一九六三年、すでに評論家として名をなしていた作者は、当時、烈しい戦場となっていた南ベトナムへ、新聞社から特派員として派遣される。そこで見た光景や体験により、評論では必ずしも自分の思いを十分には伝えられないという考えになり、帰国後、評論から小説へと大きく書くジャンルを変える。そうして、最初に書いた小説が「向う側」である。
内容は、ベトナムに派遣されていた前任者の男が、ある日、突然、向こう側へ行くと言って行方をくらまし、後任としてやってきた主人公が、彼の行方を追うというものである。作者・日野が、ベトナムで体験した感覚なり人生観なりを色濃く反映させた作品である。
その後、同じくベトナムを素材にした実験小説や、少年時代の朝鮮での体験、青年時代の離婚や恋愛体験、日常での亀裂をもとにした作品を書いた後、これから論じようとする「抱擁」が書かれる。「向う側」が書かれたのは一九六六年で、「抱擁」が書かれたのは一九八一年だから、その間、実に一五年という歳月が流れている。
ところが、この「抱擁」は小説「向う側」と直結している。霧子という「抱擁」の副主人公の父親は、外交官として赴任していた先の南ベトナムで七年ほど前に「向う側」へ行くという言葉を残して失踪し、その後、ようとして行方がわからない。小説「向う側」では、失踪した男の職業は新聞社の特派員だが、「抱擁」では外交官となっていて少し違うのだが、それ以外はまったく同じである。
つまり、小説「向う側」に書かれている消えた男の、日本に残された子供が、小説「抱擁」の副主人公・霧子であり、また、霧子は祖父といっしょに暮らしているのだが、その祖父は消えた男の父親ということになる。しかも霧子は祖父とともにベトナムへ父を探しに行き、今もなお、消えた父や「向う側」に強い関心を抱いている。「抱擁」の主人公「私」はそういう霧子を通して、間接的ながら、消えた男や、「向う側」を追求することになる。これはまさに小説「向う側」と同じテーマである。
小説「向う側」は原稿用紙五十枚弱の短編であったものが「抱擁」では原稿用紙四百六十枚ほどの長編として書かれている。追求する課題に共通するものを持ちながら、同時に、設定も手法も中身もずいぶんと異なり、豊富になり深くなり複雑になり緻密になっている。「向う側」では必ずしも十分に追求し切れなかった課題をここではいっそう深くとらえようとしたものと思われる。そのあたりのところをできるだけ的確に解き明かしていきたいと思う。
そこでまず手始めとして、この作品の特色の一つでもある「洋館」という場所について考えてみることにする。
「抱擁」の中で繰り広げられる様々なドラマや思考は、ほとんどが東京と思われる街の一角にある「洋館」の中で行われる。
小説「向う側」では主人公の活動する場所は南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン市)であり、人々の思いや事件を生み出したのはこの特殊な「街」であったのだが、「抱擁」の「洋館」もまた単なる場所や背景ではなく、「抱擁」の世界を生み出した原点となっている。
洋館については、作者の現実生活においても、かなりの思い入れがあったようで、洋館についてのエッセイが何編か書かれている。「抱擁」が書かれる以前に書かれたエッセイ「家―洋館」(1978、『迷路の王国』集英社、所収)では、過去の体験の中で濃厚に残っている家を思い出している。その中でも最も印象深いものが洋館である。しかもそれはどこかに建っていたとか、いつか見たといった具体的な建物ではなく、思い出そうとしてもいないのに、ふっと心の中に現れてくるようなものである。ハイカラなようでどこか陰気な、懐かしいようで何か不気味な、戦前によく見かけた建物であり、思い出すごとに、そこが私の生まれてきたところで、あの家を取りのけたら、この世に生まれてくるための黒い穴がぽっかりとあいていて、自分の首を縊るような、意識して狂うような出来事がそのなかで秘かに起こるにふさわしいものだ、と考えている。 また「抱擁」を日野自ら解説している「内なる洋館」(1987「青春と読書1月号」)では、意識の底に残っている濃い情感のあるイメージとして洋館があると述べている。さらには、洋館には実際に住んだことも近くにあったこともないのになぜそう感じるかと言えば、たぶん「急に遠くなり消えてゆく戦前の東京、昭和初年の華やかさへの追憶の念が、洋館というイメージに凝縮されたのだろう。さらに敗戦で引き揚げてきた翌年焼跡の東京に出てきて、記憶の中の華やかな東京がなくなっていた悲しみが子供心の幻影をいっそう強めた」故であろうとも考えている。
洋館とは、日野も言うように、明治、大正、昭和初期の、ほとんどが日本的な建物の中で、西洋から輸入された新しい形式の建物として珍しがられ、「洋館」などという特殊な名前で呼ばれた当時の建物を指す。したがって、そう呼ばれた時代のみに存在する建物である。
日野は洋館を「戦前の東京、昭和初年の華やかさへの追憶の念が、洋館というイメージに凝縮」されたものとしてとらえているが、昭和初期というのは、日本近代化の創成期であり、その華やかな象徴として「洋館」は存在していた。したがって、洋館の底には近代化と関わった人々の様々なドラマ、近代の本質や混沌さが隠されているであろう。
日野は、生まれたのは東京だが、幼くして朝鮮に渡り、戦後、故郷を追われるようにして日本に帰ってきた。またその後、東京のあちこちを転々として暮らしている。いわば、彼には伝統的な日本と繋がるようなものは少ない。そういう意味でも彼は洋館にシンパシーを感じるのは当然かもしれない。
ただ、ここで注目しなければならないのは、「洋館」は過去を持つが、古来からの日本的伝統に繋がるようなものではないということである。これは洋館の特性である。
私は、もしこの作品の場所を「日本家屋の古屋敷」に変えてみたらどうだろうかと考えてみた。当然、まったくイメージとはあわない。
