一
三ノ宮駅に電車が着くたびに車両から人ごみが掃き出され、流れ出た人々は駅周辺に広がり建物の陰に吸い込まれていく。車だけは神戸港に浮かぶポートアイランドに続く幹線道路に長々と列を成していた。
三好裕一は首筋に浮いた汗を拭き、渋滞する車から吐き出される真っ黒な排気ガスに追い立てられ横断歩道を渡った。夏の強い陽射しが照りつけ、道路脇の高層で全面ガラス張りの神戸市役所に陽光が当たり、反射熱が周辺の温度を上げている。駅前の三宮ショッピングセンター街南側のオフィスビル街に、三好の勤める薬品販売会社があった。
五階建てのビルに入り、薬品が展示されているショールームを通り抜け、エレベーターに乗り込むと四階で降りた。廊下をまっすぐ進み経理課のドアを押すと、部屋の中にいた十二人の目が三好に向けられた。コンピューターの端末機が所狭しと並んでいる間を、縫うようにして窓際の自分の席に戻ると、机の上に上着を投げ出し、腰を下ろした。
「課長、うまくいきましたか」
三好の顔を見ると会計係長の木下は、低姿勢で声をかけてきた。
「大丈夫だ。君らが心配することはない」
給料日前になると、資金繰りで銀行筋を回る日が多くなり、暑い日はのどが渇き飲み物がほしくなる。冷えた麦茶をそっと机の上に置いてくれる南沢加奈子の、はにかむ笑顔が彼の心をなごませた。
経理課は会計係と出納係に分かれ、資金の調達および運用、これに伴う収支を記帳、計算するところだった。現金や小切手を直接さわるところだから生真面目で几帳面な社員が多い。そのためか覇気のない陰気な雰囲気が漂っていた。
そんな経理課の中で加奈子だけは明るく振る舞っている。入社してから九年のキャリアをもち、女子職員では年輩者のグループに属していた。ふっくらとした白い肌に二重の大きな目と通った鼻筋、二十九歳に似合わない子どもっぽい顔立ちだった。
真っ黒なストレートの髪が肩にあたり内側に軽くカールしている。紺の制服の上からでも想像出来る盛り上がった胸と、くびれた腰、それに引き締まった足首。二十半ばにしか見えない。彼女は独身を押し通していた。
部長との打ち合わせが終わり、三ノ宮駅から七時発の播州赤穂行き電車に、乗ろうとしたときだった。
「課長さん、お帰りですか」
声の方に振り返ると、加奈子が小走りで同じ車両に乗り込んできた。少し息を切らせ髪を乱していた姿がまぶしい。車両はいつもこの時間帯は混雑をするのだが、今日の車両はいくらかの空間があり、二人の身体を置くスペースには十分だった。同じJRで彼女が塩屋から、三好は垂水から通っていた。
目の前に横向きになった加奈子の頭があり、車窓に顔を向け立っている。車両が揺れるたびに彼女の髪が顎に触れてくる。白いブラウスを通して胸の膨らみが目につく。
加奈子から声を掛けておきながら、話し掛けてくる様子は見受けられない。三好の視線にも身動きひとつ示さない。彼の出方を窺っているようにも感じられる。
電車が神戸駅にすべり込もうとしたとき食事に誘ってみた。たまたま今夜は妻が不在で、食事を済ませて帰ってきてほしいと、言われていたことを思いだしたのだ。ひとりで食事をするよりも、彼女と食事をした方がどれだけ楽しいだろう。九歳も年上の見栄えのしない上司なんかに、付いて来ないだろうとあきらめ半分と、付いてきてほしいと期待する半分が胸の中で交差する。仕事のことなら自然の流れで用事を言いつけることができるのだが、私的なことで彼女を誘うとなると少し躊躇してしまう。
意外にも加奈子は、思案する様子もなく上目使いで三好を見ると軽くうなずいた。髪が顔半分を隠したその顔は、どきっとする艶めかしさが漂っている。
神戸駅の北側にある、店の入り口が杉の木で造作された寿司屋に入り、高ぶっている気持ちをおさえカウンターに座った。まだ時間が早いせいか奥の席に客は一組しかいない。
「こんなところでお食事をいただくのは久しぶりです」
加奈子はあたりを見回して言った。彼女と並んで座ると、三好は自分の心が少し浮ついた。それを沈めるようにおしぼりで手を拭き、メニューを加奈子に渡した。
「課長さんにお任せします……この店よく来られるんですか」
彼女はそう言ってメニューをカウンターに置いた。
「月に一回くらい来るかなあ。寿司が好物でねえ。小さい頃は、お寿司を巻いてもらえるのは村の祭りか、学校の運動会、それに遠足のときだけだったような気がするよ」
加奈子は小さくうなずいていた。三好は造りとビールと、それににぎりを注文した。店員がビールを持ってきて、ふたりのグラスに注いでくれた。
「ゆっくり食事をしていると、昼間の忙しさが嘘のような気がするね」
「課長さん、将来は重役ですね」
「えっ?」
隣の加奈子を見た。彼女の視線はカウンターの上の、両手を添えたグラスに向けられたままだった。
「だって、課長になられるの早いですもの」
控え目な嫌味のない言い方だった。
「そんな……ずっと先の話だよ」
謙遜しながらも、三好は内心優越感に浸った。
「わたし、期待していますから」
顔をあげた加奈子に見つめられると恥ずかしい気がする。
「君が経理課にいてくれるから、楽しく仕事ができるよ」
彼女の口調に誘われて、思わず本音が出てしまった。
「ほんとうですか。うれしいわ」
女性からこんな言い方をされて、悪い気はしない。それに演技をしているとは思えない。白い細い指が黒髪を耳にかき上げ、にぎりを口に運ぶ仕草が女の色っぽさをさらけ出している。加奈子が隣にいたせいか、今日のビールは格別おいしく感じられた。
このまま彼女と別れることが無性に惜しい気がする。今まで部下である女子社員と、こんな形で話をすることなんか、ほとんどなかった。会社の中では、女子社員との接し方には気を使っているつもりだった。馴れ馴れしい話し方をすれば職場の適度の緊張感が崩れるし、高圧的な態度をとれば仕事に対する熱意が薄れてしまう。
いつも職場内には適度の緊張感が必要であろうし、課長としての威厳も社員に最大限働いてもらうためには、ある方がいいと思っている。
「もう少し飲まないか、早く帰ってもだれもいないんだよ」
三好は少し酔っていたせいか素直に言えた。それに加奈子がアパートを借りて、ひとりで暮らしていることも知っていた。
「課長さんて、見かけによらず寂しがりやなんですね。でも遅くなると朝起きるのが辛いんじゃありません?」
返してきた笑顔の目の周りが、ほんのりと赤くなっている。
「いくら遅く帰っても、五時半に起きている。朝は強いんだ。気に掛けてくれなくても大丈夫だから」
寿司を食べに来たときに何回か寄ったことのあるスナックに彼女を誘った。ボックスが二つと、カウンターに十人ほど座れる広さの店だった。
若いサラリーマンのグループが二つのボックスを占領している。カウンターの中には鼻筋が通った三十歳くらいのママと、二十二、三歳で下ぶくれ顔に茶髪の女の子がいた。
止まり木に座り三好は水割りを、加奈子はカクテルを注文した。ママは最初にあいさつをしただけで、後から入ってきた二人連れの客を相手にし、女の子はボックスのグループの中に入っていた。カップルの三好たちに気を使っているのか、そばには来なかった。
「……課長さんの奥さんて、常務の縁戚の方なんですね」
彼女の言葉に戸惑いを感じた。
「急に、驚くじゃないか」
「みんな会社では噂しているんです」
「どんな噂が出ているんだい」
社内の噂というものに興味がわいた。加奈子は何か躊躇しているようでカクテルを口に含んだまま、目の前の洋酒棚から視線を離さなかった。
「怒らないで聞いてくださいね」
決心をしたという言い方だった。
「噂なんかでは怒らないよ」
表面はゆっくりとした落ち着いた言い方だったが、内心は部下たちの上司への評価として気になった。
「課長になられるの早かったでしょう。みんなは奥さんのおかげだと言っています」
彼女は前を見たまま息を一気に吐き出した。言葉の中に挑発しているものを感じた。先ほどまでの暖かい感じのする加奈子とは、別人の気がする。
「気分悪くされました?」
言葉を返してこないのを気にしているのか、加奈子は三好の顔を覗き込み、表情を窺っていた。別に気分を悪くするほどのことではないが、噂の内容が妻に関係していたことにいささか落胆した。別に隠していたわけではないが、妻のことは会社では喋ったことはない。しかし、ほとんどの者が知っているのは事実のようだ。できれば仕事と妻とは切り離してほしかった。
隣へ視線を向けた。頭を軽く下げグラスに口を付けている彼女の顔には黒髪が垂れ、表情を窺うことはできない。
ふたりきりでいると、センチメンタルな気持ちになってくる。三好は自然と口を開いていた。
「私の実家は農業で生計を立てていたが、裕福といえる家庭ではなかったんだ。今のように機械化がされていない時代だから、想像できないくらい辛い環境で育った。親父からは毎日『手伝いをしろ!』と追いかけ回された。小さいときからもっと楽な生活をしたい。それだけを目標にして毎日頑張ってきた。勤勉さがなければ常務の縁戚にあたる娘を妻にできなかったと思う。この春の定期異動で同期入社の中では一番早く課長に昇進した。妻の影響を百パーセント否定はしないが、会社に貢献してきた結果だと思っている。そのことが家族や年老いた両親を、幸せにすることにつながると確信している。君は女性だから私の気持ちを理解しにくいと思うが……」
酒の力が口を軽くし、心の中に秘められたものを吐き出させた。
加奈子が横で相槌を打ち黙って聞いていた。白い横顔に、いつもの優しさが戻っている。別に彼女の意見を聞こうとする気はなかった。それよりか、身の上話をしてしまった事に後悔の念が湧いてきた。三好は少し酔ったなあ、と思った。
「出ようか」
独り言のように呟き精算を済ませて外にでた。
駅まで戻ってきた三好は、目の前に輝くホテルのネオンに自然と視線がとまり、足が止まった。三杯ほど飲んだ水割りが少し足下をふらつかせ、気持ちを大胆にさせた。
「課長さん、いいですよ」
