三十歳を過ぎて、自動車教習所に通いはじめた。子どもの保育園入園にあたり、車が必要だと考えたからだ。
保育園というところは、毎週親が昼寝用ふとんを持ち帰って干さなければならない、と人から聞いた。ふとんと着替えと仕事用鞄。そこに雨の日なら傘を差して、子どもを乗せて自転車をこぐ。体力のない私には、無理だ。しかも、待機児童が多いので、どこに入れるかもわからない。遠い園だと自転車で片道三十分はかかる。その距離を毎日往復する。とても想像できない。
軽自動車は家にあった。だが、免許は持っていなかった。しかし、我が家にとっては大金の、教習所の費用を考えた時、不安がなかったわけではない。だいたい私は、バドミントンも打ち返せないほど反射神経が悪い。度胸もなければ状況判断能力にも乏しく、自分の行動はときどき不可解だ。車にはまったく興味がないし、事故に遭う車に数回乗り合わせたので、車とはものすごく怖いものだと思っている。以上のような理由で、この年まで免許を取らなかった。死にたくはなかった。それなのに、本当にいいのだろうか。大枚はたいて、ちゃんと乗り続けるんだろうか。かと言って、大きくなっていく我が子とふとんを自転車に積んで、卒園まで無事に通いつづける自信もない。
子どもは一歳半になったところだった。誕生してから育児休暇は取らずに午前中のみ働いて、午後から勤務の夫と交代で育児をしてきた。生まれる前は一日も早くフルタイムに戻るつもりでいたが、生まれてみるとかわいくて、一日も長く家で育てていたかった。けれど、職場としてはそれでは困る。話を引き延ばしてきたが、限界だった。
ちょうど教習所の託児室は一歳半から利用可能で、一日二時間まで預かってもらえる。毎日二時間ずつ授業を進めたら、たった二ヶ月以内で取得できる。
申込手続きをしに教習所の門をくぐる。同じ取得するならとミッション車で申し込むが、事務局の年輩の女性にオートマチック車のほうが安くて簡単と勧められる。自宅の車も中古のオートマなので、素直に従った。
授業一日目。噂に聞いていた適性検査を受ける。十代のころ、友人が話してたやつだ。友人は当時、一緒に教習所に行こうと誘ってくれたけど、私は一生運転はしないと言って断ったのだった。あの時取っておいたら、今ごろ子どもを連れて通うこともなかったのに。今も周囲は高校生やそれくらいの年齢の人が大半で、だるそうに鉛筆を回していたりする。そんな中、私は久しぶりに触れる教室、机、筆箱なんかが嬉しくてしょうがない。適性検査の用紙が配られた。「はい、はじめ」のかけ声がかかり、問題を読む。「大きいHと小さいH、中くらいのHを順番にマスの中に書き入れなさい」とある。時間内にいくつ書けるかを試すらしい。余裕やん。汚い字で書き始める。ええ感じ、と思いつつふと周りを見ると、みんな私の数倍の早さで手が動いていて、なかには書き終えてる人もいる。焦って追いつこうとしたら「はい、終わり」の声。紙のほとんどが白く残っていた。
のちに適性検査の結果をもらったが、作業に慣れるのが遅い、社会性を欠く、法律を軽んずる傾向が大いにある、とあった。これはいくつかの質問に対して、はいかいいえで答えた結果も含まれているが、まったくそのとおりの分析ばかりだった。おもしろいものだなあと感心したが、そんな私の興味のために、託児室初体験の子どもは丸一時間、ママ、ママと泣きっぱなしだったそうで、迎えに行くと夢中で私によじ登ってきた。きたる保育園の送迎のために、子どもを教習所の託児室に入れて免許を取ろうとしている。なにか間違っているような気もするが、もう学費は納めてしまった。
卒業検定までに、車に乗る技能教習は所内十二時間以上、路上十九時間以上で、教室で受ける学科は全部で二十六時間出席する必要がある。一時間落とすと補習料が四千六百円新たに発生する。子どもの紙オムツ代がかさむ我が家で、この金額は恐怖である。技能教習では意地の悪い教官がいるとは聞くが、心乱されることなく、一日も早く、一円も無駄なく卒業するため努力することを目標に掲げる。
だが、技能教習三回目で、まんまと教官に泣かされた。こいつをA教官と呼びたい。それから、私が通った教習所の教官は、全員男性だった。
始業のチャイムが鳴ると、四十代半ばくらい、ブロッコリのように茂ったパーマヘアーに、スイカお化けに似た笑顔を貼りつかせたA教官が、「こんにちはあー! 運転なんてすーっごい簡単だからねー」と意味なくハイテンションで助手席に乗り込んできた。習ったばかりの手順でエンジンをかけ、走り出して数分後、「左前輪で白線踏んでみてー。うえー! できてないー! 今度は右後輪をオレンジの線に乗せてー。うわあー! ずれたずれたあ! こわいなあーあなたぜーんぜん感覚つかめてないねー! 女の人に多いんだよねー! こんな簡単なことができないのはー」と完全に弄ばれる。しかし、私にとっては生後三回目のドライブである。このA教官の言っていることがいじわるだということさえ気づかずに、湧いてくる涙をこらえながら、何度もタイヤで白線を踏もうと試みた。
