OKミドル   若林 亨


 下川はとうとう話しかけてしまった。その男にゆっくりと近づいて「失礼ですが」と声をかけた。
 夜勤明けのいつもの時刻。地下二階のホームから長いエスカレーターに乗って改札へ向かうと、その男もまたいつも通り改札前の柱に背もたれて、何をするでもなくぼんやりとあたりを眺めていた。腕を組み、ほんの少し首を傾けて。
 下川がこの男に気づいたのは半年ほど前だ。何回も見かけているうちに次第に意識するようになった。なぜいつも同じ所にいるのか、いつからそうしているのか、いつまでそうしているのか、何を考えているのか、楽しいのか楽しくないのか。これといった特徴もない五十歳ぐらいの男だったが、自分と同じぐらいの年齢だったのでよけいに気になった。一度だけ男が改札を抜けて歩き出したので後を付けてみたことがある。地上へ出て百メートルほど歩いたところで男は立ち止まりしばらく迷っていた。もう少し歩こうか、それとも引き返そうか……。結局引き返してきたので下川は慌てて建物の陰に隠れた。そんなことがあってからますます男のことが気になり、そして今日とうとう声をかけてしまったのだ。
 男の反応はあっさりとしていた。驚くでもなく警戒するでもなく、あっどうもといった風に体全体を曲げてお辞儀をした。まるで顔見知りでもあるかのような素直な反応だった。下川は、少し前からあなたのことが気になっていたのだと正直に話すつもりでいたが、男の顔色があまりにも悪かったので思わず
「大丈夫ですか」
 と口にしていた。
「大丈夫って」
「顔色がすぐれないようですが」
「そうですか、それはどうもありがとうございます。でもまあこんなもんです。これが最近の私ですよ」
 男はそう言って下川から目をそらし、またぼんやりと自動改札のあたりを眺め始めた。

 ふたりが親しくなるのに時間はかからなかった。一度喫茶店で話し込み、次に居酒屋で杯を交わせばそれで十分だった。
 下川博司、五十歳。二年前に住宅販売会社を解雇された。給料の遅配が続いたため、「こんないい加減な会社いつでも辞めてやる」と社長の前で口走ってしまい、結局自己都合による退職ということになってしまったが、本人は解雇されたのだと思っている。すぐに就職先を探したもののうまくいかなかったので職業訓練校の設備管理課に入った。六ヶ月間職業訓練を受けながら、危険物取扱主任者、電気工事士、そしてフォークリフトの運転免許などを取った。どれも下川にとってはそれほど難しい試験ではなく、一緒に受験した多くの仲間も合格していた。そしていよいよ訓練を終えて就職しなければならなくなった時、運良く建物管理会社から求人がきたのだ。月に五日程度の夜勤を辛抱しなければならなかったし、給料も十分ではなかったがそこに決めた。
 下川は熱燗二合で真っ赤になっている。真っ赤な顔で何度も何度も鳥居にビールをついでいる。
 鳥居はビール、焼酎、ウイスキー、冷酒と飲み変えて再びビールに戻っていた。かなり飲んでいるのに顔色はまるで変わらない。相変わらず血の気のない白い顔をしている。
 鳥居俊一。五十五歳。食品会社に三十年勤めていたが、早期退職制度でいったん退職し、改めて契約社員として同じ会社で働いていた。退職する前の肩書きは第二営業部長だったが、契約社員となってからの仕事は倉庫の在庫管理だった。昼の一時から六時までの五時間勤務で時給九百円。部長だった者が時給九百円の契約社員で再雇用される例は今までなかったので同僚の評判は悪かったが、鳥居はそれでよかった。三十年間それなりにがんばって成果を上げてきた。上々のサラリーマン生活だった。まだ気力体力ともに十分持ち合わせてはいたが、子供二人が独立したとたんに働く意欲がなくなってしまった。このあたりで一度区切りつけてもいいだろうと思った。
「うらやましいなあ、まことにうらやましい。だったらそんな顔色を悪くすることないじゃありませんか。わたしなんかクビになってるんですよ。クビですよ。再雇用どころか退職金もなしで、ある日突然さようならですからね。家のローンは残っているし娘はまだ高校生だし、どうしようかと思いましたよ」
 下川の声は大きすぎた。カウンターの十席ほどしかないこの焼き鳥屋には合わない。芝居の稽古でもしているかのよう大きな身振りも目立ちすぎていた。
「女房もフルタイムのパートに出て、それでぎりぎりの生活ですよ。鳥居さんみたいにそんな部長を辞めてパート勤務だなんて考えられません」
 下川はかなり興奮していた。興奮する理由は他にもあった。下川が鳥居を気にかけていたのと同じように、鳥居もまた下川のことを意識していたのだ。毎日同じところに立っているとだいたい同じ人たちが目の前を通り過ぎていく。おおよその人は無表情か、もしくは悩み事でもありそうな浮かない顔をしているのだが、下川だけが笑っていたらしいのだ。エスカレーターで上ってくる時から改札を抜けるときまでずっと口元がゆるんでいた。
「要するに馬鹿に見えたということですね」
 下川が尋ねると鳥居は深くうなずいた。

