月の蓋   西村 郁子


                          
 午前十一時をまわると道路沿いに弁当ワゴンが立ち並ぶ。窓際の席に座るようになって以来、それを毎日眺めている。
 オフィスビルの集まる場所では、露天の弁当売りはよく見かけられる風景だが、とくにわたしの働くビル周辺は多いらしい。半年ほどまえ夕刊紙に『お弁当ストリート』と題されて写真記事が載った。次の日パトカーが何台もやってきて停車しようとする弁当を積んだ車に注意していた。結局その日は一軒も店だしすることができず、ビルからでてきたサラリーマンがワゴンの消えた場所で蜂のダンスのようにまどっていた。
 由美が手を振っている。わたしのいる窓の真下にワゴンを出して弁当を売っている女性だ。確か苗字が宇都宮とかだった。その名に相応しく目鼻立ちのはっきりした女優のような美人である。今年還暦だと聞いたが、誰も信じないと思う。一キロほど離れた場所でカレーショップを夫とふたりで経営しているのだが、夜になるとほとんど客が来ないからと、ここまで出張して売上げをのばそうというのだ。由美がワゴンで弁当を売る日は必ず買わなければという気になる。カレーショップの弁当といってもフライや鶏のから揚げが入る幕の内弁当やそぼろ弁当だった。値段も450円から350円と安くご飯はその場で保温ジャーからよそってくれ、缶のお茶までついているから人気は高い。
 一時すぎに昼休みをとる。十五名からなる部の主任になってから昼はいつもひとりだ。十四人は部下ということだが、わたしを含めて全員女性で派遣社員である。カタログとラジオショッピングで商品を購入した客に購入後の意見を聞くというのが建て前の仕事だが、本来の仕事とされるのは関連商品を勧めて更に買わせるというものだった。
 最年長の四十四歳でみんなより少し長く働いているという理由から主任にならされたが、主任手当てが五千円つくかわりにクレームの電話ばかりまわされ、仲が良かった同僚からも距離を置かれているような気がする。所詮職場で親しくなった人間は関係ももろいものだ。何度かの転職でそれは知っている。しかし職場が同じなのにそうなるとは想像もしなかった。
 ビルをでると数人ずつがかたまって煙草を吸っている。健康に関する法律ができてからビル全体が禁煙になったからだ。男の井戸端会議がそこで開かれている。通り過ぎる瞬間に言葉の切れ切れが耳に入るのだが、その内容は前夜のテレビや事件事故のニュースなんかで、女のおしゃべりと同じだった。
 由美のところへ真直ぐ進む。脇からカレーのいい香りがしてきた。由美の隣りで店出ししているインドカレーのワゴンからだ。
「いらっしゃい。今日は全部売れそうだったから、あんたの分とっといてやったよ」
 発泡スチロールの箱からから揚げデラックスの弁当を取り出した。ライスは別の容器によそう。
「カレー食べたいか」
 由美はおたまで掬う真似をする。
「えっ、あるの、食べたい食べたい」と箱のなかをのぞきこんだ。
「ちょっと、カンちゃん、それかけたって」
 見当と違うほうからカレーがやってきた。コックコートをきたインド人の手にライスのパックが渡りグリーンがかったカレーを注がれる。
「ナンもいりますか」
 カンは黒い指でナンをつかみ紙袋にいれてくれた。
 お金を払おうとすると由美に手を叩かれた。
「お金なんか払わんかてええ」
 そう言って自分のところの弁当代だけを受け取った。
 隣りに店がきた頃は、えらく怒っていた由美だったが、どうして折り合いがついたのか最近は仲がいい。
「カンちゃんにうちの店のコンサル頼んでんねん」
 本場仕込みのレシピを有料で教えてもらっているのだと言う。
「カレーには薬膳的な要素があるんやて。漢方胃腸薬あるやろ、あの成分も入ってるらしよ。あんた、家でカレー作るときためしに漢方胃腸薬いれてみ。腹の薬やから入れて毒やないやろ」
 カレーの具を煮る時に出る灰汁もとってはいけないのだと教えられた。
 両手いっぱいに食べ物を持って歩き出すと、視線が集まった。よく食べる女だと見られているような気がして恥ずかしくなる。早く立ち去りたいが、カレールーが白い容器の縁から垂れてくるのでゆっくり歩くしかなかった。
