嫉妬  齊藤 貴子


   信貴生駒スカイラインの展望台に上がった。眼下に大阪平野の夜景が広がっている。いく筋もの光の帯が遥か先の暗闇に吸い込まれるように延びている。手すりにもたれて瞬く灯りの海を眺めているカップルは、これ以上は無理だというくらい身体を寄せ合っている。手すりに置いた池沢の腕に自分の腕をからませながら、夜風を頬に受けていた。顔のすぐそばに彼の息を感じる。
「あれが外環で、あの明るいのが阪神高速やな」
 その声に顔を上げ上目遣いに池沢を見た。あごから喉にかけてのラインが張り詰めた一本の糸のようにきれいだと思った。わたしより一回り年上で五十四歳になっているのに学生のころ登山で鍛え、最近まで登っていたという身体は、背こそ高くはないがまだ余分な贅肉を寄せつけていない。池沢が話すたびに喉ぼとけが心地よさそうに動くのを見ていると、さっきまでわたしの中で激しく動いていた彼の感覚がふいに甦ってきた。するとみぞおちの辺りに甘く貫くようなうれしさがこみ上げてきて足元がおぼつかなくなり、サンダルのかかとで階段を踏み外しそうになった。
「おっと、どないしてん。大丈夫か?」
 池沢がわたしの肩をつかんで支えてくれようとしたそのとき、彼のシャツの胸ポケットから携帯電話の着信音が聞こえてきた。場違いな音に池沢はわたしの身体を放してポケットから電話を取り出した。フリップを開けたとき青白い光が池沢の顔を照らした。しばらく液晶画面を見ていた彼は電話を切るともとに戻し、わたしに気づいて取り繕ったような笑顔を見せた。
「だれ?」
 わたしは訊きながら手を彼の前に差し出した。池沢は一瞬胸ポケットを押さえる格好をしたが「なんでもない」と首を振った。わたしは無言でもう一度手を伸ばし一歩彼に近寄った。後退りをした池沢がそばにいた若いカップルの男のほうにぶつかりそうになって、片手を挙げ「失礼」と言いながらわたしの反対側にやってきた。
「だれからの電話なの。奥さん?」
 池沢がシーっと指を口に当てた。わたしの後ろにいる先ほどのカップルを気にしているようだ。
「奥さんからやのん? それともほかに女いてるん?」
 わたしはさらに声を張り上げて訊いた。わたしを見つめる複数の好奇に満ちた視線を感じる。吹き上げてくる風に髪を乱されながら池沢と向き合っていた。
「嫁さんからや……。いくで」
 急に池沢がわたしの手首をつかんで階段を降り始めた。肩にかけていたバッグの紐がずり落ちて肘のあたりでぶら下がっている。つかまれていないほうの手で階段の手すりをたどりながら前のめりになって降りていった。夜景に見とれていたときは感じなかった展望台の高さが、このとき足元から這い上がってくるように思えて一瞬躊躇した。コンクリートの坂道を降りたところに駐車場があって、二本の街灯が車の停まっていない場所を照らしている。展望台にいた人数より車の数が多いことをこんなときに考えていた。
 どこかでセミなのか虫なのか、ジージーと鳴いている。湿った土の匂いやむせるような草の匂いが充満していた。手首をつかむ池沢の手のひらが汗ばんでいるのがわかった。傍によると彼の体臭がふっと鼻をかすめた。そのとき、この匂いに包まれた他の女がいるのでは、と思った。
 端のほうに停めてある車に乗り込んで、彼はすぐにエアコンのスイッチを入れた。冷気が車の中に行き渡るにつれてわたしは少し落ち着きを取り戻してきた。でも、池沢の携帯にかけてきた相手が気になる。これまでも何度かこんなことがあった。そのつど彼に電話に出ないように頼んだし彼もそうしてくれた。だから付き合い始めて三年になるけれど、いつのまにか誰からも電話はかかってこなくなった。それなのに、この半年ほどに三回も同じことがあるなんて。そのたびに、訊いても彼の答えは決まっていた。
「なんでもない。関係ない」
 池沢のことでわたしに関係がないことなどあるはずがない。どんな些細なことでもわたしには関係ある。知る権利がある。奥さんからであってもそうでなくても、だ。
「ケータイ見せてよ」
 蚊に刺された足首を爪で掻きながら言った。池沢は口をつぐんだまま視線だけ胸ポケットに注いでいる。まるで電話の相手を守ろうとしているようだ。
「奥さんなんでしょ。見るくらいいいやないの」
 それでも黙っている池沢に、これは他の女からに違いないとピンときた。
「ええわ。あんたの家に電話して奥さんに訊くわ。さっき、かけはった? って」
 言いながらわたしはバッグを開けて携帯電話を取り出した。池沢の家にかけることなどないのだけれど、一応固定電話の番号も登録してある。池沢はあわてたようにわたしの手から携帯を取り上げた。
 街灯の灯りでぼんやりと照らし出された池沢の顔が泣き出しそうに見えた。
 わたしは小さく笑ってシートにもたれた。宥めるように抱き寄せる彼の手を振り払った。
「じゃあ、誰なの。ちゃんと答えて」
「昔の、ともだち」
「女?」
「うん」
「歳はいくつ? どこの人? あたしよりきれい?」
「ただの……ともだちや。なんでもない」
「エッチ、した?」
「そんなこと……。手も握ったことないわ」
