ」
言いながら興奮してきて、恭子は胸に手を当てた。呼吸が苦しくなる。
克彦が黙り込む。恭子は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。耳の奥で鼓動が大きく鳴っている。
「……そうだな。お前の言う通りだな。酒を飲んで言うことじゃないな」
「当たり前でしょ」
克彦はネクタイの結び目に指を掛けて引っ張った。
「私は寝ますから、風呂に入るなら入って。入らないなら、ガスの火を止めて下さい」
そう言うと、恭子は寝室に入った。電気のスイッチを入れる。ナイトテーブルのスタンドに明かりが点き、ツインベッドがほのかに照らし出される。同じ部屋で寝たくないという思いがよぎったが、別の部屋で寝るという選択肢も閉ざされていると感じた。娘が変に思うことは避けなければならない。
恭子はガウンを脱いでベッドに入った。スタンドを消し、毛布を肩まで引き上げて目を閉じた。
克彦が風呂場に入る物音が聞こえている。
あの人は確かに別れてくれと言った。あの人のことだから、口に出したということは、すでに覚悟を決めたということに違いない。なぜなんだろう。一体何があったというのだろう。
恭子は最近の夫の様子に変わったところがなかったか思い出そうとしたが、特にそういう記憶は残っていない。夫婦が別れるということは、その前に何か前兆がなければおかしいのではないか。
そこまで考えて、恭子は嫌な予感に胸が重くなった。女の人? あの人にそんなことができるはずが……。考えるのが嫌になって恭子は眠ってしまおうとしたが、焦れば焦るほど頭が冴えてくる。
寝室のドアの開く音がした。恭子は隣のベッドに背を向けた。何か言うかと体を硬くしていたが、克彦は何も言わずに自分のベッドに入った。
すぐに隣から鼾が聞こえてきた。恭子は両手で耳を押さえた。それでも聞こえてくる。このままの姿勢で眠れたらと思うが、眠気は全く来ない。
鼾が止まれば眠れるのではないかと塞いだ耳の間から聞こえてくる音を気にしていると、また腹が立ってきた。怒りの気持ちがますます恭子から眠気を遠ざけた。
しばらく我慢していたが、一旦止まった克彦の鼾が再び始まると、恭子は目を開けた。毛布をめくり体を起こす。スタンドを点け、二つのベッドの間に足を下ろした。
「ねえ」
口を開け、鼾をかきながら眠っている克彦に声を掛けた。反応はない。
「ねえ」
もう一度、今度は大きな声で言う。しかしやはり克彦は目を覚まさない。
恭子は立ち上がって克彦の肩を手で押した。
「ねえ、起きてよ」
鼾は止まったが、克彦は目を覚まさず、うーんと唸って横向きになった。酒くさい臭いがもわっと漂ってきた。
「ねえ、起きなさいよ」恭子は乱暴に肩を揺すった。「眠った振りをするなんて卑怯よ。ちゃんと起きて話しなさいよ」
それでも克彦は眠ったままだった。その寝顔を見ていると、先ほどのやり取りが実際にあったとは思えなくなった。夫は何か別の言葉を喋ったのではないか、あるいは冗談として言った……。しかしすぐに、そんな冗談を口にできる人ではないという思いが、恭子を現実に引き戻した。
恭子はキッチンに行き、冷蔵庫のミネラルウォーターを一口飲むと、寝室に戻ってベッドに横たわった。
鼾がまた聞こえてくる。恭子は何も考えまいとして、一〇〇、九九、九八と数字を逆に数えようとしたが、不安感が胸を圧迫して、続けることができなかった。
結局一睡もできず、恭子はいつもより一時間も早く午前五時過ぎにベッドを離れた。
克彦は規則正しい寝息を立てている。
寝室を出た。居間のソファーには背広が脱ぎっぱなしになっていたが、片づける気も起こらず、恭子は洗面所に行った。
鏡を見ると、眼が充血している。何もしないで一日中寝ていたいと思う。しかしそんな思いを振り払うように恭子はパジャマの袖をめくり上げ、洗顔フォームで丹念に顔を洗った。ぬるま湯で洗い流し、タオルで拭うと、ようやくさっぱりとした気分になった。
バルコニーに面した和室に行って部屋着に着替え、鏡台の前に坐った。自分の顔を見ながら髪をブラッシングする。やはり、夫が離婚を切り出したのは、女がいるせいだと思う。それ以外に突然の理由が思い付かない。恭子は克彦が遅く帰ってきた夜や休日出勤した日の様子に女のいる兆候を探そうとしたが、そもそも記憶自体が曖昧なままだ。何か前兆があったのに夫にそんなことができるはずがないという思い込みのせいで気がつかなかっただけかもしれない。
いやと恭子は思う。あの人に女を作るような真似ができるだろうか。恭子は分からなくなった。もっと別の考えられないような理由があるのではないだろうか。
恭子はブラッシングの手を止めて、自分の顔をじっと見た。肌に張りがなく、額にも目尻にも皺が目立つ。四十三の女の顔には見えない。
取り返しのつかない気持ちを抱えながら、恭子は顔にファンデーションを塗り、外出する時以外はしないアイメークをした。淡い色の口紅も塗ってみる。
化粧を施した自分の顔を見て、ようやく気持ちが落ち着いた。背筋がぴんと伸びた思いだった。
居間に行き、ソファーに散らばっていた背広とワイシャツを片づけ、キッチンで朝食の用意をした。
七時になって、恭子は香苗を起こした。香苗は五分ほどで部屋から出てきて洗面所に入ったが、そこからなかなか出てこない。
「いつまで顔を洗ってるの。さっさと朝ご飯、食べなさい」
恭子は廊下に出て大きな声を出した。
しばらくして香苗がキッチンに姿を見せた。この前買ってやったジャンパースカートを穿いている。朝シャンプーをしたらしく、髪が所々生乾きだった。
「朝シャンは髪によくないの、知ってるでしょ」
「だって、髪型が決まらないんだもん」
「髪を傷めて困るのは、香苗自身なのよ」
「わかってまーす」
トースターが鳴った。焼けたパンを皿に乗せてカウンターに出していると、「ママ、どこかへ出掛けるの」と香苗が訊いてきた。
「出掛けないけど、どうして」
「メイクしてるもん」
「ああ、これ」恭子は少し動揺しながら「久し振りのいい天気だから、ぱっと気分を変えたかったの」
バルコニーに面した窓から朝の光が射し込んでいた。
「ふーん」
大人びた口調で頷くと、香苗はカウンターの向こうに回り込んだ。丸椅子に腰を下ろして、マグカップの牛乳を一口飲む。そしてトーストにマーマレードを塗って食べ始める。
「サラダも食べなきゃだめよ」
恭子がそう言うと、香苗はこちらをちらっと見、温野菜にマヨネーズをたっぷり絞ってかき混ぜる。
「太る、太ると言ってる割には、カロリーの高いものをかけるのね」
「だったら食べない」
香苗は箸を放り出した。
「何言ってるの。食べなさい」
恭子は香苗を睨みつけた。香苗は知らん顔をしてトーストをかじっていたが、「食べるのよ」と恭子がきつい声を出すと、のろのろとした動作で箸をつかんだ。
「ママ、きょうはちょっと変。嫌みなことばっか言うんだもん」
恭子は聞こえない振りをして横を向き、シンクで包丁とまな板を洗った。
「パパを起こさなくていいの?」と香苗が言う。
「パパはきのう遅かったから、きょうはゆっくりでいいの」
「ふーん」
香苗が朝食を食べ終える頃、パジャマ姿の克彦が寝室から出てきた。髪の毛が逆立ち、腫れぼったい目をしている。
「パパ、おはよう」香苗が明るい声を出す。
「どうしてもっと早く起こしてくれなかったんだ」克彦が不機嫌そうな声で誰に言うともなく言った。
香苗が振り返って恭子を見た。その目を避けるように恭子は手を伸ばしてカウンターの皿とマグカップを取ってシンクに入れた。
克彦はそのまま洗面所の方へ歩いていく。
「ママがゆっくりって言ったんだよ」と香苗が口を尖らせた。
恭子は手をキッチンタオルで拭うと、洗面所に行った。克彦が顔を洗っている。
タオルで拭くのを待ってから、恭子は小声で、しかし強く「きょうは会社を休んで」と言った。
「だめだ。実験があるから」
「何が実験よ。昨夜の話の続きをするのが当然でしょ」
「そうは言ってもなあ……」
「じゃあ、昨夜の話はなかったことにして下さい」
言ってから、恭子は自分の言葉に驚いた。
克彦はしばらく黙っていたが、やがて「分かった。休む」と言うと、恭子の横をすり抜けた。
洗面所の出入り口のところで、香苗が顔を覗かせている。あっと思ったが、克彦とすれ違うように香苗は自分の部屋の方向に走った。
恭子が廊下に出てみると、香苗の姿も克彦の姿もなかった。
キッチンに戻り、克彦の朝食をダイニングテーブルに運ぶ。姿を見せたらパンを焼こうと思っていたが、克彦はなかなか現れない。
そのうち八時になり、恭子は玄関横の香苗の部屋の前に立った。
「香苗、時間よ」
しかし香苗は出てこない。
「みんなを待たせちゃだめでしょ。あなた、班長なんだから」
ドアが開いて香苗が出てきた。赤いランドセルに黄色い帽子、手には小学校のマークの入った旗を持っている。
「忘れ物ないわね」
香苗は黙って靴を履いた。そして玄関ドアを開ける。恭子がいってらっしゃいと言おうとした時、「ママ、パパと喧嘩したの?」と香苗が言った。
「けんか? そんなことしてないわよ……」
動揺しながら、どうしてという言葉を飲み込んだ。
「そうなんだ」
香苗はあっさりとした口調で言うと、いってきまーすと旗を振って、出て行った。
克彦はまだ自分の部屋から出てこない。恭子は自分の朝食をテーブルに運んだ。最初は克彦の坐る正面に温野菜の皿やマグカップを置いたが、気が変わって、斜め横に置き直した。椅子に坐って温野菜を少し箸で摘む。
正面の窓全体に掛かっているレースのカーテンが朝の光を受け、ぼんやりと光っている。居間にも光が溢れている。それを見ていると、恭子は自分がとんでもなく下らないことに巻き込まれている気がした。
克彦が姿を見せた。昨夜の背広を着、同じネクタイを締めている。
「会社に行くんですか」
唖然とした気持ちを抑えながら恭子は尋ねた。
「昼から行くことにした」
この人は三時間くらいで話を終わらそうとしている! 怒りの感情が突然湧き起こり、恭子は奥歯を噛み締めた。
椅子から立ち上がってキッチンに行き、トーストを焼いてテーブルに運ぶ。
克彦がマグカップの牛乳を飲み干した。
「牛乳、まだ飲みます?」
「……ああ」
恭子は一瞬まだ口をつけていない自分の分を渡そうかと思った。しかし、それを振り払うように空のマグカップを掴むと、キッチンに立ち、牛乳を入れてきた。
克彦は牛乳を飲むと、トーストにバターを塗って一口囓り、一緒に温野菜を口に入れた。恭子も椅子に腰を下ろして朝食を食べた。
窓の外から子供たちの微かなざわめきが聞こえてくる。恭子はこのまま何事もなく過ぎてしまうような感覚にとらわれた。
克彦を見る。俯き加減にテーブルに目をやりながら黙々と食べている。
「あなた、女の人がいるんでしょう」
口からふっと言葉が出た。
「え?」
克彦が温野菜に伸ばした箸を止めて、こちらを見た。
「女の人がいるから、別れてくれなんて言うんでしょう」
克彦はじっと恭子を見ていたが、やがて目をそらすと、口の中でうんと言いながら頷いた。やっぱり。肩から力が抜けるのを感じた。
「会社の人?」
「いや……」
「どこの人」
「………」
「どんな人」
克彦が眉根を寄せて黙り込んだ。
「相手がどこの誰か知りたいと思うのは、当然の気持ちでしょう。私、何か変なことを言ってる?」
「……今は訊かないでくれ」
「まさか、私の知ってる人じゃないでしょうね」
寄せていた眉根がさっと上がり、克彦は何度も瞬きをした。恭子は鼓動が速くなるのを感じた。
「私の知ってる人?」
克彦の目が動いた。
夫も自分も知っている女性なんて、いたのだろうか。私が一緒にテニスをする人たちとは、夫は全く面識がないはずだ。たまに来る学生時代の友達にも、会っていないはずだ。恭子は思いを巡らしたが、共に知っている女性がいるとは全く思えなかった。
「ねえ、誰なの。教えて」
克彦は首を振った。
「もうあなたは、別れてくれって言ったのよ。今更相手のことを隠して、どうするの」
なおも言い募ると、克彦が小声で何か言った。
「え? 何て言ったの」
「……みつこ」
「みつこって、誰」
「しのだみつこ」
しのだみつこ? みっちゃん? 姪のみっちゃんなの? まだ、子供じゃないの。頭の中が一瞬真空になったが、すぐにあり得ると思った。勉強を教えに行った時に……。急に胃が痛くなり、ぐるぐると鳴り出した。吐いたら楽になりそうな気がして、恭子はキッチンに走り込んだ。
しかしシンクに屈んでも吐き気はやって来そうで来ない。ますます胃が痛くなり、恭子はシンクの縁を掴んだまま、床にへたり込んだ。横になると、痛みが少し治まる。
「すまん」
横を見ると靴下をはいた足が見え、恭子は顔を上げた。克彦の視線が真下に向いている。
「そんなの、絶対だめよ」恭子は声を絞り出した。「絶対だめ。絶対許さないわ」
「それは分かってる。しかし彼女、妊娠してるんだ」
恭子は何か叫ぼうとして口を開けたが、腹に力が入らず、出てきたのは言葉にならない掠れた声だけだった。呼吸が速くなり、いくら空気を吸っても息苦しくて恭子は口を大きく開けた。手足が痺れてき、床に腹這いになった。
「大丈夫か」
克彦の手が肩に触れた。恭子はその手をはねのけようとしたが、体が言うことをきかず、肩を捻るのが精一杯だった。
「触らないで」
掠れた声で言うと、克彦の手がすっと離れた。
自分の体がどこか遠くへ行ってしまったような感覚に耐えながら、恭子は腹這いのままじっとしていた。そのうちフローリングの冷たさを頬に感じ始め、その心地よさを意識していると次第に呼吸が落ち着いてきた。手足の感覚も戻ってくる。
恭子は床に両手をついて、ゆっくりと上半身を起こした。横座りになって、自分の体を点検してみる。大丈夫、吐き気はない。
流しの縁を片手で掴んで、恭子は立ち上がった。カウンター越しに見えるバルコニーの窓には、相変わらず朝の光が溢れていた。自分とは無関係に光がそこにあることに、恭子は不思議な感覚を抱いた。
キッチンを出て居間に行くと、ソファーに坐っていた克彦が立ち上がった。
「大丈夫か」
それには答えず、恭子は寝室のドアを開けた。そして体半分入れたところで、振り返った。
「みっちゃんとは、家庭教師に行ってた時からなの?」
克彦は驚いた顔をし、「違う、違う」と激しく手を振った。「大学に入ってから、偶然街で会って」
「そう」
恭子はそのままの恰好でベッドに横たわり、毛布を被った。
ドアが開き、「おれ、会社に行ってもいいかな」という声が聞こえてきた。首を捻ってその方を見ると、逆光の中に影が立っていた。
「考える時間がほしいから、しばらく家に帰ってこないで」
「……分かった」
ドアが閉まった。
目を閉じていると、隣の克彦の部屋から物音が聞こえてくる。これで終わりになると恭子は漠然と思った。香苗に何も相談せずに決めてしまうのは親として失格のような気がするが、もう二度と一緒には暮らせそうにない。
克彦が玄関を出て行った。予備の鍵を渡していないから、鍵は掛かっていないだろう。鍵を掛けなければと思うが、起き上がる気にはなれない。
克彦から投げられたボールを、どう投げ返したらいいのか恭子には分からなかった。誰かに相談すべきだろうとは思うが、その相手が思い付かない。
美津子の顔が思い浮かぶ。正月に遊びに来た時の顔だ。細目の眼鏡を掛け、少しはにかみながら話す子供っぽい表情。香苗がまとわりついて冬休みの宿題を教えてくれるよう甘えた声を出していた。何も正月に勉強しなくてもいいでしょと恭子はたしなめたが、「小学校の算数って結構難しいのよね」と美津子は笑いながら応じたのだ。
昼食時に克彦とはセンター試験の話をしていた。親しげに話していたが、それは半年前から週一回のペースで数学を教えてきたから当然だろうという気持ちで見ていたのだ。まさか、あのときにはと恭子は思うが、いやと恭子は否定した。そこは克彦の言葉を信じようと思う。
兄はこのことを知っているのだろうか。兄、祐一の顔が浮かび、義姉、弥生の怒ったような顔も横に並んだ。恭子は二人の顔を振り払うように首を振った。
あれからまだ十ヵ月しか経っていないのに、どうしてこんなことになってしまったのか、何が悪かったのか、恭子は考えれば考えるほど訳が分からなくなった。
香苗にこのことをどう話そうか。美津子と克彦とのことをどのように話せば、香苗にショックを与えずにすむだろうか。そのことを考えると、収められるものなら何事もなく元の鞘に収めた方がいいとさえ思ったほどだった。
少しうとうとし、目を覚ましたのは十一時過ぎだった。何もしたくなかったが、考えたくもなかったので恭子は起き上がった。
まずダイニングテーブルを片付ける。それから、玄関に行って鍵を掛け、香苗の部屋に入ってベッドに脱ぎ捨てられているパジャマを掴んで洗面所に行った。溜まった洗濯物を、生地の薄い物はネットに入れ、厚い物はそのまま洗濯機に放り込む。克彦の下着には触れたくなかったので、籠ごと持っていってゴミ箱に捨てた。
蛇口を捻って洗剤を入れ、スタートボタンを押す。ドラムの回る音を聞いていると、日常が戻ってきた気分になって、恭子は掃除もすることにした。
バルコニーの窓を全部開け、香苗の部屋の窓も開け、風が通るように途中のドアも開け放した。いつもより丁寧に掃除機を掛け、ホースの先も変えながら隅も掃除した。ただ克彦の部屋には入らなかった。
洗濯物を干していると、電話が鳴った。恭子は濡れたパジャマを持ったまま、息を殺した。鼓動が激しくなる。兄からだと思い、いや兄は会社だから弥生さんに違いないと思う。
電話はしつこく鳴り続け、恭子はじっとしながらその音を聞いた。
止まったので干すのを再開していると、また鳴った。間違いなく弥生さんだと思い、迷いながら恭子は干す手を止め、電話機の所に行った。一つ息を吐いてから、受話器を取る。
「もしもし」
「ああ、辻本さん。わたし、高岡です。ねえ、突然なんだけど、ランチ行かない?」
香苗の同級生の母親だった。車で迎えに行くからと言うのを、用事があるからと断ると、
「それはそうと、香苗ちゃん、来年どうするの。公立へ行かせるの?」と高岡が言った。
「そのつもりだけど……」
「S校にしない? うちの沙織はS校にやるつもりなんだけど、香苗ちゃんが一緒だと娘も喜ぶし、私も心強いんだけどなあ」
高岡は、中高一貫教育で大学進学の学力がつくとか、親のレベルがある程度以上なので変な子がいないなどと私立の利点をいろいろと並べ立て、「制服が可愛くて沙織が行きたがっているのよ。香苗ちゃんも制服を見たら、絶対着たくなるわよ」とまで言った。
恭子が曖昧な返事をしていると、「公立よりも私立の方が絶対いいわよ」と言い、「今度タダ券が手に入ったら、ランチ行きましょうね」と電話を切った。
恭子はどっと疲れを感じた。ソファーに体を投げ出し、目を閉じる。ふっと眠気が襲ってきた。このまま眠って眠って眠り続け、目を覚ました時には、すべてが終わっていたらどれだけいいだろうと恭子は思った。
しかし眠りに陥りそうになる意識を無理矢理起こし、恭子はバルコニーに向かった。香苗のパジャマがだらりと物干し竿に掛かっている。それを取り上げ、袖から竿を通した。
ヨーグルトに蜂蜜を混ぜただけの昼食をすませ、恭子はソファーにもたれてテレビのワイドショーを見た。しかし内容が一向に頭に入らない。もし別れることになったら、どうやって生活をしていけばいい。慰謝料と養育費だけでは生活できないから、私が働かなくてはならない。それにこのマンションのローンだって、まだ二十年ほど残っているので、それを誰が払うの。私と香苗がここから出て、夫と美津子がここに住むの?