突然、背後からの言葉に驚いた。現実に引き戻された。年甲斐もなく鼓動が速くなっているのがわかる。
「な、何が、いいんだ?」
後ろを振り向き、意味がわからない顔をした。
「課長さん、入りたいんでしょう?」
加奈子は真剣な眼差しで三好から視線を外さない。
「そんなこと……」
動揺が走った。アルコールが入っていなければ敏速な頭の回転と的確な返答で、うろたえた姿を見せなかったのに……。
「小娘ではありませんから……わたしが嫌いですか」
二十九歳の加奈子が、ある程度の性的な経験を持っていることは、当然なことかもしれない。しかし、簡単に上司と関係を持とうとする考えが理解できなかった。
逆に不気味さを覚える。会社の中でも彼女に思いを寄せている男性社員は多いはずだ。好きなタイプの男を相手にしようと思えばいくらでも選べる容姿を加奈子はそなえている。係長で独身の木下だって彼女に接する態度はどことなしか馴れ馴れしい。背が高く格好良さは三好より上かも知れない。ふたりがデートをしてる様子もないし、彼女は男に対するガードが堅い女だと思いこんでいた。それが妻のある男にこうも簡単に声を掛けてくるのか……。
疑問が頭の中を駆けめぐるが、加奈子の言葉を素直に受け入れ、このチャンスをものにしたいと思う気持ちが膨張してくる。彼女の光沢を放ったルージュに血が騒ぎ立てる。三好は冷静を装い上司としての立場を精一杯努めようとした。
(何を気取っているんだ。おまえはいつから、理性のそなえた人間になってしまったんだ。いつも加奈子の姿に視線を送りながら、《この女を抱けたらなあ》そんなことを考えていたじゃないか。彼女からチャンスをくれたんだ。何をぐずぐずしてるんだ。肩に手を掛け、ホテルの方に歩けば、それでおまえの願望が叶えられるじゃないか。黙っていれば、妻や会社に二人の関係がばれることはない)
耳の奥で、もうひとりの自分がささやいている。
三好の脳裏に妻の久恵の顔が浮かんだ。結婚したころはおとなしい女だと思っていたが、年数が経つごとに口やかましくなってきた。些細な原因の夫婦喧嘩であっても、ヒステリックな声を張りあげ三好を罵倒した。彼はほとんど口答えをしないで、妻の興奮状態が静まるのを待った。どちらかが引かなければ喧嘩は終わらない。何回目かの喧嘩で引く方が利口なやり方であることを悟った。
久恵の機嫌の良い朝は、左右の頬にそばかすを散りばめた顔を近づけ、「頑張ってね」と出勤時に声を掛けてくる。「おじさんに、早く出世ができるように頼んでおくから」とも言った。いつも常務のことをおじさんと呼んでいた。
三好は妻の言葉に軽くうなずき家を出る。一キロある垂水駅までの距離を歩く。出世の道具に妻を使っている不甲斐ない自分に苛立ちを覚える。同僚を負かすために常務の縁戚と結婚し、妻に頭があがらない自分に「これで良かったのか」と問いかけたくなる。
久恵が夫の浮気を知ればどんな態度にでるかは明らかだ。細い目が釣り上がり、一晩中わめき散らし三好を眠らさないだろう。
加奈子は足下に視線を落としていた。なま暖かい風が、髪を揺らし顔半分を隠している。ネオンの明かりは三好の背中で遮断され、彼女の顔まで届いていない。白いブラウスが薄暗い中で明るく浮き出ていた。
横を通り過ぎる酔った中年男が、意味ありげな笑いを投げかけて行く。
三好は口の中に乾きが広がっていくのがわかる。右手が硬直したような錯覚を覚え、彼女の肩に掛けることができなかった。
「……帰ろうか」
三好の言葉は冷たい響きを含んでいた。彼自身が驚いたくらいだ。加奈子の表情は暗くて読みとることはできない。彼女は向きを変え駅に向かって小走りに駆けだした。加奈子の後ろ姿に視線を送りながら、自分の不甲斐なさに無性に腹がたった。彼は視線をホテルに移し地面に唾をたたきつけた。
四階の窓から見える公園に植えられている銀杏の木が、黄色くなり秋の到来を告げていた。その横で買い物を終えたのか大きなデパートの袋を足下に置き、カップルがベンチに座り仲良く話し込んでいる。ふたりの姿を見ていて、羨ましいと三好は思った。彼には女性と楽しく話し込んだ記憶がない。
部屋の隅に置かれているホストコンピューターから、モーターが回っている唸り音が脳天の芯に響いてくる。各机に配置された端末機から流れ出る熱気が、コンクリートで囲まれた部屋の温度を高め、息苦しくさせる。
帳簿類に目を通していた三好は、売り掛け帳簿から月末の期限間際の入金が多いことに気がついた。出納簿も入金済みとなっていた。金が紛失している形跡はなかったが、何か胸騒ぎを感じる。
外部からの入金は、加奈子の所属する会計係で集計され、伝票その他の書類は出納係へ送られる。会計主任の加奈子は、普段と変わらない態度で仕事をこなしていた。仕事ができる彼女を疑うことに、ためらいを感じたが、職務上確かめなければならないと思った。
三好は帰り際に加奈子を呼び、神戸駅近くの喫茶カノコに来るように言った。会社の者に顔を合わさないためにと、三ノ宮駅からふた駅離れた場所を選んだのだ。
喫茶カノコは神戸駅から南側へ地下道を潜ると出口近くにあった。店は格別大きくはない。入って右手にカウンターがL字型になっており、その奥にボックスが八つほどあり店全体が真四角になっていた。三好がハーバーランドにある得意先に用事があるときに、ちょくちょく利用していた。
加奈子はまだ来ていなかった。三好はスポーツ新聞を取って見通しのきく壁際のボックスに座った。視線を紙面に落としたところで読む気にはならない。ただ手持ち無沙汰を補うだけの行為でしかなかった。視線は入り口に向けられてしまう。
加奈子が現れたときにはコーヒーがぬるくなっていた。三好を認めると、いったん立ち止まり軽く一礼をして、足早に近づいてきた。
「遅れて申し訳ありません。電車に一本乗り遅れてしまって……」
青ざめた顔でボックスの横に立ち、改めて頭を下げた。三好は軽くうなずき、加奈子が椅子に腰を下ろすのを見届けてから切り出した。
「君は私に何か隠していることはないかね」
三好は右肘をテーブルに乗せ、顔を彼女に近づけた姿勢で言った。彼の言葉遣いは職場の中と変わらなかったが、加奈子を見る視線に厳しさが宿っていた。そばに来ていたウエートレスが、注文を聞くのをためらったくらいである。
加奈子は三好の言葉を予想していたのか、表情を強張らせ膝に両手を置きその上に視線を落としていた。
「売り掛け帳簿を調べてみると、入金されている日付が月末に集中している。得意先からの入金は月末に多いのはわかるが、それにしても多すぎると思うんだ」
加奈子は下を向いたまま顔を上げようとはしない。頭が揺れ長い髪が顔を覆い隠した。表情はわからないが、肩が微妙に上下に揺れている。
彼女の気持ちが、少し落ち着くのを待つことにした。加奈子の態度を見ていて、一時的にせよ会社の金を不正流用していたのは間違いないようだ。(なぜ彼女が……)そんな思いだった。
彼女はゆっくり顔を上げ、目に涙を滲ませ小さな声で詰まりながら話してくれた。
「田舎に残した年老いた両親に、毎月仕送りをしているんです。この春に父が脳出血で倒れて、病院に入院して……課長と同じ歳くらいの兄がいるんですが、家を飛び出したままで……」
「お兄さんの居場所はわかっているの?」
「一度だけ兄からハガキが届き、差し出しの住所は大阪市西成区萩ノ茶屋になっていました。ハガキの最後に、危険なところだから、加奈子のような若い娘が来るようなところではないと、付け加えられていました。書いてあった住所を地図で調べると、浮浪者が集まっているスラム街がその中にあることがわかったんです。そのことを母に伝えると落胆の表情を見せ、兄のことは忘れようと言いました。だから両親はわたしに頼るしかないんです……だれも相談する相手もいないし……それに助からない父を看病している母が不憫で……」
加奈子の話を聞いていると、三好は田舎に残している年老いた両親の顔が浮かび、小学二年生の頃が思い出された。
――鉛色の空から牡丹雪が降り注ぎ、辺り一面を真っ白に変色させ凍り付く寒い日だった。
学校から帰ると家の中は薄暗く、キーンと静まり寂しさが漂っていた。両親は山に野良仕事にいってることは頭ではわかっていたが、このまま家に帰ってこない気がした。不安な気持ちが胸一杯に広がり、足は自然と山の方向に向いた。
山の谷間に大きな池がある。真っ黒な水面が大きな口を開け恐怖心をさそう。寒さで強張った頬に木の枝が鞭で打たれたように当たる。しびれる痛さを我慢して谷間を奥へ進んだ。心細さも手伝って目に涙が湧き出てくる。がむしゃらに歩いた。
池の土手一面に背丈くらいの笹が生えていた。雪におおわれ真っ白になった斜面に這いつくばるようにして、笹を刈っている両親の姿を見つけた。
「おかあ!……」
叫んでいた。紺色の野良着に身を包んだ母親は、叫び声に腰を立て鎌をもったまま振り向いた。降りしきる雪の中にわが子を見つけ驚いた顔をした。
「何しに来たんだ……寒いから家に帰ってろ!」
母親は、怒った顔をして怒鳴った。横で心配そうな父親の顔がこちらに向けられていた。果樹園に肥として埋めるために、雪の降る中で笹を刈っていた両親の姿が、今でも三好の脳裏にはっきりと焼き付いている。
手が凍り付きそうな寒さの中で働いても、ほとんど無報酬と同じだった。葡萄の実がならなければ現金を得ることはできない。それも台風や天候によって収益があがらない年だってある。
加奈子の哀れな両親の話に同情心が湧いてきた。これ以上追及する気にはなれない。ハンカチで拭い赤くなったまぶたが、彼の胸を締め付けた。
(彼女の父親が倒れなければ、会社の金を流用するようなことはしなかったはずだ……)
彼は、そう思いこもうとした。
加奈子は膝の上に視線を落としたままの姿勢で、哀れさが表情から浮き出ていた。
「もう帰ってもいいよ」そう声を掛けてやると、その場で立ち上がると深々と頭を下げ立ち去った。
