困難な出来事に出会うと、武治はよく、大学時代に海水浴場で、あるいは、卒業後には街のスイミングスクールで、泳ぎの練習をしたことを思い出す。
武治の通っていたのは教育系の大学で、卒業後は教師になる者がほとんどだった。彼もそれを望む一人で、教師になること以外何も考えていなかった。
四回生になり、教師の採用試験が話題になるころ、大学から、教師には泳ぎの力が必要なので、今年から、採用試験に水泳が加わり、受験に必要な書類の中に水泳ができるかどうかを記載しなければならなくなった。それで七月某日に水泳のテストを実施するという通達が張り出された。噂によると、テストには教育委員会も立ち会い、委員会のテストも兼ねられるのだということだった。
武治は玄関の掲示板でこれらを読んだとき、目がくらむほどの強い衝撃を受けた。足が震え、近くにいる友人に気づかれ、「おい、どうしたんだ」と言われたほどだった。今までの人生の計画が一度に崩れ去っていくような気がした。
武治の育ったのは街から遠く離れた山村で、当時、プールなどというしゃれたものは都会の学校でもそう多くはないのに、ましてや、武治の学校のような田舎の学校にはまったくなかった。それに、近くで泳ぎに適するような川や湖といったものはなく、級友たちの多くはため池で泳いでいた。それは子どもたちにとっては危険な場所で、村の子どもたちがこれまでに何人も溺れて死んでいた。だから教師たちは、子どもたちを脅かして、ため池には絶対に近づかないようにと繰り返し注意していた。親たちも同じことで、自分の子供が池で泳ぐことを厳しく禁止していた。それでも、子どもたちの中には、年上の子どもに頼み込んで、ひそかにため池や川の淵などに連れていってもらい、彼らといっしょに泳いだ者もいた。だから、村の子どもでも泳ぎの達者な者は何人もいた。
しかし、武治は、すでに父親が病死していたし、連れて行ってくれるような適当な人も見あたらず、それに、まじめで小心な性格だったので、学校の言いつけをよく守った。だから、当然、泳いだ経験は一度もない。
えらいことになったと日々悩んでいたが、意を決して、友人を一人伴って、海に行き、彼から泳ぎの手ほどきを受けた。その後、毎日、二時間かけて海水浴場にまで出向き、泳ぎの練習をした。テストがあると発表されてからテストの日まではわずかに二週間ほどしかなかったので、毎日、必死で練習をしたが、そう上達はできなかった。塩辛い海の水を何度も飲み、皮膚が水ぶくれになって夜中には焼けるような熱さを感じながらも、どうにか平泳ぎの格好だけはできるようになった。だが、五十メートルを泳げる自信はもうとうなかった。
テストの当日、死ぬ気で泳ごうと、スタートを切ったが、手と足のバランスもとれず、足を強く蹴ってもなかなか前に進まず、緊張が、身体を沈め、それがさらなる緊張を生み、水を何度も飲み、息をつまらせながら、それでも、なんとか五十メートルは泳ぎ切った。
しかし、最後のターンを終えたときは、半ば失神しかけていた。両手を握られ、プールの上に引き上げられても、立ち上がれないほどだった。助手をしていた六、七人の学生が走ってきて、プールサイドで倒れている武治を抱き抱えると、医務室に運び込んだ。咳き込みながら水を吐いたり、肋骨が飛び出るほど胸を上下させ、荒い息をしている自分の姿を想像すると、今でも冷や汗が出てくる。まったく格好の悪い話である。
しかし、何とかテストにも合格し、大学も無事に卒業でき、就職もスムーズにいって小学校の教師になれた。勤務校を二つほどかわったが、当時はまだ多くの学校にはプールがなく、泳ぎの指導はしなくてすんだ。
ところが、卒業後十数年たった後に、転勤していった学校にはプールがあった。それに加え、夏には臨海学校というものもあり、そこでは、「遠泳一キロ指導」というものまであった。付き添いの教師たちは全員遠泳の補助にあたらなければならない。
武治は新しい学校に赴任して、最初にそれを聞かされたときは、血の気が引く思いがした。えらい学校にきたものだとしきりに後悔した。
卒業するまでに全員を一キロ泳げるようにするというのが学校の方針であったので、まだ水に入ると寒くて震えあがるような六月の初めから体育の時間には水泳の練習をさせた。寒くて風邪を引く子どもがいるだろうと思うのだが、冬でも靴下や毛糸のシャツなどを着ることが禁止されていて、常に薄着で過ごさせていたので、子どもたちは寒さにはめっぽう強かった。
転勤していったのは四月、遠泳があるのは七月。三ヶ月あまりしかない。
またもや水泳の練習をしなければならなくなった。武治は学校から三十分ほど離れたところにあるスポーツジムで、水泳教室が開かれていることを知り、仕事が終わってから、そこに通うことにした。三ヶ月ほどでどこまで泳げるようになるかわからないが、とにかく練習するより他はないと思った。しかし、初心者向けの教室は週三回ほどで、皆出席しても、遠泳ができるほどには上達できず、臨海学校の日を迎えることになった。
もう、こうなったら恥も外聞もなく、体育主任に頼み込んで、何とか誤魔化せる仕事を割り振ってもらうより他しかたがなかった。来年までにはきっと腕を上げておくからということで、今回だけは、ボートを漕ぎ、中から「えんやこら、えんやこら」と声をかける役にまわしてもらった。「100メートル泳ぐのがやっとで、遠泳などとてもだめです。何とかしてくれませんか」と言うときの体育主任の困惑と勝ち誇ったような薄ら笑いは心の芯にまで届くほどの屈辱感を与えた。それに、「先生、なぜ、私らといっしょに泳いでくれないの」と班の子どもたちから言われ、「泳ぎたいんだけれど、ボートの仕事も大切なもので、誰かがやらないといけないだろう」とか言って誤魔化した、そのときの心苦しさは相当なものだった。班の子どもたちの、指導してくれた先生がいない心細さを思うと、明日からは子どもたちの前に立てないような申し訳なさを覚えた。
「来年までには絶対泳げるようになっておこう」と強く決心した。しかし、遠泳の補助につけるまでにはさらに三年はかかった。
武治は、大学のプールで、溺れそうになりながら必死で泳いでいる姿や、プールサイドで泡を吹きながら横たわっている姿、さらには、遠泳指導ができないとおそるおそる体育主任に頭を下げている姿など、ことあるごとに思い出す。
この事件の時もまた、例にもれず、それらの光景が鮮明に蘇ってきた。しかし、いつ、どこで、どんなときだったか、はっきりとしない。最初に事件を聞いたときか、それとも別のときだったか?