恭子は、高岡の言った親のレベルとは経済的なレベルのことだと今更ながら思った。
香苗が帰ってくるまでに買い物に行かなくてはと思うが、体を動かす気がしない。晩ご飯は冷蔵庫の残り物で適当に作ろうと思いながらテレビに目をやっていると、いつの間にか眠ってしまった。
目を覚ましたのは三時半だった。あと一時間もすれば香苗が帰ってくる。不意に、香苗の好きなハンバーグを作ろうと思い立ち、恭子は体を起こした。
冷蔵庫の中を見て、足りない物をメモし、スーパーマーケットに行った。
帰って、スーパーの袋をテーブルに置いたまま、恭子は椅子に坐ってじっとしていた。ひどく疲れる。やはり作るのはやめて出前でも取ろうかと思ったが、そんなことをしたら香苗が敏感に何かを感じ取ってしまうと恭子は恐れた。既に朝のことで何かを感じているかもしれないので、それを助長するようなことは絶対に避けなければならない。
買った物を冷蔵庫に収めてから、洗濯物を取り込んでいると、チャイムが鳴った。玄関に行き、ドアスコープを覗く。香苗の顔が見え、恭子はドアを開けた。
「ただいま」
香苗の声や表情には何の屈託もない。「お帰り」と答えて、恭子は和室に戻った。
残りの洗濯物を取り込んで畳んでいると、香苗がにこにこした顔で姿を見せた。手には一枚の紙を持っている。
「ママ、この前の算数のテスト、何点だったと思う」
香苗は手にした紙を両手で摘むように持ち、小さく振ってみせた。
「八十点」
「ブー」
「じゃあ、九十点」
「ブー、はい、これ」
香苗が差し出したテスト用紙を受け取って、名前の横を見た。赤鉛筆で95と書かれ、花丸で囲われている。
「すごいじゃない、九十五点なんて」
恭子は意識して大袈裟に驚いてみせた。
「ここね」と香苗はバツの入った箇所を指さした。「公倍数の計算をちょっと間違えちゃった」
「惜しかったわね」
「もうちょっとで百点だったのになあ。でも、クラスで誰も百点取ってなくて、かなえの九十五点が最高なの」
香苗は自慢げに顎を少し上げた。
「クラスで一番なんて、すごい。よかったわね」
そう言いながらテスト用紙を返すと、香苗は物足りなそうな顔をした。もっと褒めるべきだとは思うが、気持ちがついて行かない。
「パパは今日も遅いの?」
洗濯物を畳んでいた恭子は、はっとして顔を上げた。
「え?」
「これを早く見せたいの」と香苗はテスト用紙を振った。
「パパはね……」恭子は一瞬迷ってから言葉を続けた。「今日は仕事で会社にお泊まりなんだって。ちょっと前に電話があったのよ」
「えー」
香苗は口を尖らせた。
「実験が追い込みに入ってて、しばらく帰れないんだって」
以前会社に泊まり込んだ時の理由だった。
「何だ、がっかり」
香苗はテスト用紙をひらひらさせながら、和室を出て行った。
畳み終わった洗濯物を持って香苗の部屋の前まで行くと、中から紙を手にして香苗が出てきた。赤い花丸に囲まれた95の文字がちらっと見える。香苗は恭子に笑いかけてから、隣の部屋に入っていった。
開け放たれたドアから中を見ていると、香苗は、雑誌や本、ノートパソコンで埋まった克彦の机の上を片付けて場所を作り、そこに紙を置いている。
出てきた香苗に、恭子は「はい、これ」と洗濯物を手渡した。
キッチンで玉葱を刻んでいると、香苗が来て「今日は何」と聞く。
「香苗が九十五点を取ったから、ハンバーグ」
「わあ、やったあ」
香苗がガッツポーズをする。
六時半からのアニメを見ながら、恭子は香苗と一緒にハンバーグを食べた。笑いながらテレビを見ている香苗に目を向ける。恭子は、すでに二人だけの食事がずっと続いているような感覚に捕らわれ、はっとした。
食事の後片付けをし、香苗と一緒にソファーに体を預けてテレビを見たが、どの番組も内容が頭に入って来ず、画面の表面を見ているような感じだった。途中で、「今日は勉強しないのって言わないね」と言って香苗が自分の部屋に消え、恭子は風呂を沸かした。香苗の後に恭子も風呂に入り、十一時過ぎにはベッドに横になった。
考える時間がほしいと克彦には言ったが、恭子は未だ何をどう考えたらいいのか分からなかった。克彦の相手が美津子だと聞いた瞬間から一緒には暮らせないとは思ったが、それがそのまま離婚に繋がることにはためらいがあった。決心のつかないことが、考えることを妨げているのは明らかだった。どうしたらいいという言葉の周りをぐるぐる回っているうちに、恭子は寝入ってしまった。
寝過ごしたと思ったが、まだ六時前だった。隣のベッドに目をやると、当然のごとく平らなままだ。また一日が始まると思うと、恭子はうんざりした。
重い体を起こし、部屋着に着替え、顔を洗う。朝食の用意をし、香苗を起こし、食事をせき立て、「忘れ物ないわね」と送り出す。
ぐったりしてソファーに寝そべっていると、九時過ぎに電話が鳴った。
夫からだ。体を堅くしてベルの音を聞く。何回か聞いていると、ひょっとしたら弥生さんかもという気がした。動悸がする。
恭子は一瞬ためらってから、受話器を取った。
「もしもし」
「辻本さん? 私、池田です。きょう、来れる? まだ、三人しか来てないのよ」
テニス仲間の一人だった。きょうがテニスの曜日であることをすっかり忘れていた。
「ごめん、きょうはちょっと無理なのよ。来週行きますから」
「あら、そう。それは残念。じゃあ、石井さんを誘ってみるわ」
受話器を置く。恭子はふっと溜息をついたが、同時に、電話の音でびくびくするのはもううんざりという怒りの感情が湧いてきた。一人で考えても前へ進まないのは明らかだった。
恭子は再び受話器を取り上げると、登録してある克彦の携帯電話の番号を押した。しかし呼び出し音が長く続くだけで、克彦は出ない。私からだと分かっているから出ないのだろうか。恭子は受話器を置き、会社に電話をしようとして、やめた。携帯電話に出たくない者を無理に呼び出す気にはなれなかった。
テニスに行って、何も考えずにボールを追えば、少しは気分も晴れるかもしれないと思い、本当にそうしようかと押入からラケットの入ったバッグを取り出していると、電話が鳴った。
今度こそ、夫だ。居間に戻り、恭子は受話器を取り上げる。
「もしもし」
「あ、おれ。さっき、電話くれただろう」
「はい」
「実験室に籠もっていたから出られなかったんだ。すまん」
「一度、じっくり話し合いたいと思って。でないと、こちらの決心もつかないから」
「分かった。今晩、なるべく早く帰る」
「ここでは駄目。香苗がいるから。どこか外で会いましょう」
「それじゃあ、おれが泊まっているカプセルホテルはどう。七時にはそこにいるようにする」
「香苗を一人にするわけにいかないから、夜は駄目。昼休みに会いましょう。カプセルホテルは会社から近いの?」
「いや、近くない」
「会社の近くに何かないの」
「喫茶店くらいか」
他人に話を聞かれるのは嫌だ。
「公園はないの?」
「ある」
そこで話をすることにし、十二時に駅まで迎えに来てもらうことになった。
家を出るまでには、まだ十分時間があった。恭子は鏡台の前に腰を下ろすと、髪をブラッシングし、ロッドで髪の毛を巻いた。それから、小皺を隠すように念入りにファンデーションを施し、アイメイクをし、眉を描く。さらに口紅の上から、あまりいやらしくならないようにグロスも少し塗ってみた。顔全体を見て、頬がぼんやりしていたのでうっすらとチークを入れた。ロッドを外し、手ぐしを通しながらスプレーを掛ける。
合わせ鏡で後ろを見、頭を左右に動かして横顔を確認した。
化粧が終わると、ようやく話し合いに望む態勢が整ったような気持ちになった。
次に、着ていくもので恭子は迷った。フォーマルっぽいスーツにするか、カジュアルにするか。パンツにするか、スカートにするか。日頃家ではパンツスタイルばかりなので、スカートを穿くことにした。夫にいつもとは違う自分を見せたいという気持ちがあるのは確かだった。白黒花柄のプリーツスカートを取り出し、黒のニットアンサンブルを合わせる。そして黒のパンプスを履いて、恭子はマンションを出た。
一旦都心に出て、そこから私鉄で郊外に向かう。急行で二十分ほどで目的の駅に着き、一つしかない改札口を通って、恭子は駅舎を出たすぐのところに立った。時計を見ると、十二時五分前だった。
人を待つというのは、結婚以来なかったことだった。恭子の脳裡に克彦と付き合い始めた頃のことが蘇ってくる。
あの頃、恭子は七年間付き合った男と別れたばかりだった。大恋愛だと思っていた最初の熱が薄れてくると、男のいい加減さ、だらしなさが鼻についてきた。それでもずるずると関係を続けたのは、男が結婚を意識したら変わるのではないかという漠然とした願望があったからだ。
それはある意味で当たっていた。
ある日、男が突然別れを切り出し、理由を尋ねると、結婚すると言う。相手は取引先の会社の社長令嬢で、恭子が騒ぎさえしなければうまくいくと男は言った。
嘘くさい話だとは思ったが、問い詰めるのも馬鹿馬鹿しくて、恭子は「お幸せに」と啖呵代わりに言って、男の部屋を出た。
友人は「長すぎた春だったのよ」と事も無げに言い、恭子も「そうかもしれないわね」と応じたが、心の中では反発していた。二十代の七年間が、その一言で葬り去られるのは、耐え難かったのだ。
しかし自分の春が終わったという感覚はあった。週末、アパートの一室で一人分の食事を作って、一人で食べていると、自分が宙ぶらりんでどこにも繋がっていないのではないかという足許の定まらない怖さを感じた。一人で歳を取り、一人で死んでいく……小さな部屋で孤独死する自分の後ろ姿が見えた気がした。
恭子は、どうしてあんなにあっさりと別れたのかということに苦しむことになった。騒ぎ立てて男の結婚を破談に追い込むこともできたのだ。自分だけが一人でいる恐怖を感じるのは不公平である気がした。しかし絶対に自分は騒ぎ立てないということも分かっていた。騒ぎ立てた方がどれだけ楽か分からないが、そうはできない。昼間はそんな苦しさなどおくびにも出さないで、商事会社の経理の仕事をし、夜はシングルベッドで眠れない日々を過ごした。
そんな時、友人の一人から、克彦を紹介されたのだった。自分より二歳年下の克彦は、大手化学会社の研究所に勤める技術者だった。真面目そうで、女性とあまり付き合ったことがないような印象を受けた。
実際に付き合ってみても、最初の印象は変わらなかった。恭子にとって心ときめく相手ではなかったが、結婚相手としては理想的に思えた。何よりこちらの心をかき乱さないように振る舞ってくれるのが好ましかった。
付き合い始めて半年後には、克彦のプロポーズを受けて結婚した。一年後には香苗が生まれ、マンションも購入した。それから十二年間は何事もなく来たのだ。
正午を五分ほど過ぎて克彦が駅舎の角から姿を現した。深緑の作業着のようなものを着ており、俯き加減に歩いてくる。手にはレジ袋を提げている。恭子は壁から背を離し、近づいていった。
克彦は顔を上げて恭子に気づくと、はっとした表情をしたが、すぐに目をそらせた。驚いた顔をしたのは、自分のスカート姿のせいかと恭子は思ったが、彼女にしても夫の作業着姿を見るのは初めてだった。そういう姿同士でこれから離婚話をするのは何とも皮肉な気がして、恭子は内心で笑った。
克彦の作業着の胸に、大井化学株式会社という刺繍が入っている。
「公園は近いの?」
「すぐそこ」
克彦は顎をわずかに動かした。手にしたレジ袋の底は四角い形になっており、弁当を思わせた。それを見やりながら、恭子は克彦の後ろからついて行った。
公園は噴水もある結構広い場所だった。芝生の外苑に沿ってベンチが置かれており、そのいくつかには制服を着たOLたちが弁当を広げていた。遠くの芝生には十数人の年寄りの姿があり、ゲートボールをやっているようだった。
公園に入ると、恭子が先に立って歩き、OLたちとなるべく離れたベンチに腰を下ろした。克彦も三十センチほど間を空けて坐り、レジ袋を横に置いた。
「昼休みはいつまで?」
「一時までだけど、少々遅くなっても大丈夫なんだ」
「そう」
一時間足らずで何が話せるか分からないが、何か話さなければならない。
雲が切れ、陽が射してきた。肩の辺りが暖かくなる。
「どうしてそうなったの」
「うん?」
「どうして、みっちゃんとそうなったの」
「ああ……」
しかし克彦はその後を続けなかった。恭子は言葉で促したいのを我慢して、離れたところに降りている鳩の群れを見ていた。
沈黙がしばらく続いてから、「ハツコイ、かな」と克彦がぽつりと言った。
初恋? 恭子は驚いて夫を見た。克彦は両手を膝の間に入れて地面を見ている。この人は何を言っているのだろう。
「初恋って、みっちゃんが、ってこと?」
「いや」と克彦は顔を上げて恭子を見た。「おれが……」
「子供みたいなこと、言わないで」
「すまん」
克彦は再び下を向いた。
「つまりは、好きになったということね」
克彦が頷く。
「それで、こんなこと訊くのは野暮かもしれないけれど、どうして好きになったの」
克彦が顔を上げた。
「彼女、理系なんだ」
「………?」
「数学のセンスも抜群で、おれよりもいいかもしれない。高校生レベルでは難しいかなと思いながら、おれが今やっている導電性高分子の話をしたんだけど、大体理解してしまうんだ。どこが分からないかもちゃんと分かっていて、そこを丁寧に教えると、今度は、鋭い質問をしてくるんだ。すごいよ。あんな女の子に今まで会ったことはない。家庭教師で教えてても、楽しくて……」
「もういい。分かったわ」
克彦は口を噤んだ。
「あなたの初恋は分かったわ。おめでとう。でもそれがどうして私たちの家庭を壊すことになるわけ?」
「彼女、妊娠してるんだ」
「それは聞いたわ。でもそのために別れるというのは、身勝手なんじゃない?」
「じゃあ、どうすればいい」
そんなこと、私の口から言わせる気、と恭子はかっとなりかけたが、冷静に冷静にと自分に言い聞かせる。
「みっちゃんはどう言ってるの」
「一人になっても生むって……」
「だったら、そうしてもらったら」
「そんなこと、できるわけないだろう。分かってくれよー」
克彦が泣きそうな声を出した。
「泣きたいのは私の方よ」思わず、大きい声になった。一つ空いた隣のベンチで弁当を食べていた三人組のOLたちが、一斉にこちらを見る。恭子は声を落とした。
「このことをどういうふうに香苗に話せばいいの。昨夜だって算数で九十五点取って、テスト用紙をあなたの机の上に置いているのよ。あなたが算数の点が良ければ喜んでくれるのをよく知ってるからよ。それに、みっちゃんのことだって、香苗はお姉さんみたいに思っているんだから」
克彦は下を向いたまま、応えない。
「兄のところには話したの?」
「いや、まだ……」
「私たち二人だけで物事を決められないわ。兄やお義姉さんがどう言うか……」
「先にこちらで決めておいて、それから向こうに話をしようと思ってたんだけど……」
「そんな数学みたいには行かないわ。私だって、みっちゃんと話をしたいし、兄やお義姉さんの意見も聞かなければならないし……」
「……そうだな」
三人組のOLたちが、恭子たちをちらちら見ながら立ち上がった。
「お弁当、食べたら?」
「ああ」
克彦は横に置いていたレジ袋からコンビニ弁当を取り出した。シャケの切り身が見える。
「食事はどうしてるの、ホテル?」
「ホテルは朝だけ。後はこの辺で適当に……」
克彦が割り箸を割って、食べ始める。夫が弁当を食べている姿を恭子は初めて見た。そのせいか、それはすでに自分から遠く離れた姿に見えた。恭子は居たたまれなくなってベンチから立ち上がった。
「じゃあ」
「うん」
少し行くと、「恭子」と呼び止められた。恭子はどきりとした。振り返ると、克彦が割り箸を持ったままこちらを見ていた。
「香苗には申し訳ないと思っている」
「分かったわ」
そう答えて、恭子は再び歩き始めた。あの人は私の服装を見ても、何も言わなかった。たぶん気づかなかったのだろう。それに私の化粧にも。
その日から恭子は覚悟して兄の家から電話が掛かってくるのを待ったが、掛かってこなかった。克彦も迷っているのだと思うと、ひょっとしたら帰ってくるかもしれないという気がし、もし帰ってきたらどうしようと恭子は考えた。
土曜日になって、克彦が帰ってこないことがはっきりすると、「パパ、どうして帰ってこないの。会社はお休みでしょ」と香苗が言い出した。
「パパの仕事はね、忙しくなると休みなんて関係なくなるのよ。分かってあげなさい」
「だったら、電話しよう」
「だめよ。仕事の邪魔をしちゃ」
「お昼休みなら、いいでしょう?」
「お昼休みもだめ」
「どうして」
「……パパの仕事は頭を使う仕事だから、お昼休みも頭を働かせているの。わかった?」
「はーい」
答えてから、香苗は頬を膨らませた。
しかし恭子が買い物に行っている間に克彦に電話をしたらしく、帰ってくると、
「パパ、いつでも電話していいって言ってたよ」と香苗が抗議するように言った。
