同窓会   なりた もとこ


「古稀まであと数年というところまでわれわれも人生の道のりをたどってきました。久しぶりに西山中学三期生の同窓会を開催致します……」
 同窓会の通知を受け取って、恵子はほんのしばらくためらうように往復葉書を手に持ったまま、目を宙に漂わせた。肺ガンの手術を受けて半年、もう、日常生活にはなんの差し障りもない。ただ、日々の生活がどことなく不安定で、たえず身体に違和感がないか、気になっているだけだ。定年退職後Uターンした夫について恵子が子どもの頃から住んでいた大阪の街を遠く離れてもう十年ほどになる。一年前、市民検診で肺ガンが見つかり、手術したが、そのときもそれ以降も中学校時代の友達にはガンの話をしていない。誰も知らないはずだから、黙って何事もなかったように出かけよう。
 行こう、と決めるとすぐに出欠の葉書を書いた。どうしようかと思うことは全部「する」に丸を付けよう。そのうちに丸を付けたくてもつけることのできない日が来るかも知れない。夫の大介に相談すると、大事をとってなんでもやめておけ、静かにして疲れないようにしろと言う。それでは生きている甲斐がないというものだ。最近は夫には何事も相談せず、一方的にあれをする、どこに行くと宣言するか、或いは事後承諾で、こんなことをしたと話すことにしている。
 同窓会の会場になっている駅前のホテルに入ると、受付の前に二、三十人が思い思いにたむろしていた。
「よう!」と一人が手を挙げると、釣られたように何人かが笑顔を向けてきた。
「ごぶさた!」
「元気そうやねえ」
「いまの新快速できたの?」
 挨拶を交わしながら、ヤッチンの横で笑顔を向けてきた男性に気がついた。刺繍の入ったひさしのあるキャップをかぶり、七十前にしては引き締まった体つきをしている。とっさに名前を思い出せなかったが、口の両端をきゅっと引き上げた笑い方に記憶があった。
「落合くん、初めて参加してくれはったんよ」
 ヤッチンが恵子のためらい顔に気がついて紹介してくれた。
「そうや、落合くんやねえ。よく見たら、卒業したときそのままやね。かわってないわ」
「ケイちゃんも昔のままの顔で、すぐわかったよ」
「体型だけはすっかり変わってしまったでしょ」
 定年を迎えた人が多く、時間に余裕ができたためか、例年より出席者が多い。卒業以来初めて出席する人もあれば、二十年振り、三十年振りの人もいる。ヤッチンの隣の席に座って、マーコやカッサンとあれはだれ、これはだれと名前の同定をしていった。卒業して五十数年、さっぱり見当のつかない人も多いが、なんども見ていると、中学生の頃の顔と名前が浮かんでくる。胸の名札をのぞき込んで、ああと、中学生の顔が白髪や皺の下に潜んでいるのを見つけることもある。
 生活に疲れたような険のある顔立ちの老女めいた人が、クラス中の男の子の人気を集めていた、あのかわいいマリちゃんだとか、でっぷりした禿頭とたるんだ下顎でぼぞぼそとしゃべっている人が、スポーツ万能、学級委員の安田くんだなどと、
「なんだかがっかりするねえ」
「自分のことは棚に上げてね」とささやきあう。
 落合くんに女性からの話しかけが集中している。
「え、ケーキも作るの?」
「うん、独居老人に食事を作って持って行くボランティアをしていてね、ときたまケーキも焼いて持っていくんだよ」
 鎌倉に住んでいるという、落合くんはすっかり東京弁になっていて、大阪弁丸出して遠慮無く大声でしゃべり合っている他の男達とは、それだけでも差をつけてしまっている。
「じゃあ、奥さん亡くされていても食事には不自由してはらへんのね」
「うん。若い頃山登りしてたから、食事を作るのは得意なんだ」
「ながいあいだ、奥さんの介護されてたんやって?」
「うん。若年性アルツハイマーでね、それでぼくは二年早く会社も退職したんだよ」
「たいへんやったんやねえ」
「うん。そりゃあねえ。ヘルパーさんにはずいぶん助けて貰ったよ。でも、いなくなると昔のことばかり思い出してね」
「いつ亡くなられたの」
「去年。それで、こうして出てこられるようになったんだ」
「えらいよねえ。うちのダンナなんか私が寝込んでもなんにもしてくれへんよ。私が熱出してしんどがってるのに、ご飯作れっていうんよ。落合くんみたいに介護してくれるなんて考えられへん。ほんと、えらいねえ」
「いざとなったらだれでもできるさ。いろんな人に助けて貰ったからね。それで今ボランティアをしているんだ。ボランティアではいろんな人に出会えてね。これもまあ、女房のおかげだよ」
「落合くんは大変やったと思うけど、私は奥さんがうらやましいわ」
 女性達はみな自分の夫と引き比べているようだ。
「ピアノも習ってはるって?」
「六十歳からのピアノ教室って言うのがあってね。やさしい曲だけだよ。ほら、僕たち、ピアノなんか高嶺の花だっただろ。あこがれていてもさわることもできなくて。だから、今、簡単に弾けるものばっかり、思い出のサンフランシスコとか、そんなのを習ってるんだ」
「きゃぁ、かっこいい!」
「私もこのごろピアノ習ってるんよ。一度聞かせて。私のピアノも聞いてほしいわ」
「いいよ。みんなお稽古事なんかたのしんでるんだろ」
「私は油絵」
「私はカラオケ教室行ってるの」
「ぼくも水彩のスケッチなんかもするんだよ」
「きゃぁ、かっこいい」
 女性達はお互いにつつき合いながら嬌声を上げる。
 そろそろ老齢に入った同窓会だから、恥ずかしげもなくこんな会話ができるのだろうか。老人達が大声でマーコだのヤッチンだのケンボウだの、子どもの頃の愛称で呼び合って話をするのも、外から見ればかなりおぞましい風景にちがいない。思わず、壁際に立っている接客係の若い男性の顔をちらりと見た。
 ヤッチンが「ね、トイレいこう」と突然誘った。彼女も弾みすぎる会話にとまどっているのだろうか。
「え?」
 恵子は少しためらいながら彼女の後に従った。中学生の頃、女の子はトイレに行くのも仲良し同士連れ立って行ったものだった。同窓会に来ると、こんなことまで中学生に戻るらしいと少しおかしい。
 トイレにはいると、洗面台の前でヤッチンは恵子の耳元に囁いた。
「あのねえ、私、高校三年の卒業の頃ね、落合くんにつきあってくれないかって言われたんよ」
「え、ほんと! それでつきあってたん?」
「ううん。なんか、はっきり返事できなくて、うじうじしてるうちに、あの人東京の大学にいってしまって、そのまま……」
 おやおや、ひるさがりのメロドラマになりそうやねと、恵子は冷やかしそうになったが、鏡にうつる真剣な目を見ると、冷やかしや冗談は言えない雰囲気だ。
「彼、憶えてるかしら、そのこと」
「憶えてはった」
「え、そんな話したん?」
「クラスの人みんなに出欠を確認するのに電話したんよ。そしたら、しばらく話した後で、ヤッチンは僕の初恋の人やったって」
「ひえー、それでなんて返事したのよ」