 昔の、手さえ握ったこともないともだちからの電話を、なぜそんなにしてまでわたしに隠すのだろう。なんでもないのなら見せてくれてもいいのに。大切にしなければいけない理由などないではないか。わたしはふと後ろのシートに置いてある池沢のカバンを見た。そうだ、彼はいつも手帳を持っていた。調べれば住所や名前など書いてあるかもしれない。ケータイメールはできるけれどパソコンは息子に教えてもらわないとわからん。と言っていたのを思い出した。
 ということはきっと住所なんかも書いてあるかもしれない。
「なんて名前の人?」
「つじもとあきこ」
「ふーん。ちょっと手帳見せてね」
 振り向いて手を伸ばし、止めるのも聞かずに池沢のカバンをつかんだ。ひざの上で開けて本当は手帳を探すつもりだったのが目に付いたのは一通の手紙だった。なにこれ? と取り出したわたしに池沢は「あっ」と声を上げた。取り返そうとする彼の手をかいくぐってドアを開けて外に出た。とたんにむっとした空気に身体を包まれた。頼りない光を投げかけている街灯の下まで走ってゆき、灯りにかざしてみた。それは池沢に宛てた手紙で、裏を返して差出人の名前を見たわたしの心臓は大きく波打った。
『辻本明子』今、池沢が答えたその名前がきっちりとした形の文字で書かれていた。封筒はすでに開けられてあった。指を突っ込んで便箋を取り出そうとするのだけれど封筒の幅と同じくらいに折りたたまれているようで、焦れば焦るほど便箋は指を滑って出てこない。何が書かれているのだろう。消印はうすくてよく見えなかったけれど『5』とか『3』とかに読めた。今年の春頃に届いたものなのか。池沢は何ヶ月も前の手紙をどうして大事そうに持ち歩いているのだろう。明子というこの女と、過去にどんなことがあったのだろう。
 ようやく便箋を取り出すことができた。指先が震えて三つ折りの便箋を開くのさえ容易ではない。ごくんと耳の奥で音が聞こえるほどつばを飲みこんだ。
「沙代子」
 わたしを呼ぶ池沢の声がした。
「やめろよ、沙代子」
 脇から手が伸びて便箋を取り上げようとした。
「いや。読ませて」
 わたしは便箋を隠すように抱えその場にしゃがみ込んだ。まるで聞き分けのない子どもだと自分でも呆れながらも、書かれた内容から池沢とのことを少しでも知るためにと目を皿のようにして一言一句も読み落とさない覚悟でいた。
「うそつき」
 手紙を読み終えて池沢に向って叫んだ。何のことかわからないといった顔で彼はわたしを見た。立ち上がって池沢に詰め寄った。近くで車の走り去る音が聞こえた。大音響でカーステレオをかけながら通り過ぎて行く車もあった。
「十年前に言ってくれた言葉を信じて暮らしていきます。って、なんのこと? 何を言ったの? 十年も前から付き合っていたの? それで手も握ったことがないの。それやのに手紙は大事に取っておくんやね。仕事を替わることとか美術館にいく話とか映画のこととかって、全部あたしにも言うてたことやないの。なんで同じことをこの女にも言うわけ? この女にも相談してたん? あたしじゃああかんていうわけ? おまえしかいてへんって言うたんはうそやったんやね。何でも話し合おうって言うてたのも、隠し事はやめようって言うたのも、全部うそついてたんやね」
 あとからあとから言葉が出てきて止まらなかった。こんなことを言いたいのではないと思っていても、池沢の哀しそうな顔を見てこれ以上問い詰めるのはやめようと思っていても、身体中から噴き出してくる見ず知らずの女に対する止めようのない苛立ちや腹立たしさがわたしを無視して暴走し始めていた。
 わたしの知らない女が、十年もの間、池沢を想い続けていた。そのことを隠して彼はわたしと付き合おうと言った。わたしにくれる笑顔をこの女にも向けていたんだ。もしかしたらわたしよりもこの女を愛していたのかもしれない。
 展望台の涼しさはここにはなかった。纏いつくような蒸し暑さに苛立ちがいっそう募った。鼻と鼻がくっつくくらいの距離まで顔を近づけさらに言葉を投げつけようとしたとき、池沢に抱きすくめられ彼のくちびるで口を塞がれた。
「もういい……。もうわかったから、何も言うな」
 息継ぎの間にそうささやくと今度は舌を入れてきた。池沢の体臭が強く匂った。動こうとすると腰を引き寄せられた。持っていた手紙を落としそうになったが強く握り締めた。そのまま腰が砕けて地面に押し倒されるかと思った。
 長いキスが終わったとき、わたしは池沢の耳元に口を寄せて
「ねえ、じゃあこの女にわたしたちのこと教えてやらない?」
 と、含み笑いをしながら言った。池沢は弾かれたように顔を離すとしどろもどろになって、そんなことはしなくていい。と反論した。それがまたわたしを不愉快にさせた。どうしてそこまで庇うのかわからない。何とも思っていないのなら近況報告と同じじゃない。付き合っている人がいるからもう電話も手紙もよこさないでほしい。と言うことのどこが悪いの。
「そんなことをしなくても、放っといたらええ。もう逢うこともないし逢うつもりもないから」
「でも、この人はなんにも知らないんだからまた手紙書いてくるわよ。電話もあるかも」
「せやから、そうなってもおれからは何もせんとほっとくから」
 池沢はこの女に哀しい思いをさせたくないのだろうと思った。好きな人の口から事実を知らされることほどつらいことはないのだから。でも、逢うことも連絡を取ることもないと言い切るくらいなら、べつに相手が哀しもうがつらい思いをしようが関係ないのでは。
