昼から降りだした雨は、夜中まで止まなかった。
ほん数分前に目を覚ましていた加奈子は、友則の部屋の天井をぼんやり見つめながら、二週間前も同じような雨だったなあと思った。
加奈子は雨が降ると必ず頭が痛くなる。二週間前の夜もズキズキ痛む頭を両手で挟んでかばいながら、アパートの前で友則の帰りを待っていたのだ。濃紺の雨合羽を着た友則が自転車に乗って帰ってきたのをみて、濡れたアスファルトに倒れこんでしまった。
紙のうえに小石を落としたときのようなパラパラという雨音がたえまなく聞こえる。それが時計の秒針の音のように思えた。加奈子は自分に問いかけをしてみる。
問い、もし気分が悪くなくて倒れてなかったら友則は自分の部屋に入れてくれたか。……。秒針の音が答えをせかす。答え、NO。あの晩、友則は開口一番、長野の彼と喧嘩したのかと、加奈子に尋ねた。吐き気を伴った頭痛のせいで、喋ろうとすると胃液が逆流してのど元まであがってくるので、首を縦横にむちゃくちゃに振るばかりだった。友則は仕方がないと思ったのだろう。ちゃんと布団を敷いて、加奈子を泊めてくれた。
天井の木目の模様がはっきり見えるくらい暗闇に目がなれてきた。夕飯も食べず十時過ぎに布団に入った。枕もとの携帯電話を手にとり、時間をみた。市販の頭痛薬を寝る前に飲んでいたので、すぐに眠ったようだが三時間ともたなかったらしい。
玄関の鍵のまわる音がした。友則がバイトから帰ってきたようだ。ドアチェーンをかける音がする。かさこそと雨合羽を脱ぐ音。加奈子は目を閉じて寝たふりをする。
フローリングの床をスリッパがすれる音、襖の開ける音がし、加奈子の顔に友則の持ち帰った匂いと台所の蛍光灯の明かりが覆いかぶさってくる。二、三秒して襖が閉じられ、スリッパの音、椅子を引く音が聞こえる。
次に目を覚ましたときは朝になっていた。雨もあがったようで、カーテン越しに日が照っているのがわかる。隣の布団では上半身裸の友則が眠っている。小さく開いた口から小さい鼾がでている。
加奈子は腕を伸ばし、友則の弛みのない二の腕を触った。その瞬間、友則の腕に力がはいり鼾がやんだ。そして加奈子と反対のほうに寝返りを打っていった。加奈子の掌は敷き布団に残された。一、二度シーツをさすってから、それをきっかけに起き上がった。頭痛は治まっていたが、起きてすぐは動けない。五分ほど布団の上で体操してから立ち上がることにしている。最近はリンパの流れる向きに沿って腕や首をさするといいときき、やっている。
「おはよう」
友則は言葉と同時に立ち上がった。起きがけは、何を置いても歯を磨く。虫歯ひとつない白い歯は友則の性格そのもののようでなぜか気後れする。
加奈子がパジャマのまま襖を開けると、友則は新聞を読んでいた。菓子パンと牛乳がテーブルに置かれ、新聞の向こうにいる友則は新聞の下から手を伸ばし菓子パンを齧ってテーブルに戻す。若いのに新聞をとっていることも友則らしいと思った。加奈子はテーブルのまわりを半周まわって行き場所を探す。玄関ドアのノブに雨合羽がかけてある。
「これ干してこようか」
「いいよ。今日も持って出るから」
「そっ、じゃ今日もバイト二つするの」
「いや、弁当屋さんだけだけど、連れと会うからまあ、遅くなるな」
「連れってトミーやオー君」
「違うよ。洗車のバイトの仲間。トミちゃんだったらそう言うよ。それより加奈子は仕事みつかったの」
まだだと加奈子が言うと、友則は新聞に目をおとしながら、「実家に居場所くらい連絡しとけよ」と言った。
「連絡したの」
「当たり前だろ、幼稚園のときから知ってるのに俺の部屋にいること隠せるはずないだろう。で、おふくろさんが戻るように言ってくれってさ。どうするの」
戻って来いというはずがない。大学受験を控える弟がいるところへ放蕩娘が戻ってきたら家の空気が悪くなる。
「あの人が戻って来いなんて、絶対言わないよ。前にわたしに言ったことあるもん。『お前はどこかで生きているってことが分かってりゃいいよ』ってね」
友則は口ごもった。それから、話を逸らすように椅子から立ち上がり伸びをした。加奈子のいつもの母親批判が始まろうとしたからだ。友則は家を嫌がったり、母親を批判する加奈子のことが理解できないらしい。加奈子は友則にわかってもらいたくて、それこそ何百回も子どものころ、弟と比べて自分が冷遇されていたかを話した。しかし一度として同意してくれたことがなかった。
新聞を几帳面にたたんでテーブルの隅に置く。昨日の夜のうちに用意していた紙袋を二つに折って脇にかかえた。その中にはお弁当屋のポロシャツが入っているはずだ。愛用のキャップをかぶり玄関でスニーカーの紐を結んでいる。縦長のウォレットをジーンズのお尻のポケットにつっこみ、シルバーのチェーンをベルトに引っ掛けた。
「行ってきます」
白い歯がいっせいに加奈子に向かってくる。伏し目にそれをよけて、手を振った。アパートの鉄の階段を踏み鳴らす音がリズミカルに響く。一階に停めている自転車にまたがると、いつも一度だけチリンとベルを鳴らして出かけていく。
コップと菓子パンの袋がテーブルに残された。前はこんなことはなかったなと加奈子は片付けながら思った。
去年の春、就職と同時に家をでて友則のアパートで住むようになった。すでに友則の生活があったし、起きて仕事に行く時間も違ったので、使った食器の片付けはおのおのがしていた。掃除や洗濯はできる方がするという感じだったが、洗濯は加奈子がほとんどし、掃除は友則がよくやっていた。六万五千円の家賃も当時は折半していたが、加奈子が就職した会社を秋に辞めて以来、また友則がひとりで支払っている。