「あ、そう」
軽く受け流しながら品物で膨れたレジ袋をテーブルに置いた。まさか離婚のことを言ったのではと思いながら、恭子は香苗の次の言葉を待った。
しかし香苗が言ったのは意外なことだった。
「パパのケータイに掛けたら、女の人が出たんでびっくりしちゃった」
恭子ははっとし、出たのは美津子だとぴんと来た。
「それで?」
「かなえ、ドキドキしながらパパお願いしますって言ったら、しばらくお待ち下さいって女の人が言って、パパが出たの。実験室に籠もっていたから、秘書にケータイ渡してたみたい。パパって秘書が付いてるんだ。すごいよね」
恭子は娘の様子を見て、本当に秘書だと思っているようなのでひとまず安心した。いや、ひょっとしたら本当に秘書かもという気がちらっとしたが、克彦に秘書がいるわけがないと自分を嗤った。二人が一緒にいるところが不意に頭に浮かび、同時に胸の奥が押し潰されるような感覚があった。恭子は胸に掌を当てた。
美津子が夫の携帯電話に出たのは、私からだと思い込んでいたのだろう。ということは、私と話がしたかったのか……。
「パパ、かなえが算数で九十五点取ったこと、知ってたよ。ママが教えたの?」
「え?……ああ、そう」
「そんなの、ずるい。かなえには電話するなって言っておいて、ママはしてるんだもん」
「ママだってしたくはないわよ。用事があるから仕方なく電話するんじゃないの」
つい大声になった。
「かなえだって用事があるんだもん」
「だったら、すればいいじゃない。パパがいつでも電話していいって言ったんでしょ」
香苗は脹れっ面をして自分の部屋に駆け込んでいった。
恭子は溜息をつき、買ってきた品物を冷蔵庫に詰め始めた。
その夜、九時過ぎに電話が掛かってきた。受話器を取り、「もしもし」と答えると、「恭子か、おれだ」と兄、祐一の声がした。低く沈んだ口調だった。
ついに来たかと恭子は大きく息を吸った。
こちらを見ている香苗に、テレビの音量を下げるように手で示した。香苗がリモコンを取って音を小さくする。
「克彦くん、いるか」
「いいえ」
「どこにいる」
「ちょっと……」
「お前、知ってるのか、克彦くんと美津子のこと」
「ああ、そのこと。それだったら、また後で電話するわ。今はちょっと……」
「香苗がいるのか」
「そういうこと」
「わかった。待ってる」
「それじゃあ」
受話器を下ろすと、香苗は再びテレビの音を大きくした。
「香苗、宿題しなくていいの?」
「すんだ」香苗がテレビに目を向けたまま答える。女性タレントたちがお互いを格付けする番組で、今までなら娘と一緒に、ああでもない、こうでもないと言い合いながら楽しんでいたのに、今は実に下らない番組にしか思えなかった。
番組が終わり香苗は風呂に入った。出てきてからもパジャマ姿のまま、居間でぶらぶらしていたが、十一時過ぎに自分の部屋に行った。恭子は香苗の部屋の前で中の明かりが消えるのを確認してから、居間に戻り、電話機を和室に引き込んだ。
畳の上に横座りになって、兄の家に電話を掛ける。祐一が出て、恭子は、香苗がなかなか寝なくて遅くなったことを詫びた。
「克彦くんは、今どこにいるんだ」
「どこかのカプセルホテル」
「出て行ったのか」
「私の方から、一人で考えさせてと言って、出て行ってもらったの」
「どうしてそんなことをしたんだ」
「どうしてって、離婚してくれって言われて、一緒に暮らせるわけがないじゃない」
恭子は祐一に腹を立てた。
「離婚を承知したのか」
「だから考えさせてって言ったのよ」
「そうか……」
祐一が黙り込んだ。
「みっちゃんはお兄さんに何て言ったの」
「それがなあ……いきなりだよ、いきなり。晩飯を食べている時に、妊娠したから大学やめて子供を生むって言い出したんだ。おれも弥生もびっくり仰天して、相手は誰だって問い詰めたんだが、なかなか口を割らなくて、ようやく口を開いたかと思うと克彦くんの名前を出したんだから。それを聞いて弥生はパニックだよ、もう」
「ごめんなさい」思わず口から出た。
「克彦くんが美津子の相手だというのは本当なのか」
「本人がそう言ってるわ」
「家庭教師を頼んだのが間違いだったか」
「………」
「とにかく離婚なんて早まった真似をしないでくれよな」
「そのつもりだけど、分からないわ」
「離婚なんかして、どうやって香苗を育てていくつもりなんだ」
「………」
「とにかく明日集まって話し合いたいんだ。来てくれるか」
「明日?」
「うん、昼過ぎにでも。弥生は絶対反対なんだから話し合う必要なんかないって言ってるが、そうもいかんだろう。美津子は思い詰めていて、家を出るって言ってるし……」
「克彦さんは?」
「美津子に呼ぶように言ったが、来るかどうかわからん。お前、克彦くんの携帯電話の番号が分かっているんだったら、教えてくれないか」
「……いいわ。私から連絡する。何時に行けばいいの」
「二時だ」
「分かった」
受話器を置き、一呼吸置いてから、登録してある克彦の番号を押した。三回の呼出音の後、克彦が出た。
「遅くにごめんなさい。みっちゃんが兄に話して、兄から電話があって……」
「聞いた」
「みっちゃんから連絡があったの?」
「うん、さっき」
「来るの?」
「そう伝えた」
相手が切ろうとする雰囲気だったので、恭子はあわてて、「きょう、みっちゃんと一緒だったでしょ」と言ってみた。
「うん?」
「香苗から電話が掛かってきて、出たの、みっちゃんなんでしょう」
「……そうだ」
「どうしてそんなことをするの。香苗はまだ何にも知らないのよ」
声が大きくなった。
「すまん。彼女がそっちだと思って出てしまったんだ」
「たぶんそんなことだと思った」
「……で、香苗は気づいたのか」
「そっちがごまかしてくれたお陰で、気づいてはいないみたい」
「そうか」
「今後家からの電話は必ずあなたが出てよ」
「分かった」
受話器を置き、恭子は両手を擦り合わせた。汗をかいていることに初めて気づいた。
風呂に入りベッドに潜り込んだが、明日のことを思うとなかなか寝付かれなかった。どうなるのだろうという不安を、自分はどうしたいのだと考えることで追いやろうとして、頭が熱を帯びた。恭子は起き上がりたいのを我慢して、目を閉じ続けた。
寝不足のまま恭子は七時過ぎに起き、自分だけの朝食を摂って、洗濯機を回した。香苗がこのまま昼過ぎまで起きてこなければ、書き置きだけして家を出てしまおうと思っていたが、十時を回ったところでパジャマ姿で現れた。香苗の朝食を用意しながら、恭子は「ママ、昼から出掛けるから留守番お願いね」と声を掛けた。寝起きの顔でぼんやりしていた香苗は、ふーんと気のない返事をしたが、牛乳を一口飲んだところで、「パパの所に行くの?」と訊いてきた。
「いいえ、お友達に会いに行くの」恭子は動揺を抑えて静かに答えた。
「あー、ママ、ランチするんでしょ」
「そんなこと、しません」
「この前、ワイドショーでやってたもん。夫が五百円のコンビニ弁当を食べてる間に、妻が友達とホテルの四千円のランチを食べてるとこ」
「ランチなんか食べないって言ってるでしょ」
恭子の大きな声に香苗が首をすくめた。
「冗談に決まってるのに、何で怒るのかなあ」
恭子はさらにむかっときたが、「朝食が済んだら自分で片付けなさい」と言いつけて寝室に入った。クローゼットを開ける。何を着ていこうかと思うが、考えがまとまらない。この前と同じでいいことにして、ベッドに横になった。目を閉じていると、ふっと寝入ってしまいそうになり、いっそこのまま眠って行かないでおこうかという思いが頭をかすめた。
しかし恭子は無理矢理体を起こした。
寝室を出ると、香苗の姿がなかった。流し台を見ると、食器乾燥機に皿やマグカップが洗って置いてある。
カレーの残りで食事を済ませ、外出着に着替えた。香苗の部屋の前で、「出掛けてくるから留守番お願いね」と声を掛けた。
玄関で靴を履いていると、香苗がドアを開けて姿を見せた。恭子の体を下から上へ見上げる。
「本当にパパの所に行くんじゃないの?」と香苗が真剣な顔つきで訊いてきた。
「お友達に会うって言ったでしょ」
「何でパパの所に行かないのかなあ。パパ、ずっと一人で寂しがってると思うんだけどなあ」
「パパはお仕事で頑張ってるのよ。邪魔をしたらいけないでしょ」
「でも、洗濯物なんか溜まってると思うんだけどなあ」
恭子は無視してドアを開けた。
「ママが行かないんだったら、かなえが行ってもいい?」
一瞬迷ってから、「勝手にしなさい」と答えて、恭子はドアを閉めた。
兄の家の最寄りの駅まで電車を一回乗り継いで一時間ちょっと掛かった。以前の記憶を頼りに道を行き、家に着いた時には、二時を五分過ぎていた。
インターホンのボタンを押すと、「はい」という祐一の声がした。
「恭子です」
「今開ける」
恭子は鉄扉の掛け金を上から手を伸ばして外し、鉄平石を踏んで玄関先に立った。
ドアが開き、祐一が姿を見せた。難しい顔をしている。
「来てる?」
「ああ」
沓脱ぎには、見覚えのある黒い革靴が爪先をこちらに向けてきちんと並べられていた。恭子は玄関から上がると、屈み込んで自分のパンプスを革靴と離して並べた。
祐一の後について、応接間に入る。ソファーに深々と沈み込んでいた弥生が顔だけこちらに向け、じっと恭子を見た。目蓋が腫れているように見える。恭子は思わず小さく頭を下げた。
応接間には弥生の他に誰もいない。
「あの人は?」
恭子は小声で祐一に尋ねた。
「美津子の部屋にいる」
「………?」
「まず、われわれだけで話し合ってから、その後で二人と話そうと思っている」
「そうね」
恭子は弥生の向かいに腰を下ろした。弥生が大きな溜息をついた。
「いつまでも嘆いてても仕様がないだろう。これからのことを考えなきゃ」
弥生の隣に腰を下ろして、祐一が言った。
「分かってます」
しかし弥生の声は弱々しい。
「まず最初に、お前の考えを聞かせて欲しい。お前はどうしたいんだ」
いきなり崖っぷちに立たされた。恭子はこの一週間近くの自分の思いを振り返ってみた。克彦と一緒に暮らせないことは分かっている。しかしそれから先、どうしたらいいのか自分でも分からないのだ。
「克彦くんがその気なら、もう一度やり直す気持ちはあるのか」
「気持ちの離れた人間と一緒に暮らせるかっていうこと?」
「そうじゃない。もう一度気持ちを近づける努力ができるか、と言ってるんだ」
「無理。……でも、向こうが父親として暮らしたいというのなら、私も母親として暮らすことを考えてもいいわ」
「どういう意味だ」
「夫婦としては無理ってこと」
祐一が溜息をついた。
「それなら離婚しかないじゃないか」
「大体、恭子さんがいけないのよ」弥生がソファーにもたせかけた頭を左右に振りながら駄々っ子のような声を出した。「女として妻として、夫をしっかりと掴まえておかないから、よその女に手を出したりするのよ」
「こら、お前は何を言い出すんだ」
祐一が怒った。
「だって、そうじゃない。男四十一っていったら、大厄でしょ。一番危ない時期なのよ。そんな時は妻がしっかりと守ってやらなきゃ、男はふらふらとどこかへ行ってしまうものなのよ」
恭子は頭に血が上るのを感じた。無茶苦茶な論理だが、なぜか痛いところを衝かれた気がした。
「今更恭子を責めたところで、どうにもならないだろう」
祐一が苛々した声で怒鳴った。兄も責任の一端は私にあると思っているのだと思うと、恭子は更に頭が熱くなるのを感じた。
「だってぇ」と弥生が泣きそうな声を出した。「美津子はまだ十九なのよ。成人式も済んでないのよ。それにたった一人の娘なのよ。難関の大学に合格して、いずれは大学の研究者になる夢があって、私たちもそれを楽しみにしていたのに、そんな娘に手を出すなんて、妻子のある大人がすることじゃないわ。妻に不満があるからに決まってるじゃない」
「いい加減にせんか!」
弥生が顔を両手で覆って泣き始めた。その姿を見て、恭子はすうっと冷静になった。私に不満があったから、美津子に手を出したという弥生の理屈はコロンブスの卵のように恭子の腑に落ちた。
祐一が立ち上がった。
「二人を呼んでくる」
祐一が居間を出て行くと、弥生は立ち上がってサイドボードのティッシュペーパーを何枚か抜いて、目頭を拭い、鼻をかんだ。戻ってソファーに腰を下ろしても、恭子とは目を合わせようとはしない。
階段を何人かが降りてくる音が小さく聞こえ、居間のドアが開いた。
祐一に続いて美津子、その後ろに克彦がいた。祐一の陰から姿を見せた美津子を見て、恭子はあっと思った。正月の時とは別人の美津子がそこにいた。眼鏡を外した顔に薄く化粧をし、長い髪にはウェーブが掛かっている。淡いブルーのニットセーターを通して強調された胸が見え、細い腰に白のフレアースカートが似合っている。少女の面影が消え去り、ふっくらとした大人の女がそこにいた。
蛹が蝶になったと思うと同時に、負けたと恭子は思った。克彦の言った「初恋」という言葉が実感として迫ってきて、美津子は確かに克彦に恋していると感じた。
美津子は恭子と目を合わせると、しっかりとこちらを見詰めたまま小さく頭を下げた。克彦は硬い表情で、恭子を見た。
祐一が恭子にこちら側に坐るように言い、恭子は立ち上がって兄の隣に坐った。
克彦と美津子が向かいに腰を下ろす。
沈黙が流れ、それを破るように「おい、コーヒーでも淹れるか」と祐一が言った。
「インスタントしかありませんよ」と答えながら、弥生が腰を上げる。
「お義姉さん、お手伝いしましょうか」
恭子は腰を上げかけたが、「結構よ」という弥生の声で、彼女は再び腰を下ろした。
弥生が出て行き、少ししてカップの触れ合う音が微かに聞こえてくる。
「まず、美津子の気持ちから聞こうか」
祐一が口を開いた。
「私の気持ちは一緒。一人になっても、子供は育てます」
「大学はどうするんだ」
「もちろん、辞めて働くわ」
「赤ん坊を抱えて、働けるわけがないだろう」
「預けます」
「もっと現実を見たらどうだ。その歳でアパートを借りて、子供を預けて、食っていけると思ってるのか」
「いくらでも道はあるわ」
「言っとくが、家からは一銭も出ないぞ」
「分かってます」
美津子の言葉には揺るぎがない。それは、若さ故なのか、母になった故なのか恭子には分からなかった。
「今、何週目」と恭子は訊いた。
美智子は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を見せ、「八週目です」と答えた。
「つわりは?」
「今のところはまだ……」
「つわりがひどかったら、無理せずに早めにお医者さんに相談した方がいいわよ」
「叔母様はひどかったのですか」
「そう。でも我慢してたら脱水症状になっちゃって、お医者さんに叱られたから……」
恭子は克彦をちらっと見た。克彦は自分の膝に目を落としている。
その時、カップの音をさせて弥生が入ってきた。両手には大きめの盆を持っている。
「コーヒー、切らしてたから、紅茶にしました」
そう言いながら、弥生は盆をソファーの間のローテーブルに置いた。ティーポットと五人分のソーサーとカップがあり、ミルクとシュガーポットも乗っていた。
美津子が手伝って、五人分の紅茶を入れ、恭子は砂糖抜きのミルクティーにした。
紅茶を一口飲むと、ふっと肩から力が抜けるのを感じた。カーテン越しに射し込む午後の光に初めて気づき、ふと幸福な団欒をしているような錯覚に陥った。
「克彦くんの話を聞こうか」と祐一が言った。
克彦はカップをソーサーに戻すと、
「恭子の許しが得られるなら、美津子さんと一緒になって、子供を育てたいと思います」
と一語一語区切るように答えた。美津子が克彦を見た。
「恭子はどうなんだ」
「生まれてくる子供には何の罪もないのだから、その子が一番幸せになる道を取るしかないわ」
「許すと言うことか」
「ええ」
その時、どこかから携帯電話を呼び出す軽快なメロディが聞こえてきた。
克彦があわててブルゾンのポケットに手を入れる。銀色のボディの携帯電話を取り出すと、蓋を開けた。液晶画面に目をやるが、出ようとはしない。
「家からだ」
克彦はそう言って恭子を見た。
「香苗だわ」
克彦がボタンを押そうとしたので、「出ないで」と恭子は手を出して叫んだ。
「切った」
「香苗は何も知らないのよ」
場の空気が再び重くなった。祐一が紅茶を音を立てて飲んだ。
「私はみっちゃんに幸せな結婚をしてもらいたかった」と弥生が言い出した。「誰からも祝福される結婚をしてもらいたかった。人を傷つけて結婚しても、決して幸せにはなれないと思ってる。神様がそんなことをお許しになるはずがないわ」
「もういい。お前の言う通りかもしれないが、世の中にはうまく行かないことだってあるんだ。それを認めなさい」
「認めたくない」
「強情なやつだ」
美津子も克彦も硬い表情のまま、二人のやり取りを聞いている。
恭子は残りの紅茶を飲み干すと、立ち上がった。
「香苗が待っているから帰ります」
「恭子、離婚するということでいいのか」と祐一が訊いた。
