OSホテルのエスカレーター   西 村 郁 子



 
 今日も遅刻寸前だ。地下鉄の駅から小駆けに走ってきたが腕時計の秒針はそれより早く廻っていた。
 会社は九時きっかりに朝礼が始まる。エレベーターを出たすぐのところに置かれたタイムレコーダーにタイムカードを入れ引き抜くと赤い印字で9:01と打ち出されていた。ロッカーに鞄と上着を投げ入れ、代わりにブルーの上着を羽織るとすぐに事務所に向かった。
 一ヵ月前から働いているここは、タクシー協同組合の会社である。仕事はタクシーチケットの販売とタクシーの無線配車の二つでわたしは無線部に配属された。
 会社は総務と営業、経理のある事務室と無線配車をする無線室があり、朝礼は事務室で行われている。
 女子職員は、全員ブルーの胸で切り替えのある上着を制服と決められ、男性は無線部が濃紺のブレザースーツを制服とされている。事務室の男たちは背広だ。ブルーと濃紺を取り囲むように自前のスーツの男たちが興味なさそうに一番後ろの列に並んでいる。わたしは音を立てないように気をつけながら最後列と壁の隙間に挟まった。
 総務課長が新人の紹介をしている最中だった。この課長は嫌な男だ。入社の数日後、わたしの履歴書を片手に呼びつけに来た。氏名の変更を届けたからだった。ある人を介してこの会社に入れてもらったのは離婚するので働き口が必要だったためだ。その人には離婚は知らせていたが履歴書は結婚姓で書いておけと言われた。事実、結婚中だから虚偽ではなかった。面接もなく、いついつから出社するようにと紹介者に言われ、その日が来た。その間に離婚届けが出てわたしの姓は旧姓に戻っていたのだ。会議室でふたりになった。名前が違うなんていうのは、履歴詐称ですよと言う。採用を取り消されるのかと思っていると離婚の原因は紹介者に関係があるのかと訊く。関係ありませんと首を振った。毒々しい赤い歯茎を露ににやりと笑った。話はそれで終った。入社前にわたしの名前は結婚姓で伝えられており、新しい苗字に訂正され、そのネームプレートをつけて歩くと全職員から変な目でみられているような気がした。
 頭の間から辛うじて二人の男が並んでいるのがみえた。つま先立って顔をよく見た。ひとりは目元がぱっちりした痩せ型の男で、もうひとりはぎょろ目の黒ぶちメガネで髪が逆立ったこちらも痩せ型の男だった。
 彼らの配属は無線部である。わたしがここに来てから新聞に二回も求人広告を出している。無線部は二十四時間交代勤務で昼間は女子がオペレーターをし、深夜は男子だけになる。夜、事務室の人間がいなくなる時間帯は運転手が酒を持って訪ねてきたりしているらしい。
 無線部だけでなくここの人間はすべて再就職だと思う。部長は某有名商社の子会社出身だということをいつも自慢している。わたしは子会社だったことがここにたどり着いた故だと考えるのだが。無線課長は官庁に勤めていた。営業課長も部長と同じ会社だった。経理係長もどこかで経理を担当してた人材だ。色も模様も別々に出来上がってしまった人間たちの集まりだった。しかし、出入りのあるのは無線部の方ばかりである。事務は定着率が高い。そのせいか事務の人間は無線部より優越意識があるみたいだ。
 上半分をガラス張りに囲った十坪ほどのフロアが無線室である。無線マイクや電話、パソコンなどのコードを床下に隠すため十センチばかり底上げして埃を立てないよう土足を禁止していた。
 わたしの仕事はまだ電話を取るだけだ。会社や自宅からタクシーを呼ぶ人の電話を受けるのだ。
 電話受け専用の椅子に座る。隣りにわたしよりひと月先輩の中本聡子が座った。歳も二十七歳でひとつ歳上だ。長崎弁なまりなのか、あのですねとかそれがですねという風にですねを付けるのが口癖だった。
「佐伯さん、あのですね、それ無くなってたら補充してください」
 それというのは酒のワンカップの空瓶にエタノールを染み込ませた脱脂綿のことである。中本はわたしの指導を有田主任から命じられたのだ。脱脂綿は受話器やマイクの消毒用で中本は特にその消毒が好きらしく日に何度もごしごしこすっている。
「ねえねえ、中本さん。今日入ってきた人たち何歳」
 わたしは机の上に脱脂綿とエタノールの入った白いポリエチレンの瓶を置き、悠長に手を動かしながら訊いた。
「あの人たちですか、あれはですね。えっと、田丸さんが二十四歳で、柳井さんが二十六歳だそうです」
 ふたりはまだ無線室には来ておらず、わたしたちは大きな声で話をしていた。
「どっちがどっち」
 手で丸を作り目に当てた。メガネの意味として作ったのに中本には伝わらなかった。
「メガネの方が田丸君」
 ふいに向かいから声がした。昨日から勤務している岡崎君だった。優しいカバのような顔をしている好青年、というのがわたしの印象だった。二十三歳にして最年少であり、大学を出てからちょっとアルバイトをしてここに入社という準新卒者でもある。九時半になると勤務交代が始まる。ベテランのオペレーターが無線機の前に座り、昼休みや休憩時間でローテーションしていく。
 無線を交信できる女子は三人いて、個性も三様だった。一、二年の勤続で入社もばらばらだ。黒髪のロングヘアを仕事のときだけ結ぶ、彼女は高校でヤンキーだったと思う。先週も電車の中でぶつかって文句を言われたOLを駅に降ろして喧嘩をしたと言っていた。化粧は濃いが目の大きな美人だ。主任の有田と仲がよくリーダー的存在だ。もうひとりも気が強い。色白で妖艶な仏像のような顔をしている。あまり面倒見はよくない、むしろ怖い存在だ。最後のひとりは一言。声美人である。彼女の声を聞いたタクシードライバーは皆どんな人だろうと聞いているそうだ。小児糖尿病のため、子どものころから肥えているのだそうだ。昼の弁当をみたことがあるが、幼稚園の子が持つような小さなものだった。
 電話が少しずつ鳴り出した。回線は十四あり、まずハガキ半分くらいのメモ用紙に受信時間を書き、回線番号に丸を打つ。客の名前と迎車場所を書き込んで無線オペレーターにその紙を飛ばすのだ。無線の波は全部で五波あり、ある程度地域を区別していた。北部は一、二、三波で南部は四波、東部は五波という具合だ。
 わたしも電話を取る。第一声で慣れた客か否かは判る。慣れた客は余分なことは言わないからだ。その客はマンション名と号棟、待っている場所、診療所側からという指定で最後に自分の名前を言った。
 メモ用紙には、見出しにマンション名、備考に乗り場、氏名を書き込み、株式マーケットのトレーディングルームのように五波のオペレーターに向かって飛ばす。古いグレーの事務机を向かい合わせにくっつけた距離なので腕を伸ばして斜めに落とすようにすればよいのだ。五波担当の声美人は他の呼び出しをしながらメモを拾い上げた。スタンドマイクの台のところにスイッチがあり、送信するときは押し、受信するときはオフの状態で待つ。左手指先をスイッチに軽く乗せ黙っていると、スピーカーから五千番台の無線タクシーからコールが入る。一、二秒待って一台の番号を呼ぶ。すると一斉に聞こえていた声が静まり、呼ばれた番号のドライバーが自分の車の無線番号を言う。また、声美人がその番号を言ってから、行き先、名前を告げる。ドライバーも番号を言ってから、『了解』という。そしてこちらも『了解』と言い完了である。その配車が終るとメモ用紙、正式には配車伝票に無線番号を書きオペレーターの印鑑を押す。保留の電話を取り客に番号を伝えて切る。そうしてわたしの取った伝票の呼び出しを始めた。
 かっこいいなあと思う。早くこの仕事をさせてもらいたかった。声美人はずっと電話交換の仕事をしてきたそうだ。そこで教わったことは、お客様がポストを黒いと言えば黒いということになる。逆らわないということらしい。
 わたしがここに来て体得したことといえば、受話器を左手でとり左の耳で聞くようになったことだった。右はペンを持つため自由にしておかねばならない。また、テレクラの客のようにずっと受話器の上に手を置いて左手の親指で点滅しているボタンを押す。このボタンを押す動作とフックを上げるタイミングがほぼ同時でなければならない。自分の電話が受けていれば点滅が静止に変わり話をする。なにも電話取りをしゃにむに する必要はなかったが、性格的にそういうことに闘争心を出してしまうところがあり、電話に出ている方が時間が早くすぎた。
 無線課長が注目するように言った。課長席の方をみると新人二人が濃紺のスーツに着替えて立っていた。無線部は辞める人間が多いので制服のサイズも各種揃っているわけだ。新人の声を初めて聞く。柳井という男から自己紹介をした。自分の名前とどうぞよろしくお願いしますとだけ言ったのだろうか。声がこもって何を言ってるのか聞き取れない。面長な顔にはクレバス状の凸凹が全体にある。田丸も抑揚のない声で同じようなことを早口でしゃべった。受け口ではないが顔の中央が凹んでいるように感じる。それは田丸がわたしの隣りに座ってわかった。首が短く後頭部を肩にのせているような角度なのだ。反対に喉仏が前に突き出ている。
「前は何してたの」
 田丸を観察していたら目が合ってしまったのでごまかすために質問した。
「パチンコ屋です」
「へぇ、そこでどんなことしてたの」
「最後のころは出玉の制御を設定する仕事ですね」
 パチンコをしないわたしでも最近のパチンコ台はコンピューター制御であるというのは知っている。
「すごい、そんな大事な仕事なかなかさせてもらえないでしょ」
 ええまあと田丸は恥ずかしそうに笑った。
「佐伯君から昼休み行って」
 十一時になると交代で昼休みに入る。それを決めるのが有田主任だ。ここに入った当初はそれを知らず十二時過ぎに人と会う約束をしていたため従わず、主任の不興を買ってしまった。
 ビルを出て角を曲がったところにある喫茶店に入った。
 ランチでは最初の客だったようだ。ウエートレスがおしぼりと水を置く。何回も来ているので顔を覚えてくれている。にこりと笑ってわたしの注文を取ってくれた。白いTシャツにジーンズのシンプルさが彼女のスタイルのよさを引き立ている。夜は建築関係の学校に通っているそうだが、彼女の近くにある空気に触れるとある種の簡潔さを感じる。わたしはそれを羨ましいと思った。
 声が筒抜けのワンルームマンション。据付のシングルベッド、ユニットバス、おもちゃのような流し台とレンジと冷蔵庫がある。その小さな単位を十二階積み上げた巨大なコロニーに住んでいる。毎夜、中国の五人組が襲いに来ると泣き叫ぶ女がいる。それに答えてうるさい死ねとののしる男がいる。巨大なコロニーの一室で男と泥のベッドのうえを転がるわたしがいる。
 今朝も男とわたしはベッドから出られなかった。だから遅刻した。
 食後のコーヒーを飲んでいると、有田が田丸と柳井を連れてやってきた。逆らって以降、有田は表面的にはわたしを無視し、陰では離婚のこと男のこと面白おかしく言い広めているのだ。有田がつけたあだ名は「トッポイ姉ちゃん」だった。
 気をつかって笑いかける二人をうちわのような手で下から扇ぐようにして奥にすすませた。右手にキャビンの赤箱を二つ持ち左手でラックから少年漫画を取っていった。
 わたしは下を向いた。笑いが込み上げてきたからだ。有田のような男から見下されているのかと思うとレベルの低さが滑稽でならなかった。サラ金から督促の電話がかかってくるのも有田である。耳が異様にいいのか、取り次ごうとするともう席を立っていなくなっている。
 電話の主はサラ金業者を名乗らないが有田と親しい間柄という感じもない。だが事務的でもない。そういう人間が業者なのだろう。目糞鼻糞だ、好きに言ってくれ。心でそう吐いてから喫茶店を出た。
 無線室に戻ると中本がクレームに引っかかっていた。保留が三分を過ぎるとアラームがなるようになっているのだが、忙しくてそれも聞き逃していたようだ。客は十分近く待たされて、あげく空車がないと断られたことで収まらない。悪いことに車のでない地域からだったのでどうすることも出来ない。
 電話取りにもテクニックがあって、何でもかんでも配車係に回すわけではなかった。必ず空車のあるところやお得意先は送り込みと言う方法をとる。電話を受けたものが名前だけ聞き、五分くらいで行きますと言って切り伝票を回して配車してもらう。もうひとつは、全く空車のないときや空車の出ない地域ではいったん保留にしておき、間を見計らって空車がないと断る方法だ。中本はこちらで失敗したらしい。中本はこの手の失敗をよくするので誰も驚かなくなった。青い顔をして課長を探し回っている。
 わたしは中本を疎ましく感じていた。前の仕事はデザイン事務所だといっていたが何のデザインかときいてもはっきり言わない。服なのかインテリアなのか尋ねても言わないのである。いらいらしてきて何を考えているのか分からんと言い放つと、「都会の人間はジツがない、あんたにもないんや」と言い返してきたことがある。
 課長がしぶしぶ電話にでている。中本は鼻の頭に汗をかいて机の上を整理し始めた。わたしがじっと見ていても目を合わせようとせず、光のともらない黒目を伏せて、手をせわしなく動かす。小さな手、短い指。わたしは中本の身体的なことまで気になる。エタノールを取るだろうと思っていたら、そのとおりごしごしとこすりだした。
 その向こうに唇をとがらした男が座っている。昼間の無線部にひとりだけ男子がシフトされるのだが、今日の日勤者は身長百九十センチあり、体重も三桁は間違いないという二十八歳の町野、マッチと呼ばれる男だった。恐ろしく無口で読み取れないほど小さな字を書き、献血回数は百回を越す献血マニアである。中本の騒ぎにしても無関心このうえない様子でじっと座っている。
 なんでも有田は町野からカツアゲをしたことがあるらしい。中学生のとき、ゲームセンターで出会ったのだそうだ。有田も長身で巨漢だが、パーマヘアに色眼鏡、ちょび髭は肉食ティラノサウルスであり、坊主に銀縁メガネの町野は草食ステゴサウルスというところなのだろう。天敵の前で町野は懸命に存在を消しているのだ。書類が山積みになったデスクを選び体を二つに折るようにして電話を取っている。声も小さくて隣りにいても聞き取れないほどだった。
 職場の人間の噂を流すのは有田だった。面白おかしく語るので陰湿な印象はないが、わたしがこのひと月でこれだけの情報通になれたということは、わたしのことになるとどれほどなのかと思いやられる。まず、紹介者との関係は間違いなく噂されているだろう。それに一緒に住んでいる男から電話がかかってくる。離婚直後で男がいるとなると、有田の好奇心を眠らせておけるわけがないだろう。
 男は失業していた。会社から帰ると蓋の開いたカップラーメンがひとつ。腕で目を隠しベッドに仰向けになっている。わたしの帰りを待っていたくせに何も言わない。起きているのは息遣いでわかる。ショルダーバッグをポトンと床に落とし男の元に歩み寄る。三、四歩のことだ。窓の無い部屋、ベランダからは光は一切入らない。
 服のまま男に添い寝する。腕が回されて男の胸に抱きこまれる。温まった男の体臭を吸い込む。ざらざらした顎や頬に顔を寄せる。そのまま眠る。
 ぐらぐらとベッドが揺れるので目が覚めた。真っ暗で何も見えない。男の上半身がない。ベッドに座っているのだ。目が慣れて少し見えてきた。右手で左手の内側を掻くような仕草を繰り返している。痒くてそうしているのではなく、皮膚の中に入り込んだ虫を掻きむしって取り出そうとしているような激しさだ。
 暗闇の中で男の押し殺した声をきいている。起きていることを感づかれないように意識して脱力していると、いつのまにか眠ってしまった。