「あなたが書かないんだったらあたしが書く。本当のことを教えてあげるのが優しさってもんでしょ。ね? いい? 諦めてもらいたいんでしょ」
「……わかったよ。好きにしたらええ」
 不機嫌そうに池沢は横を向いた。わたしははしゃいで彼の首にしがみついた。
 車に戻って時計を見ると午前一時を過ぎていた。二、三台残っている車にはついに誰も戻ってこなかったようだ。まだ展望台からの眺めを楽しんでいるのだろうか。わたしもできるなら朝まで池沢と過ごしたい。でも、帰らなくてはいけない場所がある。わたしにも彼にも。
「汗、かいちゃったね」
 首筋にかかる髪をかきあげて池沢に笑いかけたのに、彼はむっつりとしたままだった。まだ気にしているのだろうか。愛してもいない手にも触れたことがないと言いながら何を心配しているのだろう。わたしは持っていた手紙をバッグにしまおうとしてはっと思い当たることがあった。急いで便箋を取り出し車の室内灯をつけた。二枚目、三枚目と探して、目的の箇所に辿りついた。そこには池沢の二人の子どものことが書いてあったのだが『明憲くん』と『明裕くん』という名前が並んでいた。彼の子どもの名前はわたしも知っている。『ノリくん』『ヒロくん』と読んでいるということも聞いた。べつに珍しい名前ではないのだがよく見ると使っている字が『明子』の『明』と同じ字なのだ。
 池沢の名前は圭介という。男の子が生まれたら父親は自分の名前から一字を取って付けたりしたいはずだ。わたしの夫もそれを望んだけれど、あいにく娘しか生まれなかったものだから残念がっていた。些細なこと、と言われればそうかもしれないけれど、指の先ほどの疑念があっというまに膨れ上がってきた。
「圭介の子どもの名前って、この女から一字とってつけたの」
「ええっ?」
 またかというような声と顔でわたしを見た。いいかげんにしてくれよと言いたそうに苦笑いをしてみせたが、笑いごとではない。
「明……って字、使ってるんやね」
「関係ないよ。嫁さんと二人で考えたんや。それと池沢の画数とか……」
 そう言って池沢はサイドブレーキのレバーを下ろし車をゆっくり発進させた。
 カーブにさしかかるたびに大阪側の夜景と奈良側の貧相な灯りが目の前に現れる。このまま奈良方面に下りてゆけば池沢の家がある。けれど分岐点で彼は左にハンドルを切った。
 わたしを送ったあと、彼がもう一度山を越えて自分の家に戻るのは二時ごろだろうか。週に一、二回はこんなふうに逢っている。池沢はそのつど残業だとか何とか奥さんに言い訳をしているのだろう。奥さんは一度でも自分の夫を疑ったりしたことはないのだろうか。
 いつだったかお正月に彼が、「おとうさんからお年玉をもらったりするのか」と訊いたことがあった。わたしはてっきり実家の父親のことだと思い、「もういい年してそんなことあるわけないやん」と笑って言ったら、そうではなくて夫からということだった。えっ? と訊き返すと池沢は自分の嫁さんに毎年感謝の気持ちでお年玉を渡している、結婚してからずっとだと、なんだか誇らしげに言った。それを聞いてしらけた気持ちになったことがある。夫婦喧嘩をしても七歳下の奥さんには言いたいことを言わせておいて、気持ちが鎮まるのを待つだけだと、すまして話してくれた。夫婦喧嘩のことまで聞きたくもないと思いながら、わたしならそんな一段高い場所から見下ろされるようなのはいやだと思った。感情的になってもいいから言いたいことを言い合える仲でいたいと、ずっと願っていた。
 奥さんはそれでいいのだろうか。それで池沢に愛されていると安心しきっているのだろうか。池沢も、そんな奥さんのことをかわいいとか思っているのかもしれない。じゃあ、わたしはどんなふうに思われているのだろう。
 深い仲になってからは土曜日や日曜に車で遠出をしたこともあった。去年の冬には神戸のルミナリエにも行ったし春にはUSJへも遊びに出かけた。平日に仕事を休みバスツアーでカニを食べに行ったこともある。わたしは何とでも言い訳ができる。実家へ帰っていたとか学生時代の友人に逢いに出かけたとか、子どもたちも中学と高校生だし留守番もできる。夫も単身赴任で東京にいるから、わたしのことは何も知らないだろう。
 だけど、そんなふうにして池沢と過ごしていた幸せの真っ只中で、わたしは知らないうちに池沢とこの手紙の女にだまされていたのかもしれない。彼の腕に抱かれて有頂天になっているわたしを見ながら池沢は心の中では舌を出していたのかもしれないのだ。ばかな女だと笑っていたのかもしれない。
「沙代子?」
 わたしが黙り込んでいたので気になったのか、池沢が手を伸ばしてきた。
 ひざを這う池沢の手を握り返しながら「もっと早く逢いたかった」とつぶやいた。明子という女よりも早く彼と逢っていればこんな気持ちにならなくてもすんだかもしれない。そう思うとどんなことをしても彼女に池沢のことをあきらめさせなければいけない。

 家の近くの路地の手前で池沢は車を停めた。路地が行き止まりということもあるが、やはりわたしの家の近くでは近所の目が気になる。いくら夜中とは言ってもだからこそよけい用心しなければならない。「じゃあね」とドアを開けかけたわたしに池沢は、どうしても手紙を書くのかと重ねて訊いてきた。