「それしかないでしょ。後は弁護士さんにお任せするわ」
玄関まで祐一が付いてきた。
「お袋には、このことを話したのか」
恭子たちの母親は隣の県で一人暮らしをしている。
「いいえ」
「どうする」
「すべてが済んでから、私が話すので、絶対に話さないで」
「分かった」
パンプスを履いていると、奥から美津子が出てきた。
「叔母様、駅までお見送りします」
「いや、結構よ」
「お話ししたいんです」
「そう」
靴箱からミュールを取り出すと、美津子はそれを履いて玄関に降りた。
外に出て、駅に向かって歩き始めたが、美津子は何も言わない。こちらから話すこともないので、恭子も黙ったまま歩く。
新興住宅地が切れたところに小さな公園があり、その前で美津子が立ち止まった。
「ここで話していきませんか」
恭子は承知して中に入ったが、ベンチが見当たらない。仕方なくブランコに恭子は腰を下ろした。
「叔母様」と美津子は恭子の前に立った。「本当にごめんなさい」
美津子は深々と頭を下げた。虚を衝かれた恭子は垂れ下がる髪の毛を見ているしかなかった。
顔を上げると、美津子は一つ大きく息を吸った。
「先生のこと、大好きなんです。でも叔母様や香苗ちゃんから先生を取るつもりはないんです。叔母様や香苗ちゃんから駄目と言われたら、私は本当に一人で育てるつもりなんです。母の言うように、人を傷つけて幸せになれるとは私も思ってはいません。でも、こうなったのは仕方がないんです。後悔はしていません」
先生とは克彦のことかと恭子は思った。
「先生はすごい人です。導電性高分子の研究では日本のトップクラスなのは、叔母様もご存じですよね」
恭子は曖昧に頷いた。克彦の仕事には全く興味がなかったので、学会で論文発表をしたぐらいしか記憶になかった。
「叔母様、インターネットで先生の名前を検索されたことがありますか。すごいですよ。百件以上ヒットするんです。インタビューの記事もたくさんあって、先生が導電性高分子の世界をリードしているんだなあって、うれしくなりますよ」
美津子の顔が輝いて見えた。その瞬間、恭子は嫉妬を覚えた。周りが見えず真っ直ぐ突き進む若さに対しても、自分には見えない克彦の一面を美津子が見ていることに対しても。
「先生とは」と恭子はわざと言った。「教えてもらっていた時に親しくなったの?」
「え?」
「いつから二人の関係が始まったのか、すごく気になるから」
「全然、違います」美津子は激しく手を振った。「教えてもらってた時は、頭のいい先生だなあ、教え方がうまいなあって思っていただけで……」
美津子は隣のブランコに腰を下ろした。
「それじゃあ、大学に入ってから?」
「はい」
ブランコを揺すってみる。しかし坐ったままでは大きく揺れず、恭子は一旦止め、ショルダーバッグをたすき掛けにすると、パンプスの土踏まずの部分でブランコに立った。そして膝を使って、大きく漕ぎ出す。金属の擦れる音がした。
風が顔に当たるのが気持ちがいい。ブランコを漕ぐなんて、何十年振りだろう。恭子は足許が滑りそうになるのも構わずに更に漕ぎ、体がほとんど水平くらいになった。
「叔母様、危ない」
美津子の声が耳を掠めた。恭子は力を緩め、ブランコの惰性に体を預けた。
ブランコが止まり、そこから降りると、恭子は両手を突き上げて大きく伸びをした。
「あー、気持ちよかった」
バッグを掛け直すと、恭子はブランコに坐っている美津子の前に立った。
「私はもう何も言わないわ。あの人のことはみんなあなたに任せるわ」
美津子は驚いた表情をし、慌てて立ち上がった。
「本当にごめんなさい」
美津子が頭を下げた。
「流産しないように気を付けるのよ」
そう言って、恭子は歩き出した。美津子が付いてこようとしたので、「一人で帰れるから」と断って、恭子は公園を出た。
駅近くのスーパーマーケットで夕食の買い物を済ませ、マンションに帰ったが、応接間に香苗の姿がない。まさか克彦のところに出掛けたのではと思い、香苗の部屋の前まで行って、「いるの」と声を掛けた。
返事がない。恭子は玄関に娘がいつも履いている靴があるのを確認してから、ドアを軽く叩いた。
しばらくして、香苗が目を擦りながら出てきた。
「お昼食べた?」
「うん」
「お腹、空いてる?」
「ううん」
「じゃあ、晩御飯、七時でいいわね」
恭子がキッチンに行こうとすると、「パパから電話があった」と香苗が言った。恭子は動悸を抑えながら、
「何て」
「しばらく帰れないって」
「そうでしょう」
「洗濯物はコインランドリーでしてるんだって。かなえが、洗濯しに行ってあげようかって言ったら、パパ、笑ってた」
克彦の表情が見える気がした。
翌月曜日、香苗が学校に行ってすぐ、宅配便が来た。受取人は香苗で、差出人は克彦になっている。包装からBB人形であることは分かった。どうしてこういうものが送られてくるのか、恭子は少し混乱したが、すぐに、自分の知らないところで二人が繋がっていることに頭がかっと熱くなるのを覚えた。
恭子は克彦の携帯に電話を掛けた。呼び出し音が長く続き、もう一度掛け直そうかと思った時、克彦が出た。
「きのうはどうも……」
「どうもじゃないわよ。何でこんなこと、するのよ」
「え?」
「BB人形が送られてきたじゃないの」
「ああ、それ……」
「ああ、それじゃないわよ。どうしてこんな余計なことをするのよ。香苗はあなたと別れるのよ。どうして今更良い父親ぶったりするの。香苗を苦しめるだけじゃない。きのうも電話をしてきて」
「すまん。この前香苗と話した時、算数で九十五点取ったから、何かご褒美ちょうだいって言われて、何が欲しいと聞いたら、BB人形って言われたから」
「この人形は、私が処分しますから」
「それは困る。きのう、人形送ったって言ってしまったから」
恭子は溜息をついた。
「今後一切、ここに電話を掛けてこないで下さい。私から掛ける時は、香苗が学校に行っている午前中に掛けますから。それ以外の家からの電話には絶対に出ないで下さい。分かった?」
「……分かった」
電話を切り、恭子はテーブルの上の段ボール箱を見た。克彦はああ言ったが、勝手に処分してしまおうかと恭子は思った。しかしそんなことをすると、香苗が克彦に問い質そうとするだろう。
五時過ぎに香苗が帰ってきた。
恭子が夕食の下準備をしていると、香苗がやってくる。
「来たー」
顔を上げカウンター越しに目をやると、香苗が箱を差し上げていた。こちらにそれを向けたので、恭子は笑顔を作って応え、すぐに下を向いてキャベツを刻んだ。
上目遣いで居間を見ると、香苗が箱の包装テープを爪できれいに剥がそうとしていた。克彦に似ていると恭子は思う。どうせ捨てるのだから、カッターナイフで切ればいいものを。
「ねえ、ママ、見て、見て」
香苗が人形のケースを持って、キッチンに入ってきた。透明な蓋を通してパーティドレスのようなものを着た人形が見えた。
「これね、最新モデルなのよ。キューティースペシャル。パパ、よく分かったなあ」
その時、克彦は美津子と一緒に人形を買ったのではないかと恭子は思った。分からないので美津子に助けを求めたのではなかったか。
香苗は「パパにお礼を言おうっと」と言いながら、受話器を取り上げた。恭子は息を潜めて様子を窺った。ボタンを押し、香苗は受話器を耳に当てながらじっとしている。しばらくしてから受話器を下ろし、もう一度取り上げると、またボタンを押した。
「おかしいなあ。秘書の人にケータイ渡してないのかなあ」
そう言いながら、香苗は受話器を下ろした。
夕食の時、香苗がテーブルの真ん中に人形ケースを立てようとしたので、「邪魔だから、置いちゃ駄目」と叱った。
「二人だけだもん、邪魔じゃないよ」
「私はテレビが見たいの」
恭子は立っていって、ソファーに置いてあるリモコンを取ると、スイッチを押した。リモコンを手にテーブルに戻る。香苗はケースを横にずらせた。
「目障りだから、そんなとこに置かないの」
「ここなら邪魔にならないでしょ」
「とにかく下ろしなさい」
香苗は不満げな表情を見せたが、克彦のいつも坐る椅子を引くと、そこにケースを置いた。
「パパの代わり」
恭子は苦々しく思いながらも、それ以上言うことはできなかった。
夕食の後、香苗は再び克彦の携帯に電話を掛けたが、出なかった。
「パパは忙しいんだから、また今度にしなさい」
「はーい」
香苗は人形ケースを持って、自分の部屋に行った。
弁護士に相談する前に、どうしても香苗に話しておかなければならないと思いながら、恭子はずるずると日を延ばしていた。
おかしなことに、離婚を決めてから、克彦との結婚生活の断片が頭を掠めるようになった。香苗の妊娠を告げた時の驚いたような克彦の顔、お腹が大きくなって、「弁当を作らなくてもいい?」と訊いた時の残念そうな顔、あれからずっと弁当は作らなかった。小学校の運動会で一眼レフのカメラを買ったはいいが、他の父親のように図々しく前に出て行けず、望遠ばかりで撮っていた克彦。運動会が平日に変わったのは、いつ頃のことだったろうか。それからは運動会の写真はない。克彦の仕事が忙しくなって三人揃って出掛けなくなったのもその頃だろうか。新しくできた遊園地に行ったのが最後だろうか。香苗に手を引っ張られてジェットコースターにしぶしぶ向かう克彦の姿が浮かんでくる。
一度だけ、恭子は克彦のノートパソコンのスイッチを入れ、検索画面で「辻本克彦」と入力してみた。
画面に検索結果がずらりと出てきた。件数が一二七もある。先頭は高分子学会のもので、辻本克彦という文字が太字になっている。恭子は画面を閉じようかと迷いながら、北海道大学講演記録の見出しをクリックした。
画面の左に克彦の写真が現れた。図や文字の書かれた大きな黒板の前で、彼が手に何かを持って笑っている。恭子は講演の日付を見た。三年前になっている。北海道なら泊まりがけで行っているはずなのに全く記憶がなかった。講演のことを夫から聞いた記憶もない。
恭子は苦い思いを噛み締めながら、画面を閉じた。
金曜日、帰宅した香苗はキッチンに入ってきたが、夕飯のメニューを尋ねるわけでもなく冷蔵庫を開けるわけでもなく、もじもじしていた。
牛蒡を洗っていた恭子は手を止めて、何、というように香苗を見た。ひょっとしたら離婚のことを誰かから聞いたのかもしれないという気がしたが、いや誰もそんなことを言うはずがないとすぐに否定した。
「ねえ、ママ、かなえ、来年中学でしょ」
「そうね」
「S校に行ってもいい?」
「S校って?」
分かっていたが、問い返した。
「私立の学校。中高一貫だから、高校入試がないの」
「公立でいいんじゃないの?」
「五年間で中学高校の勉強を済ませて、最後の一年間は大学受験勉強に専念できるんだって。大学に行くには絶対有利だと思うの」
「今まで中学のことなんか、一言も言わなかったじゃない。どういう風の吹き回し」
「かなえだって、将来のことを考えるんだもん」
将来という言葉が恭子の胸に突き刺さった。
「誰かがS校に行くんじゃないの? それで香苗も一緒に行く気になったんじゃないの?」
香苗は硬い表情をふっと緩めると、
「……沙織ちゃんが行くんだって。話を聞いたら、すごく良くて、かなえも行きたくなっちゃった」
「ママは公立でいいと思うけど……」
「パパの給料って、いいんでしょう。一人娘が私立に行っても問題ないんでしょう」
離婚のことを切り出すには今だと恭子は思ったが、胸が押しつけられたようになって、言葉が出てこない。
「……ママ一人では決められないわ」
「じゃあ、パパがオッケーなら行ってもいいよね」
「……そうね」
香苗は居間に走っていくと、受話器を取り上げた。プッシュボタンを押している。恭子は牛蒡の笹掻きを作りながら、様子を窺った。
かなり長い間、香苗は受話器を耳に当てていたが、やがてゆっくりと下ろすと、「パパ、出ないよ」とこちらに向かって声を出した。
恭子は聞こえない振りをして、笹掻き作りに専念した。
夕食後、香苗は再び克彦に電話をした。しかし出ない。
流しで食器を洗っていると、香苗がやって来た。
「ママ、呼び出し音が鳴っているのにパパが出ないっておかしいと思わない? きっとパパに何かあったんだよ。パパ、病気なんじゃない? ねえ、パパのところに今すぐ行こうよ」
恭子は洗剤の泡が付いた皿や茶碗を水で流し、食器乾燥機に収めた。
「ねえ、行こうよ」
恭子は乾燥機のスイッチを入れると、濡れた手をタオルで拭き、香苗の方に体を向けた。
「実は、香苗ちゃんに大事な話があるのよ」
香苗の顔が一瞬にして警戒するような表情に変わった。
「ソファーに坐って話しましょう」
恭子は突っ立っている香苗の体を、両手でゆっくりと押した。香苗は体を硬くしたが、すぐに力を緩め、恭子に押されるように居間に入っていった。
ソファーに向かい合って、腰を下ろす。香苗は口をぎゅっと結んで、恭子を見詰めている。恭子は体を曲げ、膝に両肘をつけて、香苗を見た。
「大事な話というのはね」恭子はそこで一つ間を置いた。「ママとパパは、別々に生活することにしたの」
「……別々?」
香苗が小さい声で言う。
「そう」
「……リコンってこと?」
「そう」
「どうして」
「………」
「……かなえが悪いの?」
「香苗ちゃんは何にも悪くないのよ。パパにね、ママよりも好きな人ができたの」
香苗の顔が急に歪んだ。
「ウソだ」
「ママも最初は嘘だと思ったのよ」
「あ」香苗は口を大きく開けた。「あの時電話に出た女の人」
香苗は立ち上がると、走っていって自分の部屋に入ってしまった。バタンとドアの閉まる大きな音が響いた。
恭子は体を起こして、大きく溜息をついた。
何も考えられずしばらくソファーでぼんやりしていたが、そのうち香苗の部屋の静けさが気になってきた。
恭子は香苗の部屋まで行き、ドアをノックした。しかし返事がない。もう一度ノックし、「香苗ちゃん、入るわよ」とノブを回そうとしたが、わずかに動くだけで回らない。鍵が掛かっている。今まで娘が鍵を掛けたことは一度もない。
恭子は拳骨でドアを叩き、「香苗、ここを開けなさい」と怒鳴った。反応がない。恭子はノブをがちゃがちゃとさせ、押してみたが、びくともしない。
頭に血が上った。
「香苗、何をしてるの。聞こえないの。ここを開けなさい」
声が悲鳴に近くなった。ノブを動かし、さらにドアを叩く。
「香苗ちゃん、ここを開けて、お願い。ママに顔を見せて」
それでも開かない。恭子はノブを見た。鍵穴の代わりにマイナス穴のネジのようなものが嵌っている。ここを回せば開くかもと、ドライバーを取りに行こうとすると、シリンダー錠の外れる音がした。
ドアが内側に開き、香苗が姿を見せた。目蓋が腫れ、目が赤くなっている。
「ママ、パパのところに行こう。かなえ、パパにお願いしてみる」
恭子は香苗を引き寄せて胸に抱き締めた。香苗はいやいやをするように体を動かし、両手で恭子の腹を押した。体が離れると、
「女の人にも会って、パパを返してくれるように、かなえ、頼んでみる」
恭子はもう一度香苗を抱き締めようとしたが、香苗は体をかわした。
「ママもかなえと一緒に頼まなきゃ駄目よ。パパならきっと分かってくれるわ」
恭子は強引に香苗の腕を取り、胸に抱いた。
「香苗ちゃん、ごめんね。もう決めたことなのよ。ママとパパは離婚するの」
いやだあーと香苗が叫び、すごい力で恭子を押した。恭子は廊下の壁に背中をぶつけた。
「ママは決めても、かなえは決めてないの。勝手に決めないで」
香苗は泣いていた。泣きながら靴を履き、ドアチェーンを外そうとする。
「どこへ行くの」
恭子は香苗の手を押さえた。
「パパのとこ」
「どこか知ってるの」
「カプセルホテルって言ってた」
「どこの」
「探すから、いいの」
恭子は香苗の手をドアチェーンから外し、裸足のまま娘とドアの間に立った。
「もう決まったことなのよ。相手の女の人は妊娠してて、パパはその人と暮らすの」
いやだあー、香苗が体を折り曲げて叫んだ。
「ママはどうして反対しなかったの。かなえに黙って決めるなんて、ひどい。ママはパパのこと、好きじゃなかったんだ。だからそんなに簡単にリコンなんて言えるんだ。サイテー」
泣きながら香苗は恭子の胸を拳骨で叩こうとした。恭子は思わず娘の手首を掴んだ。
「ごめんね。ママが悪かったのよ。ママがパパをしっかり掴まえておかなかったから、こうなったの。みんな、ママのせいよ」
恭子は手首を引っ張って香苗を抱こうとしたが、香苗は恭子の手を振り解いた。
「そこをどいて」香苗は掌で涙を拭った。「かなえ一人で頼んでみる。パパがかなえのこと、捨てるわけないもん」
「パパを苦しめないで」
「苦しいのはかなえなんだもん」
香苗が叫んだ。
「香苗ちゃん、よく聞いて」恭子は娘の肩に手を置いて揺すった。「パパの相手はね、みっちゃんなの」
香苗がぽかんとした顔をした。
「篠田のみっちゃんなのよ。だからもう無理なの」