 一週間後、田丸と柳井は男子職員の輪番シフトに組込まれていった。
 日勤あいだ、田丸は毎日文庫本を持ち歩いていた。父親の本棚から抜き取ってくると言っていたが、その時は丸谷才一という作家の小説を読んでいた。休憩室の畳敷きの隅に嵌まり込むように座り、折り曲げた膝を机がわりに本を乗せていた。田丸は手足が長く猫背なので座るとまわりより小さくなった。
 本に目を落としている時の田丸は視覚的には男前ではないが印象的には男前に見えた。 
「一番好きな作家って誰」
 田丸に興味が湧き質問した。
 一旦正面を向き、それから上を向いて、
「谷崎潤一郎」
 そう言ってからも何かを思い出しているように、ぼおっと正面を見つめている。
 本は読んだことがないが、映画は観たことがある。たぶん春琴抄というタイトルで、商家のお嬢様と奉公人がセックスをするようなところがあった。他にお嬢様のおしっこを奉公人が桶に取って捨てに行く場面も覚えている。サドとマゾの映画みたいだった。
 以来、田丸をマゾっぽい男と思うようになってしまった。いっしょに入社した柳井が短気でわがままな面が見えるようになって、その対比でよけいにそう思える。
『僕はアイショウなんだ』
 男が出し抜けに言ったことがある。愛償と書く。人に愛されたことに対し償う人という意味だそうだ。ずい分うぬぼれていると、今なら思うだろうがそれは睦言として交わされたものであり、大学時代の話として言ったことだった。
 市内の大手印刷会社でアルバイトしているとき、社員の女の人からデートに誘われたそうだ。当時個室になる喫茶店があり、毎日、そこでセックスをしていたかそれに近いことをしていたという。彼女は男の背中に爪をたて、快感の声をあげる。その声があまりに大きいので店員が駆けつけてきたらしい。パタパタと足音が近づいて、男のいる個室の前で止まり様子を窺っているなんていう話までしてくれた。
 大学で学生運動にのめり込むにつれ、会ってセックスするだけの関係では刺激がなくなったのか、彼女を避けるようになり、今度は大学の後輩の女の子に好きだと言われてそっちに行ってしまった。振られた女の人は飛び降り自殺を図った。命は取り留めたが彼女の父親にひどく咎められた。新聞にも失恋で自殺という見出しで載ったそうだ。   
 男は後輩の女の子と結婚した。それもわたしを取るか活動をとるかと包丁を突きつけられてだった。
 男は、自殺を図った女の人からもらったクロスのボールペンを見せてくれた。十数年経つがいつも使っているのだという。男の苦笑いが泣いているような顔になる。

 会社に来て三ヵ月が経つが、わたしは中本を完全になめていて、彼女の言うことに素直に従えなくなっていた。 
 ついさっきも、前日の配車伝票をパソコンで入力するよう命令されたが、こちらもやる事があると言って断った。仕事ができないくせにと思ってしまう。
 田丸が日勤だった。
 田丸はそんなやりとりを見ていて、わたしに言った。
「中本さん、佐伯さんのせいでノイローゼになったから、頭の病院に通ってるって、みんなに言いまわってますよ。あまり逆らわないで適当に合わせてあげたらどうですか。佐伯さんのほうが仕事できるの、みんな知ってますから」
 田丸は笑った。佐伯さんはなんでこの仕事で人と張り合うのと尋ねてきた。誰もここに将来があるなんて思ってないし、時間だけ働けば少ない給料もらえるんだから、気楽に考えましょうよと言った。わたしを思って言ってくれたのか、中本を助けるために言った言葉なのか。悪気のない笑顔からは探れなかった。
 田丸はさらにおしゃべりを続けた。
「夜は面白いですよ。マッチが配車してるの、聞いたんですよ。笑いますよ」
 覚悟せよとばかりに間をとった。
「呼び出し場所が福島でした。それで車がでて、取りますよね。『居酒屋ひょっとこ、 ドーゾ』って。そしたら場所どこですかって聞くじゃないですか。んじゃ、こう言うんです。『阪神高速福島からのってください。約百メートル左側、居酒屋ひょっとこ』って。全員こけましたよ。運転手は『えっ、もう一度』って言ってるし。田中さんは、『お前高速道路の中に居酒屋作ってどないすんねん。危のうて、飲んでられへんやろうが』って怒鳴るし。他の移動局からも非難の無線が入ってくるしで……」
 わたしは話を聞きながら高速道路の路肩に赤提灯を出した屋台を想像していた。確かに危なくて飲んでいられないが、そう突っ込む田中というひょうきんな男の身振りが目に浮かんでしまい、堪えられず噴出した。田丸もその時の可笑しさを思い出したのかひどく体を震わせている。内緒話のつもりだったのだが、わたしたちの話し声は静かな無線室中に聞こえていたようで、部屋のあちこちで引き攣れた笑いが起こっていた。
 有田が怒るでもなく話し始めた。
「あいつなあ、無線握ってるとき、感度の問い合わせかけよるんや。何番何番ていうて、いきなり移動局呼び出すやろ、感度3です。ゆうんや。変わってるわ」
 無線を取ろうとするタクシーが、基地局に自分の交信が届いているかどうかという時に尋ねてくるのが感度の問い合わせである。普通こちらからはしない。
「なんでそんなこと訊くんやっていうたら、暇なんでって答えたそうや。変わってるわ」
 無線室が有田の話で受けた。それに調子づいて話が下ネタになっていった。
「あいつなんで献血行きよるか知ってるか。病気になってへんか調べるためやねんで」
 ひぇと、女子から声があがった。町野が気を許してしゃべったことが朝の無線室で晒されようとしている。普通の会社なら有田こそ不適格者として弾かれるべきだろう。しかしここでは有田の毒舌にかからないように生きることが、まっとうな人間の証になる。
 田丸が小声で話しかけてきた。
「マッチはほんとですよ。公休のときは飛田に行ってるらしいんですよ。完全にはまってるらしい」
 中本がみなさん電話を取ってくださいと注意した。想像していた町野の巨体がぱちんと音をたてて割れた。