部屋にひとりになった加奈子は、中学生のように隠していたタバコを取り出しライターで火をつけた。畳二畳ほどの台所は西側に流し台があり、流し台の上に小窓と換気扇がついている。換気扇の紐をひっぱり、回りだした換気扇めがけて、ふぅと煙を吐き出した。
友則はタバコを吸わないし、嫌がるので昔から彼のまえではタバコを吸わない。服や髪に臭いがついているので加奈子が吸っていることは承知している。はじめは止めてくれと何度も言われたが、どうしても止めることができなかった。お酒はどちらも飲んだが、友則は酒を飲んで酩酊する加奈子をすごく嫌がった。大学生のとき、居酒屋で酒を飲んでいて酔っ払い、手に負えなくなったので女友達が携帯で友則に迎えにきてくれと連絡した。すぐに来てくれたのだが、部屋に帰ってから、なんでちゃんとしてくれないんだ、と泣いたことがある。僕の彼女だったら人に迷惑をかけるほど酔っ払ったりしてほしくないというのだ。友則との関係はいつも加奈子が叱られてばかりだった。
水道から少し水をだしてタバコの火を消した。窓を少し開け、裏庭に面してついている小窓から吸殻を投げ捨てた。そのとき、寝室のほうから、ボニー・ピンクの着メロが流れ出した。“君の胸で泣かない。君に胸焦がさない”のところまで聞いてから携帯電話の通話ボタンを押した。母親からだった。
「あんたいったい何をしてるの」と母親は怒気のこもった声で言った。加奈子が何かうまい返答はないか考えていると、さらに、
「長野のほうから荷物が送られてきたわよ」と言う。そうかと、加奈子は思った。友則から電話をもらって娘が帰ってきたことを聞いたからではなく、荷物が届いたから電話してきたのか。
「取りに行くから」
そう言って電話を一方的に切った。
実家に行くのは一年ぶりになるのかと思った。そのまえに行ったのは仕事を辞め、長野のスキー場に住み込みのアルバイトを決めたころだ。実家に置いてあったスノーボードのウエアや板を取りに行ったのだ。そんなことになったのは、友則との口論が原因だった。
バイトをしながら、バイクのレースにでて勝つことが夢の友則にとって同棲もルームシェアも同じことだったが、加奈子には同棲は結婚と同じ意味だった。仕事の不満を言ったり、友則にもっとふたりの時間を作ってほしいとせがんだりすることが多くなり、挙句の果てには、バイクレースなんか諦めて、就職してくれと頼んだ。そんな束縛に嫌気がさした友則に、加奈子も何か自分の目標を持って生きろと言われた。
「結婚するなんて言ったことはない。俺は二十二や二十三で夢を捨てる気なんかない」
そうはっきり言われてしまった。友則も感情的になっていただろうが、加奈子を嫌いになったわけではないのは分かっていた。それなのに加奈子は過剰に反応し、すぐに会社を辞めてきた。その次に住み込みのアルバイトを決め、最後に友則に報告した。そんな行動にでたのは、友則にダメージを与えたかったからだが、こういった思い切った行動にでてしまうのは、昔からだ。衝動的に結論を決めて、発表してしまう。あとに戻れなくしてから動きだすのだ。後戻りできないことを口にしたあと、酸っぱいような感傷がともなう。好きかどうかといえば、好きではないのに、またやってしまうのはどうしてだろうと加奈子は思っている。
友則が帰ったら真っ先に目に付く場所にスノーボードの用具を置いて待ち構えていた。
「住み込みのバイトって、会社はどうするの」
そう言ったきり、必死で頭を働かそうとしている。
思惑通り、質問してきた友則に、明日から五ヵ月の間スキー場の旅館で住み込みのアルバイトをすると告げた。
「もう辞めてきた。友則はわたしが目標もなく生きてることがダメだって言ったでしょ。だから考えたけど、好きなことが仕事ならいいのかってことしか思いつかなかったの。本当のわたしは結婚して平凡な主婦になって、子どもを産んで育てるだけでいいんだけど、友則にその気はないしね」
最後の言葉に友則の体がびくついたのを見逃さなかった。
実家のドアを合鍵であけて中に入った。真っ先に目に飛び込んできたのは、スノーボードだった。透明のビニールに巻かれ、シールが何枚も貼られていた。その後ろに段ボール箱が五つ積まれている。こちらから送ったときは二つだったのに、多すぎると思った。
靴をぬぎ家にあがった。平日の午前中なので、弟や父親はいないと分かっていた。母親はいるだろうと思っていたが、台所にも二階の物干しにもいなかった。二階にあがったついでに、加奈子が使っていた部屋をのぞいた。三畳の部屋には昔のミシンやベッドのマットレスが押し込まれている。加奈子の机の上にもデパートの包装紙がついたままの箱が重ねられていた。合板でできた花柄の整理ダンスもあった。加奈子がずっとつかっていたものだ。引き出しのひとつは宝箱かわりにしていた。よく遊んでいた人形や友だちにもらったペンダント、どこかに遊びに行ったときの入場券やパンフレットなんかもとってある。加奈子が一、二歳のときに使っていた水着がしまってあるはずだった。レスリング選手のタイツのように胸当てのあるデザインだ。赤地にお腹のところが白抜きになっていてドナルドダックのイラストが描かれている。それを加奈子は自分の子どもに着させたいと思っていた。その引き出しをあけると、中はすっかり空っぽになっていた。
玄関の荷物を部屋に運びあげ、当面使いそうな衣類をより分けていると手紙がでてきた。長野の旅館の女将さんで彼氏の母親からだった。長野に行ってほどなく、旅館の息子でスキー場でインストラクターをしている男と関係をもった。加奈子の場合、関係が先で感情があとということはよくあった。友則を裏切るという罪悪感はそのときにはない。感情ができてくると、苦しくなってくる。それでこんどは荷物を置いたまま大阪に戻ってきたわけだ。
