静かな居間に時計の針音だけが耳に響く。視野の片隅にすっと動く影。雪絵は顔を上げた。吸いさしの煙草をジリジリと灰皿に押し付ける春雄の指が目に入る。
「母さん、支度まだか」
春雄の呼び声が廊下の奥に向けられる。打てば響くようなタイミングで昭子の少しあせったような声が返ってきた。
「はい、はい。今すぐ」
奥まった洗面所にいるにもかかわらず、彼女の声はよく通る。その返事を聞いて春雄は両肩をすくめながら、ソファに座っている雪絵の顔を見た。目が合うと「やれやれ、うちの嫁さんは」と苦笑いする。雪絵もその苦笑いに応えて軽いため息を彼に返した。
「お母さんが出かけるまでに時間がかかるのは、いつものことでしょう」
雪絵は壁の時計に目をやった。八時五十分。その前に昭子をせかしたときから、既に三十分経っている。膝の上に乗せていたガイドブックを音をたてて閉じると、春雄と同じように廊下の奥に向かって叫んだ。
「ドライブに行きたいって言ったのお母さんでしょ。早く出ないと渋滞に巻き込まれるよ。お昼には着きたいんだから」
「すぐ行くわ」
調子のよい声だけが洗面所から戻ってくる。だが、昭子の姿はいっこうに現れない。
雪絵は軽く左右に首を振ると、ソファから立ち上がった。
「お父さん、先に荷物だけでも車に積んでしまおう」
「そうだな。ナビも設定しないといけないし」
春雄は同意すると、居間を出て玄関に向う。雪絵はブランドのウエストポーチをポンと叩いて、中身の有無を確認すると、ガイドブックを片手に、ソファの横に置いていたトートバッグをもう片方の手でつかんだ。
玄関口でジーンズに見合うスニーカーを下駄箱から取り出し履いていると、やっと昭子が洗面所から出てきた。
「もう出るの?」
昭子は困ったような顔をした。雪絵はまじまじと彼女の顔を見る。長い間、鏡に向かっていただけあって、化粧も完璧、セミロングの髪の毛も内巻きに綺麗にカールされている。白いVネックニットから覗く首元には大きなダイヤモンドが揺らめいている。
「下に何着ようか迷ってるんだけど、雪絵どう思う? ジーンズだと締め付けられて疲れそうだし、今の季節に合う色のスカートって……」
雪絵は昭子が今着ているスカートを見た。近所の商店街で買った千八百円のエスニック調のギャザースカートだ。それでも十分おかしくないのに。そう言いそうになるのを我慢した。見栄えを気にする昭子が、その安スカートで納得するわけがない。
「車に長いこと乗るから、楽な服装がいいんじゃないの」
雪絵は下駄箱の戸を閉めながら言う。それを聞いて昭子は嬉しそうに口許をゆるめた。
「そうね。スカートにするわ。確かベージュのスカートがあったはず。それにカーディガン羽織って。靴はどうしよう」
昭子の話は途中から独り言のようになる。
「お母さん、先に車に乗ってるね」
雪絵はバッグをつかむと一人思いを巡らせている昭子を残して外に出た。
車庫に行くと春雄がちょうど愛車のクラウンの窓ガラスを雑巾で拭いているところだった。雪絵は後部座席のドアを開けるとトートバッグを中へ入れる。春雄は雑巾を庭仕事用の水道口で洗って車庫の中に干しながら尋ねた。
「母さん、すぐ出てこれそうだったかい」
「まだまだ時間かかるよ。今から着る服選ぶんだから」
雪絵の言葉に彼はあきらめ顔で頷きながら、運転席のドアを開けた。
「雪絵、ナビ設定するから助手席に乗って」
春雄の言うとおりに乗り込んだ。車のエンジンがかかり、カッコウの鳴き声のような電子音が響いた。前面パネルの上部に外付された液晶画面に文字がたちあがる。そのまま、大田区蒲田の自宅付近の地図が表示された。画面中央の家マークを凌駕するように赤の二重丸がドンと据えられている。今現在の車の位置だ。
雪絵はリモコンを手にすると目的地設定の画面をあけた。
「確か音声入力が出来るはずだぞ」
春雄は自分の車なのに、あいまいな提案をする。流行に乗り遅れまいとナビゲーションシステムを搭載したはいいものの、十分に使いこなせていなかった。一カ月に一度ほどしか帰省しない雪絵の方が実家の車を把握している。
音声入力を指示すると〈目的地を音声でどうぞ〉とナビゲーションから女性の声が流れてきた。
「ノコギリヤマ」
春雄は画面に向かって少し鼻の詰まった声をかけた。
〈オオミジマ でよろしいですか〉
ナビゲーションが機械的に、しかし丁寧に聞き返してきた。
「全然違う」「どこよ、それ」
二人は同時に声を上げる。雪絵は春雄の顔をチラッと見た。彼自身は気が付いていないのだが、春雄には生まれ故郷の訛りがあった。既に故郷を離れて四十年以上経つのに未だに直らない。今のセリフも「でんでん違う」と雪絵には聞こえた。
ナビゲーションは了承の返事をもらえなかったので、再度〈目的地を音声でどうぞ〉と迫ってくる。春雄は口を画面のそばまで寄せて大声で言った。
「ノコギリヤマ」
〈オオミジマ でよろしいですか〉
ナビゲーションは平気で先程と同じ言葉を繰り返す。
「お父さんの発音が悪いんじゃないの」
「……蓄膿のせいか」
雪絵に攻められて春雄は少しうな垂れた。
「今度は私がやる」
雪絵の言葉に春雄は画面から顔を遠ざけた。
「ノコギリヤマ」
雪絵は集音マイクと思われる小さな穴に向かって一字一字ゆっくり話しかけた。