翌日、マシュマロマンのような色白ぽっちゃりB教官に当たる。B教官は私と同い年で、現在婚約中だと勝手に話す。私が、昨日A教官に叱られたところを点検してもらえますかと言ったら、「ああ、A教官でしょー、あの人いつもああなの。今月は何人泣かせたって自慢してるの」とB教官が言う。B教官は物言いがソフトで、カーブを曲がるたびにそうそうそう、今の感じ、とささやいてくれる。マシュマロマンでももう嬉しくって、好きになりそう! なんて浮かれていたら、「実はさあ、俺彼女と別れたいんだよねえ」と身の上話が始まる。「俺を楽しませる術をあの子は持ち合わせてないんだよ。もう俺今から言ってんだ、結婚したって他にいい子がいたら、絶対に浮気するからって。女としての努力をしないと食わしてってやらないぞって」。
食わしてやる。もし他の場所でこんな言葉を吐くやつを見たら、私は絶対許さない。もうはらわた煮えくりかえって、相手にちっとも伝わらなくても、拙い言葉をならべて反論する。いつでもどこでも、上司でも、通りすがりの人にでも今までくってかかってきた。それなのに、相手は教官である。S字カーブで脱輪しながら、私はいろんなことを考える。バーカ、って言いたい。でも、ここでもめると補習が待っている。子どもは毎日託児室で泣き続け、結局二時間もたないので一日一時間ずつ預かってもらっている。どうしてもぐずるときは、酒屋をやってる実家の店先で見てもらった。そんな事情で、ただでさえ卒業の日が遠のいているのに、これ以上無駄な時間を過ごしてはいられない。フルタイムに戻る日も近づいてくる。私は屈辱的な気持ちになりながら、B教官の話に生返事を繰り返した。すると一時間が終わったころ、B教官は「こんなに話しやすい女の子、初めてだったよ」と耳元でささやき、ふふふっと笑った。私は、暴れたかった。
学科の授業のほうは楽しくて、帰宅するたび習ってきたところを家族や友人に話して聞かせた。応急救護の授業なんかもあって、卒業してもちゃんと覚えておこうと思っていたが、卒業した今は残念ながら忘れた。どうしてもストレスの少ない学科のほうばかり進めてしまう傾向があり、間が空いたころに嫌々技能教習を受けるので、余計うまくなるわけもなかった。一時間なんにも話さずに「はい、次補習ね」と言う教官もいたり、B教官に続けて四回当たるという不幸もあったが、なんとか仮免許取得にこぎつけたのは、入学から二ヶ月ほど経ったときだった。
路上教習が始まって、初めてC教官に当たった。五十歳代くらいだろうか、黒縁眼鏡をかけた髭面は浅黒く、眼光の鋭さに頑固さがにじみ出ていた。ベルが鳴り、車に乗り込んできたとたん「悪いけど、オレは他の教官とは違うから」と言った。路上教習である。近づいてくる対向車とぶつかるのではないかという恐怖に、少しでも早く慣れたい時期である。それなのに、ほかの教習車が全部出発しても、C教官は鉛筆と紙を手に、「おばちゃんによくある判断ミス」と言ってそのケースを絵で描いて説明し続ける。下敷きにしているのは私の年齢と補習記録が載ったファイルである。おばちゃんとは、まさか、私のことなのか? 十五分が経過した。私は黙って聞き続けた。やっと路上に出る。工場地帯の教習所のため、トラックがやたらと多く、びっしり路上駐車のある道路ばかりがコースになっている。C教官はそこで、五分も走ると停車するように言い、悪いところを説明する。私にとっては、停車も難しい。それを何度も繰り返されて、走り出しては「だめだな〜、今まで何やってきたの〜、教官は誰〜、うわあこわいなあ〜」と大声であおられる。昔友人が、教習所の教官に生まれて初めて殺意を覚えたと話していたことが頭をよぎる。返事もできないくらいブルーになりながらハンドルを握っていたら、「ハンドルぐらぐらさせたらこわいよ〜アクセルカタカタ踏むんじゃないよ〜こわいからカタカタ踏むんだよ分かる? 分かる? そんなので免許取るおばちゃんがいると迷惑なんだよ」と、怒っているでも笑ってごまかすでもなく言い放たれる。
私なりに、この日もちゃんと我慢できているつもりだった。しかしぽろっと、口から言葉がこぼれた。入学してからひた隠しにしていた、いつもの調子が戻ってしまったのだ。
「なんでそんな言い方されなあかんのですか」
言った後、しばらく沈黙が続いた。運転中なのでC教官の顔は見てないが、ぽかんとしている様子だった。