 ビルの横に公園がある。雨の日以外はそこで弁当を食べることにしている。公営の地下駐車場の上に造られた公園で、道路側の駐車場入口も公園側からみると築山のようにカモフラージュされている。その周囲には萩がフリルをほどこしたみたいに小さな花をいっぱいつけていた。
 花壇には等間隔に人が座り、めいめいが弁当を食べている。公園の真中に水銀灯が一本あって、そこが一番の陽だまりになっている。数羽の鳩が丸くなったり羽を広げたりしながらうつらうつらしている。その間を雀がちょんちょんと跳ね、少し離れて、三毛猫が横切っていく。
 わたしはちょうど人の途切れた場所に弁当をおろした。そこに座ると公園の奥まったところでシートを敷いて座っている女の子たちが見えた。靴を脱いで三人が向かい合って弁当を食べている。
 由美がやって来た。お茶の缶とプラスチックのスプーンを届けにきてくれたのだ。もう終ったのだと言って隣りに腰をおろした。ポケットから煙草を取り出して火をつけ、一息美味しそうに吸って吐いた。
 グリーン色のカレーはココナツミルクが入っているのか脂肪分の丸みと旨みが広がったと思うと、強烈な辛味が口の中を熱くした。カレーライスというより汁かけ飯のようにルーが下に沈んでいるのでどこを食べても辛かったが、ときどき混ざっている干しブトウが意外に美味しい。
「うちのおっさんな、おとついも発作起こして運ばれよってんわ。店はわたしの妹や姪っ子に手伝ってもらってんねん」
 発作といえば脳梗塞のことだった。由美の夫は年金をもらえる年齢だときいていたが、後遺症で呂律がまわらなくなっていた。今度の発作も由美の落着き方から察すると軽かったのだろうと思った。
 煙草をぴんと弾いて灰をおとした。由美の親指の爪は大きくて爪の中が黒っぽくなっている。指先も野菜のアクなのか指紋の溝が黒く沈着していた。三毛猫がまったりとした足取りでわたしたちの前に来た。くるっと向き直ると猫的な正座で差し向かいになった。
「ミィちゃん来たんか」
 エプロンのポケットを探ってカニカマを出す。三毛猫は一度、もじっとお尻を動かした。ひとつを投げてやる。すると、前足を曲げ匂いも確めずにかぶりついた。
 三毛猫がじっと動かなくなった。大きな声が聞こえる方に顔を向ける。少し腰を引いた。三毛猫がカニカマを残して植え込みに走りこんだのと同時にスーツの若い男が大声でわたしの前を通り過ぎて行った。公園の真中に行き、日向ぼっこの鳩を蹴散らす仕草でその場所を占領した。
「あのぉ、あのぉ、わたくしは……、あのぉ、御社の、当社の……」
 男は少し上の方を向いて喋り出した。何を言っているのか聞き取れないが、彼の前に上司が立っていたなら、セールストークの特訓を受けている社員といったところだ。
 楽しげにお弁当を食べていた女の子たちは泡を食って片付けて行ってしまった。公園を見下ろす歩道橋にはサラリーマンが足を止めて様子を窺っている。
「この子知ってるねん」
 由美は煙草を足で踏み消しながら言った。
「うちの店のならびに信用金庫あるやろ。何年前かな、五年くらいになるかな、大学出たてで入ってきたんや。ちょくちょくランチに来てたからなあ。おとなしい子やったけど、こんな時代やろ、神経の細い子はもてへんていうか、しばらく入院してたみたいやけど、結局辞めたんよ。信用金庫は」
「なんで背広着てここにいるんやろか」
 空になった容器をビニール袋にまとめて立ち上がった。もらったナンは紙袋に入ったままだ。
「自分がどこにおるんかわからんのと違うか」
 由美は頭に手をのせて笑った。
 公園をでる時、もう一度振り返って男をみた。右手を胸にあて、斜め上の誰かに向かって同じ説明をくりかえしていた。その先にいる歩道橋のサラリーマンたちは黙って男を見返している。
 ガラガラとやかましい音を立ててスケートボードをする数人が男に気づいて立ち止まった。高校生よりもっと年嵩に見えるのは、顎や頬にはやしている髭のせいだろうか。その中のひとりが、「何やあいつ」と指をさして笑った。違うひとりが「リストラされてんで」と大声をあげた。すぐに関心が失せたのか箱や板でつくったジャンプ台の場所に戻っていく。そこはホームレスの拠点でもある歩道橋の橋脚だった。どこかから拾ってきたソファセットと百本はあるだろう傘が隣接する駐車場の金網にずらりとたてかけられていた。