三好は部長に報告するか迷った。報告すればその時点で加奈子は退職させられるだろう。自分さえ目をつぶれば会社に勤めていることができるのだ。彼女の行為が明るみにでれば上司としての監督問題に発展するだろう。そうなれば職歴に大きな汚点を残すことになる。黙っていても加奈子が行った行為を経理課のだれかが気づけば、噂となって社内に広がる可能性だってある。そんな思いが脳裏で交差する。
不安な気持ちが三好を飲みたい気分にさせる。帰りにひとりで居酒屋に寄った。全身にアルコールが回ってくると、加奈子に対して無性に腹が立った。反面、出世欲にとらわれすぎている自分が、小さな人間に思えてくる。
加奈子への思いを断ち切り、妻を頼りに出世のことを考えている自分に神経が苛つき、眠れなくなると睡眠薬に頼ることもある。睡眠薬は薬品会社に勤めていたので手に入れることができた。鞄の中には出張などで外泊したときでも飲めるようにと、いつも小瓶を入れている。
毎日の緊張感から解放され、何もかも捨て、欲望のまま生きたい気持ちが、心の隅で小さく同居している。アルコールが体内を占める割合が大きくなると、欲望が急激に膨らみ、胸の奥に押さえ込んでいた加奈子への思いが強くなってくる。
(彼女がホテルに誘ったのは、私に抱かれたいからだ……)
三好は自分自身に、そう納得させようとした。
居酒屋を出るころには、千鳥足になっていた。辺りのネオンが路地を照らした。彼は表通りでタクシーを拾い、加奈子のアパートに向った。
二
会社の業績も順風満帆かと思っていたが、今年に入ってから思わぬ横風が吹き荒れていた。バブル崩壊という経済事情である。世の中が不景気になると薬品販売会社も影響を受けた。取引先である薬局への販売が落ち、また病院の薬品購入量が減った。どこでも業務を縮小し余分な薬を買わなくなった。これも薬局や病院の生き残る常套手段である。
薬品の販売量は日を追って、ゆるい下降線をたどりだした。中小企業としては死活問題である。社内では職場全体のコンピューターシステムの切り替えと、事務の省力化を図るために、新規プログラムの導入が進められていた。経理課も資金の工面で大きな役を担わされている。
新しいシステムには多額の経費が投入されるが、完成すればメリットも大きい。少ない人員で薬品の在庫管理から販売に関するデータが一目で把握でき、製造元からの購入数量も無駄なく発注できる。売上金の管理も明瞭になり、職員の不正流用などもチェックできる。経理課にとっても利便性が大きい。この時期を乗り切れば、会社にとっては明るい未来が約束されている。
その反動として職員のリストラという、やっかいな問題が浮かび上がってきた。会社は希望退職者を募ったが、応募してきたのは予定していた人数より少なかった。追加退職者を選び出さなければならない。部長から来年の三月に退職させるリストラ職員を経理課から一名出してほしいと内命を受けていた。彼は職員個々のデータを引っぱり出し、リストラ候補者をピックアップしていった。内容が首切りに関することだけに、極秘に事を進めなければならない。しかし、どこから出たのか噂は職員間にも広がっていた。
社内の緊迫した雰囲気と、白い視線を肌で感じた。しかし、後戻りはできない。ここでつまずけば三好自身が退職者リストに載せられる可能性だってある。妻が重役の縁戚だといっても油断はできない。
考え抜いたすえに、経理課から加奈子をリストラの候補者にすることにした。退職させることによって、彼女との関係を断ち切ろうと思った。ただ加奈子が逆上して何らかの行動に出ないか不安もあり、迷ったのも事実である。
彼女と別れてしまうことに一抹の未練が残る。出世欲にとらわれて、妻に頭が上がらない自分を思うと、会社勤めが嫌になる。嫌なことから逃れるためにアルコールに頼ってしまう。
小便が酒臭くなるほど飲んだ後は、身体が怠く力が入らないし精神の緊張も失い何事もやる気が起こらない。アルコールに頼る弱気な精神力で課長職が務まるのかと不安が増し、神経はとげとげしくなる。積み重ねてきた自信が徐々に頭の中から消えていくようだ。身体からアルコールが抜けきってしまうと、虚脱感から開放され今までの精神状態が夢であったのではないかと錯覚を覚える。
朝夕のラッシュアワーが逃れることのできない現実へ引き戻してしまう。会社で神経をすり減らし、疲れ切って家に帰れば食事をして寝るだけのことである。妻とは会話らしい会話はここ数ヵ月間交わしたことがない。子どものいない家庭には共通した話題を見つけることは難しい。些細なことで夫婦喧嘩をして、またヒステリックな声をあげられようものなら、何のために家に帰っているのかわからなくなる。
三好が五階の社員食堂に行くと、昼の休憩時間を楽しみに待っていたように同僚たちは、食事をしながら響き渡る声で歓談していた。加奈子は一人窓際の席で昼食を取っている。まずそうに食べ物を口の中に運び、箸の動きも緩慢だった。
彼女は、三好がアパートを訪れた次の日に、一日休んだだけで、それ以降は毎日出勤していた。
加奈子は三好と視線を合わそうとはしなかったし、表情も暗く沈み込んでいるように窺えた。
「食欲がなさそうだが、例の話、迷っているのか」
三好は一週間前、彼女にリストラの対象になっていることを告げていた。彼はテーブルに膳を置き、加奈子の向かいに腰を下ろした。
「…………」
彼女は視線を一瞬三好に向けたが、すぐに膳の上に落とした。
「いろいろすまなかったなあ」
「課長……どうして……」
加奈子はゆっくり彼を見据えた。
「君にはすまないと思っている。しかし、今は全社あげて会社の建て直しを図っているんだ。個人的な感情を入れるわけにはいかないんだ。わかってほしい」
彼女の言葉を遮るように言った。
「わたしがリストラの対象に入っているのは、流用の件が原因なんですか」
強い視線が三好に向けられていた。
「各課とも数人ずつ候補者を出しているんだ。うちの課だって出さないわけには、いかないだろう」
「課長が決めたんですか」
三好は軽く二、三回うなずいた。
「だったら……どうして課長はあんなことを……」
「あれは……」
彼は心臓がドキリと唸り、のどの奥に声が詰まってしまった。
「今、会社を辞めるわけにはいかないんです……転職をしても、今以上のお給料は望めないし……」
加奈子は膳の上に視線を落とし、弱々しく口元から独り言のように吐き出していた。
社員食堂は三十名ほどいる社員の話し声が重なり合い、雑音となって彼女の言葉を飲み込んだ。周囲を見渡したが会話が周辺の者たちに聞かれている様子はなかった。
「君に働く気があるなら他の会社を紹介してもいい。知り合いが人事課長をしている会社なんだが、経理に詳しい事務員をほしがっている。ただ条件は今よりは悪くなるが……」
「…………」
箸が止まり加奈子は黙っている。顔から暗い表情が読みとれた。もう一言何かを喋れば泣かれそうな感じだ。こんな場所で泣かれれば食堂にいる社員たちの視線は一斉にふたりに向けられるだろう。黙って彼女の気持ちが静まるのを待った。
窓から見える銀杏の木は、いつの間にか葉が落ち、寒風にさらされている姿が枯れ木を思わせる。毎年春になると幹が見えなくなるほど若葉を付ける銀杏の木だが、ふと来春は新芽を吹き出さない気がした。
三好は銀杏の木と加奈子の面影を重ね合わせていた。一週間前に熱があるので二、三日休ませてほしいと電話があった。そのまま彼女は休み続けている。連絡は最初の一回きりでそれ以降はない。こちらから電話を掛けたが呼び出し音だけが伝わってくる。
(帰りに加奈子のアパートに寄ってみようか……たしか、父親が脳出血で倒れたと言っていたが、亡くなって田舎に帰ったのでは……黙って帰ることはしないだろう。それとも前途を悲観して……)
そんなことを考えていた。涙に濡れた彼女の悲愴な顔が目の前に浮かんだ。
三好は心配になり、女子社員に加奈子のアパートへ見に行かせた。机に座って帳簿類に目を通していても、頭の中は彼女のことがちらついた。
一時間ほどしてアパートへ行った女子社員から電話が入った。驚いたことに五日前に部屋が引き払われていたのだ。
三好は自分の席で口に加えたタバコから立ち上がる紫煙を見つめていた。
(まさか!……)
身体中を不安感が稲妻のように走った。
「南沢君が扱っていた帳簿と、伝票を調べるんだ!」
無意識に立ち上がった三好はうわついた声で、だれともなしに怒鳴り散らした。課長の尋常でない表情に社員たちは事の重大さを悟ったのか、機敏な動作で加奈子の扱っていた帳簿類を調べだした。
「課長、いつもより今月は入金が少ないような気がするんですが……」
木下の言葉で三好の心臓はうなり、血管がはち切れるくらい血液を押し出した。鼓動の音が身体中に響きわたり、椅子に倒れ込むように腰を落とした。
経理課は昼休みどころか大騒ぎになった。売り掛け帳簿を調べ、職員が手分けをして得意先に入金確認の電話を掛けた。三好は職員から次々と露出してくる紛失金の報告を、呆然と聞いていた。部長にどのように報告すべきか、それだけを考えていた。結局のところ一千万円近い金額が消えていた。膝の上に置いた手が小きざみに震えた。そして胸の奥へ、それがうねりとなって身体を激しく震わせた。
その後の調査で、加奈子が会社の金を不正流用しているのを、三好が見逃していたことも会社側に知られてしまった。彼は監督責任を問われた。弁解の余地はない。本来なら免職されても仕方がなかったが、妻が常務に泣きつき、課長代理への降格処分だけですんだ。上層部は会社の社会的信用を考えて警察へ訴えることをやめた。
三好は加奈子の行動にショックを受けた。腹心の部下だった木下は、就業時間が終わると駅裏の居酒屋に行きませんかと彼を誘ってきた。覇気を失った上司を見て同情心がでてきたのかも知れない。会社を出ると黒い空に星が散っている。冷気がコートの中に忍び寄ってきた。ふたりは黙って歩いた。
居酒屋はビルの二階にあり、平日だったので空いていた。入り口からは見えない一番奥のテーブルに向かい合って座った。
「課長、どうぞ」
木下はビールを三好のグラスに注ごうとした。
「私はもう課長じゃないよ」