とにかく、事件は起こった。それは武治のこれまでの人生にとって最大の出来事であった。もちろん、武治の息子、武治の母親、そのほか多くの人たちにとっても同じことであっただろう。
事件とは、息子を一人置いて、武治の妻が、妻子ある男性と姿をくらましたことである。どういういきさつで、どういう思いで、お互いがそうなったのか、その心情やいきさつについては武治にはまったくわからない。また、わかりたくもなかった。ただ、夫婦の問題はお互いに原因があるとよく言われているのだが、多くは自分にあると武治は思っている。彼には妻を責める気持ちはまったくなく、むしろ謝りたいぐらいである。
最も大きな原因は自分の精神的未熟さや趣味のカメラにのめり込んでしまっていて、「嫁―姑」問題など、家庭を省みなかったことにあると武治はしきりに反省している。しかし、ときどきふっと、原因はただそれだけだったのかという疑問にとらわれることもある。
武治は、当時、学校の責任ある仕事を割り当てられていたし、他人からとやかく言われない程度に成果を上げたくて、夜遅くまで居残ったり、家にまで仕事を持ち込んだりしていた。また、趣味のカメラでもコンクールで小さな賞をもらうようになり、審査員の大御所から、才能のある、将来楽しみな人だとかなんとかおだてられ、舞い上がっていた。だから、カメラにも熱中し、妻や息子のこと、病気がちでヒステリックな母親のことなど、ほとんど考えられなくなっていた。
妻も働いていたので、社会の中でもまれ、それなりに成長もして、夫婦関係にも家族関係にも不満を抱くようになっていたに違いない。しかし、武治は妻の変化にはまったく気づかなかった。
失踪などが起こるにはやる本人にとっては長い道程があったのだろうが、やられた方にとっては、まったく不意の、寝耳に水の出来事である。妻や相手の男には、そこにいたるまでの長い道程があったのだろうが、武治にはそれらは他人ごとで、不明な部分でしかない。
妻が職場の同僚である男と駆け落ちをしたということを最初に知らせてくれたのは、「妻の友人の母親」からであった。
武治が学校にいると、突然、武治の母親から電話がかかってきた。学校の仕事が終わったらすぐに家に帰ってくるようにというのだ。電話では詳しいことは話せない。用件は帰ってきてから話すということだった。
武治の母親は、彼の家のすぐ近くにある文化住宅の一室を借りて生活をしていた。
彼女の声はかなり緊張していて、ただならない気配だった。武治はそうする旨を約束し、教頭に、ちょっと家のことで早引きさせてくれと頼み込み、授業をすませるとすぐに家に帰った。
帰る途中、電車がこれほどのろいものかと思うほどだった。緊張のため、喉がからからで、つばを飲み込むのが苦痛なほどだった。
これはひょっとして妻のことかもしれないと思った。
妻は一昨日から家には帰っていない。妻の実家の父親から、母親のほうに「理恵子は、生まれ育った静岡で同窓会があり、友だちともゆっくりと過ごしたいというので、四、五日は家を空けるが、雅彦をよろしく頼む」と電話がかかってきた旨を、昨夜、母親から聞かされた。
「お前、理恵子さんとはうまくいっているのか。カメラに入れあげるのもいいが、いいかげんにせんと」
雅彦を武治に手渡し、アパートに帰ろうとして、母親は捨て科白のように言った。
しかし、武治は、親元から同窓会に行くという連絡を受けとっても少しもおかしいとは思わなかった。学校の仕事が忙しく、それに、当時、「街の夜景」というテーマで写真を撮っていたので、いつも帰ってくるのが十時を過ぎ、帰ってきたときには疲れ果て、妻とはほとんど会話らしい会話をしたことがなかった。だから、理恵子が同窓会に出席していいかどうかを武治に尋ねなかったとしてもちっともおかしなこととは思えなかった。
「お互い、したいことはできる限りしよう」というのが、武治が妻と交わした約束だった。だから、妻もそれにしたがったまでだと思っていた。
旅先で何かトラブルにでも巻き込まれたのか。それとも交通事故にでもあったのか。そんなことを考えていた。
一戸建ての市営住宅に帰ると、母親が待っていて、玄関先で武治の顔を見るなり、「理恵子さん、会社の同僚と駆け落ちしたんや。由利子さんのおかあさんが教えてくれはった」と言った。
由利子さんというのは妻の一番の親友である。武治の家のすぐ近くに住んでいる。
武治は書斎にしている建て増しの小さな部屋に入り、鞄を置いて、椅子に座った。母親からそう言われても、武治には何のことか理解できなかった。
「理恵子さん、由利子さんに何でも相談しとったらしいわ。それで、駆け落ちすることも言ってたらしい。それを由利子さんのおかあさんが聞いて、こんなこと黙っておれるか。雅彦ちゃんを一生懸命世話をしているおかあさんの姿を見ていると黙っておれることやない、と言って私に教えてくれはったんや」
母親はやや誇らしげに言った。
「どこへや」
「どこかわかるかいな。ちょっと来てみ」
母親が言うので、理恵子が使っていた部屋に行ってみた。壁のところにある洋服箪笥を母親は開いて見せた。
「これみてみ」
母親は再び勝ち誇ったように言った。
箪笥の中には何もなかった。以前には理恵子が買った派手な洋服やスカートがいっぱい吊り下げられていたのだが、今はただの空き箱だった。それを見て、初めて理恵子が失踪したのだという実感が湧き起こってきた。
遠い過去、父親が亡くなったとき、寝かされていた布団から死体が棺の中におさめられた時のかすかな記憶が蘇った。もちろん寝かされているといっても、ただ白い布が掛けられていただけだったのだが、葬儀社の人が父を抱えて棺の中にいれ、父にかけてあった白い布を丁寧にたたんだ。
武治は、棺から目をそらせ、今まで父がねかされていた敷き布団を見つめた。
布団の上には、はっきりと白い布でつくられた父の抜け殻が見えた。白いトンネルのような空洞が長々とつづいていた。
今の感覚はあのときのと似ているような気がしてならない。
「お前、わからんかったんか。ほんまに。極楽とんぼの間抜けめが」
わからなかった。本当に。それほど彼女には無関心だったということか。それとも、彼女が巧妙だったのか。
武治は、理恵子が使っていたあらゆるところを見て回った。化粧台。机。他の箪笥。必要だと思うものはすべてなかった。用意周到の家出だった。
困ったことになったという気がした。しかし、気持ちは高ぶっているのに動揺は余りしなかった。おそらく、事件の様相に気持ちがまだついて行っていないのだろう。心のどこかでこうなることを予想していたとでもいうような、来るものがきたといった冷静な気持ちさえした。
ただ、雅彦のことを思うときは心が乱れた。彼には何の罪もないのに、大人の問題に巻き込んでしまう理不尽さを思うと取り返しのつかない失敗をしでかしたような気がした。
再び椅子に座った。じたばたするな、今さら捜そうと思っても、どこへ行ったのかわからない、と自分に言い聞かせると、はじめて、自分にできることは何もないことに気づいた。せいぜい、雅彦を動揺させないために遊んでやることぐらいしか思いつかなかった。雅彦が帰ってきたらすぐに近くの河原へキャッチボールをしに行こう、と思った。
しかし、雅彦が学校から帰ってくると、すぐに友だちの家へ遊びに行くと言って、出て行ってしまった。雅彦はまだ何も知らないようだ。
武治は、また、何もすることがなくなった。しかたがないので、椅子に座り、窓から兎の格好をした雲を眺めていた。
母親が再び部屋に入ってきた。
「何、ぼんやりしてんねん」
強い声で言った。
「ぼんやりしてると言ったって……」
口ごもりながら答えた。
「ほんまに頼りない子や。これからどうする気や。何かすることないんかいね」
「………」
ほっといてくれ、おれに任せて、お前はどこかへさっさと消えておいてくれ、と怒鳴りたかった。だが、現実には雅彦のことでこれからこの母親に世話にならなければならない。助けてもらわなければどうしようもない。だから、彼女には強い言葉は言えない。
「すまない。考えるから、ちょっと静かにしておいてくれないか」
「考えるから、考えるからって、お前にまともなことが考えられるのか。私がずっと言ってたやろう。写真、写真って、夢中になって。そんなことしていたら家がおかしくなるって」