 ビルの前で由美と別れ、オフィスに戻った。席につくと、ナンの入った袋を鞄を入れてある引出しに押し込んだ。
「主任、これなんて読むんですか」
 カタログを広げてやってきた。
『天蓋付きベッド』と書いてあった。
「テンガイって読むんだけど」
 そうですかと言って立ち去ろうとする。
「ちょっと、それでいいの。何なのか分かるか」
 分かりませんと言って頭をさげた。
「カタログの写真見てみ、ベッドの上に付いてる屋根みたいなのあるやろ、それが天蓋っていうの」
 はあ、と言ったきり黙りこむ。
「注文なの」
 イライラして問いただす。違うと首を振った。
 主任と大きな声で呼ばれた。内線電話が鳴る。クレーム電話だ。相手は五、六十代の女性だった。スチームアイロンを買った客でハンガーに掛けたままで使えるというのが売りの製品だったが、蒸気がもれて熱湯が垂れるというのだ。規定の量を守らなかったり、角度をつけすぎると漏れたりするのだが、不良だといって怒っている。電話ではひと通りの説明をすれば返品に応じてもよいことになっている。返品用紙が手元にあることを確認し、その用紙に書かれてある配送業者に引き取りに来てもらうように言った。
 クレームの多い商品はリストアップされ商品の選別をするセクションに回される。このアイロンもそうだった。
 会社が扱っている商品は多岐にわたり、ベッドなどの家具インテリアから衣類、リビング用品ならなんでも扱っている。カタログは年2回刷られ、ラジオショッピングで紹介する商品は商品課の人間が主力とする商品を選んでいた。台所用品、掃除用洗剤、婦人下着など身近な商品だ。
「主任、三番お願いします」
 内線が鳴れば受話器をとるのに、ここの女の子たちは先に声をかけてから電話を回してくる。気になって仕方がないが、注意して改めさせたところで何一つよくなるとは思えなかった。今以上に孤立するだけだろう。
「いつもの男の人です」
 そう言って電話を切った。外線に切り替った。
 そこは商店街のような場所なのか、耳元でノイズが広がった。
「まだか、おい」
 電話の男が声を張る。わたしは覚悟を決めた。
「お待たせいたしました」
「前からでも後ろからでも履けるスリッパないか」
「ありません」
「そしたら、ウイスキーを入れたら四十八手が浮かびあがるグラスは」
「ありません」
「ベルトの裏がはずせて財布になるやつ」
「お客様、申し訳ありませんがカタログに載っている商品しか扱っておりませんので、百貨店かスーパーなどでお聞きになられては」
 何も言わずに電話は切れた。何が目的なのかまったくわからないが、初老と思われるこの男は毎日電話をかけてくる。一度わたしが名乗ってからは、ずっと名指しでかかってくる。会話の内容も毎日同じなのだ。
 午後八時、専用電話に営業時間外用のテープをセットした。他の十四人は一時間も前に帰って、いない。お腹はさっきからなりっ放しだ。窓の下を覗く。三人、四人とかたまって歩いている。足取りが遅いのは、これからどこかに食事に行くからだろうと思ってしまう。机の引出しをあけて、鞄とナンの袋を持って事務所をでた。
 ビルの二階でエレベーターを降りる。駅に続く歩道橋と連絡しているのだ。ガラガラとスケートボードの音がビルの谷間にこだましている。公園の水銀灯が青白く灯って、ホームレスが数人車座になり呑み食いしていた。ひとりの膝の上に三毛猫がのっている。
 改札を抜けエスカレーターにのると女がふたり横に並んでのっていた。彼女らの前に人はいない。片側を空けておくのが常識だろうと腹が立った。ホームに電車が入ってきたので、少し荒っぽく足を踏みならしてみた。気がついたようだが道をあけようとしなかった。うしろのサラリーマンがしびれを切らし、強引に抜かしていったのでわたしも続いた。
