崖とあっちゃん   奥 野 忠 昭



 幅のあまり広くはない道に面して進学校で有名な私立高校の体育館があり、その上から、西日が、俺がいる辻公園まで降ってくる。公園の周りには背高い桜の木が植えられていて、それらがところどころで陽を遮り、長い木の影を黄土色の地面に這わせている。
 ときどき、道路を越えて竹刀の音やかけ声が聞こえてくるが、今日は何の音もしない。人影もなく、無音の公園が日溜の中で老婆のように蹲っている。
 都市とは人がごったがえしているところかと思っていたのだがそれは繁華街でのことで、大きな道路や大型商店から一歩外れると、人も動物も鳥も消え、音のない空間が広がっている。人はみんなコンクリートの建物の中に囲い込まれ、外は、深閑とした森のようだ。
 俺がこの街に引っ越してきてからまだ二ヶ月も経っていない。そのためだろうか、なんだか外国にでも来ているようで、しっくりとしない。
 ここに引っ越してきた理由は、親しくしていた従兄弟が、マンションを購入後、一年もたたないうちに急に海外出張を命じられ、家族全員を引き連れ、出て行かなければならなくなり、しばらくの間、留守番がてらに入ってくれないかと頼まれたからである。数年前、俺が仕事一途で妻のことをまったくかまってやれず、子供の教育や家事にも協力しなかったので、怒った妻は一人息子を連れて出ていった。共同名義になっていた家はそのとき売り払らい、狭い賃貸アパートに入っていたので、こんないい話はないと、入居させてもらうことにした。
 公園のベンチに座ると、前に遊具が見える。コンクリートで造られた小山の形をした塊で、ちょうど巨大な正月用の鏡餅のような格好をして孤独に置かれている。側面にはミッキーマウスの絵が描かれていて、所々に窪みがあり、その窪みに足を入れて崖登りの遊びをするように作られている。頂上から滑り降りても危なくはない。しかし、たびたびこの公園に来ているのだが、子供がその遊具を使って遊んでいるのを見かけたことはない。時々、子供が遊んでいるが、それはサッカーか、ボール投げをしているかである。
 子供の頃、運動神経の鈍かった俺は、何をやっても人並みにはできなかったが、崖登りだけは得意だった。小さいときに育った山村には至る所に崖があり、崖を見るとすぐに登りたくなった。
 崖の壁面には、上に生えている木の根っこや竹の根がたくさん出ていてロープ代わりになり、それを握って、赤土の急斜面を一歩一歩慎重に登っていくと、別の世界に行けるようなわくわくとした気持ちになった。また、頂上に着いて下を覗き込むと、先ほどまでいたところが小さくなり、ほうり出してきたランドセルなども、小さな袋のようになっていて、まるで不思議な世界へやって来たような錯覚を覚えた。
 それに、自分の足でここまで登れたのだという充実感や、自分の中にもこのような力があったのかといった自信のようなものさえ感じられた。
 あのような新鮮な驚きや充実感は、以来、ほとんど味わったことがない。
 突然、公園の左側が少しざわついた。目を向けると、一人の少女が木立をぬって公園の中に入ってきて、すぐに、ベンチの一つに座った。
 すると突然、木立の中からたくさんの鳩が羽音をたてて彼女の前に舞い降りてきた。木の中にあんなにたくさんの鳩が留まっていたのか驚くほどだった。
 少女は、おそらくは小学校五、六年生ぐらいだろう。背筋を真っ直ぐにし、首を伸ばして座った。バレリーナのような姿勢だ。膝の上にビニールの袋を置き、足を振りながら鳩をじっと眺め、ときどき何か声をかけている。
 長い足が、陽をかき混ぜて輝いた。彼女が一人入ってきただけなのに、静かな公園は、急に生気を取り戻し、生き返ったようになった。
 彼女は袋から餌のようなものを取り出し、鳩たちにやった。鳩は、群れながら低く飛びあがり、他の鳩の上にのしかかるようにして、地面の餌に飛びついていく。