「わかった。とにかく、これはおれの問題なんだから。おれに任しておいてくれ」
「おれの問題ってね。雅彦はどうするんや。夫婦ともかせぎとだとか何とか言って、いつも私に雅彦を押しつけて置いて、おれの問題はないやろう」
それならどうしたらいいんだ、と口まで出かかったが止めた。
「そんなにガアガア言ったって何にもならないのだから、落ち着け」
武治がはじめて怒鳴った。それで母親は静かになった。しかし、それは母親に言ったのではなく、自分に言ったのだ。
「とにかく、雅彦が帰ってきたら、私の家に連れておいで。ご飯の用意はしておくから」
母親は、興奮気味の声をたてると、玄関を閉めて出ていった。
部屋は静かになった。これまで、こんな静かな部屋を感じたことはなかった。部屋には何もなかった。音さえも。
空白とは、在るものがなくなった空間を言うのだ、とその時はじめてわかった。
雅彦もこれから彼の心の中に強烈な空白を抱え込むことになる。おれが父を失ったときよりも何倍も強い空白。彼はそれに耐えてくれるだろうか。そんなことを考えると心がめいってくる。
起こったことは仕方がない、何とかなる、と思ってみる。
母親がいなくなって、愚痴られることがなくなったので少しはほっとし、気持ちも落ち着いてきたが、一方で、焦りの気持ちも起こってきた。母親にはあのようなえらそうなことを言ったのだが、いったいこの問題にどう対処すればいいのかわからない。
とりあえず、今すぐ、何をすればいいのか。まさか親戚に「私の妻が男と駆け落ちをしました。お知らせいたします」と言って電話をかけるわけにもいかない。母親から言われるまでもなく何かしなければならないとは思うのだが、それが思いつかない。こんな経験が初めてなので、あるいは、身近な誰かの経験を見たこともないので、何をすればいいのかの知識がない。だからといってのんびりとテレビを見ているわけにもいかない。焦りの心がどんどんふくらんでいく。
そのとき、不意に、どこかのテレビで妻が失踪した事件をやっていたことを思いだした。平俗な推理ドラマで、まったく内容は忘れたが、主人公の夫が、慌てて警察に届けに行く場面が思い浮かんできた。
そうだ、こういう場合は、みな、まず、警察に届けるのだ。テレビなどで、自殺した人が見つかったりした場合、家族から三ヶ月前、失踪届が提出されていましたとか何とか放送されている。今のところ、彼らが自殺する怖れはないが、まさかの場合だってありえる。そんなとき、失踪届も出していなかったとなるとことである。身元不明ということで処理されかねない。それに、失踪届を出していた場合、例えば、彼らが何らかの必要から、住民票や戸籍抄本などを請求してきた場合、居所が判明するかもしれない。
だが一方で、警察に届を出すことへのためらいもあった。ひょっとして、彼らを捜し出すことへの引っかかりかもしれない。
もちろん、武治には、彼らが失踪という手段を取ったことへの怒りはあった。しかし、それがただの憤怒といった類のものではなく、どうも自分でも理解できないおかしな気持ちなのだ。
しかし、その引っかかりも、することが一つ見つかったという思いには勝てなかった。
よし、行ってみようと椅子から立ち上がった。おれはいつも行動は鈍いと言われている。だが、今度だけは敏捷に振る舞うことにする。
警察の門を潜るとき、もう一度躊躇する気持ちが起こった。妻に逃げられたことを他人さまに漏らすのは、やはりきまりの悪いことだった。
この恥ずかしさに耐えて警察の門をくぐった人間は何人いただろうか。あるいはもっとせっぱ詰まった気持ちでこの門をくぐった人もいたかもしれない。今まで、そのような人のことを武治は想像もしたことがなかった。
受付で「妻が失踪したので届けに来ました」と言うと「ああそうですか、それなら、別の棟の市民相談室という部屋に行ってください」とまったく事務的に告げられた。
部屋に行くと、五十歳近い警官が一人、書類に目を通していたが、武治が扉を入ったところで突っ立っていると、机ごしに上目使いで彼を睨んで「何ですか」と言った。
「妻が男といっしょに失踪しました」
「ああ」
警官が書類を脇に置くと初めてまともに武治の顔を見た。
「失踪届?」
「はい」
警官はおっくうそうに立ち上がると、後ろの書類棚から箱のようなものを取り出してきた。それを机の横に置き、書類を一枚取り出すと、机の上に無造作に置き、やおら「あなたの名前は」と聞いた。答えるとそれを書類の中に書き入れた。次に「年齢は? 仕事は?」と続けざまに尋ねた。
「年齢は三八歳、仕事は……」
仕事のところで口ごもった。言いたくなかった。
「教師です」
「教師か」
警官は、顔を上げ、ちらっと武治を見つめた。
それから、「奥さんの名前と年齢」と言った。これは機械的に答えられた。
「奥さんの身長は?」
「身長?」
「事件のときにはこれが最初の決め手になるんでね」
「事件ですか?」
武治は緊張した。万が一にも理恵子の死体だけがあって身元の証明できるものが何もないといったことがあり得るかもしれないと思うとぞっとした。
警官はボールペンで机を軽くたたいて、早く言えと促した。理恵子の身長など正確に尋ねたことなどなかった。戸惑った。いい加減に答えた。
「他に、顔の特徴とか、身体のめだった特徴とかは?」
理恵子の顔を思い描こうとしたが、思い浮かばない。今朝、職場で紹介された、新しく赴任してきた若い音楽の教師の顔が浮かんできた。
顔の特徴、身体の特徴、と焦りながら探った。だが何も思い出せない。
「何か無いのかね。例えば唇の横にほくろがあるとか」
警官は怒ったように言う。
ほくろ、ほくろ。たくさんあることはある。しかし、どこにあると言われても困る。肩のところにあったようにも思うし無かったようにも思う。これも適当でいいだろう。
「ええっと、右の肩の後に大きなほくろが一つ」
「丸顔? 面長?」
「面長です」
「顔つきは面長、右肩に大きなほくろあり、と」
警官は、歌でも口ずさんでいるように復唱しながら書類を埋める。
「動機は不倫。いいね」
「はい」
「失踪の日時は?」
それから、さらにいくつかの質問がなされ、警官はそれを丁寧に書類に事務的に書き込んでいった。あまりにも淡々と事務的に処理されていくので、武治にはまるで遺失物を届けに来ているような思いがした。
「見つかる可能性がありますか」
思い切って尋ねてみた。
「………」
警官は何も答えず、なおも必死で書類を書いている。
「住民票とかを請求してきたら、居所がわかりますか?」
警官は相変わらず何も答えない。聞こえているのかどうかさえわからない。
「持ち出したお金はいくらぐらい?」
突然、警官が書類から目を離して武治を見る。
武治は驚いた。今までにそんなことを考えてもみなかった。
言われればそうだ。どこへ行っても金はいる。
「そうですね、ええっと、ええっと、五十万ぐらいですか」
四、五ヶ月ほど前、理恵子がまだ仕事から帰っていない夕方、武治の母親が、「ちょっと、ちょっと、ここへ来てみ」と言って、さも重大なことがあるような顔つきで、彼の袖を引っ張って、家に備え付けの小さな押し入れのところへ武治を連れて行ったことを思い出した。押し入れは二段になっていて肩の辺りのところに仕切りの板があった。下には、使わない扇風機など、上には座布団がのせられていた。
「ちょっと手をこんなふうにして突っ込んでみてみ」
母親は、仕切りの板の裏側に沿わせるようにして腕を突き出し、掌だけを逆に顔の方に向ける仕草をして見せた。武治は何を言っているのかよくわからなかったが、とりあえず、母親の言うとおりにしてみた。すると、三十センチほど腕を伸ばしたところで天井の板が終わっていて、その上にもう一枚の板があり、それがずっと奥までつづいていた。仕切りが前方だけ二重になっていたのだ。そうして、そこに三センチほどの隙間があった。掌を逆にすると、そこに指が入り、何かさわる物があった。それをつまんで引き出してみると、理恵子名義の通帳だった。残高が約四十万円ほどあった。
「この間、夜、雅彦に用事があるので、ちょっと来てみたら、理恵子さんがそこに手を突っ込んでいるのちらっと見たのや。慌てて手を引っ込めたから、何かあるなっと思って、理恵子さんのいないときに調べたら、案の定、あった。へそくりや」