 電車の扉が閉まりほぼ満員の車内を見回すと、前にいた女ふたりが座席に座っていた。よく似たバッグを持ち、同じような靴を履いて、服も同じ店で買ったのかと思うほど類似したものを着ていた。ふたりとも大きな紙袋を持っているから買い物のために来た帰りだろう。この時間だから食事もしたに違いない。ふたりの会話が聞こえたわけではないが、所帯持ちの匂いがする。バッグの抱え方なのか、足の置き方からか全体にリラックスした雰囲気が漂っているのだ。顔をみると穏やかそうな表情をしている。エスカレーターの一件も悪気があったわけではないだろうが、どうやって混んだ電車で座ることができたのだろうという思いが、彼女たちを否定的にみてしまう。
 つり革を持ったまま体を反転させ宙吊り広告を見あげた。家にパソコンを買いインターネットをするようになってから、雑誌も買わなくなった。新聞はもとからとってなかった。
 ちらちらと動くものがあるので視線をおろすと、ホットペッパーと書いてある冊子で口元を隠している若いサラリーマンにあたった。わたしの後方の誰かにサインを送っているようだった。さらにつり革を持ったまま体を捻ってその方向をみる。彼に呼応する人物はいなかった。
 男はにやにやとホットペッパーで顔を隠すように笑っている。腕には高そうな革ベルトの時計をはめていた。着ているスーツにしても昼間の公園の男よりずっといい物だ。電車が駅に着いた。男が降りようとし、明らかに誰かとサインのやり取りをしているので、もう一度振り返ってみると、若い男が小さい身振りながら返事を返していた。
 まっすぐ帰る気分ではなかった。ドアが閉まる直前に電車から降りた。改札のあたりでホットペッパーの男をみつけた。まだにやにやしているように見える。
 わたしはかすみ眼をはっきりさせるときのように、強く目をつぶってから大きく目を開けてみる。やはり見覚えのある顔だった。動悸が早くなり胸がせり出してくるようだ。
 男はわたしの前を歩いている。どの店に行こうか考えながら歩いているようだ。相手はわたしのことを知らない。急に振り向かれても大丈夫、偶然同じ方向に用事があるのだと勝手に言い訳を考えてあとをつけた。
 駅前からはずれ、飲食店と風俗店が入り混じった通りにきた。このあたりには、わたしひとりでも行ける居酒屋やバーが何軒かある。どうせ男は風俗店に入るのだろう。そしたらわたしもどこかの店に入ろうと思った。明日も仕事なので長く居るつもりはないが、念のためカードが使える店がいい。
 男はきょろきょろと左右の店をのぞきみている。相変わらずホットペッパーで口元を隠し、にったりと粘りつくような笑顔だ。派手な電飾の店先に立つボーイに声をかけられては立ち止まり、首を横に振って断っている。どうやら目的の店があるようだ。
 通りのはずれまで来てしまった。男はふらっと古ぼけた雑居ビルの中に入っていった。蜂の巣の形をした正六角形の看板に各階の屋号がでている。男は階段で下に降りて行ったので、地下一階のところを見てみた。居酒屋誠ちゃん、スナックトモ子、そして、ギャラリーサイドバーの三軒だった。どこに入ったのか想像がつかない。見に行くだけだと自分にいいきかせて階段をおりた。廊下は蛍光灯が一本、グレーの壁は濡れているみたいに鈍い光を反射していた。並んだ二軒の店はシャッターがおりていた。壁に取りつけられた看板には誠ちゃんとトモ子とそれぞれ書いてあった。 
 三軒目の店がない。わたしの見間違いなのかと思ったが、男はここに降りてきたのだ。突当たりに非常扉がある。わたしは扉の前に立った。取っ手になった扉は押しても引いても動かなかった。手元を見ると赤いシールで右向きの矢印が貼ってあった。そのように動かすと扉は真横に滑って壁の中に吸い込まれた。すうっと風が流れ込む。土の匂いがした。そこはビルに囲まれた中庭だった。地面との段差は大きな庭石を階段のように配置してうまく降りられるようにしてあった。片足が地面に着くとしゃりという乾いた音がした。もう片方の足も同じように鳴った。まるで霜柱を踏んでいるような脆く崩れる感覚だった。
 中庭の向こうは土蔵だった。壁は化粧が剥げ落ち夜目にはビルの外壁と変わらない。白木の板に墨字でギャラリーサイドバーと書かれていた。重い扉を開けるとすぐ目の前にカウンターがあった。階段を降りてくる足音がし、店員がカウンターの中に入った。
「いらっしゃいませ」
 白いシャツに黒いズボンの店員は静かに頭をさげた。
 髪はクリームでオールバックにセットされている。