「そんな、いきなり、なんもよういわんかった。でもねえ、落合くんとつきあってたら、私の運命変わってたかもしれへん。うちの主人、ね、ほんまに朴念仁でろくろく会話もあらへんのよ。この話、いつもしてるねえ」
「ふーん。でもねえ、お宅の御主人、いいご主人やないの。十日間も友達と海外旅行に行くって言っても文句ひとついわず、空港まで送り迎えしてはったやないの」
「それでもね、朝起きてから晩まで、なんも会話らしい会話ってないのよ。それこそ、飯、風呂、寝るとか、碁打ちに行くってそれだけ。ほんと、面白くも何ともない」
「でも、あなたが何しても文句ひとつ言いはらへんやろ。それで旅行もしょっちゅうできるし、自分でしっかり楽しんでるんやから、まあいいと思わんと罰当たるよ。家の中でたいした会話がないのはうちも一緒。どこの家もそんなもんとちがう?」
 恵子は自分の家で会話を拒否しているのは私のほうかも知れないと思った。家を出る前、大介は、なんども「大丈夫か? 俺、ついて行ってやろうか?」と聞いた。それを恵子はうっとうしいと感じ、じゃけんに「もう、いいって。少しくらいほっといてよ」と投げつけるように言って家を出てきたのだった。密かに気にしていることには、触れて貰いたくない。それでいて、もし、再発や転移などという事態になれば、まず夫に頼るにきまっている。わがまま勝手は分かっているが、今のところは黙って、飯、風呂、寝るだけの会話の方が楽なくらいだ。
「それはそうやけど、ものたりんのよ。少しぐらいは会話して、夫婦でいるときが楽しめるとか、そんなことちょっともないんやから。ああ、落合くんとつきあってたら、充実した人生だったかもしれへん。あの人、一橋大学やったやろ。それやったらうちの家も文句いわへんかったやろうとおもうのよ。なんであのとき、私、つきあいますってちゃんといわんかったんやろ」
「ふーん、そうなんや」
 ヤッチンは恵子の知っている限り、至って堅実な主婦そのものであった。見合いで結婚して以来、子育ての時期には子どもの話題、離乳食の話、スイミングスクールでの息子の記録の話、受験する学校の品定め、恵子の全く知らない教師のこき下ろしなど、彼女の家庭とその周辺の話題だけが世界だったはずだ。その後も子どもの手が離れてから熱中している書道や生け花などのお稽古ごとの話など、逢うたびにお茶を飲みながら聞かされてきた。
 結婚して以来彼女から男性の話など一度も聞いたことがない。思春期の中学生時代ならともかく、古稀も近くなった同窓会で聞かされるとは思いもしなかった。こんな年だから、恥ずかしげもなく、昔の艶めいた話もできるのだろうか。また、この年になって恵子にも世間知がついたから、平気で相づちが打てるのかもしれない。
 私にはヤッチンのように心ときめく経験が若い頃あっただろうか。席にもどって何事もなかったように友人達と話を続けながら、恵子は心の半分で過去を思い返していた。
 中学、高校の頃は恵子はみなに「ガリ勉」と思われていた。佐田啓二という俳優によく似た教師がいて、皆がすてきだ、すてきだと騒いでいたが、恵子はその教師に目をかけられていたにもかかわらず、ただ迷惑に思うだけだった。見合いで大介と出会い、結婚するまで、恵子の憧れは吉川英治の宮本武蔵に向けられていて、自分でもそのことをおかしく思うのだった。
 ふと、そのとき、「ピーナッツ」という名前が恵子の心をよぎり、だぶだぶの進駐軍の軍服をきて、折りたたみの帽子をかぶった五年生くらいの男の子の姿が浮かんだ。初恋というわけでもないだろう。恵子は小学校二年生だった。戦後まもなく、住んでいた茅ヶ崎の海岸辺り一帯が進駐軍に接収され、二ヶ月ほど、進駐軍と同居するように暮らしたことがあった。進駐軍のマスコットボーイだった戦災孤児の男の子が「ピーナッツ」だった。
 あの子ももうここにいる男性たちよりも少し老いているだろう。進駐軍の部隊長の養子になってアメリカに渡り、その後日本に帰ってきて、恵子の実家を訪ねてきたことがある。と恵子は兄から聞いていた。兄の孝一はピーナッツと文通し、アメリカに訪ねていったこともあった。恵子の父も部隊長と文通していたらしい。
 にぎやかに友達と話を交わしながら、恵子はふとピーナッツとも同窓会をしてみたくなった。
 
 同窓会の後、一週間ほどしてマーコから電話がかかってきた。
「ねえ、紅葉見に旅行しようっていうてんねんけど、行こうなあ」
「どこに行くの」
「鎌倉」
「え、鎌倉。また遠いところに紅葉見にいくんやね」
「うん、落合くん、一人暮らしで大きな家に住んではるし、庭でバーベキューしてくれはるって」
「えーっ、落合くんとこにいくの? ヤッチンは?」
「ヤッチンが連絡とってくれはったんよ。知ってる? ヤッチンは落合くんの初恋の人やったんやて」
「知ってるよ。ヤッチン、マーコにもその話したん?」
「うん、わたし、前から知ってたよ。もう若い頃から」
 こういう話を女の子は友達にせずにおれないものだ。実際につきあわなかったからその埋め合わせに友達に話して気持ちを落ちつかせたのだろう。
「ヤッチンはちょっといやがってたんやけど、落合くん、すごくかっこよかったやないの。どんな家に住んではるか、見たいし。私が行こう、行こうってヤッチンにいうたんよ。私も六十になってからピアノ習い始めてるし、一緒にピアノ弾けたらいいなあって思ったんよ」
「落合くんは迷惑とちゃうんかなあ」
「ぜんぜーん。ケーキ焼いて、バーベキュー用意しておいてくれはるってよ」
「誰が行くの」
「みんなで四人。ヤッチンとカッサン、それにあなたとわたし」
「どこに泊まるの」
「落合くんが藤沢の駅前にホテルとってくれはることになってるんよ」
「藤沢? 鎌倉と違うの?」
「落合くんの家は鎌倉市やけど、駅は藤沢が近いんやって」
 あまりにも厚かましすぎるような気がしたが、勢いに押されて「じゃあ、行こうか」とつい約束してしまった。
 電話を切った後、しばらく後悔に似た気持ちでためらっていたが、ふと、茅ヶ崎が藤沢のすぐちかくだということに気がついた。そうだ、落合くん宅訪問や鎌倉見物の後、一人残って茅ヶ崎へ行ってみよう。ピーナッツもたしか湘南あたりに住んでいたはずだ。兄さんに電話して、ピーナッツの電話を教えて貰おう。兄さんからピーナッツに電話して貰ったらいいかもしれない。そう思い立った。別の目的ができたことで、この旅行から気恥ずかしさとためらいが消えていくのを感じていた。恵子はすぐに兄の孝一に電話をかけた。兄は、どうして急にと訝りながら、ぼくから連絡を取っておくけれど、会う前日までには恵子からも電話をするように、といって、ピーナッツの近況を話してくれ、電話番号も教えてくれた。
