今年の六月二十五日、アマ竜王戦という将棋トーナメントで、「激指」というコンピュータソフトがベスト16まで勝ち進んだ。アマ竜王戦には県代表クラスの実力がなければ出場できないので、その代表に勝ったということは、「激指」がアマ五段相当の力を持っていることになる。
このニュースを聞いて、早速ソフトを手に入れて対戦してみたが、全く歯が立たなかった。私の実力はアマ二段程度で、三年前くらいのソフトではそんなに負けることはなかったのにと、ショックを通り越して驚嘆してしまった。長足の進歩である。終盤の詰むや詰まざるやの場面では、プロ棋士よりも早い判断が出来ると言われている。確かに長手数の頓死を食わされることが何度もあった。
二十年程前、将棋プログラムを戦わせる企画があって、面白そうだから私も一丁やってやろうかと取り組んでみたことがあった。手始めに詰めることが出来るようにと、詰将棋プログラムの解説書を参考にしながら、アセンブラ(機械語)で挑戦してみた。当時のコンピュータの処理速度では他の言語では遅すぎて使い物にならず、やむを得ず直接プロセッサーに命令を出すアセンブラを使ったのだが、メモリ容量の制限もあって、7手詰めが精一杯だった。それだけで疲労困憊してしまい、とても将棋を指すプログラムまでたどり着けなかった。数学的には、ミニマックス法とαβ枝刈りという方法を使うことは分かっていたが、それを実現させるやり方を考えると、途方もない時間が掛かりそうに思えて挫折したのだ。
当時の将棋プログラムの目標はアマ初段程度だったと思う。それが今やコンピュータの進化とプログラム技法の進歩でアマ五段相当までになったのだ。あと十年もすれば、プロ棋士と同等の実力を持つようになるかもしれない。
数学のゲーム理論では、「二人で行う・零和・有限・完全情報・確定」のゲームには必勝法が存在するということが証明されている。オセロ、チェス、将棋、囲碁のように、二人で交互に手を指し、局面が完全に共有されていて、有限回数の手数で勝ち負けがつくゲームには、必勝法が存在するというのである。ただ、現時点ではそれらのゲームの必勝法は見つかっておらず、見つけるには膨大な計算をしなければならない。先に述べたゲームは計算量の少ない順に並べており、オセロの必勝法は近い将来に見つかると言われている。
チェスに関して言えば、一九九七年にその当時世界最強と言われていたロシアのカスパロフに対して、IBMの開発したディープ・ブルーというチェス専用マシンが挑戦し、六戦二勝一敗三分で勝利を収めている。ディープ・ブルーは1.4トンもの重さのある専用コンピュータで、毎秒一億九七〇〇万手を読み、開発費は五〇万ドルも掛かったと言われている。現在世界最強とされるチェス・ソフト「ディープ・フリッツ」は、普通のパソコンで動き、一〇〇ドル程度で市販されている。二〇〇二年に世界チェスチャンピオンと対戦したときは、プロセッサー8基を搭載する四万ドルの「WindowsXP」パソコンで動かし、引き分けに終わった。
高校生の時に見た「2001年宇宙の旅」という映画の中で、HALという宇宙船のコンピュータが宇宙飛行士をチェスで打ち負かす場面があったが、その当時夢物語と思っていた事態が現実に起こってしまったのだ。
チェスの場合は、相手に取られた駒が盤上からなくなっていくので、計算量はどんどん減っていく。それに比べて将棋は取った駒が再び使えるので、計算量が減らない。それだけプログラムを作るのが難しくなる。
人間が将棋を指す場合、一つの局面で大体有効な手を三つから四つくらい選び、それらを組み合わせて先を読んでいく。仮に有効な手が四つずつあって十手先まで読むと、最終局面は一〇〇万を超える。その中から最も有利な局面を選ぶのに、人間の場合は大局観という物差しで判断するのだが、コンピュータでは局面評価関数というものを使う。駒の損得、盤上での駒の働き、王を守る堅さなどを数字に置き換えるのである。もちろん序盤、中盤、終盤によって評価関数が変わってくるのは言うまでもない。
人間は大体直感で有効手を選んでいるが、コンピュータの場合、直感はないので計算で探さなければならず、それが結構難しい。ディープ・ブルーではすべての手を読んで有効手を決めていたようだが、将棋でそんなことをしていたら計算量が膨大になって実際的ではない。そのあたりの探し方にプログラマーの苦労があるようだ。有効手を漏れなく見つけ、出来るだけ深く読み、局面評価を正しく出来れば、最強のソフトになるのは間違いない。
チェスでは駒が取られても相手に渡らないので、戦力のバランスの崩れは小さいが、将棋では相手の駒になるのでバランスの崩れが大きい。それが将棋に引き分けの少ない理由になっている。チェスのトップクラスの試合では引き分けばかりで、なかなか勝敗のつかないことが多い。人間を打ち負かしたチェスのプログラマーたちは、勝敗のつきやすい将棋に注目しており、毎年開かれる世界コンピュータ将棋選手権にも海外のソフトが参加し始めている。
チェスに続いて将棋もやがてコンピュータが名人を打ち負かす日が来るだろう。私が死ぬまでにそんな日が来るかどうか、わくわくしながら見守っていきたいと思う。
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