「日本家屋の古屋敷」とし、それを追求すれば必ず日本の土俗的な古層と繋がっていく。だが、それは作者の本意ではない。洋館とは近代の産物であり、洋館の根底には近代の根底があるが、それ以上はない。日野の追求したかったのは、土俗的な古層へと繋がっていく内面なのではなく、すでにそういうものとは縁の切れた「近・現代人」の内面なのである。
といって、一方、これを「新築された高層マンションの一室」、あるいは「新築された現代風の一戸建て」としてもまただめである。そこには歴史的厚みも神秘性もない。やはり、近代化の歴史を背負い、すでに孤立化し、朽ちかけている洋館でなければならないであろう。
さて、以上のような基本的な特質を持つ洋館だが、具体的には、主人公が街の一角にある「とある洋館」に見とれているところから話が始まる。それを荒尾という、不動産会社に勤め、「洋館」を転売しようとして、「洋館」の持ち主である老人とコンタクトをとっている男が偶然に見つけ、声をかけてくる。
荒尾は、主人公が「洋館」に異常な関心を持っていることを見抜き、彼を紹介することで、いっそう老人と親しくなれるとでも思ったようで、彼を「洋館」の住人と会わせようとする。翌日、「洋館」でパーティーが開かれるのであるが、荒尾がそれに自分といっしょに出席しようと誘う。「洋館」の魅力にとりつかれた主人公は、見も知らない荒尾の誘いに乗り、彼の友人ということで、「洋館」の内部へと入っていく。
主人公の「洋館」に対する感慨は最初からほとんど変わらない。「洋館」を最初に見たところですでに次のように述べている。
午後の明るさなど全く無関心のような冷然とした暗さ、一種陰々とした威厳に、強
くひきつけられた。まわりのマンションと木の陰になっているためでなく、建物自
体が濃い瘴気を滲み出し続けているようにさえ感じられた。
また、荒尾に誘われて、喫茶店に入り、彼と話し合っているうちに、ふと、建物の中を想像するのだが、そこでは次のように述べられている。
男の言葉に誘われて、深い森の気配、濃くこもった薄暗がりの中に並ぶ古い木の根
元がぼんやりと見えた。すっと幹が地面に立っているのではなく、曲がりくねった
根が重なり合って地面から盛りあがり、あるいは半ば地面に埋まりながらうねって
いる。その向こうで、蔦に覆われた煉瓦の壁が音もなくゆるんでゆく。鉄筋が蔦の
蔓の吸盤から分泌する液で、じわじわと溶け続ける。
このようなイメージは実際に「洋館」に入ってからも強まりこそすれ、変わることはない。そこは日常空間とは違った異空間であり、一種異様な、何か恐ろしいものが秘められ、様々なものが秩序づけられずに混沌とし、狂気や神秘が支配しているような空間である。
まさに、日野の言う「意識の底に残っている濃い情感」にあふれ、「この世に生まれてくるための黒い穴がぽっかりとあいていて、自分の首を縊るような、意識して狂うような出来事がそのなかで秘かに起こるにふさわしい」感じのするところである。
そうして、そんな「洋館」には、そこにふさわしいような少し変わった人物が住んでいる。少女・霧子、霧子の祖父・老人、少女の継母・たか子、家政婦・小田さんの四人である。その中でも特に重要な人物は少女・霧子である。
少女・霧子の外観は次のように示される。
「背が高い。細い鎖骨がはっきりと見えるほど瘠せていた。胸が薄く顎がとがって、顔が透き通るように青白いのに、目だけ黒く光って大きい。その両目をいっぱいに見開いて、じっと私を見つめている」「背丈から十七、八歳、たぶんもっと下だろう。硬い体の線、薄い胸、ひどく幼い表情と動作はやはり少女のそれだ」「こんな深い悲しみを湛えた目を見たことがないと思った。少女の傷つき易い魂が傷つききって、両目に露出しているようだった」
薄幸の少女のイメージである。純粋、無垢な魂が、何の防御もなく、最も過酷な現実に出会い、深い傷を負ってしまったといった少女像である。この少女像は、大正、昭和初期にさかんに読まれた少女小説の挿絵によく似ているように思えてならない。
『少女民俗学』(光文社文庫)の大塚英志によれば、近代以前には少女のイメージはなかったと言う。あるのは子供と大人しかなかった。女性は初潮によって、一人前の子供の産める女として認められ、家を担う労働力の一員と見なされた。少女などという中間的なイメージはない。
少女という初潮前後から、結婚までのある時期を表すイメージが登場してくるのは近代以後である。
そう考えると洋館と少女とはペアーである。少女が最も似合うのは洋館であり、洋館が最も似合うのは少女である。少女もまた、近、現代を背負う典型的な人物である。しかも、前述した容貌のように、少女・霧子は、今風の娘ではなく、近・現代の歴史を背負った、「洋館」の住人にふさわしい少女である。
少女・霧子の特徴を大きくまとめれば次の三つである。一つは、現世での過酷な人間の条件を背負い、また、純粋、無垢な故に、他人の不幸をも自分のことのように感じとってしまう感性の持ち主である。一つは、父の影響もあって、それを超え出ようとする。一つは憑依的体験により「向う側」を体感している。
日野は小説「向う側」で、失踪した男が書き残したメモの言葉として「人間の条件」という言葉を使っている。人間の条件とは、社会的、歴史的運命に翻弄されることを意味する。
人間はすべて「人間の条件」に支配されている。特に過酷な条件に晒されればそのことを強く意識し、それからの自由を強く希求するようになる。小説「向う側」の副主人公である失踪した男は「ベトナム戦争」という最も過酷な人間の条件に晒され、そこからの脱出を求めて「向う側」へ行ってしまった。
この「抱擁」の少女にしても、幼いとき母を失い、父はベトナムで失踪し、その後は継母によって育てられるという過酷な人間の条件に支配されている。
また、父を探しにベトナムに行き、戦場という近・現代が抱える最も過酷な条件を見聞している。