今回感情が複雑になった理由は、彼氏の母親が大いに関係していた。実の母親とは持てなかった関係を長野では持つことができた。いっしょに台所に立つだとか、布団のシーツを替えるようなことから、加奈子の髪を結い上げ、着物を着付けてくれたりもしてくれた。彼氏よりも彼の母親のほうが今でも離れがたく思う。
縦長の封筒に和紙の便箋だった。ブルーブラックの万年筆の文字が紙ににじみ悲しげにみえる。
そこには、田舎では嫁に逃げられた、と大騒ぎになっているという書き出しで始まっていた。
嫁というのはまわりの人がつけたあだ名のようなもので、実際に結納を交わしたわけではないが、加奈子は長野から、旅館の息子と結婚するかもしれないと言って、友則に別れの電話をしていた。
手紙はさらに、
「解決のつくことであれば、相談もしてもらえたのでしょうが、何も言わずに出て行ったからには、どうしようもなかったんだろうと思います。息子はとにかく一度会って話をしないと承知できないと言っているけど、女がいったん嫌になったら元に戻らないでしょう。でも、ふたりで始めたのだから、ちゃんとふたりで終わりなさいね。加奈子ちゃんにスカート縫っていたんだけど、今それをほどいて自分用に仕立てています。そんなことをしていると寂しくて涙がでてきたわ」
そこを読むと加奈子も胸が痛んだ。もう一枚便箋をめくった。給料の精算のことなど、事務的なことがかかれてあり、
「加奈子ちゃんの荷物をダンボールに詰めていて驚いたことがあります。靴も服も同じものが二つあるのですね」と結んであった。
加奈子は左側の鎖骨を右手でさすった。同じものを二つ買う癖を指摘されたのは初めてじゃなかった。厳密に言えば色違いや少しデザインの違う物を一回の買い物で必ず二個買うのだ。中・高校生の頃は友達に散々言われた。そのころは少ない小遣いの中、いかに持ち物を多くみせるかが共通の願望とでもいうように、加奈子の趣向をみんなが否定したのだ。
大きな紙袋二つにこれから着る服を入れて、一階に降りてきた。居間のテレビが新品になっている。冬にやぐらコタツになるテーブルもその前に置かれている座椅子もだ。座椅子が三脚しかないのは、いかにも母親らしいと思った。加奈子だって四脚あって、そのうちひとつが自分用だとわかっても困惑か迷惑と感じるだろう。
ただ、座りごこちを知りたくて座ってみる。低反発クッションで体が沈み込まず楽である。
加奈子は自分が勝手に家をでていったにもかかわらず、家族からのけ者にされていると感じていた。無人の家にひとりで居る今の状況と同じだった。
友則の家に戻る途中、コンビニに置いてあるラックから求人誌を何種類か抜き取ってきた。とにかく仕事を始めなくてはならないのは分かっている。テーブルの上にずらずらと並べてみた。赤や青の原色の表紙のものが多い。厚みもだいたい同じようなもので、加奈子がつきたい事務系の仕事はどの冊子にもなかった。パチンコ店ばかりが目に付く。ひときわ大きな枠でメードカフェ風の制服をきるパチンコの店の写真があった。時給千二百円は良いと思ったし、新装開店という文字にも惹かれた。
パチンコ屋で働くと知ったら友則は相当嫌がるだろう。友則の怒ったときの顔が浮かんだ。下唇を噛みまばたきを何度もする。もっと怒ると目が真っ赤になってこめかみに血管が浮き出てくるのだ。
加奈子が彼女だった時ならそうだ。でも今は加奈子のことを彼女とは思っていないだろう。行くところがないから、置いてくれているだけ。加奈子が体をよせていっても押しもどす。毎日隣に寝ているのにまったく無視されている。怒られてもいいから友則の反応が欲しい。加奈子はその思いでパチンコ店に電話をして、すぐに面接を受けることにした。
大卒ですかと、面接にあたった従業員が言った。実をいうとアルバイトだし簡単に採用になると高をくくっていた。でも、表情を変えず履歴書に目を落とす面接の男を見ていると、加奈子は不採用にされるような気がしてきたのだ。時給が良いので応募がたくさんあったのではないかなど、落ち着かない気持ちで座っていた。
従業員は加奈子の顔と体をじろじろみながら、未決と書かれた箱の中に加奈子の履歴書をポンと投げ入れた。
「研修は明日から、就業規則はこの紙に書いてるから。制服は普通サイズでいいかな。サイズ何号」
「九号はありますか」
「あるよ。じゃ、制服を持ってついてきて。ロッカーキーを渡すから、明日来たら、そこで制服に着替えて、九時四十五分にはホールにでていてください」
黒いズボンの従業員は大股で廊下を何度か曲がる。女子ロッカー室と書かれた部屋のまえで、加奈子に鍵を渡すともどって行った。鍵を渡すとき、わざと長く加奈子の掌に指を置いていたような気がした。加奈子は鎖骨に手をやった。脈打つような熱を感じる。少し下に突起があるのだが、それは胎児のときに体の中に吸収した異物なのだと医者にいわれた。従業員の後ろ姿をみていると、急にその異物が動くような感覚にとらわれた。
従業員は慎一と呼ばれ、スロットの世界ではかなり有名なプレイヤーであると知ったのは、ロッカー室だった。他の女の子たちが噂をしているのを聞いたのだ。まだ二十三歳なのだが、月収百万もあるという。
夜遅く友則が帰ってきた。飲み会ときいていたので寝ずに待っていた。友則に仕事が決まったこと報告したかったのだ。それなのに、何の仕事と訊かれ喫茶店のウエートレスだと言ってしまった。友則は息を吸い込んで、何かを言おうとしてやめたようだった。加奈子はすかさず、
「ここにずっと居ていいんでしょ。友則のそばにいないと、わたし、まだ自信がないの」