 朝から土砂降りの雨だった。下川は鳥居に付き合って欲しいと頼まれてこの公園へやってきた。どこへ行くのかも聞かされず何のためかも聞かされず、ただ一緒にいて欲しいと頼まれてやってきたのだ。
 雨が好きだと鳥居は言う。小雨、本降り、土砂降り、にわか雨、雷雨、日照り雨。どんな雨でも好き。雨が降りそうな気配だけでも好き。雨上がりも好き。雨音を聞いていると落ち着くのだという。
「だったら今日は最高の日じゃないですか。うきうきでしょう」
 下川がいくら盛り上げようとしても鳥居は乗ってこなかった。
「最高の日に最低の場所へ行くんです。すみませんねえ、付き合ってもらって」
 すみませんねえばかりを繰り返して鳥居はずっとうつむいている。下川はそんな鳥居にしびれを切らせていた。風が強くて体も冷えてくる。そしてもう我慢ならなくなり、一体何がしたいのですかと叫ぼうとした時、はっと気付いた。
 そうだ、鳥居の顔色は雨の色だったんだ。
「あそこへ行ってきますのでしばらく待っていてください」
 鳥居は目の前のマンションを指さして言った。レンガ色した五階建ての真新しいマンションだった。
「女と別れてきます。完全に女と別れてきますのでそのつもりで待っていてください」
 今まで動かなかったのが嘘のように鳥居は突然走り出し、あっという間にそのマンションの中へ消えていった。
 それから三十分ほどたってようやく雨は小降りになった。下川は同じ場所でずっと待っていた。たとえ一時間でも二時間でも待つつもりだった。
 青白い顔のまま戻ってきた鳥居はひとつ大きなため息をついて、がくっとその場にしゃがみ込んでしまった。たった今完全に別れてきたというその女とは一年間の付き合いということだった。仕事上で顔見知りになったのが始まりで、ほどなくふたりきりで会うようになり、一年前からは親密な関係になった。彼女は二十八歳で独身。一Kのワンルームマンションに住んでいたが、鳥居のすすめで二DKのこのマンションへ引っ越した。このマンションを世話した頃が一番幸せだったという。
「え?」と驚いて下川は身を乗り出した。
「世話したってどういうことですか。買ってやったんですか」
 裏声になっていた。
「いえいえ、賃貸ですから家賃を出しているだけです」
「出しているだけですって鳥居さん、だいぶするでしょう」
「さあ、どうなんでしょう」
 すぐに興奮する下川とは反対に鳥居は落ち着いていた。いつどんなときでも声の大きさや話し方は変わらなかった。駅の改札前でぼんやりしている鳥居そのものだ。
「それで一緒に?」
「一緒には住めないですよ。最初からそんなつもりではありませんでした。全く自分でも意外なのですが、食事したり酒を飲んだりしながら話をしているうちに、引っ越したらどうだなんてことを言ってしまったんです。彼女は素直に喜びましてねえ。そんな彼女を見てこちらもいい気分になりました。この年になってもういちど人生が始まるんだなんて有頂天になってね。でもそのあとがいけません。関係が深まれば深まるほどどう付き合っていいのか分からなくなったんです。会えばもちろん楽しいのですが、楽しいだけで終わってしまうんです。そこから発展しないんです。いつのまにか緊張感がなくなってしまってだらだらとした時間を過ごすようになりました。それでかえって気を使うようになって……。あの部屋にいるときが一番気を使うんだからまったく何のための部屋なのか。やっぱり柄にもないことをするもんじゃありませんね。一年が限界でした」
 鳥居はひとしきり話し終えるとマンションに目をやり、ひとつ大きなため息をついた。五年前に病気で女房を亡くし、それからすぐに長男が結婚し、去年には長女も結婚して家を出て行った。今は独りで暮らしている。長女がまだ家にいる時から週末になるとこのマンションへ泊まりに来ていたのだが、長女もフィアンセと外泊することが多かったので怪しまれることはなかった。しかし彼女と付き合い始めてから女房の夢をよく見るようになった。夢の中で女房はいつも笑っていた。だから四六時中うしろめたさが抜けなかった。
「女房と勘違いすることがありましてね。夜中に目が覚めたときなんか思わず女房の名前を呼びそうになったりして……」
 そんなことも鳥居はたんたんとしゃべった。冷たくなったおしぼりで顔を拭き、そのまま軽く鼻をかんだ。今日は最後のさようならを伝えるために来たのだという。先月から家賃は彼女が払うようになっていたし、鳥居の持ち物はもうすべて運び出されていた。寝間着、洗面道具、灰皿、ライター二個、文庫本十二冊、座椅子、靴下二足。ハンガーみっつ、そして目覚し時計。
「あそこで生活していたわけではありませんし……。でも三日かけてゆっくりと持ち出しました。いちいち忘れ物を取りに帰るみたいにね。付き合い方も知らなければ別れ方も知らない、だめな男ですよまったく。もう鍵もないのにこうやってやってくるんだから」
「じゃあ今さっきは何を」
「お礼のメッセージをポストへ入れてきたんです。完全な別れの瞬間です」
「なんて書いたんですか」
「そんな、恥ずかしくて言えませんよ」
 この人のことだ、きっと素直に、「ありがとう、さようなら」とでも書いたに違いないと下川は思った。
「これでおしまい、これでよし」
 自分に言い聞かせるように鳥居がつぶやいたので下川ももう尋ねるのを止めた。
 ふたりはこの日昼過ぎから十二時間近くもずっと一緒にいた。
 酒が入っても鳥居の顔色は回復しなかった。相変わらず雨の色だった。
「あなたと出会えてほんとうに幸せです」「あなたのおかげで人生が楽になりました」「今日は再出発の日だから一緒に祝ってください」「これから長く付き合ってくれますよね」
 真正面からじっと目を見据えてそんなセリフを口にする。照れる様子もない。案外押しの強い人かもしれないと下川は思った。こんな風にして女を口説いたのだろうか。いや口説こうとしたのではなく、相手が勝手に口説かれてついて来るようになったのかもしれない。この人にはそんな魅力がある。
「あなたは本当に意外な人だ」
 下川は何度も鳥居にそう言っていた。

 それから一ヶ月ほどたったある日、下川はいきなり鳥居に詰め寄られた。
「もうひとり誘いましょう。仲間を増やすんですよ。わたしとあなただけじゃ退屈ですからもうひとり仲間を増やすんです」
 鳥居の顔色はだいぶ回復していた。相変わらず改札前の柱に背もたれてはいたが、もうぼんやりしていることはなく、本を読んだりヘッドホンステレオで音楽を聞いたりカメラをいじくったりしていた。この日はいきなり持っていたデジタルカメラを下川に向けてすばやく二、三回シャッターを切った。
「そう、その顔。そのまぬけな表情がいいですねえ。……あ、あれれ、もう元に戻っちゃったなあ」
 鳥居はカメラをかばんの中へしまい込むと、じっと下川の目を見つめて再び言った。
「ぜひ仲間を増やしましょう」
 下川は意味が分からなかった。仲間を増やすというのはどういうことなのか。仲間ってなんだ。われわれは別に何の目的もなく、ただ会ってしゃべっているだけなのだ。仲間だなんて意識したこともない。いわれてみればたしかに出会ってまもなくのころの方が緊張感があってわくわくしていた。何回か会っているうちに新鮮味はなくなっていた。しかしだからといって仲間を増やすなんてことは……
「何をびっくりしてるんですか、下川さん。すべての始まりはあなたなんですよ。あなたから始まってるんです。あなたは私に声をかけてきましたね。見ず知らずのわたしに声をかけてきましたね。何か目的がありましたか。準備をしてましたか」
 目的などなかった。準備もしていなかった。鳥居に声をかけた理由をきちんと説明することは出来ない。なんとなく鳥居のことが気になりだし、そのうち強く意識するようになってとうとう声をかけてしまったのだ。先のことなんて何も考えていなかった。
「どうですか。だれかいい人はいませんか。仲間にしたくなるような人です」
 鳥居はしつこく迫ってくる。
「そんなこと急に言われてもねえ。鳥居さんこそだれかいないんですか」
「いません。それにわたしは見ず知らずの人に声をかけるなんてそんな大それたことは出来ません」
「何を言ってるんですか。若い女の子を口説いて付き合ってたじゃないですか。それぐらいのことなんでもないでしょう」
「それとこれとは別です。全く別の話です。ここはひとつあなたに働いてもらいますからね」
 結局下川は押し切られてしまった。一人だけいますと答えてしまった。
 下川の勤める地下防災センターは商店街とそれに隣接する地下駐車場の設備管理が主な仕事だった。夜勤の日は駐車場が閉まる午前0時前にふたり一組で最終の点検をする。電灯は切れてないか水漏れはないかなどの簡単なチェックだったが、それでも地下街と駐車場をひと回りするのに小一時間はかかった。不審者がいたり不審物が置いてあったりした場合は同じ防災センター内の警備会社へ連絡することになっていた。
 不審者ではないのだが、夜勤の点検時に必ず見かける顔があった。白のカローラをいつも同じ場所に止め、運転席でじっと腕組みをしている男だ。何もせずにじっとしている。ただ前を向いてじっとしているだけなのだ。
「その人にしましょう」
 まだしゃべり始めたばかりなのに鳥居が大きな声を出して体を寄せてきたので、下川はすかさず耳打ちした。
「でも怖い顔をしているんです」
「怖い人なんですか」
「顔が怖いんです」
「怖い人だったら止めておきましょう」
「でもね、時々ため息をつくんですが、その時だけは可愛らしい顔になるんです」
 カローラに乗っているのは五十歳ぐらいの長髪の男だった。目尻は切れ上がり頬骨が浮き立つほどにやせていて、彫りが深い分濃淡のはっきりしたするどい顔つきになっていた。中学生だったら不良グループに入っていそうな風貌で近寄りがたかった。しかしどこか悩ましげなのだ。夜遅くまでひとりで時間をつぶしている。しかも地下駐車場という全く目立たないところで。下川には気になる存在になっていた。それは地下鉄の改札前で鳥居を意識した時と同じ気持ちだった。
「その人にしましょう」
 鳥居がまた大きな声を出して体を寄せてきた。