加えて、少女・霧子はきわめて純粋無垢なため、他者の不幸をも自分の不幸の如く感じていっそう重い人間の条件を背負ってしまう。例えば、ベトナムに行ったとき、戦争が烈しくなればなるほど、川のカニがおいしくなる、それは死体がたくさん投げ込まれるからだと聞かされる。それ以後、霧子は、カニはもとより、エビも魚も動物の肉さえも一切口にできなくなる。
さらに、失踪してしまった父を持っていることも霧子に大きな影響を与えている。そこから逃れようとした先駆者を身近に持っているということである。父の影響により強く「向う側」を希求するようになっている。
さらに、霧子が「向う側」を見てしまうのだが、それは一種の憑依状態とも考えられる。しかもそれは単なる比喩的ではなく、実際、それに近い状態が描かれている。例えば次のように。
「寒い、寒い」と繰り返しているのだ。「氷河がくるのよ。地球が冷えるのよ。― 後略」両手で目を覆ってベッドに俯伏せに倒れ込む。(傍線は奥野記)
憑依の内容については後ほど詳しく述べるとして、「洋館」との関連について一言だけ言っておくと、一般的な憑依者の内容は、普通、きわめて日本的、土俗的な内容である。しかし、霧子のそれは土俗的なものはほとんど感じさせない。ここにも「洋館」的特長が出ている。
ところで、このような神秘的な世界を感じてしまい、それとの交信可能、またはその世界を人に告げる存在は「巫女」と言われている。少女・霧子はまさに巫女である。
ただ、憑依現象を研究している川村邦光(『憑依の視座』青弓社)によれば、憑依者(巫女)は、彼女を憑依者(巫女)と認める人がいて初めて憑依者(巫女)となるとされる。もしそういう人がいなければ、ただの精神錯乱者か異常者でしかない。
彼女を憑依者、巫女と認めたのは主人公である。したがって、主人公によって霧子は巫女化されたと言ってもいい。霧子は主人公に対し巫女として振る舞い、主人公は彼女を巫女として認めていく。
ところで、「抱擁」の世界には、現実を超た世界を認識しているもう一人の人物がいる。それは霧子の祖父の「老人」である。
荒尾によれば、彼は以前は社会の中でかなりあくどいこともやり、成功者として多くの金品を得ている。言わば俗人である。ところが六十歳になったときそれをぷっつりとやめ、「向う側」を感じさせてくれるような場所を探し求めて世界中を旅する。これは作者・日野を思わせる。日野はそのようなところを数多く訪れ、そこでの経験を題材にした作品を数多く書いている。
あるいはこれはまた、悟りを求めて各地を行脚をする修行僧にも似ている。それは次のような老人の容貌にも表れている。
老人は片手を手すりについたまま、黙って一段ずつ、階段を降りてきた。その足
どりは心もとないが、背が高く腹も出ていなければ腰も曲がっていない。顔は濃い
しわとしみでミイラを連想させたが、深く落ちくぼんだ眼窩の奥の両眼は鋭く光っ
て、射すくめられるようだ。
老人が問い詰め、闘ってきたのは「死」の問題である。それは「何の容赦もない、無慈悲きわまる現実であって、どんな幻影も幻想もあり得ない。―中略―考えただけで、頭がおかしくなりかける」ような問題である。それをどうとらえ、どう受け入れたらいいのかを考えつづけている。
そしてついにある夜、一種の啓示を受ける。
「ある夏のことだ。わしはひとりで庭の林の中を歩いていた。何がこんなにわしを
いつまでも駆りたてるのか、こうやってあがきまわっていったいわしは何を得たの
か、と沈んだ気分で、首を垂れてうろつきまわっていた。そのとき空で稲妻が光っ
た。とてもはげしい稲妻だった。あたりが一瞬その光に照らし出された。本当に一
瞬のことだったが、その瞬間わしは一時にまわりのすべてが、樹の皮のすじから葉
の一枚一枚、下草の小さな白い花、彫像の衣服の襞まで、青白い光に照らし出され
るのを見た。―中略―/その瞬間、わしはわかった。わしはわしの中を訪ねまわっ
たのだし、もともとわしの中にあるものの影を集めたのだし、聞いたり読んだりし
て心をはかれたすべての言葉も、思い出したに過ぎないということが。目に見える
限りのそのまた向こうに、形にならない、言葉にならないものが、ひしめきあって
うごめいている。だんだんそれが見えてくるのだ」
「すべてがわしの中にある、とは言えまい。だが生命の長い長い歴史を、わしはわ
しの中に感じる。水槽の隅にじっとひそんでいる鈍重な肺魚も、剥製のハゲワシも、
隠花植物も、シベリヤの奥の薄汚いシャーマンも、わしだ。わしはどこにもいたし、
どんなところも生きてきた」
「死」の問題を問い続けてきた結果、大生命とも言うべきものを発見し、その中に自分を位置づけた瞬間である。宗教的な悟りといってもいい。
このような形で到達した老人の「向う側」は実に明るい。以下は夢という形で示されている老人の「向う側」である。
いまも実にいい気分を味わっていた。至福といっていいような気分だ。洞窟寺院の
ようなところをわしは進んでいた。まわりの岩のくぼみのひとつに一個ずつ油の入
った小皿が置いてあって、それが燃えている。ずい分長い間歩き続けた気がするが、
一番奥が祭壇になっていて、ひときわ明るく火が燃えていた。その焔で祭壇の背後
の岩に彫られた大きな浮き彫りが、たえまなくゆらめいている。男神と女神が交わ
っているらしい。誰に教えられたのでもないのに、ここで万物が産み出されている
のだ、とすぐにわかった。岩の壁が生きているようだった。実になまめかしくうご
めいているのだ。いつのまにか洞窟のなか一杯に人たちが跪いていた。人間だけじ
ゃなかった。いろんな獸や小さな動物、鳥や蛇まで集まっていた。魚まで宙を泳い
でいたな。その全部が祭壇に向かって礼拝し祝福しているんだ。よく見ると、岩の
神は人間の形じゃなかった。口では言えん。あらゆる形を越えて奇怪なのだが、け
っして醜悪ではない。その反対だ。あんなに神々しい形を見たことはない。異様で
神々しいんだ。