そういいながら友則の腕にしがみついた。
「ね、いいでしょ」
鼻のさきで友則のざらついた顎をつついた。友則の息の匂いがする。さらに顔をあげて、同じ場所にキスをした。
「居たいのなら、居てもいい。けど、関係は戻れない。もう、加奈子に振り回されるのはしんどい……」
何を女みたいなことを言ってるんだ。と言いそうになる。鎖骨の下の異物が熱を帯びて、脈を打っている。
加奈子は肩に回した手を友則の股間のところにおろした。
「やめてくれや。女がそんなことするな」
弾くように押し戻された。
「何考え事してんの」
慎一が顔の前で手を振っている。無線機とインカムを手渡された。メード風の黒いワンピースのどこにつけるかを説明しながら加奈子の体にじかに触って取り付けてくれようとした。
「マネージャー、すけべぇ。わたしにはそんなしなかったじゃない」
メード服を着たスタッフの女の子が割り込んできた。
「こら、ご主人様と言いなさい。この人は今日が初めてだから教えてあげないと分からないでしょ」
「え、ご主人様って言ってるんですか」
加奈子はここまで徹底しているのかと驚いた顔をしていると、彼女はくすくすと笑って横を通って行った。
仕事は単調だった。ドリンクワゴンを押して歩き、飲み物を売るだけだ。店内には自動販売機もあるので、加奈子たちの仕事は客寄せのパフォーマンスのようなものだ。実際、店頭に立って呼び込みをしなければならない。
仕事が終わるのは九時だった。大音量のBGMの中にいたせいで、耳がよく聞こえない。仕事中はタバコを吸えないが客の吸うタバコの煙で鼻も喉も気持ちが悪い。
「めし行こうか」
慎一が呼び止めた。デニムのつなぎを着て、腰にシザーケースをつけている。ワックスで髪を立てたのか、仕事のときより髪型が決まっている。私服姿になると二十三歳の年相応にみえた。加奈子はふふっと笑った。仕事中にインカムを通して慎一が常連客のことを教えてくれたのを思い出したからだ。
通路をゆっくり歩いていると、そこのスーツの客、その人もコーヒーを買ってくれるから、声かけてと指示があった。いわれたとおり、コーヒーいかがですかと声をかけると、くるっと振り返った。思った以上に肥満体だった。少したれ目で愛嬌のある顔だ。しゃべると上の前歯が二本とも抜けてなかった。コーヒーを台の上におくと、むっくりとした太い指で財布から小銭をとりだし加奈子の手に載せてくれた。生暖かさが伝わってくる。すると、インカムから「その人、プロのチカン」と聞こえた。「えっ」と声にだしていうと。「何」といって男の客が向き直った。「すいません。もう一度」と無線に答えながら、首を振ってその場を移動したのだ。
そのあと彼のあだ名はチチダスといって、東京ではチカンのプロだったと話しだした。東横線だったか、とにかく殺人的な満員電車で毎日チカンを繰り返していたらしい。チカン同士が集団で狩りをするように、狙った女の子を取り囲んでするのがやり方だ。警察には一度も捕まらなかったそうだ。
「ねえ、行く」
慎一がもう一度訊ねた。加奈子が首を横に振ると、あっさりと引いた。二、三歩先に行ってからまた、もどってきた。
「これやるよ。景品用の見本でもらった鏡」
そう言って加奈子の手元に紙袋を差し出した。
アパートに帰ってきた。下から部屋を見上げると部屋の電気は点いてなかった。友則より早く帰ることができたのでほっとする。急いでタバコ臭さを洗い流したかった。
シャワーを勢いよく出し、その下に立つ。シャンプーを髪につけて泡立てた。体を伝わって排水溝に泡が流れ込む。スポンジで体を洗い流し、湯の温度を少し熱くした。みるみるうちに体が赤みを帯びひりひりとしてきた。友則に抱きしめられたいと願った。許してほしいと、シャワーヘッドを強く握る。また少し温度を上げ体に鞭を浴びた。
シャワーから出てきても友則は帰ってなかった。十一時になろうとしていた。この時間まで仕事はない。誰かと会ってお酒を飲んでいるのだ。
洗面所で髪の毛を乾かし、顔にローションをつける。手に残った分を首筋にのばしていった。
鏡をみながらメード服を着た姿を思い返した。コスプレはが学祭で経験があったが、仕事としてなりきるのとは全く感覚が違った。経験初日であろうと、客は加奈子をメード役として扱い楽しんでいる。加奈子ものせられて演じることを楽しんだ。
左の鎖骨から胸にかけてローションを延ばしていく。突起に人差し指がふれた。感覚は指先の方にしか感じない。突起自体に神経はないのだろう。そこに触れると意識してしまう。吸収してしまった異物とは何なのか。
メードの役をしていて、ふいに子どもの頃を思い出した。加奈子はよく人形で一人遊びをした。家族は留守で加奈子だけが家にいることが多かったからだ。父親のタバコ盆を空にして宮殿にみたて、バービー人形とタミー人形を使う。一人二役になるのだが、バービーが加奈子とタミーが細香と決まっていた。細香とは架空の女の子だ。王女と召使のときもあれば、バービーがタミーをいじめるというSMチックなこともやった。タミーを裸にしてバービーが上からまたがっているのを親が見たら腰を抜かしたにちがいない。
中学生のころ、このころから同じ物を買うようになっていったのだが、きっかけは祖母の葬式だった。母の姉にあたる伯母から妙なことを聞かされた。
「加奈子は三、四歳のとき、いっつも誰かとお喋りしてたんだよ。ひとりごとで。気味が悪いし、もし頭の病気だったらって、心配して医者に連れてったりしたけどさ、成長したら自然になくなるって言われるだけだし、おばあちゃんが霊感のある人にみてもらって、除霊してもらったことがあったんだよ」と。