 夜勤の日は朝の九時から翌朝の九時まで二十四時間拘束されるが、日勤者が帰った後の夕方五時以降はほとんど仕事がなかった。本を読んだり詰め将棋を解いたりして過ごし、午前;0時の最終見回りが終われば宿直室で朝の五時まで寝ることができた。
「今日はひとりで回ってきますからどうぞ先に寝ていてください」
 十一時になったところで下川は夜勤のパートナーに声をかけた。規則ではふたりひと組で見回らなければならないことになっているがいい加減なものだ。入社したての頃は先に寝るよう勧められることが多かったし、パートナーによってはひとりで回って来いと命令されることもあった。今夜のパートナーはやる気のない人だった。勤続二十年のベテランだったが、全く仕事をしたがらない。しかし今夜に限ってはその方が都合が良かった。駐車場の男に声をかけるため、ひとりで点検に回るチャンスを待っていたのだ。
「そうか、行ってくれるか」
 パートナーは機嫌よく答えてあくびをした。いかにも眠そうだ。
 下川はまったく眠くなかった。それどころか心地よい緊張感に包まれていた。新しい人にまた声をかけようとしている自分に興奮していた。
 待ちきれなくなって少し早めに防災センターを出る。そして一目散に駐車場へ向かう。
 カローラがあった。あの男がいた。いつも通り運転席で腕を組み、悩ましげにじっと前を向いている。
 何も準備してこなかった。鳥居に近づいた時と同じように「失礼ですが」と声をかけてあとは成り行きにまかせようと思っていた。
 しかし今回はそれが裏目に出た。運転席のガラスを軽く叩いて微笑みかけるところまでは良かったのだが、男と目が合ったとたんに頭の中が真っ白になってしまった。間近で見る男の顔が想像以上に恐ろしかったのだ。眉間にしわを寄せてにらみつけてくるではないか。ピストルを何丁も隠し持っていそうだった。出刃包丁もありそうだった。
「何か用か」
 男にすごまれて下川は、あ、あ、と言いよどんでしまった。一歩二歩と後ずさりをしながら自分が作業服であることに気づく。そうだ、仕事中なのだ。
「迷惑か」
 男はちょっと早口だった。
「いつもいつも十二時まで使わせてもらってるけど、迷惑か」
 そう繰り返した。
「あ、いや、別に」
「じゃあいいんだな」
「ええ、まあ、それは」
 男がガラスを閉めようとしたので下川は慌てて近づいた。
「時々おられるんですよ。あなたのようにそうして休憩されている方が。この前もね、トラックの中でカラオケを歌っている人がいましたので注意したら、ほっといてくれって怒鳴られましたよ」
 嘘でも何でもよかった。とにかくこちらへ注意を向けてもらわないことには先へ進めない。
「邪魔だ」
 と男は怒鳴った。
「は?」
「邪魔だって言ってるんだ」
 下川は勢い余って男の車の中へ首を突っ込んでいた。するといきなり下川の耳元でエレキギターの爆音がした。男がエンジンをかけて、カーステレオのスイッチを入れたのだ。スピーカーは下川の耳のすぐそばにあった。鉄くずをひっくり返したようなエレキギターの音は首を引っ込めてしまうには十分なボリュームだった。
 下川がのけぞるようにして車から離れたすきに男はゆっくりと車を発進させた。

「いやあ参りました。大失敗です」
 下川は鳥居に結果を報告した。嫌な思いをしたのでカローラの男はあきらめて違う人を探したかったが、鳥居は面白そうな人だからもう一回その人にアタックしましょうと言ってゆずらない。
「一度だけじゃ分からないでしょう。もう一回だけお願いします。先日はどうも失礼しましたとかなんとか言って近づいていけば今度は仲良くなれますよ。でっかい音で音楽を聴いていたんでしょう。ロックですよ、きっと。そういうのが好きなのかもしれません。下川さん、あなたはどうですか、ロックは聴きますか。だめですか。だったらやかましいですねえと正直に言ってそれから何でもいいから音楽の話をしましょう。間が持てばいいんですから適当でかまいません。車の中に譜面台らしきものがあったんですよね。ひょっとして実際に演奏している人かもしれませんからそこを尋ねて下さい。これは大切なことですからしっかり頼みます」
 そこまでおせっかいなことを言うんだったら自分で声をかけたらどうなんだと下川は思ったが、結局今回も押し切られてしまった。
 五日後には再び男と接していた。
 鳥居の予想は当たっていた。大音量の音楽は現在人気急上昇中のロックバンドの最新曲だったし、普段からロックを聴いているということだった。車の中にはフォークギターと、ハーモニカ、それに楽譜が何冊か置いてあった。中学生の頃にロックバンドを組み、高校に入ってからはライブハウスやさまざまなイベントで演奏していたらしい。メジャーデビューを夢見てコンテストにも数多く挑戦したが優勝するまでには至らなかった。二十代半ばにバンドを解散してからはほとんど演奏していなかったが、最近になって時々近所の子供たちに教えるようになり再び練習を始めたという。その子供たちから最新の音楽情報を仕入れている。
 下川は無理やり助手席に座らされていた。一応断ったが、まあいいじゃないかと腕をつかまれて引っ張り込まれた。
 川村久男というその男は意外にもよくしゃべった。シートを倒して足を投げ出し、その足でハンドルを回したりクラクションを鳴らしたりしながらしゃべるのだ。近くで楽器店を営んでいるが、もう数年前から店じまいのタイミングを計っているようだった。父親はジャズバンドのドラマーとしてそこそこ名前が通っていて商売上手でもあったが、十年前に後を継いでからはいいことがないという。
「急に死んだものだから心の準備が出来てなかったんだ。それに俺はジャズやクラシックのことは全然分からん。最初のうちはまだおやじのつながりでやっていけたけど、そんなのは長続きしないよな」
 下川はさすがにシートを倒さなかった。勤務中だ。
「ここへはどれくらい前から来てるんですか」
「あんたが来るよりずっと前からさ。あんたはこの地下に勤めてまだ六ヶ月ぐらいだろう。最初はおどおどしてたけど最近はだいぶ慣れてきたみたいだな」
「これはこれは」
「で、話ってなんだ」
 そうだった。ちょっと話を聞いてもらえませんかと声をかけたのだった。
 下川は鳥居とのことを手短かに話した。具体的な内容がないので長くなるはずもない。
「つまらんね」と川村は吐き捨てた。
「いい年した男が何の目的もなく集まってそれで?」
「気分転換ですよ」
「ばからしい」
「川村さんだってここに来ると落ち着くでしょう。それと同じようなものです」
「知らんね」
「まあそう言わずに。会ってしゃべってみたら案外面白いかもしれませんよ。そうだ、あなたのギターを聞かせてください。弾けるんでしょう。最近はやっているやかましいやつをジャーンとやって下さい」
 下川は左右に大きく腕を広げてからだ全体を微妙に震わせた。この駐車場全体に響き渡るぐらいの大音量で聞かせてくださいという意味だった。仕事に戻らなくていいのかと心配する川村に
「約束ができるまでこの車から出ません」
 とがんばった。
 気持ち悪いだとかうさんくさいだとか言いながらも川村は折れた。
 下川の粘り勝ちだった。