「なにが?」
「せやから。車が好きやからいうて免許取りにきてる人ばっかりちゃいますやん。誰しも取りたくて取りに来てるんちゃいますやん。下手なもんがそんなにあおられてどやって上達すんのんな! 下手なことくらい自覚してるわ! 向いてないのは分かってるわい! それでも、免許の必要な事情っちゅうもんがあるでしょうが。子どもでけたら免許いるなんて知ってて産んでへんわ! 保育園預けんのんかわいそうかわいそうってみんなして言いやがって。私かて好きで預けるんちゃうわい! ほなどないせえっちゅうねん。好きで子どもと離れるわけちゃうわい!」
ハンドルをぐらぐらさせて、アクセルをカタカタ踏みながら、私は絶叫していた。発言の内容は、C教官に対してではないことまで混ざっていた。それでもC教官は座り直して、「そうです、おっしゃるとおりです」と繰り返した。改まった教官の姿に、なんだか笑えてきた。教官も笑った。そのあとしばらくして、赤信号で停車させるとC教官は言った。
「すいませんでした。でも悪いんですけど次、補習受けてもらえませんか」
補習は全部で五回受けた。あんなに必死で受けたのに、今では坂道発進さえ思い出せない。高速教習も受けたが、授業中、急停車したい衝動に駆られたらどうしよう、ハンドルを思いきり切りたくなったらどうしよう、ということばかり考えて、こわくて仕方がなかった。あれから一度も高速道路には乗っていないし、走ってみたいとも思わない。
路上教習の終わりに、A教官にもう一度当たった。卒業検定のコースを走ってみるという授業だった。大切なポイントを話してくれているのに、私は相づちさえ打つ気になれない。A教官は訝しげに顔をのぞき込んできた。
「あなたに前回泣かされて、イヤな思いをしました」と率直に伝えると、「えっ、なになに?」とA教官が返してくる。
「タイヤで白線を踏むのがずれたとかいう教官の教え方は、変だと思います」
A教官はあせった様子で、「熱心に指導している結果、行き過ぎがあったかも知れないね。これからもなんでも話してね、ね」と言った。嘘つけ、泣かせんのが趣味のくせに。おなかの中ではそう思いつつ、私は了解したような笑顔を作った。
婚約者の悪口を言うB教官のことを、また別のD教官に話してみたら、B教官はあちこちで「こんなに話しやすい女の子は初めてだ」と言っているらしいことを教えられた。D教官は私と年が変わらず、目が垂れていて、優しい雰囲気の人だった。保育園の送迎のために免許を取得しにきたことを話したところ、ああ、僕も息子の送迎を毎日してました、と返ってきた。二十歳で結婚し、すぐに離婚して、引き取った息子は現在中学生になり、今も二人暮らしだという。子どもと過ごす時間を作ることだけで精一杯で、再婚は考えたことがない。最近息子が大人びた悩みの相談を持ちかけてきて、小さかったころは大変だったけど、これから離れていくのかと思うと、時間が止まればいいのにと思う、と話してくれた。まだ若いのに、いろいろと苦労をしてきたんだなと思うとじんときた。だから私は熱心に、バツイチパーティーに行くことを勧めた。D教官はD教官の人生を生きてくださいと力説した。大丈夫、教官ならまだまだいける! なんて調子のいいことも言った。D教官は苦笑いをしていたけれど、がんばります、とぼそっと言った。
今、手元にある免許証には、やつれた私の写真が貼ってある。試験場で写真を撮ってもらったときは三十八度の熱があった。毎日一時間ずつ、休日は朝からずっと授業を受けて、子どもの夜泣きの合間に学科の勉強をした。教習所で受ける卒業検定が合格したときには、事務局の人と手を取り合って泣いた。周りの学生は不思議そうに見ていた。教習所から、マグネット式の初心者マークをお祝いにいただいた。その日はあいにく日曜日だったので、託児室の先生や教官に最後に会うことができなかったが、それはもう嬉しくて嬉しくて、家に着くまで泣いていた。
結局、子どもの保育園は最寄り駅前の園に決まり、ふとんもリースなので運ぶ必要がなかった。正直ほっとしたが、子どもの急な発熱時などで病院に行くのに車は助かる。乗らないと乗りたくなくなるので、できるだけ運転の機会を作ろうとするが、未だにハンドルを握るとひどく緊張し、三十分もしたら放り出して逃げたくなる。我が家の軽自動車には、今も初心者マークがついている。免許を取って一年はとうに過ぎているが、初心者マークをはずすと世間のドライバーにゴマメ扱いしてもらえなくなるようで怖い。それに、この初心者マークを見ると、あの教習所での日々が思い出されて、とてもはずす気にはなれない。
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