 退社後、田丸と食事に行こうということになった。玄関ホールに降りると田丸が椅子に腰掛けて待っていた。わたしを見つけ、すくっと立ち上がった。田丸はブラックのジーンズに白いシャツを羽織っただけのラフな私服だ。
「今日は何を読んでるの」
 手に文庫本を持って立ち上がった。わたしはカバーを外したベージュの本を指した。
「抱擁家族」
 表紙を読んで言った。
「誰の」
「小島信夫」
 ふうんと言ってみたが知らなかった。田丸の父親はどんな仕事をしているのだろうか気になった。
 男はワンルームにたくさんの本を持ち込んできた。ダンボールに入ったままなのでどんな本なのかわからない。衣服の入ったのがひとつだけあり、その箱は開けてある。それらは男の妻が詰めたらしかった。コンドームの束が一番上にのせてあった。
 男の妻と会ったことがある。妻に関係を知られてしまった直後のことだ。
 ホテルの喫茶室で、先に来てコーヒーを飲んでいた。わたしを迎えた妻の態度は柔らかいものだった。
 わたしは最初に「彼が愛しているのは奥さんだし、子どもさんたちだというのは分かっています」と言った。
 それに対して妻は知っていると答えた。
 妻の態度は自信に満ちていた。夫と別れてくれとはいわず、あなたの思っているような男じゃないと諭すのだ。
 自営業だが、収入はほとんどなく家計は妻の給料でやっていると聞かされた。あなたもすぐ男に失望するから止めておきなさいと言う。
 白いコーヒーカップを持つ手が震えて、うまく口に運べない。
「わたしの中の彼が、駄目な情けない男に変わるまで納得できません」
 喉の奥から振り絞るように掠れた声で言った。
 妻は負けましたと言った。それから、こんな風に出会ってなかったら友達になれたと思うと言った。
 たたみかけるように、家に帰ると妻から電話があり離婚することにしたと言われた。フェアではないので話しておくが、わたしにも好きな人がいるのだと言った。

 ドンドンと太鼓が叩かれる。めがね屋の上にある居酒屋に入った。時間が早かったので六分くらいしか席が塞がっていない。四人掛けの席に通されて、飲み物からどうぞとせきたてられた。ハッピを着ているがファミレスで使っているリモコンのような器械で注文を取るようだ。田丸に全部まかせて店内を見回していた。柱で見え隠れする人物にはっとした。ぱつんと切りそろえたおかっぱが見える。その向かいに座る男の顔を見てもっとびっくりした。岡崎だ。たぶん女は中本に違いない。
 田丸にその方を見るように言った。あっと声をあげたかと思うと立ち上がって、そのテーブルに歩いて行った。岡崎がわたしを見る。おかっぱ頭の方はじっと動かない。田丸が戻って来た。
「いっしょに向こうで座りませんか。岡崎君がおいでって言ってくれてますけど」
「いっしょにいるの中本さんでしょ」
 頭の病院に行くほどわたしが嫌いなのだ。
「止めとこうよ」
「中本さんもいいって言ってましたよ」
「でも、いや。岡崎君今日休みだったでしょ。わざわざ出てきたっていうのはデートでしょ。あの二人」
「いや違うでしょ。岡崎君公休じゃなくて無線の講習だったし、中本さんも午後から講習だったじゃないですか。だからその帰りでしょ」 
 中本と岡崎が無線免許の講習を受けているとは知らなかった。半年に一度講習会があり、そのあと資格試験をするらしい。教わる内容は難しいそうだが試験はほとんどが受かるみたいだった。
 しぶしぶ同席した。中本もわたしの顔はあまり見ない。嫌なんだから断ればいいじゃないかと同席を承諾した中本に腹が立つ。その空気を和ますように田丸が岡崎に講習の話を尋ね始めた。
「講習でどんなこと教わるんです」
 岡崎は赤くなった顔を大きな手でさすりながら、
「最初は周波数のことなんか、短波とかそういうのの話、僕らが交信しているのは、大気圏を抜けて宇宙に出て行ってるんだってよ。そう考えるとロマンチックじゃないか」
「僕らの声が宇宙人に聞かれてるってことですか」
「波の波長によって違うらしいけど、摩擦のない宇宙では永久に消滅しないらしい」
 その声は直線的に地球から遠ざかっているのだろうか。わたしが死んだあとも声はどこかで受信されつづけるとしたらこれ以上の永遠はないと思った。
「あと電波法のこととか。講師は電波管理局の人だから専門的だけど試験は過去問を勉強しとけば同じようなことしかでないらしいよ」
 わたしたちが受ける免許は無線従事者乙種というものだと岡崎がみせてくれた資料で知った。今日が講習の最終日で試験を受けたのだそうだ。
「中本さんて、仕事のミス多いよね」
 生ビールを何杯かお替りしたわたしは中本にからんでいった。岡崎と田丸が車道に飛び出す子どもをあわてて止めるような勢いであいだに入ってきた。
 しばらく舌のうえで吐き出したくなる言葉を含んだままでいると、
「佐伯さんはまだ子どもやねん」
 中本が口を封じられたわたしに向かって言った。そういう強気な中本の態度がわたしを煽るのだ。
「中本さんもやめて。もっと楽しく飲みましょう」
 岡崎が中本の肩に手を置いた。
 男たちの気遣いにこれ以上逆らうのも悪いと思った。
「田丸君のお父さんは何してはる人」
 わたしは話題を変えるつもりで訊いた。
 田丸は手元の文庫本を触りながら考えていた。悪いことを訊いてしまったのかと思ったとき、
「弁護士さん。今はいっしょに居てないけどね」
 田丸が小学生のとき両親が離婚し、田丸と弟は母親と暮らしているのだそうだ。
「お母さんは主婦だったの」
 中本が尋ねた。
「ううん、お母さんも生命保険会社の幹部で社員教育をしてる人。離婚しても全然へこんでなかったよ」
 中本が頷いた。
「うちも両親離婚したんだけど、母親は仕事持ってたから、わたしを大阪の大学にも行かせてくれた」
 男は離婚され家を出て行かされた。フルタイムで働いていた妻に代わり家事や子育てをやっていたのは男の方だった。小学生ばかり三人の子どもがいた。
「僕んとこは専業主婦やし、おふくろには離婚無理やろうな」
 岡崎が田丸や中本の母親を褒めるように言った。
「岡崎君の家は家族みんな仲良さそうに思うな」
 田丸が言った。
「普通の家族や。僕も普通やし」
 わたしは岡崎に対して普通の人という印象を持っていた。でもそれは会社の中にあってノーマルでいる人間が偉いという意味でである。みんなが毒を出している場で染まらずいるのは難しいことだと思う。
「田丸君が読んでるの、お父さんの本でしょ。お父さん、本置いていかはったん」
「そう、仕事の本しか持っていかなかったね。うちはお母さんも本好きだったし、家中本だらけだからね」
「じゃあ、お母さんの本かもしれないのか。いま読んでるのも」
「それは違う。親父の本とわかって選んでるから」
「蔵書印でも押してるの」
「いや、親父の本は書き込みがしてある。大学生の頃の考えてたことや、反省文みたいなのまで、面白いよ」 
「弟さんは何してるの」
 岡崎が尋ねた。
「大学院生」
「うそ、むちゃ賢いのんと違うの」
「そうやね。数理やからね。大きな会社から就職の話がいっぱいきてるらしいよ」
 田丸の家族の話をきいていると、田丸の大きく張り出した後頭部の中にしわのいっぱい寄った脳みそが入っているような気がした。
「田丸君は大学でたの」
 今度は中本が訊いた。
「なんか僕に質問が集中してません」
 田丸は苦笑した。
「高卒ですよ。勉強嫌いだったから」
 ふっと息を抜くように言った。
 田丸の父親はなぜ家を出たんだろう。知りたかったがさっきの質問で釘を刺されている。
「田丸君がニヒルに思えてきたなあ」
 岡崎が深い溜息といっしょに言葉を吐いた。そうなのか。わたしには親切なところのある男に思えるし、そういう優しさを持った人間だったに違いないと思う。では、両親が離婚してから脱力感漂う人格になってしまったのだろうか。
「なまけものなだけですよ。敢えていうなら、両親が競争しながら仕事してるのみてて、競って勝ちつづけるのが怖くなったのかな。だから興味のないふりをしてる」
 わたしが中本に張り合っているのをやんわりと制したのも見たくないからなのかと田丸の本心を窺った。
「じゃあ、今度は僕が質問します。佐伯さんはどうして離婚したんですか」
 びっくりした。言葉が出てこない。
「それは直球すぎるよ」
 岡崎が助けてくれた。しかしそのおかげで言葉が飛び出した。
「好きな男ができたから」
「おお、こっちも直球だな。僕にはついていけないよ」
 また大げさにおどけてみせた。
 男が妻とわたしに話をさせたのは、わたしに引いてもらいたかったのだと思う。妻も最初は家庭を守ろうとしていた。この離婚で喜んでいるのはわたしだけだ。
「その人が今いっしょに住んでいる人」
 田丸が続けざまに踏み込んできた。
「そうだけど。ところで田丸君は彼女いるの」
 もう充分だと思った。こう訊けば黙るだろうと切り返した。
「いますよ。田舎から出てきた娘で……」
 と言って中本を見た。
「ごめんなさい。僕の彼女は去年高校でて十九歳なんですよ。パチンコ屋でいっしょに働いてたんです」
 この前の誕生日には、アンクレットをプレゼントしたのだと言った。田舎から出てきたおとなしい娘だからだと言う。
「逆じゃないの。アンクレットってあんまり誰でもするもんじゃないよ。ねえ、中本さん」
 中本に直接話をふった。中本は何につけても反対のことを言う癖があった。それでこれだったら同意するしかないだろうと思って言ったのだ。
「アンクレットってなんですか」
 はずしてきた。
「足につけるブレスレットみたいなやつですよ」
 岡崎が説明した。
「いいんじゃないですか」
 中本はどうでもいいと言った。わたしはぶるっと身震いした。
 終電近くの時間になったので会計をすることになった。四人ともよく飲んだので一万円を越えていた。
「ふたりは二千円で」
 まとめて支払った岡崎が言った。四千円を差し引いた額の半分を田丸も黙って岡崎に渡している。わたしも中本も悪いからと千円札をひらひらさせていたが、結局受け取ってくれなかった。いまどき男が多めに払うなど珍しいことだと思った。
 中本と岡崎は方向が同じだと言っていっしょに帰って行った。田丸は彼女の家に寄るからとタクシーに乗り、わたしはひとりで地下鉄の階段を降りていった。
 部屋に帰ると男は起きて座っていた。煙草を指の根元で挟み頬を凹ませてひと吸いした。めらめらと先が長く赤く燃えた。しばらく家に戻らなければならないと言う。元妻が入院するのだ。病名はバセドー病。甲状腺の病気らしい。三人の子どもの面倒をみるから、わかってくれやと男は言った。
 落ち着いて考えると、父親なのだから当然そうするのが当たり前だと思う。けれどわたしにはそれを口実に元の鞘に収まろうとしている、わたしから離れていこうとしているとしか考えられなかった。
 男は家から追い出されたのであって、わたしと一緒に居たいのではない。一時でも離れると二度と戻ってきてくれないのではと恐れた。