それからどうなったのかと、加奈子が訊くと、伯母は両手を軽くあげて万歳のようなポーズをし、それが今のあんたじゃないのと笑った。
ただ、母が加奈子を妊娠した初期のころは心音が二つ以上聞こえていたのだそうだ。母親の心臓と加奈子の心臓の音以外にもうひとつの心臓が動いていたというのは、双子だった可能性があるらしい。それで勝手に、鎖骨の下の異物は加奈子に生を譲った姉妹のものと思うようになっていた。
冷蔵庫からウーロン茶を出してコップに注いだ。これはスーパーで売っているティーパックを沸かして作ったものだ。市販のを買うよりずっと安いからだが、加奈子だったらそんな面倒くさいことはしない。
友則から規則やリズムを奪い取ってしまうとどうなるのだろうか。朝起きても布団から出ずに、カップラーメンを寝床で食べ、それを片付けず枕元にほったらかしにし、テレビをだらだらと観る。そんな友則は想像もできない。ある種の人間が馴染めるだらしないことも友則には苦痛なのだと思う。加奈子は友則のそんなところを嫌いではなかったが、面白みにかける退屈な人だと思う。
貰った鏡を箱から出して、テーブルの上に置いてみた。意外と幅があり、両面に鏡が取り付けてある。その片方を正面に向け、風呂上りの顔を写してみた。一瞬の違和感があったがそれがなにかは分からない。加奈子は首をゆっくり右に傾けた。すると、鏡の加奈子はゆっくりと左に首を傾けていく。びっくりしてしまって、加奈子は椅子ごと勢いよく身をひいてそのままひっくり返ってしまった。
意識が戻ったとき、友則の腕に抱きかかえられていた。加奈子はなぜ寝ていたのか思い出せなかった。それよりも久しぶりに友則の肌に触れている、優しい友則がいると思うと、嬉しいはずなのにつーと涙が流れた。
レース中にクラッシュし気絶したことがあるので、友則はしきりに加奈子の瞳を覗き込んでいる。視点が定まっているので安心したようだった。
「加奈子、わかるか。頭痛いか」
そう言って後頭部を軽く撫ぜた。
痛くはなかったが、言葉がでてこなかった。友則に悪いことばかりしてきたという思いが次々こみ上げてきて、涙ばかり流れる。
少し落ち着いたので椅子に座るよう促された。卓上鏡が倒れていた。友則が気づいてそれを起こそうとしたので、
「やめて。その鏡怖いの」
「どうして、何かあったのか」
持ちかけていた鏡から手をひいた。
「その鏡、鏡じゃない。違うの」
首を曲げたら反対のほうに動いたことを話した。友則も同じようにして、少しビクついた仕草をした。ついで、鏡の入っていた箱をとりあげ、何かを読んでいる。
「変なんかじゃないよ。これそういう鏡なんだって。リバーサルミラーっていうんだって。ここに映しだされているのは、他人が見た自分なんだ。早くいえば写真の自分っていうこと」
新聞を鏡に映してみせた。
「字が逆にならずにちゃんと読めるだろう」
原因がわかったので友則は急にリラックスしたようだった。
その夜、同じ布団で眠った。許してもらったのだ。それなのに加奈子はまた友則を裏切るのだろうと思う。考えていると一晩中涙がとまらなかった。
翌朝、加奈子は鏡の前に座って鏡を見ていた。いつからそこにいるのか、加奈子にも覚えがなく、ただとり憑かれたように鏡に映る顔をみていた。
他人の見た自分を自分の目でみている。謎解きのような言葉だなと思った。そして向こう側の加奈子は細香に違いないと感じた。加奈子が何かに安住しようとすると、それをぶち壊すのは細香。だから服や靴のように細香にも細香の彼氏が必要だったのかと、心変わりの激しい性格を思った。
鏡がきてからというもの一週間、仕事を終えるとまっすぐ家に帰る生活を続けている。酒もタバコも我慢するというわけでもないが飲んでいない。服や髪についたタバコの臭いをシャワーを浴びておとしてから、食事の用意をしたり、洗濯物をとりこみ、シャツにアイロンをあてたりして友則の帰りを待っている。また、鏡に向かい細香の様子をみる。彼女も落ち着いているようだ。加奈子の気持ちが伝わっているのだ。もう少しまてば、細香にふさわしい男を見つけてあげられる。見つかっているのだが、きっかけがないというのが正しいだろう。
加奈子は気づいてなかったのだが友則に言われて、はっとしたことがある。最近の服のローテーションが変わってきたらしい。同じものの片方ばかりを着ているのだと言う。そう言ったときの友則はとても嬉しそうだった。
「その鏡、えらく気に入ってるなあ」
早朝に帰宅した友則が玄関先で声をかけた。タクシーの洗車のバイトは深夜にかけてするので朝帰りなのだ。加奈子はテーブルに置いた鏡をみているところだった。一人で家にいるときは無意識のうちに鏡をみている。
友則は布団に飛びこんだ。ひと眠りすると、また遅出の弁当配達のバイトに行く。時間を切り売りしてよく続くなと思うのだが、本人はバイクのレースで勝つという目標があるのでいつも屈託がない。性格が素直なので職場でも友人が多いようだった。
「あしたから、岡山のサーキットに練習にいくんだけど、一緒に行くか」
布団の中から言う。嬉しくて仕方がないみたいだ。レースが近いので、余分な脂肪などない体から更に三キロほど体重を減らした。毎日筋トレも欠かさないので腹筋が割れている。
「仕事があるから無理」
加奈子は断った。徹夜の運転なので同乗者がいると居眠り運転の防止になる。何回かついて行ったことがあったが、向こうに行っても何もすることがなくて困った。十九歳から始めたバイクレースだが、実際にライセンスをとってサーキットに行くようになったのは二年前からだった。それもレンタカーを借りて行っていたが、この春、125ccのバイクを運搬する軽ワゴンがやっと買えたのだ。