さらには老人は、各地を行脚する中で「飛天」のイメージを発見する。「飛天」とはインド・エローラの石窟寺院の壁に描かれている空中を飛ぶ天女像のことだが、老人がそれに出会ったときは、もう体が震えて止まなかったようである。「空を行くあの優雅な自由。あの浮彫に匹敵する像を、わしは世界じゅうのどこにも見なかった。―中略―わしが八十年かかって、この回の生涯(老人は輪廻転生を信じているので―奥野記)で得た最高のイメージだ」とさえ言わせている。
このレプリカが玄関の扉に彫りつけてあるのだが、それを見て主人公もまた、老人と同じように感動し、霧子のイメージの核となるほど深く心に刻み付ける。
少女はただ芝生の上を歩き回っているだけなのに、まるで舞っているような自然で
はなやかな身のこなしだった。顔を空に上げると、長い髪がゆれる。足首までの長
く白い衣装がひるがえる。胸もとにひらひらと飾りのついたネグリジェに似た薄地
の衣裳。あれはパーティーの部屋で出会った少女が着ていたのとそっくりではない
か。(パーティーが終わった後、庭に出たときにふと見えた霧子の姿)
このように、老人の描く「向う側」は明るく、救われたものである。一種の涅槃のようなものである。また老人は誰に対してもやさしい。特に霧子に対しては、彼女の苦悩を深く理解し、何とかよりよき方向へ成長してくれるよう温かく見守っている。
これに対し、少女・霧子が示す「向う側」はまったく正反対である。終末的風景、または死の世界と言ってもいい。
霧子が最初に「向う側」を見るのは、ベトナムへ父を探しに行った時、ベトナムの広い平野の中の白く乾いた一本の道を眺めたときである。それが次のように描かれている。
「みんな知らないんです。お父さんがどこに行ったのか。みんなはわかっていない
んです。母だっておじいさんだって。一緒にあれを見たのに」
「何を見たんだ」
「あの広い平野、頭の上からぎらぎら照りつける太陽、影もない光です。そこへ白
く乾いた一本の長い道が……」
「その真っ直ぐな道が……」
―中略―
「あそこは入り口です。あの道を通ってゆくんです」
「その向こうはどんなだろう」
―中略―
「からっぽで明るいだけなんです。影もありません。何ひとつ動くもの暖かいもの
もありません。すべてが光にさらされて剥き出しです。氷りついています。いえ、
一分の狂いも隙もない鉱物の結晶です。息づまるように静かです。いまにも何か恐
ろしいことが起こりそうで、何ひとつ起こらない。ガラスの中に封じ込められてい
ます。街は精密な模型で、人間はみなマネキンです。空気も固まっています。水も
流れません」
これは霧子が示す「向う側」である。だが、この最後のところが、部屋から一歩も出られなくなり、引きこもりに陥っている人たちの様態となんとよく似ていることか。もし、そうなら、霧子の向こう側は現在の究極の状況、隠されていた近代の様態と言ってもいい。
このように「抱擁」には、二つの「向う側」が示されている。一つは救いの場所、涅槃の場所のような、一つは混沌の場所、狂気の場所のような。併せて、それに到る違った方法をも示される。一つは行的な悟りの方法。一つは自然に生じる憑依的な方法。
しかし、これらは対立するものではない。むしろ同一線上にあるものと見なされている。前述したように老人は霧子を温かく包み込み、彼女の苦悩を理解し、共感し、支え、救おうとしている。つまり、霧子の「向う側」をも内包した形で、そこを突き抜けた形のものとして存在している。霧子の「向う側」を知れば知るほど、霧子や主人公はそれとは違った「向う側」を必要とし、それを求めるようになる。
さて、「洋館」の中に深く入り込んだ主人公は、今述べたような世界と出会い、さまざまな問題を抱え込むことになる。
彼は、いったいそこで何を感じ、どう対処しようとしたのか。今度は主人公の様態を考えてみることにする。
主人公は、三十歳を少し過ぎたばかりの、一流民間企業に勤めているサラリーマンで、大がかりなプロジェクトの一員として働いている。かなり有能なようで、会社でも認められているようだ。
しかし、そのような状況にある自分にけっして満足していない。どこかに不満を持っている。まさに、現在の典型的な一市民と言ってもいい。そういうことが、彼が最初に参加したパーティーの男たちの様態として次のように示される。
思いがけない渦に巻きこまれたように、こんな屋敷に魅せられて、異様な実感さえ
覚えている。それぞれの分野で立派に現在に適応しているらしいこの男たちだって、
何かが足らないから、あるいは内部から駆りたてるものがあるから、こうして黒い
林の中の奥の館に集まって、話を交わしているのだろう。
さて、多くの主人公がそうであるように、彼もまた、最初は中途半端な二面性を持った人物として現れる。
まず、会社勤めをしながら、一方で「洋館」に住み着き、霧子の家庭教師を引き受けるといった状況的にも引き裂かれている。
さらに内的にも、現実を超えるものに引かれながら、同時に、俗的な欲望をも持っている。前者を聖、後者を俗と考えれば、聖と俗に引き裂かれている。
しかもそれは次の二側面においてである。一つは「洋館」の内部において、一つは「洋館」と「洋館の外」との関係において。
「洋館」の内においては、俗への志向が強い継母・たか子を重視するか、現実を超えるものにとりつかれている少女・霧子を重視するかといった問題を突きつけられる。当然、たか子と霧子は対立している。たか子はさかんに肉体的魅力によって主人公を篭絡しようとし、一時はその魅力に惑わされ、性的関係を結んでしまう。しかし、霧子にも心が引かれ、たか子と霧子の狭間で心が揺れる。結局、霧子を選択する。
「洋館」と「洋館の外」との関係では、「洋館」を支配する非日常性と会社を支配する日常性との葛藤である。
これ以上近づけば、私自身がとめどもなくひび割れてゆきそうな気もする。社会に
出てから懸命につくりあげてきた生活―社会とマンションの部屋の間を往復するだ
けの生活にすぎないとしても、その仕組みがゆすられる。生活というものは、自然
に在るものではなく、ひとつひとつを取り出せば不安定きわまる意味、習慣、観念、