 少女はそれを楽しそうに眺めている。まるで鳩の群れの女王さまのように。
 陽が雲に隠れたのか、公園は一瞬暗くなった。今まで明るい風景に慣れていたためか、トンネルか洞窟にでも入ったような感じを受けた。女王さまと鳩たちも、瞬間、闇の中に消えた。
 と、それに応じるように、俺の目の前も暗くなり、立ちくらみのような感覚に襲われた。
 頭がくらくらして、意識が遠のき、身体が揺れた。嫌な感じである。最近、よくこういうことが起こる。年齢のせいなのだろうか。
 だが、しばらくすると、それはすぐにおさまった。が、今度は、「とにかく、この過酷な競争社会を生き延びるためには、思い切って企業の若返りを計らなければならないんだよ」という人事部長の声が蘇ってきた。一ヶ月ほど前のことだ。
「会社を愛していてくれたことはよくわかっている。十分すぎるほど貢献してくれた。だから最後の、究極の貢献をしてほしいんだよ」と、人事部長の猫なで声。さんざん悩んだあげくの結論だというような調子だった。さらに、それに付け加えるようにして、俺が会社のトイレの箱に入っていたとき、二人連れで入ってきた若手の部下の大声も蘇ってきた。
「人事部長、課長に勇退勧告を出したらしいですよ」
「へえ、そりゃいいよ。何しろ、課長の発想ときたら、古すぎるからな。戦後生まれがまだ新しい時代の人だなんて思ってるんだから」
「まったくその通り。課長が辞めれば、少しはましになりますよね。久々の人事部長のヒットじゃないですか」
 何を言ってやがるんだ、この野郎と、外へ飛び出していって、彼らを殴り倒したい衝動に駆られたが、じっと我慢しながら、しばらくの間便器に座っていると、最近、いっこうにヒット商品が出せないことや、取引先を回っているときによく言われる「もう少し、何とか、ぱっと目を引くような新しいものを造ってくださいよ」という言葉も蘇ってきた。
 俺もとうとうやきがまわってきたな、そろそろ会社を辞める潮時かもしれない、と思った。それに、お荷物と思われながらも会社にしがみついておれるほど俺の神経はタフではない。
 少女が立ち上がった。長身である。すらっとしていて子供のファッションモデルでも勤まりそうな体型である。
 少女が歩き出した。鳩たちは騒ぐ。飛び上がったり、後ろをついて歩いているやつもいる。彼女はもう鳩を見ない。ゆっくりと、だが力強く歩く。ひだのあるスカートから長い足がリズミカルに動く。歩くたびに脹ら脛が引き締まり、足首も締まる。それが心地よい生のリズムを打つ。
 公園の入り口には墓石のような目印が置かれているが、そこを左に曲がり、彼女はすぐに姿を消した。消えた後もしばらくは彼女の雰囲気が漂い、目が離せない。短いスカートの揺れと、緊張した脚の締まりが消えない。
 ふっと、彼女の後をつけたくなった。
 立ち上がり、公園を横切って入り口の方へ歩き出す。
 公園の前は広い道路だった。だが、車は一台も通っていない。西日だけがアスファルトの上で跳ね返っている。道路予定の先端の家が立ち退きを拒んでいるので、工事が進まず、行き止まりになっていて、道路の役目を果たしていないのだ。
 いつだったか、建物は破壊されないが人だけを殺す爆弾があると聞かされたことがあるが、その爆弾が投下されて、無人の街になったような不気味な感じである。
 少女の足は速い。すでに道の先のほうで豆粒ほどになっている。広い道路の行き止まりのところに近づいて、右の方へ横切りだした。広い道はそこで途切れているが、右横には狭い路地のような路がある。少女はそこへ折れ曲がった。肩を遙かに超えている長い髪の毛がスカートの裾といっしょに優雅に揺れた。
 俺は足を早め、道路の行き止まりまで近づいた。道路はかなりの傾斜で下っているので、早足でも疲れない。