「それじゃ、トミちゃんに電話して、頼んでみるよ」
弾んだ声で言った。
友則が軽い寝息を立て始めたのを確かめて、パチンコ屋の仕事に行く支度を始めた。化粧もリバーサルミラーを見ながらするようにしている。本来、モデルなどが念入りにメークのチェックをするために用いられている鏡らしく、普通の鏡だと思い込みがあるのだ。勘違いとでもいおうか。
そういえば以前、加奈子は友則の幼なじみのトミーにお前はパンコかと叱責されたことがあった。トミーは加奈子とも同じ高校だった。
中・高校とも同じ学校で、ずっと友則と付き合っていたが、大学で別々になったとたん、加奈子は大学の男と付き合い友則と別れた。そしてその男と別れたのは、友則と一年半くらいして再会したからだった。パンコと言われたのは友則とよりを戻してすぐの頃だった。三人で食事の約束をしていたのに、友則はバイト仲間が急に休んだために代わりに入らなければならず、トミーと二人で食事をしたときのことだった。
最初に友則を裏切って他の男の元へ行ったこと、今度また、元の鞘に納まっていることについて、一方的に加奈子を非難してきた。加奈子も酒の酔いもあって、正論しか言わないトミーをからかいたくなり、
「怖いなあ。そんなこと言って、ほんとはわたしのこと抱きたいんじゃないの」とトミーの太ももに手をおいた。
ビクッと痙攣したように立ち上がると、
「俺に友だちを裏切らせる気か。頭おかしいのとちがうか。お前はパンコか」すごい剣幕だった。
加奈子は怒鳴られてはじめて、口にした言葉は常識はずれだったと悟った。でも、トミーが吐いた言葉の方も思慮のない女を諌めるという程度ではなく、パンコという加奈子への罵倒の言葉は、すでにトミーの頭の中で何度も使われていたようだ。とにかくそのあとは、しらけてしまって後味の悪さだけが記憶に残っている。以来、お互い会っても視線を合わさないように避けあっている。
「パンコはそっち」
鏡に向かってつぶやいた。
仕事から戻ってみると、部屋にトミーが来ていた。加奈子をみると、ヨーといって挨拶してきた。仕事はデザイン関係と聞いていたが、服もジーンズにTシャツで昔と全然変わってなかった。
「トミー、明日仕事は」
テーブルの灰皿を見ながら言った。換気扇はまわっていたが、トミーの吸ったタバコの臭いが充満している。かえって加奈子の服についたタバコの臭いが紛れてありがたいと思った。
「有給とった。友則はガレージに行ってるよ」
近くにシャッター付の車庫を借りて軽ワゴン車とレース用のバイクを置いている。仕事の合間にそこに行きバイクのメンテナンスをしている。バイクの部品を分解しひとつずつ磨き上げる。終わると軽ワゴンのほうも手入れしてやる。乗るより磨く時間のほうがはるかに長い。
「ご飯食べた」
加奈子は車の中で食べる夜食をもたせようと思って買い物をしていた。友則の好物の鶏のから揚げ弁当だ。
「ちょっと食べたけど」
トミーはお腹をすかせているようだった。
コンロに揚げ油をかけ、もうひとつの方には味噌汁用の出汁をかけた。朝に昆布といりこ、しいたけを水に入れておくと夜には濃い出汁がでている。沸騰したら顆粒のだしの素をいれるだけでどんな料理にも使える。これは長野にいるとき教わった。味噌汁を仕上げると、出し巻にとりかかる。から揚げは一キロ分揚げるので時間がかかる。出し巻きの次に、キャベツをざっくりと切りボイルした。冷水でさまし、水分を絞ってちりめんじゃこと混ぜポン酢をかける。から揚げが全部揚げ終わったときには、すべて出来上がっていた。
タイマーでご飯も炊き上がっている。友則が帰ってきたら、すぐにご飯と味噌汁が出せる状態だ。
「トミー先にたべる」と聞いた。
「いや、待つよ。しかし、すごいな」
本当に感心したようだ。
「友則が言ってたことが、わかったよ」
「何が」
「俺が、なんで加奈子を許せるのかって訊いたとき、ほんとに尽くしてくれるんだって言ってたから」
「わたし、そんなに尽くしたことないけど」
「そう、俺もそう思って……、ごめん。尽くすっていうのは、身の回りのことばかりじゃないって言って、加奈子がそばで何か言ったりしたりすることが、友則にとって、自分の肌に触れてるみたいに、気分がしっくりいくって言うのかな。そんなこと言ってた」
「トミーはひどい女って思ってる」
「そりゃそう思ったよ。俺の親友を苦しめてるんだし、でも、こればっかりは当人同士じゃないとわからんって、思うようになったね」
「それでわたしを許してくれるの」
「許すも何も、俺も彼女いるのに、合コン出たり、飲み屋でであった女と遊んでるし、彼女っていったってそれほど好きでもないしな。不純なんは俺かもしれん」
「昔パンコって言われたの。覚えてる? わたし、あれから自分が誰とでも寝る女なんだって、人からそう見られてるんだって、分かったよ」
トミーはそんなことはないと否定しなかった。加奈子は続けた。
「ひとりの人をすごく好きになって、もし捨てられたらって思ったことない。トミーは男だからないか。わたしはいつも不安なの、その不安にいたたまれず、自分から壊してしまうようなことばっかりするの」
ふたりいれば、そうなっても大丈夫だと思えるのだ。しかし何度同じことを繰り返しても、ふたりの男の間で平気でいれることはなかった。裏切っているという罪悪感から逃れられず、ひとりを選ばざるを得なかった。
「お前さあ、男で生きんな」
トミーは加奈子の話の中身をゆっくり咀嚼するように間をおいてから言った。
「どういうこと」
「ひとりじゃだめなのって、何よ。それおかしいよ。男はお前になにもしてくれないよ。っていうか、誰もな。パンコっていわれてる奴はさ、自分を大事にしてないんよ。大事だったら、遊びで寄ってくる奴に体、許したりしない」