「へそくりやない。おれにちゃんと言っていた。泥棒に見つからないようにかくしてあるって」
理恵子をかばう気はなかったが、母親のそういう行為が許せない気がした。
「嘘言うな」
「嘘やない、ほんまや」
武治はむきになって言った。
「まあええ。お前らのことや。でもな、お母さんはちょっとした仕草だけでなんでもわかるんや」
母親は武治を見て、また、にやりとした。
今回、通帳があるかどうかまだ調べてはいない。でも、きっとないだろう。あれから、彼女が貯めたとしてもせいぜい十万円ぐらいである。
「金額、確かですか」
「ええ、間違いありません」
「ふうん、五十万か。それなら男のほうも大した金を持ち出していないな」
「そんなこと、なぜわかるんですか」
「長年のデーターでね」
「データー?」
「こんなとき、必ず、女の方が額が多いんですよ」
「へえ。そんなものですか」
武治は驚くと同時にむっとした。データーなどという言葉が出されたことが腹立たしかった。何だか理恵子たちがひどく馬鹿にされているような気がした。それに、おれはそんな言葉を聞くためにここに来たのではない、とも思った。別に、警察が躍起になって捜してくれるとは思わなかったが、もう少し別の対応をしてくれるものと思っていた。
「心配ですか」
武治が黙ったことを気づかったのか、警官が尋ねた。今度は武治が黙った。それは心配といったものとは違う別の感情だった。
「心配はいりませんよ。長くて一週間。こんな場合はたいていは五日で出てきますわ。心配はいりません」
「いや、そんなことはないでしょう。そうとう覚悟して出ていってますから」
「いや、大丈夫ですよ。すぐ出てきますわ。それより、おたくはどうなんです」
「どうって」
武治は虚を突かれた。彼にとってどうするかは、雅彦をどう育てるか、雅彦の傷をどう癒すかであって、理恵子とのことはすでに終わったものと思っていた。
「こんなことは最近急に増え出してきていましてね、管内でも一日に一件はあります。だいたい、みんな、もとの鞘におさまっていますわ。あんたも、どこか悪かったのと違いますか。お灸をすえるのもほどほどにして、そうされたらどうです。余計なお世話やけど。これは奥さんの問題ではなく、あなたの問題ですよ」
警官は立ち上がって、隅の机のところへ行き、ポットからきゅうすにお湯を注ぎ、湯飲茶碗にお茶を入れると立ちながらうまそうに飲んだ。
「早まったらいけませんよ。お子さんもいることだし」
そんなあほな。彼らが帰ってくるわけはない。
警官はゆっくりとお茶を飲む。口元から湯気が上がっている。武治もお茶を飲みたくなった。喉がからからだった。
「何かあったら連絡します。まあ、何もないと思いますがな」
警官は再びもとの位置にもどると、今書いた書類を横の箱の中に入れ、私が入ってきたときと同じような目つきをした。もう帰ったらどうだと言わんばかりだった。
「よろしくお願いいたします」
武治は頭を下げ、ドアのほうに向かった。
「何度も言うようだけど、早まったらいけませんよ」
警官が後ろからまた言った。
部屋を出て、しばらく歩いて門のところまで来た。
早まったらいけませんよ、これは奥さんの問題ではなくあなたの問題ですよと言った先ほどの警官の言葉が蘇ってきた。気分は最悪だった。
武治は、大きな橋のところまで帰ってきた。
ふと河原を見ると、十名ほどの子どもたちがサッカーをしている。野球帽のつばを前後にして、試合をしているようだ。その中に雅彦がいた。
雅彦の動きをじっと目で追った。動きが鈍くないだろうか、しょんぼりとしていないだろうか。だが、彼の動きは俊敏だった。ボールの動きを先取りして、ボールがくるところへ走っていき、上手にボールを奪い取って、ゴールへ向かっていく。または、ボールを持っている相手の脇に付いて走り、機会を見てはボールを奪い、仲間の蹴りやすいところへパスをする。
今のところは元気なようだ。少し安心した。母親のことをまだ知らないのか。それとも薄々感じているのか。
だが、いつまでも隠しておくわけにはいかないだろう。いずれはわかることだ。とすれば、雅彦には自分から告げる必要がある。母親から伝わる前に自分から言いたい。ただ、それを言うには勇気がいる。いつ、どういうときに言えばいいのか。武治は戸惑った。
武治がこの問題の当事者であると同時に、雅彦もまた当事者である。だとしたら、彼もまたできるだけ早く、この事実を知る権利がある。彼はもう四年生である。四年ならかなりのことは理解できるだろう。だったら、今、言うべきではないのか、いや、今をおいて他にない。
武治は再びじっと、橋上から雅彦の動きを眺めた。雅彦は、相変わらず俊敏に動いている。それが、今の武治には頼もしく思えた。子どもというよりも同志のように思えた。自分に都合のいい解釈だとは思いながらも、子どもは大人が想像する以上の強靱な心を持っていると思いたかった。
橋を渡り、土手に沿った道を歩いていくと、河原に降りる階段があった。階段を中段まで降りてから、腰を下ろし、しばらく雅彦たちの試合を眺めていた。すると、自分たちの少年時代のことが甦ってきた。
武治たちの時代はサッカーではなく野球だった。だが、野球をするには用具がいった。グローブ、バット、ボール。それらはいずれも高額だった。野球用具を手に入れることは子どもたちにとっては至難の業だった。だが、すでに経済もかなり復興してきた時代だったので、買ってもらえる子どもも徐々に増え、用具を持っていないものは、仲間には入れてもらえなくなった。「野球をしたいのなら何か持ってこい」というのが子どもたちのきまりになった。
何もないものはただ彼らの試合を横で指をくわえて見ているだけだった。グローブが欲しい。武治はいつもそう思っていた。それで、町へ出ていくごとにスポーツ用品の店に立ち寄ってはグローブやバットを眺めていた。
あるとき、店に立ち寄っていると、誰か近所の人らしい女の人が入ってきて店の主人に「また、よっさんがもめてんね。ちょっと来てやって、早う早う」と言い、「またかいな」と主人が言いながら、女のひとといっしょに店を出て行った。武治は彼らが横の路地を曲がるのを確認すると、途端、武治もまた店を出、店主らとは反対の方向に走った。自分ではなぜ走っているのかよくわからなかったが身体が自然に動いた。動悸が高まって心臓が痛いほどなのに、後から後から力が湧いてきた。商店街を抜け、メイン道路を村の方へと走りつづけた。
ようやく町外れのところまで来たとき、走るのを止め、道路脇の電柱に身を持たせかけ、はあはあと息を吐いた。
ふと、手を見ると、手にはグローブをはめていた。陽をまともに受けた真新しい褐色のなめし革がまばゆく輝いている。革特有のいい匂いがする。
なぜ、それが自分の手の中にあるのか、不思議だった。盗もうという意識などまったくないのに、手が勝手に動き、足が勝手に動いたのだ。
グローブを見ながら、何か、自分がいつもと違う自分に思えた。不思議な自分がそこに立っていた。
彼はグローブをしっかりとはめなおし、ボールを取る真ん中を拳でさかんにたたいた。頬にもあてた。いい感触だ。ようやく欲しいものを手に入れたという充実感があった。悪いことをしたなどという感覚などまったくなかった。それよりも何とも言えないすがすがしさがあった。自分の中にも日頃とはまったく違う別の力があることに気づいて、それがうれしくてならなかった。
しかし、そのような力を感じたのはあれが最初で最後だった。あれ以来、武治は、人から後ろ指をさされるようなことは何もしなかった。いや、できなかった。もちろん、盗みなどはしたことはない。あれが、これまでの人生の唯一の悪事だった。それに、自分の力をあれほどはっきりと確認できたことも他にはなかった。むしろ、自分の非力さばかりが目に付き、おどおどとしながら生きてきた。特に、他人からの後ろ指や、非難されることを極端に恐れ、なるべくそうされないように緊張して暮らしてきた。
ただ、これから雅彦に理恵子の失踪を告げなければならないと思うと、ふとあの時に感じた不思議な力を思いだした。このことは自分の中にあるかもしれないあの別の力に頼るしかない、そういう思いがしきりにした。もし、あの力が少しでも残っているのなら、それをもう一度呼び出してみたかった。