 三人の顔合わせはそれから四日後の金曜日の夜だった。いつも下川と鳥居が待ち合わせをしている地下鉄の改札前に、少し遅れて川村はやってきた。鳥居と川村は初対面だったが、あいさつもそこそこに川村が歩き出したのでふたりは付いていった。駅前のパーキングに川村のカローラが止まっている。助手席に鳥居、後ろに下川が座った。
 川村はいつものようにシートを倒してハンドルの上に足を投げ出し、一体何がしたいんだとめんどうくさそうに尋ねる。
「ひとつの気分転換ですよ。難しく考えないで下さい」
 鳥居が落ち着いて答えた。
「いい年した男が昼間からいちゃいちゃするのか」
「いけませんか」
「何もしてないんだろ。活動日誌でもあるのか」
「ありませんよそんなもの」
 後ろの席で下川がくすくすと笑った。活動日誌、がおもしろかったのだ。
「もう降りろ。うっとうしいだけだ」
「乗れと言ったり降りろと言ったり、あなたもなかなかややこしい人ですねえ。じゃあひとまずこんなのはどうでしょうか。たしかに川村さんの言うとおりただ話をしているだけでは退屈です。ばかと言われても仕方がありません。幸いここに車がある。ありますよね。川村さんの車です。私は写真を撮るのが好きなんです。下川さんは最近俳句を始めました。川村さん、あなたは見るところ運転に自信がありそうだ。だったら思い切ってこの車で遠出をしませんか。うんと遠くへ行くんです。川村さんはその器用な足で思う存分運転すればいい。わたしはカメラ小僧になります。下川さんは俳句を作る。夜はどこかの宿で酒を飲む」
 鳥居の提案に下川はすぐさま賛成した。
「よ〜し、決まりだ。海が見たいなあ、海へ行きましょう。以前から潮風に吹かれて一日ぼんやり過ごしたいと思ってたんですよ。海だ海だ。海といえば日本海だ。川村さん、連れていってください。今からすぐお願いします。行きましょう、行きましょう、日本海へ行きましょう。これだけ盛り上がってるんだからもう行くしかないでしょう」
 しかし盛り上がっているのは下川だけだった。川村はとっくに目を閉じていたし、言い出したはずの鳥居も横を向いていた。
 下川は急に間が持たなくなってカーステレオのスイッチを入れた。大音量でロックが流れる。
 三曲ほど過ぎたあたりで「あんたたち」と川村が言った。
「そこにタンバリンがあるだろ。ちょっと鳴らしてみろよ」
 音楽がやかましくて伝わらないと分かると川村は後ろ座席に置いてあるタンバリンを自分で拾い上げて鳥居に手渡した。
 ロックが止んで変わりにタンバリンが鳴る。なつかしいなあと言いながら鳥居が振ってみると、ジャジャジャと音が出た。しかし川村はだめだだめだとつぶやいて鳥居からタンバリンを取り上げ、胸の前で軽く振って見せた。しゃんしゃんしゃんと優しい音がする。鳥居の出した音とは明らかに違っている。しかも強弱がついていて、それだけで音楽らしく聞こえた。
 川村は続いてハーモニカを吹いた。ジャケットの内ポケットからさりげなく取り出し、夕焼け小焼けを吹いた。こちらはお世辞にもうまいとは言えなかった。間違ったところを何回もやり直すものだからメロディーが間延びして聞きづらかった。
「練習中だ」
 川村が怒ったように言ったので下川と鳥居は大笑いした。
「あんたたち、そんなに退屈してるんだったらバンドでも組まないか」
 今度は川村の提案だった。バンドといってもロックバンドではなく、童謡や唱歌を演奏するのだという。自分がメロディーを担当するから下川と鳥居はタンバリンや鈴でリズムを取りながら歌ってくれればいいということだった。楽器類は川村の店で用意できた。
「やりましょう、やりましょう」
 下川はここでもまたすぐに賛成した。
「前から一度楽器をやりたいと思ってたんですよ。教えてください。何でもやります。でもこの年齢から始めるのはちょっと無理かなあ。だったら歌いますよ。声の方が自信ありますから。こう見えてもね、小学生の頃はコーラス部だったんです。本当です。あれ、川村さん疑ってるでしょう。本当にコーラス部だったんですよ。すぐに辞めましたけど」
 海へ行こうと言ったことはすっかり忘れて下川は舞い上がっている。
 何か目的があるんでしょうと鳥居は川村に尋ねていた。
「音楽ボランティアとしてケアセンターや福祉施設へ出かけていって演奏する。それだけだ。以前から知り合いに頼まれてたんだが、俺ひとりじゃなあ……」
 川村は少し照れくさそうに答えた。そしてすぐさま「いやならいいんだ」と付け加えた。
 下川も鳥居もいやとは言わなかった。
 決まってしまえば話は早かった。下川の夜勤明けの日の夜に川村の楽器店で練習することになった。鳥居は仕事を終えて駆けつけた。楽器店といってもバイオリンやトランペットなど代表的な楽器がガラス棚にいくつか並べられてあるだけの地味な店だった。楽譜もけっして多くなかったし照明も暗かった。そもそも品揃えを良くするだけのスペースがない。
 店舗の奥には住居用のダイニングキッチンがあった。そこが川村の生活場所だった。二階にある三部屋は使っていなかった。女房とはもうかなり前から別居していたし、高校卒業と同時に家を出ていったふたりの息子とも連絡を取り合っていなかった。
 譜面をみっつ用意するために川村は店の隅に積み上げられたダンボール箱をひっくり返した。
「店じまいの最中だからな。欲しいものがあったら好きに持って帰っていいぞ」
 この店にあるものは俺にはもうがらくたでしかないと川村は開き直っている。
 いざ練習を始めてみるといろいろ問題が出てきた。最大の問題は下川がかなりの音痴ということだった。川村はギターやアルトリコーダー、木琴、オカリナ、そしてオルガンも器用にこなせるので全く問題はなかったし、鳥居も飲み込みが早く、すぐにタンバリンやボンゴでリズムを取ることが出来た。もっともむずかしいことをやろうとしているわけではなく、そこそこ音が合っていればいいのだ。ところが下川の声が合わない。歌いだしに遅れるとそれをそのまま引きずって最後まで歌ってしまう。リズム感がないために途中で修正することが出来ないのだ。演奏する側が下川の声に合わせるより仕方がなかった。
 それでも三ヶ月ほど練習して二十曲程度は演奏できるようになった。「森のくまさん」「北風小僧の寒太郎」「手のひらを太陽に」「上を向いて歩こう」「月の砂漠」「故郷」「夕焼け小焼け」「七つの子」「黒田節」「お座敷小唄」、それに軍歌も少々。下川の音程もましになってきた。
「そろそろだな」
 ある日川村が言った。
「来週の火曜日、朝九時からやるぞ」
「いよいよですね。でもちゃんと歌えるかなあ」
 下川はうれしそうに答えた。
「ちゃんと歌えなくてもいいんだ。あんたにそんなこと望んでないよ。それよりマイクを持って適当にしゃべっていてくれればいいんだ」
「ひどいなあ。これでもまじめに練習してきたんですよ。カラオケでも特訓してるんです。カラオケだったらうまく歌えるんだけど川村さんのギターには合わないんです。鳥居さんのリズムにも合わない。これはもうわたしの責任ではありませんね」
 乾杯しましょうと下川が大きな声で言う。練習後のビールも楽しみのひとつになっていたがこの日は格別だった。まさかこんな風に三人でバンドを組んで人前で演奏することになるなんて思ってもみなかったと下川は興奮している。それは鳥居も川村も同じ思いだった。