 恵子は茅ヶ崎と言う土地に六十年来行ってみたかったのだ。小学校二年生の初夏から二ヶ月ほどの間住んだ土地にすぎない。だが、その場所は恵子の中にはっきりと生きており、その風景をあまりにも鮮明に思い浮かべるため、ほんとうに小学校二年生の夏をそこにいたのだろうか、それとも子どもの頃からの空想や夢の中のできごとだったのではないかと思うほどだった。
 定年で学校を辞めるまで、研修会などで東京方面に出張する機会は何度かあった。その都度、茅ヶ崎に行けるかもしれないと思っていたのだが、日程が詰まっていて一度もその機会に恵まれなかった。ガンという異星からの生命体のような物体がまだ自分の身体の中で息を潜めているかも知れないという恐れから抜け出せないでいる恵子は、このチャンスを逃したらもう行く機会はないとおもった。行くのなら今だ。夫を上手く言いくるめて、とにかく出かけよう。そして、ピーナッツに逢う。今はとにかくやりたいことをやる。それだけだ。
 
 昭和二十一年五月、恵子達一家は韓国から引き揚げてきてしばらく住んでいた九州の田舎町から神奈川県茅ヶ崎町の南湖院という古い結核療養所の跡に引っ越していた。
 戦争中に南湖院は海軍に接収され砲兵学校になっていた。その跡を借りて農学校にすることになり、父が一足先に赴任していった。もうすぐジャガイモもとれるだろう。なんとか食べて行けそうだから、みんな引っ越してきなさいという父の手紙を母は嬉しそうにみんなに読み聞かせた。
 祖母と母、中学生の二人の兄と四歳の弟と恵子は満員の列車に窓から乗り込み、長い時間をかけて茅ヶ崎の駅にようやく着いた。夏の光と砂埃の道の風景は今も記憶の底にある。「ここに住むのだよ」と父が言って、砂地の松林の中の白い洋館の建物の中に入っていった。
 もう一度あの建物を見たい。松林と砂の匂いをかぎたいと恵子はしきりに思った。

 新幹線の中では相変わらずおしゃべりが弾んで、ときどき、誰かが「しーっ」と廻りを気にする。いったんは小声になるが、またいつの間にか遠慮のないおばさん族のおしゃべりに戻る。この前の同窓会の話や同級生のうわさ話は思ったほど多くなく、それぞれが抱えている腰の痛みや、高血圧、心臓の不安、民間療法や食事療法などの健康の話題やあとはとりとめのない話題が次々と手品のハンカチのように繋がって出てくる。しゃべるとは仲間の声を聞いて、自分も声を出すという肉体的なたのしみであるようだ。
 小田原で乗り換え、藤沢の駅をおりると落合くんがこの間のキャップをかぶって待っていた。まず、駅前のホテルにチェックインし、駐車場からシルバーのアコードに乗り込む。坂道を上り、いくつかの角を曲がると落合くんの家だった。玄関の前には大きな壺に紅葉した錦木とすすき、白菊が無造作に投げ込まれていた。
「自分で活けはったの?」
「活けるっていうほどじゃない。庭の枝を切り取って放り込んだだけだよ。菊は今朝、女房の墓参りに言ったときに買った残りなんだ」
「お墓参りによく行きはるの?」
「うん、毎月月命日にね」
「よくしてあげるんやねえ」
 四人ともおどろきながら、掃除の行き届いた部屋にまた遠慮のない声をあげた。
「自分で掃除もしはるんやね」
「掃除は好きなんだよ。埃がたまっていると気になる方でね」
 きれいに刈り揃えられた芝生の縁にまだピンクや白のインパチェンスが元気に咲いていた。
「お庭の手入れも行き届いて」
「この花は毎年種がこぼれて勝手に咲くんだよ。別に何かしているわけじゃないさ」
 部屋にかけてある絵や置物などにも埃ひとつたまっていない。ひとつひとつ皆でながめ、口々にほめる。
「あ、この写真が奥さんね」
 マッターホルンを背景に二人が笑っている写真が食堂の壁にかけてあった。
「ああ、この旅行のころから少し様子がおかしかったんだ。ぼくはジュネーブに単身赴任していて、息子がまだ学生だったから、夏休みに二人できたんだけど、息子がお母さんときどき様子が変だっていってね。帰ってからいろんな事件があって息子も困ったらしい。翌年、ぼくは東京に帰して貰ったんだ」
 この話題は少し辛い。おおよその話が終わったところで、落合くんは話をそらした。
「肉、買ってあるからそろそろはじめようか」
「野菜、わたしたちが切りましょう」
 タマネギやピーマンを洗い、切りそろえるのは簡単なことだった。匂いが籠もらないように食堂の戸を開け放し、ビールで乾杯した。
 落合くんが「いいよ。そのまま置いておいたらぼくが片づけるから」というのを遮って、「こんなことぐらいまかせといてよ」と四人で皿を洗い、拭いて片づけてしまった。
「ねえ、ピアノ聞かせて」とせがんだのはピアノを習っているマーコだ。ピアノの部屋に移動して紅茶と落合くん手作りのケーキを食べることになった。
「私、このケーキのためにここまで来たんよ」とマーコは一人で感激している。ベイクドチーズケーキはなかなかしっとりと焼けて、甘さもほどほどだった。
「こんなことができる男性も世の中にはいるんやねえ」と感心しながら食べる。素晴らしい寄せ木細工のピアノを見せて貰い、落合くんとマーコが習っている曲をところどころ間違えながら弾いた。落合くんのほうがやや上手だ。簡単な曲なら伴奏も、と落合くんのつっかえながらのピアノで中学生の頃よく歌った歌を何曲か合唱した。
 譜面を見るのにつばがじゃまになるのか、落合くんはキャップをぬいだ。薄くなった頭に白髪交じりのふわふわした髪の毛がもつれて乗っており、開け放した縁側から入ってくる秋の風になびいている。キャップをぬぐと急に老けた落合くんから、身にまとっていたオーラが薄い髪の先からふわふわと漂い出て行ってしまったような気がした。
 皆、十分に遊び終わったという雰囲気になり、それではと翌日からのスケジュールを決めることになった。落合くんが車で鎌倉を案内してくれるという。
「ケイちゃんだけはそのあとも残って茅ヶ崎に行くんだってね」
「そう、湘南海岸っていうのかしら。南湖院っていう結核療養所の跡がキャンプ場になってるって聞いたんだけど。昔、そこに住んでいたことがあるので、行ってみようと思っているの」
「ああ、そこにはぼく行ったことがある。でも、今はキャンプ場を閉鎖して、たしか老人の施設ができているはずだ。湘南海岸っていったらね、関西の人なら真っ白な砂浜だと思うだろ。それが違うんだよ」
「どう違うの」
「砂浜が黒いんだ。泥みたいな色であんまりきれいじゃないよ」
「公害で汚れたのかしら」
「いや、昔かららしい。そうだ、高校の頃更級日記って習わなかった? そこにも出ているよ。ちょっとまって」
 落合くんはしばらく席を外すと薄い文庫本を持ってきた。
「ほら、ここに出てるだろ」
 岩波文庫の更級日記を声に出して読んでくれた。
「今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき処も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、紫生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて……。こひぢっていうのは泥という意味らしいよ」