「そうよ。一日でも早く忘れてもらいたいから」
「ほっといたらええと思うけどな……」
 池沢は遠慮がちにつぶやいた。それを無視してわたしは車から降りた。運転席のほうへまわって窓に首を突っ込んで池沢にキスをした。こんなテレビコマーシャルを見たことがある。
「あさっての金曜に旦那が帰ってくるわ。月曜の朝まで……」
「わかった。東京へ帰らはったらまた連絡してきて」
 その言葉がすごく事務的に聞こえた。池沢はどう思っているのだろう。逢えない日々は苦しくないのだろうか。わたしが夫と過ごすところを想像するとはらわたが煮えくり返るようだと、以前に言ったことがある。その気持ちを今も持ち続けてくれているだろうか。
 遠ざかるテールライトを不安な思いで見送った。みつめあっていたわたしと池沢がほんの少し目をそらせたすきを狙って割り込んできた明子に、何もかも持っていかれてしまうような気がして落ち着かない。夫さえ帰ってこなければ明日もあさっても池沢と想いを確かめ合えるのに。
 気を取り直して路地に向って歩き出した。同じような建売りの家が並んでいる奥から三軒目がわたしの家だ。ここで子どもたちを育てふつうの主婦として過ごし、自転車で十分ほどのガス器具の販売店へパートに出て池沢と出会った。そのとき彼は勤続十数年の、その店では古株だった。一見、とっつきにくそうだったが気さくに何でも教えてくれた。二ヶ月ほどしてはじめて昼ご飯に誘われた。考えるとその頃から池沢を意識し始めたのかもしれない。
 パートを始める以前、幼稚園や小学校のPTAの役員をしたり自治会の仕事でがんばっているとき、同じ町内でそれもすぐ近くで池沢は働いていたんだ。そしてもしかしたら明子といくつもの思い出を作っていたのかもしれない。その頃わたしは何も知らず「うちの主人がねえ……」と、近所の友人相手にのろけていたのだ。そんな自分が歯がゆくてしかたがない。
 十年前に池沢と明子が知りあいだったということは少なくてもそれ以前からの付き合いがあるということになる。昔のともだちと池沢は言った。社会人になってからなのだろうか、学生時代からの知り合いなのだろうか。それで手も握ったことがないというのか。男女の関係もないというのか。そんなのは絶対にうそだ。
 門扉の掛け金を外してゆっくり内側に押した。軋むような音がしてあわてて門扉をおさえ身体を斜めに滑り込ませた。玄関の明かりも消えているし見上げた二階の窓も真っ暗だ。子どもたちはとうに寝てしまったのかもしれない。
こんなことは何度となくあったのに今夜は気持ちが落ち着かない。バッグからかぎを出すときに手が滑ってかぎを足元に落としてしまった。手探りで拾って鍵穴にさしこみ右に回した。ふいに鼻の奥がつんと痛くなって涙が出そうになった。池沢と逢ったあとはいつもじわっと胸に広がってくる甘い余韻に浸れるのに、現に展望台で夜景を見ていたときまではそうだったのに、かかってきた電話と手紙がわたしを混乱させる。
 家の中に入ると微かにから揚げの匂いがした。夕食にと作っていったのがまだ消えずに残っていたのか。気になったが暑いのでそのままエアコンのスイッチを入れた。ダイニングテーブルにバッグを放り出して冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に半分以上飲み干した。それから椅子を引いて腰を下ろし、手紙をもう一度読み始めた。ただのともだちがこんなことを書くだろうか、というような悲痛な叫びのような内容にわたしは池沢の冷たさを見たような気がした。もちろん、わたし以外の女には冷たくして当然なんだけれど、いつかわたしもこのような手紙を彼に書く時がくるのかもしれない。
 わたしと、こんな関係になっていても罪の意識のかけらも見せない彼だからもしかしたらほかに女がいても当たり前かもしれない。それがこの明子だとしても決しておかしくはない。わたしに言う「なんでもない。ただのともだちや」と同じ言葉を明子にも言ってきたかもしれない。もし奥さんにバレたら、奥さんにもそう言うのだろうか。わたしはバッグをかきまわして携帯電話を探し、池沢の番号を検索した。もう自宅に帰っているだろうか。それともまだ山を越えたあたりだろうか。明子に連絡を取っているなんてことはないだろう。耳に当てると短くブッブッと音が聞こえてすぐに呼び出し音に変わった。いつもなら三回ほどのコールで出てくれるのに六回、七回と呼んでも出ない。あげくに切られてしまった。明子がそばにいるにちがいない。電話に出るなと池沢に頼んでいるのだろう。携帯電話を床に投げつけようとしたとき、むこうからかかってきた。
「もうっ。どうして出てくれへんのよ」
「いま帰ってきたとこや。嫁さんが起きて待っててくれてたんや。間違い電話やってごまかしてるからもう切るで」
「いやっ。切らんといて」
「なんでやねん。無理やって」
 はじめぼそぼそとしゃべっていた池沢の声がだんだん大きくなってきた。
「あした電話するから。ええな? 切るで」
「奥さん、いるの?」
「そうや」
「これからセックスするの?」
「あほなこと言うな」
 切羽詰ったような声が低く響いた。切ると言いながら切れないことをわたしは知っている。池沢はここで電話を切ればそのあとどうなるかをわかっているのだ。わたしは手を伸ばしてテーブルの缶ビールをつかんだ。残りを飲んでしまってから「明子とはほんとに何でもないのね」と、話を変えた。