その声には以前の力強さを失っていた。
「とりあえず、一杯飲んでください」
三好は気を使ってくれる木下の気持ちがありがたいと思った。
「南沢加奈子もひどい女ですね。課長代理に流用の件を見逃してもらっているのに、横領という形で砂を掛けたんですからね。あんな綺麗な顔をしておきながら、僕も騙されていたような気がします。本当のことを言うと南沢が好きだったんです。結婚してもいいとさえ思っていたのに」
木下は口惜しそうにビールを口に流し込んでいた。
「君が南沢に気があることは薄々感じていたよ。女の真意はなかなか私にもわからない」
「課長、いや課長代理、ひとつだけ聞きたいことがあるんですよ。どうでもいいことなんですが」
速いピッチで飲んでいた木下は目の周りを赤くし、串カツを口の中でもぐもぐと噛みながら、にやけた笑みを浮かべた。三好は目の前のビールの入ったグラスに手を掛けた。
「課長代理も彼女が好きだったんじゃありませんか」
突然の問いに持っていたグラスが口の手前で止まった。
「どうして、そう思った?」
「課長代理の視線がいつも南沢を追いかけているようでしたので」
三好は部下の観察力に驚いた。彼女を特別扱いしたこともない。
「これは参ったなあ。知らず知らずのうちに態度に出てしまうものなんだなあ」
彼は苦笑し、あっさり白状した。
「今夜は飲みましょう。あんな女のことなんか忘れましょう」
木下は憂さを晴らすように元気よく言った。酔いが回ってくると愚痴ともとれる言葉が、三好の口から飛び出していた。
「家が貧しくて、まともに大学に行くことができなかった。だから大学生といってもアルバイトに追われていた。いつも親のすねかじりで、学生生活を楽しんでいる学生を見ると、いつかは負かしてやろうと頑張った。入社してからは仕事に励んだ。将来の社長候補と噂の出ていた常務から、縁戚の娘ということで妻を紹介された。妻は自分と結婚できたから課長になれたと、何かにつけ恩着せがましく自慢した。そんな女でも別れ話を持ち出されると、会社における私の立場に微妙な影を落とすのは目に見えている。そんな不満を殺した生活から、息抜きをするように、視線は南沢加奈子の仕草を追うようになっていた……」
ネクタイを胸のところまで緩めた木下は、何回もうなずき黙って聞いていた。店内は通勤帰りの客で少し混んできた。いつの間にか隣りのテーブルに若い男女が座り楽しそうに喋っている。
「一度ホテルへ誘ってきたことがある。あのとき乗っていれば……」
酒の酔いに負かされて、三好の口からこぼれた。木下は横の壁に身体を押しつけて眠ってしまっていた。昼間の疲れが眠気を誘ったのであろう。木下が眠ってしまうと、急に孤独が襲ってきた。三好はひとり世の中に取り残された思いでグラスを口元に運んだ。
課長代理とは名ばかりで、事務員でもできる伝票整理が彼の仕事だった。出世の芽を摘み取られた状態が、何事に対してもやる気を起こさせない。
妻は、三好が降格されてからは「仕事頑張ってね」とは言わなくなった。夫婦愛なんかとっくの昔に消え去っていた。久恵の首や腰回りに脂肪が付いてきているのが目につく。もう身体の変化を彼に恥じたり隠したりする神経は失っていた。反面、嫉妬心は深くなっている。会社の金を横領したことが発覚したとき、久恵から加奈子との関係をしつこく問い詰められた。
「南沢という女が会社のお金を不正流用したことを、あなたが見つけながら常務である、おじさんに何も報告をしなかったのはどうしてなの。もしかしたらあの女とできていたんじゃないの。そうでしょう、できていたんでしょう」
毎晩、ヒステリックなトーンの高い声で責められた。三好はじっと黙って耐えていた。口答えしようものならヒステリックの甲高い声はいつまでも鳴り止まないだろう。
久恵を殴ろうものなら、課長代理の席は一瞬にして吹っ飛んでしまう。田舎では息子の出世を残り少ない人生の張りにしている年老いた両親を、がっかりさせることになる。
朝刊を手にすると、いつも新聞に挟まれている求人広告に目がいく。四十路に手が届こうとしている男の求人は少ない。今の会社と比較にならないほど労働条件も悪い。三好は求人広告を手にするだけで、それ以上踏み込んでいく気力が湧いてこなかった。
三好の家は垂水駅から北へ一キロの新興住宅街の中にあった。久恵と結婚すると同時に建て売り住宅を買った。土地は五十坪で建物は二階建てで三十坪。購入資金の半分は久恵の親が出してくれたために、彼の貯金と合わせて少しだけのローンで済んだ。子どものいない家庭には十分の広さだった。
課長代理に降格されてから、張りのない毎日が、アルコールを要求した。家の外はみぞれ混じりの雨が冷たく地面を濡らしている。壁に掛けてある鏡を覗くと、酔って充血している眼球が鬼の目のように赤く映っていた。
「この頃、お酒ばかり飲んで……しっかりしてくださいよ」
先に寝たと思っていた久恵が、起き出してきた。
(黙れ!)
喉まで出掛かった言葉を三好は呑み込んだ。会社での席を維持し、今の生活を守っていこうとすれば妻に対して強い態度はとれない。年甲斐もなく赤いガウンに身を包み、甲高い声が、今はもう、うるさい雑音でしかなかった。
妻は何を言っても応えない夫をその場に置いたまま寝室に戻っていった。
彼は力の抜けきった身体をソファーに落とした。先ほどまで、身体の中をいきおいよく流れていたアルコールは、体外に放出されてしまったのか、酔いは感じられない。
三好は寝床に入っても目が冴えて眠れなかった。隣の寝床では久恵が寝息をたてながら眠っている。電気スタンドの薄明かりに照らされた久恵の顔に視線をやると、保身のみを考え妻の言いなりになっている自分自身に、腹が立つやら情けないやらで苛ついた。胸の上に掌を組んだ。こうすれば心が安まる。このまま永遠の眠りについても、自然の定めなら、それでいいと思った。
彼は浅い眠りについた。
――加奈子が住んでいたアパートが浮かぶ。
淡い茶色の玄関ドアを開けると台所がある。流し台は綺麗に片づけられ横の棚に数少ない食器が並べられている。四畳半のダイニングに白いテーブルがある。
襖の奥にある茶褐色に変色した畳の上で加奈子が男に犯されている。加奈子は歯を強く噛みしめ、顔には苦痛の表情が浮かんでいた。
「やめて……」
小さな弱々しい声が彼女の口から漏れた。
「やめて! やめて! やめて!」
「ウォー!」
三好は奇声を上げながら、はね起きた。
「びっくりするじゃないですか。大きな声を出して」
寝床の上に起きあがった久恵は、こちらに目を向けていた。
「いやな夢を見た」
「降格されてから、少し変ですよ。胸の上で手を組んで寝るわ、大きな声でうなされるわ。ほんとに大丈夫なんですか」
久恵は枕元の電気スタンドに大きな灯りをつけ迷惑そうな顔をしていた。
三好は夢から逃れるようにリビングに移った。気を紛らわすためにテレビのスイッチを入れると、画面から深夜映画の場面が飛び出した。
黒塗りの自動車が、刑務所の玄関に横付けされている。玄関に出迎えた職員が後部座席のドアを開ける。黒光りの革靴がゆっくりとコンクリートの地面に降ろされ、続いて黒いスーツを着た男の姿が現れる。
「ごくろうさまです」
出迎えの男が、中腰で声をかけている。男はうなずいただけだった。所長室で男は左胸の内ポケットから白い封筒を取り出した。表に『死刑執行命令書』と書かれている。刑務所長らしき男に封筒を手渡していた。
一通の命令書によって刑務所内はせわしくなった。死刑囚の信仰する宗派の教戒師への予約や直接執行に手を下す刑務官の人選、それに処刑器具の点検・調整などを行っている。
画面が変わり死刑執行日、丸坊主で四十歳くらいと思われる男の死刑囚は刑務官に、薄暗いコンクリートに囲まれた部屋へ連れ込まれた。検事や検察事務官、教戒師、刑務所幹部らが居並ぶ中で、刑務所長から令達がなされていた。死刑囚の後ろ姿は微妙に脈を打っている。
「お別れです」
誰が言ったかわからないが、静まり返った部屋中に響きわたった。目隠しと後ろ手錠をされ、両脇から刑務官に抱えられている。足を引きずるように、隣の部屋に向かって数歩あるかされると、そこには刑壇の踏み板。上から絞縄が垂れ下がっている。
待機していた執行官は手際よく絞縄を首にかける。これを確認して踏み板を落とすまでに二秒とかからない。考える間を与えない。死刑囚の波乱に満ちた人生のすべてが、地階に落下していく。
一分、二分、三分……。沈黙の中で、聴診器で心音の確認作業をする白衣を着た検視医の動きだけがクローズアップされている。
「心停止」
検視医の言葉が、すべての終わりを告げる合図だった。死刑囚の顔は、カッと見開いた充血の眼球が突出し、舌は顎まで垂れ下がり、鼻、口、耳から血が噴き出している。首だけが異様に長くのびていた。
演技とはいえ画面を通して恐怖感が伝わってくる。国家権力によってひとりの受刑者が処刑されるシーンである。
三好は寝室に戻ったが目が冴えてほとんど眠ることができなかった。隣の寝床では久恵が背中を丸め布団にもぐり込む形で眠っている。起き出す彼の気配を感じたのか、こちらに眠そうな顔を一度は向けたが、またもぐり込んでしまった。寝床から出ると肌寒さを感じ、ガウンを羽織り静かに戸を開け寝室を出た。
暗い寒々としたリビングの灯りをつけ、ヒーターの電源を入れ新聞を取りに行く。玄関のドアを開けると冷気が流れ込み膝から顎にかけて震えが走った。外はまだ暗かった。急ぎ足で郵便受けから朝刊を抜き取り脇に挟むと家の中へ引き返した。
テレビのスイッチを入れ、インスタントコーヒーを飲みながら、新聞に目を通していると、突然、サイドボードの上に置いてある携帯電話が鳴りだした。壁時計は五時半を指していた。ドキリと心臓が鳴る。ゆっくり携帯電話のアンテナを伸ばしフリップを開いた。
「もしもし」
耳に神経を集中し、相手を探るように低い声で言った。
「三好課長さん?」
携帯電話から飛び出してきた声は加奈子だった。口元が強張り言葉が出せない。
「課長さんでしょう?」
