「せる」も七〇号を迎えることとなった。記念号というほどの数字ではないにしろ、七〇というきりのよい数字にはなにかしら人の心をそそるものがあるらしく、一身上の都合で、しばらく小説を書くことから遠ざかっていた私も、夜ごとパソコンを立ち上げてはキーボードをいじることに熱中していた。ただ、追いつめられなければ仕事をしようとしないものぐさな性格は変わろうはずもなく、締め切りはもう間近に迫っている。
その日もひとしきりキーボードと格闘し、想念をねじ伏せては文字の形にしぼり出していく作業を続けていた。白く輝く液晶画面には、もはやぎっしりと文字が詰め込まれ、カーソルの明滅が入力されるべき次の言葉を息を潜めて待ち続けている。頭の芯が熱く痺れている。
──悪くない。
ほくそ笑んで、背もたれに深く背中を預ける。久方ぶりの、この手応え。
しかし、頭の中の醒めた部分が冷静につぶやく。追いつめないように。もう、獲物は捕らえたも同然だ。ふるえている濡れた毛皮がはっきり目の前に見える。くれぐれも追いつめないように。そして、いかにも関心がなさそうな風情の影に、一撃で獲物をしとめる気迫を殺しておくこと。ぎらついた目で突進すると、目の前でふるえていたそれは、いとも軽々と空中に四散して、きらきらと輝きだけを残して消えてしまう。今は、一息入れる時だ。
おもむろに立ち上がり、台所へ行く。蛇口をひねり、口を付け、生ぬるい水を飲んだ。脱稿までは、もうあと二、三日かと思われた。一日中エアコンもつけずにパソコンに向かっていたせいだろう、生乾きの汗がべったりと膜を作っているようで、息苦しいほどだった。シャワーを浴びたかったが、そうするとかろうじてつなぎ止めていたものが離れていきそうだった。
一息入れて、再びパソコンの前に戻ると、パソコンの様子がおかしい。画面が真っ青になっていて、英語で白い文字のメッセージが表示されている。目を凝らして読むと、どうも、「システムの入ったディスクを入れろ」という内容のようだ。初めて遭遇する画面だったので、何がなにやらわからないまま、とりあえず再起動してみることにした。書きかけの原稿は、休憩の前にハードディスクに保存していたので不安はなかった。しかし、再起動が効かない。冷却のためのファンは、今まで聞いたことがないほどの唸りをあげ、パソコンの筐体からは乾いた奇妙な機械音が聞こえてくる。青い画面は時折ちらつきながら、「システムの入ったディスクを入れろ」と要求し続けている。やむなく電源ボタンを押し続けて、強制終了を試みる。それまでの騒々しい機械音が、一気に落ちて、静寂が戻った。いやな後味だった。もう一度、電源を入れた。OSの立ち上がる最初の場面が表示され、しかし、そこから先は画面がぴくりとも動かない。妙な機械音は一定のリズムを伴った繰り返しになり、再び画面が真っ青になった。「システムの入ったディスクを入れろ」と、英語がまた表示された。汗がにじみ出して、あごの先からしたたっている。暑さのせいだけではなかった。何回か電源のオフとオンを繰り返した。その繰り返しが徒労だとわかるまでには、まだしばらくの時間を要した。何度繰り返しても、二度と正常にパソコンが起動することはなかった。青い画面に浮かび上がった意味のないエラーメッセージが、目の前で無機質な表情で笑っていた。
使用説明書を引っ張り出して、サポートセンターの電話番号を探した。それは、分冊にはなっているが、あわせると電話帳ほどの厚さになる説明書の、最終分冊の最終ページ、さらにその隅に小さく印刷されていた。市外局番は東京の番号になっている。汗で滑りそうな指先で、電話機のボタンを押す。返ってくるのは、話し中の断続音。サポートセンターにかけるときは、いつもこれだ。リダイヤル、リダイヤル、リダイヤル。目の前のパソコンを立ち上げようとするむなしい努力と同じだった。三十分ぐらいはかけ続けていたかもしれない。ようやくオペレーターの乾いた声にたどり着いた。サポート担当者につながるやいなや、息せき切って症状を告げる。一気呵成にしゃべり終えると、ややあって、いくつかの質問があった。目の前のパソコンの状態を見ていれば、簡単に答えられるものばかりだった。やがて、担当者が言った。
──ハードディスクの、物理的なクラッシュだと思われます。気温が高いところで連続使用なさっている場合、回転軸の部分に無理がかかって、破壊される場合があるのです。
何のことだかよくわからなかった。
──暑い時期は、よくこの症状が報告されます。
そんなことはどうでもよかった。修理が可能なのか、ハードディスクに記録してあるさまざまなデータはどうなるのか、それが知りたかった。