香苗が恭子の手を逃れて後退りし、目を見開いたまま、いやいやをするように体を左右に捻った。そしてすぐ横の自分の部屋に入ってしまった。シリンダー錠の掛かる音がする。
恭子はノブを回そうとしたが、動かない。
「香苗ちゃん、鍵を閉めないで。ここを開けて」
ドアをノックする。
「お願いだから、ママと一緒にいて」
部屋の中から何かが床に落ちる音が聞こえてきた。恭子はドアを強く叩いた。
「香苗、どうしたの。今すぐここを開けなさい」
それでも開けないので、恭子はキッチン横の納戸まで行き、中の道具箱から大きめのドライバーを手にして、部屋の前まで戻った。
ノブの真ん中のマイナス穴にドライバーの先を入れ、右に回すと、シリンダー錠が外れた。
ドアを開ける。暗い。恭子は壁に手を這わせて、スイッチを押した。天井の蛍光灯が点き、ピンクのカーペットが照らし出される。
恭子はあっと声を上げた。吐瀉物が歪んだ図形のように広がり、机の上の蓋の開いたランドセルからこぼれたのだろう、本や筆箱がその中に落ちていた。ベッドでは、香苗が腕を胸に抱え込むようにして丸まっている。
恭子はランドセルの蓋を元に戻すと、吐瀉物を避けてベッドに近づいた。
「香苗ちゃん」
目を閉じている娘の肩に手を触れた。小刻みに震えている。口の周りが濡れており、饐えた臭いが漂ってきた。
恭子はベッドに腰を下ろし、娘の背中を撫でた。震えが治まらない。
恭子はゆっくりと体を倒し、娘の体を後ろから包み込むように抱いた。酸っぱい臭いが鼻を衝く。娘の体温が徐々に自分の体に移ってくるのを感じていると、不意に涙が溢れてきた。重い石を飲み込んだように胸が苦しく、恭子はそれに耐えるように目を閉じた。
どのくらいそうしていただろうか。恭子が気づいた時には、香苗は眠っていた。震えることもなく、静かな寝息を立てている。
恭子は体を起こしベッドから降りると、吐瀉物を跨いで部屋を出た。納戸から使い古しの衣類の入ったビニール袋を取り出し、それを持って娘の部屋に戻る。
吐瀉物はきんぴら牛蒡だけが形をとどめており、後はご飯の粒々が辛うじて残る茶色い糊状になっている。つんと臭いがする。恭子はその中に落ちた本を拾い上げ、袋から取り出した衣類で拭う。手に持った衣類は克彦の下着のシャツだった。折り返して筆箱を拭き、机の上に戻すと、今度はシャツを広げて吐瀉物を覆った。
キッチンからゴミ袋を持ってくる。シャツを掴んで吐瀉物を拭うと、ゴミ袋に放り込んだ。古着袋を覗き、夫のTシャツを引っ張り出して、さらに拭った。
ある程度取れたところで雑巾を絞ってカーペットを拭いた。
吐瀉物の始末が済むと、恭子はタオルを湯で絞って娘の顔や手足を拭った。香苗は目を覚まさない。丸まった体の上に薄い蒲団を掛けて、恭子は部屋から出た。
その夜、恭子は寝付かれなかった。ママはどうして反対しなかったのという香苗の言葉が繰り返し脳裡に蘇ってきた。パパのこと、好きなことは好きだったのよと心の中で呼びかけてみても、それは弱々しく響くだけだった。
朝起きて、真っ先に娘の部屋を覗いたが、香苗はまだ寝ていた。
朝食を用意して再び覗いてみたが、香苗は蒲団を被っていた。
昼前に香苗が部屋から出てきた。キッチンを出て「香苗ちゃん、ご飯は?」と声を掛けたが、すぐ前のトイレに入ってしまった。出てくるのを待って再び声を掛けると、びっくりしたようにこちらを見ただけで、すぐに自分の部屋に引っ込んでしまった。
顔色が青白いのが気になったが、恭子は無理に娘を部屋から引っ張り出そうとは思わなかった。時間が来れば出てくるだろうと思っていた。
しかし日が暮れても、娘は部屋から出てこない。水分を全く取っていないことに思い当たり、恭子は冷蔵庫からスポーツ飲料のペットボトルを取り出した。
それを持って娘の部屋のドアをノックするが、返事はない。ノブを回すとドアが開いた。
汗くさい臭いに混じって、まだ微かに吐瀉物の臭いがする。カーペットには吐瀉物の湿った痕が乾かずに残っている。香苗は昨夜と同じ位置に蒲団を被って寝ていた。
「香苗ちゃん、喉乾かない? ここにアクエリアス置いておくから飲むのよ」
恭子はランドセルを脇にずらせてペットボトルを机の上に置いた。香苗はぴくりともしない。恭子は娘を起こしたい気持ちを抑えて部屋を出た。
翌日曜日も香苗は部屋から出てこなかった。恭子は香苗の大好物であるオムライスを作って部屋に運んだ。ペットボトルが空になっていたので、買ってきた物と取り替えた。
スーパーマーケットに買い物に行って、帰ってくると、娘の部屋を覗いてみた。オムライスの形が崩れていることに、恭子はほっと胸を撫で下ろした。
「香苗ちゃん、晩御飯、何食べたい」
蒲団の丸みに声を掛けたが、反応はない。オムライスを下げようとして、まだ食べるかもしれないと思い直し、恭子は手を触れずに部屋を出た。
晩御飯にはハンバーグを作って盆に乗せ、半分以上残っているオムライスに替えて机に置いた。
翌朝、小学校があるので早めに起こさなければと、香苗の部屋に入ったが、ハンバーグは全く手を付けられておらず、スポーツ飲料だけが減っていた。
「香苗、学校よ。もう起きなさい」
恭子は蒲団の上から香苗を揺すった。香苗は蒲団から出ていた足を引っ込めて、体を丸くする。恭子は布団の端を持って、ゆっくりとめくった。ミルクくさい汗の臭いがむっと来た。香苗は赤い顔をして目を閉じている。額や頬に光る水滴を見て、恭子は思わず手をやった。指先がねっとりとした。
「すごい汗じゃない」
体温を見ようと額に掌を付けた。
その時、香苗が目を開けた。ひーという声を出して、恭子の掌から顔を外し、同時に曲げていた脚を自転車を漕ぐように動かした。
「熱があるんじゃないの?」
香苗は上半身を起こすと、枕板に背中を付け、蒲団を脚の間に挟んだ。目を見開いて怯えたように恭子を見た。
恭子が近づくと、香苗は上半身を倒して、吠えるような悲鳴を上げた。
「どうしたの、香苗ちゃん」
恭子が娘の肩に手を触れようとすると、香苗は肩を捻り、さらに大きな悲鳴を上げた。
「どうしたの」
恭子も大声を出した。香苗は何度も悲鳴を上げ、終いには声が掠れて咳き込んだ。
恭子は娘の悲鳴に気圧されるように部屋を出た。ドアに額を付け、目を閉じる。自分の周りがぐるぐると回っている感覚があり、恭子はふらつく足どりで廊下を行き、居間のソファーに倒れ込んだ。
チャイムが鳴っている。出ないでいると二度目が鳴り、恭子は重い体を起こしてインターホンの受話器を取った。
「はい」
「班長さん、まだですか」
子供の甲高い声が聞こえてきた。
「香苗はきょうは風邪でお休みなの。だからみんなで行って」
返事がなかったので受話器を下ろすと、再びチャイムが鳴った。
「なあに」
「……旗、下さい」
「ああ」
恭子は娘の部屋まで行くと、「入るわよ」と声を掛けてドアを開けた。香苗は先程と同じようにベッドの隅におり、こちらを見るとまた悲鳴を上げた。
「旗が要るの」
そう言って中に入り、旗を探したが見当たらない。「香苗、旗はどこにあるの」と訊いても香苗は悲鳴を上げるだけだ。
恭子は耳を塞ぎたくなるのを我慢して、机と壁の隙間や本棚の上を見、振り返ってクローゼットを開けた。旗はその中にあった。それを取って部屋を出る。
玄関のドアを開けると、野球帽を被った男の子が立っている。はいと旗を渡すと、男の子はぺこりと頭を下げて廊下を走っていった。
居間に戻ると、恭子は電話の受話器を取り上げ、傍の早見表を見ながら小学校の電話番号を押した。
事務職員が出て、担任の藤原先生に取り次いでもらう。
「はい、担任の藤原ですが……」
若い女性の溌剌とした声が響いてくる。恭子はふっと、すべてを話してしまいたい衝動に駆られたが、それを抑え込んで、「うちの子が風邪を引いてしまいまして、しばらく休ませたいのですが……」と言った。
「それはいけませんね。分かりました。どうぞお大事になさって下さい」
病院に連れて行って医者に診せたほうがいいのではという思いが強かったが、一方でしばらく様子を見たら治まるのではないかという期待めいたものがあった。何より、医者に診せて、自分と克彦のことを話さなければならなくなることに恐怖があった。
食事を作る気力もなく、恭子はソファーに横になっていた。寝室に入って眠ってしまうと香苗が部屋から出てきた時に気づかないのが恐くて、ベッドに横になれなかった。
洗濯物も溜まっている。しかし起き上がる気にはなれない。
うつらうつらしていると、娘が部屋から出てきた気配がして、あわてて顔を上げるが、玄関を見通す廊下には人影がない。
そのうち恭子は深く眠ってしまい、チャイムの音で不意に起こされた。体を硬くしていると再び鳴り、恭子はゆっくり起き上がった。
受話器を取ると「旗、返しに来ました」という男の子の声が聞こえてきた。
もうそんな時間なのか。恭子は首を伸ばして電子レンジの時計を見た。四時を回っている。
「香苗はしばらく休むから、旗は持っておいて」
「でも……」
「あなたが代わりに班長をやって」
「うーん」
「お願い」
「……みんなに聞いてみます」
「そうして」
受話器を置いてソファーに戻ろうとすると、またチャイムが鳴った。恭子は溜息を吐き、玄関に行った。ドアを少し開け、「旗はあなたが持っておいて」と大きな声を出す。
しかしドアの隙間に顔を出したのは、男の子ではなく、女の子だった。
「こんにちは」
女の子はちょっと怯えたような表情をしている。
「沙織ちゃん」
「かなっぺのお見舞いに来ました」
どう答えるべきか恭子は一瞬返答に詰まった。
「香苗、風邪を引いて今眠ってるの。沙織ちゃんがお見舞いに来たってことは、後で伝えておくわ」
「それじゃあ、これ……」
沙織はプリーツスカートのポケットから小振りの封筒を取り出した。表にお見舞いと丸い文字で書かれている。
「ありがとう。香苗に渡しておくわね」
恭子は受け取った封筒を押し頂くようにした。
「かなっぺ、早くよくなって下さい」
そう言うと、沙織はぴょこんと頭を下げ、小走りで去っていった。
封筒は封をしていない。恭子はドアを閉めると、封筒を持ったまま居間のソファーに戻った。どうしようと迷ったが、すぐに封筒から二つ折りの手紙を取り出した。
「かなっぺへ 早く元気になってね。勉強で分からないところがあったら、いつでも教えてあげる。カゼが治ったら、一度S校を見に行こうね。女子の制服がチョーカッコイイから 沙織」
これは見せられないと思ったが、先程の沙織とのやり取りを聞いているかもしれない。
恭子は封筒を手にして娘の部屋の前に立ち、小さくノックしてからドアを開けた。閉め切ったカーテン越しに、夕方の弱々しい明かりがベッドをぼんやりと照らしている。香苗は蒲団を被って丸くなっていた。微かに蒲団が上下しているのが分かる。
「沙織ちゃんが見舞いに来たわよ」
声を掛けても反応はない。
「お見舞いの手紙、ここに置いておくわよ」
そう言って恭子は封筒を机の上に置き、手を付けた形跡のないハンバーグの乗った盆を手に取った。
静かに部屋を出る。キッチンで、ハンバーグをゴミ箱に捨てた。
晩御飯を作る気がせず、出前で香苗の好きなカニエビのピザを頼んだ。
三分の一ほどを自分の分に切り、残りを箱ごと娘の部屋に持っていった。汗くさい臭いの中にチーズの匂いが広がる。
「香苗ちゃんの好きなカニエビマヨのピザよ」
恭子は箱を机の上に置き、スポーツ飲料が減っていたので、新しいのを冷蔵庫から取ってきて、ピザの横に置いた。
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろしてピザを口にしたが、全部を食べられない。捨てようかと思ったが、何か体に入れておかないとという気持ちから、冷蔵庫を覗いた。500ミリリットルの缶ビールが奥の方にある。それを取り出し飲んでいると、ピザの残りも何とか胃に入れることができた。
久方振りに飲んだアルコールのせいで猛烈に眠くなり、そのまま恭子はベッドに倒れ込んだ。
喉の渇きで目が覚めた。目覚まし時計を見ると、午前五時だった。キッチンで水を飲み、洗面所で鏡を見ると、目蓋が腫れ、ひどい顔になっている。洗顔フォームで丁寧に洗い、水で洗い流す。ようやくさっぱりとした気持ちになり、娘の部屋を覗いた。チーズの匂いがまだ強く匂う。
香苗は昨夜と同じように蒲団を被っていた。机の上のピザには手を付けられていない。
「香苗ちゃん」
恭子は蒲団を揺すった。反応がない。
蒲団をめくって、恭子はぎょっとした。目を閉じて真っ赤な顔をした香苗が半ば口を開け、よだれのようなものを流していたからである。よだれは抱え込んだ手を濡らしている。
恭子は咄嗟に娘の額に手を当てた。すごい熱だ。
「香苗ちゃん!」
恭子は娘の肩を掴んで、揺さぶった。しかし娘は目を開けない。
恭子は部屋を飛び出し、キッチンの冷凍庫を開けた。製氷皿を見るが、空っぽだ。冷凍食品を両手でかき分け、保冷剤を見つけた。それを持って洗面所に入ると、タオルを水で濡らして絞り、その中に保冷剤を巻き込んだ。
娘の部屋に戻り、タオルを娘の額に当てる。しばらく当てていると、香苗が目を閉じたまま、嫌々をするように顔を左右に動かした。タオルを自分の手に当てると、冷え過ぎている。恭子は乾いたタオルを取ってきて、その上から巻いて、再び娘の額に当てた。
今度はじっとしている。額に当てたところがすぐに温くなり、恭子はひっくり返した。
「香苗ちゃん、目を開けて」
不安になって、恭子は娘の頬を軽く叩いた。しかし目を開けない。幼児の頃の引付けが頭をよぎる。
病院に連れて行こうと決め、香苗を抱え起こそうとしたが、重くて持ち上がらない。幼児の時と同じ感覚でいた恭子は、少なからずショックを受けた。
電話番号の早見表にずっと以前診てもらったことのある小児科医の番号があった。早朝なので躊躇いながら電話をすると、使われていない番号という声が流れる。自分が何かとんでもない間違いをしているのではないかという気がし、そう思うと体が震えてきた。
119を押し、恭子は救急車を頼んだ。係員の質問に答えて、恭子は娘の年齢や高熱で意識がないことを話した。吐いたようだと告げると、体を横向きにして頭を反らせ気道を確保するように言われる。嘔吐物で気管が詰まるのを防ぐのだと。それを聞いて、恭子は急に不安になった。係員の言うことが耳に入らない。ドアを開けて待つようにという指示だけが耳に残り、電話を切ると、娘の部屋に飛んでいった。
香苗の口に耳を近づける。息をする音が聞こえる。恭子は言われたように気道確保の姿勢を取らせた。
保冷剤を包んだタオルを娘のこめかみに当て、頬を叩く。
「香苗、もうすぐ救急車が来るから頑張って」
ドアを開けておくようにという指示を思い出し、恭子は玄関のドアを一杯に開けた。
救急車の来るのが遅い。場所が分からないのだろうか。克彦がいたらと恭子は思い、すぐにそれを抑え込んだ。
複数の靴音が聞こえ、「辻本さん」という声がした。玄関に出ると、ヘルメットを被り、ブルーの上っ張りを着た二人の男がいた。後ろの一人は脇に何かを抱えている。
「辻本恭子さんですね」
「はい」
二人を部屋に案内すると、一人が脇に抱えていた物を床に広げた。
「娘さんの名前は?」ともう一人が訊く。
「香苗です」
そう言うと、「香苗さーん、聞こえますか」と救急隊員は大声を出した。そして目蓋を持ち上げて、ペンライトで照らす。
「意識不明はいつから」
「今朝気が付いて……」
「昨夜はどうでした」
答えられない。躊躇っていると、
「娘さん、持病はありますか」
「それは、ありません」
救急隊員が二人して香苗を抱え上げ、床に広げた担架に乗せる。部屋から運び出し、恭子もついて行こうとすると、「保険証を持って、戸締まりしてくださいよ」と言われた。
あわてて自分の部屋に行き、小物入れの引き出しから保険証を取り出し、サンダルを履いて表に出た。廊下を見ると、もう救急隊員の姿はなかった。
恭子は焦りながら鍵を掛け、エレベーターホールに走った。サンダルが廊下をぺたぺた叩く音が響く。
ホールでは、エレベーターにストレッチャーが乗り込むところだった。奥に四角い穴が開いており、そこにストレッチャーの端が入り込んでいる。恭子も乗り込み、目を閉じている香苗を見詰めながら、一階まで降りた。数人の住人が驚いた表情で、恭子たちを迎えた。
一階のエレベーターホールのすぐ横に、救急車が後部扉を開けて待機していた。そこにストレッチャーを押し込み、隊員に促されて、恭子も乗り込んだ。
動き出して、しばらくしてから、サイレンが鳴り出す。隊員が香苗の袖をまくり、血圧を測るのか黒い腕章のような物を巻く。それから耳の穴にピストルのような物を当てて引き金を引く。
サイレンの合間にピピピピという音が聞こえ、隊員は血圧計の表示に目をやった。そして携帯電話を掛ける。
「こちらK消防です。患者は十二歳の女の子。意識不明ですが、瞳孔反応あります」
「………」
「体温、三十九度五分。心拍、血圧、共に異常なし」
「………」
「はい、分かりました。それではそちらに搬送します」