〈トヨヒラカワ でよろしいですか〉
「バッカじゃないの」
始終トンチンカンな返答に雪絵は悪態をついた。それを聞いていた春雄がプッと噴き出した。
「頭悪いな、このナビ」
〈目的地を音声でどうぞ〉
懲りずに丁寧に聞き返してくるナビゲーションに、雪絵は怒っているのも馬鹿らしくなった。自然に口許の力がゆるむ。
「お父さん、文字入力に替えよう」
雪絵はリモコンを操作して、電話番号入力の画面を開けた。ダッシュボードの上に置いたガイドブックを手にして、目的地のページを開く。さすがに鋸山自体に電話番号はなかったが、山の中腹にある日本寺の電話番号が載っていた。
「どれ、読みあげようか」
春雄が雪絵の手からガイドブックを取った。眼鏡を額の上に押し上げる。
「どこだ」
「ここ、ここ」
雪絵はその部分を指差した。春雄はガイドブックとの距離を微妙に保ちながら、たどたどしく数字を追った。
「〇四七〇―××―××××で、よいか?」
雪絵は春雄の手元の本を覗き込むと、掲載されている番号と入力した番号を照らし合わせた。
「OK」
雪絵は決定ボタンを押す。ナビゲーションは何種類かの経路を画面上に示した。
「有料道路優先でいいよね」
雪絵は春雄の返事を待たずに操作していく。帰省ラッシュは過ぎたもののゴールデンウィークの半ばには変わりない。東京から湾を挟んで向かい側の房総半島の半ばまで行くのだ。下道をゆっくり走っている時間はない。だが、行楽渋滞に巻き込まれてしまえば、どの道を通ろうと大差ないのかもしれない。
ナビゲーションを設定し終わっても昭子は家から出てこない。もう九時をだいぶ回っている。手持ち無沙汰の雪絵は昨日から何度となく目にしているガイドブックをまた開いた。
「鋸山って聞いたことあったけど、こんなんだって知らなかった」
青い空を背景に切り立った崖の上から人々が下を見下ろしている、そんな写真に目を落とした。
「父さんもそんな山があるなんて知らなかった」
春雄も紙面に目を向けた。
「大きな大仏があるんだろ」
雪絵は昨日ガイドブックから仕入れた付け焼刃な知識を口に出す。
「うん。確か奈良のより大きいはず」
「母さんがテレビで観たらしくて、一度実物を見てみたいって。せっかくの連休なんだから、ドライブがてら連れてけって、うるさくてな」
「昨日の朝、『今すぐ帰ってきて』なんて電話かかってくるから、何かあったのかって心配したのに。家に着いて聞いてみればドライブ行こうだもん」
雪絵は目にかぶさった前髪を掻きあげた。昭子のマイペースな言動にいつも振り回されてしまう。
「まあ、どっちみち家には帰るつもりでいたけどね」
「たまには家族三人でドライブもいいもんだろう」
春雄はポロシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと火をつけた。煙草のにおいが鼻腔をうずかせる。目の前が白い煙に覆われた。
「けむい」
雪絵は語気を強めて言い、助手席側の窓を開けた。そんな非難めいた言動も春雄には全くこたえないようだった。彼は無言で運転席側の窓を開けると、そのまま煙草を吸い続けた。
雪絵はウエストポーチから携帯電話を取り出すと、メールの着信を調べた。新着履歴は何もない。わかっていたことであったが、少々落胆した。同僚のミサキは夫婦で九州旅行、後輩のカナはニューヨーク、学生時代の友人の小松くんは大阪で学会、ゴルフ仲間の原くんはリッチにハワイでゴルフだ。阿蘇でも通天閣でもいいから写メール送ってくれればいいのに。そう思いながら、雪絵はすでに半分終わってしまった自分のゴールデンウィークを振り返る。
連休前日の就業後に職場の仲間と飲んで歌って午前様。次の日は昼まで布団の中にいて、夕方から打ちっぱなしに行く。その次の日はゴルフコンペ。ハンデのおかげで三位入賞。その次の日は結婚退職した友人と会ってデザートバイキング。次の日はゆっくり家の掃除でもしようと思った矢先に昭子から呼び出されたのだ。所沢の一人暮らしのマンションから蒲田の実家に帰省してみると、その次の日は両親が決めた日帰りドライブ。
友人にメールしても羨ましがられる内容とは思えなかった。雪絵の唇の端が自嘲気味に引きあがる。三十五歳の独身女性にふさわしいゴールデンウィークとはあまり言えない。
雪絵は隣で退屈そうに煙草をくわえている春雄の横顔を見た。ゴルフのしすぎで汚く日焼けした肌に濃いシミが目立つ。肉がそげた頬は皮がたるみ、あごの辺りで深いしわを作っている。髪の毛はまだ黒さを保っているものの、全体的に薄くなってきて隙間から地肌が見える。
「お父さん、会社どう? 忙しい?」
「まあまあだな」
雪絵の質問に春雄は気乗りしない声で答えた。吸いかけの煙草を灰皿に押し付ける。
春雄は建設会社を定年退職した後も、関連会社で役員として働いていた。任期はいつまでなのだろう。そう思ったものの、口には出さなかった。来年は六十五歳だ。年金も全額もらえるはずだから、それを機に辞めるのだろうか。
「おまたせ」
昭子が後部座席のドアを開けた。
「母さん、遅い」
春雄の叱責が飛ぶ。
「お母さん、前に座る?」
雪絵は携帯電話をウエストポーチにしまいながら、降りようとドアに手をかけた。