「私の記憶では真っ白な砂浜と松林なんだけど……」
「行ってごらん。きっと驚くよ」
 翌日、鎌倉を朝から歩いて廻った。北鎌倉駅で降りて円覚寺、明月院、建長寺と廻り、鶴ヶ丘八幡宮の近くでおみやげの鳩サブレを全員買った。それから横浜に出て早めの夕食を中華街で食べた後、恵子はみんなと別れて一人ホテルに帰った。
「一人で大丈夫? わたしなんか、お昼ご飯食べるの、一人でうどん屋にもよう入らんのよ」
 ヤッチンはしきりに心配する。
「大丈夫よ。東京へ一人で行ったこともあるし、一人で食事するのも平気よ」
 駅前の書店で茅ヶ崎市の地図を買った。ホテルに戻って地図をひろげる。駅からまっすぐ、白い埃の立つ一本道を歩く。なんの理由もなくそう思いこんでいた。南湖院は海岸縁にあるはずだ。白い砂の浜で夏の光に照らされて潮が乾き、ぱりぱりとせんべいのようになっていた記憶がある。砂浜の背後には松林があり、松の間にエニシダが黄色の滝のように垂れ、ピンクのカワラナデシコが咲き乱れていた。松の間には赤い屋根、白い壁の洋館があちこちに見える……。
 地図をベッドの上にひろげたまま電話番号を見つめていると、帽子を取った落合くんの姿とかさなっていった。ピーナッツに電話をしなければならない。兄に連絡を頼んだのに、恵子はまだ電話番号を見つめたまままだぐずぐずしていた。両親や兄たちは南湖院から退去したあとも進駐軍の部隊長やピーナッツと手紙を交わし、クリスマスカードや折々のプレゼントのやりとりなどをしていたが、幼い恵子は話を聞くだけで、直接自分から手紙を書くことはなかった。彼が日本に帰ってきたとき、恵子はすでに夫の故里に移り住んでいたため、恵子の実家に訪ねてきたピーナッツに会っていない。写真は見たし、恵子にことづけられた土産物も貰った。突然、会いたいと言いだしてよかったのだろうか。クラス会の熱気にあおられて会うことにしてしまったが、ためらいがでていた。
 茅ヶ崎の生活は、本当にあったことだったのだろうか。と、また思った。白い砂浜と記憶しているが、落合くんは砂浜が泥のように黒いという。幼い恵子の夢を本当にあったことと錯覚しているのかもしれない。しかし、あの洋館のひとつで、備え付けの食堂の椅子を並べて電車ごっこをしていた恵子は椅子の背の隙間に首をつっこんで抜けなくなり、大泣きして父にひっぱりだしてもらったことがあった。あれは夢ではない。弟も家の前の消火栓が突然壊れて噴水のように水を噴き上げたとき、怖がって泣き叫んだ。あの記憶も夢の中の出来事ではないはずだ。しかし、本当のことであっても、もうあれから六十年近く経つ。あの洋館は取り壊されているだろう。松林だけはあるかもしれない。
 ふと、気が付くともう九時近くになっていた。思い切って携帯電話を開け、河合裕一というピーナッツの名前を押した。
「やあ、恵子ちゃん、ほんとにひさしぶりですねえ。嬉しいよ」
 思いがけずよく響く低い声だった。
「突然でおどろいたでしょう。たまたまこちらに来る機会があったものですから」
「孝一兄さんから連絡を貰って、それは嬉しかったんですよ。恵子ちゃんのことはよく憶えていますよ。結婚したことも、子供が生まれたことも、お孫さんがいることもみんな兄さんからきいてます。同じ日本にいるのだからその内に逢えるだろうとは思っていたけれど、年を取るとだんだん遠出が面倒になってきてね、それでも一度思い切って関西に出かけようかと思っていたところだったんですよ」
「私も、この前お会いできなかったものだからそれが残念で……」
「ぼくは南湖院から割に近いところに住んでいるんですよ。毎日、あの辺りを散歩しています。明日の朝は駅まで迎えに行きますよ」
「ありがとうございます。でもね。南湖院まで自分で歩いて行ってみたいの。南湖院の門のところで待っていてくださいませんか?」
「道、わかりますか?」
「地図がありますから分かるだろうと思うのだけど、わからなくなったら、携帯かけますから」

 翌朝は雲が低くたれ込めていた。恵子はキャリーケースから折りたたみ傘を出してショルダーにいれた。まだ約束の時間まで二時間以上あるが、チェックアウトをして外に出た。
 キャリーケースを引きずりながら駅前の歩道橋にあがり、廻りを見渡した。この町にも茅ヶ崎を出てからしばらく暮らしたことがある。たしか駅前の辺りだったが、すっかり変わっていて見当もつかない。
 JRに乗って茅ヶ崎駅へ着く。コインロッカーにキャリーケースを預けて駅を出る。少し歩くと図書館があった。本屋で買った地図だけではわかりにくい。住宅地図があるかもしれない。かなり大きな図書館だ。二階に郷土関係の本が集まっているようだ。書架を眺めていると茅ヶ崎市史が並んでいる。古代から始まり、何分冊にもなっていた。進駐軍の駐留だけで一冊になっている。南湖院にきた進駐軍のこともでていた。恵子の家族にとって、その後の生活を激変させた駐留軍だったが、この町にとっても大きな出来事だったということがわかる。見ていくと、南湖院の図面や地図も出ている。文化財指定の話もあったらしい。とすると、恵子たちが住んでいた建物は残っているのかもしれない。
 まだ時間がある。市史の何冊かを持ち出してぱらぱらと読んでみる。気がつくと一時間近くも経っていた。市史に載っていた地図をコピーして歩き始めた。まっすぐ海岸近くの広い道路に出てそこから西に歩けばよさそうだが、地図で見るとこの道路はあまりにまっすぐで広すぎる。自動車道路かもしれない。かなり後でできた道路だろうと見当をつけた。できるだけ古くからある道を歩きたい。少し行って右に道をとった。地図を見ながら病院や教会、郵便局などを確認しながら歩く。かつての砂埃の道は商店と住宅の入り交じった、歩きやすい道路になっている。空は曇っているが明るくなり、雨は降りそうにない。
 いま歩いている道は子どもの頃学校へ通った道だろうか。集団登校などというものがない頃で、南湖院にいた同級生の公子ちゃんはお姉さんの弓子ちゃんと一緒に登校し、恵子は一人でこの道を学校に通った。
 五月半ばに南湖院に郷里から引っ越してきて、七月の夏休みが始まるまでの短い間だったから、登校、下校の道中の景色など何も憶えていないのも不思議ではない。もし記憶があったとしても風景は全く変わってしまっているのだろう。ほぼ六十年の歳月が過ぎているのだ。
 途中で何度か十字路や複雑に枝分かれした道にとまどい、道を聞きながらようやく南湖院らしいブロック塀の向こうに木の生い茂った辺りにでた。左に高田医院とある。結核療養所南湖院の創立者、高田耕安の子孫の家と思われる。また雲は厚くなり薄暗い。人通りは全くない。静まりかえって、異界のようだ。