「おひとり様でいらっしゃいますか」
 店員は掌をうえに向けてわたしをさした。こくりと頷く。お荷物お預かりいたしますと言ってわたしから鞄を取り上げ、クローゼットにしまいこんだ。
 真っ黒な遮光カーテンが重ね合わされていて、縫うように歩かされた。カーテンをぬけるとそこは本物のギャラリーだった。ポップアートが壁面を飾っている。作品はみんな有名人の顔だ。確かこんな作品をみたことあった。
「アンディ・ウォーホールです」
 カウンターの店員が後ろにいた。
「こちらでお座りになられてもいいですし、二階のサロンでも結構です」
 ううっんと唸った。一瞬自分がどこにいるかわからなくなった。わたしは何をしているのだ。
 後ろを振り向くと階段の下に客がいた。脚の長い椅子にカップルが一組寄り添って座っていた。赤と緑と黄色の層にわかれた綺麗なカクテルがふたりの前に置かれていた。ここにホットペッパーの男はいない。
「二階で」
 そこはいまでいうロフトだった。百六十センチのわたしが真直ぐ立つと頭が天井にあたる。低いテーブルとスツールが三組あった。ここは一人客ばかりで各テーブルに一人ずつ座っていた。
「こちらへどうぞ」
 店員は奥からテーブルとスツールを持ち出して置いた。つまり客が入ればレイアウトが変わる仕組みな訳だ。
 メニューを渡されたが食欲は失せていた。店員を呼んだ。
「下のお客さんが飲んでたカクテルって何」
 店員は少し目をつぶって、
「ギャラリーサイドバーという当店オリジナルのカクテルです」といい、階段を降りていった。
 そういえばバーカウンターは見なかった。いったいどこで作ってくるのだろうなどと呑気なことを思った。この空間のせいか思考がすぐに止る。わたしがここに来たのはホットペッパーの男をつけたからで、居るとしたらここの誰かなのだ。探さないと、と自分に言いきかせた。
 暗い照明のしたでしかも、みな何かを前に置いて削っているのか磨いているのか妙な仕草をしている。三人とも男だったがホットペッパーらしき男はいない。
 店員がカクテルを持って階段をのぼってきた。天井につかえないよう中腰で近づいてくる。シャンパングラスの底から一本の気泡があがっている。どうすればこんな層にわかれるだろう。
「お客様は当店のことインターネットで知られたんでしょうか」
 店員は床に片膝をついたまま話しかけてきた。
「ええ、まあ……」
 次の言葉を警戒してどっちにでも逃げられるように返事をしておく。
「ああ、ではご存知かと思いますが、簡単にご説明をさせてもらってよろしいでしょうか」
 パウチされたメニューをわたしの前に置いた。
「当店はワンドリンク付きの入場料二千円です。こちらは時間制になっておりまして、一時間ごとに二千円もらい受けております。ドリンクは最初の一杯です。フードやドリンクの追加はその料金を加算させていただいてます。一階はご飲食のみとさせていただいてますが、二階では、サヌカイトの製作をしていただいても結構です」
 店員は黙ってフロアの客を目で指さした。
「こちら玄関こられるとき、サクサクっと音がしませんでしたか」
 確かにしたと、頷く。
「あれもサヌカイトですが、音のでない分なので庭石として敷き詰めているのです。サヌカイトは水晶より固く楽器のような音色のでる石です。讃岐、香川県が採掘地です。こちら一般的には玄関や応接間などに吊るして合図用に使ったり、装飾品、仏具としても使われてきました。石の楽器としても有名です。こちらでは掌サイズまでのサヌカイトを磨いてもらって石の命と戯れていただくというのが目的です」
 もちろん石代は別だった。その時、ひとりの手元からチ―ンという高い澄んだ音が聞こえた。耳で聴いたのではなく骨が聴いたという感じだった。
「わたしもします」と即座に言った。
 店員はテーブルを出してきたのと同じところへ行き、もち箱のような大きな木箱を抱えて戻って来た。
「石に値札をつけてあります。ドとかレとかミと書いているのは石琴を作られる目安ですね」
 箱から石を掴みだした。その石は三千五百円だった。おみくじのように最初に掴んだものを選ばなければならない気がして、そのまま手元に置いた。