試合が一段落がついたようだ。彼らはゲームを止め、長椅子のところにやってきて、思い思いに鞄の中からタオルを取りだして汗を拭いた。
彼らは武治を見ると「こんにちは」と明るい声で挨拶をした。「いつも雅彦の友だちになってやってくれてありがとう。これからもよろしくね」と武治は声をかけた。
それは挨拶でもお世辞でもなかった。彼の願いだった。雅彦の心を救ってくれるのは彼らしかないと思えた。彼らの中にいるときだけ、雅彦は何も考えずに楽しくいられる。ぜひとも、彼らとの関係がうまくいってほしい。
「おとうさん、何か」
雅彦は武治の顔を正面から見つめた。
「うん、ちょっとな」
武治は、友だちたちのほうを見て、「ちょっと雅彦に話さなければならないことがあるので、中座させてもらっていいかな」と言った。
「帰ってくるのが遅かったら、やり始めておいていいよ」と雅彦が言った。
武治たちは、彼らから離れ、橋桁を潜って、反対側のグランドの最初のベンチのところまで行った。
二人はベンチに座った。周りには誰もいない。グランドには強い光が反射している。二人はしばらく黙っていた。
武治は、この場から逃げることができるのならそうしたかった。まったくつらかった。「あなたは癌ですよ」と告げる医師はいつもこんな気持ちでいるのだろうか。
「早急に雅彦に知らせておかなければならないことが起こってね」
「おかあさんのこと?」
「そう、どうしてそれを」
「佳子(よしこ)ちゃんがぼくにそっと教えてくれた」
「佳子ちゃんが?」
佳子ちゃんとは、理恵子が駆け落ちをすることを唯一打ち明けていた由利子さんの娘だった。雅彦と同じクラスだ。
「誰にも言ったらいかん、お父さんにもやで、と言って知らせてくれた。僕のおかあさんが佳子ちゃんのおかあさんにそれを言っていたのを次の部屋で隠れて聞いてたんやて」
「そうか。もう知ってたんか。お前がうちで一番は早うに知っていたかもしれんな」
自分の口からそれを告げる必要がなくなって、緊張が少しゆるんだ。
「おとうちゃんたち、離婚するんか」
「そうなるかもしれへん。お前には何の責任もないのにつらい思いをさせることになる。すまん。おとうさんはできるだけのことをするから、我慢してくれ。おばあちゃんにも応援してもらうから」
口の中がボール紙でできているような感じになった。
「おかあさん、もう帰ってけえへんの」
「そうや」
「あのおじちゃんといっしょにどこかへいったんか」
「おじちゃん、知ってるのか」
「まあな、一、二度会った」
「おかあさん、あのおじちゃんが好きになったらしいわ。好きになったものはしょうない」
「………」
「大人には子どもの理解できないこともあるのや。すまん」
「しょうない、子どもは親のすることはあきらめるよりほかしょうないねん」
「………」
武治には言葉がなかった。
「話ってそれだけ」
「お前には早う知らせておかないとと思ってな」
「戻ろう。洋ちゃんたち、待っていてくれてるから」
雅彦は「く」の字に身体を折り曲げ、向こう側のグランドを見た。
雅彦はベンチから立ち上がると、もと来た道を歩きだした。武治も雅彦の後を追うようにして先程の場所に戻った。
「これ、おっちゃんに」
彼らの一人がスポーツドリンクを持ってきてくれた。
「おっちゃんにもくれるんか」
「ああ、おっちゃん、何か元気がなさそうやね。飲んで、元気出してえや、……、雅ちゃん、このチームでは一番サッカーがうまいねんで。五年生よりうまいねん、すごいやろう。今度、校内で地区別のサッカーの試合があるねん。ぼくたち、優勝を狙ってるねん」
「さあ、またやろうや」
雅彦は少し照れながら言った。
「おっちゃんもするか。よしたるで」
「あかん、あかん。うちのおやじは、スポーツはまったくだめ。足でも怪我されたらたいへんやから」
おやじという言葉を聞いて一瞬ぎくっとし、戸惑いもしたが、どこかうれしかった。彼の成長の証かもしれない。
「その通りや、ありがとう」
武治は、雅彦や子どもたちに軽く頭を下げた。ほんとうにうれしかった。子どもたちから励まされた、と思った。
二日間は何もなかった。雅彦も表面では何もないような感じで学校に行っていた。
雅彦は、夕飯はおばあちゃんの家で食べさせてもらい、武治が帰ってくると、雅彦を連れに母親の家に行った。帰ってくると、いっしょにテレビを見たり、ゲームをしたり、宿題を見てやったりしてして時間を過ごした。雅彦が眠ると、武治もがっくりと疲れ、すぐに眠った。
仕事場にも、何もないような表情で行き、授業を無難にこなした。
ただ、今日は、気になることが一つだけあった。廊下で体育主任と出会ったときだ。
「ちょっと元気ないのと違うか?」と彼は少し侮蔑するような笑いを漏らしながら言った。一瞬ぎくとした。理恵子のことがすでに学校に漏れているかもしれない。
「いいえ、そんなことありません」
「それやったらいいんだけれど、また、ちょっと練習しておいてや」
「遠泳ですか? 上手になったでしょう」
「子どもに注意するより、先生に注意しないといけないなんて、今年はなしにしてや」
再び、主任はにやりとした。
「大丈夫です。任しておいてください」
主任の言葉にはたいして意味がないのだろう。すでに、水泳は克服できている。二回も遠泳をこなした。
今日は、久しぶりに暇だった。それで、夕方、はやめに家に帰ってきた。
家にいたからといって、特に何もすることはない。一応、掃除と、一週間分の洗濯はすました。母親がやってやると言ったが、食事だけを頼んで、他の家事は武治がすることにした。
雅彦は相変わらず、サッカーをしに河原に出かけている。
ラジオのスイッチを入れ、居間のソファーに腰掛け、FMを聞いた。
突然、玄関のほうから、ドアが激しく開く音が聞こえ、母親が部屋に入ってきた。
「男が帰ってきたんやて、理恵子さんと逃げた男が」と叫ぶように言った。武治が見ると、母親の頬は赤くなっている。
「帰ってきたって?」
「そうや、由利子さんのおかあさんが知らせてくれはったんや」
「理恵子もいっしょにか」
「それが違うらしいわ。男が一人帰ってきたんやて。それで、実家のお父さんと、その男が、慌ててまた、理恵子を迎えに行ったらしいわ。そんなことをしたら理恵子が死ぬかもしれんと言って」
「どうしてまた、由利子さんにそれがわかったんや」
「男の奥さんが、会社の同僚の奥さんに電話して、その奥さんが、理恵子の実家と由利子さんの家に連絡してきたらしいわ。それで、実家のお父さんが男のところへ行き、いっしょに迎えに行ったという話や。実家のお父さんが知ってるんやったら、なぜ、真っ先にうちに知らせてくれへんかったんや。お前がしっかりせんからや。みんなからばかにされているんや」
何ということだ、これは。
いらだちの混じった腹立たしさが武治を襲った。知らせてくれなかったことに対してではない。男がのこのこと帰ってきたことに対してだ。武治は、男のところへ行き、何度でも彼を殴りつけてやりたかった。
「いっぺん、実家へ電話かけたりいや。これ、どういうことですかって」
「よう知らせてくれたと、由利子さんにも、彼女のおかあさんにも礼を言っておいて。でも、後のことはおれが決めるから」
最も影響のある自分と雅彦には何の連絡もなく、ことが運んでいることが苛立たしかった。それに、情報がすべて母親を通じて入ってくることにも。
ようし、向こうがそうなら、こちらもそうする。誰が実家などに電話をかけるものか。
さらに、それから二日間が過ぎた。
彼女のお父さんに伴われてすでに理恵子が実家に帰っていること、彼女たちが逃げた先は金沢で、すでにアパートも借りていたということ、理恵子の荷物は、多くは友人の家に預けられていたこと、暇なので男が釣りに出かけ、そこで家に置いてきた子どものことを思い、気持ちが変になって、何も考えずに家に帰ってきたことが、由利子さんのおかあさんから伝わってきた。
すでに自分の近くに理恵子が帰ってきているのなら、ぜひ理恵子に会いたい、と武治は思った。会って、どういうことを言うのかわからない。何をしたいのかもわからない。ただ、会って、自分の感覚を確かめたかった。自分がそこで何を感じ何を考えるのか知りたかった。しかし、直接実家に電話をかけることはしたくなかったので、会う場所と時刻だけを指定して由利子さんから連絡をしてもらった。