 ブロック塀の切れ目に御影石の門柱があった。これだ。南湖院の門だ。突然六十年のタイムトンネルを抜けて出てきた門柱のように思われた。小学校二年生の恵子が見たあの門。門の形など忘れ去っていたが、見たとたんに記憶の奥底から浮かび上がってきた。門の中はところどころに大きな松の木がある。六十年経って松の木もこんなに大きくなったのだろう。しかし、松林というには数が少ない。ほんの数本が残っているだけだ。
 門内右手に真っ白な大きなマンションのような建物が建っている。これが特別養護老人ホーム「太陽の郷」らしい。昔はこのあたりには二階建ての建物があり、それを学校に使っていたのではなかっただろうか。
 ピーナッツを探してしばらく辺りを見渡したがまだ来ていない。時計を見ると約束の時間よりまだ十五分ほど早い。「太陽の郷」の前の道を奥に入っていく。この辺りに梅林があったはずだがそれらしい跡もない。
 おやつどころか、食べるものがなにもなかった頃、青い実をたわわにつけた梅林は、こどもには魅力的な場所だった。梅雨の日、湿気の多い梅林は青臭い湿気と梅の実の匂いがしていた。
「青梅には青酸という毒があるから食べちゃあ駄目だよ」
「梅は私達のものじゃないからとったら泥棒になるのよ」
 両親に厳重に言われて学校の行き帰り、恵子は梅林の横は走るようにして通り過ぎた。梅林はいま、老人ホームの敷地になっているのだろう。
 大きな松の木が切り倒され、一メートルほどに切断されて空き地に積み上げてある。松毛虫にやられてしまったのだろう。数本残った松や灌木の間に白い建物が見えた。荒れ果てているのが遠目にもわかる。あの洋館はまだ残っているのだろうか。足早に近づくと、紛れもなく古い建物の裏側である。壁には蔦がからみつき、明らかに荒れ果てている。前に回る。
 呆然として立ち尽くしてしまった。まさにその建物だった。白い木造の洋館。屋根は恵子が思い描いていた赤い屋根ではなく、緑が交った黒っぽいスレート葺きだった。そばによって手を触れると、羽目板に塗った白いペンキがぽろぽろとはがれて手に付いた。入り口は意外に狭い。コンクリートのステップは高く、立ち入りを拒んでいるようだ。戸に手をかけてみたが、むろん鍵がかかっている。廻りの木々は剪定などしていないらしく、勝手に枝があちこちに張り出して、洋館の白い壁を擦ってたわんでいる。玄関の前の芝生には、年に何度かは草刈り機をいれているらしいが、雑草が生えて、茶色く枯れかけている。建物と建物をつないでいた渡り廊下はすでに無い。恵子の母が台所代わりにしていた流しやガス台のあるちいさな建物も無くなっている。かつては渡り廊下で繋がっていた洋館達は、建物だけがぽつん、ぽつんと残って、白々と荒れ果てた姿をさらしていた。芝生には赤さびた消火栓がある。大量の水が高く噴きあがって止まらなくなり、弟が怖がって泣いたあの消火栓に違いない。隣の建物はアーチ型の入り口のある白い洋館で、進駐軍がキッチンと食堂に使っていた建物だろう。
 突然、記憶の洪水があふれ出して恵子はしゃがみこんでしまった。

 五月の半ばだった。エニシダやカワラナデシコの咲く松林の中をもんぺをはいた祖母と母、カーキ色の学生服に戦闘帽をかぶった兄たちと歩いていくと、白い洋館建ての建物がいくつもあった。父が砂地の畑を耕していた。ひどくやせて、顔色が悪く、脂っ気も水分も抜けて身体全体が粉を吹いたような父の姿だった。
「お父ちゃん、まあ、こんなに痩せて」母がいった。
「ほら、じゃがいもだよ。もう少ししたらとれる」
 洋館建ての一つに父が入っていく。中はすべて板の間で、テーブルも椅子もあった。
 父は大きなお茶の缶を出して見せた。
「あけてごらん」
 あけると、お米が入っていた。配給のお米を恵子たち家族のために食べずにとっておいてくれたのだ。父は食べるものを買ってくると出ていって大きな貝を一つ買ってきた。帆立貝のような形をした大きな貝とたまねぎがその日のご馳走だった。大きな貝は七人で分けると少しずつしかなかったが、美味しかった。
 父が東京に出たときに古本屋で「牧野植物図鑑」を買ってきた。これで調べてたべられる草を見つけようというのだ。タンポポ、スベリヒユ、アザミ、アカザ、食べられると書いてある草は片っ端から食べた。祖母と母と恵子で摘んだカラスノエンドウは小さい鞘をを長い時間かけて剥いたが、ちいさな実はようやくお茶碗一杯分くらいしかなかった。塩ゆでにしたが、えぐくて食べられない。それでも中学生の兄は全部食べてしまった。
 建物の影から公子ちゃんが顔を出して歌うように恵子を呼ぶ。
「けーいこちゃん、あそびましょ」
 公子ちゃんのお父さんも農学校に勤めている。この南湖院に住む同い年の子だ。公子ちゃんのお姉さんの弓子姉さんは絵が上手だった。公子ちゃんと弓子姉さんはきれいな山の手言葉を使った。恵子は「お父ちゃん、お母ちゃん」と言っていたが、彼女たちは「お父様、お母様」と呼んでいた。恵子もそう呼んでみたかったが、気恥ずかしくてできなかった。弓子姉さんや、公子ちゃんのようにきれいな言葉を使えば絵が上手になるかもしれない。しかし、恵子が「お父様、お母様」などといえば兄が大笑いするに違いなかった。
 恵子たちはいつも弓子姉さんに絵を書いてとせがんだ。
「お人形の絵?」と弓子姉さんは聞く。
「ううん、お菓子の絵!」恵子たちは声をそろえていった。
 大事にしている色鉛筆で弓子姉さんはノートの裏に絵を書いてくれる。鉛筆で輪郭を描き色鉛筆で薄く彩色したドーナッツ、大福、キャンディ、チョコレート、ショートケーキは弓子姉さんの食欲を閉じこめて、恵子と公子ちゃんはそれを食べるまねをするだけで甘い味が舌の上に広がるように思えた。しかし、恵子にはショートケーキも大福もチョコレートも食べた記憶がなかった。
「弓子姉さん、ショートケーキ食べたことある?」
「食べたわよ。昔。これ、バタークリーム。ピンクのバラの形をしてるのよ。甘くて、バターの味がしてそりゃあおいしいのよ」
 弓子姉さんの使っている色鉛筆も「昔の」色鉛筆だった。「今の」鉛筆は芯に砂が混じっていて、よく書けない。紙も昔の紙は白くて上等な貴重品だったが、「今の」紙は薄くて茶色く、わらがところどころに混じっていて、粗悪な消えない消しゴムで消すと、すぐに破れた。何でも「今の」ものは粗悪で、「昔の」ものは良いものだった。
 家からタブロイド判だった新聞紙を持ち出して、その周りの白いところにも食べ物の絵を書いてもらった。
 恵子は家に帰ってこっそりと母に聞いた。
「私、ショートケーキ食べたことある?」
「あるわよ。うんと小さいときだったから、覚えてないかもしれないわね」
 恵子は食べたことがあると聞いただけで満足だった。おいしかったのだ。きっと。とろりとしたバタークリームも食べたことがあるのだ。食べたことのない、甘いとろりとした感触が舌に広がるような気がした。恵子はバタークリームの絵が描いてある新聞紙を大切に自分のかばんにしまった。そのままおいておくと、小さく切って、トイレの落とし紙や、ちり紙や、包み紙に使われてしまう。
