それにしても、ようやく、である。
ようやく、若い頃から付けていた読書日誌の通し番号に、二千の数字を記する事が出来た。昨年のことであったが、随分と時間が掛かってしまったというのが正直なところだ。
少し説明が必要だろう。
以前せるのこの欄に「三千冊」という題で、一本のエッセイを書かせてもらった。調べてみると第四十一号の時のことで、発行日が一九九四年の六月となっているから、今からもう十二年も前のことになる。
「三千冊」の意味するところはこうであった。
おそらくは大阪文学学校関連の講演会での出来事だろうと思うのだが、そこに参加していた一人の女性が、会が引けたあとの親睦の席で、喋りに来ていた著名作家に(これはおそらく故水上勉氏だったはず)ビールを差し出しながら、どうしたら作家になれますかと訊ねてみた。するとその人は、直ちに部屋の隅に行き本を読みなさい、と命じた。三千冊読みなさい。三千冊読めば小説家になれるだろう、と。
この話を人伝に聞いた私はすぐさま新しいノートを買ってきて、読書日記なるものを始めた。それまで読んできたであろう本の数を概算で出し、その数を始まりにして。私がまだ三十になる前のことである。
作家になりたかった。又、なれるかも知れないという思いがどこかにあった。だから、三千冊を目標にそんなようなことを始めたのである。
私は昨年の四月に五十になった。つまり、五十歳になってようやく生涯に読んだ本の数が二千となった。まったく、ようやくであろう。三千冊の目標が、この歳になってようやく、その三分の二を超えたばかりなのである。ノートを買い求めた頃のことを思うと、まさしく遅々とした歩みというしかないおのれの現実に、唖然とするばかりである。
まあ、それも致し方ないと言わざるを得ない。思い返してみると、もっとも冊数が上がった年でも(それは三十歳前半の二、三年間ぐらいか)百冊を超えたあたりがようやくで、最近は頑張って五十冊、どうかすると三十の数字を書いているうちに年が改まってしまったりする。
妙な言い方に聞こえるかも知れないが、日々ボーとしていることが仕事みたいなところがあるので(そんなのは仕事と言わないか)、読書に取ることの出来る時間は他人よりはかなりある方だろう。なのに、遅々と進まない。
先日のこと、昼時にテレビをみるとはなしに見ていたところ、読書家としても有名な二枚目ベテラン俳優がたまたまその番組に出ていた。話題が読書のことに及んだ。司会者が日にどのぐらい読みますかと訊ねた。するとそのベテラン俳優は、年齢のせいで三冊がようやくだと言った。驚いた。計算上は月に百冊ぐらいにはなる。
又、別の日、二時間の夕方のワイドショーに、この種の番組に引っ張りだこの評論家がコメンテイターとして座っていた。こちらも読書の話になった。ベストセラーのことか何かを扱っていたのかも知れない。小柄なその評論家は司会者に振られて、日に八十冊は本を読むと答えた。(まさか!? 日には記憶違いだろう。週か月の間違いだろう。が、一ヶ月にだって凄い)
評論家の読書法は分からないが、俳優の方は司会者に訊ねられて、速読法を使っていることを口にしていた。大事なところはじっくり読むが、どうでもいいようなところは読み飛ばしている、とか。勘でそれが分かるらしい。
私も速読みたいなことをしているときが、間々ある。つまらない小説や、知っていることが書かれてあるときには、ポイントになる単語から単語に目線が跳んで行ったりしている。この方法で読書を続ければ、少しは冊数の加算が早かったかも知れない。が、この読み方、どうも気にくわない。不慣れなせいかもしれないが、読んだ気がしないので困ってしまう。本を読むことの基本が小説なので、そうなってしまうのかも知れないが。
まあ、人様の優秀さを縷々とここで並べ立てたところで仕方ない。とにかく私自身のことである。
たとえば一年に多めの五十冊ばかりのペースで進むとしても、三千冊達成までゆうに二十年はかかる。となると、作家になれるのは七十過ぎという計算になる。その年齢で物書きデビューというのも話題性があって悪くはなかろうが、となると、もしかすると読書量との勝負より、認知症との競争ということになりかねないではないか。
ここまで推論を重ねてきて、ハタと気づいた。著名作家が口にしたという、三千冊の意味である。まあ、三千冊も読み重ねていくうちに、たいていの者は、物書きになるなんていうような無謀なことを口にしなくなるだろう、ということである。(説明が遅れましたが、ここで言う作家というのは、あくまでも職業作家のこと。要するに、文筆で飯が食える人のことです。飯が食えなくてもいいなら私だって作家かも知れない。同人誌作家という名称があるかどうか分からないけれど、少なくともその範疇に含まれても可笑しくないとは思っている)
だいたい三千冊も本を読んでくれば、それなりの歳になっているだろうし、それなりの分別も身に付いてしかるべきだろう。それは年のせいかも知れないし、読書体験のたまものかも知れないが、まあたいていそうなるような気がする。と同時に、かつて輝いていたはずの夢も、いつのまにか色褪せているはず。
本を読むことの効用の第一は、やはり知るということだろう。知ることはむろん大事なことだけれども、知らなかった方が良いことだって場合によってはあるに違いない。知れば知るほど、我が身のつまらなさを思い知らされるのが、世の常というものかも知れないではないか。
三千冊読んでいくうちに、作家になれるかどうか自分自身で分かってきますよ、というのがあの著名作家の真のメッセージだったのかも。いや、もしかすると、あんたは作家に憧れていてくれてるけれども、他人が思うほどの好い職業ではないことが、三千冊読む上で分かってくるでしょう、なんて案外思っていたかも知れない。どうもそのあたりじゃないだろうか?
なんだか最後は負け惜しみみたいになことになってしまった。二千冊ごときで偉そうなこと口にするな、なんて天国の著名作家が怒ってきそうだ。あしたから又がんばって、残りの千冊読破しようと思っている。その千冊で、何か別のものが新たに見えてくるかも知れないから。
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