体温三十九度五分に動転していると、隊員からバインダーに挟まれた紙とボールペンを渡された。恭子はそれを膝の上に置き、車の動きに揺さぶられながら、住所と自分と娘の名前を書き込んだ。
病院に着くと、救急入り口に二人の看護師が待っていた。後部扉が開けられ、恭子が降りると、隊員と看護師がストレッチャーを引っ張り下ろした。
そのまま開いた入り口から中に押されていく。恭子も小走りで後を追った。
処置室と札の掛かった部屋に運ばれ、一緒に入ろうとすると、「お母さんはここでお待ち下さい」と看護師に止められた。
恭子は部屋の前にあったベンチに腰を下ろした。処置室から言い合う声が聞こえてくるが、何を言っているのか分からない。ただその切迫した感じが、恭子に不安を与えた。
三十分ほど経って、ドアから顔を出した看護師に呼ばれた。
中に入ると、恭子と同年配の医者が机の前に座って、紙に何かを書き込んでいた。奥のベッドには、点滴を腕に打たれた香苗が横たわっている。頬にはまだ赤みが残っている。
医者に促されて、恭子は丸椅子に腰を下ろした。
「昨夜はどんな様子でしたか」
「蒲団を被って寝ていましたので、どんなと言われても……」
「熱はありましたか」
「分かりません」
「脱水症状がありますね。風邪から髄膜炎を起こしている可能性がありますので、血液と髄液の検査をしています。しばらく入院してもらいます」
医者に事情を説明した方がいいと思ったが、恭子は言い出せなかった。
二人の看護師が移動ベッドを隣の個室に押していき、香苗は固定ベッドに移された。点滴の他に、左手の人差し指の先にクリップ状の物が付けられ、そこから伸びた細いコードが枕元の四角い器械に繋がっている。小さい画面に心拍を示す波が動いており、86という数字が見える。
点滴が減ってきたらボタンを押して知らせるようにと看護師が壁から伸びたボタンをベッドに置き、出て行った。
恭子は椅子に腰を下ろして、目を閉じている香苗の横顔を眺めた。朝からの出来事が夢の中のようで、現実感がなかった。
香苗が意識を取り戻したのは、その日の夕方だった。泊まり込むことを覚悟して家に帰り、香苗の着替えなどを持って病院に戻ったが、病室に入ると、香苗が顔を持ち上げてこちらを見ていた。
「香苗ちゃん!」
恭子は駆け寄った。香苗がぼんやりとした目で恭子を見る。恭子は娘の額に手を当て、それから頬を両掌で挟んだ。
香苗はまだ目覚めの途中なのか表情のない顔をしている。
恭子はブザーのボタンを押して、「意識が戻りました」と大きな声を出した。
少しして、医者と看護師が姿を見せた。医者は「ちょっと見せてね」と言いながら香苗の目蓋が閉じないように指先で押さえ、ペンライトの光を目に当てた。瞳孔反応を両目とも確認すると、「もう大丈夫ですね」と恭子に言った。
「検査の結果も髄膜炎ではなかったですし、おそらくただの風邪に脱水症状が重なって熱が出たのでしょう」
恭子は、ありがとうございましたと頭を下げた。熱も三七度近くまで下がっていたので、薬だけもらってタクシーで家に戻った。
香苗が無表情で全く口をきかないのが気になったが、風邪が治りきっていないからだろうと恭子は娘をベッドに寝かせつけた。
机のピザを捨て、香苗に何を食べたいと訊いても答えないので、恭子はお粥ふうの貝柱の入ったリゾットを作った。娘の好きな粉チーズをたっぷりとかけて盆に乗せて持っていくと、香苗は上半身を起こして枕板に背をもたせかけ、太股に盆を置いて、素直に食べた。それを見て、恭子はほっと胸を撫で下ろした。
翌日には熱も下がり、薬を飲ませるのを止めた。しかし依然として口をきかず、自分の部屋からも出てこようとはしなかった。
恭子は、自分に対する抗議だと受け止めて、こちらから無理に口を開かせようとはしなかった。話しかけに答えなくても気にせずに、娘が自分から話し出すのを待つつもりだった。
しかし、二日経って、夕方の買い物から帰ってきた時、娘の部屋を開けて、恭子は驚いた。香苗がベッドに腰掛けて、膝に置いた裸の人形の手をもごうとしていたのだ。足許には布切れが散乱している。
「何してるの!」
恭子は駆け寄って娘の手首を掴んだ。香苗は抵抗したが、恭子は離さず、もう一方の手で娘の持っている人形の脚を掴んだ。香苗が恭子の手を振り解いて両手で人形の腕を掴む。引っ張り合いになって腕がちぎれ、胴体が跳ねた。
香苗が悲鳴を上げ、人形の腕を恭子に投げつけた。腕は恭子の腹部に当たって床に落ちた。香苗はそのまま蒲団の中に潜り込んでしまう。
恭子は呆然として立ちすくんだ。体が熱くなり、細かい震えが来た。
恭子は床にへたり込むと、散らばった布切れを手で集め始めた。切られた人形の髪の毛もある。鋏が転がっており、それに気づくと、恭子はぞっとした。
確かめるまでもなく、人形は先日克彦が贈ってきたものだった。
医者に診せることに決め、翌土曜日、タクシーで香苗をこの前の救急病院に連れて行った。香苗は外に出るのを体を使って抵抗したが、抱き締め、「お願いだから行きましょう」と耳元で何度も囁いて、ようやく部屋から連れ出した。
診察室に入るまで、ずっと手を繋いでいなければならなかった。
医者は救急の時とは違う先生で、恭子の話を聞くとカルテを見ながら、「念のためにMRIで検査しましょう」と言った。
しかし検査の結果は異常なしだった。医者は心療内科を受診することを勧め、紹介状を書いてくれた。
病院から帰ってくると、マンションの部屋の前に小さな人影があった。沙織だった。
沙織は恭子たちに気づくと、「かなっぺ」と言って小走りに近づいてきた。香苗は恭子の手を握りしめ、体の陰に隠れた。
「こんにちは」
沙織は小さく頭を下げ、「かなっぺ、風邪治った?」と香苗に話し掛けた。沙織が香苗を覗こうとすると、香苗は体をずらせて恭子の後ろに隠れようとする。
「香苗はまだ病気が治っていないのよ。今も病院から帰ってきたところなの。だから、また治ってから遊びに来てね」
沙織は香苗を見、それから恭子の顔をじっと見上げ、「はい」と答えて横を通り過ぎる。回り込んで逃げる香苗に、沙織は「バイバイ」と手を振ったが、香苗は恭子の後ろでじっとしていた。
恭子は娘を心療内科に連れて行こうかどうか迷った。原因ははっきりしているので、時間が経てば治るのではないかという漠然とした期待があった。
しかし月曜日の朝、担任の藤原から香苗の様子を尋ねる電話が掛かってきて、恭子は心を決めた。
恭子がもうしばらく休ませて欲しいと言うのに対して、藤原は、これ以上休むのなら医者の診断書を出して欲しいと言うのだった。さらに、夕方、訪問して香苗の様子を見たいとまで言った。
土曜日の沙織の不審そうな眼差しを思い浮かべ、ひょっとしたら家庭内暴力を疑っているのかと恭子は愕然とした。香苗の悲鳴も誰かに聞かれているのかもしれない。
恭子は担任に、高熱が出て意識不明になり、入院したことを告げ、それが治ってから口を利かなくなってしまったことを話した。
「それで今から紹介された心療内科に連れて行こうと思っているんです」
「そういうことでしたか。それは大変でしたね。分かりました。それで、できましたら、お医者さんの診断書をファックスでも結構ですから、こちらの方に送っていただければありがたいのですが」
「分かりました」
受話器を置くと、何やら追い詰められた心持ちがしたが、恭子はそれを振り払うと、娘の部屋に行った。
香苗は蒲団を被っている。「香苗ちゃん、起きるのよ」と体を揺さぶってから、恭子は蒲団をめくった。香苗は手足を胸の中に折り畳むように丸くなって、眠っている。
起きなさいと肩を揺すると、香苗はゆっくりと目を開けた。恭子の顔を見ると、一瞬怯えた表情を見せたが、すぐに無表情に戻った。
「朝ご飯を食べたら、きょうもお医者さんのところに行きますからね」
恭子は注意深く娘の反応を窺ったが、香苗は何の反応も示さない。
部屋から出てこないので朝食を持っていって食べさせ、服も手伝って着替えさせた。
部屋を出る時、恭子は身構えたが、香苗は恭子の後ろに隠れるようにして表に出た。エレベーターには誰も乗っておらず、ほっとして乗り込む。
エレベーターホールの横に待たせておいたタクシーに乗り込むと、運転手に紹介状の住所を見せた。
二十分ほどで国道沿いの大きな病院に着いた。受付で初診用紙に記入し、紹介状を渡すと、心療内科の病棟を教えてくれた。つないだ掌を握りしめている娘を引っ張って、恭子は廊下を歩いた。
診察室の横に四畳半ほどの待合室があり、ネクタイを締めた初老の男と二十歳代の娘に母親らしい中年女性が寄り添っていた。恭子たちが入っていくと、男がちらっと目を向けた。
ベンチソファーに腰を下ろす。香苗が手を強く握ってきた。
待合室で三十分待たされて、診察室に通された。女医だった。恭子よりも年上で、五十歳代に見える。縁なしの眼鏡を掛け、でっぷりと太っている。
女医の前に恭子と香苗が腰を下ろすと、女医は手に持っていた紙を机に置き、いきなり「香苗ちゃんは、言葉が出ないのかな」と娘に呼び掛けた。香苗は女医を見ているが、返事をしない。
「お母さんには診察が終わるまで待合室で待っててもらいましょうか」
香苗が手を強く握ってくる。
「ママは隣にいるから、大丈夫よね」
そう言って、左手で香苗の手を外すようにしてから、恭子は立ち上がった。一緒に立ち上がろうとするのを女医が香苗の腕をつかんだ。
「少しだけ先生とお話しよう、ね」
女医が笑い掛ける。香苗は再び椅子に腰を下ろした。
娘の後ろ姿を見ながら、恭子は診察室を出た。
ベンチソファーに坐って待っている間、恭子は、診察の結果、魔法が解けたように香苗が喋るのではないか、以前の娘に戻るのではないかと、ぼんやりとした期待の中にいた。
だから、看護師に呼ばれて診察室に戻った時、娘の表情が全く変わっていないことに言いしれぬ失望を感じた。
再び娘の横に腰を下ろすと、香苗は恭子の手を握ってきた。
「高熱が出て意識不明になる前は、普通に話していたわけですか」
「はい」
「ご主人は何をされてますか」
「サラリーマンです。大井化学という会社の研究所に勤めてます」
「娘さんはご主人とも普通に話していたわけですか」
恭子は香苗を見た。遠くを見ているようなぼんやりとした目をしている。恭子はつないでいた手を放すと、「香苗ちゃん、待合室で待っててくれる?」と声を掛けた。しかし香苗は動かない。
「娘さんのいるところでは、話しにくいですか」
「はい、ちょっと……」
女医は奥に向かって「向井さーん」と呼び掛けた。カーテンの陰から若い看護師が出てくる。
「娘さんを待合室に連れて行って」
「はい」
看護師は香苗の肩に両手を置いて顔を近づけると、「さあ、お姉さんと一緒に待合室に行こう」と囁いた。香苗は下を向いて、自分の膝をつかんでいる。
「香苗、ママは先生と二人だけでお話があるから、向こうで待ってて」
看護師が香苗の脇に両手を差し入れて立たそうとすると、ようやく立ち上がった。
「そうそう、いい子ねえ。すぐに終わるから待っててね」と女医が笑い掛けた。
看護師と香苗が診察室から出て行くと、女医は回転椅子を回して、恭子と相対した。
「ご主人と娘さんの間に何かあったのですか」
「いや、何かあったというわけではないんですが……」
女医が続きを促すように、じっと恭子を見ている。動悸がし、口の中が渇く。頭に血が上ったようになり、恭子は額に手を当てた。血の気が治まると、恭子は背筋を伸ばした。
「実は、主人と離婚することになりまして……」と恭子は話し始めた。
突然離婚を切り出されたこと、夫の相手が十九歳の姪で、すでに妊娠しており、兄夫婦を交えて直接話し合い、離婚を決めたこと、そのことを娘に話したところ、高熱が出て、口を利かなくなってしまったこと等、すべてを話した。女医の質問に答えて、夫がすでに家を出ていることや、夫との馴れ初め、その前の男との付き合いも正直に話した。
「娘は父親のことが大好きなんです。この前も算数で九十五点取って、それを父親に見せたくてしょうがなくて……」
不意に涙が出てきた。
「みっちゃんも娘にとっては、ただ一人の従姉で、お姉ちゃん、お姉ちゃんと慕っているんです。みっちゃんも数学が得意で、三人ともよく似ていて……。それがこんなことになって……。私が悪いんです。私が簡単に離婚を決めたものだから、娘は……」
恭子は顔を両手で覆って泣いた。涙が手の甲を伝っていく。女医が「これ」とタオルを渡してくれ、恭子はそれを目に当てた。微かに薬品の臭いがした。
恭子の涙が治まると、女医が「娘さんが口を利かなくなったのは、自分のせいだと思っているわけですか」と訊いてきた。
「はい」
「それで、離婚を思い止まろうと……」
「……分かりません。でも、それで娘の病気が治るなら、そうしようかと……。離婚を止めれば、娘の病気は治るのでしょうか」
女医は、そうねえとしばらく考える様子を見せた。
「おそらく心因性のものだから、原因を取り除けば治る可能性はあるけれども、心に傷を負っている状態はすぐに治るものでもありませんしねえ」
「では、どうすればいいんでしょうか」
「うちでは、セラピストによる遊戯療法というのをやってますから、そこにしばらく通ってもらって、娘さんの状態が改善されてから考えたらどうですか」
「分かりました」
女医はセラピストの予約表を見ながら、予約できる日をいくつか上げてくれた。恭子は、来週の一番早い日を選び、それから小学校に提出しなければならないのでと診断書を頼んだ。女医は快く承諾し、会計のところでお渡ししますと言った。
「よろしくお願いします」と言って、恭子は腰を上げた。
「無理に口を開かせようとしたら駄目ですよ。娘さんが自分から話すのを辛抱強く待つことが大事ですから」
女医の言葉に、恭子は「はい」と頭を下げた。
待合室に戻ると、香苗がベンチソファーで横になっていた。恭子は驚いて駆け寄った。
「香苗、大丈夫?」
肩に手を掛けると、香苗はゆっくりと起き上がった。
会計でもらった診断書には「病名 心因性緘黙症」とあり、「半年間の療養を要す」とあった。半年間! 恭子はその長さに一瞬眩暈を感じた。
遊戯療法を行うプレイルームと呼ばれる部屋は六畳ほどで、心療内科に隣接していた。セラピストは三十歳ほどの、ゆったりした喋り方をする女性だった。
彼女の説明によると、子供と一緒に遊ぶことで子供の心が開き、それが治療につながるということだった。
見せてもらったプレイルームには、積み木やブロック、粘土、画用紙にクレヨンが散らばっており、隅には木枠で囲われた五十センチ四方の砂場があった。横にある四段になった箱には、家や樹、車などの模型が並べられており、ミニチュア人形も数十体あった。セラピストは箱庭療法も取り入れていると説明した。
香苗は嫌がりもせずにプレイルームに入り、恭子は外のベンチに腰を下ろした。
眠れない夜が続いているので、恭子は目を閉じたが、眠りはやって来ない。それでも我慢して目を瞑り、我慢できなくなると、立ち上がって窓からプレイルームの中を覗いた。
香苗は床に寝そべって絵本を読んでいる。セラピストは娘の傍に横座りになって、一緒に絵本を眺めている。二人の唇は全く動いていない。
しばらく見ていても全く変わらないので、恭子は諦めてベンチに戻った。
一時間ほどで遊戯療法が終わった。出てきた香苗に「どうだった」と恭子は声を掛けた。香苗は知らん顔をしている。
「お母さん、焦らないで下さいね。きょうはプレイルームに慣れてもらうだけで十分なんですから」とセラピストにたしなめられた。
次回の予約をして病院を後にした。
香苗の態度が少し変わったのは、三回目の遊戯療法を終えた後だった。
家に帰って昼ご飯の用意をしていた時、いつもなら病院から帰ってくると部屋に閉じこもってしまう娘がキッチンの横を通った。
「トイレ?」
それには答えず、香苗はこちらに背を向けてダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
「そこで食べるの?」
香苗は何も言わず、両肘をテーブルにつき、掌に顎を乗せた。
恭子は早く作らなければと焦り、チャーハンがぱらぱらになるまで待てずに皿に盛った。
香苗の前に皿とスプーンを置き、自分の分を斜めの位置に置く。
「香苗ちゃん、コーンスープ飲む?」
香苗は返事をしないが、恭子はキッチンに戻り、インスタントのコーンスープを作った。それをマグカップに入れて香苗の前に置き、恭子も椅子を引いて腰を下ろした。
一緒にチャーハンを食べる。それだけで胸がふっと熱くなった。
夜も香苗はテーブルに坐り、恭子と一緒にトマトスパゲティと野菜サラダを食べた。口の周りを赤くした娘にティッシュペーパーを渡すと、素直に拭う。恭子は「テレビを見たら?」と誘ったが、香苗は黙って部屋に戻った。
食器を洗っていると、電話が鳴った。夜に電話が掛かってくることは、ここ数週間なかったことだ。恭子は動悸を感じながら、タオルで手を拭いてから居間に入った。