「まだそんなことを言うてんのか」
「女として見たこともないの?」
「そうや」
「昔から? これからも?」
「そうや」
「いつからの知り合いなの?」
「……おれが大学のころ」
「明子は?」
「高校生」
 瞬間、わたしは頭に血が上るのがわかった。池沢が何か言いかけたのを無視してわたしから電話を切った。床に投げようとして振り上げた腕を途中で止めた。かわりにソファーに投げつけた。ぼんと一回バウンドして床に落ちた。
 池沢が大学生のころわたしはまだ小学生だ。それも一年か二年生のほんの子どもだ。大阪南部の街でずっと過ごしていた。住んでいる家と通っていた小学校の近辺がすべてだった。付き合い始めたとき話の流れで同じ私鉄の沿線に暮らしていたことがわかって、同じ電車に乗り合わせていたかもね。と不思議なめぐり合わせに運命のようなものを感じた。
 でもいま池沢と明子の付き合いが三十年以上になると聞いて、わたしが感じた運命などなんてちっぽけな、単なる感傷にすぎないと思った。三十年を男と女としてではなくただのともだちとしてなどこれるわけがない。まったく何もなかったことなどありえない。それなのになぜ池沢はそうもこだわるのだろう。セックスなどなくても二人は心で結ばれていると、流行りの純愛ものを地でいくような関係だというなら、そこまで池沢の心をつかんでしまった明子が憎い。
 わたしと彼は身体だけのつながりなのかもしれない。
 書棚の引出しから便箋を取り出した。三年前、池沢に手紙を書いた時の便箋だ。あれからわたしは彼に手紙を書いたことがない。メールか電話で用をすませている。手紙など書かなくてもいつでも池沢は逢ってくれる。逢いたいといえばたとえ三十分でも都合をつけて逢いに来てくれる。そうよ。わたしは愛されているのだから。決して身体だけのつながりなんかじゃない。一分一秒も離れてられないのは心がおたがいを欲するから。
 ダイニングテーブルに明子が池沢に宛てた手紙を広げその横でわたしは便箋に最初の言葉を書き出した。
『突然このようなお手紙を差し上げることをお許し下さい。わたしは池沢さんと付き合って三年になります』
 彼女に言わなければいけないことは山ほどある。
 あなたよりわたしのほうが何倍も愛されているのだということを、どう書けば伝わるだろうか。「池沢さん」と書いていたのがいつのまにか「圭介」と普段の呼び名で書いていた。圭介がこう言った。圭介がこうしてくれた。圭介が、圭が……。明子は手紙で「圭ちゃん」と呼びかけていた。ずっとそう呼んできたのだろうか。彼はどうだったのだろう。明ちゃんとかアッコとか、そんなふうに呼んだのだろうか。三十年も昔のセピア色の思い出の中に二人のじゃれあう姿が浮かぶようでわたしは頭を抱えてしまった。
 過ぎてきた年数なんて関係ない。無駄に年月を流すより、たとえ短くてもそれ以上のわたしと池沢の想いが詰まっていればそれでいい。濃密で深い時間を作り上げてきたのだからそれでいい。大切なのはいまなのだ。
 わかっていてもペンを進めるにつれて、鉛を飲みこんだような気持ちが胸を支配する。塊はどんどん大きくなってついにはわたしを覆い尽くしてしまいそうになる。それを跳ね除けるように池沢と過ごした三年間の数々のことを思い出しながらもうあなたなどこれっぽっちも愛されていないのだと、繰り返した。最後に、池沢もこの手紙を書くことに賛成していると付け加えて、だからもう一日も早く忘れてくださいと締めくくった。
 これで完璧なはずだった。これを読んで明子は打ちのめされるはずだと思った。それなのに、なんだろう。心の片隅に残る指でつまんだほどの不安。エアコンの微かな唸りが耳にからみつく。書き上げた手紙を前にわたしはしばらく壁の一点を見つめていた。それから視線を動かして壁掛けの時計を見た。針は三時を指している。池沢はもう寝ただろうか。横に奥さんを抱いているのだろうか。脈絡のない思いが次々と頭をよぎっては消えてゆく。
 便箋を四つに折って、封筒に宛名を書き、差出人のところには迷わず池沢の住所氏名を書いた。きっと彼女は筆跡が違うなと、首を傾げるかもしれないけれど池沢からの手紙だというだけで躊躇せずに封を切るはずだ。
 わたしはエアコンのスイッチを切り立ち上がって窓を開けた。まだ夜は明けきっていない。湿っぽいけれどひんやりとした空気をゆっくりと吸い込んだ。遠くからバイクの音が聞こえては止まり、また聞こえてくる。もう新聞が配達されているのだろうか。この手紙もやがて彼女のもとに配達される。わたしはかぎと手紙を握り締めリビングを出、玄関のドアを開けた。

 辻本明子に池沢の名前で手紙を出して一週間が過ぎた。何らかの反応が池沢のもとにあるのではと思っていたけれど、明子は何も言ってこなかったらしい。大好きな「圭ちゃん」が、誰かよその女と不倫をしていると知っても自分には関係ないと構えているのだろうか。それくらいのことで池沢への想いが揺らぐことはないと自信があるのだろうか。
「ねえ、ほんとうに何も言ってきてへんの?」
 夫が帰ってきていたためしばらく逢えなかった池沢と久しぶりに食事に行ったときに訊いてみた。「ああ」と彼はそっけなく答えただけでビールのジョッキを口に運んだ。わたしが黙っていると
