レクイエム  津木林洋


 

 Mと初めて会ったのは、いつ頃のことだったろうか。
「作家」という同人誌のバックナンバーを見てみると、一九七五年七月号にMの初めての作品が載っており、巻末には私とMが新同人として紹介されている。ということは、その号の合評会があった六月の第四日曜日に初めて会ったのだろう。
「作家」というのは当時、名古屋を本拠地とした全国規模の月刊同人誌で、東京や山梨などに支部があり、各地で合評会が行われていた。そして、自分の作品が載ると名古屋の合評会に出席することが、半ば習わしのようになっていた。
 Mは東京に住んでいたから、新幹線で来たのだろう。私は当時、名古屋にいたから、作品を発表していなくても合評会には参加していた。
 会場の末席に坐っていた私は、見かけない顔が入ってくるのを認めた。背がかなり高くて痩せており、黒縁の薄い色のサングラスを掛けている。私と同じ二十代と思われた。ちなみに私は一七八センチの身長だが、Mは一八五あり、「作家」同人会員含めて、一番の大男だった。
 大きな男に気づいて、奥にいた主宰の小谷剛が、「Mくん、こっちに来なさい」と手招きした。Mは臆することなく奥に行き、小谷剛の二つ隣に腰を下ろした。
 ああ、これがおれと一緒に同人になったMなのかと、私は自分と同年配の男をしげしげと眺めた。縮れ毛で、額の横に赤い痣があり、サングラスがちょっと突っ張った印象を与えている。後で聞いた話だが、眼底出血があって光が眩しいため、仕方なく掛けているということだった。
 Mは合評の時でも、堂々と、時には歯に衣着せない口調で批評した。大体、自分の作品が載った時は、他人の作品に対して厳しいことが言えないというか、少しは甘口になるものだが、Mは違った。私はそのことにびっくりした。名古屋の合評会は、小谷剛の周りに、芥川賞や直木賞の候補になった有力同人たちが控えていて、ぴりぴりした雰囲気の中で行われるのだ。酷評は当たり前で、中には泣き出す者もいる。
 Mの作品はいささか観念的で文章も凝った表現が目についたが、初めて載ったということもあって、好意的に迎えられた。
 Mはそのことが嫌だったのかもしれない。それに反発して厳しい発言をしたとも考えられる。
 合評会後の喫茶店で、名古屋在住の同人や会員たちで、Mを囲んだ。Mは私より四歳年上で、年齢の近い同人は、私とIさんの二人だけだった。Iさんは私より二歳年上の女性で、一年程前に同人になっていた。粘りつくような重い小説を次々に発表しており、私は彼女を密かにライバル視していた。
 MはIさんの作品を褒め、私の作品に対しては、「何であんな作品を書くんだ。がっかりした」と言った。私は身を縮めた。確かに言われても仕方のない作品だったから。
「あれは、**の真似をして書いてみた」と私はある作家の名前を挙げて、言い訳するように応えた。
「どうして人の真似なんかするんだ。自分のものを書けよ、自分のものを」
 Mは顔を赤くして、言い募った。この野郎と思ったが、その通りなので反論できない。すると、Iさんが「誰だって人の真似をしたくなる時があるわよ。私だって○○の真似をして書いたことがあるもの」と言ってくれて、その場が収まった。
 Mはそれから次々と小説を「作家」に載せたが、私の方は思うように書けなかった。Iさんと共にMもライバルとして意識し、何とか彼らに追いつこうとしたが、何を書いていいのか分からない。
 大阪に帰っていた私は、書くきっかけがつかめるかもしれないと大阪文学学校に一年通い、そこで知り合った人たちと「せる」の創刊に加わった。「作家」と「せる」の両方に足を置くことで、ようやく私は自分の書く小説をおぼろげながら掴んでいった。
 Mの書くものは、血縁を通した命の流れを描くことが主で、故郷の親たちと東京での妻子との生活を対比させた作品で、ある賞を取っている。直木賞作家で同人のTさんなどは、Mの才能を高く評価し、目を掛けていた。
「作家」の全国懇親会の席上で、合評会をすることになり、Mの作品が取り上げられたことがある。例によって、故郷と東京を描いた作品で、私は「故郷がある人はいいですね。私なんか故郷がないですから」と半ばやっかみを込めて言った。
 するとMは「言いがかりだ」と怒った。「生まれたところが故郷ではないか。生まれたところのない人間なんていない」
 確かにその通りだが、Mが故郷に抱く感覚がこちらにないのも確かだった。
 Mは東京で、私は大阪だから、合評会で会うことは滅多になかったが、二、三年に一回くらい開かれる全国懇親会では、必ず会った。Mは一緒に同人になった私のことを気に掛けてくれ、個人的な話も随分してくれた。
 Mは某学芸大に在学中に、同級生と親の反対を押し切って結婚し、彼女を先生にするために自分は中退して、点字の仕事に就いた。子供が欲しかったが、流産などで出来ず、十年目にしてようやく女の子が生まれた。そのことも作品にしている。
 それでアパートを出て、もう少し広い家に住みたいと思っていたら、義父が一軒家を見つけてくれた。
 しかし見に行ってみると、年数の経った陰気な平屋で、「ここには住めない」とMは思ったそうだ。義父が買ってやるというのを断るには、自分で買うしかないと思い、
「無理して公団の分譲住宅を買ったんだ。でも三十年ローンだよ。これで仕事を辞めるわけにはいかないし、一生縛られるんだからな。嫌になるよ」
 しかし顔は笑っている。いかにもMらしい話だと私はその時思った。