受話器を取り上げる。
「もしもし」
「ああ、おれだけど……」
克彦だった。遠い世界から聞こえてくる声のようだ。
「はい」
「実は、今度、**にある技術研究所に移ることになって……」
「そうですか」
「それで、移る前に決着をつけておこうと思って……。もう弁護士には頼んだの? こちらには連絡が来ないけど」
「離婚の件は、当分保留します」
「保留? 一体どういうこと。この前の話し合いでは離婚するということで一致したよね」
「先生に止められたから」
「先生って誰のこと。弁護士?」
「香苗が診てもらっているお医者さんが、しばらく様子を見てから、決めたらいいんじゃないかと言われたから」
「香苗が病気なのか」
克彦の声が大きくなった。
「ええ」
恭子は感情が表に出ないように抑えながら、これまでの経過を淡々と話した。
話し終わっても、克彦は黙ったままだった。しばらく沈黙が続いてから、
「香苗は本当に何も喋らないのか」と克彦がぽつりと言った。
「ええ」
「どうして言ってくれなかったんだ」
「どうして?」
「そうだよ。言ってくれれば、おれが香苗と話をして……」
「やめてよ」恭子は叫んだ。「父親の役目を放棄したあなたに、何ができるって言うのよ」
「父親の役目は放棄してない」
「よく言うわ。娘がお姉ちゃんと慕っている姪と関係して、娘の心をめちゃめちゃにしたのはあなたなのよ。あなたが自分で父親だと言っても、香苗はそうは思わないわ。現に、あなたから貰った人形をずたずたにしたのよ。あの人形は香苗自身なのよ」
克彦が黙り込んだ。
しばらくして、「おれはどうすればいい」と克彦が言った。
「どうしようもないわ」
「そうか」
「いずれ、こっちから連絡するから、それまで待ってて」
「分かった」
受話器を置いて、恭子は廊下越しに香苗の部屋を窺った。静まりかえっている。香苗に自分の声が聞こえなかったかどうか恭子は気になった。
数日後、早めの夕食を香苗と一緒に摂っていると、インターホンが鳴った。口の中のものを急いで飲み込み、受話器を耳に当てた。
「はい」
「おれだけど……」
恭子はどきりとし、香苗を見た。香苗はカレーライスを口に運んでいる。
「すぐに行きます」そう答えて受話器を置き、恭子は玄関に急いだ。
ドアチェーンを掛けたままにしておこうかと一瞬思ったが、自分が外に出て話そうとサンダルを履き、チェーンを外してドアを開けた。
スーツ姿の克彦が立っており、恭子が外に出ようとすると、ドアの陰からベージュのワンピースを着た美津子が姿を見せた。
「叔母様……」硬い表情をしている。
「どうして来たのよ」恭子は思わず大きな声を出した。「こちらから連絡するって言ったでしょ」
「香苗ちゃんに謝りたくて……」
二人が入って来ようとするのを恭子は押し止めた。
「帰って、帰ってよ!」
その時後ろから、ドドドという足音が聞こえてきた。振り返ると、香苗が泣きそうな顔をしながら駆けてき、自分の部屋のドアを開けた。
「香苗ちゃん」と美津子が叫んだ。
香苗はそのまま部屋に入り、大きな音をさせてドアを閉めた。
克彦と美津子が恭子を押しのけ、靴を脱いで上がった。恭子は玄関に突っ立ったまま、その様子を見ていた。
克彦が娘の部屋を開けようとするが、ノブが回らない。克彦はドアを叩いた。
「香苗、パパだ。ここを開けてくれ。パパと話をしよう」
克彦はドアを叩き、ノブをガチャガチャさせるが、ドアは開かない。
「香苗、パパが悪かった。香苗を傷つけるつもりは全然なかったんだ。パパを赦してくれ。お願いだから、ここを開けてくれ」
美津子もドアを叩いた。
「香苗ちゃん、美津子よ。ごめんなさい。本当にごめんなさい。でも、パパのこと、あなたから取るつもりは全然ないのよ。それだけは分かって……」
美津子の声が涙声になる。美津子はもう一度ドアを叩こうとして、口に手を当てた。そのまま腰を屈め、体を震わせた。恭子はサンダルを脱いで美津子の傍に寄り、背中をさすった。美津子の掌の間からどろりとした液体が零れ落ちる。
恭子は美津子の脇に手を入れて立ち上がらせ、洗面所に連れて行った。
美津子は洗面台に手をついて吐いた。白い粒々や茶色の溶けた物が洗面台を汚す。恭子は蛇口を捻って水を勢いよく出し、吐物を流した。
美津子は吐く物がなくなっても、何回か体を震わせて洗面台に屈み込んだ。
「ひどいのか」
克彦が声を掛けてきた。
「もう治まったから大丈夫よ」と恭子は答え、美津子に口をすすぐように言った。美津子は手を洗い、棚にあったコップに水を受けて、口をすすいだ。
恭子がタオルを渡す。美津子はそれで口の周りを拭うと、「ごめんなさい」と呟くように言った。
恭子は美津子からタオルを受け取り、床に点々と零れている液体を拭っていった。
「あ、叔母様、私がやります」
美津子が恭子の横にしゃがんで、タオルを取ろうとした。
「いいから、帰って」
美津子が手を引っ込める。
「香苗はああいう状態だから、そっとしておいて」
「ごめんなさい」
言いたいことが固まりになって出てきそうだったが、言葉にならなかった。
吐物を拭き終わると、恭子は二人に向かって、「落ち着いたら連絡します」と言った。
克彦は何か言いたそうな顔をしていたが、「すまん」とだけ言って、美津子と一緒に部屋を出ていった。
恭子はドライバーを使って娘の部屋のドアを開けた。カーテンを閉め切った薄暗い中、香苗はベッドで蒲団を被って丸くなっていた。
「香苗ちゃん」
恭子が声を掛けると、いきなりくぐもった悲鳴が聞こえた。
「二人とも帰ったから、大丈夫よ」
悲鳴は途切れることなく続き、恭子は急いで部屋を出た。
恭子の心配した通り、香苗は晩御飯の時にも部屋から出てこようとはしなかった。また熱が出るのではないかと、恭子は机の上の晩御飯の横に、スポーツ飲料の大きいペットボトルを置いた。
「アクエリアス、十分飲むのよ」と声を掛け、部屋を出たが、翌朝半分以上減っているのを見てほっとした。
その夜遅く、電話があった。恭子は緊張した。克彦なら、絶対家に来ないでと強く言おうと受話器を取った。
「もしもし」
「恭子か。おれだ」
兄の祐一だった。
「どうしたの、お兄さん」
「何かあったのか、克彦くんとの間で。この前の話し合いで、離婚することに決まったんじゃなかったのか」
「そのことは保留にしてもらいました」
「保留? それでか、美津子が克彦くんと別れると言い出したわけは」
「みっちゃん、別れるって言ってるの?」
「そうだよ。泣きながら、彼と別れて一人で子供を育てるなんて言い出してるんだ。理由を聞いても何も言わないし、おれも弥生もおろおろするばっかりでな。一体どうなっているんだ」
祐一は苛々した声を出した。恭子は香苗のことを手短に説明し、二人がやって来たことを話した。
「うーん、そういうことだったのか」
「そもそも私と克彦の間だけで離婚を決めようとしたことが間違いだったのよ」
「それなら、なにか、もし香苗が離婚に反対したら離婚しないつもりか」
「……分からない」
「今の状態は、口に出さなくても離婚に反対しているのと同じじゃないのか」
「セラピストの先生は、香苗の中で二つの心が闘っている状態じゃないかとおっしゃってます」
「……それでいつ頃治るんだ」
「そんなの、私に分かるわけがないじゃない。診断書には半年間の療養と書いてあったけど……」
「そんなに掛かるのか」
祐一の溜息が聞こえてきた。
「一体どうすればいいんだ。弥生は美津子が自殺するんじゃないかと気も狂わんばっかりだし、まさかそんなことになったら、もう滅茶苦茶だ。どうすればいい、恭子。何とかしてくれ」
「そんなの無理。私だって香苗のことで精一杯なのよ」
祐一は、そうかと力無く言って、電話を切った。
次の日の夜十一時頃、電話が鳴った。しかし、受話器を取っても相手は何も喋らない。
「どちらさま」
いきなり嗚咽が聞こえてきた。
「みっちゃん?」
いや、声が低い。
「あなたなの?」
何か言おうとしているが、言葉にならない。恭子は動悸を感じながら我慢して待った。
しばらくして「すまん」という克彦の声が聞こえてきた。
「彼女と別れるから赦してくれ」途切れ途切れに言う。
「みっちゃんが別れるって言ってるんでしょ?」
「もう駄目なんだ。どうしようもないんだ」
「何を言ってるの、今更。もう踏み出してしまったんだから、元に戻るわけがないのよ」
「おれはどうしたらいい。どうしたらいいか、分からないよ。助けてくれ」
恭子はすっと冷静になった。
「みっちゃんの携帯の番号分かる?」
「うん?」
「私がみっちゃんに電話するから、番号教えて」
キーを操作する音が聞こえ、番号を棒読みする声が続いた。それをメモ用紙に書き留め、「変なことしちゃ駄目よ」と言って受話器を置いた。
すぐに美津子に電話をする。二回の呼出音で、彼女が出た。
「叔母様、ごめんなさい。先生とは別れました。本当にごめんなさい」
「みっちゃん、よく聞いて。あなたが克彦と別れたら、あの人行くところがなくなるのよ。私と香苗のところにはもう戻れないの。分かる? 引き受けるのはあなたしかいないのよ。香苗の父親からあなたの子供の父親になるしかないのよ」
「………」
「分かった?」
「……はい」
「自殺なんて卑怯な真似をしたら、絶対に赦さないから」
「そんなこと、しません」
「みっちゃん、克彦の居場所を知ってるでしょ。すぐに行ってあげて。さっき泣きながら電話が掛かってきたから」
「本当ですか」
「まさかとは思うけど、自殺するかもしれないから」
「ええ!」
「すぐに行きなさい」
「はい」
電話が切れた。恭子はゆっくりと受話器を置いた。
数日後、朝食の片付けを済ませ、洗濯をしていると、電話が鳴った。夫か兄かと思いながら受話器を取ると、母親の澄江だった。
「どうしてる、元気?」と澄江が言った。
「元気よ」
「祐一から聞いたんだけど、あんた、今度離婚するそうね」
澄江は世間話のように明るい声で言う。恭子は何で話したのかと兄に腹を立てた。
「離婚するかどうかまだ分かりません」
「香苗が離婚に反対して、喋らないんだって?」
「喋らないんじゃありません。喋れないの。ショックで心因性緘黙症という病気になったんです」
「カンモクショウ?」
「喋れなくなる病気」
「ふーん、面白い病気があるものねえ」
「用事がなければ切るわよ。今洗濯中だから」
「ちょっと待ちなさいよ。洗濯なんて機械がやってくれるんでしょ。どう、一度香苗を連れて私のところに遊びに来ない? 久し振りに香苗の顔も見たいし……」
よく言うわと恭子は思う。正月にそちらに行こうかと言うと、決まって友達と温泉に行くからと断るくせに。
「病院に行かなければならないから、無理よ」
「病院て毎日行くわけではないでしょう」
「香苗は病院に行くのもやっとなのよ。とてもお母さんのところまでは行けないわ」
「……あのね、美津子も香苗も私にとっては可愛い孫なのよ。その孫同士がいがみ合っているのに私が心配しないとでも思ってるの?」
「みっちゃんも呼んだの?」
「呼んだほうがよければ、呼ぼうか」
「だめ、絶対にだめ」
「分かった。……それにしても克彦さんも罪なことをしてくれるわね。よりによって私の孫に手を出すなんて」
矛先が自分に向けられると恭子は身構えたが、
「でも、下半身は別人格という言葉もあるし、昔の偉い小説家の先生も同じことをしてたんだから、よくあると言えばよくあることよ」
「小説家の先生?」
「あら、知らないの? 明治の文豪で何て言ったかしら。その先生が姪と関係を持って妊娠させ、フランスに逃げたのよ。確かそのことを小説にも書いてるわ。もっとも先生の場合、奥さんは死んでいたけど……」
母特有のいたわりであると頭では理解できても、そのゴシップを楽しむような口調に恭子は反発を覚えずにはおれなかった。
「どう、来るの?」
「香苗が行ければ行きます」
「きょう、来る?」
「きょうは無理。明日、行けるようなら電話します」
「よっしゃ、決まり。おいしいもの作って待ってるわよ」
夜、蒲団を被っている香苗に「どう、居間で食べない?」と声を掛けた。返事はなく、恭子はキッチンに戻ると、夕食の皿を盆に乗せた。それを持っていこうとした時、香苗が姿を見せた。香苗がゆっくりとテーブルについた後、その前に盆を置いた。自分の分も持ってきて、恭子はテーブルの椅子に腰を下ろした。
「香苗ちゃん、お祖母ちゃんに会いたくない?」
香苗は黙々と箸を動かしている。
「お祖母ちゃんが久し振りに香苗に会いたいんだって。明日、行ってみようか」
恭子は娘の顔から目を離さず見ていたが、香苗は表情ひとつ変えずに食べている。
やはりだめだと思いながら、恭子は自分のおかずに箸を付けた。
夜中、眠れないまま香苗のことを考えていて、母のところに連れて行くのもいいかもしれないと恭子は思った。週一回の病院とマンションの往復だけ、それもタクシーを使っての移動なので、もっと外の世界と触れるほうが早くよくなるのではないかという気がした。
それで翌朝、朝食を済ますと、「きょうはお祖母ちゃんの家に行くわよ」と宣言し、服を着替えさせた。香苗は嫌がりもせず恭子の出したジャンパースカートを穿いた。
出掛ける前に母に電話をした。行くことを告げると、「香苗は私のこと、好きだから、来ると思ったよ」と澄江は答え、恭子を苦笑させた。
タクシーを使わずにバス停に向かおうとすると、香苗は立ち止まり握り合った手に力を込めたが、「きょうはバスと電車で行こうね」と言うと、再び歩き始めた。
バスは空いていたが、電車の駅は平日にもかかわらず混雑していて、香苗は怯えたように恭子に体を寄せてきた。
「ママの傍にいたら大丈夫だからね」
そう言い聞かせ、繋いだ手を引き寄せながら切符売り場に向かう。
急行は混んでいるので普通電車に乗り、端の座席に腰を下ろした。
一時間ほどで目的の駅に着き、そこから十分ばかり歩いた。三年前に来た時と風景はほとんど変わっていない。道を行き交う人も少なく、香苗は落ち着いた表情で周りを見ている。
母の家は緩やかな傾斜地にあり、道から少し下ったところに木戸がある。呼び鈴があるが、それを押さずに恭子は木戸を開け、香苗と共に玄関前に立った。左側には庭に通じる小径があり、体を傾けて奥を見ると、庭は意外ときれいに手入れがされていた。キンモクセイのいい匂いが漂ってくる。
玄関の引き戸に手を掛けて横に引くと、鍵が掛かっておらず軋んだ音と共に開いた。
中に入り、「こんにちは」と恭子は誰もいない廊下に向かって声を出した。
「いらっしゃい」という声がし、奥から割烹着を着た澄江が姿を見せた。濃い化粧をしている。
「遅かったじゃないの」
「各駅停車で来たから」
「あら、香苗ちゃん、すっかり大きくなって」
そう言うと、澄江は靴下のまま玄関口に降りてきた。香苗はじっと澄江を見ている。
「お祖母ちゃんによく顔を見せて」
澄江は香苗の頬を両手で挟むと、腰を少し屈めて顔を近づけた。
「喋れなくなるまで苦しんだのかい。まあまあ、可哀想に」
澄江は香苗を胸に抱き締めた。香苗は顔を横に向け、素直に抱かれている。
「辛いことがあるなら、お祖母ちゃんに言うんだよ。お祖母ちゃんがみんな吸い取ってあげるから」
涙声になり、澄江は涙をこぼした。恭子は呆気に取られていた。どこまで本心か、演技なのか分からない。
しばらくして香苗が体を左右に動かしたので澄江は彼女を離し、割烹着の裾を持ち上げて涙を拭った。
「お昼、まだだろう。お蕎麦、用意しといたから、さあさ、上がって」
澄江は靴下のまま下に降りたことを気にする様子もなく、ひょいと上にあがると、すたすたと奥に歩いていった。
庭に面した座敷で三人揃って蕎麦を食べた。ざるではなく、汁をかけた月見蕎麦で、刻み葱がたっぷりかかっている。
いつもはテーブルで食べているので座卓は苦手で、恭子は横座りになった。香苗も横座りになっている。澄江は正坐を崩さない。
台所にテーブルがあるのに座敷にしたのは、恭子たちがひとまずはお客であるという澄江の考えらしかった。
確かに庭の木々を見ながら食事をするというのは気持ちのいいことで、いつもはぼんやりとご飯を食べている香苗も時々庭に目をやっている。
食事が済んで恭子も片づけを手伝った後、澄江が隣の部屋から座椅子を運んできた。クッションでカバーされたやつで、縁側の傍に置いて、澄江はそこに体を預けた。香苗は縁側に腰掛け、脚をぶらぶらさせている。
「あんたも坐りたかったら、もう一つあるから持ってきたら」と澄江が恭子に言う。
恭子はちょっと迷ってから隣室からブルーの座椅子を運んできて、澄江の横に並べて置いた。そこに腰を下ろすと、クッションに体がふっと包み込まれる感じがする。
「香苗ちゃん、庭で遊びたかったら遊んでもいいよ」と澄江が声を掛ける。
香苗がこちらを振り返り、「靴を履いてね」という恭子の言葉に、立ち上がって玄関に走っていった。恭子は驚いてその後ろ姿を見送った。
「香苗が自分から走っていった!」