 デイケアーセンター『やまびこ』。
 介護保険によるデイケアーサービスをやっている小さな施設だ。すぐ隣りには診療所があり、このふたつを経営する医療法人の事務局長が川村のおさななじみだった。
 小太りで汗っかきのその事務局長は早口に説明した。
 サービスを受ける年寄りたちは一日三十人ぐらいで、だいたい十時頃までに集まってくる。近くに住む人たちが多いのだが、それでもマイクロバスで何回か迎えに行かなければならない。そこで全員が集まるまでのあいだ音楽を演奏していて欲しい。やかましいのは困るがへたくそは結構だ。楽しそうな雰囲気だったらそれでいい。
 それだけ言うと下川と鳥居に握手を求め、
「まあ気楽にやってください」
 とふたりの肩を叩いてすぐにその場を去っていった。愛想があるのかないのか分からない男だった。
 建物は二階建てでけっして広くなかった。体操や健康チェック、食事、リクレーションなどおおかたのことは一階の大部屋を使ってやっていた。入り口付近には喫茶コーナーがあり、コーヒーと紅茶、オレンジジュース、ウーロン茶がどれも百円で売られていたが、喫茶というよりはデイケアーに来る年寄りたちのくつろぐ場所になっていて、ボランティアが日替わりで世話をしていた。二階は更衣室と倉庫と会議室、そしてボランティア事務局の部屋が並び、さまざまなボランティアサークルの情報交換の場としても利用されていた。
 演奏の準備といっても特別なことはない。入り口正面の壁の前に譜面台と椅子を並べれば終わりだ。紹介されるわけでもなく、みずから挨拶するわけでもなく、気がつけば川村がギターを弾いていた。下川はまだトイレから戻っていなかったし、鳥居も席に着いていなかった。拍子抜けするほどあっさりとした始まりだった。
 こうして三人のちょっとしたボランティア活動が始まった。演奏は気楽なものだった。手拍子が起こるわけでもなく、合唱が始まるわけでもない。年寄りたちがどこまでしっかりと聞いているのかも分からない。それでもたまにリクエストがある。その時は川村の一人舞台だった。どんな曲でも譜面さえあればなんとかなるのだ。
 そのうち下川は喫茶コーナーを手伝い始めた。やっぱり歌はだめだ、センスがないと宣言してバンドを脱退し、喫茶コーナーで年寄りたちの話し相手をするようになった。それで喫茶コーナーは急ににぎやかになり、椅子の数を増やしたりメニューに野菜ジュースとミルクを加えたりした。下川はまた事務局長にも気に入られて、荷物の運搬や清掃などいろいろな仕事をもらってはてきぱきとこなしていた。演奏以外の日でも喫茶コーナーへ顔を見せるようになっていた。
 演奏のほうはふたりになってからかえって調子が良くなった。下川の代わりに鳥居が歌うようになってレパートリーもどんどん増えた。立ち止まって聞く人もあり、始めから椅子を置いておこうかとも話し合われたが、施設利用者の約半数が車椅子だったので、椅子を並べてしまうと入り口付近が狭くなってしまうのだった。
 ある日のことだ。演奏途中で急に鳥居が手を止めた。持っていたタンバリンを床に落とし、何も言わずにトイレへ駆け込んだ。そしてなかなか出てこないのだ。喫茶コーナーにいた下川が様子を見に行くと、鳥居は大便用の個室に閉じこもっていた。
「どうしたんですか」
「今日はもう帰ります」
「気分が悪いんですか」
「違います」
「急にトイレに駆け込むからびっくりするじゃないですか」
「今日はもう帰ります」
「だったら早く出てきて帰ればいいでしょう」
「それが帰れないんです」
「なぜですか。あのね、そんなところにこもっていたら利用者に迷惑がかかりますよ」
「すいません。……、帽子を……」
「は?」
「下川さん、帽子を貸してもらえませんか」
 鳥居はドアを半開きにして顔をのぞかせ、
「今日あなたは帽子をかぶってきましたよね。それを貸してください。いますぐここまで持ってきてもらえませんか」
 それだけ言ってまたドアを閉めてしまった。
 下川は頼まれたとおりに帽子を持ってきた。ごく普通の白っぽい鳥打ち帽だった。鳥居はそれを受け取ると目深にかぶり、わたしはだれでしょうと言った。
「鳥居さん、何をやってるんですか」
「あ、やっぱり分かりますか」
 鳥居は観念したようにひとつ大きなため息をついた。
「いまさっき車椅子を押して入ってきた人がいたでしょう。若い女性です。小柄で丸顔で、チェックのスカートをはいていて……」
「ああ、東田さんのことですか」
 下川が大きな声でその名前を口にしたので、鳥居は反射的にまた個室に閉じこもってしまった。
「東田さんがどうかしたんですか」
「彼女はいつごろからここへ来てるんでしょう」
「最近ですよ。二ヶ月ぐらい前からかな」
「車椅子の人は」
「おばあさんです。かなりぼけていて娘や息子の顔も忘れてしまったのに孫のあの子だけは分かるようなんです。だからいつもあの子と一緒です」
 ここで少し沈黙があった。顔を突き合わせていればほんの短い時間のはずが、ドア一枚隔てているとそれがとても長く感じられる。
「鳥居さん、ひょっとして……」
 沈黙の間に下川は思い出していた。鳥居に付き合って欲しいといわれて公園で待ち合わせをしたあの雨の日のことを。鳥居は、完全に女と別れてきますと言って目の前のマンションへ入っていった。三十歳近くも年下の女のためにマンションを借り、週末を一緒に過ごしていたのだ。そしてそれが一年で終わろうとしていた。最後の最後、気持ちに踏ん切りをつけるためにお礼のメッセージをポストへ入れた。雨が好き……。そうだ、あの日の鳥居の顔色は雨の色だった……。
「鳥居さん、ひょっとして」
「そうなんです。彼女なんですよ」
 思ったとおりだった。あの日完全に別れたという女は東田さんだった。
 水を流して鳥居が出てくる。帽子を目深にかぶったままで。
「今日はもう帰ります。玄関のドアが開いたら合図してください。ここからダッシュして外へ出ますから」
 玄関の方を指さして言った。
「今日はそれでいいかもしれませんがこれからどうするんですか。彼女は週に二回やってきますよ」
「週二回も」
「そうです」
「それじゃもう顔は見られてるんですよね」
「当然です」
 下川は断言した。彼女は喫茶コーナーに寄って帰ることもあり、そこから鳥居たちの演奏を眺めていた。ごく自然に振舞っていたので下川の目には何ら特別には映らなかった。
「彼女は何か言ってましたか」
「べつに何も。鳥居さんこそどうしていままで気付かなかったんですか。入り口に向かって演奏してるのに」
「まさかこんなところで顔を合わせるなんて思ってもみないでしょう。喫茶店で合席になっても分からない時は分かりません」
 たしかにそうかもしれないと下川は思った。慌てている割には冷静なことを言う鳥居がおかしくてたまらなかったが、まさかここで声を出して笑うわけにもいかない。
「それじゃあ、わたしが上手に声をかけて彼女の注意をそらせますから、そのすきに……」
 と話しているうちに鳥居はトイレを飛び出していった。盗人が風呂敷を抱えて逃げ出していくような貧弱な後ろ姿だった。この施設の中を走る人なんていないので、一瞬のことながらかなり目立ってしまった。
 鳥居はそれからしばらくケアセンターに姿を見せなかった。川村楽器店での練習にも来ないので下川が電話すると体調が良くないのだという。顔色が悪くて人前に出られないと言うので下川は噴き出してしまった。
 下川は川村に知っている限りのことをすべて話した。しかし川村はまるで関心を示さなかった。
「川村さんからも何とか言ってください」
 と頼んでも「めんどうだ。嫌だ」とはっきり断ってくる。
「ひとことでいいんです」
「なんていうんだ」
「だから元気出せとかなんとか」
「出ないものしょうがないだろう」
「このまま鳥居さんが離れていっていいんですか。せっかくここまできたのに」
 そうだ、ここまできたのだ。何も知らない他人同志から始まってここまでやってきた。けっこう楽しみながらやってきた。そしてまだまだ先はあるのだ。
 ケアセンターに来ているボランティアだけの忘年会があるというので下川は鳥居に連絡したが鳥居は乗ってこない。喪中だから派手なことは遠慮したいという。何の喪中だと聞くと、彼女との愛の喪中だと答える。
「彼女はきっちり週二回おばあさんを連れてきてますよ。しっかりした人です」
「何か言ってましたか」
「言ってましたよ」
「何を」
「寒くなってきましたねって」
「彼女はわたしがあそこで演奏しているのを知っていてやってくるんですよね」
「そうです」
「彼女はわたしがあそこにいることを知って」
「だからその通りです」
「何か言ってましたか」
「言ってましたよ」
「何を」
「鳥居さん、いい加減にしなさいよ。彼女を見習ってもっと堂々としたらどうですか。子供じゃないんだし」
「子供です。わたしは子供です。彼女は大人ですが、わたしは子供です」
 あーと長いため息が聞こえてきたので下川も負けないぐらいに長いため息を返した。忘年会にはどうしても行かないとがんばるので、仕方なく別の日に三人で集まることにした。それさえも最初は嫌がっていたのだ。
 小雪のちらつく寒い夜になった。インフルエンザ大流行のきざしというニュースが流れていた。三ヶ月ぶりに会う鳥居は意外に元気だった。顔色も悪くなかったし、グレーのカジュアルスーツがさまになっていた。顔を合わせるなり、後ろ手に隠し持っていたカメラを向けてシャッターを切る。そして驚いたふたりの表情に再びシャッターを切る。
 下川は裏切られた気持ちになった。心配してやっているのになんだとばかりに鳥居をにらみつけたらその顔も撮られてしまった。
 近くの焼き鳥屋に入った。カウンターを希望する。これは意見が一致した。
 川村は新しい演奏の話をいくつか持ってきた。自治会の新年会の余興、市民広場でのイベント、老人会のナツメロ演奏、なかにはとても無理だと思われるようなカラオケ教室の発表会の伴奏の話まで入っていた。
 結局、気軽にできるのがいいということでもう一箇所、今度はかなり大規模なケアセンターでの音楽ボランティアを引き受けることにした。短期入所者を対象にした月二回の定期演奏だった。
「いまのところよりだんぜんおもしろいぞ」
 川村はそう言って鳥居の肩を叩く。
「おもしろいってどういう意味ですか。びっくりするぐらい盛り上がるんですか」
「いや、それがその逆なんだ」
 これから先は現地でのお楽しみとばかりに川村は話を濁した。
 下川は誘われなかった。本人も最初から参加するつもりはなかった。下川は下川で、いま手伝っている喫茶コーナーのボランティア仲間から別のケアセンターを紹介され、そちらにも顔を出していた。三人で一緒に演奏を始めたことなどすっかり忘れたかのように別行動でしっかり楽しんでいる。