「いいわ。後ろの方が楽だから」
昭子はさっさと運転手席の後ろに乗り込んだ。黒と白の細かい千鳥格子柄のフレアロングスカートに細身の銀色のベルトを二重に巻き、黒い薄手のジャケットを羽織っている。頭には日焼け防止のつばが広い黒い帽子、靴はベージュと黒のおしゃれなウォーキングシューズだ。お金持ちのマダム風な装いは彼女に似合っていた。澄まして帽子の向きを直す姿は今年還暦を迎えるとは思えない。
「この靴に合う服をを探してたら時間かかってしまって」
昭子は言い訳がましく言った。恐らく寝室のベッドの上には衣装合わせに使った洋服が何枚も積まれているのだろう。
エンジン音も静かにクラウンが進みだした。車のダッシュボードにまぶしいほどの日の光が当たる。春雄は慣れた様子で幹線道路に出た。
「のど渇いたわ。雪絵、お茶持ってきた?」
雪絵は昭子の隣に置いてあるトートバッグを指差した。
「父さんにもお茶くれ」
昭子がバッグを開けて緑茶のペットボトルを取って前へ差し出した。雪絵が春雄の代わりに受け取り、フタを開けて春雄に差し出した。春雄は左手でペットボトルを持つと、喉に流し込む。一気に半分ほどなくなった。
雪絵たち一行は川崎方面に向かっている。国道はやはり混雑していて、ノロノロと牛のような歩みが続く。
「動いてるだけマシだよね」
川崎大師駅を横目で見ながら雪絵はため息混じりで言った。殺風景な工業地域に入ってやっとスムーズに進むようになった。生気のない鼠色の建物や配管が所狭しと建っている。その上にも薄水色の空がひろがり太陽の光がいっぱいに溢れている。こういうのを行楽日和というのだろう。
「アクアラインを通るのって久しぶりね」
昭子の浮き浮きした声が車内の雰囲気を盛り上げる。前方を見ると道路の先にコンクリートの小山がそびえたち、その下部に黒々とした長方形の穴が待ち構えている。あっという間にトンネルの中に突入した。
このアクアラインは東京湾をはさんで神奈川県の川崎と千葉県の木更津を結んでいる。川崎側は海底トンネルになっていて、途中から海中を抜けて海の上にせり出し、橋となって木更津にたどり着く。アクアラインの真ん中には海上パーキングエリアの海ほたるが東京湾に浮かぶ島のように作られていた。
トンネルの上部はオレンジ色のライトが等間隔に並び近未来的な気分にさせた。前を走る車の、横を追い抜いていく車のテールランプが競ったり集ったりしているように見える。
「思ったより混んでないわね」
昭子が意外そうに言う。
「料金高いから皆使わないんだよ」
雪絵はそう言いながらも、内心、ゴールデンウィークに千葉に遊びに行こうという人が少ないのではという思いを捨てきれない。
「海ほたるに着いたら、ちょっと休憩しましょう」
昭子の楽しげな声が響く。
「まだ、出発したばかりだよ」
「でも、せっかく来たんだし、天気もいいし、トイレにも行けるし」
「お母さん、ソフトクリーム食べたりするんでしょ」
「食べたいな」
無邪気な昭子の様子に、雪絵は肩をすくめた。
いつの間に昭子はこんなに自分の欲望に率直になったのだろう。そして、いつの間にか自分はそんな両親に対して寛容に受け入れることができるようになっていた。
視界がすっと明るくなった。トンネルから抜けたのだ。フロントガラスには川崎の空よりも青みを増した空がひろがっている。その青さにしばし雪絵は見とれた。
「駐車場に入るのに並んでるぞ」
春雄が左車線を横目で眺めた。雪絵は左手に向き直り驚いた。
「この左側に停まっている車って駐車場待ちなの?」
「海ほたる寄るのやめておく?」
昭子の問いかけに雪絵は賛成した。ただでさえ、出発が遅れているのだ。無駄に時間を費やせない。春雄も同意したようだった。左側を気にしながら遅めに走っていた車は、枷が外れたかのようにグンと速さを増した。
クラウンは太陽の下、文字どおり一本道を駈けていく。橋の左右には青鈍色の海がひろがっていた。東京湾の真ん中にいるのだ。
「海の上って気持ちいいわね」
昭子が窓に顔を寄せながら感嘆する。
「こっち側が太平洋に繋がっているのよね」
「奥のほうに見えるのが房総半島だろう」
春雄が右斜め前方を指差す。対岸は奥にいくほど白く霞んでいく。海と空と陸が一つに合わさり、白濁とした空白が伸びていく。陽の光が果てしなくその空白に吸収されていく。
次第に車は対岸に近づいているようだった。橋上の道路標識が複雑になってきた。
「どう行くんだ」
春雄が道案内を求める。雪絵は膝に広げたガイドマップを覗き込んだ。
「とりあえず、まだ降りないで。木更津ジャンクションまで行ったら館山自動車道に乗る」
言った後、ナビゲーションのリモコンを操作し、木更津ジャンクションの位置を確認する。
「あと十一.四キロ先」
「それじゃあ、館山方向の表示板に従えばいいんだな」
春雄は快調に車をとばす。雪絵は館山自動車道に入ってからの道順を地図で追っていた。
この自動車道は名前とは裏腹に館山まで通じていない。まだ、工事中なのだ。ジャンクションから四キロ先、館山自動車道は二手に分かれている。どちらの道が早いか、この辺りに土地勘のない雪絵にはわからないことだった。
「雪絵、地図見てて大丈夫? ナビがあるんだから、その通りに走ればいいじゃない」
