『鏡の国の幽霊たち』  阿井フミオ


 「何か変だなぁ」とは、思ったが、何が変なのかは、漠然としていて分からなかった。
 最初に目にしたとき感じたのは、ただ単に綺麗な脚だなぁという思いだけであった。
 というのも、今、私がいるのは、奈良行きの快速電車の中で、私はたぶん、前から三両目の車両の二つ目の扉の進行方向に向かって左側の一番端の席に座っている。車中は混んでおり、私の前には、若いアベックが、寄り添って立っている。その美しい脚は、電車が揺れた際に、彼氏の方のジーパンの間から、ときおり木洩れ陽のように垣間見ることができた。
 彼女は、私の正面、つまり右側の一番端の席に座っているのだが、脚以外には、タータンチェックのスカートの裾部分が、見えるだけだ。
 私が、その脚の存在に気づいたのは、生駒トンネルを抜けた間際だった。車内に差し込んだ陽光が、その脚を照らし出した。
 私は、ステレオイヤホンで、中島美嘉の「ベストアルバム」を聴きながら、村上春樹の「東京奇譚集」を読んでいたので、その時は、ほんの一瞬、「綺麗だな」と思っただけであった。
 中島美嘉が主演映画「NANA」のテーマ曲、「GLAMOROUS SKY」を歌い終わった。デジタルプレーヤが、自動停止する。電車が近鉄学園前駅に着き、乗客が降りたため、ほどほどの混み具合となった。車内空間に占める空白の比率が広まったせいか、その美脚が今まで以上に視界に入ってきた。その時、ふと、「何か変だなぁ」と思ったのだ。
 そうこうするうちに電車が、新たなホームに滑り込んだ。
 人々が争うようして下車しだした。その流れが途絶えかけたとき、眼前の女性が、おもむろに立ち上がった。真っ赤なダッフルコートを着ている。想像よりずっと若い。ティーンエージャーかもしれない、それも半ばあたりの。左手には、いつの間にか細身のアルミ製の松葉杖が、握られていた。娘はそれを左の腋下にあてがうと、優雅に移動した。まるで元々人間が、三本足であるかのように。
 彼女が降りたとたんにドアーが閉まった。
「義足なんだろうか」と思うのと、「乗り越した」と気づくのが、同時であった。
 私も西大寺駅で乗り換えをしなければいけなかったのだ。
 橿原神宮に行くには、西大寺で橿原線に乗り換えなければいけなかったのだ。

 現在、私が兼務している企画室のマーケチームでは、三年毎に初詣の動向調査を実施している。今年が該当年で、大晦日と三が日に伊勢神宮と橿原神宮で、アンケートを行っている。
 実行部隊は若手とアルバイトが中心で、私は出なくてもいいのだが、自身の初詣を兼ねて陣中見舞いをすることにしたのだ。
 そんな訳で別に急ぐ必要はなかった。電車が次の停車駅、新大宮に到着した。別件で確認したいこともあったので、そこで乗り換えることにした。
 この駅に降りるのが、二十数年振りであることに気がついた。通過するだけなら、数えることができないくらいあるのだが。今では駅前は開発が進みホテルやレンタカーやスイミングスクールなどが、乱立しているが、当時はもっと鄙びていた。南に十分ほど歩いたところに、資生堂の奈良営業所があった。会社のお中元で、花王の石鹸を贈ってしまった。「たまには他社製品を使ってみるのも勉強よ」、と偉そうに言っていた上司が、とんずらをしていまい、仕方なくひとり私は、手土産をもって謝り行く破目になった。ケーシー高峰にみたいな夏みかん顔の所長に、目いっぱい嫌味を言われたが、帰り際に綺麗なお姉さんからたくさんの化粧品のサンプルを貰った。「雨のち曇りときどき晴れ」的な思い出である。
 地下道をくぐり、難波方面行きの改札口に回り、そこにいた小太りの駅員に、「おかげ横丁に行きたいのですが」と尋ねたら、駅員は宇治山田までの経路を、想定どおりの説明をした。ご親切に近鉄ニュースの一月号までくれた。そこには特集で伊勢志摩が取り上げられ、年末年始の時刻表も載っていた。パーフェクト、マニュアルどおりの対応であった。