 鳥居と川村が新しく演奏を始めたケアセンターは大病院に隣接していて、かなり大きな施設だった。『やまびこ』ののんびりとした雰囲気とは違い、スタッフは全員青いシャツを着ててきぱきと動いていた。入所者のほとんどは車椅子だったが、まるでベルトコンベアーに乗せられているかのように同じ速さで移動させられていた。たとえば風船遊びの時間なら、あらかじめ決められていた通りにすばやくみっつのグループに分けられていっせいに始まる。全く興味を示さない人も多くいたが、スタッフは参加を促すわけでもなくたんたんと風船を回していた。そして時間になればいっせいに終わってすばやく次のプログラムに移るのだった。人数が多い割にはにぎやかさに欠けていた。
「さあ、はじまりますよ」
 いきなり大きな声がしたので準備中の二人は驚いた。まだ楽器を並べている最中だ。しかしもう約束の時間を回っている。大声を出した若いスタッフはそのあとも入所者に注意を促しながら、
「早く始めてください」
 とふたりにも強い調子で促した。
 夕焼け小焼け、故郷、ちいさい秋みつけた、みかんの花咲く丘、七つの子。初日の選曲は鳥居がした。最初だから静かな曲で反応をみてはどうかと提案したとき川村は笑っていた。なぜ川村が笑っていたのかは演奏してみてすぐに分かった。あらかじめ歌詞をコピーして配っていたのだが、演奏を始めたとたん、一番手前の白髪の老人がその歌詞カードを破り始めたのだ。破いた紙を床へ投げ捨ててまた破り始める。破いては投げ捨て、破いては投げ捨てる。まったく一緒に歌うどころの話ではなかった。他の入所者たちも似たり寄ったりだった。ここでの演奏の話を持ってきたとき川村が、『やまびこ』よりおもしろいぞと言っていたのはこういうことだったのかと鳥居は思った。手拍子を打ちながら全く違う歌を歌いだす人がいたり、タンバリンをむちゃくちゃに叩いて喜ぶ人がいたり。しかし慣れてくると職員の対応もそれほど邪険だとは感じなくなった。こういう場所での演奏はたしかに楽だった。
 三月になって、川村がとうとう完全な店じまいを宣言した。近いうちにこうなることは分かっていたので下川も鳥居も冷静だった。なにより川村が冷静だった。親の残していった荷物を捨てることができてやれやれだと笑っていた。
 店を閉めた後はフリースペースとして自治会の催し物やいろいろなサークル活動の場に提供する予定だと言う。町内会長にその話をしたらさっそく囲碁やパッチワークの教室に使わせて欲しいということだった。川村自身は大手の楽器店が開いているギター教室の講師の仕事が決まっていたし、知り合いがやっているギター専門店を手伝うことにもなっていた。いくつかのライブハウスにも顔が利いたので『助っ人いたします』というチラシを作ってもらい、足りない楽器のサポート演奏をしながらロックバンドのライブ活動を助ける仕事も始めようと思っていた。どれも収入はわずかだったが、自分ひとりの生活だったので心配はいらなかった。