彼女の声から周囲を気にしているように受け取れた。早く返事をしなければと心が焦る。
「き、君は……」
気持ちを落ち着かせるために一呼吸おいて応えたつもりだったが、声がどもってしまった。
「あなたに、もてあそばれた女です」
鼓膜に声が貼り付いた。
「今、どこにいるんだ」
鼓動が速くなり、険のある言い方になってしまう。
「お会いしたいんですが。以前お会いした神戸駅近くの喫茶カノコの前で待っています」
加奈子は三好の言い方に怯むこともなしに、冷たさが伝わってくる。
「来られますね」
乾いた空気の中に彼女の声は響いた。
「ああ……今から行く……」
言い終わるのと同時に、電話は切られていた。血液は身体の中を勢いよく走り回った。テレビからは朝のニュースが事務的に伝えられている。
外はまだ薄暗かった。三好は重い足取りで垂水駅に向かった。朝の空気は張り詰めていた。吐く息が口の前で白い霧となって広がった。ズボンの裾から冷気が忍び込んでくる。まだ出勤前の時間帯なので人通りは少ない。寒さがじわじわと身体に染み込んでくる。両手をコートに突っ込んだ。
駅の前に立つと駅前の時計が六時半を指し、東の空が白みかけている。三好は電車に乗った。早朝のため座ることができた。いつもなら朝のラッシュアワーでもみくちゃにされ座ることもできない。朝の雑踏を乗り越えて規則正しく毎日会社へ通った通勤経路である。少し揺れたかと思うと電車は塩屋駅に滑り込んでいた。塩屋は加奈子のアパートがあったところだ。
――畳の上で横たわり苦痛に満ちた彼女の顔が浮かぶ。
加奈子が会社の金を不正流用したと喫茶店で告白した日の夜だった。居酒屋で飲んでから、彼女のアパートを訪れた。二階へ上がる階段の金属音が辺りの暗闇に響く。部屋は灯りがついていた。
加奈子は横になっていたらしく、パジャマの上にカーディガンを羽織った姿で、ドアを少し開け顔を覗かせた。三好を見ると少し驚いた顔をしたが、「流用の処理について話し合いたい」という口実をつけた。少し待たせた後、彼を部屋に招き入れた。ブラウスの上に先ほど着ていたカーディガンを羽織り、スカートに着替えていた。
入った部屋は流し台のある四畳半のダイニングキッチンで、隣がバストイレになっている。室内はこぢんまりと片づけられており、余分な飾り付けもなく、質素な感じを与えた。三好がテーブルに座ると「申し訳ありません」と彼女は詫びた。
加奈子がお茶の支度をしようと後ろ向きなったときに、「気を使わなくてもいい。ジュースを買ってきたから」そう言って、彼は持ってきた小瓶のジュースの栓を開け、テーブルの上に置いた。
彼女は三好にすすめられるままにジュースを半分ほど飲んだ。しばらくすると表情が変わってきた。彼は前もってジュースに睡眠薬を入れていた。
三好は彼女を犯すかどうか迷った。加奈子がホテルに誘ったことを考えると、「君が欲しい」と頼めば、彼女がうなずくかもしれない。しかし、断られたことを思うと怖い。不正流用を見逃した果てに、その女から相手にされず鼻であしらわれた姿を思い浮かべると惨めである。そんなことになれば、会社での心理的立場は逆転してしまうし、今まで築き上げてきた男のプライドがずたずたに傷つき、立ち直れない気がする。
意識がもうろうとしている加奈子を抱え、再度睡眠薬を飲ませた。目覚めることが恐ろしかった。意識を回復すれば罵声を浴びせ、逃げ出そうとするだろう。
奥の部屋に続く襖を開けると六畳の和室になっていた。鏡台と小さな洋服ダンス、隅に寝具が置かれている。ふらつく加奈子を抱きかかえ和室に連れて行った。
衣類を剥ぎ取られた彼女は、茶褐色に変色した畳の上に、仰向けの裸体を長々と横たえている。乳房は半球を描き、腰は細く、脚は長かった。三好は汗ばんでいる掌を恐る恐る彼女の胸の上に置いた。自分の大きく波打つ鼓動と、彼女の鼓動とが混ざり合った。弾力のある肌から生暖かい温もりが伝わってくる。掌は加奈子の胸から腹、腹から下腹、下腹から腿へと上がったり下がったり、ゆっくり泳ぐように動いた。
形のいい脚に掌を添わせ、ふくらはぎから内股をゆっくりなでた。彼女の動悸が速くなるのを丸い胸から感じ取った。加奈子の顔が歪んで見える。今からやろうとしていることの怖さに、汗腺は開き指先は硬直した。指先に伝わってくる肌の感触が呼吸を荒々しくさせる。口の中に溜まっていた粘った唾液が喉の奥に流れ込んだ。
電灯に照らされた裸体は死体のように青白い。腹に掌を軽く置き呼吸を確認すると安堵感を覚えた。
(今からでも遅くはない。何もしないで帰ろう……このチャンスを逃せば加奈子をものにできない。ここまで来れば犯すしかない。どうせ彼女は許してくれないだろう……不正流用のことを考えると、彼女は泣き寝入りをしてくれるかもしれない……)
耳の奥で、今の自分と、もう一人の自分が葛藤している。
額を手の甲で拭うと、汗でぬるりとした。部屋の灯りを豆球に切り替えた。薄暗い部屋の中に白い肌が浮き出ている。これから起こることを想像すると血液が身体中を駆けめぐり鼓動を速くする。
三好は自分の衣類に手を掛けた。指先が細かく震えワイシャツのボタンがうまく外れない。襟元を両手で掴み思いっきり広げた。半透明のボタンが飛び散り、そのうちのひとつが畳の上に丸い円を描いた。ズボンのベルトを緩めると、下着も一緒に引き下ろした。
加奈子の上に覆い被さると力いっぱい抱きしめた。彼女は歯を強く噛みしめ、顔をしかめた苦痛の表情をあからさまに示した。
「やめて……」
小さな弱々しい声が加奈子の口から漏れた。
垂水駅と神戸駅との間には、五つの駅があるが今日はやけに長く思えた。電車は軽い横揺れを伴いながら走る。窓から見える大阪湾は一面に鈍い青さが広がっていた。出勤時は読書に耽ってほとんど視線を向けることのなかった海面が、やけに寂しく漂っている。
神戸駅で電車から降りた三好は、ベージュのコートに手を突っ込んだままホームに少しの間たたずんだ。加奈子がどんな気持ちで自分に会おうとしているのか。ホームには人影はまだ少ない。もう一時間もすればホームも通勤客であふれかえることだろう。
彼は歩き始めた。寝不足の頭が鈍く痺れている。黒く汚れたコンクリートに視線を落とし階段をゆっくり降りた。彼女と向かい合ったら何と言おう。「すまなかった」、「取り返しのつかないことをしてしまって」そんな言葉が頭に浮かぶ。
ハーバーランドまで続いている地下道をゆっくり歩いた。速いテンポで革靴の音が響いてくる。彼は立ち止まり後ろを振り返った。二、三人のスーツ姿の男が足早に三好を追い抜いていく。三、四十代の明日への希望を持った企業戦士たちである。たくましく見える。降格になる前の、自分の姿を見ている気がする。
地下道の出口近くにある喫茶カノコの前で加奈子は待っていた。白いコートの襟を立て革の手袋で両頬を覆っていた。三好と視線を合わせても彼女は表情を変えなかった。彼は軽い驚きを覚えた。真っ黒なストレートの髪が耳の下あたりから無惨にも切り落とされていた。露出した白い首筋の青い血管が浮き出ている。化粧のされていない肌に、紅だけが唇を引き立てていた。
早朝だったが、通勤前の客を当て込んでいるのか店は開いていた。まだ客の入りは少なく一人だけがトーストを口の中に放り込んでいる。加奈子はコートを着たまま席に着いた。コートの襟元から下に黒いスーツを着ているのがわかった。三好もコートを脱がなかった。
ウエイトレスは水を置いた後注文を聞き足早に去って行く。三好は目の前に座っている彼女に視線を向ける。顔は強張っていた。艶のない肌に目だけが鋭く彼を睨み返す。三好は加奈子の視線に圧迫感を感じ、何から話し掛けていいのやら言葉が出てこない。
彼女は睨み付けているだけで、口を開こうとはしない。ウエイトレスがテーブルにコーヒーと伝票を置き、ちらっと加奈子に視線を向けたあとカウンターの横の定位置に戻っていった。
「甘く見ないでくださいね」
冷たい響きを持って店内に広がった。先ほどの腫れぼったいまぶたをしたウエイトレスが、カウンターを拭く仕草をしながら聞き耳を立てているのがわかる。
「…………」
三好は彼女を刺激しない言葉を探したが、いい言葉が浮かんでこない。
「わたしが、どうしてあなたを呼び出したかわかりますか」
言葉の語尾が揺れていた。
「どうして……」
それ以上言葉にならない。重く固いものが腹に押し当てられているようで声が出てこない。
「あなたの行為を書いた手紙を新聞社や上司である社長と常務に送ろうと思っているの……世の中から抹殺される哀れな男に成り下がるという筋書き……あなたの悲愴な顔を見て笑ってやりたかったし……あなたと話をするのも、会うのもこれっきり……」
目の前の女が、はにかむ笑顔で自分の気を引いていた女と、同じなのかと疑いたくなる。
「わたし高校一年生のとき、レイプされたことがあるの……死のうと思ったくらいのショックを受けたわ。レイプされることがどんなに屈辱的なものか……女を欲望のためにもてあそんだ男が許せない……」
突然の告白に、彼女の素顔を見た気がした。
「ホテルに誘ったことがあったわね。わたしに魅力がなかったのか、それとも奥様が怖いのか、あなたは誘いに乗ってこなかったけど、勘違いしないでくださいね。あなたが好きとかじゃなくて、あれは一種の保険なのよ」
「保険?」
「得意先から入金したお金を一時流用し、病院の支払いや親の生活費に使ったわ。月末には消費者金融から借りて穴埋めをしていたの、そんなことを繰り返していたら、だんだんと利息が膨れてきたわ。あなたの仕事ぶりを見ていたら、いつかは知られてしまうのではないかと、いつも不安だった。肉体関係をもっていれば、部下の女子社員と不倫をおこした上司としては、会社に報告できないでしょう。ばれたときの保険だったのよ」
加奈子の視線は三好を離さなかった。