 会社に転居の届けを出した。
 あれからすぐ、ワンルームを解約して男の家と同じ駅にあるマンションを探して借りたのだ。
 総務課長がまたかというような顔をした。
 無線室に戻る前にトイレに立ち寄った。ロングの黒髪の森田が営業の娘を怒鳴りつけていた。
「どうしたんですか」
 トイレの床に倒れ込んで泣いている営業の娘にかけ寄った。
「こいつがうちのタバコケースにタバコ止めろって紙を入れよったんや」
 森田はどすの利いた声で言った。
「違います。わたししてません」
 泣きじゃくりながら否定している。
「入れてるとこ見たんですか」
「うちがトイレでタバコ吸ってんの、影で文句いうてんの知ってんねん」
 タバコを営業の娘に投げる真似をしてトイレを出て行った。わたしはどうしていいかわからず洗面台の前に突っ立っていた。
「わたし総務課長にいいます。わたし書いてませんもん」
 営業の娘はそう言ってトイレをでた。それはわたしに向かって言ったのではないように聞こえた。
 どっと疲れが出た気がした。洗面台の前で鏡をみる。ブルーの上着の胸元から赤い掻き傷が覗いている。
 男がマンションを出て行くと言ったあの夜、自分で掻き毟ったのだった。男と一緒にいたいという思いが強くて、それが押さえられなくて、胸を開けてしまわないと息が止りそうだったのだ。
 退院したら戻ってくると、約束するからと男が宥めてくれても感情がとまらない。わたしはベッドに仰向けにされ、上から押さえ込まれた。体が自由にならなくなると、叫び声を上げた。すると今度は口を手で覆われた。下から見上げる男の顔は赤黒くて肉が垂れた別人の顔だった。
 何日か経ったというのに、この掻き傷は体の奥から浮き上がってくるように赤味を増してくる。
 無線室に戻ると総務課長が森田から話をきいているところだった。ガラス越しに事務所をみたが営業の娘の姿はない。
 ところどころ課長の声が聞こえてくるが、かなり森田が悪いと決めているような言い方だった。課長の話が終わり無線室を出て行くと、有田主任に早退を申し出ていた。怒りが収まっていない様子で誰も声をかけられる状態ではない。
 数日後、タバコ止めろというメモを書いたのは、森田の彼氏だったと打ち明けた。喧嘩をした営業の娘にそれを説明して謝っていた。自分の非を認めて偉いなあと思っていたが、理由がわかった。どうも森田と彼氏の間で、結婚話が停滞していたのだが、この騒動で彼氏が結婚を決めたのだそうだ。職場では番長であっても、結婚は男から申し込むものという考えだったらしい。その日が来て手放しで喜ぶ様が森田らしかった。
 森田は今月いっぱいで寿退社する。それに乗っかるように、小坂も辞めると言い出した。彼女にも結婚を踏みとどまっている彼氏がいる。小坂の彼氏は無線部の元職員だ。森田と揉めた営業部の娘の元彼でもある。
「このあたりで泊まるとしたら、どこがいいと思う」
 小坂がボールペンの先で机をコツコツしながら訊く。
「このあたりって、会社の近くですか」
 向かいに座るわたしは配車のときにみる得意先帳をめくった。
「どんなお客さんですか。ビジネスマンとか」
 トーコー、くれべ、ホテル関西が会社から徒歩で行ける範囲だった。
「わたしが泊まりたいの。静かに考えたいことがあるから」
 つまり作戦室ということか。ロマンス小説の主人公を気取る小坂が可愛らしかった。
 わたしの新しい住まいは何とたとえたらいいのだろうか。築年数は古いが二DKの間取りはそれまでを思うと三倍の広さだ。しかし、敷金や家賃でお金は底をつき、テレビも冷蔵庫もない。買ったのは二千円の電気ストーブだけ。
 男は子どもの面倒をみたり、妻の病院に着替えを持っていき、離婚する前の生活にすっかり戻っている。おまけに、妻に気に入りの歌をカセットにダビングしてくれと頼まれれば、レンタルビデオ屋まで行き、録音して持って行ってやったとわたしに話して聞かせるのだ。あっという間の逆転だった。わたしは男にひたすら追いすがる女で、妻は男を家政婦のように使える主人だった。男は妻からの抑圧をわたしで調和しているみたいに、上手く立ち回っている。

 年齢の近いもの達で森田や小坂の送別会をすることになった。幹事は岡崎と中本がふたりでするという。居酒屋以来この二人は付き合っているのではと、わたしは疑っている。
 会場は大阪駅前の複合ビルの地下だった。地下鉄と通路が繋がっており、通過するだけの人たちも多い場所だ。 
 テーブルを並べただけの宴席だったので、フロアの喧騒が司会の岡崎の声をかき消した。色白の岡崎が力んで喋るので耳まで真っ赤になっている。
 わたしは田丸と柳井の間に座り、向かいに町野が座った。中本はと目で追ってみると岡崎にくっついて主賓の向かいに座るところだった。主賓席には小坂の彼氏も同席している。彼氏も田丸や柳井同様棒切れのような痩せた身体をしていた。
 わたしの座るテーブルでは柳井が持ってきた化粧品で盛り上がっている。森田と小坂の餞別に持ってきたついでだと言って、わたしにも好きなのを取れと言う。前の仕事が運輸倉庫会社で柳井が受け持っていたのが、化粧品メーカーだったそうだ。在庫管理、棚卸しもまかされていたため、机に載った化粧品は当時好きなだけ抜き取ることができた戦利品なのだ。マイナーなメーカーのようだが、コンパクトの裏をみると、四千円と高い値段がついていて、ちょっとびっくりした。わたしはその直径五センチ程のおしろいのコンパクトと歯の美白をするオーラルキットをもらうことにした。
「おい、マッチ。お前もなんか取れや」
 今夜の柳井は上機嫌のようだ。片足を椅子にあげて、身体を斜めに肘をついて座っている。
 町野はいらないという風に首を横にふった。田丸も興味がなさそうだ。
「田丸君、彼女に持っていってあげたら」
 保湿クリームとオーラルキットばかりが残ったテーブルを指した。
「彼女、別れました」
 大ジョッキを空にして言った。
「え、そうなの。この前、彼女の家に行くって言って帰ったのに」
「そうなんですよ。あの晩も疲れてるからって、部屋にあがってもすぐ寝ちゃうんですよね。僕がそれでもエッチしようとしたら、押入れに入るんです」
 店員に大ジョッキを掲げてみせた。
「押入れって。どういうこと」
 さっぱり要領がつかめない。
「彼女、セックスが嫌だったっていうんです。したくないって。僕、冗談だと思ってたんですよね。実際セックスすると彼女もいい気持なのかなって思ってたし。僕強すぎですかね」
 知るかと思った。
 町野がへへへと笑った。
 わたしが毎夜、男を待つあの部屋は、町野が通う遊郭に似ている。男が来てわたしを抱いて帰るのだ。
 送別会は二時間ほどでお開きになった。主役達はそのまま帰り、残りで二次会に行くことになった。
 店を出るとほとんどの店がシャッターを半分降ろして閉めようとしているところだった。今急げば終電に間に合うだろう。でも、わたしはまったく帰る気はなかった。男が訪ねてきて、わたしがまだ帰ってないことを知ればいいのだと思った。
 田丸の案内でライブハウスのような店に入った。雑居ビルの地下にあり階段を使っておりるようになっている。ドアを開けるとバーカウンターがありチャージを支払う。ワンドリンクの引換券が渡され好きな場所に陣取ればいいらしい。奥にいくとDJブースがありミラーボールが廻るダンスができる小スペースまであった。入ったときに流れていたのは、八十年代のディスコミュージックのようだった。
 わたしたちより年上の客が多くみうけられる。店の感じもバブル華やかなりし頃のブラックライトに蛍光のペイントの壁面にしている。当時、お立ち台といわれるところに競って登っていた人たちが再び集合しているのだろう。
「ここは何で知ったの」
 小さなスタンドテーブルを囲んで座るとすぐに田丸に尋ねた。
「パチンコ屋の常連さんに連れてきてもらって気に入ってよく来てるんです。最近のクラブとかいうのは、客層が若いし、うるさくて落ち着かないけど、ここは大人の雰囲気だから、曲もいいのがかかってるし」
 田丸が喋ると歯が青白く光った。町野の黒いセーターも点々と光るものがある。
「埃が光ってるんです」
 田丸が教えてくれた。
 町野がワンドリンク券をウーロン茶に引き換えてきた。柳井もそうだ。田丸と岡崎が生ビールでわたしと中本はカクテルに換えた。
「もう駄目です」
 町野が身体を揺らして立ち上がった。
「そんなに飲んだか」
 柳井が拳骨で町野の胸を軽く突いた。
「柳井君、帰して上げましょうよ」
 中本が真面目に言った。確かに町野がつぶれたら介抱が大変だと思った。そして、町野が通う遊郭の女のことを想像してしまった。それはさっきの店で柳井が面白がって聞きだしていたせいもあるのだが。
 遊郭は二十分が単位で延長時間が加算されるのだという。部屋には座布団がひとつ置いてあり、客はそこで女を抱く。
 町野が襖を開け、服を脱ぎ覆い被さってくる。女のお尻の下に座布団が一枚あるだけ、セックスは嫌いなのと田丸の彼女が言う。押入れの中で町野の巨体がどんどん膨れていく。