 ゴールデンウィークを前にして気温の低い日が続いた。鳥居の様子が少し変だと気づいたのは下川で、そのことを川村に話すと川村も同じように感じていた。
「わたしたちを避けているのではないですか」
 下川はそんな風に思っていた。すれ違っても視線を合わそうとしないし、声をかけても返事をしないことがある。遠くからだとにこにこしているように見えるのに近づいてみたら顔色が悪かったりする。そうかと思えばいきなり後ろから抱きついてきて「楽しく生きてますか。楽しく生きないとだめですよ」とささやいたりする。でもそれはやけくそにしか聞こえない。
 川村も首をひねった。あれだけ熱心だったボランティア演奏をしばらく休みたいと言い出したことがひっかかっていた。声に張りがないし、体もだるそうだ。
 ふたりは代わる代わる電話をかけた。最初のうちはなんだかんだと理由をつけて会うのを拒んでいた鳥居もあまりのしつこさに根負けしたのか、今度の日曜日に第一観光ホテルまで来てもらえませんか、詳しいことはその時に話しますと言ってきた。第一観光ホテルは山の中腹にある老舗のホテルで、これといった観光地も名産品もないこの町にあって不思議と長続きしているホテルだった。
 日曜日、ふたりはそのホテルで鳥居を待っていた。てっきり鳥居も外からこのホテルへやってくるものだとばかり思っていたので、ホテル内のエレベーターから姿を現した時は驚いた。しかもよちよち歩きの子供の手を引いている。三十歳ぐらいの女も一緒だった。
「いやあ、わざわざすいません。彼女たちが一晩ここに泊まっていたものだから」
 鳥居はそう言うと五メートルほど後ろで立ち止まっている女の方を振り向いた。Tシャツにジーンズ、靴はスニーカー。肩までありそうなボリュームのある髪を後ろに束ね、少し外股に立っている。彼女たちというのはもちろんその女と、鳥居が今手を引いている子供のことだ。三年前にこの町へ引っ越してきてからあまり外出することもなかったので、気分転換にこのホテルに泊まってみたのだと紹介した。まるで自分も一緒に泊まっていたかのような口ぶりだった。
 鳥居は子供の体を女の方へ向けて、あちらへ行きなさいとばかりに軽く背中を押した。しかしその場ですぐにしりもちをついてしまった。鳥居はすばやく子供を立ち上がらせると、もう一度背中を押して促した。二度目はなんとか歩き始めた。そのぎこちない歩みは途中から急に早くなり、最後は女のふくらはぎにしがみついてそこでまたしりもちをついた。
 一階のカフェからは町のほとんどが見渡せた。それは人口二十万人の地方都市のありふれた景色だった。下川も鳥居も川村もこの町に生まれ育ち、ほとんど他の町を知らない。三人はしばらく自分たちの町を眺めていた。
「あの人はなかなかいい人ですよ。私の方がほれたんです。胸がときめきました」
 ぽつりぽつりと鳥居が話し始める。気負いはなかった。下川も川村もおおよそのことは想像がついていた。最初から彼女が鳥居の娘でないことぐらいは分かっていた。
「さきほどの子供は」
「彼女の子供です」
「それは分かります。もしかして鳥居さんの……」
「いえ、わたしではありません」
 下川と川村の口からそろってため息が漏れた。安心してほっとした時の、強くて短いため息だった。
 けい子というその彼女は鳥居たちがボランティア演奏しているケアセンターに看護師として勤めていた。身重の体で一生懸命働いている姿に引かれて鳥居の方から声をかけたのが始まりだった。その時はまさか未婚の母を選択していたとは思わなかった。相手の男は絵の勉強をしたいといってヨーロッパへ行ってしまったが、その別れは彼女にはそれほど悲しいものではなかった。何年かたって日本へ戻ってくる日を待ち望む気持ちもないようだった。けい子は毎回鳥居たちの演奏を楽しみにしていた。下手でも一生懸命演奏している鳥居の姿に引かれていた。だから最初に鳥居から食事に誘われた時、すべてを正直に話したのだった。
「それでこれからどうするんですか。まさかこの前みたいにマンションを世話してそこへ通うんじゃないでしょうね」
 下川は尋ねた。自分でも野暮な問いだとは思ったが、聞かずにはいられなかった。
「いけませんか」
「でも今度は子供がいるんですよ」
「います」
「あなたとの子供じゃないんでしょう」
「違います。でもあの子はすっかりわたしになついてましてね。初めから泣かなかったんですよ。わたしにだけは泣かなかったんです。たとえ泣いたとしてもベロベロバーをすればすぐに笑い出すんです」
 ベロベロバーを鳥居は実演した。舌を思い切り伸ばし、両目を見開いて「バー」と声を出しながら首を左右振る。
 目の前のふたりが笑うはずもなかった。

 今年の梅雨は空梅雨だった。降っても長続きしなかった。梅雨の間に下川はかなり日焼けしていた。ボランティアグループのリクレーションに積極的に参加しているうちにすっかり顔を覚えられて、地域のボランティア団体をまとめるネットワーク協議会の事務局入りを勧められた。本人はもちろん二つ返事で引き受けていた。
 鳥居はけい子のことで頭が一杯だった。なるだけ多くの時間を一緒に過ごしたいと考えていたが、けい子はそれを拒否した。出産前から実家の母がやってきて身の回りの世話をしてくれていたので今しばらくは三人で暮らし、その間にケアマネージャーの資格をとって転職するという計画を立てていた。鳥居の出る幕は今のところ子供の遊び相手くらいだったが、それでも十分に満足していた。
 川村はいつの間にか先生と呼ばれていた。四月から教え始めたギター講座の評判が良く、八月には、夏休み集中トレーニング、『さあ君もギターを弾いてみよう』という企画まで決まっていた。生徒は小・中学生が中心だった。少しでも弾ける生徒にはさらに上のコースを勧めることになっていて、川村はあくまで初心者が対象だった。人にものを教えるなんて照れくさくて出来ないと言っていたが、ひとりひとりの上達を眺めているうちにだんだんと自信がついてきた。手本を見せることの優越感も味わっていた。
 三人はこの二ヶ月ぐらいの間、再び集まって真剣に練習をしている。始めたばかりの頃のように一曲一曲を大切に演奏しようとしている。
 真剣にならざるをえない理由があった。ライブの日が近づいているのだ。単独のライブではなかったが、チケットはワンドリンク付きで千五百円という値段がついていた。お金を取って聞いてもらおうというのだ。
 最初はそんなつもりではなかった。ボランティア仲間やごく親しい友人たちに集まってもらってプライベートな演奏会を開こうと考えていた。しかし川村がそのことを友人に話したところ、ライブハウスを経営するその友人が勝手に話を大きくしてしまったのだ。ちょうどもうひと組ライブを希望するバンドがあったので、ふたつをくっつけて金曜日の夜に持ってきた。カントリーを得意とするもう一方のバンドはすでに自主制作のCDを二枚出していて、全国のライブハウスでも演奏しているという実力派だった。メンバーの平均年齢は六十歳を越えていたが、マンドリン、バンジョー、アコーディオン、オカリナ、ハーモニカなど、多くの楽器を組み合わせて若々しいパフォーマンスを見せていた。当然のことながら下川たちが先に演奏することになる。
 いまさら新しい曲を練習しても間に合わなかったので、いままで演奏してきた曲の中から評判の良かった曲に少し派手目のアレンジを加えることにした。ソロのパートを増やしたり前奏や間奏を長くしたり。これらはすべて川村の仕事だった。鳥居はタンバリンやボンゴ、鈴などで正確にリズムを刻むことに集中した。下川はマイクを握っての進行役と盛り上げ役を任された。いかにみんなに一緒に歌ってもらえるかが成功の鍵だったので下川の役目は重要だった。グループの名前も決まった。
“OKミドル”