 ミニチュアの鉄鎚を渡された。ロックハンマーというらしい。固い石を細工する時に使う。店員から簡単な説明をされる。石は削るとか割るのではなく、はつるのだそうだ。石の表面に付着している別の石を取り除く、そうすると澄んだ音が出るようになる。
 やってみると案外楽しい。粒子が大きいのか粉が舞うこともなく剥がれてゆく。剥がれる方の石はサヌカイトよりも白っぽく硬度も弱かった。
 別に仕上げなくてもよいと言われたのだが、やめる事ができなかった。自分が大きな卵の中に入っているような、隔絶されているというのに温かで包まれる感触から離れることができないのだ。終ったと手を止めたとき、サロンにはわたしひとりしかいなかった。
 手をあげて店員を呼ぶ。
「ごめんなさい、閉店は何時ですか」
 手をおろしながら腕時計をみた。
 二時五十分。一体何時間やっていたのだろう。
「閉店は五時です。仕上がりましたね。素晴らしい」
 わたしの石をみて言った。
 この石は最初ごつごつと角ばっていたのだが、すっかり周りを削ぎ落としてしまって、ホテルで常備している小さな石鹸のようになった。店員が石を載せる木枠をもってきた。ロックハンマーで軽く叩いた。
 チ―ン。あの音が聞こえた。クリスタルグラスが触れ合うような音だった。
 もう今さら急ぐこともないのだと、ドリンクを注文することにした。店員は疲れた様子もみせず、オーダーを
とりにきてくれた。
「響きをロックで」
 まるで音楽のことを言っているようだと思った。
 すぐにロックグラスに入ったウイスキーが運ばれてきた。

 朝一番にきかされたのは、会社が業務提携するという話だった。通販業界では古株だったが、このところのネット通販に押されて業績はさがる一方だったので驚くことではなかった。わたしのような派遣社員は浮き草のようなもので、水盤から水盤へ移ればよい。処遇はすぐにわかるだろう。
 社員たちが深刻な顔をつき合せているのを見ながら、いつもの業務をこなしていると、昨日天蓋ベッドの読み方を聞きにきた娘が前に立った。
「主任、わたし結婚するんです。あのこれを」と言って四角い封筒を差し出した。
 裏をみると扇の形をしたシールが貼ってある。
「お式に招待してくれるの」
 この娘は親に言われたのか、会社の上司としてわたしを呼ぶつもりらしい。日付をさっとみる。十二月二十三日となっている。クリスマスイブの二十四日は土曜日なので三連休の初日かとカレンダーで確めた。しかし、ひと月半後、わたしはまだこの娘の上司であるかどうか怪しいものだった。
 返信用のハガキもついていたのであえて何も言わずに受け取った。その時、気がついた。昨日ベッドのカタログを見ていたのは自分のためだったのだ。事情を知らなかったとはいえ、きつい物言いをしてしまったことを後悔した。
 何か言いたそうにしていたが、わたしが黙っていたので席に戻って行った。そうか、わたしはおめでとうの言葉さえかけてあげなかった。すぐ席を立ち、彼女のところへ行った。
「おめでとう。びっくりして何も言えなかったのよ。それで仕事は辞めないのね」
「いいえ、実は今月で辞めるんです。結婚すると彼の仕事の都合で広島に住むことになるので」
「転勤になったのね」
「新卒なんです」
 早すぎるなと心配になった。けれど彼女は堅実なタイプにみえる。感情の盛り上がりだけで決めた結婚ではなさそうだ。
 えっ、結婚するの、とわたしたちの会話を聞きつけ、まわりが騒ぎ出した。まだ誰にも話してなかったようだ。そして、わたしはあっという間に輪の外に放り出された。
 自分の席に戻る。若い娘たちの最大の関心事は恋なんだなあと円陣を見つめた。それにしても、わたしはなぜ招待されたんだろうかと四角い封筒の縁をなぞってみた。式に着ていく服だって用意しなければならない。大きな円卓に濃紺のワンピースを着て座る自分を想像した。
 はぁっと溜息がでた。
「何、溜息ついてるんですか」前に座っている後輩に笑われた。
「主任もまた結婚したいですか」
 あけすけに質問してくる。彼女もバツいちなので遠慮がないのだ。
「わたしはもう嫌ですね。同棲くらいならしてもいいけど、結婚には希望をもてない」  
「子どもは欲しくないの」