 おぞましい二日酔いだった。胃が裏返るような吐き気が止まらない。部屋に帰っていたが、どうやって帰ったかまるで記憶がない。玄関で靴がひっくり返っている。着ていた服は下着ごとひとまとめに脱いであり、鞄もキーホルダーも畳の上に散らばっていた。トイレに立ったときに目にした光景だ。何時だか解からないが、まだ夜は明けきっておらず、窓の外は薄明るい。
 トイレにしゃがみ込み嘔吐した。
 梅田嫌いのラストラン、虹の吐瀉物を跨ぐ……。大きく脈打つ頭に歌のフレーズが浮かんだ。ストリートバンドが叫ぶように歌っていた歌詞だ。どうでもいいのだが今の気分にぴったりくるなと思った。
 台所に行き、給湯用の大型湯沸し器の種火を付けた。台所の床はビニール製のクッションカーペットだ。黄色やオレンジの同系色でランプのような模様の連続柄になっている。
 流し台の横には冷蔵庫の置いてあった跡、ドアの横は食器棚か収納棚の跡、中央にはダイニングテーブルの脚であろう四つの小さい跡が残っている。ワンルームマンションから持ってきたのは、衣類とテレビだけなので台所は倉庫のようにガランとしたままなのだ。
 風呂の蛇口をひねる。古いマンションなのでシャワーがない。その上、水とお湯を混合する蛇口がないのでお湯をためなければならない。その湯船は深くて大きかった。
 蛇口の前に風呂のイスをおくと、ちょうど目の高さに長方形の鏡が取り付けてある。そこが唯一の鏡のある場所だ。バスタブに跳ね返る水音が四つくらいの濁音を同時に発している。水圧が微妙に変わると音階も変わる。早朝なので下に響くとは思うが、下は一階でカラオケを夜中まで流すスナックだから大丈夫だ。
 風呂のイスに腰かけて鏡に顔を映した。目蓋が腫れ上がり赤くなっている。鼻や口のまわりも膨張してしまりがなくなっている。ふと、指先をみた。手の爪が粘土をいじったように黒い物を挟み込んでいる。毎度、二日酔いのときこうなる。なぜ、爪先が汚れるのかはわからない。爪に爪を差し入れてこそいでみる。一本一本黒い爪垢を取っていくのだが、取れた爪垢は反対の爪に移動して残っている。いらいらして乱暴に手をこすり合わせたり、石鹸をすりこんだりした。
 酒を飲むと指先の感覚が鈍くなっているので、こうなるのだろうか。とにかく二日酔いになると全身いたるところの細胞が死滅していることは確かだと思う。
 深いバスタブの半分ほどに湯がたまったので、桶に二杯ほどかかり湯をしてから浸かった。
 白いタイル貼りの壁には粘着シールではりつけたタオル掛けやフックが残っている。すぐに入居したいと言ったので、家主は改装しなかったのだ。
 わたしが前にいたマンションも簡単なものだった。賃貸契約に載っていた不動産屋に電話をし、鍵を返しに行っただけだ。
 昔、祖母がテレビで繁華街の裏の世界を撮った番組をみながら、男よりも女のほうが落ちていけば落ちていくほど浮き上がるのが難しくなる。落ちるところまで落ちれば一生そのままだと言ったのをきいたことがある。
 わたしに水商売や娼婦のことを遠まわしに指し、ああなってはいけないと戒めたつもりなのだろう。
 中学生、十四、五歳のわたしはホステスや娼婦になるわけがないと思ってきいていた。
 が、他人がみれば、わたしは落ちている最中なのだ。もしかしたら、落ちるところまで落ちているのかもと考えたら、お湯に浸かりながら寒気がしてきた。
 親にもしばらく会っていない。学生時代からの友人とも離婚以降連絡が途絶えたままだった。それというのもわたしの夫だった人は同じ高校の先輩だったせいだ。その友人たちとは結婚後も家に招いたりして緊密なつき合いをしてきた。
 一番仲の良かった友人に、好きな男ができて、その人のところに行くんだと言ったとき、先輩はどうするのと尋ねられた。わたしとしては、別れるに決まっている、友人もわかっているものと思っていた。
 好きな人ができてしまったら、もう夫のことを好きでいることができないと説明した。
 そんなことで別れるのかと怖い顔をされた。まるで叱られているようだった。そして彼女がそんな怒りの感情をわたしに向けてきたのは初めてのことだった。
 好きでなくなったのに一緒にいることのほうが、偽りではないのかと訊いた。
 そういうことではない。なぜそんな簡単に好きな人ができて、別れていけるのかが信じられないのだと言われた。彼女だけではない。あの時は夫も両親も好きな男でさえ、わたしの行動を非難した。情はないのか、性急すぎるんだ。子どもがいないからそんなことができると言われた。
 心に従うことがどうして悪いのか、わたしには判らなかった。
 お湯が肩のあたりまできた。蛇口からお湯が一本の管になって湯面と繋がっている。それを指で何回も切ってみた。お湯は一瞬屈折して元通りに繋がる。
 やっぱりわたしは落ちるところまで落ちてしまっているのだと悟った。この世の不可解なことを説明する便利な言葉、無限とか未知とかいう言葉にすがって誤魔化しているだけだ。
 台所にあった冷蔵庫や食器棚やダイニングテーブルのように跡形だけになりたいと思った。わたしという不完全な人間をこの世に晒し続ける意味があるように思えないのだ。舞台セットのように、暗転し再びライトをつけると消えていた。そんな風にいなくなりたい。男を待つのも誰かに嫉妬するのも、わたしが嫌いなわたしが消えてしまえば開放される。

 会社に向かって歩いていた。胃酸があがってきて何度も吐きそうになる。胃は昨夜のわたしを恨むようにしくしくと痛みを訴えた。
 車が大きくハンドルを切って迂回していった。ふと見ると、横断歩道の真中で鳩が死んでいる。鳩は車に轢かれたのではなく、ぶつかって死んだと思われる。でも、このままではいつか車に踏み潰されるだろう。信号待ちの間、わたしはどこかに移してやるか無視して行くか悩んでいた。
 信号が青に変わるとパタパタと制服の女の子が三人走り出した。彼女らは手に手に新聞紙やコンビニの袋をもち、鳩の死骸を持ち去って行った。
 更衣室に入ると昨日の主役だった森田が礼を言いにきた。小坂は中本と話している。
「聞いたよ。昨日あのあと面白かったんだって」
 そうでもないがと思ったが相槌をうっておいた。
「中本と岡崎君を取り合いしたんだって」
 森田が中本のところまで聞こえるような声でしゃべりだした。中本が昨夜のわたしの所業を言いまわっているらしい。岡崎にちょっかいを出したというのだ。
 目を細めて記憶をさぐってみた。確かに二軒目の店ですぐ酔いがまわってしまったが、変なことをした覚えはない。
「靴を田丸に持たせて、岡崎におんぶさせたって言ってるよ」
「わたしが」
「柳井と中本があきれて、あんたらを置いて帰ったって言ってるで」
 田丸がばいばいと手を振っていたのは思い出せた。ガラス張りの明るい大きなビルの中で、長いエスカレーターで昇っていくのだ。そのあと岡崎におんぶされたわたしはどうしたのだろう。いくら酔っても記憶がないということは一度もなかった。昨夜もちゃんと家に帰ってきたはずだ。
 中本に聞きただそうとしても、ずっと無視をする。岡崎にちょっかいを出したと言われたが、そんなに大事なら岡崎を引っぱって帰ればいいではないか。
 夕方になると夜勤の男子が出勤してくる。そのなかに田丸がいた。
「昨夜はごめんね。酔って迷惑かけたでしょ」
 田丸が更衣室に向かうのを呼び止めて言った。足を止めにっかと笑う田丸の口に目をみはった。前歯が一本ないのだ。
「どうしたの、歯」
 と訊くと、わたしが田丸の頭を叩いた拍子に頬杖をついていた手がずれて、自分の手が差し歯にあたったのだという。田丸も酔っていてよく覚えていないらしい。岡崎に歯がないと言われて初めて気がついた。あたりを探したが見つからなかったそうだ。
 今日、歯医者に行ったら、飲み込んでる可能性があるからトイレをよく見ておけといわれたそうだ。
「じゃ、トイレからでてきたらそれを嵌めるの」
「あほな。なんぼ自分のでもそれは嫌でしょう。探しても落ちてなかったって言ったから、可能性を言っただけでしょ」
「ごめん、ごめん。それでね、話は変わるんだけど、わたし昨日どうやって帰った」
 田丸はやっぱりなという顔をしていた。
「店で寝ちゃっててさ。岡崎君がおんぶしたの覚えてる? 僕、部屋とったんでホテルの前で別れたけど、岡崎君がタクシーで送ったんじゃないのかな……。だけど、あの時、起きてましたって、僕がホテル入っていくとき、バイバイしてたでしょ」
「うん、それは覚えてる」
「それはって、あとは覚えてないの」
 岡崎に聞いておくと言ってくれた。岡崎は十一時からの深夜の遅出勤務だった。
 田丸はどうしてホテルに泊まったのだろう。カプセルホテルやサウナのような格安のところならタクシーで帰ることを思えば納得もいくのだが、そこは一泊六、七千円はするホテルなのだ。
 翌朝、田丸が夜勤明けで退社するところを呼び止めた。岡崎は九時半まで仕事をしている。岡崎と顔をあわす前に知っておきたかった。
「おはよう。それで訊いてくれた」
 田丸は無精ひげの顔でにやりと笑った。歯のないのを思い出させてくれた。
「おねえさん、やっちゃったそうですよ」
 緩んでいた顔がいきなり引き攣った。えっと息が詰まる。頭から血が下がるのを感じる。
「岡崎君、重たくなったから曽根崎警察のところで降ろしたんですって、でもくねくねして危ないから石垣みたいなところに凭れさせたんです。それでも前に倒れそうになったから岡崎君の身体で挟むようにしたら、ちょうどのところに顔がきたんでチューしちゃったんだって」
「うそっ。わたし寝てたよね。そのとき」
「いや、ちゃんとチュ―を返してきたって言ってましたよ。やばいですよ。岡崎君はヤラハタだったそうだから」
「ヤラハタって何」
「まあ、僕と違って純情な男ってことです。佐伯さんのこと好きになったって言ってましたからね。中本さんに気をつけてください」
 中本と岡崎は付き合っていたのか。
「どうやって気をつけたらいいの」
 さあっと首を傾げ、田丸は一昨日の夜のように手を広げて行ってしまった。
 結局、どうやって帰ったのかは田丸も聞き忘れていたようだ。このまま知らずにほっておくか、岡崎に直接聞くかだが。
 朝礼が終わり無線室に入っていった。無線課長が中本とわたしを呼んだ。女子の新入社員が三人入ることになったということだった。ふたりで手分けして指導するようにと言われた。
 岡崎が無線で配車する声がした。今度は血が上っていくのがわかる。どんな顔をすればいいかわからない。わたしはトイレに逃げた。九時三十五分まで篭ることにした。そうすれば完全に岡崎は帰っているはずだった。時計をストップウォッチのように握りしめ、秒針が三十五分を過ぎるのをきっかけに腕にはめ、トイレをでた。でたところで岡崎に会ってしまった。
「昨日はごめんね。迷惑かけちゃって。あっ昨日じゃなくて、その前」
 真っ赤になっているのがわかる。
 岡崎も顔を赤くしていたが、落ち着いた態度で、
「ちゃんと帰れましたか」
 と訊いた。
「ちゃんと帰ってたけど、覚えてないの。どうやって帰ったの」
「梅新のところからタクシーに乗って帰りましたよ。送ろうかって言ったら、『ひとりで帰れるんですねえ、これが』って言ってましたよ。酔っ払ってるけど、いいかなって思って見送りました」
 岡崎が笑って言う。
 よかった。
 昨夜、男はいつもより早く来た。前の晩、二、三度来たことを恨みがましくいい、家に帰ってなかった理由をきいてきた。職場の送別会だというと、何にもなかったかと訊く。
 いままで待つ女だったのが、急にふいと姿がみえなくなると心配になるのだろうか。
「今朝、横断歩道の真中で鳩が死んでたの、それを女子高生が拾ってあげてるの見たのね。わたしもどうしようかって迷ったけど、おそらく無視して行ったと思う。優しいよね」
 男が後ろから早くも抱こうとしているのを心地よく感じていた。兵糧攻めが効いたのだと愉快だった。
「僕の奥さんは昔、鳩が死んでるのを見て会社を休んだことがある」
 まただ。しかも僕の奥さんとは。せっかくの優越感が一瞬で消えていった。
「来週退院するから、そしたら夜はここに泊まれるから」
 男は二人の女の間を行き来するのが楽しいようだ。男は何も失っていない、お金も出していない。わたしは納得がいかないのに、そう言われれば胸が弾む。