武治は、約束した喫茶店に先に着いて、しばらく待っていると、扉を開けて理恵子が入ってきた。
緊張した。初めて女とデートしたときのような気分だ。戸惑いというか、ぎこちないというか。
理恵子はテーブルに座ってこちらを向いた。うっすらと化粧をしているが、化粧品が肌につかず浮いている。数日前の彼女とはまったく違った見知らぬ女がそこにいた。これが、十三年間もいっしょに暮らしてきた妻だとはとうてい思えなかった。疲労し、生気が失われているのに、かすかに女の匂いが漂ってくる。見も知らない他人の新鮮さを感じてしまう。
理恵子はどういう顔付きをしたらいいのかと戸惑っているようだ。いっさいの表情を殺している。
「えらいことをしでかしてくれたな」
武治は何となく言ってしまった。
「すみません」
理恵子は軽く頭を下げた。語調には実感がなかった。店員と客とのやりとりのようだった。
「金沢に行っていたんだって」
「ええ」
もっと別のことを言わなければと思いながらも、これもまた、なんとなく言ってしまった。
「どうしてまた金沢?」
「いい街のような気がして、昔、友だちといっしょに旅行したとき、こんな街に一度住んでみたいと思ったから」
ああ、それはわかると思った。武治も同じことを思ったことがある。
独身時代に、一度金沢を訪れたことがある。旧制高校の建物を利用して造った資料館で多くの文人たちの生原稿を見たり、犀川のほとりを散歩したり、旧武家屋敷を見て回ったりした。落ち着いた、感じのいい街だった。どこか、我々の見慣れた街とは違っていた。日本なのに異国のような気がし、旅をしているという気分を十分に味わわせてくれた。
「確かに、あの街はそう思わせるな」と武治が言った。
「そう、あの人もそう言っていました」
あの人という言葉を聞いてはっとした。おかしなことだが、初めて、彼女には自分とは違う異性がいたのだということを強く実感した。
「楽しかったわ、あのひとといるとき。でも、もう終わった。楽しいことってそういつまでもつづかないわね」
かすかな笑みを浮かべた。苦笑なのか自虐的な笑みなのかわからない。ただ、肌はきりっと引き締まった。
「初めての恋ということかな。おれたちは半ばお見合いみたいなものだったから」
「そうね、激しい恋ってとこかな」
笑みが消え、凛々しい顔付きになった。一仕事終えた充実した感じさえした。
恋しい人と旅をしているカップルの姿が浮かんできた。カップルは見も知らない若い男女だった。
激しい嫉妬が起こった。自分にはそんな経験が一度もないのに、自分がやっていないことを理恵子たちがやってしまった。
武治はしばらく黙っていた。もう言うべきことは何もなかった。こんなはずではないと思いながら言うべきことが何もない。
ふっと、先日、警察を訪れたときに聞いた警官の言葉が甦ってきた。「これはあなたの問題で、彼女の問題ではありませんよ」。では、自分は今何を考えればいいのか。どんなことを言えばいいのか。「お灸をすえすぎたらあきませんよ。よくあることなんだから」という警官の声がする。
「雅彦、元気にしている?」
理恵子が言った。
「ああ」
彼女の目から一気に涙が溢れた。目の中に大きな水滴が次から次へと浮かんでは、化粧を溶かし、膝の上に落ちていく。だのに、彼女は、ハンカチを出さなかった。
武治は、不思議なものを見るように、目の中をじっと見つめながら、止まるのを待った。
「おかあさんがみてくれてはるの」
「ああ」
理恵子の顔がさらに青ざめた。今までのかすかに残っていた生気さえまったくなくなった。弱々しい顔中に涙が広がり、化粧が白い泥となって、頬や口元を流れていく。
何と言えばいいのだ。「おれがわるかった。お前のことをもっと考えてやるべきだった。雅彦のためや、もう一度やり直そう」、そう言えばいいのか。
「心配いらん。雅彦もしっかりしている。おれもちゃんと世話してるから」
相手に言うというより自分に言い聞かせた。
「そうね、あの子はおばあちゃん子だったから」
ようやく、理恵子の涙は止まった。少し、以前の表情に戻った。
「これは彼女の問題ではありませんよ。あなたの問題です」
またも、警官の声が甦った。
「ようある話や、みんな元の鞘におさまってる」という声もした。
「それで、これからどうする」と理恵子に尋ねたかったが、ぐっとこらえて言葉を飲み込んだ。
何を考えればいいのか、武治は再び思った。雅彦のことか、理恵子のことか、母親のことか。そのどれも考えたくはなかった。一番に自分のことを考えたかった。
じっと理恵子の顔を見た。最初の印象のとおり、目の縁がくもり、皺も深まり、肌も荒れている。疲れているようだ。特に眼の輝きがない。視線がすべて心の奥底へ引きずりこまれていくような表情をしている。しかし、陰鬱さはなく、一種の自信のようなものが漂っている。数日前にはなかった強さが感じられる。何もかもを捨てた強さか。どうでもしてくれと言った居直りの強さか。
彼女の顔を見れば見るほど、敗北しているという思いが強まった。
おれのやりたかったことをお前が先にやってしまった。おれだって「恋」という別の世界へ行ってみたかったのだ。だが、相手がいなかったのと、勇気がなかったのと、後の面倒を怖れて、「カメラ」などという姑息な手段で自分をだましつづけてきたのだ。
武治は、今初めて自分の本心に気づいた。
しかし、おれだって、そういつまでもいい子でいるとは限らない、いよいよ、自分の出番が来たのではないか、と武治は思った。
「どう思っているの」
理恵子が言った。
「どう思っているって。別れるしかないやろう」
武治が言った。
「そうね」
理恵子が答えた。
「雅彦の親権はおれが取る」
理恵子が黙った。
「慰謝料はいらん、養育費もいらん。しかし、相手からはもらうよ」
理恵子は黙っている。
「すぐに離婚届にはんを押して送ってくれ」
「ええ」
「しかたがないよ。世の中にはしかたがないことだって起こる」
ふっと、父親が死んで、墓に骨を埋めるときの光景を思い出した。暑いときだった。「暑ないようにどっさり水かけたりや」と伯母が言い、子供の武治が柄杓で水をかけた。「もうええ」と誰かが言ったのに武治は止めなかった。みんながおいおいと泣いた。
雅彦の母親は今死ぬのだな、と武治は思った。水をかけてやることもせず、死顔を見ることもできずに。
「雅彦のことよろしくね」
理恵子は再び涙を流した。
「心配せんでもいい。おばあちゃんもおることやし」
武治はレシートを握ると立ち上がった。
支払いを済ませて外に出ると光がまぶしかった。街の通りには人がたくさん歩いていた。
「みんな幸福そう」
理恵子が言った。
「元気でな」
武治が言った。
理恵子は何も答えないで、くるりと身を回転させると、髪の毛を激しく揺らしながら実家の方へと歩き出した。
三日間が過ぎても離婚届は届かなかった。ただ、二本の電話が入った。一本が武治の叔父から、一本は理恵子のお姉さんからだった。二人とも「離婚は思いとどまれ」というものだった。
叔父が状況を知ったのは、どうも理恵子の父親が電話で知らせたらしい。「子どものことを第一に考えて、早まったことはするな」と何度も言われた。武治のことを思ってのことだろうが、気分が重かった。両者にとってこんなに重大な場合でも他者が介入してくることがあるのだと初めてわかった。
お姉さんのほうもほとんど同じようなもので、「人には魔がさすってときもあるので」とさかんに言っていた。今までにも何度も聞いた言葉だが、単なるいいわけの言葉に過ぎないと思っていた。しかし、今は、本当だと思っている。彼女たちは「魔」と言われている世界に入り込んだのだ。
しかし、だからといって、理恵子とやり直そうと武治は思わなかった。理恵子だって武治と暮らすことを望んではいないだろう。
自分でも不思議なくらい心がゆれなかった。いつもは優柔不断な武治だが、今度は違った。いつもの自分とは違う、別の自分が出てきている、と武治はしきりに思った。
とにかく、はやくすべてを終わらせたかった。今の自分の気持ちが一番純粋な気持ちのような気がする。余計なものが入ってこないうちに事をなしておきたかった。