 渡り廊下は雨が降っても恵子たちのいい遊び場になっていた。
 松林の中には大株のエニシダが花をいっぱいつけて地面を黄色く染めていた。咲き乱れる花を摘んで、花びらをご馳走やケーキに見立てて毎日ままごとをした。葉っぱのお皿にはいろいろな花や砂の、かすかに記憶があるか、食べた記憶のないご馳走が並んだ。
「はい、カレーライスですよ。どうぞ召し上がれ」黄色いエニシダの花を盛ったお皿だ。
「ほら、これはトンカツです」
 弓子姉さんがままごとに加わると、ご馳走の種類が増えた。
「これはローストチキンです」
「ねえ、絵を書いて。ローストチキンの絵」
 進駐軍が入ってきた後もままごとは続いた。一度か二度か、ピーナッツも弓子姉さんに呼ばれてままごとに加わったことがある。コンクリートの渡り廊下に両膝を揃えて堅くなって座っていた。
 母たちは「ピーナッツなんて呼ばないで、ちゃんと河合さんとか裕一さんと呼びなさい」といったが、女の子たちは大人がいないとピーナッツと呼んでいた。恵子や公子ちゃんにピーナッツと呼ばれると怒る裕一も、弓子姉さんにはピーナッツと呼ばれても逆らおうとしなかった。弓子姉さんはずるい、ピーナッツは不公平だと恵子は不満だったが、それでもピーナッツと遊びたくて、弓子姉さんにピーナッツを呼んでとせがむのだった。
 お風呂は大きなタイルの共同風呂だった。お風呂の中にスイッチを入れた電熱器を放り込む。うっかりそのまま湯加減を見ようものなら感電してしまう。しっかりスイッチを切ってからお風呂に入る。母が心配して危ない、危ないと注意するので、恵子はお風呂に行くのが怖かった。しかし、お風呂に公子ちゃんと弓子ちゃんがきていると、三人でいつまでも湯のなかに潜ったり、湯を掛け合ったりしてふざけ、母たちに叱られた。
 恵子は大人になってからも何度か引っ越しをしている。ヤッチンに「あなたが友達の中で一番よく引っ越してるね」と言われたほどだ。しかし、前に住んでいた家がそのまま廃墟になって目の前に現れたことはいまだかつてない。建物も庭も松の木も六十年のときを越えて別の世界からやってきて恵子の前に姿を現したように思えた。私は今、この家と同窓会をしている。と、恵子は思った。
 その時、後ろから肩をたたかれ、よく響く低い声が聞こえた。
「やっぱりここにいましたね。ごめん、ずいぶん待ったんじゃありませんか? 少し前に門の前に来てたんだけど、いないものだから、ここかなとおもったんですよ」
 がっちりとした体格の、豊かな白髪の男性だった。白い口ひげまで生やしている。肌になじんだジーンズと赤みがかった大きなチェックのシャツが似合っているのは長い外国生活の故だろうか。目の下の泣きぼくろが年を取って少し大きくなったようだ。
「あ、」ピーナッツとはいえなかった。一瞬の間で「河合さん?」とほほえんだ。
「恵子ちゃんですよね。不思議だな、面影が残っていますよ。お母さんにそっくりだ」
「久しぶり、っていうには久しぶり過ぎるほどですね」
 七十代の男性という実体が目の前に現れて、恵子は現実に帰った。
「突然、お呼び出ししてごめんなさい。少し早く着いたのでこちらに廻ってきたのですけど、建物が昔のまま残っていて、なんだか現実とは信じられないようでぼんやりしていたんです。突然昔の時点にタイムスリップしたみたいで」
「ここは若い人たちが廃墟スポットだなんて言って、去年だったかな、大勢やってきていたんですよ。廃墟探検のブームがありましてね。最近はブームも下火になったようですが」
「そうなんですか。廃墟スポットねえ」 
「昔の南湖院は宮様や華族さんも入院しておられて、このあたりのものはよく付添婦などをしていたそうです。国木田独歩、坪田譲治、八木重吉、吉井勇、など、有名人もたくさん入院しておられたらしい。この建物も明治四十二年の建築だということです。」
「河合さんはたしか東京の方とか」
「そうです。集団疎開から戦後だれもいなくなった東京に帰ってきたものの、祖父母も亡くなっていましたからね。引き取るものはだれもおらず、上野の地下道で浮浪児になっていたんです。靴磨きをしていました。浮浪児が大勢いましたよ。中にはかっぱらいやスリを働くものもおり、それもできない子は物乞いをしていましたが、食べるものが無くて、朝起きたら死んでいる子もよくいました。いつの間にか憶えた片言の英語で靴磨きをしたのが縁で、進駐軍の部隊長に拾われて、マスコットボーイという名の下働きをしていたんです。五年生でした。もっとも学校には疎開から帰って以来行っていませんでしたけどね」
「そうだったんですか。ご苦労なさったんですね。進駐軍の兵隊さんにピーナッツってよばれていましたね」
「そうです。小柄でしたから」
「だぶだぶの軍服をきていらしたわ。折りたたみの帽子をかぶって」

 四月に開校したばかりの学校に父は赴任してきていたのだが、六月の終わりごろ、突然進駐軍の将校がやってきて、この南湖院を接収すると告げた。学校も住宅も一ヶ月以内に出て行かなければならない。学校は閉鎖するほかはない。恵子の父も公子ちゃんのお父さんもまた職を失った。補償など出なかったし、代わりの住居を与えられることもなかった。父たちは町当局と住む場所を求めて交渉していたが、どの町もみな戦災で焼野原となり、引っ越す家など簡単に見つかるわけもなかった。
 それから一週間ほどして、ジープとトラックの行列がやってきた。初めて見るアメリカ兵、特に黒人兵は珍しい。なんと背が高いのだろう。顔も手足も真っ黒だのに、目玉や歯が真っ白、唇や口を開けるとピンクだった。「手のひらもピンクよ!」と恵子は走って母に告げに行った。
 すぐ横の棟にアメリカ兵が二十人ほどやってきた。ほかに日本人の従業員が二人と、マスコットボーイのピーナッツがいた。
 
「いつ、アメリカにいらしたんですか」
「二年ほど後、部隊長がアメリカに帰るのについていったんです。ぼく、五年生の二学期からは茅ヶ崎の小学校に入ったのですよ。あなたのお父さんや兄さんが進駐軍の部隊長を説得してくれてね。それまでは兵隊が交代で毎日一時間ほど英語や算数を教えてくれましたが、お父さんがこどもは週六日、一日六時間教育しなければならないと部隊長を説得してね。兄さんは自分の教科書を見せて、お二人で日本人はみんなこうして教育を受けていると熱心に話してくれました。中学四年でしたね。兄さん、英語を熱心に勉強していましたね。ぼくは本当の兄さんのようにおもっていましたよ」
「部隊長さんもかわいがってくださったんでしょう」