 有田と違って田丸はこの一件を黙っていてくれた。
 岡崎は中本と初めから付き合ってなかったといい、わたしをデートに誘うようになった。わたしと岡崎は食事をして、毎回曽根崎警察の前まで行きキスをする。
 岡崎はそれ以上どうすればいいのかわからないようだった。わたしも岡崎とそれ以上の関係になりたいと思わない。男が妻とわたしの間で優柔不断だから、わたしも同じようにしてやろうと思っているだけなのだ。
 岡崎の勤務は夜勤、明け、公休の繰り返しと、たまに日勤が入る。わたしを誘うのは明けの日の晩か日勤の夕方である。
 誘い方は、同じ勤務か勤務が重なっている時間帯などは、無線を担当しているわたしに配車伝票にデートの誘いを書いて投げてくる。わたしはそれを読み、了解なら丸をつけて岡崎に返すのだ。無線室では秘め事も噂話もそのやり方で回す習慣になっている。
 有田はゴミ箱にもみ捨ててある配車伝票を拾い集めて読んでいるらしい。それを知っているのでわたしは捨てないが、いまだにデートの約束をしたメモや、露骨な悪口が次々とでてくるそうだ。
 田丸は新入社員のひとりで竹部という女の子と付き合い始めたらしい。竹部は鳥取から出てきたばかりで歳は二十四歳だった。地元で幼稚園の先生をしていたそうだ。
 身長一七〇センチもあるのに体重は三十キロ台後半だという。まだ顔に肉付きがあるから実際よりふっくらと見える。彼女と居酒屋に行ったことがあるが、見かけによらず酒好きで、チューハイを好んでいた。竹部がししゃもを最初に頼んだのでわたしはそれ以来、細い人はししゃもを頼むのだという固定観念がついてしまった。食欲も普通と変わらないようにみえたが、トイレの回数が尋常ではなかった。五分か十分すると席を立つ。気分が悪いのかと訊くと、腎臓が悪いからだという返事だった。
 その席で大阪に出てきたのは家の事情かと訊くと、そうではないと言う。二十四歳までに自分のしたいことを全部してしまったから仕事を辞めてきたのだそうだ。
 二十四歳で全部し尽くしたと言うのはうそ臭い。けれど、すごいねと相づちを打っておいた。本音は刺激の少ない田舎より大阪の雰囲気を味わってみたいというところではないかと思う。
 竹部は酔いがまわってくると、どこでも笑った。笑うところではないと思うところでも、ほほほっと笑う。笑ってない時間の方が短い。傍で笑い女がいるとこちらは笑えないどころか、しらけてくるものだ。この娘と付き合って田丸はたのしいのだろうかとちらっと思った。
 竹部は鎧を着て武装し、他人に立ち入らせないように警戒している気がした。笑いも鎧のひとつかもしれない。笑っているときには感情が顔にはでないからだ。
 竹部に対してもうひとつ思うところがある。最近、わたし宛てに知らない男から電話が入るようになった。その男たちはみな、わたしの名を語る女から会社の電話番号をもらったと言った。そういういたずらは嫌いな女に対して女が仕掛けるものと決まっている。わたしが電話を受け、騒ぎ出すのを無表情な顔をして待っているのだ。はっ、とか違います、どこでという受け答えを聞き耳をたてて聞いている訳だ。
 もちろんその時、竹部はそ知らぬ顔をしている。でも、これでわかるのはわたしが誰かに嫌われているという事実で、ダメージではない。だいたいわたしは昔から誰かによく嫌われてきた。
 仕事ちゃんとやってるかと紹介者が様子を見に、無線室を訪ねてくれた。この協同組合の何かの役員でもあり会議で来ていたのだそうだ。
 退社時間まで待ってくれて、新地に食事に誘ってくれた。久しぶりに人に優しくされた気がする。彼は印刷会社の社長であり、タクシー業界のミニコミ誌も発行していた。かつてわたしはその印刷会社でアルバイトさせてもらっていた。
 総務課長の嫌味や親友と疎遠になっていると泣き言を言っていると、
「いや、名前のことは悪かった。僕もまさか離婚すると思ってなかったから」
 と言う。わたしの親友同様、離婚話がでてもぐずぐずと長引いていくものだし、やはりそう簡単に離婚はしないものと思っていたらしい。
「僕の女房なんか、九十九パーセント憎いけど一パーセントがあるから別れられないって言って、悔しがってるよ。たぶん夫婦ってみんなそんなもんよ。それでその度に別れてたら、離婚ばっかりしてなくちゃならない。君のとこも、僕のとことそう変わらないだろうって思ったから」
 紹介者はわたしの離婚は主客が逆ではないかと言った。
「君は好きな男ができたから夫を捨てたと思ってるかもしれないけど、ほんとのところは夫と別れるために男が必要だったんじゃないか。よく考えてごらん、暴力も振るわない、真面目で給料も家に入れてくれる男だろ。別れる理由がない、だけど旦那の全部が満足かとなるとそんなことありえないわな。微細なものが集まって、大きな要素になることだってある訳だし」
 寛容であることと冷たいことは似ているし、いい人だとわたしが思うというのはそれ以上の情熱を相手にもてないということでもあったと思う。
 わたしたち夫婦がプラグとソケットの関係だとすると、台所に置いて使うトースターをコードを延ばして洗面所のソケットに差し込んでいるような関係だったのかもしれない。無理があるのだ。
「もし僕が言ったとおりだったら、今の男から離れたほうがいいぞ。錯覚だったんだから。それが出来ないんだったら、早くその男の子どもを産んで、奴に責任をもたせろ」
 わたしが都合よく男に扱われている。そんなことを言わなくても解るのだ。
 今回の離婚で友だちがいなくなったと言うと、これから作ればいいじゃないかと言ってくれた。わたしに失望し距離を置いていった友だちとの関係回復なぞしなくていいということなのだ。その言葉もわたしを楽にしてくれた。
「男は計算するぞ。ええ女やな、一回エッチしたいな。くらいのノリ。男はみんな、そういう気持もってるし、それでちやほやする。君も寂しかったり、男に不満があったらそういうのにふらっといくかもな。悪い男になるとヒモになろうとする。女からどれだけ引っぱれるかみて、お金ださせるわ、そのうち家に入り込むようになる。やくざなんかはだいたいそういう手口だからな。優しくして、上手に貢がすよ。怒ったり脅したりしても誰も金ださないよ。惚れさせて体で絡め取ってしまってから、吸い取る。お金がなくなったら風俗にまでもっていく。だれも最初からソープで働こうなんて女の子いないだろ」
 まだまだ落ちてゆく先はあるということか。