「やっぱり子供は自然の中で育てなきゃ駄目なのよ。コンクリートの箱の中で育てるもんじゃないよ」
母の言うことはずれていると思ったが、現実に娘が自分で動くのを目にすると、あながち的はずれとは言えない気がしてくる。
靴を履いて庭に現れた香苗は、真ん中にある太い桜の木を見上げ、幹を叩いている。それから匂いを嗅ぐように幾分顎を突き出しながら、キンモクセイに近寄っていく。
「これだけの庭、手入れするのが大変でしょ」
「源さんがしてくれるから、私は見るだけ」
「まだ続いてるの?」
「当たり前よ。どちらかが寝たきりになったら、その時はお互い面倒見ようって言ってるんだから」
「お母さん、いくつになった」
「六十って言いたいところだけど、娘に嘘をついてもしょうがないし。古稀よ」
「ふーん、七十か」
「あんたはいくつになったの」
「四十三」
「女盛りじゃないの」
「何言ってるの、盛りなんかとうに過ぎちゃったわ」
「私から言わせたら、まだまだよ。私があんたくらいの時には、それこそ男が引きも切らず……」
「止めてよ、聞きたくないわ」
澄江が早朝の青果市場に勤めていた頃、男たちによくもてたという話は聞いている。何度か、夜遅くに帰ってきた母に対して父が言葉をぶつけ、言い争いをしているのを目撃したことがある。母が他の男とどこまでの関係を持ったか、高校生だった恭子は耳を塞いで聞かないようにしていたからよく知らない。しかし、十年前に父が死んで三年後、実家を売り払って今の家に引っ越した理由が植木職人との関係だと知った時、恭子はそういうことだったのかと妙に納得した。気の弱いところのある父が母の行いを黙認していたのかもしれないと、恭子はその時思った。
「あんた、美津子のことが羨ましいんじゃないの?」
「え?」恭子は母を見た。澄江は庭に目をやりながら、
「若い時の恋がうやむやに終わってしまって、後悔してるんじゃないの?」
「何を言い出すの」恭子は庭の香苗を見た。「聞こえるじゃないの」
「別に聞こえてもいいじゃないの。香苗もいずれ恋をするんだし……」
「止めてよ、もう……」
「で、どうなの」澄江は声を潜めて言った。「羨ましいんでしょ?」
「羨ましくなんかないわ」
「そう、それならいいけど。あんたが踏ん切りがつかないのは、美津子に嫉妬しているからだと思ったけど……」
「香苗の病気のせいです。先生がおっしゃったの、よくなってから考えてもいいと」
「……まあ、何にしても二人を恨んじゃだめよ。克彦さんを大人だと思うから腹が立つんであって、まだ少年だと思えばいいのよ。少年が初めての恋に舞い上がってるの。美津子も同じこと。美津子は先生みたいな大人に恋する年頃なのよ。そのうち熱が冷めて、別の男が好きになるわよ」
「二人が別れるって言うの?」
「それは分からないけど、恋は冷めるわね」
自分を基準に言わないで、と言おうとして、二十代の時の心の痛みが不意に蘇った。
「あんたが克彦さんを家に連れてきた時、私は嫌な予感がしたのよ。あんたがその前の恋愛に懲りて、楽な方に逃げようとしているんじゃないかと思ってね。克彦さんがウブだったから、まあ、それもいいかと私は賛成したんだけど……」
「だったら、反対してくれたらよかったんじゃない」
「何言ってるの。私の言うことなんかちっとも聞かなかったくせに」
香苗が桜の幹に抱きついて、耳を付けている。
「香苗ちゃん、その木に登りたかったら、登ってもいいのよ」と澄江が呼び掛けた。香苗はこちらを見、一番低い枝に飛び付こうとする。
「香苗、だめよ、登っちゃ。危ないから」
「止めたら、だめよ。子供は体を動かした方がいいんだから」
香苗が両手で枝に飛び付き、足を幹に掛けて上に上がろうとするが、滑ってうまくいかない。ジャンパースカートが捲れ上がって、太腿が見えている。そんな娘の姿を目にしたのは初めてだった。
「そうそうその調子、頑張って」と澄江が声をかけた。
香苗は昼の間ほとんど庭で過ごし、恭子はゆるやかに風の通る座敷でまどろんだ。
夕食は手巻き寿司で、座敷ではなく、台所のテーブルを使った。恭子も酢飯を作るのを手伝い、卵焼きも作った。ネタはヒラメ、イカ、マグロ、サーモンが用意され、胡瓜、アスパラガス、かいわれ大根もたっぷりあった。ちょっと多すぎるんじゃないと恭子が文句を言うと、余ってもいいのよ、このくらいなければ楽しくないものと澄江は答える。
香苗は手巻き寿司は初めてで、澄江が海苔を手に取って、作り方を教える。
「できればワサビを付けたらおいしいわよ。何しろ本物なんだから」
香苗はワサビを付けて手巻き寿司を作り、かぶりついたが、口を動かしているうちに、顔をしかめた。
「香苗ちゃんにはまだ早かったかな」
澄江が笑った。しかし香苗は次もワサビを付けて食べた。恭子は驚いてその様子を眺めた。
「どうして今まで手巻き寿司をしなかったの」と澄江が訊いてきた。
「どうしてって、あの人はあまり魚が好きじゃないし、香苗もお肉が好きだし……」
「あらあら」澄江が呆れた顔をした。
澄江はビールを飲み、恭子もコップ一杯だけ付き合った。香苗は吸い物を飲む。
寿司ネタも野菜も三分の一ほど残ってしまった。魚は置いておけないので刺身として食べ、野菜はラップをして冷蔵庫に仕舞う。
片付けを手伝い、そろそろ帰ろうとした時、「香苗ちゃん、きょうはお祖母ちゃんの家に泊まって行きなさい」と澄江が言い出した。
「何言うの、お母さん」
「あんたに言ってないわ。香苗ちゃんに言ってるの」
香苗は澄江の顔を見上げている。恭子は娘の手を取った。
「香苗、帰るのよ」
澄江も香苗のもう一方の手を取った。
「お母さんは一人になって自分のことを考える時間が必要なのよ。香苗ちゃんも分かるでしょ」
「一人にならなくても、自分のことぐらい考えてるわよ」
いらいらして恭子は大きな声を出した。
「ほらね」と澄江は娘に話し掛ける。「こんなふうに大声を出すのは考えてない証拠。香苗ちゃん、しばらくお祖母ちゃんと一緒に居よ」
「余計なこと、しないで」恭子は澄江の手を外そうとした。
「あんたの考えじゃなくて、香苗の考えを聞こうじゃないの」
「香苗は喋れないんです」
それを無視して、澄江は「今晩、ここに泊まる?」と香苗に訊いた。
香苗は恭子と澄江の顔を交互に見てから、小さく頷いた。
「ほらね」
澄江が勝ち誇ったように言う。恭子は娘が頷いたことに驚き、言葉が出てこない。
「決まった、決まった」
澄江が香苗の手を引っ張り、恭子は手を離した。澄江が香苗を抱き寄せる。
恭子は屈んで、娘の頬を両手で挟んだ。
「本当に今晩ここに泊まりたい?」
香苗ははっきりと頷いた。恭子は思わず涙が出そうになった。
澄江と香苗に見送られて、恭子は玄関を出た。夜の帷が下りており、緩やかな坂を上ったところで、恭子は立ち止まった。小さな街灯がぽつんぽつんと灯る道を確かこちらだと思って歩き始める。しかし夜が昼間の記憶を消しており、恭子はだんだん不安になってきた。それを抑えながら歩いていると、不意に娘を母に取られたのではないかという思いが湧いてきた。克彦も離れ、香苗も離れ、自分一人だけが夜道を歩いているような感覚に囚われた。戻ろうかと思ったが、足は止まらない。そのうち前方の街灯の下に人影が見えたので、恭子は小走りに近づいていき、その男の人に駅までの道を訊いた。
方向は間違っておらず、恭子はその人の言う通りに道を曲がり、駅の明かりを見つけた。
急行列車の座席に腰掛けながら、恭子は母の言葉を思い出していた。自分は美津子に嫉妬しているのだろうか。若い時ならいざ知らず、この歳になって羨ましいと思うことなどあるのだろうか。
恭子は余計なことなど考えずに眠ろうとしたが、公園のブランコに坐っている美津子の姿や「先生のこと、大好きなんです」と言った声が蘇ってきて、眠れなかった。
ターミナル駅でバスに乗り換えた。乗客が少なく、時々バス停に止まらずに通過する。次の次で降りなければと恭子は思っていたが、ふっと眠ってしまい、気が付くと自分の降りるところを通過していた。
バスは川に掛かる大きな橋を渡ったところで、次のバス停に停車した。恭子はバスを降り、橋を渡り始めた。自動車道と歩道が分けられており、オレンジ色の光が橋を照らしている。その色に染められながら、恭子は歩道を歩いた。先を見ても誰も歩いていない。後ろを見ても、誰もいない。すぐ横をヘッドライトをつけたトラックや乗用車がかなりのスピードで通り過ぎていく。
真ん中辺りに橋を支えている太い柱があり、それを避けるように歩道が端からせり出している。恭子は立ち止まり、川に向かうベランダのようになった場所に立った。欄干に腕を乗せ、下を覗き込む。川面は遙か下にあり、黒い川は流れているのかどうか分からない。
ここから飛び降りたら死ぬだろうと恭子は思った。不意に、死ねばという声がし、体が川面に吸い込まれそうになった。頭が欄干からせり出す。
その時、後ろをベルを鳴らしながら、自転車が通り過ぎた。恭子はその音に引っ張られるように体を起こした。自転車は立ち漕ぎの後ろ姿を乗せたまま遠ざかっていく。恭子はその背中を見詰めながら再び歩き始めた。
恭子はそれから三日間、何もしないでベッドの中で眠り続けた。香苗の遊戯療法の予約日も気が付いたら、過ぎていた。
恭子がベッドから起きたのは、澄江からの電話だった。
「今時、生理の手当はどうするの。タンポンなんて使うのかい」
「何、言ってるの」
「香苗に初潮が来たんだよ。お腹を手で押さえているから、おかしいと思って見たら……」
「コンビニでナプキン買って、使い方を教えてあげて」
「忘れたって言いたいところだけど、何とかやってみるわ。……それより、香苗を迎えに来てくれないかい。ずっと泣かれちゃって私の手には負えないんだよ」
「分かりました。今から行きます」
恭子は洗面所で髪と顔を洗い、簡単な化粧をし、ジーンズにカーディガンを着て表に出た。
澄江の家に着いたのは夕方で、玄関の引き戸を開けたら、香苗が奥から顔をくしゃくしゃにさせて飛び出してきた。見たことのないピンクのパンツを穿いている。香苗は裸足のまま下に降りてきて恭子に抱きついた。
「大丈夫?」と訊くと、香苗は小さく頷いた。
「さあさ、上がって」と澄江が姿を見せた。「ちょっと早いけど晩御飯用意したから」
台所のテーブルには鉢に入った赤飯が置かれている。
「今時、こんなものでお祝いするのか知らないけれど、まあ形だから」
恭子は自分の初潮の時のことを思い出した。中学一年の時で母には告げず自分で処置したが、気づかれてしまい叱られたことを。その時も赤飯が炊かれ、そのことで兄に知られたことが恭子にはすごく嫌だったのだ。
テーブルにはその他に鯛の刺身とホウレンソウの白和え、里芋の煮っころがしが並んでいた。
「香苗ちゃんもいよいよ大人の仲間入りだね。これからはよーく男を見て、自分を粗末に扱っちゃいけないよ」と澄江がビールを飲みながら言う。
「ナプキンの使い方、ちゃんと教えてくれた?」
「私が教えなくても、香苗はちゃんと知ってたよ。学校で教わったんだろうね」
香苗を見ると、二人の会話が聞こえなかったように黙々と煮っころがしを食べている。
澄江はケーキまで用意していたが、それは持って帰ることにした。他に香苗の下着や服まで買っており、「孫に物を買ってやるのは楽しいね」と言いながら、澄江は一緒に買ったリュックにそれらを詰め込んだ。パジャマは今度泊まる時に使えるからと詰めなかった。
澄江は玄関の外まで見送りに出てきた。
「香苗ちゃん、バイバイ」
その声に香苗が振り返り、手を振った。恭子も一緒に手を振った。
「ママを頼んだよ」と澄江が言う。その言葉に恭子は小さく笑った。
遊戯療法を止める相談をすると、言葉が出てくるまで続けた方がいいということで、また週一回通うことになった。
離婚のことは弁護士に任せることにした。別に香苗の承諾を取ったわけではなかったが、「ママ、離婚するよ」と言っても、香苗はもう悲鳴を上げることはせず、黙って聞いているだけだったから。
弁護士同士の話し合いで、月々の養育料と慰謝料と財産分与を決め、マンションは売ってローンの残りを完済することになった。ただし、マンションが売れるまでは恭子と香苗がそこに住み、克彦がローンの返済をすることで話がついた。
香苗は小学校六年の二学期の大半と三学期を休み、卒業式にも出なかった。
三月半ばにマンションが売れた。恭子は、香苗のベッドや机、本棚などがすべて収まる部屋のあるアパートを探し回り、期限ぎりぎりになってようやく2DKの物件を見つけ、そこに引っ越した。中学の校区が変わってしまったが、むしろそのほうが小学校時代の香苗を知らない子供ばかりなので、都合がいいと恭子は思った。
四月になっても香苗は言葉を発せず、セラピストと相談して、中学に通うことを延期した。
克彦はアメリカの会社に引き抜かれ、美津子と一緒にロサンゼルスに移っていった。身内だけで結婚式をしたが、恭子には事後報告があっただけだった。その後、義姉の弥生が妊娠末期の娘の世話をするために、ロサンゼルスに行ったことを、恭子は兄から聞いた。
桜もすっかり葉桜になり、急に暖かくなったある日、台所の窓からわずかに見える堤防を眺めていて、恭子はたまには広々としたところでご飯を食べようという気になった。
洋室のベッドに寝転んで漫画を読んでいた香苗に提案すると頷いてくれたので、恭子はご飯を炊いた。自分用にはおにぎり、娘には弁当箱に卵焼きとハンバーグとブロッコリーを詰め込んで、ご飯は少なめにした。
トートバッグにそれらとスポーツドリンク、お茶のペットボトルを入れて、アパートを出る。日が傾いて小路はすでに暗くなっている。
「堤防まで行こうか」
恭子が少し後ろを付いてくる娘に声を掛けると、香苗は頷いた。
五分ほど歩くと大きなマンションがあり、その敷地を斜めに横切って堤防の下に来た。階段を上る。堤防に立つと、日はまだ沈んでおらず、雲間からこちらを照らしている。川幅は広く、光を反射しながらゆったりと流れている。側を自転車が通り過ぎた。
「川の側で食べる?」
香苗が考えるような顔つきになる。
「だったら、そこで食べようか」
恭子は堤防の段になったところを指差した。香苗が頷く。
階段を降りていき、途中でアスファルトで固められた段に足を向けた。所々アスファルトを突き破って雑草が生えており、恭子は草の生えていない場所に、持ってきたビニールシートを広げた。腰を下ろすと、アスファルトの暖かさが伝わってくる。
すぐ横に香苗も腰を下ろし、二人で膝を抱えて川を見た。夕陽が雲を染め始めている。
恭子はバックから弁当箱を出し、香苗に手渡した。そしておにぎりを取り出し、包んでいるラップを剥いた。
香苗が恭子の手許を見ている。
「おにぎり、欲しいの?」
香苗が頷いた。
「梅干しが入っているけど、いいの?」
香苗が頷く。恭子がラップごとおにぎりを手渡すと、香苗は一口囓って、こちらを向いて微笑んだ。
「好きなだけ食べていいのよ」
香苗は半分ほど食べると、残りを恭子に返した。恭子はご飯がこぼれ落ちないように注意しながら、おにぎりを食べた。
香苗が弁当箱の蓋を開け、ハンバーグを食べ始める。恭子はもう一つのおにぎりを取り出して食べた。
スポーツドリンクのペットボトルを娘に渡そうとすると、首を振ったのでお茶のボトルを渡した。香苗が口を付けて飲み、恭子も同じようにしてお茶を飲んだ。
香苗は弁当をすべて食べ、恭子は弁当箱をバッグに仕舞った。
「外で食べたらおいしいね」と恭子が言うと、香苗は頷いた。
香苗が膝を立てて両腕で抱え込み、その上に頭を乗せた。恭子も同じ姿勢を取った。
日が落ち、空が深い赤に染まっている。遠くの橋のオレンジ色の灯りが目に付きだした。川面は暗く、流れているのかどうか分からない。恭子は目を凝らして流れを見た。光の反射から見て、ゆっくりと流れているようだ。しかしその中に激しい渦が巻いているのを感じた。急な流れや渦巻く淵があるのだ。
恭子は下流に目を凝らしたが、先の方は暗闇に沈んでいた。
腕を叩かれる。見ると、香苗が周りに目をやっていた。辺りが夕闇に包まれている。恭子は立ち上がり、ビニールシートをたたんでバッグに突っ込んだ。
アスファルトの段から階段に移って、堤防に上がる。そして向こう側の階段を降りようとしたが、陰になっていてすっかり暗くなっているのに気づいた。恭子は足許を確かめながら階段を降り始めた。
その時、後ろから「ママ……」という微かな声が聞こえてきた。
振り仰ぐと、シルエットになった香苗が堤防の上でじっとしている。
「どうしたの」
「ママ、恐い」
恭子は急いで上がっていき、「今、何て言ったの」と息せき切って尋ねた。
「ママ、恐い」
恭子は香苗を抱き締めた。
「恐くなんかないのよ。ママがついてるから恐くなんかない」
声が掠れた。
すぐ横にランニング姿の男性がやって来て、二、三段ゆっくり降りてから、駆け下りていった。
恭子は香苗を横に抱いて、彼の後を追うように暗い階段を一歩ずつ降りていった。
|