「自分なんて大事にできないよ。空っぽだもん」
「やけくそになるな」
トミーは笑い出した。
「パンコって言って悪かったな。あのときはほんとに怒ってたからな。友則を何回も裏切ってさ。しかし、今の口ぶりだと、また加奈子はどこに行ってしまうかわからんなあ。まあ、俺もあのときよりは大人になったから、お前らのことには何も言わんよ」
から揚げをつまみ上げ、パクついた。
加奈子も出し巻の端っこをつまんで食べた。お互い顔を見合わせて、食べちゃおか、そうだなと言いあった。
友則とトミーはもつれ合うようにドアから出て行った。あのふたりは六十歳になっても友だちをしているんだろうなと思った。男で生きるなと言ったトミーの言葉は、男は女では生きていないぞという意味なのだ。それは友則をみていても分かる。男たちは仕事、友だち、彼女の優先順位が女とは逆なのだ。
久しぶりに仲直りできたトミーとの余韻にひたっていたかったのだが、時計をみると深夜の十二時だった。慎一とこれから会う約束がある。急いでシャワーを浴びに風呂場に行った。洗面台の前で乱暴に髪を乾かし、バスタオルのまま部屋を横切って洗い替えの下着をつけた。服はあらかじめ選んであったグリーンのカーディガンとインナーに白のタンクトップ、スカートはうす茶のプリーツスカートを合わせた。リバーサルミラーで、今日二度目の化粧をする。日付がかわっているから、正確には違うがずっと起きているのに二回も化粧をすることは普通しない。お水の出勤のようだと加奈子は思った。
外にでるとすぐタクシーを捉まえ、ワンメーターの距離で降りた。駅前の繁華街は人も車も多く、昼間とは違った熱を帯びている。探している店はあっさりと見つかった。ビルの入り口に加奈子くらいの歳の女が胡坐で座り込んでいる。携帯でメールを打っているらしく、自分が邪魔になっていることも無頓着だった。片方のサンダルは脱げるにまかせ、ジーンズを破って作ったようなショートパンツの脇からは、股の奥の方まで見えていてグロテスクだ。女をよけてバーの扉を開けた。
そこはダーツのできるバーのようだ。ドアに書いてあった。店はL字に曲がっていて、入り口からはカウンターの一部しか見えない。見えているだけでも人がいっぱいいるのがわかる。店全部が見えるところまですすんだ。L字の先端はテーブル席とダーツ台が隣り合っている。ダーツ台は電化されたもので、点数が表示されるし、矢がささると音がでる。そこに慎一はいた。前歯のないチチダスもいる。カウンターの中にいる男にも見覚えがあった。つまりここは加奈子の働くパチンコ屋につながりのある人間ばかりということだ。
加奈子は慎一とゆっくり話ができることを期待してきたのだが、あてがはずれた。慎一のとなりに座るとチチダスが身をのりだして、何を飲むかと世話を焼いてくれる。ビールをお願いすると、芋虫のような指でグラスを運んできた。テーブルではダーツで対戦をしているところだった。慎一の番がきて、矢を三回投げた。一本は刺さらずに落ち、他の二本も点数は低かった。勝負はチチダスが優勝した。それぞれが財布から千円札を出してチチダスに払っている。
「いつもここで飲んでるの」
加奈子は久しぶりのビールに早くも酔いが回ってくるのを感じた。
「ほとんど来てるな。もう、飯は食ったの。マスターの作ったタコライスでよかったらあるよ」
「よかったらって何よ。俺の料理ははんぱじゃないよ」
「そうそう、ボーイスカウトやったっけ、修行したんだよな」
「違うって。自衛隊に入ってたって言ってるやろう」
マスターはそこでコックのような仕事をしたのだそうだ。
「おっさんのまずい飯やめとき。俺が豚まん買ってきてやるって」
チチダスが何人かを連れて店を出て行った。
急に店内が静かになった。マスターもカウンターの客との話しに戻っている。
「話したいことがあるって、何」
慎一はグラスを手の中で揺らしながら言った。
「もういい。なんか馬鹿げた話だし、自分でも何でこんなこと考えたのかなって思うことだから」
加奈子は細香のことを言おうとしていたのだったが、何と言えばいいのか見当もつかず、場つなぎに話をふってみた。
「ねえ、慎一君が女だったとしてね、今の慎一君を好きになれる?」
「俺は俺のことがめちゃめちゃ好きだから、なれる」
「ふうん、わたしは自分のことが嫌いだから、こんな女は絶対嫌だって思うな」
「それは逆の考え方をしてるせいじゃないか。お前は男の側からみて、こんな女嫌って思ってるようだけど、俺は女になった方に尽くさせるってことだよ。ナルシストだから。わかる」
こういう傾向の話しができるのかと思うと、やっぱり話してみる気になり、切り出した。
「この前ね、鏡もらったでしょ。あれから変なこと考えるようになってね」
「鏡って、ああ、あれか。逆に映るやつ」
「そう、毎日鏡を覗いているとね。もうひとりの自分に気がついたっていうか。わたしは双子でね。お腹の中で流産したひとりがわたしの体の中にいるの。残骸みたいな感じ。ここ、わかるかな」
加奈子は左の鎖骨を慎一のほうに差し向けた。慎一が近づき、じっとみているので、手をとってその部分を触れさせた。慎一の細い指先が優しく動く。
「こりこりって盛り上がってるのはわかる。これのことか」
「そう、それでね、その存在は意識にも入ってくるっていうのか、わたしなんだけどわたしじゃないみたいなね……」
加奈子は伝わらないだろうと思い、話を止めた。すると、
「つまり、ふたりの自分が存在しているってことか」
慎一が言ってくれた。加奈子はぎこちなく頷いた。