了解事項、約束事などで、辛うじて組みあげられた脆い構成物にすぎないのだ。枠
が消える。物がばらばらになる。むき出しになる。宇宙にさらされる。
さらにまた、次のようなところもある。
はっと自分自身を眺め返すような気持ちになることが、会社でもしばしば起こるよ
うになった。毎夜の睡眠不足から書類を間違えたり同僚や上役から呼ばれても気付
かなかったりして、嫌味や小言を言われることがめっきりふえたのは、意外に何と
もなかった。逆に時折、自分でも意識しないうちに仕事のリズムに乗って、思いが
けなく早く面倒な仕事が片付いたり、企画会議でいいアイディアを述べたり、意外
なところから調査の結果を評価されたりしたとき、自分からもうひとりの自分がす
っとずれてゆくような、あられもない方角にふらふらと漂い出てゆくもうひとりの
自分の影薄い背中をありありと見るような気持ちに襲われる。
前者は非日常的なものへ向かおうとしている自分への恐怖感、後者は逆に日常的なものへ向かおうとしている自分への恐怖感である。この葛藤は、荒尾がさかんに日常に帰ることを勧めるという形で、最後までつづくが、結局、よりいっそう非日常的世界へと近づいていく。
しかし、これらはまだ最重要課題ではない。最重要課題は次のようなことである。
以前私は、霧子の特質として次のようなことを述べた。「神秘的な世界を感じてしまい、それとの交信可能で、またその世界を常人に告げる存在は『巫女』と考えていい。少女・霧子はまさに巫女的存在である」と。
また、これを動的に見れば、霧子の見た「向う側」が暴かれ、霧子が徐々に憑依者、巫女として認識され、一方、主人公のほうは、彼女との一体化を望み、ますます信奉者となっていく。
これはむしろ、主人公が徐々に霧子を巫女化していった、ととらえたほうがいい。つまり霧子を巫女化すること、これが彼の最大の課題である。
前述したように、巫女とは、単に憑依者が異常なことを口走るだけではだめであって、それを巫女として認めるものがいて初めて巫女として成立する。さらには、そういう人間がいることによって、憑依がよりいそう促進され、完全な巫女となっていく。
川村は民俗学者・柳田国男の考えを支持して、こんなことも言っている「神姥」だから霊力があるのではなく、信じる者が「神秘なる意義」を付与することによって「霊力」が成立し、「神姥」が生み出される。
しかもこの小説は主人公の目を通してのみ描かれているのであるから、少女に「向う側」を告げさせ、巫女化していったのは主人公自身であると考えられる。では、いったいどのようにして霧子を巫女にしていったのか。
同じく前掲の川村によれば、巫女の第一条件は、まず、巫女が幼いとき、人間的不幸を経験しているということ、としている。これに従えば、少女が巫女化される最初は、少女の人間的不幸の露呈ないし認識から始まると言うことである。
主人公が最初に少女の不幸な生い立ちを知るのは、パーティーの終わった翌日、会社に訪ねてきた荒尾の口からである。それはおおよそ次のようなことである。
少女の母親は彼女が生まれてすぐに死んだことになっている。(実は「洋館」から去った)したがって、今の母親は継母であること。父親も、戦争の一番烈しかった頃、外交官として単身赴任していたベトナムで不意にいなくなっている。少女には隠していたのだが、それを知って、どうしても父を探しに行くといって、何日も泣き続けたこと。家族で父を探しに行くが、見つからず、そこから帰ってきて霧子の性格がおかしくなったこと。
また、老人から夕食に誘われたとき、今度は、老人の口から、少女がベトナムで食事をしたときの例のカニの話を聞かされる。
これらを知ったとき、主人公は、いっしょに食事をしている少女を見て初めて「透明な霊気の層のようなものがその華奢な体のまわりを、静かに包んでいる」と感じ始める。これは紛れもなく少女を巫女化し始めた証左である。
次に、憑依者が憑依するきっかけは、近親者が危機に陥る体験をすることである。それがきっかけとなって、神憑き、口開きが生じる。
主人公の前で最初にこれが生じるのは、主人公と少女がかなり親しくなり、少女に誘われて、主人公が彼女の栖としている屋根裏部屋に招き入れられたときである。そのときのことを少し長くなるが引用してみる。
「窓を見て」
と急に少女が叫んだ。後ろを振り返ると、夕日 の光がちょうどガラスに当たり始めていた。紅に 金を混ぜた強烈な色彩が、広い窓ガラスの端から、 みるまにひろがって、やがてガラス一面が深紅に 染まった。そしてステインドグラスをとおしたよ うに、赤く黄色くかすかに黒色を含んだ色彩が、 天井から床、ベッド、私たちまで染め上げた。
「これを見せたかったの」
それは豪華でそして深い憂愁を秘めた色と光だった。部屋の内部の貧しさなど忘
れて、私は驚き感動した。彼女も大きな目をさらに見開いて、見つめている。その
目の中まで紅に染まって、眸がキラキラと輝いた。いつもは彼女の内側に押し隠さ
れている光が一挙に燃え出したように。深紅のきらめきの中で、少女と部屋と空が
一体となって輝いた。
「あの道を父は歩いて行った、と案内の人が教えてくれたの。それから先は敵側で
行けないの。私たちはただその場所に立って眺めているしかなかった。すると夕日
が、いままで見たこともないひどく大きくて真っ赤な日がちょうど道の向こうに沈
み始めたの。その時霧子はわかったのよ。この道の向こうには何かがある、口では
言えないような何かがあって、お父さんはそこへ行ったのだってことが」
全く別人のように生き生きと弾んだ声で彼女は、恍惚としゃべった。
腕の前で組んだ両手が震えていた。
「霧子はいまこわくない、もっとこわくないわ」
だが夕日の光はほんの数えるほどの間だけで、すっと見えない巨大な黒い手がか
き消したように、窓から消えた。部屋も元に戻った。そして少女の目の中からも消
えた。
細い体が小刻みに震い始めた。体の両側に垂らした両腕、両眼が硬直するように
突っ張っている。いまにも発作を起こしそうだった。私ははっとして我にかえった。