「そうです。ですけどね、複雑な気持ちがありました。だって、彼らが爆弾を落としてぼくの両親や祖母を殺してしまったんだ。集団疎開してまもなく、祖父がなくなりましてね。一度東京に帰ったんです。葬式といっても、その最中に空襲警報ですよ。何もかもほったらかして防空壕に飛び込んでね。警報が解除されて外に出て、葬式を続けたのですが、焼き場に歩いていく途中でまた空襲警報でね。棺をどうしようと騒いでいるうちに飛行機が来ました。超低空で機銃掃射ですよ。みな、そばの溝に飛び込んで泥だらけになって伏せました。一メートルも離れていないところを、機関銃の弾が砂埃をあげてバババッと走っていくんですよ。アメリカ兵の赤い顔が見えて笑っている表情も見えました。笑いながら僕らを撃っているのだと思いました。あの笑い顔をよく夢に見たものです。
 部隊長夫妻はとても親切で、ぼくを本当のこどものようにかわいがってくれましたし、アメリカでは親しい友人もでき、白人の女性と結婚もしました。息子も娘もアメリカで幸せな生活を送っていて、孫も五人いますよ。でもね、妻が亡くなったころ、湾岸戦争がありました。花火を打ち上げるようなあのピンポイント爆撃の映像を見ていると、なぜか東京で機銃掃射したあのアメリカ兵の笑い顔が浮かんできてね。まあ、それが戦争なんだろうが」 
「それで日本にかえっていらしたの?」
「そうです。まだ十分働ける頃でしたから、この近くで直輸入のインテリア雑貨の店をはじめました。いまもぼつぼつやっています。部隊長の養子になりましたので、国籍はいまもアメリカのままです。日本の国籍に戻るには手続きがめんどうですからね」
 雲が切れて、秋の日射しが白い壁を明るく照らした。
「少し歩きましょうか」
 洋館を離れてさらに奥の方へ進んでいった。初めて数本のエニシダを見た。五十年前、松林の中は一面にエニシダが大きな株を作り、黄金色の花が咲き乱れていたが、もう数本しか残っていない。しかも小さな株で、季節はずれの今は花をつけていない。
「海岸にも行ってみたいわ」
 院内の通り道は草を刈ってあり、歩きにくくはない。しかし、通路の両側は雑草やススキ、植栽として植えられていた灌木やパンパスグラスが思うがままにはびこっている。
「この辺りに池があったのじゃないかしら」
「池は多分あのテニスコートの辺りだったのじゃないですか。この辺りは屍室があったあたりかもしれませんよ」
 
 進駐軍は見事な松林の幹を背の高さほど白いペンキで塗ってしまった。金魚が泳ぎ睡蓮の咲く池には液体の殺虫剤を流し込み、金魚は皆白い腹を出して浮かんで死んでしまった。恵子たちは炒った麦をひいて塩で練った夕食を食べながら、何のためにアメリカ軍は松の幹にペンキを塗るのだろうと話し合い、アメリカ人は本当にペンキが好きなのだと笑いあった。
 兵隊たちが隣に住み始めて二、三日たったある日、大きな緑色の袋を持った兵隊がやってきた。何か言っているがわからない。母は学校から帰ってきた兄に、何を言っているのかわかる? と聞いた。
「洗濯してほしいのだけれど、できますか? って聞いているんだよ」
 母は驚いたが、「いいですよ。置いていってくださいっていって」と兄に言った。
 兵隊は洗濯石けんが長い棒状になったものを洗濯物と一緒に置いて、にっこり笑って出て行った。袋の中には下着がいっぱい入っていた。
 一本の洗濯石けんを切り分けると十個の石けんがとれた。質のよいアメリカの石けんはよく落ちるので、気持ちよく洗濯できたと、母はニコニコしていた。日本人の従業員が翌日洗濯物を取りに来て、また二袋の洗濯物と二本の石けんを持ってきた。ときにはピーナッツが身体ほどもある洗濯袋を引きずるようにして持ってくることもあった。
 以後、ずっと洗濯物を頼まれて、母はすっかり洗濯おばさんになってしまった。洗濯物を持ってきた日本人従業員にようやくとれはじめた父の作った野菜をあげると、牛肉のかたまりの表面に青いスタンプがついている部分などを大きな鍋一杯持ってきてくれたし、パンの塊や焼いたチキン、ハンバーグ、チーズなど、食堂の残り物の大皿を、いつも七人分持ってきてくれた。また、スープをとった残りの鶏の骨もよくもらった。身がまだたくさんついていて、それをむしって、骨も軟骨までかじって食べた。
 それまで、父は栄養失調で駅の階段も休み休みでしか上がれないような状態だった。兄たちも食べ盛りの中学生だったが、ふすまや大豆かす、トウモロコシの団子と野草のすいとんくらいしか食べ物がなく、進駐軍の残り物は全くの天の助けとしかおもえなかった。石けんはどんどんたまり、自分の家で使うばかりではなく、お米や麦を買い出しに行くのにも、ひどいインフレで毎日値打ちがどんどん下がるお金よりずっと有利だった。
 キッチンの窓からアメリカ人のコックは焦げすぎたパンをおしげもなく放り投げる。それを拾おうと子供たちがいつも窓の下に集まっていた。時には飴やチョコレートなども投げてくれる。子供たちは歓声を上げて拾っていた。母は恵子たちに「絶対に拾ってはいけませんよ。あなたたちは乞食じゃないんだからね」と厳しく言った。恵子も弟もチョコレートはうらやましかったが、拾いには行かなかった。
 ピーナッツの右目の下には泣きぼくろがあった。母は泣きぼくろがあると一生悲しいことが多いのだと占い師のようなことをいった。
「ピーナッツは戦災で親兄弟を亡くしているんだろう。もう、泣きぼくろは十分に効力を発揮したわけだから、あとは幸せな人生がまっているのかもしれないよ」
 恵子は父のその言葉が気に入ってピーナッツにつたえようと思った。外に出て、辺りを探し回ると、カーキ色のちいさな軍服姿が目に入った。「ピーナッツ!」と恵子が呼ぶと、ピーナッツは「ぼくはカワイ ユウイチだ」といい捨ててキッチンのほうへ走っていった。
 公子ちゃんと石蹴りをして遊んでいると、ピーナッツがじっと見ていた。「遊ぼ」と誘うと、ぷいと向こうへ行ってしまう。兄が中学校から帰ってくると、ピーナッツは芝生に兄と一緒に座り込んで話をしていた。ときには弓子姉さんも楽しそうに一緒に話をしていることもあった。そんなとき、恵子や公子ちゃんが一緒に話を聞こうとすると、弓子姉さんは、「あなたたち、あっちで遊んでいらっしゃい」と追い払われるのだった。恵子は弓子姉さんが羨ましく、また恨めしかった。
 兄はソウルからポケットに入れて持って帰ったハーモニカを吹き、弓子姉さんとピーナッツは「故郷の廃家」や「夕空晴れて」などを歌っていた。ときにはアメリカ兵も一緒になって「埴生の宿」やフォスターの曲を英語で歌った。こんなときは恵子や公子ちゃんも一緒に混じって、おおきな声で歌うのだった。
 
 海岸にでようとそのまま歩いていくとテニスコートが何面もある。スポーツクラブの管理棟もある。新しく建ったものだろう。学校がある。ブラスバンドの練習をしている。音程を外した金管楽器がほかの楽器の音と重なって聞こえてくる。高校生らしい男の子が何人か駆け足をしていた。