 まだ二十代だったはずだ。結婚期間は半年ときいた。新婚旅行先で離婚を決めたそうだが、何があったのか話さなかった。
「子ども嫌いですから」
 あっさりと言われた。
 マニュキアを欠かしたことがなく、洋服もたくさん持っているようだ。女として売り出し中の彼女の隣りにいると場違いな気がしてならない。
 今日も由美が弁当を売りに来ている。
 最近は気候がいいのでこの時間が楽しみだ。わたしが公園で弁当を食べ終わったころ由美がやってきた。
「あした岩国に行ってくるわ」
 出し抜けに言った。明日は土曜日だが、カレーショップは年中無休ではなかったか。
「土、日は暇なんよ、店は。妹らに頼んで行こうと思てるねん」
「旦那さんはええの」
 たとえ法事だとしても夫は入院中なのだ。
「その旦那のために行くねんがな」
 岩国は夫の里で先祖の墓のあるところだそうだ。
「長いこと参ってないやろ。叱られたんかもしれへんし、まだおっさんを連れて行かんといてって頼んでくるわ」
 口悪く言っているが、由美の目が潤んでいるようにみえた。早くひとりになりたいと、夫と喧嘩したあとには吐き捨てるように言っていたが、そんなものなのかと本音をのぞいてみて思った。
「墓だけはすごいんやで。昔は岩国で海苔を作ってたんやけど、屋敷には上女中、下女中とおってな、旦那は五人兄弟やってんけど一人ずつ女中さんがついててん。車は外車が五台あって学校の送り迎えもそれでしてたんや」
 本家はとうに潰れてしまったそうだが、分家たちが残っている。
「あれ、ミイちゃんってお母さんやったの」
 三毛猫が真っ白な子猫とじゃれ合っている。
「ほんまやね。お腹大きかったけど、産んでちゃんと育てとったんやね」
 由美はそう言うとエプロンのポケットからちくわを取り出した。
「あんたは、いい人おらへんの」
 ちくわをちぎって足元に置いた。三毛猫が子猫をほってこちらへ走ってくる。子猫は毛糸玉のように転がってもがいていた。公園中の視線が向けられているとも知らず、ブレイクダンスまがいの回転を何度も繰り返していた。子猫の回路が突如繋がったかのように、母親を探すように臭いをかいでいる。わたしたちの足元で悠々とちくわをかじっているのが分かるとお腹が地面に擦れる勢いで走ってきた。
「いませんね」
 FAQだなと思った。「よくある質問」を英語の頭文字をとってこう略す。ここで正直に話すのは得策ではないと分かっている。いい人を欲しいと思っていなくても他人はやせ我慢だととって信じてくれないのだ。
「必要だなって思うことはありますね」
 必ずこう言うことにしている。すると向こうは何も言い返せないのだ。
 千回も夢にみる人がいる。名前を山路修というのだが架空の人物なのだ。十年前に夢に最初に出てきてから、ずっと現われるようになった。それが昨日のホットペッパーの男だった。サロンにいた客は何度も確めたがいなかった。一階のカップルだった男もスーツの色が違っていた。話をした店員以外にもまだスタッフがいてそうだったが何人いるのかも分からない。だが山路修はそこに居た。最後に会計をして外に出ようとしたとき、店のゴミ箱に丸まったホットペッパーが捨てられていた。ゴミ箱は入口を塞ぐように置かれており、わたしに見つけてもらうためにそうしたように思えた。
 以前、友だちに夢のことを不思議なことだと話したら、離婚のショックであなたが創りだしたんでしょうと言われた。別れた夫と山路修とは容姿も気性も全く違う、と言うと理想の夫を創ったんだろうと、またあっさり言われた。
 わたしが創りだしたとしたら、どうして山路修はわたしの自由にはならないのだろうか。好きで好きで堪らず、いっしょになりたくて仕方がないのに、いつも次にもう会えないという結末になってしまう。夢では山路には妻子がいるのだ。そして山路はわたしではなく妻子のほうに帰ってゆく。どんなにわたしを愛してくれていても行ってしまうのだ。電話もつながらなくなって。
 どうせわたしの頭の中で創りだすなら独身にすべきだろう。それがどうしても出来ない。朝目が覚めると、とても悲しい気分なのだ。それだけはいつも現実だった。
 きっと友だちはこう言うだろう。潜在意識に喪失感があってそれが現われているとかなんとか。わたしは分析より方法を知りたいのだ。