パーティーの部屋で初めて顔を合わせたときと同じような症状だった。あのときは
家政婦が駆けつけてくれたけれど、いまこの屋根裏部屋に誰も来てくれない。見て
はならないものを見せつけられるような強い不安を覚えた。
血の気のなくなった少女が震えている。
「寒い、寒い、寒い」と繰り返しているのだった。
「氷河が来るのよ。地球が冷えるのよ。霧子は氷の柱になる。何も彼も凍っている。
氷の針が飛んでくる」
両手で目を覆ってベッドに俯伏せに倒れ込む。
これは、明らかに憑依的状態に近い。確かに今何も近親者に危機が訪れているわけではない。これは少女のベトナムで生じた憑依的体験の再現である。夕日を見て、その時に生じたことをもう一度ここで体験しているのだ。
しかし、ベトナムでは父が失踪した場所が示され、加えて、戦場という過酷な状況を知らされている。少女にとっての大きな危機がおとずれている。それを今現実のごとく思い出して、憑依が始まる。
さらに、ここで、憑依してきた世界を主人公に語っている。これは「口開き」と言っていい。自分に降りてきた世界を他者に語るという。
一方、主人公の方はこの少女の話を真剣に聞いている。明らかに巫女の託宣を聞く信奉者の状態に近い。
さらにその後も、少女は主人公の前で何度か託宣を行う。例えば、次のように。
夜が深まると風が急に強まってきた。吹きさらされた蔦の残り葉が、窓ガラスに
ぶつかって鳴った。真四角な建物の角をかすめ過ぎる風は、ひょうひょうとうなり
をあげた。
「庭の木が悲鳴をあげて叫んでいるわ」霧子が言った。
「このくらいの風で木は倒れはしないよ」
「わたしの代わりにさけんでいるのよ」
「何て叫んでいるんだ」
「恐ろしいことが来る。これは警告だって」
「どんな?」
「言えないわ。言えないわ」
膝を抱えていた両手をしっかりと両耳にあてて、霧子は震えながらそう繰り返し
た。
風はひとしきり荒れてから、途絶えた。
「これは向こう側からの警告なのよ」
風の合間にふっと霧子が呟いた。
「何だって?」
私は驚いて聞き返した。
「そう、本当は言ってはいけないの」
このように巫女化はますます完成に近づき、やがて、完成場面がおとずれる。
それは霧子の予言どおり、恐ろしいこと、つまり老人の死が突然やってきたときに生じる。
老人の死は、霧子にとっての最大の危機、つまり彼女を支えてくれるすべての肉親を失うことである。霧子はひとりで荒野に立たされることになる。(しかし、それだけではない。それは「洋館」にとっても最大の危機である。老人が死ねば「洋館」が人手に渡り、やがては取り壊されるであろう。)
このとき少女に再び憑依が訪れる。それは以前よりも増して強烈である。
霧子は誰が説得しても老人の葬儀には出ず、壊れた物が散乱している地下室に閉じこもっている。幾晩も寝ない。食事もとらない。ひどく瘠せ、顔や手の肌は青白くなり、目だけがますます大きくなる。
そんな霧子に会うため主人公は地下室へと降りていく。
散乱する破片をよけもしないで、私は霧子の前に大股に歩いていった。近づく私
に向かって、彼女は一度おろした両手をまた真直に突き出した。すっかり小さく青
白くなったその顔に、目だけが不釣合いに大きい。血の気の薄い唇が震えたかと思
うと、細くかすれた声になった。
「これが、これが向こう側よ」
久し振りに聞く霧子の声だった。
「いろいろなものが、全部、霧子をにらんでいる。ちがう、馬鹿にして笑っている。
声を出して笑ってる」
「こうもり傘が笑っているか」
「笑っている」
「トタン板が笑っているか」
「薄笑ってるわ」
「…………」
「壁の模様もクモの巣も瀬戸物のかけらもよ。部屋じゅうのものが、みんな皮肉に
意地悪く、霧子を憎んでいる。この部屋だけじゃない。世界じゅうがぎらぎら光る
荒地。誰もいなくなった都。倒れた石の柱だけがごろごろ転がっている。その上で
月が笑っている。冷たく笑ってる」
うわごとのようにそう言いながら、目の色が怯えから恐怖に変わった。
―中略―
………、十六歳の少女の顔が、老女の、それもこの世のものならぬ老狂女の、ぞっ
とする声で笑った。
「ここがもう向こう側なんだ。みんな内臓がとび出してるじゃないか鉄の骸骨がひ
ん曲がってる。首が転がってるよ。引き抜かれた首が笑ってるよ。ほら、あんなか
わいい顔をして、べったり白粉を塗って、小さな口に口紅までつけて。口紅じゃな
い。あれは血よ。仔猫を頭から食べちゃったんだ。ちゃんと見てたんだから。あの
黒い箱の中では死体が腐りかかっているよ」
この痩せ細った少女のどこからこんな生気が出てくるのか、その力が怖ろしい。
永遠に年をとらない、永遠に死なない黒々と不気味な生気が、この世の裂け目から
噴き出している。子供の頃から心の奥でずっと怯え続けてきたものだ。だが、それ
がいま、不気味なままに身近だ。怖ろしいが親しい。薄笑いを浮かべている自分に
気付く。もうほんの少し顔を近づければ、顔の皮膚はカサカサなのに、妙にぬらつ
いて見える小さな唇がある。両手を伸ばせば細い頸すじも、誘うように震えている。
霧子自身が私の中の黒々としたものを誘っている。何でもすることができる。何も
禁じられてはいない……
霧子の向こう側への接近、向こう側への憑依が訪れている。一方、主人公はそういう世界が自分の中にも「子供の頃から」ずっと「心の奥」にあり続けていたことに気付き、それは「身近」で「親しい」世界であることを発見する。霧子の憑依によって暴き出される終末的世界は、彼女を通じて主人公の心にのりうつり、彼女と一体化していく。かくして、主人公による少女の巫女化が完成する。
ところで、主人公が、なぜかくもまたすんなりと霧子の世界を受け入れたのだろうか。「子供の頃から」このような感覚なり風景が潜在的に心の奥深くにあったというのだが、どうしてそれがあったのか。いや、主人公だけではない。この私までもなぜこのような終末的世界を、あるいは巫女化さえもやすやすと納得して受け入れてしまうのか?