 半年に一度の無線講習の時期が来た。今期はわたしと田丸と柳井が受けに行く。一週間午前の講習にでることになった。これだと八時から始まるので毎朝起きるのが大変だ。
 梅田の講習会場に着いたとき、田丸と柳井も眠そうな顔で駅のほうから歩いてくるのが見えた。
「何時に起きた」
 と訊くと、柳井は夜勤明けだと言った。
 田丸はOSホテルに泊まったから三十分前だと自慢げに言った。
「OSホテルにまた泊まったの」
 田丸の金銭感覚は同世代を思わせない。この講習の間ずっとホテル泊まりだと言うので、もっとびっくりした。
「家、豊中でしょ。電車で通えるんじゃないの。もったいないのに」
 人のことだから放っておけばいいのに、田丸には構ってしまいたくなるのだ。
「僕、好きなんだ。下を走る自動車を眺めたり、横断歩道を渡る人をみたりしてると、自分のことなんてどうでもよくなる。ネガティブにじゃなくて、俺が俺がって自己主張したところで地上数十メートルの距離からみるとオーラもへったくれもないってこと。そんな風に感じると力が抜けていってリラックスできるし。夕日が部屋の中まで入ってくるんだけど、駅前ビルの四角い形がシルエットになって、全然沈む夕日じゃないんだ。街の夕日って」
 冷蔵庫の缶ビールを飲みながら外を眺めたり、本を読んでいるのが至福の時間だと言った。
「この講習の間に、一回その部屋で宴会しようや」
 柳井はさっそく便乗する気だ。
「だめだめ、彼女が毎晩泊まりにくるから」
「またやりすぎて逃げられるぞ」
 柳井はうらやましそうに言った。
「今度は相性が合ってるから大丈夫」
 自信ありげに返した。
「この前はアンクレット贈ったって言ってたでしょう。今度は何をプレゼントするの」
 竹部の足首にアンクレットは似合いそうもない。
「髪につけるやつ。この前阪急に行っていっしょに買ってきた」
 一階のエレベーターの前にコーナーがある。そこでは化粧品の美容部員のように客の髪をアレンジしている店員がいる。かんざしのようなものやラセン状の一見髪留めに見えないものもあって、実演するのをみたことがあった。
「もっと高いのプレゼントしてやれよ」
 柳井が鼻で笑った。柳井の持ち物は全部ブランドもののようだ。田丸もそうだが柳井もどこにそんなお金があるのだろう。
「柳井君はいいよな。時計も服も貢いでもらえて」
 言い返されバツが悪そうに黙り込んだ。計算高そうな柳井ならあり得ると納得した。でも短気でわがままな男にヒモは勤まらないのではないかなと思う。
 八時になった。
 廊下で煙草を吸ったり、缶コーヒーを飲んだりしていた人たちがぞろぞろと会場に入っていく。最後尾で入ってみると講習会場は百人ほどの受講者でいっぱいだった。わたしたち以外はタクシーの乗務員らしく会社の制服で来ている。女はわたしだけのようでかなり居心地が悪かった。講義が始まるとあたりは居眠りしている人ばかりだった。柳井も夜勤明けのせいか、そのひとりだ。起きてノートをとっている少数にむかって講師は話しかけていた。
 無線は大きくアマチュアとプロがあり、通信士と技術士の違いがあるといった分類のことから始まった。わたしの父は通信士だった。昔の電報局でトン・ツーというモールス信号を打電するひとりだった。そのころふたりで組になり、受ける役と打つ役を分けていたそうだ。東京と大阪の二局でやりとりされ、もたつくと『へぼかわれ』と打ってくるらしい。職人の仕事とはそういうものかとほろ酔いで懐かしそうに話す父をいいなあと思った記憶がある。
 久しぶりに授業を受けている感覚が楽しかった。田丸も柳井も全日程をいっしょに受けた。最終日は資格試験があり、その後はオフになっていたので打ち上げをしようということになった。
 柳井が前に働いていたという店に案内した。いったいいくつ仕事を変わってきたんだろう。
 そこは大手エステ会社が飲食に手を広げて始めたカフェレストランだった。コンセプトは身体の中からも綺麗にということらしい。柳井はフロアマネージャーに耳打ちして戻って来た。
「今日はタダになったから」
 澄まして言う。
「すごいな。顔パスってやつか」
 田丸も驚く。
 どうしてタダなのか聞き出そうとしてもなかなか話さない。店員が来てテーブルに案内された。そこも特別室のような個室で夜景が見わたせる場所だった。
「僕の彼女がエステ店の店長やってて、今日ここに来ること電話してたから」
 彼女の決済ということだった。
 メニューは洋、中ものが多かった。北京ダックは目の前でウエイターが鶏の丸焼きをおいて皮を削ぎ、葱や味噌といっしょに春巻きのようにして配ってくれた。
 田丸はずっと生ビールを飲んでいた。酒はほんとに好きなようだ。夜勤のときや休みのときは朝からビールを飲むのだと言った。それを聞いて酒の弱い柳井は身体壊すぞと注意していた。
「岡崎とはどう、うまくいってる」
 柳井は本題とばかりに身をのりだしてきた。
 岡崎とは週に一回くらいのデートで十分だった。純情だということは他のことにも経験が浅いのか、あまり話題もない。
 男はやっと深夜の仕事に就いた。お菓子の工場である。夜の十時に出勤して朝六時までのシフトになった。妻は退院して男は再び家を出された。だがその時、妻にはわたしとは別れたと言ってあるのだそうだ。でなければ、子どもたちと会うことを許してもらえないからだ。男は妻の近所のアパートを本当に借りた。カモフラージュでだ。家賃一万五千円だというから今にも壊れてしまうような古いアパートに違いない。そこに炬燵と布団を運び込んだがそこで寝ることはない。しかし仕事を始めてからは満足に男と会えるのは日曜の夜だけだった。
 この扱いに馴染むことはあっても満足することはない。でもあれだけ男に執着していた、あの気持はどうしたのだろう。これが錯覚というものなのか、そうだったかもしれないとぼやける柳井や田丸の顔を眺めながら思った。
「田丸君、結婚願望はある」
 おいしそうにジョッキを傾ける田丸にきいた。
 部屋はエアコンがきいていて、部屋の温度は丁度いいと思うのに田丸は大汗をかいている。白いシャツも脇が濡れて透けてみえるほどだ。
「全くないですね」
 ハンカチを取り出して、鼻や額の汗を拭った。
「すごい汗かいて。大丈夫か」
 柳井も気がついたようだ。
「柳井君は」
 この手の質問はみんなで言い合うものだ。
「僕もそんな、ないね」
 二人とも短い答えだった。そしてわたしはと、考えてみた。ある。男と一緒になるためここまできたのだ。
「彼女は結婚したいって言うでしょ。それでもしないの」
 男たちに訊いた。
「嫌だっていってるんじゃないけど、今のままでもいいかなって思うだけ」
 田丸らしい答えだった。
「養うとかそういうのは考えただけで重いな。結婚相手も同志みたいな関係がいい」
 柳井の答えも都合よく聞こえた。
 どこかに惚れた女を幸せにする事が俺の幸せだと言ってくれる男はいないのかと思った。
 今日は酔わずにOSホテルの前まできた。田丸がエスカレーターに後ろ向きに立ち手を振っている。エスカレーターは吹き抜けのフロアを一直線に上っていく。シャンデリアの光が一帯を柔らかな光線で包んでいる。黄金に反射したエントランスは光の中へ上る階段舞台のように映った。
「いつまでも、ここにいちゃダメだと思うよ」
 柳井が真面目な顔で言った。ここの場所にという意味なのか、変わったことを言うなと黙っていた。
「僕はこの会社に長くいるつもりないから」
 長い睫の目を見開くようにした。
「仕事に貴賎はないっていうけど、この仕事してたら客に人間扱いされてないような気しないか」
 わたしには別にそんな嫌な体験はない。
 続けて黙っていると、
「昼はまだましかもしれん。夜はアホ死ねだとか、こないだなんか、配車でもめた客にさっきのケツの穴出さんかって、電話がかかってきた。他の人が代わって電話にでてくれて、ハイ、ケツの穴と言いますって返してたけどね」
 あはは…っと声をあげて笑ってしまった。柳井もつられて笑い出した。
「長くいるつもりで入ったわけでもないし。やりたいことあるしね」
 何、と訊くと当たったら教えてあげると言ってきた。美容師、服屋と雰囲気に思い当たる仕事をあげてみたが、みんな首を横にふる。
「お金に関係あること」
 ヒントをくれた。会社員というのは最も柳井の嫌がる仕事のように思えたし、今さら金融関係に就職もできないだろう。ギブアップした。
「当たらなかったから教えない。でも、ほんとに今だったら佐伯さんも転職できると思うよ、二十七歳になるんだっけ、今年で。だったらまだ求人あるから。考えとくほうがいいよ」
 柳井に言われるまで転職など考えもしなかった。
 男を追いかけても追いかけても捕まえられず、プライドもなくみじめったらしくもすがりついている。
 そんな淀みから抜け出せるかもしれない。考えると無性に会社を辞めたくなった。もう一度浮き上がりたい、間違えてしまった地点まで戻り、生き直すことができるのならと思う。
 リセットするには、繋がるものすべてを切り離すしかない。わたしの過去と現在を知る人のいない世界が必要となる。男にも内緒で転職して家も引っ越して姿を消してしまう。誰も知らないわたしを作るのだ。そんな空想をしていると、力が湧いて出てくるようだった。