「何、さっきから考え込んでるの」
 由美にからだを揺すられた。
「兄ちゃんきたで」
 昨日とはまるでテンションが違う。無言で公園の隅を歩いていた。とても早足で花壇に沿って歩くので弁当を食べている人が驚いて顔をあげている。
「どっから来てるんやろうね。家族は知ってるんやろうか」
 このひとりのサラリーマンのおかげで、大勢のサラリーマンが生き延びているみたいな気がした。死ぬまで踊りつづける赤い靴を履かされ、ビジネス街に縛りつけられているのだ。
「今度、信金の人が店にきたら尋ねとくわ」
 由美も忍びないと思ったらしい。
 昨日と同じ場所に立ち、パントマイムのように身振りだけで誰かとのやり取りを始めた。
 由美も考え事の最中のようだった。煙草の先に長い灰がくっついている。
「わたし戻るね。明日気をつけて」
 由美の肩に手を置いた。細い小さな肩だった。こんな華奢なからだではひとりで生きていけないのかもしれないと感じた。
 職場に戻ると急に不安な気分になった。理由もなくだ。胸の奥をサンドペーパーでこすったようなざらざらした感じ、としかいえないが、公園で日光をあび、すっかり開いてきたせいかもしれない。閉じきるまで我慢する。
 一斉に電話が鳴り出す。これは三時のラジオショッピングが終ったからだ。今日は婦人下着だった。事前に番組表でチェックしておくと客とのやり取りがスムーズにいく。資料にサイズ表と実寸のことが書いてある。Mサイズの人のヌードサイズはウエストが六十七センチから七十四センチ対応のようだ。お腹のでっぱりを強力な繊維で圧迫しシルエットを綺麗にするこの手の商品は最近よく売れる。この商品の購入者にはダイエット関連のものを勧めると反応がよいのだ。
 完全に閉じきった感覚がある。仕事のときは閉じた状態でないといけない。閉じるとは感情の噴出し口に蓋をするようなものだ。うだうだと相談しながら注文する客にイライラもせず受け答えをする。怒っている客に要点を聞き出す要領がいる。一日が終わり蓋をあけるとわっと出てゆく。いやみんな蓋なんかいちいち開けてないんじゃないだろうか。きっとそんな切り替えスイッチに気づきもしていないのだ。
 帰りがけに回覧がまわってきた。結婚する娘のお祝いパーティを企画したものだ。みな出席に丸をしている。わたしも出席に丸をうった。居酒屋のテーブルでぽつねんと座る自分の姿が浮かんだ。それも呑み込まねばならないのかと思った。
 日報を書き終え、帰り支度をする。上着のポケットのなかに昨日の石が入っている。ポケットに手を入れて石を触りながらエレベーターに向かった。社員の男と廊下ですれ違った。お疲れ様というと手を振ってかえした。擦るような歩き方で会議室に入っていった。
 エレベーターを二階で降りる。大きな自動扉をぬけると外は肌寒かった。
 今夜は月が遠くにある。向かいのビルのほぼ真上に満月がでている。その横に赤い星がルビーの小石のようにくっついている。月は不思議だ。ある夜は芝居の名月赤城山のようにどでかい満月が地面すれすれにでていると思えば、急に地球から離れてしまったような小さな月もある。右にあるかと思えば左にある。
 首を竦めながら少し歩くと公園がみえる。わたしは手すりに近寄って公園を見下ろした。そこには昼間のサラリーマンがいた。水銀灯に凭れかかるように胡座をかいて眠っている。首は垂れ、だらりとした手に菓子パンと牛乳パックを持っている。牛乳パックは水平に傾き地面にこぼれていた。それを三毛猫が舐めている。胸元がもぞもぞ動いたと思うと背広の中から白い子猫が顔を見せた。
 男はくらりくらりと舟をこいでいる。起きているようにも見える。
 わたしはポケットから石を取りだして、目の前に持って、男に重ね合わせた。
「もういいよ。もういいよ」と唱える。
 今度は真上にある白い月に重ねあわせた。石は蓋のようにぴったりだ。
 石は月を覆い隠しわたしの手の中にある。ルビーの小石のような赤い星もわたしの隣りにきてくれたみたいで温々と心地よい。わたしの上にはオリオン座の四角が三つの星のベルトも鮮やかに輝いていた。

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