巫女を必要とし、託宣を求める心性については、柳田国男を初めとして多くの民俗学者が一致して述べているのは、農産物の生産に携わっていた昔の人たちにとって、その豊凶は風雨寒温など人力以上のものが支配し、これと言って智術のなかった彼らにとっては、神に祈るほかなかったし、それらについては神があずかり知っておられるのだと容易に信じられたことを挙げている。ところが、農漁村の作業もほとんど機械化され、技術が進展し、神仏の加護など必要がなくなった。いや、農漁業のみならず、工業生産に携わる人さえ激減してきた今日、神仏などといったこの世を超えたものなど信じるに足りなくなり、巫女など、旧来の神話、宗教、儀礼が放棄されるにいたった。
しかし、科学がいかに進歩したからと言って、我々の不安がなくなったわけではない。人知を超える事象がなくなったわけではない。昔は、人々を襲うものといえば、自然の猛威であり、病原菌の猛威であった。それらは現在も存在するが、さらに新しく近代が産み出した猛威がある。戦争であり、自然破壊であり、原爆による人類破滅の危機である。
個人レベルで考えれば、自分の日常を支配する社会が巨大化し、圧倒的な力を持ち、個人のちからではどうすることもできないという無力感にさいなまれている。しかも、現代人は孤立している。自分を温かく加護してくれる人々はほとんどいない。さらには、昔は信じられた神や仏さえいなくなった。現代人は人間関係における横の関係においても、先祖や神や仏などといった縦の関係においても孤立している。全くのモナドである。
民俗学は昔の民間伝承、民間信仰、民俗芸能、儀礼などを研究することにより、我々とは何者なのか明らかにしようとした。普通の人々は、それらを伝承することにより、直感的に我々は何者かを感じとってきた。しかし、それらと切れてしまった我々は、我々とは何者かを感じることはできない。我々の上も下も横もすべて空白である。だからこそ、我々はその空白の中身を見たいと熱望している。我々は「向う側」に餓えているのだ。
さらにまた、具体的、個人的なレベルで考えても、川村は、憑依者は過去に不幸を背負っていると言っているが、我々は、多かれ少なかれ不幸を背負っている。霧子は父や母を失うという不幸を背負っているが、主人公も、彼の過去はほとんど描かれてはいないが、今、会社の中で、馬車馬のように働かされていることは容易に想像がつく。それに主人公は作者と等身大であり、彼は作者の過去を背負っていると仮定すれば、主人公は太平洋戦争を朝鮮で経験し、戦後の混乱期を生き延び、朝鮮戦争、ベトナム戦争を体験しているということになる。
読み手である私にしても、幼くして父を失い、戦中、子どもなりに、いつ頭上から爆弾が落ちてくるかわからないといった恐怖感を味わった。また、戦後の、食べるものもなく、住む家もないといた極貧の生活も送った。それなりの不幸は背負っている。平凡な我々にも憑依の条件は持ち合わせているのだ。
それに、霧子の口から言われる「向う側」は、けっして今の状況と切れたものでない。それはあくまでも現在そのもの、究極の現在といっていいものである。「世界じゅうがぎらぎら光る荒地。誰もいなくなった都。倒れた石の柱だけがごろごろ転がっている。その上で月が笑っている。冷たく笑っている」という霧子の向こう側はなんと現在の様態に似ていることか。
したがって、主人公や私が、霧子の向こう側をすんなりと受け入れたのは当然ではないか。霧子はまさに我々の感じていたものを与えてくれたと言っていい。
ところで、霧子が主人公とともに狂気的な「向う側」の憑依状態に陥った後、今後、いったいどうなるのだろうか。
川村によれば、本来の憑依者の場合、憑依が完成した後、巫業期として生活の場において神の道を実践することになるのだが、霧子や主人公の場合はどうだろうか。
現実には現在はまだ霧子は荒尾によって病院に入れられ、主人公は、夢から覚めたような状態にいるに過ぎない。したがって、未来の霧子や主人公については、主人公の願望や志向性という形でしか示されていない。例えば次のように。
「でもぼくは霧子にまともになってもらいたいんじゃないんだ」
「地下室の隅に蹲って、夜も眠らないで怯えきっているのがいいというのか」(荒
尾の言葉)
「そうじゃない。そうじゃなくて、まだうまく言えないんだが、あの娘は、前向き
におかしくなっているんだ。元に戻るんじゃなくて、前に抜け出て……」
―中略―
だが、本当にそうなのだ、他人とうまく談笑できるようになることより、もっと
重要なことがあるんだ、と私は霧子に呼びかける。ぼくたちはもう元に戻れない。
生まれ変わるしかないんだよ。
そうして、最後の場面では、壊された「洋館」の上を歩く少女の姿(これも前述した「飛天」のイメージの再現)として次のように描かれる。
輪切りにされた白い部分がごろごろと転がったその残骸の上を、軽やかに歩きま
わる少女の姿が見えた。透きとおる長い白衣の裾をひるがえしながら、少女は白い
頸を起こし、しなやかに手脚を動かして、宙を歩くように動いている。長い髪が肩
で踊る。引きしまったふくらはぎ、波を打つようにしなう指。本当にいまにも軽々
と空に舞い上がるようじゃないか。方舟が新しい約束の岸に着いたのだ。廃墟は舟
の残骸だ。怯えと物質の暗い重力の殻を破って、いま蛹が変身する。開かれた気分
が晴れやかに、あたりにみちている。
これらは、一言で言えば、霧子の復活である。さらには、その奥に、危機に陥っている現代の再生、人類の再生が込められている。かなり前の方ですでに主人公が「洋館」を現在の「方舟」と語っているのだが、それはこの最終場面を予測しての言葉である。
新しい霧子、新しい主人公の具体的な生きざまは今後の作品に待たざるをえないが、最後に問題になるのは、主人公や作者が何を根拠にしてこのような新しい霧子が再生できると考えているのかということである。