 一九九一年の夏に小谷剛が亡くなり、「作家」は終刊を迎えた。私は「せる」一本になり、Iさんは別の同人誌に参加した。Mは同人の一部が興した「季刊作家」に参加した。しかし、そこに一作を載せただけで、作品を見なくなった。
 確か一九九九年の小谷剛を偲ぶ会が名古屋で催された時だろう、久し振りにMに会った。旧交を温めあった後、その流れの続きのように、「実は肺癌になってしまって、肺を四分の一取ったんだ」とMが笑いながら言った。
「いつの話?」私は驚いて尋ねた。
「去年の四月。会社の検診で見つかったんだ」
 私はどう応えたらいいのか分からなかった。元気そうなので、手術は成功したのだろうと勝手に解釈した。
 それから二年後の暮れ、突然Iさんから手紙が届いた。Mの癌が大腸に転移し、手術して人工肛門にしたが、まだ取りきれない癌が残っているらしいという内容だった。それでお見舞いかたがたMの本を出す話を承知させたいので、同行してくれないかというのだった。
 Mの本については、「作家」に連載された小説を作家社から本にして出すという話が進んでいたのだが、小谷剛の突然の死で頓挫したという経緯があったのだ。
 私は喜んで承諾し、Iさんと一緒に東京の八王子に向かった。
 駅に現れたMを見て、私はほっとした。痩せ細った病人を想像していたのに、Mは元気そうで、ぱっと見、普通の人と変わらなかったからである。
 近くの喫茶店で、Mは自分の病状を話してくれた。骨盤の中に癌が残っていて、この前抗ガン剤治療のワンクールが済んだばかりだが、数値が下がったので医者と万歳三唱をしたとか、人工肛門になったお陰で、痔の手術をしなくても済んだとか、笑い話のように話した。いつも持ち歩いている人工肛門を処置する道具や帽子を取って抗ガン剤で禿げ上がった頭まで見せてくれた。
 それから息子が高校野球の名門校で投手をしており、甲子園に出られそうだという話で盛り上がり、Iさんが本の話を切り出したのは、その後だった。
 話を聞いて、Mは即座に、
「気持ちはありがたいけれども、お断りする」
 と言った。Iさんが、費用の心配は一切しなくてもいいし、編集実務もこちらでするからと説得しても、Mは首を振った。
「本を出すというのは、津木林やあなたのように現役で書いている人が行うべきで、おれのようにもう書いていない人間がするべきではない」
 いかにもMが言いそうな科白だと私は内心おかしかった。
 私はIさんに、Mが一度言い出したら聞かないから、ここは一旦諦めようと言った。Iさんもしぶしぶ承知した。
 それでほっとしたのか、Mがしみじみと、
「考えてみれば『作家』で生きている人間の方が少ないんだよなあ。小谷さんもTさんもKさんもOさんもHさんも、みんなあの世にいるんだから」
 Mの挙げた同人たちは、皆、Mを可愛がった人たちだった。
 駅の中まで見送りに来てくれたMは、「ありがとう。会えてうれしかったよ」と言って深々と頭を下げた。
 それからは年賀状だけがMの消息を知る手掛かりだった。ひょっとしたらと思いながらも、毎年年賀状が届き、そのうちずっとこのままで行くのではないかという気がしてきた。癌を抱えながら生き続ける例があるので、Mもその一人になったのではないかと思ったのだ。Mが生き続けてくれたら、こちらが癌になった時、よき相談相手になってくれるのではないかなどと虫のいいことまで考えた。
 今年も年賀状が届き、大丈夫なんだなと思っていたのだが、四月半ば、一冊の本が送られてきた。送り主は名も知らぬ出版社で、気付として女性の名前が手書きされていた。姓がMと同じだった。
 その瞬間私はMが逝ったのだと直感した。部屋に戻って封を開けると、手紙が同封されていた。果たして女性はMの奥さんで、Mが二月三日に亡くなったことを告げていた。七年十ヶ月の闘病生活に終止符を打ち、ホスピスで最期を迎えたと。享年五十八歳。
 本はMの書いた三十三作品のうち、最後の二編を編んだもので、それを届けることで別れの挨拶にしたいとMが考えたらしかった。最後の最後まで校正していたが、刊行を見ることなく逝き、奥さんが仕上げたのだった。
 小谷剛が亡くならなかったなら、とうに出版されていた作品ではなかったか、あるいは五年前にMが承知していたら選んだ作品ではなかったかと思いながら、私は本を手に取った。
 三歳の娘がもらってきた青虫が成虫になるまでの日々に、父親の死や妻の妊娠を絡ませ、生と死を織り交ぜた命の連鎖を描いている。「作家」に連載された時にも読んだが、Mの集大成ともいえる優れた作品だった。
 巻末には、死を覚悟したMがパソコンに遺した挨拶文が、あとがきに代えて載せられていた。
 自分の病気の現状を淡々と書き、葬儀は内輪だけで行うとあった。
「私はひっそりと逝きますが、そのことは身内がまた平穏な日常を取り戻すことができたころ、連絡すると思います。その時にはほんの瞬時で結構です。大きな体の男があなたの友人にいたことを思い出し……」
 私はそれ以上読むことが出来なかった。Mの姿が、笑っている顔がまざまざと蘇ってきたから。
 それからしばらく私は自分の中の欠落感と向かい合うことになった。おかしな言い方かもしれないが、若き日の戦友を失ったような感覚だった。
 あの世を信じるわけではないが、Mを可愛がった同人たちが彼を迎えてくれると考えると、いくらかは安らかな気持ちになれるのが救いだった。


 

 

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