そのためにも、あと一つ、彼にはどうしても片づけなければならないことがあった。逃げた男との交渉である。考えると心の重いことだが、避けて通れることのできないことだった。彼と会い、きちっと決着をつけなければ後のことがすべて進めることができない。しかし、会えば、冷静な気持ちでおれるだろうか。交渉がスムーズに進められるだろうか。武治は自信がなかった。だが、やらなければならないことだと覚悟をきめた。
彼は、仲介役に、理恵子や男が勤めていた会社の社長を選んだ。社長にはそれぐらいの義務と責任がある。男女をペアーにして仕事をさせれば、色恋沙汰が起こる可能性は十分にある。それに配慮を怠った社長には責任がある。仲介役ぐらいはしても当然だろう。それに、男が社長の前で約束すれば、無碍に約束を破ることもできないだろうという打算もあった。
ようやく、これから男と初めて会うことになる社長宅の前までやってきた。門柱の街灯が辺りを仄かに照らしている。扉の横には名前のわからない木々が黒々と蹲っていた。
門扉を前にして二、三度深呼吸してからブザーを押した。どうぞという声がして、すぐに玄関の扉が開けられ、社長が和服姿で出てきた。年齢は武治より若いのだが大人の顔をしていた。社長とは、街で一、二度出会ったことがある。レストランで出会ったとき、理恵子が社長を紹介した。そのとき、外国の紳士のようだと見とれたことがある。背が高く、体格も良かった。
「こんなことで、ご迷惑をおかけして、申しわけございません」
武治は深々と頭を下げた。
「社員が不始末をしでかして」
社長も頭を下げた。
社長に導かれて応接室に入った。周りにはピアノやステレオセットが置かれ、棚にはゴルフのカップもたくさん飾られていた。それらを背にしながら男が立っていた。年齢は武治より数歳若いだろう、丸顔の素朴な感じの男だった。「私と組んでお得意さん回りをしている人はとてもいい人で、親切な人だ」と理恵子から聞かされたことがあったが、なるほどという気がした。
「まあ、座って。こんなとき、何と紹介したらいいのかわからないが、……君。こちらは理恵子さんの旦那さん」と社長が言った。……君のところがよく聞き取れなかった。
男と会ったらどんな気持ちになるだろうかと思っていたが、実際に会うと、緊張するだけで、いっこうに特別な感情が湧いてこない。ただ、男と理恵子が口づけを交わしている姿を想像したときだけ、理恵子が今まで思ってもみなかった姿となって彼の前に現れた。こんなにも魅力的な表情をするのかと信じられないほどだった。閉じている瞼の辺りから妖気が漂っていた。
「離婚を言い渡されたと彼女から連絡が入りました。やっぱりだめですか」社長が言った。
「ええ」緊張で声がうわずった。
社長の奥さんが入ってきて、無言でお茶をテーブルの上に置くとすぐに出ていった。
「そうですか。では、具体的な話に入りましょう。社の顧問弁護士にも聞いてみたのですが、慰謝料は二百万が相場らしいですわ。お宅の言われていた三百五十万はちょっと高いということです。お宅の立場で考えたら、こんな安い金額かとお思いでしょうが、まあ、相場はそんなところらしいですわ」
社長も少しは緊張したのか、そこでお茶を飲んだ。それにつられるようにして武治も飲んだ。
慰謝料を請求するとき、いったいどれくらい請求すればいいのかわからないので、弁護士をしている友人に尋ねてみた。社長が言ったのとほぼ同じようなことを言っていた。
額を聞いて驚いた。そんなわずかな金なのか。交通事故でも、人身事故ならそんな額は最低ではないか。雅彦の立場から言えば母親が殺されたようなものだ。それがたったの二百万円とはひどすぎる。どういう論理的根拠からそれが算出されたのか。
「裁判にかけて、例え、 満額をとったとして、裁判費用を差し引くと、決して得にはならないでしょう」
社長はこれで話をつけようという計画らしい。初めて腹がたってきた。額に関してではない。社長に対してでもない。こういうことを考え、こういう交渉をしなければならないことへの腹立たしさだった。
「じゃ、それで結構です」
武治が言った。
「一ヶ月、五万円の分割ということでお願いします。しっかり働かせて払わせますから。……君、それでいいね」
男は頷いた。社長は立ち上がって、隅の机の引き出しから書類を持ってきてテーブルの上に広げた。書類はすでに用意されていた。
「お宅の字で額を書き込んでください」
保険の契約のような感じがした。書類三通に金額と名前を書き込み、判を押した。男も社長も同じことをした。
「何か他に言っておきたいことはありませんか」と社長が言った。
「別に何も」と言いかけたが止めた。一つだけどうしても聞いておきたかったことがあった。
「どうして帰る気になったんですか」
男はしばらくの間黙っていた。そのときのことを思い出したのか、痛みに耐えているような表情をした。
「釣りをしていると、子どものことが思い浮かんできて。よく子どもを連れて釣りに行ってましたから」
「理恵子のことを考えなかったんですか」
「考えたんですけれど、不思議なんです。それは遠い世界のことのようで。パパ、帰ってきてと言う声がびんびん響いてきて、そうしたら、身体が震えて、何が何だかよくわからないようになって、気づいたら、駅のほうへ走っていました」
「子どものために帰ってきた、ということですか」
「はい」
「だから、私にも我慢して、離婚を思いとどまれと、そう思っているんじゃないでしょうね。冗談じゃない」
考えもしていなかったことを口走った。自分でも驚いた。
「いいえ、そんなことは思ってもいません。申し訳ありません」
男はうろたえながら頭を下げた。
帰ってこない男を待っていた理恵子の姿が思い浮かんできた。部屋の中で放心したように蹲っている女の姿が。
こんな男を好きになりやがって、と叫びたかった。
警察のデーター通りに出てきやがって最低だ、とも思った。もう、何も言う気がしなくなった。早く、この場を立ち去りたかった。
二ヶ月あまりが過ぎた。男との交渉が終わった翌日に理恵子から武治のもとに離婚届が届いた。その日のうちに役所に届けた。
武治は勤めている学校にはまだ離婚したことは言っていない。言えばさまざまなことが起こるだろう。管理職からは嫌なことを言われるのは必定だ。でも、いつまでもほうっておく訳にはいかない。早急に言わなければならない。
二度、慰謝料が銀行に振り込まれた。振り込まれたその日のうちに金を引き出し、いかがわしい場所に行ってぜんぶ使った。
カメラはやめた。空いた時間は雅彦のために使った。
武治には、雅彦の心はわからない。ただ、表面上は元気にしている。学校で何か嫌なことを言われるのではないかと心配したがそれはないようだ。
雅彦のサッカーチームは大会で優勝した。練習試合では五年生のチームにも勝ったと喜んでいた。
武治は今日しなければならない学校の仕事はすべてすませた。家の方も何となく落ち着いてきて、軌道にのりだし、少し余裕が出てきた。すると、今度は、いつか主任に言われた「子どもに神経を使わなければならないのに、先生に気をつかわなければならないなんて今年はやめてくれよ」という言葉が気になりだした。今年はそんなことは絶対に言わせられない。後ろ指を指されることは一つにしておかなければならない。それに、すでにプール指導は始まっている。臨海学校もそう遠くはない。
ひとつ、今日は水泳の練習をしてみようか、という思いが強まった。それで、体育主任に申し出て、鍵をもらい、プールに行った。
準備体操も十分にやり、プールに入った。水は冷たかったが、かえって、身が洗われる思いがした。軽くウォーミングアップの泳ぎをしてから遠泳の練習に入った。
折り返し八回めのターンまではうまくいった。いや、むしろ快適だった。だが、九回めのターンに近づいたとき、泳ぎながら、ふっと、先ほど、体育主任が武治に鍵を渡すとき、またも「この頃、元気なさそうだけれど大丈夫か、無理せんときや」と何か思わせぶりな笑いをしたことを思い出した。彼らはすでに理恵子との一件は知っているのかもしれない。それなら、早く報告しないとまずいなと思った。では、いつ言おうかと考えたときだった。急にからだが重くなった。同時に「君、そりゃ、まずいよ、教育上、親に示しがつかなくなるな、どうする」という困惑を隠せない校長の声もした。