 無線部の男の人で病気の人がいると、事務所のほうから聞こえてきた。男子トイレでいつも吐いている人がいるのだ。そういえばゲーゲー言っているのを聞いたことがある。二日酔いの誰かだとばかり思っていたのだが、トイレに近い事務所では一日おきに聞こえてくるのだそうだ。
「田丸さんじゃないですかね」
 中本が言った。
 みんなの視線が竹部に向く。
「知りませんよ。わたし」
 困ったように手をふった。
「お前ら別れたんか」
 有田が嬉しそうに口を挟む。
 それはない。この前、田丸が同棲することになったと教えてくれたのだ。
 その日の夕方、湯飲みをお盆に載せて廊下を歩いていると田丸がケンタッキーの袋を持って出勤してきた。急いだのか相変わらず大汗をかいていた。わたしは給湯室にはいり、田丸は休憩室に向かった。さげてきた湯飲み茶碗を洗っていると、休憩室から慌てて田丸が走り出てトイレに入った。すぐにゲーゲーと大きな音をたてた。中本のいうとおり田丸の身体に異常があるのだ。トイレからでてきたところを大丈夫かと聞くと、ちょっと体調が悪くて病院に行ってると言う。酒の飲みすぎで胃炎になったのではないかと思った。
 田丸と立ち話をしていると岡崎が出勤してきた。岡崎のことをなんとなく避けていたので気まずい。田丸を引き止めたかったがまた気分が悪くなったのかトイレに駆け込んだ。
「今いいかな」
 岡崎が休憩室に呼び入れた。
「僕の事どう思ってるの。男がいるのは知ってたよ。でも、そのうち別れてくれるって思ってた……。僕は場繋ぎってやつか」
 いきなりそう言い涙目になっている。
 岡崎は真剣に付きあうつもりだったのかと驚いた。
 わたしは逆に距離をおこうとしてたのだ。どう言えばいいのかと考えていると、
「そう思ってたらいいわけだね。わかった」
 と言って出て行ってしまった。
 わたしにも何か言わせてくれと思った。ひとりでは恋愛はできないのだ。うまくいかなかった責任が相手だけにあると決めつけるのは勝手すぎると、反論を巡らしていると田丸が入ってきた。酸味のある独特の臭いが部屋に充満する。
 顔が真っ白だった。
「気分悪いです。横にならして」
 と、机に突っ伏してしまった。事務所に行き救急車を呼んでもらった。
 田丸の病気はすい炎だった。
 事務所に母親から連絡が入っていて、面会もできるということだったので、すぐ病院に見舞いに行った。搬送中に田丸が言ったのか治療を受けていた病院に運ばれていたそうだ。 
 最近の病院は高層ビルが多くなったがここもそうだった。ひとつのビルなのに棟わけされ、北棟、南棟と新館などと案内されている。総合受付けにはデパートの顧客係のような若い女性が座っていて、患者や面会者に行き先を教えていた。田丸は消化器内科だった。
 四人部屋の入り口に田丸がみえた。
 黒ぶちのメガネを外した顔を始めてみた。遠視のレンズだったのか、本当の田丸の目はとても小さかった。点滴を受けているのだが、点滴袋の大きさはA四紙くらいある大きなものだった。疲れたのか文庫本を広げて胸の上に置いたまま天井を見ている。
 ベッドの横に立つと静かにわたしを見た。休憩室で身体を海老のように丸めて荒い息をしていたとは思えないほど安らかな表情をしている。入院から二日経っているせいだろうが、医者の力はすごいなと思う。
「だいぶ良くなった」
 文庫本を手に取ってタイトルを見ながら訊いた。村上春樹のノルウェーの森だった。
「ありがとう。イスに座って」
 声が嗄れていた。
「竹部さんは、もう来た」
「うん」
 ボストンバックがベッドの端に置かれている。入院中のものを揃えたのも竹部なのだろうか。
「着替えはどうしたの」
「お母さんが持ってきた」
 まだ疲れているようだ。早く帰るほうがよさそうだと思っていると。
「ここに来てから絶食、絶飲で。お腹から声がでない」
 弱く笑った。あんまり喋らないけれど、帰らずにいて欲しいと言った。本当に痛くてつらかったら、そんなこと言わないだろう。退屈なのかもしれない。
「岡崎君にね。遊びでつきあったって言って怒られたよ」
 暇つぶしとしてのネタはこれくらいしかない。
「純情だからなあ。ここだけの話だけど相談されてた、どうやったらいいかって」
 デートでの手順を聞きたがっていたそうだ。
「教えるんだけど、主導権を握られてて、どうにもなりませんって言うんだ」
 曽根崎警察の前まで誘導してくるのはわたしだった。あそこなら、さっとタクシーに乗って帰れる。公園やホテル街の近くを歩けば、岡崎に誘う口実を与えてしまうし、断れば傷つけてしまう。わたしなりに考えていたのだ。
「どう教えたの。田丸君の方法」
「方法なんてないですけど、基本はまめに電話したりすることかな。こっちの気持がどれだけかって相手に伝えるのは」
 紙袋の擦れる音がしたかと思ったら五十代くらいの女性が入ってきた。田丸とそっくりの顔をしている。クリーム色のジャケットに白のインナー、チャコールブラウンのタイトスカートという服装だった。靴、鞄も茶系に統一されて隙のないキャリアウーマンといった感じだった。
 田丸が会社の同僚だとわたしを紹介した。母親は息子の不摂生をみてやれなかったと、しきりに自分を卑下していた。生命保険の仕事柄、病気には詳しいらしく、すい炎のことを息子に聞かすように話してくれた。
 すい臓で作られる消化酵素は未熟なのだそうだ。他の臓器からでる酵素と反応してはじめてたんぱく質を分解する強力な酵素本来の働きを始めるらしい。すい臓で最初からその酵素が作られていたら自分のすい臓を溶かしてしまうのだ。すい炎はそのプログラムが狂って自分のすい臓を溶かしてしまおうとする病気といえる。
「自分で自分を攻撃するんですね」
 敵は外にいるのではなく内に潜むもの。
 癌もそうだ。もし癌細胞に意思があるのならパラサイトするだけでよいはずだ。人間が死んでしまうまで増殖をつづけようとするのは癌に生存の意思がないからではないか。癌もまたプログラムの狂い。違った細胞をつぎつぎコピーしてしまうという。
「田丸君のお母さんのお話聞いていたら、文句も言わず正常に動いている体のパーツ、パーツにお礼が言いたくなりますね。……奇跡みたい」
 大便が茶色いのも奇跡だと言いそうになり、つっかえてしまった。
 重症ではないが、軽症でもないらしく一ヵ月の入院加療ということだった。田丸が母親と話している隙に、胸に置かれた文庫本を取り、めくっていた。青春の書き込みを読みたかったのだ。それは奥付のところにあった。
(この小説が十年後に価値がある本として残っているのだろうか)と書いていた。村上春樹は今でもヒット作家だ。田丸の父親はこの問いになんと答えるのだろう。
 田丸の母親が買い物に行くといって出て行った。
「田丸君のお父さんって、いくつだっけ」
 ノルウェーの森から逆算するつもりできいた。
「たぶん四十八か四十九歳だったと思う」
 じゃあこの小説は三十歳くらいで読んでいたことになるなあと思った。
「お父さん、弁護士になったの遅かったから、本は息抜きに読んでたらしい。お母さんがずっと稼いで家族を養ってて、僕が小学校二年くらい、弁護士になったらしいんだけど、それからすぐ家を出て行った」
 眠そうに目をこすり始めた。
 戻って来た母親と入れ替わるように病室を出た。
 なぜか清々しい気分だった。それは田丸の母親のせいだと思う。いい服を着て、第一線で仕事をして、子育てもこなしてきた女の力のようなものが、自分にも移ったような気分だった。
 わたしは、その帰りに五冊も求人雑誌を買い、丹念に一ページずつめくっては赤いペンで丸く印をつけていった。

 深夜十一時。
 わたしは国道一号線を車で走っている。
 中古で買った車が車検から戻って来た。車はまだ走れると言われた。十年で八万キロ少し越えたくらいの走行距離だ。燃料タンクまわりのパイプに劣化があり、その交換に費用がかさんだ。
 昨日までの代車は日産のウイングロードだった。加速は良かったが、ハンドルが重く窓の位置がわたしの車より高かったせいで車庫入れに緊張した。わたしの車はRV車でも車高が高く、ハンドルも軽い。数日振りに戻ったマイカーに愛着を感じつつ走っていた。
 西天満の交差点で信号にかかった。そこは新御堂の入口がある大きな交差点だ。分離信号で右方向と左方向の信号を待つ。
 青になり、先頭のわたしはゆっくりアクセルを踏み込んだ。西天満のスロープを上っていく。あがりきったところで直角に右にカーブする。その左上には反対車線から分岐したランプウエイの側面がみえる。そこからまっすぐに下り本線に合流するのだ。
 新御堂沿いのビルの合間から赤い観覧車が現れる。
 わたしは少しスピードを落とし走る。一瞬だけビルの端にOSと白く見えるのだ。
 あの見舞いのあと、わたしは転職が決まり無線の仕事を辞めることになった。
 退職まであと数日という日に田丸は退院して、職場に復帰してきた。田丸は体重が増え、ぽっちゃりして違う人のように見えた。十キロ肥えたらしい。ただそのときも、汗はまだかいていた。
 営業の仕事が決まったと田丸に報告した。ペーパードライバーのくせに要免許と書かれた会社に応募したのだというと、練習できていいじゃないかと慰めてくれた。
 またご飯食べに行こうねと約束したが、竹部が嫌がっているのは知っていた。
 一年ほどしたある日、柳井から電話があった。
 田丸が死んだと言う。柳井も会社を辞めていたが、田丸とは連絡を取り合っていたらしい。竹部と婚約が決まって結婚披露宴の幹事を頼まれていたそうだ。そろそろ日取りも決まっただろうと思い電話してみたら、葬式からひと月後だったということだ。
 死因はすい臓の病気だった。田丸の母親の話では、痛みで転がるように苦しんでいるのに、田丸は酒を飲むのだそうだ。死ぬと思っていなかったから止めなかったのだろうか。飲まないと生きていけなかったのだろうか。
 竹部とは婚約解消していたらしいと話した。それも田丸の方からだったそうだ。竹部がかわいそうだと言うと、竹部は無線部の男とすでに結婚したという。まさか岡崎ではと訊くと、別の人の名前を言った。岡崎もすでに辞めていた。
 採用が決まるとすぐにマンションを引き払った。さすがに男に内緒ということはしなかったが、実家に戻ったのでこれまでのように会わなくなった。わたしが別れようと決断すると、男は慌てていた。
 半年くらいたったある日、男から電話があり、結婚すると聞かされた。職場の女の子を妊娠させてしまったからと溜息をついた。前の妻とわたしは感情が激しく、それを受け止めるのは苦しかったが、その反面実感のようなものがあったという。今度の女の子はそれがないのだという。その電話を切ったあと、わたしは長い時間何も手につかなかった。

 今の仕事について一年半になる。またマンションを借りてひとり暮らしをしている。
 わたしはひとりで仕事やってるよ。そんな悪くないよ、と誰に言うでもなく呟く。
 ハンドルをしっかり持ち、足の親指でアクセルの感覚を調節しながら淀川にかかる橋を渡る。まわりは百キロを越えたスピードでわたしの車を追い越している。
 わたしは八十キロくらいをキープして車間距離を保って走る。エンジンの音もいい。まだまだこの車と仕事ができそうだ。
 橋を渡りきり、わたしは車をしなやかに側道にすべりこませた。

 

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