「経済的に困っていたのよ……父は酒に溺れていて仕事も休みがちだった。わたしの仕送りで生活する状態で……不規則な生活のために父が脳出血で倒れ、病院費用がいるようになって……家を飛び出した兄がいるんだけど……前にも言ったように、大阪西成のスラム街じゃ、あてに出来ないし……だから会社の金を流用したのよ……それをあなたに知られてしまって……あなたは叱責するどころか同情して見逃してくれた……その見返りとして、相談があるような顔をしてアパートを訪れ、薬を入れたジュースを飲ませレイプをした……流用を見逃してくれるなら、あなたとホテルに入ってもいいと思っていたのに……それが耐えられないレイプという屈辱をわたしに与えたのよ」
彼女の言葉が、ずしりと三好の腹に食い込んだ。
「世の中がバブル崩壊による不況で、会社でリストラという問題が起こると、わたしを候補者にあげ会社を辞めさせようとした。レイプした女を、あなたは遠ざけようとした。やることが卑怯よ」
三好はテーブルの上のコーヒーカップに視線を落とした。
「父の病状が落ち着けば会社を辞めて、その退職金で借金を清算して田舎に帰ろうと思っていた、わたしの描いた筋書きを、あなたがぶち壊してしまった……レイプされた女の抵抗として、出世欲に狂ったあなたを会社から追い出してやりたかった……自分を犠牲にしなければ、バックに常務がついている課長を失脚させることなんて、通常の方法では出来ない……会社の金を横領することによって……警察に捕まれば、すべてを喋り、レイプされたことも明るみに出してやろうと思ったけど、会社は被害届を警察に出さなかった……数日前、あなたが紛失金の責任をとらされて降格されたことを知ったとき、あなたも罰を受けたかと思うと少しは気が晴れたわ……一ヵ月前、父が亡くなったの……そして、ショックと看病疲れで母も一週間後に、後を追うように息を引き取ったわ」
「あ!」
一瞬の出来事だった。三好は驚きの声をあげ、右手は無意識に両目を押さえていた。
「欲望のために……舐めるんじゃないわよ!」
加奈子の捨てぜりふが彼を罵倒した。三好は何が起きたのか瞬間理解ができなかった。目に痛さが走り周辺が真っ暗になった。
加奈子がテーブルに置かれていたコーヒーを、彼の顔にぶっかけたのだ。事の成り行きが理解できたとき、三好の左手はテーブルの上に残されていたしぼりを掴んでいた。
右手から開放された目は、斑模様の店内を見渡すことができた。目の前に座っていたはずの加奈子が、足早に喫茶店の出口に向かっているのがわかる。彼女の背中を呆然と見送った。
三好の顔に掛けられたコーヒーは、コートの胸から腹に掛けて滴り落ちている。彼の欲望と将来のすべてを飲み込んでしまった黒い模様が、コートに描かれていた。
三
南海電車の萩ノ茶屋駅東側は、一泊千円から二千円の看板を掲げている簡易ホテルが建ち並び、道端に四、五人の労務者が、仕事にあぶれたのか昼間から赤い顔を突き合わせ、しゃがみ込んでいる。梅雨の雨上がりの後の暑さが上昇気流をもたらし、安酒と小便の臭いが漂っていた。三好裕一は、労務者が泊まる簡易ホテルに住み着いて一カ月になる。八階建てのホテルとは名ばかりの薄汚れた簡易宿泊所である。部屋は四畳半の一間に流し台とコンロそれに小さな冷蔵庫が付いていた。
隣には国道を隔てて、職業安定所があった。この街では珍しい大きな建物がコンクリートをむき出しに横たわり、「あいりん労働職業安定所」の文字が壁に貼り付けてある。漁港の市場を思い出すような一階の広場には、日陰を求めて五、六十人の労務者がダンボール紙の上に寝そべっていた。
街中を数匹の犬が人を恐れる気配もなくうろつき餌をあさっている。三角公園の一部には青いシートで作られたテントが目立ち、空き地には木の切れ端が積み上げられていた。この公園で何十年か前に有名な女性歌手がライブをやるといって世間を騒がせたのを覚えている。公園周辺には二、三十人単位の人だかりが数カ所できている。その周りには鋭い目つきをした男たちが、周辺に注意深く視線を投げかけている。浮浪者を相手に賭博をやっているようだった。
三好は日雇い労務で生計をたてていた。彼は三年前、加奈子が会社へ送った手紙によって解雇された。妻からはヒステリックな声で、毎日責め立てられ、そして離婚届を突きつけられた。妻の親が出てきて、少しばかりの手切れ金を握らされ家を追い出された。田舎にも帰れず、関西を流れ歩き西成にやってきた。
生活が落ちぶれていくにしたがって、加奈子のふっくらとした白い肌と二重の大きな目、真っ黒な髪が鮮明に浮かびあがってくる。今となっては、どうすることもできないが、彼女の兄が居る西成に住んでいれば、ひょっとしたら加奈子に会えるかも知れない。心の奥底にそんな思いがちらついた。
夜になると、あちこちの軒先に焼酎や安酒を飲ませる屋台のような小さな店が出没する。三好は昼間の肉体労働の疲れをいやすためと、簡易ホテルでの独り暮らしの寂しさをまぎらすために、その中の一軒によく出かけて行く。
カウンターに向かって、詰めれば十人ほどが座れる長椅子が置かれている。いつもの店でしばしば一緒になる客がいた。陰気そうで口数の少ない男だった。何回か通ううちに、あることが気になった。それは三十半ばくらいの顔立ちの整った美人女将から、陰気な男に向けられる視線だった。何かの合図のようにも受け取れる。しかし、陰気な男は女将の顔に目を向けようともせず、焼酎の入ったコップを両手で握りしめ、ちびちびと時間をかけて飲んでいた。
三好はほとんど言葉を交わすことはなかった。ただ視線があったときに、軽く頭を下げる程度である。男は三好と同じ年頃、すなわち四十二、三で、背丈もあり骨格もよかった。いつも物思いに耽る生気のない表情で、五、六杯の焼酎を飲み干すと帰って行った。
ある夜、三好はまっすぐ歩けないほど酔っていた。いつもの店の前に来たとき、ガラス戸を通して、あの生気のない陰気な顔を見た。板で造られた長椅子の上で、置物のように全く表情を変えない。
「色男さん」
親しい友人を見つけた気持ちになり、酔った勢いで男の肩を軽くたたき声をかけ、空いている隣に腰をおろした。
美人女将を無視続ける態度が気になり、彼がどういう男か探ろうとする好奇心から出た言葉だった。これまでだれが話しかけても、ろくに返事をしている様子はない。だから返事が返ってくることを期待していなかった。ただの酒の勢いというものだろう。
美人女将に焼酎を注文した。少し間をおいて、横から独り言を呟くような声がした。
「私に興味を持たれたのですか」
焼酎の入ったコップを持ったまま、男の顔は正面を向いていた。その質問が三好に向けられたものであることはすぐにわかった。あらたまってそう言われると、どう返事をしたらよいのか困ってしまう。
「いや、別に深い意味はありません。なんとなしにそう思っただけです。気にさわったなら謝ります」
「ここを出ませんか。せっかくの機会です。少しお話がしたい。どこかで飲み直しましょう」
不意にその男が立ち上がり、彼を誘った。三好の手に持っていた焼酎はほとんど減っていなかった。相手の真意がわからず中途半端な気持ちだった。男のことがもっと知りたいという好奇心から、一緒に店を出た。
「私のところへ来ませんか」
男の言葉にうなずき、そのあとに続いた。店が並ぶ広い通りから路地に入り五分ほど歩くと、古ぼけた木造二階建てのアパートに案内された。
その間、男は口をきかなかった。三好を連行するように急ぎ足でせきたてる。薄暗い路地が恐怖心を倍増させた。気味悪く引き返そうと何度か思った。アパートの個々の部屋に灯りが見え、話し声が聞こえたとき安堵感が胸の中に広がった。
窓から漏れてくる灯りを頼りに、鉄の階段を金属音をたてながら男の後から上った。二階の廊下に面した換気扇から魚を焼いている匂いが鼻孔に流れ込んだ。夜食の用意をしているようだ。一番奥にある部屋のドアを男は開けた。
「お客さんを連れてきました」
半畳ほどの狭い、たたきに靴を脱ぎながら、男は部屋の奥に声をかけた。玄関は陰気ですえた臭いが漂っていた。昼間はほとんど日が当たらないのか、それとも部屋を閉め切っているのか、そのどちらかだと思った。
「お客さん?」
来客を予期していなかったような、女の声が返ってきた。
「お客さんを連れてきました」
もう一度、男が物静かに言った。男と女のやりとりを聞いていて、この家にはほとんど客が来ないことを物語っていた。三好は厚かましく付いてきたことに気が引けた。男は表情を変えず言葉を続けた。
「ウイスキーとコップを用意してください」
六畳ほどの居間と思える部屋で向かい合って座ると、男はすぐに先刻の話題に戻した。
「どうして、私に興味をもたれたのですか」
男は三好の顔から視線をはずさなかった。
「それは……別に深い意味はありません」
そのとき部屋を仕切っている襖がわずかに開かれ、その隙間からウイスキーとコップを載せた盆が、部屋の中へ差し込まれた。盆を支える白く細い手首だけが見えた。
「こちらへ入ってきてください」
男は襖の隙間に向かって、おだやかな口調で言った。白い手首にためらいがみえた。襖が静かに開かれ、何気なしに見た四十くらいと思われる女の顔に三好は釘付けとなった。南沢加奈子に似ている。
紺の地味な和服姿で頭髪に白髪が半分混ざっていた。どこかあどけない表情の青白い顔で、二重の大きな目が潤んでみえる。色白な女の表情には、一種の幼さといったものがつきまとっていた。
頬がそげたように落ちているし、(三年間で、こんなに白髪が多くなるだろうか)そんなことを考えると加奈子と違う気がした。
女は盆を二人の男の間に置くと、軽く会釈をし三好を見た。視線が交差し、彼女の視線から異常な輝きが放たれた気がした。女は無表情で隣室に消えた。男は女の紹介をしなかった。三好も訊ねなかったが奥さんだろうと思った。しかし、労務者と思える身なりの男が和服の似合う奥さんを持ち、それに美人女将とも関係があるかと思うと、この男に対して少なからず嫉妬心を覚えた。
三好たちは飲みはじめたが、彼は口数の少ない男に戻っていた。
「うまいウイスキーですね」
「貰いものです」
それだけで、また沈黙が広がった。
「仕事は、私と同じ日雇い労務ですか」