突然、スピードが落ち、手足がスムーズに動かなくなった。あわてて考えを止め、もとに戻そうと、強く足を蹴った。だが、いくらやっても、もとに戻らなかった。
そのうち心臓に負担がかかってきたのか、息苦しくなり、足と腕のリズムが完全に狂いだした。少し水を飲んだ。水の中でむせた。身体が緊張し、深く沈んでしまう。顔を水面に持ち上げるために、強くかく。こんなに力をつかっては遠泳はできない。どうしたことだと焦ると、ますます息苦しくなる。
「やあ、先生が泳いでいる」
「ほんとうや、ほんとうや」
突然背後から、子どもたちの声がした。しまった。放課後、残っていた子どもたちに見つかってしまったのだ。やあ、やあ、という歓声が聞こえてくる。声の数が増してくる。 もっと、かっこよく泳がねば、と思う。これだから学校のプールで練習するのは嫌だ。
ようやく折り返し九回めのターンは終えた。
「もうちょっとや、がんばれ、がんばれ」
今度は、子どもたちの声が、大学時代、水泳のテストを受けたときの、プールサイドからの指導員の声に変った。嫌な声だ。思い出したくはない。ああ、苦しい。水を飲む。あのときと同じだ。
ようやく、プールの壁が見えた。もうだめだ。限界だ。今日はこれでやめておこう。壁の端を掴み、水の中に立った。
息が弾む。めまいがして倒れそうになる。側壁をつかみ、それを避けた。しばらく水面だけを見つめて、はあはあとあえぎながら立っていた。すると、息も整い、回りを見回す余裕ができた。不思議だった。いくら周りを見渡しても、誰もいなかった。子供たちの姿は完全に消えている。声は幻聴だったようだ。
一瞬、ほっとした。自分の不様な姿を子どもたちの前にさらさなくてすんだ。だが、次の瞬間、いったいこれはなんだという愕然とした思いが武治を襲った。あえぎあえぎ泳いでいる姿、格好の悪い自分。あのときと何も変わってはいない。
家に帰ってきてソファーに倒れ込んだ。疲れた。久しぶりに泳いだためだろうか、身体がだるい。それに、心の動揺がまだつづいていた。
天井を見上げると、天井が水面になり、泳いでいる自分の姿がちらつく。
ただ、おかしなことに、ときどき、水面であっぷあっぷしているのが、武治ではなく社長の家で一度だけ会った理恵子の男に似ていた。
まあ、いい、そんなことはどうだっていいことだ。それに、1000メートル泳げなかったといって、そう深刻になることもないだろう。まだ、臨海学校までにはかなりの間がある。今日は今年になってはじめて泳いだのだから身体がなまっていただけだ。
武治は、台所に行き、インスタントコーヒーを入れ、再びソファーに座り、ゆっくりと飲んだ。
少し落ち着いてきた。雅彦を迎えに行くのをもう少し遅らせよう。少し眠りたい。カップを床に置くと、背にもたれ、目を閉じようとした。
と突然、電話が鳴った。ああ、電話か。この頃、電話が鳴るとぎくりっとする。電話で伝えられることは嫌なことばかりだ。だが、しかたがないので立ち上がった。
「もしもし、もしもし」
武治は自分の名前を告げた。相手も名前を名乗ったが記憶になかった。声も聞き覚えがない。
「どなたさまでしょうか」
武治は困惑していることを表しながら尋ねた。
「おたくにご迷惑をおかけした吉田の兄です」
「吉田の兄?」
そう言われてもよくわからなかった。吉田、吉田、「ああ」と小さな声を出した。ようやくわかった。理恵子の男の名前だ。彼は確か吉田といった。それに、慰謝料の契約の際、連帯保証人の欄に前もって名前が書き込まれていたが、それが確か今しがた電話で告げられた名前だった。男はどうも奥さんのほうの姓を名乗っていたようだ。
「弟は昨晩死にました」
電話の主は突然に言った。
「ええっ」
武治の身体に衝撃が走った。理恵子の失踪を知った以上の驚愕だった。そんな……。
「ばかなやつです。情けないやつです」
兄の声は徐々に涙声になった。
「自殺ですか」
「そうです、昨晩遅くに、首をくくって死にました」
声がつまって、あとの言葉が出なかった。沈黙の時間がしばらくつづいた。こんな場合、何と答えればいいのか。「それは驚かれたでしょう。御愁傷様。お気を落とされないように」とでも言えばいいのか。それとも、「自業自得だ、ざま見やがれ」と言えばいいのか。
動悸が高まり、口の中が一気に乾いた。いろいろな思いも一度に襲ってきた。
奥さんに責められて男はいたたまれなくなったのだろうか。会社の人にいろいろと言われて、それが原因なのだろうか。
一度、決心しながら、挫折をした自分が許せなかったのか。離婚に追い込まれた理恵子のことを思ってのことか。
様々な思いが交錯する。
死ぬなんて、それはないやろう、と思う。
人には一歩遅れるやつもいる。遅ればせながらやらなければいけないことだってある。結婚してから恋をすることだってある。人はそう順番通りには生きられない。
「迷惑をおかけしましたが、どうか許してやってください。あいつは本当にばかなやつでした」
兄は、声をつまらせる。
「驚きました。私は何と言ったらいいのかわかりません」
また、しばらく沈黙がつづく。ようやく兄の声が返ってきた。兄は急激に冷静さを取り戻したようだ。
「それで、こんなことをさっそく言うのも何なんですが、あいつもきっと気にしていたと思います」
「慰謝料のことですか」
「はい。旦那に死なれて、義妹も払える能力はないし、私も、実は……」
収まりかけていた怒りが再び起こった。許せない、と思う。こんな形で決着するなんて、どう考えても許せない。
武治は黙る。
「お宅のお腹立ちはよくわかります。私も腹を立てています。でも、小さな子どもを二人もおいて死なれた義妹のことを思うと。お願いします」
電話の向こうで頭を下げている気配が伝わる。
人の生き死にを前にして、最初に話すことが、金の話か、と武治は思うと、まったくやりきれなかった。それに、男の奥さんと武治とは同じ立場である。彼女から金を取ろうという気はおこらない。ましてや何の関係もない兄からは取れない。ただ、慰謝料さえ取れないのかと思うとくやしくてしかたがなかった。交通事故でも、もう少し、誠意のある態度を示してもらえるだろう。雅彦の母親を殺しておいてたった十万円とは何事だ。
しかし、武治は感情を殺してしばらく黙った。なんと言えばいいのか、なんと。
「わかりました。しかたがありません」
相手が息を飲むのが伝わる。
「奥さんにも、お兄さんにもご迷惑はおかけできません。慰謝料は放棄します」
武治は、きっぱりと言った。これらは考えた末の言葉ではなく、自然に出てきた言葉だった。
「そうですか。ありがとうございます」
電話の向こうで何度も頭を下げているのがわかる。
腹がたつ、虚しい。いったいこれは……。
「妹も、私も助かります。ありがとうございます、申し訳ありません」
お礼の言葉が何度も繰り返されて電話は切れた。
と同時に、陰鬱な気分が一気に強まった。
いったいこれは……。今まで考えてやってきたことがまた振り出しに戻った。重苦しい気分が襲う。うううと、うめき声が出る。
受話器を握ったまま天井を見つめる。先ほどと同じように天井がすぐにプールの水面になる。水面には泡がいっぱい浮かんでいる。目をこらして水底を見つめると、一人の男がもがくように泳いでいる。あの男だ。あの男が、犬かきしながら泳いでいる。水底を何度も何度も犬のようにかいている。
ばか野郎! 何ということだ! おれはまだ何もやっていないのに、お前はしゃあしゃあとすべてのことをやってのけ、さっさとおれの前から消えやがって。
武治は握りしめていた受話器を投げつけるようにして元に戻した。
下手な泳者が水に飛び込んだような嫌な音が鳴った。と同時に、男の後を同じような不格好な姿で、もがきながら泳いでいるもう一人の男の姿が見えた。それはまるでおぼれる寸前のネズミのような姿だった。
馬鹿を言うな、おれはあんなに下手ではない、もっとましだ。おれはすでに、遠泳ができている。
武治は天井に向かって叫ぶように言った。
了
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