 ようやく外の道路に出てきた。海のほうへ行く。若い黒松が密生する防砂林の間をぬけると国道だった。陸橋を渡り、ふたたび防砂林を少し抜けると海が広がっている。砂防の柵は朽ちてばらばらになっていた。
 砂浜は思ったよりずっと狭く傾斜も強い。遠浅ではなさそうだった。落合くんが話したように黒い砂浜で、泥のような色だ。記憶ではもっと広々とした浜だったが、ずいぶん違う。曇り空のせいか、黒い砂浜のせいか、海の色も暗い。サザンオールスターズの歌から連想する湘南海岸のイメージともかなり違う。落合くんに聞いていなければもっとがっかりしたことだろう。砂浜には誰もいない。打ち上げられたゴミがあちこちに堆積している。
「こんな海岸だったのかしら。もっと広いと思ってました」
「もっと幅が広くて遠浅のところもありますよ」
「この浜で塩作りをしたことがあったわ」
 よく晴れた日に家族全員でバケツを二つと南湖院備品のシーツを持って浜に出た。波の引いた砂浜は日に照らされて塩が固まりせんべいのようにぱりぱりしている。
バケツの上にシーツを載せて、その上に砂のせんべいを載せる。上から塩水をかけると、塩分が濃くなった水がバケツに残る。もう一つのバケツにシーツを乗せ、砂のせんべいを載せてその上から塩分の濃い水をかけるとさらに塩分が濃くなる。それを繰り返し、塩分濃度の高くなった海水を持って帰る。砲兵学校の備品か、病院の備品かの大きな鉄なべを、これも備品の電熱器にかけて海水を煮詰めると、湿った塩の結晶ができる。それをシーツの上にあけ、滴り落ちるニガリをとると、真っ白な塩の結晶ができた。
 漁師が取れたてのいわしやさばを売っていた。取れたてのジャガイモにも鰯やサバにもこの塩を使った。
「恵子さん、ここで溺れかけたこと憶えてる?」
「憶えてますよ。海ホオズキを探しに来たんです。学校で海ホオズキを鳴らすのが流行っていました。赤や青や黄色に染めて、乾かした海ホオズキを売っていましたけど、うちでは不衛生だといって買ってもらえなかったんです。浜で生の海ホオズキが拾えるって聞いて、母に黙って行ったんです。海に一人で行ってはいけないとやかましく言われていましたのにね。海ホオズキが波に浮いているのを見つけて、うれしくて拾おうと海に入ったら波にさらわれてしまって」
「たまたま、僕たちが来ていたからよかった。ディックという黒人兵を憶えていますか?」
「いいえ、憶えていませんわ」
「ぼくは非番のディックと泳ぎに来ていたんです。恵子さんが波にさらわれるのをぼくがたまたま見ていて、ディックが急いで助け上げたんだ」
「そうでしたか。私は海ホオズキのことと、海の水を飲んで怖くて苦しかったこと、ずぶぬれになったのを父や母になんと言い訳しようかと心配だったことしか憶えていないんですよ。ずいぶん身勝手ですね。一番大事なことを憶えていないなんて」
「ディックもぼくもこの話はご両親に内緒にしていたと思いますよ。だけど、もし、僕らがそこにいなかったら、恵子さんはいまここにいないわけだ」
「そうですわね。ほんとに命の恩人だったんですね。河合さんやディックさんのことを憶えていないのに、なぜだかわからないけど、この場所に来て、あなたに一度会わなければいけないって、そんな気持ちがずーっとしていたんですよ。不思議ですね」
 恵子はほんとうに何も憶えていなかった。その出来事をなんとか思い出せないかと、しばらく黙って考えていたが、まるで空白の本の頁を見ているように、何一つあらわれてこない。無意識のうちにその思い出が自分をここに呼んだのだろうかとも考えたが、そのようなこともなさそうに思えた。
 大事なことを憶えていないのに、細々としたことは憶えている。家族で幾度も語り合ったことだけが記憶に残り、一人、こっそり抱えていた記憶はいつの間にか薄れて消えていくものなのか。幼い頃のことではあるが、何とも頼りない記憶である。
「六十年経つんですもの。この間考えていたんですけど、あのときから六十年を物差しにして年代を逆さまに取ると、一八八六年ですね。まあ、鹿鳴館の頃ですよ。鹿鳴館の頃から私が小学校二年生までの時間と、小学校二年生から今までの時間がいっしょなんです」
「鹿鳴館からですか。そういえばほんとうに長いですね。しかし、ずいぶん歴史に詳しいなあ」
「長年、歴史の教師をしてきましたから」
「そうですか。道理で」
「でも、短いようでもあります。昨日まで中学校の同窓生と一緒だったんですけど、みんなもうおじいさん、おばあさんと呼ばれる年齢になっているのに、逢うと、小学校や中学校のときのまま、そのままが今にそのまま繋がっているようで、五十年、六十年はなんと短い時間だったかと思いました」
「どこかで食事をしましょう。そうだ、新しい魚を食べさせるいい店がありますよ。いかがですか」
「美味しいお魚ですか。嬉しいわ」
「太陽の郷の外来者用駐車場にぼくの車が置いてあります。行きましょう」
 ふたたび、白い洋館の前を通って駐車場へ歩いた。
「この建物も近々取り壊されるかもしれません。市に買いとって貰って文化財として保護しようという運動があるのですが、とても全部は買いとらないでしょう。この一号館ひとつだけでも残ればいい方でしょう」
 恵子は白い洋館をしばらく眺めて心の中で告げた。
――またいつか会いましょう。もし、取り壊されなかったら、もし、私が生きていたら。
 
 家に帰るとヤッチンから電話が入った。
「この間はおつかれさま。一人でさびしかったでしょう?」
「大丈夫、大丈夫。行ってよかったわ。昔住んでいた家がそのままのこっていたのよ」
 言葉に出していうと、あまりにもそっけない。ヤッチンも特に詳しく聞きたいわけでもなさそうだ。
「ねえ、帰りの新幹線で話してたんやけど、私、落合くんとつきあってなくって正解やったわ」
「なによ。きゅうにかわったのね」
「だって、あんなになにもかもきちんとされたら、息が詰まりそうやわ。家はきれいに片づいてるし、玄関に花までじょうずに飾って。実際の生活でダンナにあんなことされたらしんどいわ」
「うーん。過ぎたるは及ばざるがごとしか。完璧なのもしんどいかなあ」
「まあ、ケイちゃん、中学生の頃からことわざを言う癖があるんやねえ。変わってないねえ」
「マーコはどういうてたん? あんなにすてきや、すてきやってのぼせてたやないの」
「マーコもおなじよ。それに、あの帽子、ぬいだら禿げてたやないのって。隠してたんやわ。禿げてるなら禿げてるで、年相応なんやから堂々としてたらいいのに」
「まあ、こてんぱんやねえ」
「私にはうちのダンナでちょうどいいのかもしれんって思ったわ」
「それはまあ、けっこうでした」
「今度のクラス会は三年後ですって。女子はマーコが幹事やから、また楽しい企画があるかもしれないわ」
「楽しみやね。またみんなと逢いましょう」――私が元気だったら。生きていたらね。

 

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