 寄り道をしたせいで、橿原神宮前駅に到着したのは、正午を半時間ほど過ぎてしまった。構内は初詣の人で混乱していた。アンケートを配布しているはずの改札前には誰もいなかった。十一時からはじめる予定であったが、この状況だから、予定の二千枚をすでに撒き終えてしまったのだろう。
 参道は二車線の車道をはさみ左右に歩道がある。神宮に向かい左側の歩道沿いだけに、露天や屋台が並んでいる。辺りには蛸焼き、お好み焼き、焼きソバ、イカ焼き、玉蜀黍、焼き鳥などの匂いが、たちこめている。お腹が減っていたが、先に神宮まで行くことにした。途中で誰かに会ったら一緒に昼食を取ろうと思ったのだ。スマートボール、パチンコ、お面、おもちゃ、射的、輪投げ、うなぎ吊り、ヨーヨー吊り、スパーボールすくい、カレンダー売り、リンゴ飴、くじ引き、わた菓子、ポップコーン……それらの店が一キロ余りに亘り連続模様のように隈無く続いていた。その間を、人々は談笑しながらゆっくりと歩いていた。
 
 参拝を済ませたが、結局誰にも出会えなかった。まだ境内のどこかにいるのかもしれないが、人が多すぎて偶然が重さならない限り、この有様では無理なことなのだろう。帰路は反対側の歩道を歩いた。こちらは、ほとんど誰も歩いていない。左側は店と人の洪水、右側は過疎地のメイン通り状態、改めて考えれば奇妙な光景である。
 私は疲れたので、道程の中ほどにある橿原観光ホテルのレストランに入った。窓際の席に座り、サンドイッチとカフェオ―レを注文した。
 デジタルプレーヤのスイッチを入れ、カバンから「東京奇譚集」を取り出す。帯のキャッチコピーが目に入る。
『<奇譚>不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。』
 本を開き、続きを読みはじめる。
 この短編集は、五つの作品で構成されている。私は「偶然の旅人」と「ハナレイ・ベイ」を読み終わり、三番目の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を読んでいる。どうやらこの作品集を貫く共通のテーマのひとつは、偶然であるらしい。我々が時おり遭遇することもある、ささやかだが不思議な出来事。
 マンションの26階に住んでいる証券マンが、同じマンションの24階に住む母親の部屋に行き、そこから帰る途中で傷痕も残さず姿を消してしまう。男の妻から依頼をうけた探偵が捜索を行うが彼の行方は見つからない。探偵は何度も現場と思われるその階段を往復する。そして25階と26階とのあいだの踊り場にある大きな姿見になぜか惹きつけられる。
 彼は金曜日の午後二時過ぎ、そこでその鏡に向かって歌を歌っている小さな女の子と出会う。
『――「ねえ、おじさん、このマンションについている鏡の中で、ここの鏡がいちばんきれいに映るんだよ。それにおうちの鏡とはぜんぜん違って映るんだ」
「どんな風に違っているわけ?」
「自分で見てごらんよ」と女の子は言った。
 私は一歩前に出て鏡に向かい、そこに映る自分の姿をしばらく眺めて見た。そう言われて見ると、その鏡に映った私の姿は、いつも私がほかの鏡の中に見ている自分の姿とは少しだけ違っているような気がした。……』
 注文した品がきたので栞を挟み、本を閉じた。平原綾香が「言葉にならない」を歌いはじめる。
 私は、タマゴサンドを食べながら、鏡について考えた。最初に浮かんだのは、サリンジャーの「バナナフィッシュにもってこいの日」の主人公、シーモア・グラスのことだった。彼の名前の語源は、確か「see more glass」だという記憶がある。「鏡を見続けた男」は、新婚旅行に行ったフロリダの浜辺で、小さな女の子と架空の魚「バナナフィッシュ」についての話をした後、ホテルに戻り、妻の寝ているツインベッドに腰をおろし、自分の右のこめかみを銃で打ち貫く。もちろんサリンジャーは、その理由を書いたりはしない。『「自分で見てごらんよ」と女の子は言った。』私達は自分でそれぞれの鏡を見、自分での眼で確かめるしかない、のだろうか……
 その時、偶然が出現した。
 赤いダッフルコートが移動している。タータンチェックのプリーツスカートからほっそりとした長い脚が伸びている。左脇に挟まれた杖は、まるでロングパターのようだ。彼女は水面を滑るミズスマシのようにこちらに近づいてくる。
 眼前まで来たとき、彼女がこちらを向いた。私は一瞬たじろいだ。彼女を見ていることがばれて、そのことで咎められたのか、と思ったのだ。しかし、彼女は私を見ているのではなかった。彼女の視線は、椅子に座っている私の頭より更に上の位置にあった。彼女は自分自身を見ているのだ。たぶん、レストランの窓が、光を反射して鏡状態になっているのだろう。
 彼女は鼻に手をやり、鼻梁を指先で擦った。透けた絹のような青白い顔、耳も眉も目も唇もすべてのパーツがやや大作りな中で、その少しだけ上をむいた鼻だけが、小振りであった。彼女の目は大きく見開かれたままで、瞬きをしなかった。左右の眼は、シンメトリックなほどよく似た形をしていた。そのことが、逆に不自然な印象を与えた。
 次ぎの瞬間、その顔が歪んだ。
 彼女はその場に屈み込んだ。スカートの裾が乱れた。どうやら左足の踝あたりから下が義足らしい。しかし、ストッキングのせいか、レストランンの窓越から見る肌合いは、右脚と変わらない。彼女は右手で脚をゆっくりと撫で続けていた。
 痛むのだろうか?
 鏡と義肢と苦痛の表情が、私の中で科学反応を起こし、一年ほど前に見たテレビの特集番組を思い出させた。
 それは、養老孟司がコーディネーターをした「大発見!だまされる脳」というシリーズのひとつであった。私が特に惹かれたのは、「脳の中の幽霊」を書いたラマチャンドラン博士が語った「幻肢」を巡る話であった。
 腕や足を事故で失った人々が幻の手足を感じる現象あるのだという。まさしく物理的には存在しない「幻の手足」が脳の中には存在するというわけである。彼は、「手が知っていること」と「目が知っていること」の分離を指摘し、意識できる情報の限界を明らかにする。意識と無意識の境界を徹底的に切り崩し、身体と心の関係の危うさを描き出す。特に興味深かったエピソードは、切断した左腕が痛む患者を、鏡を使って治療するシーンだった。「存在しない腕に痛みを感じる」ことがあること自体、不思議なことなのだが。
 段ボールのような箱の手前に、両腕が通る孔を二つ空け、真ん中に鏡を立てる。上から覗きながら鏡の角度を調節すると左手は見えず、右手の動きが鏡に映って両手が動いているかのように見える。ボールを握ったり、絵を描いたり、それらを毎日繰り返すことで、実存していた激痛が消滅する。
 嘘のような話だが、今ではオーソドックスな治療法であるらしい。この手法を「脳の中にいる幽霊をだます」という表現するところが、ユーモアがあって面白い。
 ちなみに、想像妊娠も「脳の中の幽霊」が関係しているらしい。想像妊娠は実際に生理が止まり、お腹が大きくなる人もいるそうだ。でも死産でしたと医者が告げるとすぐに膨れたお腹はしぼんでしまうそうだ。
 ある種の身体の傷は、鏡のトリックを駆使することで直すことができたとしても、心の傷はどうしたらいいのだろう。「心の中の幽霊たちを騙す」鏡はあるのか、それは何なのだろうか……
 彼女の姿が消えていた。
 ガラス越しではあるが、一メートルほど先で蹲っていたはずの赤いダッフルコートが消滅していた。「幻視」という言葉が浮かんだ。「自分で見てごらんよ」という声が聞こえる。私は立ち上がり、見渡せる範囲を隈なく見た。しかしやっぱり彼女の姿はなかった。
 