別に男の職業など、どうでもよかった。ただ通夜のような陰気な空間を破りたかった。
「そうですが、この頃あまり仕事についていません」
「生活の方は大丈夫なんですか」
男の顔が微妙に変化するのがわかった。立ち入ったことを言ってしまったと思った。
「余計なことまで口を挟み、申し訳ありません」
男の顔から苦笑が漏れた。
「少し貯えがあるものですから」
それだけを言うと、それ以上の質問を拒否するように、視線を落としコップを口元に近づけた。男はちびちびと時間を掛けて飲みだした。やがて三好は部屋を退散した。女は見送りに出てこなかった。なんのために男が、わざわざ自分を誘ったのか理解しかねた。
数日後、いつもの店の前にアルコールの入った身体で三好が立ったとき、店の中に陰気な男の姿を見つけた。相変わらず生気のない表情で焼酎を飲んでいた。立ち止まって眺めていると男が顔を向けた。無表情な男は人の気配に無神経ではなかった。男は立ち上がり、店の中に入りかけている三好を外に押し戻した。
「あなたと会う気がして待っていたのです。そこまで付き合ってください。話したいことがあります」
和服の奥さんのいる家に連れて行かれることを期待した。並んで歩き出すとすぐにその期待は裏切られていた。アパートとは逆の方向だった。
「どこへ行くんですか。話だけなら先ほどの店でも、いいのではありませんか」
「それはそうですが、静かなところで話したいのです」
三好は男の後に従って歩いた。
「私はあなたと知り合いになれたことで、忘れかけていたことが、心の奥からよみがえったのです。昔のことが脳裏から消えなくなりました」
「言われている意味がわかりません」
「そうかもしれません。でも、私の過去に火をつけてしまったのです。やはり、私一人だけの心の中に収めておくことはできなくなりました。あなたに聞いてほしくて、毎晩あの店で待っていたのです」
男の思い詰めた重い口調に、三好の口から出てくる言葉はなかった。
「この前、私の部屋に誘ったときにいた女なんですが」
「奥さんでしょう?」
咄嗟に応えてから、男が女という言葉になにか引っかかるものを感じた。
「妻ではありません。妹です」
立ち止まって男の顔を見た。簡易ホテルのネオンが顔の輪郭をはっきりと写しだしていた。三好は半信半疑だった。男は歩き出し、肩を並べるように続いた。
「あなたの田舎は、播州じゃないですか」
突然の男からの質問に、三好は戸惑いを感じた。
「そうですけど、なぜわかったんですか」
三好は不思議そうな顔をし、男に問い返した。
「西成には、いろんな人間が流れ込んでいます。ここで何年も住んでいれば喋り口調でその人間がどこの地方出身者なのかだいたいわかってきます。ですからあなたの口調から、播州地方のアクセントが窺えたのです」
「もしかして、あなたの田舎も播州ですか」
男は頭を二、三回左右に振った。
「京都の田舎です」
三好はお互い田舎出身者だということで、郷土の幼なじみに会った懐かしさを男に覚えた。
駅近くの喫茶店に入った。店の入り口は狭かったがドアを開けると内部は奥行きがあり、店内には一組の客しか入っていなかった。二人は薄暗い隅にあるテーブルを挟んで腰を下ろした。
「私は胸の奥にしまい込んでいたものを、話したくなりました」
男は左頬に手を添えた。
「私は十代後半から暴走族に入り、オートバイで走り回り、喧嘩、窃盗、シャブ、レイプ、悪いことはほとんどやりましたが、外から見るほど、格好いいものではありませんでした。他の暴走族との抗争がたえなかったし、かっぱらいは日常茶飯事で、幹部連中は女との遊びに明け暮れていました。私はいつも見張り役で、そんな暴走族にいやきがさしかけたときでした。暴走族同士の抗争に巻き込まれ、逃げ遅れた私は運悪く抗争相手に捕まってしまい、リンチを加えられたあげく、新聞記事になってしまいました。集団でいるときは、群衆心理にあおられて暴走族同士の抗争も、恐ろしさなどほとんど感じませんでしたが、相手方にひとり捕まりナイフを顔に押しつけられたとき、恐ろしさのあまり小便を漏らしてしまいました。抗争事件が学校に知れ、校長の怒りに満ちた顔からは、『学校の面汚し……』という表情があふれ出ていました。そして、退学という名のもとに学校から追い出されたのです。暴走族から足をあらいましたが、後々まで私の人生を暗いものにさせました。就職先を探しても、高校中退で抗争事件を起こした私を、どこも口裏を合わせたように雇うとはしませんでした。就職の面接試験のときは、必ずといっていいほど高校中退の理由をしつこく聞かれ、数日後に不採用通知が送られてきました」
三好は黙って聞いていた。男は続けた。
「私は毎日あてもなく時間を潰すように、エンジン音をとどろかせ、オートバイで走り回りました。親のすねかじりで自堕落な生活が二十半ばまで続きました。二十五歳のときでした。高校生と思われる制服を着た少女が、自転車を押しながら長い影法師を引きずって歩いていました。制服と私が退学した高校の制服と重なり合い、少女の後ろ姿に私を追い出した校長の顔が映し出され、血の騒ぎを覚えました。進行方向に点在している人家へ行くには、手前の薄暗い神社の森を通り抜けなければなりません。私は先回りし、神社の森で待ち伏せし少女をレイプしました。その後、犯した少女がどうなったか知りません。事件にもならなかった。しかし、それは一時のごまかしだったんです。それからしばらくして……高校一年生の妹が暴漢に襲われたんです……何日か後、気持ちが落ち着いてから妹は日記に、そのときのことを克明に書いていました。私はその日記を偶然見てしまったんです。襲われた原因が私にあったんです。ショックでした。何回も読み返しました。頭の中には一字一句まで記憶されています。私は妹に取り返しのつかないことをしてしまったのです。罪滅ぼしに、妹のためなら何でもやろうと決心しました。その気持ちを萎ませないよう、いつも日記のコピーを肌身離さず持っています」
男はそう言って、ポケットから四つ折りにしたコピーをとりだし、テーブルの上に広げた。
文字は右肩上がりで大きく書かれていたので、読みやすそうだったが、ところどころ乱れているようにも受け取れた。
――今日は文化祭の準備で帰りが遅くなり、家路を急いだ。いつもの通学路の途中にある果樹園にさしかかった時、「プシュー」という音を出して、後輪がパンクをしてしまった。よく見ると道に鋲が撒かれていた。毎日自転車で通っている道を、パンクのために押して歩かなければならない。わたしは自然と足早になっていた。胸の動悸が早くなっているのを感じた。自転車をその場に置いて帰ろうと思ったが、明日の通学を考えるとそうもいかなかった。
神社の森にさしかかると、木々の繁みから目の前にだれかが飛び出してきた。わたしは来た道の方へ、身体をねじり引き返そうとした。しかし、恐怖のあまり金縛りにあったように足が動かない。口は開けるが声も出ない。その口に無理矢理布がねじ込まれた。強い力がわたしの身体を締め付けた。必死にもがいた。腹に強い衝撃を受け、息が止まり呼吸ができなくなった。恐怖と苦しさで意識が薄れた。
森の中へ引きずり込まれ、気を取りもどし男の胸を突き放したが頬を殴られた。興奮していたのか痛みは感じない。頭から首にかけて強い衝撃を受け意識が遠のいた。何分か経った。胸のあたりに強い圧迫感を覚え、汗臭い身体をわたしの上に乗せ荒い息づかいをしていた。下腹部に焼けた火箸を突き刺される激痛が走った。男を払いのけようと、ストッキングをかぶった頭を下から押し上げようとしたが、びくともしなかった。
男は、『おまえの兄貴が、わしの妹に同じことをしたんだ。恨むならおまえの兄貴を恨め!』そう言って立ち去っていった。
わたしは死にたい。
「妹の日記を見てどう思われましたか」
三好が読み終わるのを、男は待ちかねたように声をかけてきた。
「どうって、復讐をされたということですか」
男の問いに、とりあえずそう応えた。
「それも私が少女をレイプしたときと、同じ時間帯で、場所も学校帰りであることも、犯人の仕草もまったく同じなんです。ショックでした……少女も当然のことですが、身内に与えた恨みも大きかったんだと思います。私が犯した罪で相手方に恨みをかい、それを妹にかぶせてしまったのです……妹を不幸に陥れた男を許すわけにはいきません。償いをさせるか、さもなければ、地獄へみちづれにするかのどちらかです」
三好は何か喋ろうとしたが、目の前の男に恐怖心を覚え、適当な言葉が思いつかない。
「カナコも可哀想な女です。兄である私が、まともな人生を送っていたら、不幸な人生を送らずに済んだというのに……」
「あ!」
三好は思わず叫び声をあげてしまった。男のアパートで出会った女の異常な光を放つ視線を思い出したのだ。
「どうしました?」
三好の叫び声に、男は物静かな言い方で問い返した。
「すんません。ホテルを出るときに鍵をかけ忘れたのに、気がついたもので」
あまりにも安易なごまかしだった。テーブルを挟んだ向かいで腕組みをし、視線を落として聞いていた三好は、急に鼓動が速くなった。男のアパートで見かけた女は、南沢加奈子だったのだ。白髪混じりの頭に惑わされて……心の動揺を悟られないためにコーヒーを少しすすった。
「どうかされましたか」
男は心の中を覗き込むように、顔を近づけてきた。前に置かれたコーヒーに口をつけようともしない。三好は目の前の男に恐怖心が膨張してくる。
「先ほどから、思いつめたように黙っておられますが、私の話の中で気にさわることを言ったのでしょうか」
男から放たれている冷たい矢の視線を感じたとき、三好の顔が強張った。
「別に、ただ……妹さんを犯した犯人は捕まったんですか」
三好は傍観者を装った。
「話をそう急かさないでください。順序立てて話しますから」
男は口元に苦笑をたたえ、徐々に相手を追いつめていく話し方だった。三好は脇の下から湧き出る冷や汗が、水滴となり皮膚を伝わって流れ落ちるのを覚えた。
――これは罠だ!