昭子が心配そうに声をかけてきた。
「うん、でも、ナビの道がいい道かどうか分かんないし、地図の方が行く先をたどりやすいし」
「車酔いしない?」
「運転するようになってから、マシになった」
そう言いながらも、雪絵はガイドマップから目を離す。高速道路で気分が悪くなっても簡単には降車できない。
「そういえば、雪絵あの時のハゲはまだあるの」
昭子がおかしそうに聞いてきた。雪絵も微妙に口許をゆるめながら答えた。
「あるよ。外から見たらわかんないけどね」
昔から昭子はドライブが好きで、よく家族三人で車で遠出することを春雄にせがんだ。その頃は昭子が助手席に乗っていて、雪絵は後部座席を独占し、ドライブ半ばになると気持ち悪さに横たわってしまうのが常だった。山中の道路脇に車を止めてもらい、道端の草むらに顔を俯けていることもよくあった。
あれは小学二年生のことだ。雪絵は車酔いを克服しようと馬鹿げた訓練を始めた。方法はいたって簡単だった。腰掛部分が回転する勉強机のイスに座って、クルクルと何十回も回り続けたのだ。そして、立ち上がった拍子によろめき、机の角に後頭部をぶつけた。
めまいと痛みで床に転がりながらその部分を押さえたところ、ヌルッとした感触に驚き自分の手を見た。真っ赤な血を見た途端、雪絵は大声で泣き始めた。居間にいた昭子が飛んできた。
「あれは遠足の前の日だったわね。大人しく準備してると思ったら急に泣き声が聞こえて、びっくりしたわよ」
もう二十五年以上も昔のことなのに、昭子ははっきりと覚えているようだった。
「お父さんはまだ会社から帰ってきてないし、急いでタクシー呼んで救急病院に駆け込んで。四針縫ったのよね。それでも、翌日、遠足に行くってきかなくて」
雪絵は笑った。
「だって、あれは遠足のバスに酔わないように訓練してたんだもん。それがパアになるのは悔しいじゃない」
「それで、行ったのか?」
春雄が横合いから尋ねてくる。
「ううん」
雪絵と昭子がそろえて首を振った。
「遠足で無茶して傷広げたりしたら困るじゃない。両腕を引っ張って無理にでも行かせませんでした」
昭子の朗らかな声が車内に響く。
気がつくと橋の下は地面になっていた。地図で見るよりも実際の東京湾は小さいような気がした。
問題の分岐点が近づいてきた。道路標識に木更津ICは右矢印、君津ICは左矢印が表示されている。
「お父さん、どっちの道行ったらいいの?」
春雄は首をかしげながら、逆に雪絵に質問してきた。
「どっちでも行けるのか。ナビはどっちになってる?」
「左」
雪絵は短く答えながら、再度ガイドマップに視線を落とした。
「どっちも途中で一二七号に合流するの。同じくらいの道のりなんだよね」
地図を見て悩んだが埒があかない。顔を上げてフロントガラス越しに見える標識をにらんだ。分岐地点まであと三百メートル。
「どっちだ」
春雄は完全に雪絵に選択を任せているようだ。
「左。君津インターで降りる」
結局、ナビに従う形をとった。春雄は左側に車線変更をする。すぐ分岐点に突入し、クラウンは左方向に進んだ。緩やかなカーブを描いて道が分かれていく。
どちらの道も最終的に同じ国道に合流する。そこから南に向かってひたすら道なりに走れば鋸山に到達するのだ。どちらをとっても間違ってはいない。雪絵は自分の判断を信じてスピードに身を任せた。
途端に車は減速し始める。雪絵と春雄は同時に喉の奥から声にならぬ音を発した。前方三車線ともに最後尾の車のブレーキランプが光っている。その前にも前にも車が列をなしている。
「あら、渋滞なの」
後ろから昭子の声が響いた。
「そうみたいだな」
春雄は渋滞の中央車線の最後尾にくっつくようにして停める。完全に流れが止まってしまっている。雪絵は窓を開け後方を覗き込んだ。次々と車が突っ込んでくる。渋滞の列が徐々に伸びていく。
「何でこんなに混んでるの」
昭子の無心の問いかけに、胸が痛んだ。自分の選択は失敗だったのだろうか。雪絵は自問自答する。
「この先三.五キロ先に料金所があるから、出口渋滞だと思う」
雪絵はナビゲーションの表示を見ながら言った。春雄も画面を覗いて納得している。最新のナビゲーションシステムならば渋滞情報も表示してくれるだろうに。雪絵は肩を落として画面から目をはなした。オーディオのスイッチを入れ、JHの高速道路情報や、ラジオの交通情報を探してみたが、欲しい情報は何も得られなかった。
「CD聞きましょうよ」
昭子が提案する。
「雪絵、用意してきてるんでしょ」
そう言って後部座席に置いてあるCDケースを雪絵に手渡した。
「お母さんが聞きたいのはないかも」
雪絵はケースのファスナーを開けて自分のマンションから持ってきたCDをめくる。
「演歌ならあるぞ」
春雄が運転席と助手席の間の小物入れを開けた。CDやカセットテープがびっしり詰め込まれている。
「えー、それ、お父さんがカラオケで歌ったのを録音したのでしょ。嫌よ」
昭子は春雄の申し出を手厳しく拒否する。
「そんなの車に積んでるの?」
雪絵は驚いて声をあげた。
「なかなか上手いぞ。一曲聞くか?」
満足そうに答え、選曲しそうになった春雄を昭子が止める。
「お父さん、いいから。前見て。進んでるわよ」