これについては直接には何ら書かれてはいないが、私は二つあると考えている。ひとつは霧子の特質の中に、もうひとつは霧子を超え出るものの中に。
霧子の再生について考えるための重要な個所は、老人の霧子観が示されるところである。老人は霧子について次のように言う。「『あの子は父親とはちがう。父親つまりわしの息子は気が小さくて、わしの影から逃げようとばかりした。―中略―実際の事情はどうであろうと、精神的にはあの事件は自殺だ、とわしは思っとる。―中略―ところが霧子は少しちがう。隔世遺伝かどうかしらんが、わしに似て強情だ。自我が強い。それだからひと以上に傷ついて苦しむ。苦しみながら、孤独の底を究めるだけの強さを持っている。あれが弱さのためだと思ったら間違いだ。』」それを受けるような形で、霧子自身が次のように言うところがある。「『行くものですか。お父さんは行ってしまったけど、霧子は行かない。お父さんの後姿が見える。だんだん小さくなる。来るなって声がするわ』」
霧子自身の中に現在の終末的現実を見極め尽くしてもけっして屈しない強い力の存在を主人公自身も認めている。そうしてその力が新しく生まれ変わる源泉となると考えたであろう。
もう一つは、そういう個人的なものを超えたもっと大きな生命力のようなものである。これについては、主人公は老人を通して教えられたし、主人公自身も感じている。
例えば、主人公は既視感について何度も言及するが、それは輪廻を感じていることでもあり、老人が世界中から集めた様々なものを見たときの感慨として「生命が実に様々な形態を試みてきた自由さ、あるいは考えられぬような形態まで生み出す生命自身の想像力の奔放さが不気味なほど感じられた」と言っている。
このように、生命自身の持っている底知れない力が、終末的な事象をも新しく蘇らせる力の源泉となりうると作者も主人公も信じている。むろん、この力が霧子の中にもあり、その力が新しい人間として彼女を蘇らせるであろう。
以上が私の「抱擁」についての読みであるが、最後にこの作品の現在的意義についてひとこと述べておくことにする。
作者・日野もそうだったが私もまた街の中であちこち住み家を変えて浮遊するように暮らしている。特に一年ほど前に今住んでいる新築のマンションに引っ越してきたのだが、衛星都市の一軒家に住んでいたときとの大きな違いを一つ感じた。それは隣に住んでいる人がいったい何者なのかと言うことが全くわからないことである。すでに一年以上経つのにそうである。隣がそうだから、さらにその隣となるとなおさらである。そこに住んでいる人の顔や家族構成さえわからない。衛星都市の一軒家ではそんなことはなかった。隣の人とは絶えず顔を合わせるし、どこからともなくあの人はどういう人かという情報は入ってきた。宅配便は預かってもらえるし、預かってもあげた。回覧板は毎日ほど届けられたし、届けた。
もちろんマンションではエレベーターでいっしょになる人はいる。何となく同じマンションの人だということはわかる。しかし、わかるのはそこまでだ。あとはまったく不明である。
私は何もそれに不満を言っているわけではない。ただ、これはすごいことだと思っているだけだ。つまり今目の前に在るものしか見えないということだ。その後ろに様々なことがあるということだけはわかっている。しかし、それはいっさい見えず、したがって、見えるのはほとんどのっぺらぼうな顔だけである。
これは何も人だけに限ったことではない。戦後、食べ物がなく、わずかな土地を見つけては野菜など栽培してそれを食べていた時代、もちろん料理は自分たちで作るのだから、食事をするときは、目の前の食べ物のあらゆるものが見えていた。どんな肥料を使い、いつごろからどのように育ち、いつ採ってきたのかといったことが。調味料は何で、どのように調理されたのかということも。ときには飼っていた鶏を絞め殺して「かしわ」として食べたのだが、そんなときは、昨日までこっこっといってないていた鶏の姿を思い出し、涙を流しながら食べた。しかし、今はどうだ。ほとんど目の前に在る物しか見えない。できあいのものを食べると、調味料さえわからなくなる。
さらには、住む家や土地を変わるということは、家や土地の記憶が消えるということである。土地の記憶を地霊と言うそうだが、それで言うと家霊というものがあってもいい。その地霊や家霊が身の回りからすっかりと消える。それが消えると、さらにその奥にある超現実世界などはまったくなくなってしまう。
また、親戚縁者、地域との接触もなくなり、超現実的世界との通路となっていた様々な儀式や習俗が喪失し、超現実を感じる感覚も通路も失われる。
現在、多くの人たちはそのような状態に置かれている。少なくとも私はそうだ。このような状態に置かれると、人々は見えないものを見たいと強く思うようになる。それらが見える感覚なり能力なりを持ちたいと強く願う。
見えないものを見ない限り何も見えない。本当のことは何もわからない。
見えないものを見たい、感じたい。しかし、それは昔のような状況を復活させることによってではない。歴史を後戻りさせることは不可能である。それは新しい形でしかできない。そして、それは、こののっぺりした現実を媒体にして、そこから出発するしかない。しかし、いかにして、この平面上の「点」のようでしかない世界から、立体的な世界を構築していけるのか。その感覚なり能力なりをいかにして磨き、手にしていけるのか。
この作品はそのような問題を私たちに突きつける。
見えていないものへの通路の喪失を自覚させ、それへの渇望を煽り立て、一定の方策を与えるのがこの作品である。
了
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