「ええんやろ? そのほうが。手紙を読んで沙代子の希望どおりにあきらめたのかもしれんで」
 ジョッキをテーブルに置いて笑いかけてきた。
 そうだろうか。池沢本人からの手紙ならともかく、どこの誰ともわからない女からいきなり忘れろだのあきらめろだのと言われて、はいそうですか、と納得するだろうか。わたしなら、池沢に問いただす。本当に付き合っているのかとか、手紙を書くことに賛成したのか、と訊くだろう。好きならそれくらいのことはすると思う。
 わたしは池沢の顔をまっすぐに見た。三年間は夢のようだった。生まれて初めて愛した人だった。池沢と出会うためにいままで生きてきたのだと思った。誰にも渡したくない。同じ言葉を何度も彼からも聞いた。ほんとうはいけないことなのだとわかっているから、別れを持ち出したこともあった。でもそのたびに池沢は首を振った。おまえは今までつきあった誰ともちがう。別れるなんてことは口が裂けても言うな。そう言って抱きしめてくれた。その事実は消しようがない。そしてそれはわたしへの正真正銘の愛の証だと思っている。
 それなのに、どうして明子という女の手紙を持っていたり、何も言わなくてもいいから放っておけと言ったりするのだろう。池沢の心の奥の底の底には、いったい誰が棲んでいるのだろう。考えるとまた胸がざわざわと波立つ。
 それでも何事もなく日々が流れた。
 単身赴任の夫のもとに二ヶ月に一度くらいの割合で出かけるのだが、それもだんだん億劫になって、でも知らん顔するわけにはいかないのでしかたなく三日ほど池沢と離れて東京へ向った。向こうにいるあいだ池沢からのメールなどはいっさいこないけれど、わたしからは夫の目を盗みメールを打つ。ときには電話もかける。夫が風呂に入っているときや寝入ったあと、声をひそめて話をしているとそれだけで身体の芯が疼く。わたしはわざと池沢を挑発するような言葉を投げつける。そして反応を窺うのだが彼はそれには乗ってこない。「うん」とか「ああ、そう」とかいったまるで上の空のような返事を繰り返すだけだ。まさかわたしがいない間に明子と連絡を取ったりしていたのでは、という疑いが雲のように広がってくる。わたしの声は徐々に大きくなってくる。
「あたしがいないから、あの女と逢ったりしてるんでしょ」
「ほんとうはあの女のほうが大事やと思ってるんでしょ」
「エッチかてしてるんでしょ」
 ワンルームマンションのドア一枚隔てたキッチンで床にしゃがみ込み、昂ぶる気持ちを押さえ切れずにわたしは涙声になっていた。明子の存在を隠していた池沢が憎い。それよりもしつこく言い寄る明子が憎い。愛されていないのだから諦めればいいものをどうしてそんなに執着するのだろう。
「沙代子」
 後ろで夫の声がした。わたしはあわてて携帯の電源を切り尻の下に隠した。何をしてるんや。と言いながら夫は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、そのまま飲んだ。手の甲で口のまわりを拭いながらわたしを見下ろしている。しばらく視線が絡み合ったがわたしから逸らした。
「もう明日帰るんやろ」
 そう言って夫は私の腕をつかんで立たせると、抱き寄せていきなりキスをしてきた。昼間は二人で買い物に行ったり散歩をしたり、ちょっと足を伸ばしておしゃれな街へ出かけたりしていたが、夜になるとわたしは夫の求めを拒んでいた。疲れたとか安普請だからよそに聞こえるとか言って避けていた。
「今度、堺のほうに支店を出すことになったんや。せやからもしかしたら帰れるかもしれへん。もちろん支店長で、や。忙しくはなるけど、おまえと遊びに行く時間ぐらいは作れる。ルミナリエに行きたいって前に言うてたやろ。連れてってやるよ。バスツアーも映画も温泉にも行こう……」
 耳元で夫が笑った。今までそんなことを口にもしなかったのに急に言い出すなんてどうしたのだろう。言葉に詰まって顔を背けたままキッチンの隅の暗がりを見つめていた。そこに何かが蹲っていてじっとこっちを見つめているような気がした。それがいつか、わたしのしていることや池沢への想いを夫にすべて話してしまうのではないかという不安にかられた。
 目を上げると夫がこちらを見ていた。
「ずっと寂しい思いさせてごめんな。今度大阪に帰ったらもう移動はないと思う。家族四人いつも一緒やで」
 わたしは夫からのそんな言葉を待っていたのではない。三年以上ほとんど離れ離れの生活をしてきて、いまさら家族四人一緒だといわれてもわたしの心の中に夫を受け入れる場所などどこにもないのだ。
「おれら夫婦やねんで」
 念を押すように夫が言った。その視線に絡め捕られたように動けなかった。

 東京から帰っていつも通りの生活が始まった。夫と過ごした三日間は忘れることにしている。それはいつものことだ。
 明子の家の電話番号を池沢の手帳で調べて電話をしてみた。家族構成がわからないので彼女しかいないだろうと思える夕方を選んだ。「はい、辻本です」と抑揚のない声が返ってきた。わたしが息を凝らして黙っていると、もしもし? と呼びかけてそのまま切れた。ふーん。あんな声をしているのか。池沢からかかってきたとでも思って膨らんだ期待が瞬時に萎んでしまったような、投げやりな感じがした。池沢にかけるときはどんな声を出すのだろう。もっと楽しげに弾んだ声で話すのだろうか。こうしているときでももしかしたら池沢と明子は電話をしているかもしれない。四六時中池沢を見張っていることもできず、連絡なんかしていないという彼の言葉を信じるしかない。