気づくと前方との車間距離が広がっている。クラウンは牛歩のごとくゆっくりと進んだ。
「降りて走った方が速いわね」
走る気があるとは全く感じさせない程のんびりした調子で昭子が口を開く。
「宇多田ヒカルかけるね」
雪絵はCDをケースから抜き出すとオーディオに差し込んだ。これならテレビでいろいろと流れているから、耳馴染みの曲が多いのではないか、と考慮しての選択だ。
「この子の全米デビューは失敗だってね」
さすが専業主婦だけあって昭子はワイドショーネタに強い。リズミカルな前奏を聞きながら頷き返そうと雪絵が思った矢先だった。
「赤く咲くのはけしの花、白く咲くのはゆりの花……」
春雄が何の予兆もなく朗々と歌い出した。オーディオから流れる曲をものともしない。
「はいはい、藤圭子ね」
昭子はあきれたように言った。
「そんなに自分の歌を聞かせたいのね」
こうなると春雄のカラオケ熱は止まらない。雪絵はせっかく聞き始めたばかりのCDを抜き、春雄が自ら歌うカセットテープを聞くことにした。前後のスピーカーから流れる歌声に合わせて、横に座っている春雄本人も声を響かせる。恐ろしいほどの臨場感だ。雪絵はそっと左隣の車を見た。中年夫婦らしき男女がおとなしく乗っている。軽く息を吐き肩を下ろすと、そっと前に向き直った。
最後に拍手喝采されて曲が終わった。カセットテープの回転音だけが鳴り続ける。車の中が急に静かになった。
「おしっこ行きたい」
その言葉に驚いて雪絵は運転席の方に顔を向けた。ハンドルを握りながら春雄は澄ました顔で前を見ている。
「お父さん、お茶飲み過ぎなんだよ」
雪絵がほとんど空になったペットボトルを見て言う。
「違うのよ。お父さん最近トイレ近いの。すぐお腹こわすし」
昭子に便乗するように春雄が言葉をつなぐ。
「年のせいかな。このごろは外で飲んだあと家に帰るまでの間に二、三回はトイレに行かなきゃならんしな」
「この間なんかパンツにうんち漏らして帰ってきたじゃない」
昭子が笑いながら暴露する。雪絵は耳を疑った。
「少しだけだろ。家までどうしてももたなくて。あのパンツどうした」
「すぐ捨てました」
雪絵は二人に気づかれぬように溜め息をついた。お漏らし行為もさることながら、こんな会話をしているのが小さいながらも会社の役員を務める男と有閑夫人だなんて信じたくない。ましてや、自分の両親なのだ。
「お父さん、大丈夫? 運転替わるよ。外でしてきたら」
幸いこの渋滞ならばいつでも車を降りることが可能だった。だが、春雄は雪絵の申し出を断った。
確かにな……。雪絵は納得して左右を見渡した。びっしりと車の詰まった高速道路は、どこまで行ってもアスファルトとコンクリートブロックに囲まれている。衆人の好奇の目にさらされること請け合いだ。春雄の尿意も理性を打ち崩すまでには至ってないらしい。
車の長い列は少し動いては停まるという状態を繰り返していた。
春雄は胸ポケットから煙草を取り出し窓を開けた。雪絵には春雄の一挙手一投足が気になって仕方がない。いつまた「おしっこ」と言い出すか気が気じゃなかった。
白い煙が室内にも流れ込んでくる。雪絵も助手席の窓を開け、顔を少し外に出した。五月の陽気な空気に包まれ、思わず目を細めた。太陽の光が上からも、アスファルトの照り返しを受け下からも目に差し込んでくる。
雪絵は窓ガラスを閉めると、ラジオをつけた。都心で開催されているイベントの中継が車内を無駄に賑やかにする。しばらくの間その他愛もない情報に耳を傾けていると、時報が流れてきた。正午だ。
ラジオのマイクは一度スタジオに戻り、アナウンサーがニュースを読み上げる。
三人とも聞くとはなしに黙って聞いていた。昭子がしみじみした声をあげる。
「老人の一人暮らしって怖いわね」
それは都内に住む老人が死後一週間経ってから自宅で発見されたという孤独死のニュースだった。
「誰も見に来てくれる人いなかったのかしら。兄弟とか子供とか」
「いなかったんじゃないの」
雪絵はあっさりと返事した。
「じゃ、民生委員とか、役所の人とか。だって、こんなのって寂しすぎるわ」
「母さんの面倒は雪絵が看てくれるから、大丈夫だ」
春雄が昭子をなだめる。
「お父さんの面倒はやっぱり私が看るの?」
昭子が少々不満げに言う。雪絵は前の車のテールランプを黙って見つめていた。こんな時、自分はなんと答えればよいのだろう。
「夫婦そろって海の見える老人ホームにでも入ろうか」
春雄がのんびりと言った。穏やかな表情をしている。でも、内心では何を考えているか分からない。雪絵に期待しているのかもしれない。反対に諦めているのかもしれない。はたまた、そんなことは二の次でただ尿意と戦っているだけかもしれない。
なんとなくすべての責任が雪絵にあるような気がした。雪絵を取り囲む空気だけが重くなったような錯覚にとらわれる。
三人の乗ったクラウンはゆっくりだがスムーズに坂道を上がっていく。急にコンクリートブロックの側壁が消え、視界が開けた。
そこから下り坂になっていた。三列の車線が下へ下へと伸びている先に幅広く設置された料金所が見渡せる。高速道路は緩やかに山を超え平地に降り立って終了するようだ。一点に引き寄せられるように伸びていく道路の横は水田になっていた。畦道に仕切られた田は苗を植えたばかりなのであろう。日の光を受けて柔らかく光っていたり、空の色を優しく映していたり、パッチワークのようにはめ合わされている。
