戦争と平和   上月 明



    
 
 最近、日本の隣国である韓国や中国との関係が冷え込んでいることを、マスメディアは盛んに流しているが、国民に緊迫は感じられない。
戦争を知らない世代が大半を占め、世の中の平和が普通であって、天から降ってきたものであるかのように勘違いをしてしまっている。
 戦後六十年、今の平和は、戦争で国のために若くして命を散らしていった人々の上に成り立っていることを忘れてはならない。
 鹿児島県へ行く機会があり、薩摩半島の南端に位置する知覧町を訪れてみた。特攻基地の跡地に知覧特攻平和会館が建立されている。数年前に大物政治家が、この平和会館を訪れ、南の海と空に散っていった勇士たちの遺書に視線を落とし、涙を流されているのをテレビのニュース番組で見たことがある。強く印象づけられ、どうしても一度は行ってみたいと思っていた。
 進入道路の両脇には何百基の石燈ろうが建ち並び、奥の知覧特攻平和会館からは、ひっそりとした佇まいが感じられる。全国からの入館者は一日千名を超えるという。中央の大きな部屋には特攻勇士の遺品などが展示され、周囲の壁一面には遺影や遺書が所狭しと並べられている。知覧特別攻撃隊員のほとんどが十七歳から二十二歳ぐらいの若者であったと記録されている。肉親に宛てた遺書や手紙は涙なくしては読めない。
 勇士たちの倍以上も年齢を重ねているのかと思うと、こんなに長生きしてもいいのだろうかと、自分自身に問いかけたくなる。
自分たちが住んでいる周辺を見渡しても、過去に戦争が行われたことを表しているものが多く存在する。その象徴的なものが忠魂碑である。
 各地区に建立された忠魂碑が、戦中、戦後あれだけ国民に大事にされながら、今は寂しく雑草の中に埋まろうとしている。
 数年前まで、忠魂碑に関する問題が違憲か合憲かで、よく新聞やテレビを賑わしていた。国および地方公共団体が主催または共催と称して、宗教的な諸行事を実施すること、あるいは国または地方公共団体の長が宗教的な施設に参拝並びに諸行事に参列して玉串料などを公費で支出したり、また、公共施設を使用させることが、国、または地方公共団体に対して憲法で定める『政教分離の原則』等に違反するか否かについて訴訟がたびたび行われ、国または地方公共団体と宗教との関わりについて、司法判断が必要とされる事項や判決が待たれる事例が後を絶たなかった。
 忠魂碑は、幕末以来、招魂墓碑ないし記念碑の性格を有するものとして建立されたが、日露戦争以後は戦没者の慰霊・顕彰のための記念碑として建立されたものであり、超国家主義を支援、助長させる目的を有するものとして建立されたものではなかった。
 忠魂碑は、軍国主義の精神的基盤となった国家神道化が形成、確立されてきた明治中期から昭和二十年の敗戦までの間は、軍国主義の精神的象徴の中に組み込まれ、結果として国家神道を助長する役割を果たしてきたに過ぎない。
 敗戦後、国家神道の解体により、忠魂碑は軍国主義、超国家主義に利用されることがなくなり、新たに再建され、または建立された忠魂碑は、もっぱら戦没者の慰霊・顕彰のための記念碑として一般に認識されている。
 今日、忠魂碑を参拝するのは年老いた遺族のみで、若者の姿はほとんど見られなくなり、子どもについては皆無である。
 少子化が進む中、子どもを犯罪から守るという大義名分の元、学校の校舎や校庭はフェンスに囲まれ、校門は閉め切られ社会から隔離されている。子どもたちは、ボランティアによりガード付きの登下校。中には校門に警備員を配置する小学校も見受けられるようになった。こんな現状を目のあたりにすると、これが本当の平和なのかと、小首を傾げたくなる。
 戦争はいけない。平和はよい、戦後の昭和時代は、その一言で済まされたかもしれないが、平成時代に入ってくると、何が平和なのか疑いたくなる。
 勤務する公民館でも少年たちの、いたずらに限度はない。廊下やロビーで寝ころんだり、騒ぐのは未だましで、今年に入ってからだけでも、廊下に設置されている消火器を噴射させ、廊下や各部屋を粉まみれにさせてしまったり、掲示板に貼っている掲示物から画鋲を抜き取り廊下にバラ撒くしまつ。また体育館の窓に投石をしガラスを破損させるなど、やりたい放題である。
 いたずらにも程度というものがあるが、その限度を超えているし、そのほとんどが、人目を盗んでの複数犯であり、やった本人たちは必ず逃走している。
このような状況では、日本の明るい将来は考えられない。お隣の韓国のように徴兵制復活と言わないまでも、規律を教える精神教育の必要性を感じる。『鉄は熱いうちに打て』ということわざもある。
日本国のために命を捧げ散っていった勇士たち、その若者たちの犠牲の上に今の平和が成り立っていることを、少年たちにもわかってもらいたい。
 

 

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