(この男は何も知っていない。加奈子を犯したことを……)三好は自分自身に冷静さを保つために、そう言い聞かせた。
「捕まっていません」
また、いつもの沈黙が広がった。冷たくなったコーヒーに男は、まだ一口も口をつけていない。ちらっと三好に視線を向けると、すぐにテーブルに落とし、男は話を続けた。
「私が一生、加奈子を見るわけにはいきません。できれば良い人があれば嫁がしたいという気はあります」
三好は微かなため息をついた。妹がレイプされた日記のコピーを見せた真意がわからない。
「妹を幸せにさせてやりたいんです。兄としてのせめてもの償いです」
「なぜ、知り合って間がないのに、どうしてそんな話をされるんですか」
やっと余裕のある問いかけができた。
「そう言われると返事はしにくいのですが、私には相談できる相手がいません。あなたと話をしていて私なりに理解をしたんですが、あなたは学もありそうだし、過去に事情があって西成に来られたのではないですか。あなたなら信用できる気がしたのです……妹を見てどう思われましたか」
突然の問いかけに動悸が速くなってくる。
「そんなこと急に言われても、応えようがありません」
重苦しい空気が流れ、また沈黙が二人を覆った。男の目の前には冷たくなってしまったコーヒーの入ったカップが、邪魔な食器としてテーブルの上に置かれていた。
「一つ質問してよろしいですか」
加奈子の話から話題を変えたかった。男は目を伏せたまま、うなずいた。
「いつも行く店のことですけど、あそこの美人女将と何か関係があるんですか」
「どうして、そう思われたのですか」
「どうしてって、女将のあなたへの仕草を見ていたら……」
「あの女将は、私の妻です」
三好は唖然とした。
「しかし、あのアパートに一緒に住んでいるようには見受けられませんでしたが」
「狭いので、隣にもうひと部屋借りています」
「そうだったんですか」
「出ましょうか」
言い出すと同時に、男は腰を浮かせていた。
次の日、いつもの店に立ち寄った。きょうは珍しく店の中は、ひとりの客も、あの男もいなかった。
「いらっしゃい」
上背のある女将はいつも和服姿で、きょうは絣模様の着物だった。お互いの目が合うと女は愛想良く微笑を見せた。三好はビールを注文した。
「女将さん、いつも黙って無表情でお酒を飲んでる男が、ご主人だったんですねえ」
「あの人から聞いたんですか」
女将はカウンター越しに、三好のコップにビールを注いだ。
「ご主人と話す機会があったもんですから」
女将は男との関係を、あっさりと認めた。
「ご主人の田舎、京都だそうですねえ」
「そんなことまで話したんですか」
「若い頃、いろいろ苦労をされたみたいですけど……妹さんのこと心配していました。妹さんと二人兄妹?」
「あまり詳しいことは知らないんですけど、今一緒にいる妹さんだけみたいですよ。両親は三年前に亡くなったと聞いています。あの人は高校を中退してから、ぶらぶらしていたらしいけど二十五歳の頃に、大阪の小さな印刷会社に就職し、それからほとんど田舎へは帰っていないそうですよ」
女将は主人の妹、すなわち自分には義理にあたる妹を、さん付けで呼んでいるところを見ると、妹とはあまり親しくないのかもしれない。
「妹さん、大変だったそうですねえ」
三好は話の核心に触れてみた。
「あの人、何か言っていました?」
話そうかどうか迷っている様子だった。三好は女将を刺激しないように、第三者を装った。店の入り口の方に目をやった。平日ということもあって人通りも少なく、入り口には人の気配を感じない。
「ご主人のアパートで見かけた妹さんの歳格好が、田舎の妹に似てましてね。他人事のように思えないもんで……」
三好に妹はいなかった。播州の田舎では両親だけが寂しく暮らしている。家には会社を退職してから顔を見せていない。出世の道を絶たれ定職にも就いていない彼には、今更帰れなかった。
「短大を卒業して、すぐ神戸の薬品会社に就職したと聞いていたんですが、それが二年半前にひょっこり、あの人の前に現れ、それから西成で一緒に暮らすようになったの。高校時代からのばしていた黒髪がカットされ、白髪混じりになっていたので、あの人も妹さんを見たとき驚いていたわ……自殺を図ったらしいの。はっきりしたことは知らないんだけど」
彼女は首を軽く傾げ、ゆっくり思いだしながら喋っているという言い方だった。
「まさか、自殺なんて……」
「そんなびっくりした顔して」
女将の方が驚いた顔して、顔を硬直させている三好に言葉を返してきた。
「どうして自殺なんか」
彼は女将の言葉を遮るように続けた。
「勤めていた会社で上司と何かがあって……妹さんは喋らないし、あの人も詳しく教えてくれないから、それ以上のことは知らないわ。でもそのことが尾を引いているみたいよ。妹さんは毎日部屋の中に閉じこもったきりで、過去を思い返しているのか、じっと窓の外を物思いに耽るように見ているわ」
女将の言葉が胸の奥に染みこんだ。
三好は毎日簡易ホテルの狭い一室で、暑い寝苦しい夜を過ごしていた。天井から吊された電灯が、薄暗い部屋の中で白く浮かんでいる。電灯の笠が、あのアパートで見た加奈子の顔と重なり合う。
彼女に会いに行こうか迷った。すべてを失い、もう何もなくなってしまうと、彼女への思いが増大してくる。それは未練なのか、贖罪なのか、三好自身はっきりわからない。
あの男は、だれかに加奈子の面倒をみてほしいと言った。名指しこそしなかったが、三好を指しているのは明らかである。
(頑張れば女一人ぐらい食べさせることは出来るだろう)
そんなことを頭の中に描きながら、自分の将来について考えてみた。日雇い労務でいつまでもどや街で生活するには体力的に限界である。できれば定職について、安定した生活をしたいと思った。加奈子の顔を思い浮かべると、日増しに一緒に生活したい気持ちが高まってくる。
(人生をやりなおそう)
そう自分自身に言い聞かせると、気持ちが安らいだ。
あの男に会うために、久しぶりにいつもの店に行くと、見たことのない女が店を取り仕切っていた。
「きょうは女将さん休みですか」
「ここの女将は私だけど」
腰に脂肪の腹巻きを巻いた太った胴体が、苦しそうに動き回っている。前の女将とは比較にならない、美人には、ほど遠い顔を三好に向けた。
「前の女将さんはどこへ?」
「そんなこと知らないわ。この店を買ったんだから」
太った女将はきびすを返し、長椅子に座っている客の相手をしていた。
三好は男のアパートへ足を向けた。一カ月前と同じ路地に入り五分ほど歩くと、古ぼけた木造二階建てのアパートが建っていた。懐かしいものでも見る思いだった。隣に人の気配がし、あの陰気な男かと思い振り向いたが、立っていたのは電柱だった。三好は自分のそそっかしさに笑おうとしたが、顔の皮がひきつって笑いにならなかった。
二階の一番奥にある部屋の前に立ったとき、『空室』と書かれた一枚の紙がガムテープで上下を押さえられ、ドアに貼られていた。ノブを握り回してみたが鍵が掛かっている。その隣の部屋にも同じ内容の紙が貼られていた。
夏も終わり、秋の気配を感じさせるすがすがしい夜だった。久しぶりに通天閣に上がり夜景を楽しんだ。帰り新世界で飲もうと立ち寄った居酒屋で、あの美人女将を見つけた。彼女は客として知らない男と一緒に飲んでいた。
「アパートを引っ越しされたんですか?」
空いている彼女の横に座り声を掛けた。
「あの人とは別れたのよ。私より妹の方が大事みたい。あの人の頭の中には、常に妹のことが離れないの。あの兄妹の中に、私なんか入り込める余地はないのよ」
はじめてみる赤地に大きな柄の洋服に、厚い白粉と真っ赤な口紅を塗った顔だった。まだあの男に未練のある言い方だった。そして妹と呼び捨てた。
「じゃ、ご主人や妹さんとは一緒じゃないんですね。でもアパートは引き払われていましたけど」
「あの人、私と縁が切れたのをきっかけに……やり残したことを片づけたら、田舎に妹を連れて帰って、静かに暮らしたいと言っていたわ」
隣のパチンコ屋の軍艦マーチが、会話の間に入り込もうとする。
「ひとつだけ教えてほしいんですけど」
彼女の気を損じないように低姿勢で言った。このチャンスを逃すと、胸の奥にしまい込んでいる疑問を、永久に解決することができなくなる。彼女の連れは三好たちを無視し、ひとりコップ酒を飲んでいた。
「何よ。真剣な顔をして……いいわよ」
彼女は、酔っているみたいだった。
「あなたの義理の妹さんのことですけど。何か言っていませんでしたか」
「そのことね……あなたが妹をレイプした上司でしょう。私と別れるとき、あの人が話してくれたし、妹からもいろいろ聞かせてもらった……妹と関係のあった上司が、あの人と知り合うなんて、こんな偶然って本当にあるのね……アパートに来たとき、あなたを見た妹の素振りがおかしいので、あの人が問いただしたところ、レイプされた上司だと白状したのよ。あの人は、あなたに責任を取らすために、つまり、妹の面倒を見させるために、高校時代に犯された日記のコピーを見せて、妹の身上を理解させようとしたのよ。それに自分がやったレイプを暴露することによって、あなたの気持ちを和らげ罪の意識を軽くしようとしたの。もちろん妹のために……それだけ妹が不憫と思ったのかもしれないわねえ。妹と一緒にさせることによって、あなたに責任を取らすつもりだったらしいけど、結局、妹が納得しなかったの。あの人は残念がっていたわ。筋書き通りに進んだと思っていたのにって……あの人には執念深いところがあるのよ……」
そう言って、彼女はコップ酒を口に運んだ。
「…………」
ドクドクと心臓が動き、身体がぶるっと震えた。
「妹が自殺を図った原因も知りたいんでしょう?」
彼女は楽しんでいるみたいに、含み笑いの顔を三好に向け話を続けた。
「ホテルに誘ったときがあったでしょう。それを断っておきながら、レイプするなんて、あなたは最低な男だわ」
「ホテルに誘ったのは保険だと……」
「そう……ビジネスよ。だから割り切ればよかったのに……レイプされた後、妹は苦しんだ。高校一年のときにもレイプされているのよ……あなたを許すことができず会社へ手紙を送った。その結果あなたは、会社を解雇され奥様からも見放され落ちぶれていった。妹も辛かったのよ。横領したお金は親の医療費や借金に消えてしまって、両親は死んでしまうし、挙げ句の果てに孤独と心には犯罪者としての後ろめたさだけが残るし……人生に疲れたのよ、きっと……あなたはバカよ。格好をつけずにホテルに入ればよかったのに……レイプするくらい妹が好きなら、その後でも頭を下げて頼めば、妹だって後ろめたいことをやっていたんだから、割り切って一晩くらい相手をしてくれたかもしれないのに……あんたが卑劣な気を起こさなければ、妹はあなたにレイプされることもなかったし、横領して日陰に身を落とすこともなかった。妹は苦しんだ末に疲れ果てて自殺を図ったのよ」
「……アパートで会ったとき、彼女はどうして声を掛けてくれなかったんだろう」
「妹も最初は、あなただという確証をもてなかったらしいけど、隣の部屋であなたの声を聞いてわかったらしいの。でも落ちぶれた姿であなたの前に出たくなかったのね。それにレイプされた男に、声なんかかけられるわけないでしょう。結果的に、あなたが妹の人生のすべてを台無しにしたんだから」
三好は呆然と立ち上がった。
重い足取りでジャンジャン横町を通り抜けた。下向き加減の顔をあげたとき、車が走り抜ける国道四三号線の交差点を挟んだ向こう側に、黒っぽい服の着た女が目についた。電柱にもたれこちらを向いている……もしや、加奈子では?
横断歩道の信号が青に変わり、三好は人の流れに乗り小走りに国道を横切りだした。
「あの……」
国道の中ほどで大きな声で、女を呼び掛けようとしたとき、だれかがぶつかってきた。肩を抱えられたと思った瞬間、腹部に熱いものが刺しこまれるのを感じた。目の前に陰気な男の顔があった。
「あなたを捜していたんですよ……お別れです」
三好は、男から発せられた「お別れです」という言葉に、聞き覚えがあった。テレビ画面に映し出されていた深夜映画の死刑執行場面が脳裏によみがえったとき、足下が崩れ落ちるのを覚えた。
横断歩道の真ん中に倒れ込んだ三好を残して、男は雑踏の中へ紛れていった。辺りにクラクションが鳴り響いた。
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