車の列は進んだり停まったりしながら坂道を下り、ようやく料金所のそばに辿り着いた。かれこれ春雄がトイレ宣言をしてから三十分は経っている。
「料金所を出たらトイレがあると思うよ」
雪絵は励ましと労をねぎらうつもりで春雄に声をかけた。しかし、春雄は料金所に並ぶための列からはずれ、右側の側道に車を寄せる。なぜ、と聞こうとした時には春雄はすでに車を停め、外に出ていた。セイタカアワダチソウが風で揺れている風景を眺めるかのようにして、こちらに背中を向けて立つ。
雪絵はその背中から視線をはずした。反対側は高速道路から出ようとする車が料金所の数だけ列を作っている。ETC専用出口だけが空いていた。
「お父さん、我慢できなかったのね」
昭子が恥ずかしそうに、だが笑って言う。
「あー、すっきりした」
春雄はすがすがしい声を出して戻ってきた。次からはこまめにトイレ休憩を取らないといけない。雪絵は心の中でそう念を押した。
高速道路から抜け出すと、クラウンは快適に走り出した。左右は水田と丘陵が広がっていて、道路沿いには民家や商店がところどころにまとまって建ち並んでいる。
「お昼ご飯どうするの」
昭子が聞いてきた。時刻はとっくに正午を過ぎている。
「鋸山に着いてからにしたいんだが」
春雄が答える。道路が空いているうちはとにかく前に進んでおきたいのだろう。
「全然体動かしてないのに、なんかお腹空くのよね」
「私、家にあったバナナとパン持ってきた」
雪絵は後部座席のトートバッグを指差す。
「あんた、準備いいわねー」
昭子は感心しながら、バッグの中を探る。そして、バナナを一房取り出して、運転席の方へ差し出すようにして聞いた。
「お父さん、バナナ食べる?」
「いらん」
春雄は即座に拒否した。運転しながらバナナの皮をむいて食べるのは少し手間がかかりそうだ。
「お父さん、スティックぶどうパンなら食べやすいよ」
雪絵はそう言って、昭子からパンを袋ごともらう。そこからパンを二つ取り出すと、ハンドルを握る春雄の左手そばに一つ差し出した。春雄は無言でそれをつかむ。急に甘く熟した香りが鼻をついた。振り返ると昭子がバナナの皮を剥いていた。ラジオからは柔らかいウクレレの調べに乗せてハワイアンが流れてくる。車内がトロピカルな匂いに覆われた。
エンジンの軽い振動と陽気な田園風景。しばらくそれらに体を預けているうちに、雪絵のまぶたは重たくなってきた。何度も目をしばたいたり伸びをしたりと寝ないように努力してみる。だが、そんな些細な努力をあざ笑うかのように睡魔が雪絵を心地よい世界に誘惑する。
雪絵は山道を歩いていた。木も草も生えてない硬く乾いた砂でできた黄土色の山。歩くと砂埃が舞うものの地面には確かな踏み応えがあって、砂に足を取られるということはない。
ここはどこなのか。当然の疑問も雪絵には湧いてこない。早く行かなければ。それだけを考えながら、ひたすら坂道を登り続ける。背負ったリュックが次第に重くなってくる。早く辿り着いて降ろさなければ。雪絵はあせる。
「どこに行くんだ」「ここから出して」
背後のリュックの中から声がする。リュックが次第に重くなる。肩ひもが両肩の肉にくい込む。油断すると後ろにひっくり返りそうになる。雪絵は前屈みになって歩いた。
「もう、降ろしてくれ」「これ以上は無理よ」
体が押し潰されそうなほどリュックが重い。直角に近い角度に腰を曲げて一歩ずつよろめきながら歩く。
早く、早く、楽になりたい。
途端にリュックは大きく膨らみ支えきれなくなる。雪絵は前のめりに倒れこんだ。
硬い地表に胸を打ち息ができない。思いっきり口を開けると、黄土色の砂塵が口内に入り込む。
顔を上げると、春雄と昭子の姿があった。彼らは地面に伏した雪絵をかえりみることなく、風のように駆け出していく。「おしっこ」
目を開けると、アスファルトの道が弧を描くように伸びている。ラジオからはビールのコマーシャルが流れている。雪絵は自分が眠っていたことに気がついた。横目で春雄の顔を見る。全く眠くなさそうな表情でハンドルを握っている。運転座席の窓の向こうには穏やかな海が映し出されていた。
「お父さん、ごめんね。寝ちゃった」
そう言って斜め後ろを見ると、昭子も軽く口を開けて寝ていた。
「今、どの辺?」
雪絵は改めて左右の窓から外を眺めた。左手には田や山が広がり、右手には海が見える。車は海岸沿いの蛇行した道を走っているようだ。ナビゲーションには内房なぎさラインと表示されている。
「ということは、あれ三浦半島?」
雪絵は半ば独り言のように問いかけ、海をはさんで見える陸地を指差した。春雄はチラと窓に視線を向けた。
「そうみたいだな」
「すご、近い」
岬のように突き出た対岸には、木々の緑がもこもこと凹凸を作って生い茂っているのがよく見えた。一本一本の木の形までが見えそうなくらいだ。しかし、突端から奥まっていくにつれ陸地の様子は霞んで見えなくなっていく。
「何がすごいの」
昭子が寝ぼけた声を出した。二人の話し声に目を覚ましたのだろう。雪絵は窓の外を指して説明した。
「まあ、島みたいに見えるけど違うのね」