 狐のような顔をしたウエイトレスが、怪訝そうに私を見ている。
 仕方がないので私は席に戻り、サンドウィチの最後の一切れを食べる。再び、デジタルプレーヤのスイッチを入れ、「東京奇譚集」の四番目の作品「日々移動する腎臓のかたちをした石」を読みはじめる。主人公は、五年間で四回芥川賞候補になった小説家の話であったが、なかなか集中することができなかった。
 一青窈が「大家(ダージャー)を歌いだす。『失って始めて気づく事も あるけれど もとには戻れない……』私は本を閉じた。「see more glass」……でも何を見たらいいのだ。
 垂直に立てかけた鏡は、「失った腕の不在」を視覚的に認識させることができても、「幻肢痛」を除去することはできない。そのためには粗末な箱と鏡の角度を変えるという簡単だが仕掛けが必要なのだ。
 昔、言葉が心を映し出す鏡の一種だと考えたことがあった。仮に言葉が鏡だとしても、心の傷をただ単に書き続けるだけでは、垂直に立てかけた鏡と同様にその欠落を認識させることができるだけで、治癒さすことはできないのではないのだろうか。

 私は支払いを済ませ、レストランの外に出た。相変わらず、反対側の歩道だけ、濁流のような人々の流で溢れていた。
 私はもう一度、辺りを見回した。もちろんどこにも三本脚の可愛い真っ赤なミズスマシの姿は、見つからなかった。
 私は「鏡の国の幽霊たち」に頼んだ。どうか彼女のすべての痛みが消えますように、と。



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