 七月三十日 午後八時より テクニシャンライブ
 中年パワー炸裂!
 平均年齢六十歳の素敵な夜
 さあ、あなたも一緒に歌いましょう
 こんなチラシも出来上がっていた。カラーできれいに印刷されていた。OKミドルについては、『音楽ボランティアとして病院や福祉施設で活動を続けるおじさん三人組。童謡、唱歌を中心とした豊富なレパートリー。あなたの心に訴えます』と紹介されてあった。チラシに顔写真を入れるよう勧められたが、川村が断固拒否した。下川は賛成だったが、川村がゆずらなかった。
 三十年ぶりのライブに川村は興奮していた。三十年前はロックバンドのギターリストだったが、今はいろいろな楽器を担当しなければならない。下川も鳥居も初心者だったので、すべてが川村の肩にのしかかってくる。かなりのプレッシャーを感じているようで、演奏が気に入らないとすぐに頭をかかえ、椅子や譜面台に八つ当たりした。
「ぼちぼちでいいんじゃないですか」
 いくらふたりがそう言っても耳を貸さなかった。
「成功した方がいいだろう」
 と何回も何回も同じところを練習してふたりを辟易とさせた。どうなれば成功でどうなれば失敗なのか下川や鳥居には分からなかった。必ずどこかで間違えるだろうと思っていたし、間違っても恥ずかしくはなかった。もしも演奏がめちゃくちゃになったらお客さんが助けてくれるだろうと思っていた。
「ばか、どうやって助けてくれるんだ」
 川村はここでも頭を抱えた。
「お客さんに上手な人がいたら途中で変わってもらうとか」
「ばか」
「みんなにどんどん前へ出てきてもらうんですよ。歌うもよし、演奏するもよし、踊るもよし」
「ばか」
「気がついたら全員が前へ出ていて、聞いている人はだれもいなくなっていたなんて……。そうなったら大成功ですよね」

 そしてとうとうその日がやってきた。派手に声をかけたわけでもないのに何人もの知り合いが千五百円払って聞きに来てくれた。最初は下川たちでチケットをまとめて買って無料でみんなに配ろうとしたのだが、そういうシステムではないとライブハウス側に断られたのだ。六十人分の席はすぐに埋まってしまい、あとは立ち見となったが、年輩者が多くて立ち見はつらいだろうということで急遽椅子を増やすことになった。テーブルを隅へ寄せて長いすを並べると二十席は増えた。店のスタッフとお客さん、そして下川たちが一緒になってセッティングを終えた。
 八割方のお客さんは後から出てくるカントリーバンドがお目当てだった。それでも無名のOKミドルにも惜しみなく拍手をくれた。童謡や唱歌は一曲一曲が短いので下手をするとあっという間に用意した曲が終わってしまう。そこで曲と曲との間のしゃべりが重要になってくる。今夜の下川は絶好調だった。一曲ごとにマイクを持って客席に近づき、リクエストを頼んだり思い出話を聞きだしたりして盛り上げた。歌番組の司会者さながらの進行だった。
 演奏を始めて十五分くらいたったころにけい子が子供を連れてやってきた。スタッフに促されステージに近い席へ腰を下ろした。
「おやおやおやおや、かわいいお嬢ちゃんが聞きに来てくれました。本日のスペシャルゲストです。お嬢ちゃん……でよかったかな。お嬢ちゃんですか」
 下川がすかさず子供にマイクを向ける。子供は驚いてけい子の後ろに隠れてしまった。
「あれ、どうしたのかな。おじさんたちの演奏を聞きに来てくれたんでしょう」
 子供はけい子のTシャツにしがみついて離れない。今にも泣き出しそうだ。
 けい子は笑っていた。どちらかといえば下川に味方して子供をマイクに向けさせようとしている。
「う〜ん、どうしたのかな。ご機嫌ななめかな。そうか、やっぱり僕ではだめなんだ。僕ではだめですか。とするとどのおじさんがいいのかな。このなかに大好きなおじさんがいるでしょう。大好きなおじさんはどの人ですか。大好きなおじさんはどの人ですか」
 注目が集まる。けい子は立ち上がり、胸に顔をうずめて固まったままの子供をはぎ取るようにして床へ下ろした。手を離すと子供はひとりでに歩き出した。どこへ行こうとしているのか分からない危なげな歩みは一段高くなっているステージの段差にぶつかって止まり、それからしばらくは伝え歩きでゆっくりとステージの中央までやってきた。今度は下川が子供を持ち上げてステージの上へ乗せてやった。それからあとは一直線だった。次の曲のためにベースギターを持って椅子に座っている鳥居めがけて子供は走った。そしてすぐに到達した。
 下川は待ってましたとばかりに再び子供の口元へマイクを向ける。アーウーという一歳児らしい声がマイクを通して軽く響き渡ったが、それだけでは盛り上がりに欠けた。
 子供はいったんけい子に引き取られた。そしてけい子から何かを耳打ちされて再びステージへ戻ってくると、体をお客さんの方へ向けて甲高い声で笑い始めた。バランスを崩して尻もちをついてもすぐに立ち上がって笑いつづける。けい子が何かを促した。子供はその母親からの合図に一瞬笑い声を止め、両手を激しくばたつかせて、アーウーとは違った何かを口にした
 下川のマイクが少し遅れてしまった。声を拾いきれなかった。
 もう一度けい子が促す。
 二度目ははっきりと声をとらえた。
「パパ」
 パパと言いながら子供は鳥居の足にしがみついていた。
 となりでギターをチューニング中の川村が即興でコミカルなフレーズを弾く。
 ひと呼吸置いてどっと笑い声が起きた。ホール内に八十数名の笑い声が響き渡った。
 子供は歓声の大きさに驚いて目をぱちくりとさせながらも、差し出されたマイクを両手でつかんでもう一度「パパ」と言った。
「それじゃあみなさん楽しく歌いましょう。『手のひらを太陽に』をお願いします。このお嬢ちゃんも歌ってくれます。もちろんパパも歌いますよね」
 そう言って下川は鳥居にマイクを向けた。
「はい、パパも歌います」
 一段と大きな歓声が起こった。あまりに拍手と歓声が大きかったのでしばらくは演奏に入れなかった。

 

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