昭子は窓ガラスに額をくっ付けて外を見る。
「三浦半島ということは……横須賀見えるかしら」
「見えるわけないだろ」「無理だって」
春雄と雪絵から同時に否定され昭子は少し気を悪くしたようだ。
「そんなにきつく言わなくてもいいじゃない」
少しすねた声を出す。雪絵は音をたてずに大きく息を吐いた。
ナビゲーションの画面では、車に模した二重丸が描かれた道路の上を順調に前進している。それが本当に楽な道なのか本当に正しい道なのかどうか、最後まで分からないのだろう。ただ、どんな道であろうと、同乗者三名は最後までこの車に乗っているのは確実なのだ。
「そろそろ鋸山への入口があるはず」
雪絵は春雄に告げた。ナビゲーションの画面の隅に目的地の旗マークが見え始める。
進行方向左手側、伏すように連なる丘陵の奥にひときわ高い灰色の岩壁が現れた。切り立ったというよりも切り取られたという表現がふさわしい絶壁が、緑の上にそびえている。岩の壁は屏風のようにカクカクと折れ曲がった状態で広がっている。確かに鋸の歯に似ていなくもない。岩肌には木は生えていなかった。
雪絵は出る言葉もなく、しばらく黙ってその山を眺めていた。
「昔、石切り場だったのかしら」
昭子がさもありなんことを言う。春雄もその言葉に頷く。
道路左脇に「鋸山登山自動車道 日本寺へはこちら」と書かれた看板が見えた。そこから細い脇道があり、急な登り道がカーブを繰り返しながら続いていく。クラウンは新緑萌える山の中腹へと向かっていった。
駐車場はそこそこに混んでいた。車から降りると青空がやけに近く見える。心地よい日差しが体を包む。辺りには草木が茂っていて普通の山と同じ姿だった。岩肌が見えるのは側面だけのようだ。
「とりあえずトイレに行く」
昭子は高らかに宣言する。そう言ったところで、トイレの場所なんか知っている訳はないし、探そうとする様子もない。雪絵は辺りを見回した。日本寺境内の入口となっている管理所からしばらく行ったところに立て看板が立っている。たぶん案内図だろう。そう判断して雪絵はそちらに向かった。
この鋸山全体を境内としている日本寺は今から千三百年前に聖武天皇の勅詔を受けて高僧行基によって……という由来を軽く読み飛ばしながら、トイレの位置を探す。
「大仏広場の方か」「この道をまっすぐ下っていけばいいんだね」
春雄と雪絵はお互いに確かめ合う。昭子は見取り図全体を眺めながら
「このお寺っていろんな石像が安置されてるのね」
と感心している。
参道を下っていくと、切り立った岩肌を背に鎮座している巨大な大仏が姿を現した。トイレへと急ぐ春雄を先に行かせて、昭子と雪絵は大仏に近寄り立ち止まった。人間の背丈は台座の蓮弁の高さにも満たない。
「大きな岩山を大仏の形に彫ったのね」
昭子はまじまじと大仏を見つめる。雪絵もつられて大仏に視線を送った。
「本当。大仏の背中と後ろの岩肌がくっついてるもん」
後ろの岩肌には曼荼羅のような絵が彫られていた。
「奈良の大仏より大きいんでしょ。でも吹きさらしだから段々小さくなっていっちゃうわね」
「江戸時代末期になって自然の風蝕による著しい崩壊があり……、これは昭和四十四年に造り直したんだって」
雪絵は管理所でもらったパンフレットを読み上げる。
「道理で。頭のつぶつぶが妙にはっきりしてるなぁって思ってたの。新しいんだ」
昭子は妙に納得している。
まじまじと大仏を見つめる昭子の横顔は、雪絵の顔よりも少し低い位置にあった。雪絵は小さな衝撃に胸を突かれて、昭子の足元を見下ろした。昭子は自分と同じ背丈だったはずだ。今日はヒールのついた靴をはいていないせいだろうか。
お互い体型も顔立ちも似ていて、ショッピングしている時など店員さんに「仲のよい姉妹ですね」と言われることもあった。昔からきれいに着飾ることの好きな昭子の言動に困ったことは多々あったが、その衰えを知らないような昭子の容姿は、雪絵の密かな憧れでもあったのだ。
雪絵は自分と同じ年に生まれた大仏に視線を戻した。
三十五年間雨風に耐えてきたというのに、のみで彫った目鼻立ちはくっきりと浮かび上がり凛々しい表情を見せている。少しばかり苔に蝕まれた体躯も滑らかな筋肉をほうふつさせ堂々として見えた。この大仏はあと何十年いや何百年もの長い時間を永らえていくのだろう。いつの日か春雄が死に昭子が死に、やがて雪絵が死んでも、この大仏はここに座って人間の営みを見守っていくのだろう。
そんな雪絵の思いとは無関係に、昭子は雪絵の腕をつつき促した。
「トイレに行こう」
大仏が置かれている広場の脇を少し下ったところにトイレはあった。来訪者が多いせいか、山中の寺院のトイレにしてはきれいな建物だった。入口には三十センチばかりの木彫の像がガラスケースに収められ飾られていた。二人は像の前で足を止めた。
「何て読むの? 烏枢沙摩明王、ウスサマミョウオウ?」
明王というからには怒った顔をしているのかなと思って、雪絵はよく彫像を眺めたが、顔立ちが小さすぎて表情がよくわからない。どことなく笑っているような感じさえする。
「不浄を転じて清浄となす徳を持ち……下の神様とも言われている。下の世話にならない健康な毎日を願う……」