 でも、池沢へ明子からの電話があった。池沢の顔を見ればわかる。彼が電話をしなくても向こうがかけてくる。わたしがあれほど手紙で言ったのに、何もわかっていない。二ヶ月も三ヶ月も経てばもういいと思っているのだろうか。そそくさと携帯電話をポケットにしまう池沢の手をつかんだ。
「見せて」
「いや、ええやろ。切ったし……」
「なんで庇うの? いつもそうやないの。なんで見せられへんの。あの女からなんでしょ」
「だから、番号だけ見てもしゃあないし……」
「見せて」
 その前の週に二人で京都の東福寺に紅葉を見にいった。そのときに池沢が写した写真の現像ができたというので、仕事帰りに待ち合わせて駅前のカメラ店に取りに来ていた。これからわたしの家にいってゆっくりと見る予定だったのだ。店内に他の客はいない。できあがった写真を受け取り、小声で諍いをしながら店を出た。駐車場に向いながらまだ言い合いが続いた。
「なんでかけてきたりするわけ? 連絡してないっていってたのはうそなん? もう電話するなってこと言うてないんでしょ」
「うそやない。こっちからはしてへんし、ちゃんと言うた」
「でも向こうからはかかってくるってことやね? で、あたしがいなかったら電話に出るんでしょ」
 池沢は押し黙ったままだった。車に乗ってもエンジンもかけずにじっとハンドルを握っている。わたしは池沢の携帯のフリップを開けたり閉じたりしながら手の中で転がしていた。ディスプレイには明子と表示されている。明子。池沢の口から明子と呼びかけることがあるのだと思うとすぐにでもその口を塞いでしまいたかった。
「ねえ、この女の家につれてって」
「は?」
「あたしが直接言ってあげる。もう圭介に電話するなって」
「いや、そんなことはせんほうが……」
「だってあんた言ってないんでしょ。かわいそうとか思ってるんじゃないの?」
「なんで信じられへんのや」
 池沢が突然平手でハンドルをたたいた。普段物静かな彼が語気を荒げた。
 わたしは首をすくめて身体を固くした。くちびるを噛んで言葉を探していたら先に涙が手の上にこぼれた。
「だって、愛してるから。何でも全部知っときたいから。だって、これまで何もなかったやない。明子なんて女も知らんかったし、あたしたちうまくやってこれたやないの。それやのに圭があんな手紙を持ってるから……」
 池沢はわたしの涙におどろいた様子だったが、静かにわたしを見つめて首を振った。彼は指で頬の涙を拭ってくれた。それから髪を撫でながら「わかった。沙代子がそんなに言うんやったら」と、頷いた。
「けど、家まではいかんでもええやろ」と弱気なことを言うので
「なに言ってるん。直接顔見て言うてよ。あたしかて会ってみたいわ」
 と粘ったけれど池沢はこれだけは頑として譲らなかった。しかたがないので住んでいるマンションの前まで行って池沢が電話をする、ということでわたしも納得した。これでやっと邪魔な明子がわたしの前から消えてくれる。もう、池沢の気持ちも振り子みたいに揺れずにすむだろう。手紙を持っていたりケータイに電話番号を登録していることからしておかしい。池沢のまわりにいる女はすべて排除してしまいたい。思い出の中にいる女ももちろんだ。

 明子の住んでいるマンションに着き、池沢が敷地内の角にある駐車スペースに躊躇なく車を停めた。横の金網に「来客用」と看板が出ている。
「へー。よく知ってるんやね」
 けれど彼は無言で携帯電話を取り出すと親指で操作をして耳に当てた。フロントガラス越しに覗き込むようにして上を見上げている。視線の先をたどるとどうやら目の前の建物の三階がそうらしい。こんなふうにして池沢は明子に逢いに来ていたのだろうか。「いま下にいるよ」と電話で呼び出し、ふたりでどこかに行ったり、今のわたしたちのように部屋に上がったりしていたのだろう。ともだちだなんて言ってても、男と女なんだから、何もなかったなんてありえない。胃のあたりが締め上げられるように痛み出した。車から降りて明子の部屋のドアを叩き、面と向って思っていることをぶちまけたい。池沢の心に入りこまないでと叫びたい。
「……だから、まえにも言うたけど付き合ってる人がいてるから、もう電話も手紙もしてこんといてや。こっちは迷惑してるんや。な、わかってくれるか? あ、それとな、いま家の前におるんや。そう、マンションの駐車場……」
 池沢にくっつくようにして聞き耳を立てていたが、明子の声は漏れてこなかった。どんなことを言ってるのだろう。言い返しているのだろうか。ひとことも発することができないままじっと池沢の言葉を聞いているのだろうか。池沢が下にいると聞いて出てくるかなと、わたしも身を低くして覗いたが三階の三番目の部屋のドアは開かなかった。
「じゃあな」
 きっぱりと力を込めて言うと池沢は携帯電話を閉じた。しばらく思いにふけるように手の中のそれを見つめていたが上着の胸ポケットにしまうとわたしに笑いかけた。なんとなく寂しそうな笑顔だった。わたしは彼をなぐさめてあげなければと考えた。