──修理内容としては、ハードディスクの換装ということになります。お客様のデータの復旧は、サポートしておりません。
──データの復元は、どうしても無理ですか。
しぼり出すようにして聞いた声が、受話器の中で、誰か見知らぬ人の声のように反響した。
──残念ですが、弊社ではデータ復旧はいたしかねます。私見ですが、物理的エラーと思われますので、専門のデータ復旧サービスを利用された場合でも、数十万円以上の費用がかかると思われます。また、それだけの投資をしても、データが完全に復旧するかどうかは、未知数です。
もう、十分だった。サポートセンターの対応としては、マニュアル以上の仕事といってよかった。礼を言って、受話器を置いた。
データのバックアップは、とっていなかった。MS−DOSの時代からパソコンを使い始めて二〇年近く、ハードディスクの事故には今まで一度も遭遇していなかった。完璧に密封された磁気記録装置には、それ故の圧倒的な信頼感があった。しかしその信頼は、あえなく潰えた。二〇年近く、営々と書き留めてきた様々な文字列は、すべて失われてしまったのだ。
時計を見ると、午前三時を過ぎていた。もう一度だけ、と思い定めた。エアコンを設定限度いっぱいの低温に設定し、扇風機からはパソコンの筐体に強風を送り続けた。十分に温度を下げたところで、電源スイッチを入れた。しかし、画面に表示されるのは、青い画面とエラーメッセージだけだった。機能が不可逆的に失われたのは、間違いなかった。長い息を吐いて、力を込めて電源ボタンを押し込んだ。しばらく押し続ける。ぷつん、という音がして、画面が真っ暗になった。筐体からの奇妙な音も、聞こえなくなった。
まだ熱が残っている筐体の背面をむき出しにして、コンセントにつながっているプラグを抜いた。そして、あちこちにつながれているコードやケーブルも一本ずつ抜いていった。白や赤や青や黒の色をそのままに、机の上に投げ出されたそれらは、死体から引きちぎられたあまたの血管のように見えた。
新しいパソコンを購入し、以前のパソコンとほぼ同じ環境を構築するのに、数日を費やした。お気に入りのソフト、お気に入りのアイコン、お気に入りのデスクトップ。可能な限り、以前のパソコンと同じ操作感覚に近づけた。そして、ディスプレイの上で、まずマイ・ドキュメントを開く。この作業が、パソコンを立ち上げた後のお決まりの手順だった。設定が完了し、手慣れた手順でマイ・ドキュメントを開いたとき、改めて失われたものを実感させられた。フォルダの中には、何一つ存在しなかった。広大な無辺が、茫洋と広がっているばかりだった。少ないとはいえ、心を込めて書きつづってきた文章はもちろんのこと、日々の雑感を記し続けてきた日録も、デジタルカメラで撮りためた画像データも、住所録も、私信も、電子メールのアドレスも、あらゆるものが失われていた。どんなに前のパソコンと同じ操作感覚に近づけたとしても、データまで元通りになることはあるはずもなかったのだ。私は、真っ白なウィンドウを凝視しながら、失われた過去を呪うことさえできないでいた。
しかし、呆然とばかりはしていられない。次に私がしなければならないことはわかっていた。なにはなくともバックアップの作成である。今回はぬかりなく外付けのハードディスクも同時に購入しておいた。本体のハードディスクと全く同じものを、外付けのもう一台にそっくりコピーしておこうという魂胆である。こうしておけば万が一本体がクラッシュしても、外部に本体と全く同じものがコピーされているので、それを使ってすぐに復旧ができるのだという。
手順はさして難しいものではなかった。画面の指示通りに進めていくだけで、過去を失った私の電脳空間が、あっというまにもう一つできあがった。あっけないものであった。
クラッシュで失われた物語は、締め切りまでについに完成することはなかった。私の頭の中にかすかな光芒だけを残して永久に消え去ってしまった。惜しむ気持ちがないといえば嘘になるが、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。
新しいパソコンになじんでいくにつれ、最初は強く感じた違和感も、少しずつ薄れていった。前のパソコンを使っていた六年間での、性能の進化は圧倒的で、一つ一つの操作が的確で無駄がなく、新たな翼を得たような爽快感があった。その翼で、過去のない世界、現在と未来しかない世界を軽々と翔ていくのは、真っ白な紙に、一字を置く、そのときめきと戦慄を秘めた、新たな人生の始まりにも似ていた。
(略)
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