説明文を読む昭子の声が途絶えた。雪絵は怪訝に思って横を向いた。昭子は目を閉じ手を合わせて祈っていた。目尻のしわが強調されるほど一心に目をつぶっている。雪絵も手を合わせた。父と母をよろしくお願いします。無論、声に出さず祈った。
昭子と雪絵が大仏の前に戻ってくると、片隅の休憩所で春雄が煙草を吸っていた。二人の姿を見つけると、灰皿で火をもみ消し言った。
「そこから頂上に行けるらしい」
春雄が指差した所に石の階段が見えた。山の縁に沿って階段は上へ上へと伸びている。左右は樹木の緑に覆われている。
石畳で造られた階段は意外に整備されていて、端には手すりが取り付けられていた。右に折れ左に折れどこまで登っても階段は続く。沢側の手すりから下を眺めれば木々の枝葉の隙間から寺院の屋根が見え、山側の脇道にそれると剥き出しの岩壁のもとに風化した石仏が並んでいた。
春雄と昭子の足取りは次第に重くなってきた。息も上がってきているようだ。会話がなくなり時折うめき声のような息が漏れる。雪絵は昭子の手からハンドバッグを取り代わりに持った。
二人は広めに設けられた踊り場で足を止め、手すりに身をもたせた。後ろから続いて登っていた雪絵も踊り場の一段下で立ち止まった。
「もう、足がガクガクしてきたわ」
昭子が膝から下をさすりながら言う。春雄もふくらはぎを拳で叩いている。
下から大学生くらいのグループが登ってきた。この階段に文句をつけながらも、賑やかに雪絵たちの前を通り過ぎてゆく。
そんな彼らを見送った後、春雄は口を開いた。
「野球部では神社の階段を何度も上ったり下りたり走らされたもんだ。それでも筋肉痛なんかにはならなかった」
「それは何十年前の話でしょ」
昭子はくったくなく笑う。
「私も坂道は慣れてたのにな。自転車でもぐんぐん上がれたわ」
雪絵は左右の足首を回しながら、二人の会話を黙って聞いていた。
上の方から初老の夫婦がゆっくりと階段を下りてくる。
「疲れますね。もう少しで頂上ですよ」
すれ違いざまに婦人の方が気さくに声をかけてくれた。昭子もにこやかにお礼を言う。
婦人の言葉に促されて、春雄と昭子は手すりにつかまりながら階段を登り始める。昭子が振り返って、背後にくっつくようにして登っている雪絵に声をかけた。
「あなたはまだ元気そうね」
雪絵はあいまいな返事でその場を濁す。足はだるいし、たぶん明日くらいに筋肉痛に襲われているはずだ。昭子が思っているほど若くはない。でも……
急に昭子の体が後ろに傾いた。雪絵はとっさに手を出して彼女の背中を支えようとする。だが、昭子はすぐ体勢を立て直した。
「大丈夫?」
「階段を踏みそこなっただけ」
昭子は息の上がった声で答える。
雪絵は昭子の背中を見つめながら一歩一歩階段を登っていった。
周りの視界をさえぎる木々がなくなった。頂上だ。
雪絵は岩肌が剥き出しになった平たい地面を踏みしめ、ほっと息を吐いた。狭い山頂の周りには鉄柵が巡らされていて、そこ自体が展望台になっていた。鋸山の周りには高い山が一つもない。おかげで空ばかりが目に入った。すでに太陽は傾きつつある。鮮やかな青空は周りに較べるものがないせいか、ますます高くなったような気がした。
「海がまぶしい」
昭子が鉄柵から身を乗り出す。右手は帽子の縁を抑え、左手は鉄柵をしっかりと握っている。
「あの海岸沿いの道を通ってきたんだぞ」
春雄が海と緑に挟まれた細い平地の部分を指す。そこからずっと視線を奥にやる。東京湾沿いの海岸線はやがてぼやけて見えなくなり、海だか陸だかわからないブルーグレーの靄がひろがっている。海と反対方向に目を向けると、木々の緑が海原のようにどこまでも続いていた。
雪絵は鉄柵から顔を出し、下を覗き込んだ。
まさに絶壁。
ナイフで切り取られたような岩盤が四十メートルほど続いている。
「下はどうなってるの」
昭子も雪絵につられて身を引きながら恐る恐る下を見た。崖の途中からは周りに生えている木々に隠されてしまってよく見えない。
「あそこから見たらいいんじゃないか」
春雄の声に従って横を向くと、少し離れたところに頂上の一部がベランダのように岩壁の上に出っ張っている部分があった。その先端部分の鉄柵にたくさんの人が身を張り付かせて下を見ている。
「私は嫌よ」
昭子が即座に拒否する。春雄も疲れたからと今いる場所から離れようとしない。
「私見てくるわ」
雪絵は今まで持っていたハンドバッグを昭子に手渡すと、そちらに向かう。
突き出た部分のたもとには地獄のぞきと銘が打たれている。雪絵は出たり入ったりする人の波に揉まれながらも先端部分へ進む。
不意に目の前に人がいなくなり、雪絵の体は鉄柵に押しとどめられた。顔をまっすぐ前に向ける。視界全部が海であり緑であり、立っているはずの地表部分は全く目に入らない。宙に浮いているみたいだった。すうっと下から風が吹き上げ、雪絵の頬を冷やかになでる。
雪絵はそっと目だけを下に向けた。
視線はどこまでも落ち続け、黄土色の地面に突き当たった。木も草も生えていない殺風景な地表。
そこには小さな人影がさまよっている……
雪絵は息を詰めると、地底から目をはなす。そのまま、両親が立つ崖の縁に顔を向け、手を振った。
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