 夜中にいつものように家の近くで池沢と別れた。口数の少なかった彼と反対に、わたしの気分は晴れ晴れとしていた。でも正直言うとまだ八割くらいしか安心していない。残りの二割はあの女のしつこさだ。自分と池沢の間には三十年という年月の積み重ねがあり、それは誰にも超えられないものだと思っているかもしれない傲慢さだ。それを打ち砕くためにわたしははがきを書いた。
 これまでに池沢と訪れたいろんな場所で、二人並んで写した写真のインデックスがあったので切り取ってはがきに貼りつけた。そして場所と日付を書いてこんなにあちこち遊びに行っているのだということと、どこから見ても恋人か夫婦のように見えるでしょうということを、明子にわからせてやりたかった。
 わたしは自分の顔を知られることなど何とも思わない。むしろ、幸せいっぱいの笑顔と池沢とはこんなにお似合いで彼だってうれしそうに写っているのを見せつけたかった。神戸のルミナリエ、USJ、トヨタの自動車博物館、このときはわたしは黒のセーターにグレーのマフラー。池沢は反対にグレーのセーターで黒いマフラーをしていた。そして最近のでは東福寺の燃えるような紅葉の赤に染まってしまった二人。
 写真を見ればさすがの明子もショックを受けるだろう。
 明子がたとえこれを池沢の奥さんに見せたとしてもわたしはかまわない。
 奥さんが怒って池沢と別れることになれば手間がはぶける。彼は以前に、彼の生まれ故郷でもある熊本県の人吉というところにいっしょに行こうと言ってくれた。それは奥さんと離婚してからのことなのかもしれないが、たとえ離婚しなくても必ずつれて行ってくれると信じている。だからそのこともはがきに書いた。わたしたちがもし、家族や親兄弟からも罵られ見放されても、二人いっしょなら熊本に行ってそこで暮らしてもかまわない。そこが終の棲家となっても、わたしはそれを望む。
 そうだ、温泉に行ったことも書かなければ。本当は日帰りだったのだが、
 ──圭はこの頃慣れない仕事で疲れているから、のんびりゆったりと温泉につかりに行きました。はじめてのお泊りです。
 あの女はどう思うだろう。胸の中は嫉妬の嵐が渦巻くだろうか。わたしと池沢が愛し合っているところを想像して身の置き所がないほどの苦しみを味わうだろうか。自分も抱かれたいと悶えるだろうか。
 追い払っても追い払ってもまとわりつく虻のようにわたしと池沢のまわりに現れるからこんな目にあうのよ。できるものならあの女の夢に入り込みくり返し告げたい。
 それから、美術館にゴッホの絵を観に行ったことと彦根のほうへ棟方志功の版画展に行ったこと、節分には安孫子観音へお参りしたこと。来年の初詣には池沢の九十を過ぎたおかあさんもいっしょに行こうと考えてること。それからそれから。はがき一枚では書ききれない。
 美術館へも映画へも、明子はかつて池沢と行ってたんだ。彼のおかあさんに会ったことだってあるにちがいない。どんなことを話したんだろう。高校生のころ、もしかしたら池沢と結婚したいなんてことを言ったかもしれない。彼は明子に熊本の話もしたのだろうか。わたしの知らない過去にわたしの知らない池沢があの女と過ごしたたくさんの日々よりもっと多い日々を、過ごしたい。あの女と話したたくさんの言葉よりもっと多くの会話を交わしたい。そうでなければ負けてしまう。池沢の記憶のひとつひとつに付着しているあの女のことをすべて、取り除いてしまわなければいけない。
 壁の時計は夜中の二時になるところだった。わたしは電話機の子機を取り明子の家の番号を押した。二回、三回と呼び出し音を数えていると訝るように、
「もしもし」と声がした。ゆうべ池沢からきつく言われて落ち込んでいるだろうと思うとおかしくて、あなたの大好きな圭ちゃんの恋人です。と言ってしまいそうになった。明子は苛立ったように「どちらさんですか」と訊いた。わたしは笑いをこらえるのに必死だった。じっとがまんをしていると、向こうから電話を切ってしまった。
 追いかけるようにもう一度リダイヤルを押した。やはり三回ほどのコールで明子が出た。今度は彼女も黙っている。こちらから声を出さない限り黙り通すつもりなのだろう。はがきに貼りつけたインデックスを見ながら小さく笑い声を漏らしてしまった。アッと思ったとき、電話が切れた。行き場のない怒りをすべて受話器に込めたような音が耳に響いた。もう一度、リダイヤルを押したけれど間の抜けたような話中の音が返ってくるだけだった。
 電話はもういい。
 書ききれなかったたくさんのことはこの次にしよう。
 この次、また池沢にちょっかいを出したら、そうだ今度は、妊娠しました。とでも書いて知らせようか。池沢の奥さんや夫にも知らせよう。
 産まれてくる子どもの名前を池沢といっしょに考えなければ。彼の一字をもらって「圭」のつく名前にしようか。それとも彼はわたしの字からつけようと言ってくれるかもしれない。わたしは娘しかいないから男の子が欲しいけれど彼は女の子がいいと言うかもしれない。産まれた子どもと三人で、池沢の故郷へ行って静かに暮そう。そこからまた、明子に手紙を書こう……。



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