「女はさ、理由がいるんだよな。これこれこんなことになったのは、誰々のせいだとかさ、浮気するときなんか女は必ず理由を欲しがるし、男は仕方がなかったんだっていう理由を与えてやる必要がある」
間近から突き倒されたような衝撃である。息をすっても思うように空気が入ってこない。
「ショックか。でも、お前は最初から俺のことが気になってただろ、だから俺はお前を飯に誘ったんだ。今日ここに来たのは、おそらく男が家にいないから、バレないからだろ」
加奈子は立ち上がった。まっすぐドアに向かい外に出た。明るいところは風俗営業の店ばかりで、暗いところは何が潜んでいるかわからないような静けさだ。明るいほうに進もうとしたら、向こうからチチダスたちが戻ってくるのがみえた。加奈子は身を隠すように暗い道に入っていった。
一本道を隔てただけで、そこは別の場所のように静まり返っている。右手は洋風の高い塀が続いていて、さまざまな木の枝が塀ごしに道に張り出している。朽ちた塀のようすからそこは廃屋であることはわかった。反対側の建物は舞台の書き割りのような薄っぺらな二階家が並び、こちらも玄関を板で打ちつけた空家ばかりだった。少し進むと空気まで違ってくるのがわかった。落ち葉が発酵したときの腐葉土の臭いとむっとする湿度が加奈子の体にまとわりつく。このまま行けば大通りに出られるだろうと思い、ずっと先の明かりをめざしてひたすら早く歩いた。足元も柔らかい土の感触に変わってきた。雨も降っていないのに、ぬかるんでいて靴が泥にとられた。一歩すすむにも重心を移動させないと足が進まなくなる。
明かりがついたり消えたりする。それを不審に思いながらも近づいていった。その道は突き当たりだった。袋小路には不法投棄された家財道具が乱雑に置かれていて、明かりだと思ったのは、加奈子が来たほうの明かりを反射するドレッサーの鏡だったのだ。
鏡はひび割れていて加奈子の姿を継ぎはぎに映している。加奈子の顔は正面をむき、横を向いていた。体から手が四本と足が四本はえている。暗闇が収縮するような感覚に怯えた。なまぬるい空気が口から入り胃の中をかきまぜて、鷲掴みにして引き抜こうとしている。
体を二つに折って、抵抗した。しかし口からごぼごぼと得体の知れない何かが吐き出される。苦痛が去って体を起こしたとき、加奈子はもうひとりの加奈子の姿を鏡にみていた。
「やっぱり細香だよね。わたしの中にずっといたんでしょう」
細香は頭を横に振った。
「じゃどうしてそこにいるの。わたしの頭が変になったっていうの」
「わたしは加奈子だよ」
細香が答えた。
「何しゃべってんの」
慎一が鏡に映っていた。
鏡の中で慎一が細香を後ろ抱きにして鎖骨を優しく愛撫している。慎一の掌が細香の喉を支えもち、耳や頬にキスを始めた。胸を開きそこにもキスをしていった。鏡の中でふたりが抱き合っているのを鏡のこちら側から加奈子がみているのだった。中の慎一と目が合った。
「こっちにおいでよ」
そう言って鏡から慎一の手が伸びた。加奈子はその力で鏡の中に入っていく。
冷ややかな感触がする。加奈子は水平になっていた。慎一の唇が顔の上にある。
「罪悪感ってさあ、自己憐憫と同じくらい最悪なもんだと思うよ」
唐突に言う。
「俺がお前から罪悪感をとってやるよ」
唇が加奈子の口に重なる。
「開放感があるだろう」
再び慎一の口から加奈子に息が吹き込まれた。
長野にいるときの気持ちが蘇った。友則に悪いことをしたという気持ちと、長野の彼氏のことがちっとも好きだと思えなくなった嫌悪感が、慎一の息が入るたびに煙となって消滅していく。
「そうなんだよ」と慎一が言う。選ぶのは加奈子なんだから、合わなければ捨てていけばいい。それが女なんだよと。
頭の中で細香が話しかけてきた。
「加奈子は昔から罪悪感の塊だったの。生理が始まってから、それは完璧といえるほどの罪悪感にしばられていたよ。なんでそんな人間になったのかは、加奈子もわかってるよね」
加奈子はなんでそうなったのか考えていた。
「愛されなかったから、自分を愛せないんじゃないの。そして人も愛せないんじゃないの」
家族のことを細香は言ってるのだ。あの家族か……、安心して傍にいることなんかできなかったなあと加奈子は思った。離れることで折り合いをつけていた。もう諦めていたつもりなのに、なんでここで家族がでてくるのだろう。
「加奈子のほんとうの罪悪感は家族を愛せないことなんだよ」
細香は断言した。
「どうすればいいの」
それには答えず頭の中の細香は消えた。
いつものリバーサルミラーの前で突っ伏して眠っていた。鏡の中を通り抜けてきたみたいに時間の感覚がない。
仕事に行かなくてはと、テーブルに両手をつき立ち上がろうとした。その姿はリバーサルミラーにそのまま映っているはずなのに、鏡の中の加奈子は眠ったままである。ドンとテーブルを叩いたが、音はまったくしなかった。試しに、
「どうなってるのよお」と叫んでみたが、声がでてこなかった。
細香と入れ替わったのだと思った。加奈子の肉体を細香が使う番がきたということなのか。
慎一がスイッチだったのだろうか。罪悪感がなくなると、自我までなくなるんだと加奈子は妙に納得した。音もなく部屋の中を歩き回る。時間が感じられないと不安は起こらないことも分かってきた。ひょっとしたら死んでいるのかもしれないと疑った。でも、これが死の世界なら加奈子は喜んで住みたいと思った。まだ、思考ができるのだから。
考えよう。もっと考えようと加奈子は心に決め、どっかと椅子に腰をおろした。
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