 右側には少女の消えた通路が見える。左右には、建て替えによって新しくなった家やまだ昭和初期の建物のような古い家が混在しながら連なっている。通路は真っ直ぐなのでかなり遠くまで見通せるが、少女の姿はどこにも見えない。近くの住宅に入ったのか、それとも、脇の路地に消えたのか。
 少女を捜しに通路を行ってみようかとも思ったが、それではまるでストーカーのようなので止めた。
 俺は狭い路から顔を剥がすようにして道路の行き止まりの方に目を向けた。
 グリーン色の金網とそれに囲われた草原が見えた。草原は秋も深まっているのに、若葉のようなみずみずしい雑草であふれかえっていた。
 金網には「道路予定地」と書かれた看板がくくりつけられていて、その向こうはただの空だった。ところどころで遠くのビルや建物の屋根が見えた。
 金網沿いには細い道があり、俺はそれをつたうようにして囲まれた土地の突端まで行ってみた。
 そこは崖だった。五、六メートルはあるだろう崖が急斜面で下っている。
 崖下も金網に囲われているところもあるが、そうでないところもあった。そこは、雑草も生えていない赤土の小山か、放置された花畑だった。さらにその中に一軒の古い平屋が残されていた。
 屋根には青いビニールが被せられ、窓には板が打ち付けられていたが、廃屋という雰囲気はなかった。ひょっとしてまだ人が住んでいるのかもしれない。周りにちょっとした野菜畑があり、玄関先には植木鉢が置かれていた。
 俺は何となくそれらに引きつけられ、しばらくの間、じっと見ていた。どうも以前どこかで見たことのある風景のように思われてならなかった。途端、はっとした。「ええっ」と小さな声を出したほどだ。おいおい、これはいったいどうしたことだ。
 四十年以上も前、俺がまだ小学校五年生ぐらいの頃、小学校近くの崖下のところに伯母の家があったが、その伯母の家とそっくりではないか。俺は何だかタイムスリップでもしたような錯覚を覚えた。
 伯母は子供が産めない身体だということで離婚され、その家で独り暮らしをしていた。心臓が悪いことが原因らしく、いつもむくんだ顔をしていたが、俺が行くとたいへん喜んでくれて、いろいろと世話をやいてくれた。
 横のほうを見回すと、崖の左端の隅に下に降りる梯子のような階段があることがわかった。俺は無意識のうちにそこに向かって歩き出した。
 最上段の脇に、小さな石の道標が立っていて「これより下は鴬谷」とあった。
 そういえば、伯母の家の周りも鶯谷と呼ばれていた。周りには竹藪があり、春には鴬がさかんに鳴いていた。
 あれは伯母の家だ、俺の前に、今、確かに伯母の家がある、そう思えた。
 俺は子供のように一気に階段を降りた。
 伯母の家の玄関に着くと、まず、植木鉢を眺めた。伯母は花が好きなので、いつも植木鉢をたくさん置き、草花を育てていた。
 植木鉢の草花はほとんどは枯れてはいたが、ただ一つだけ、根っこのところから、細長い茎が二本伸びていて、先に赤い花をつけていた。枯草に取り囲まれた黒っぽい赤色は、少しどぎつく、燠火のような感じを受けた。
 前方には朽ちている引き戸があった。俺はその前でしばらくは立ち止まった。中にまだ人が住んでいて、戸を開けると叱られそうな気がしてならなかったが、徐々に、そんなことはありえない、ここはすでに廃屋で、ここまで来て、中に入らない手はないだろうと思えてきた。
 思い切って戸に手をかけ、力いっぱい引いた。戸は案外簡単に開いた。普通なら鍵がかかっているところなのだが、鍵さえも朽ちていた。
 前には狭いコンクリートの土間があり、階段代わりの置き石があって、板張りの半畳程度の玄関がつづき、その向こうが畳の部屋になっていた。左側は板の間で、流しと水道の蛇口が見えた。玄関の右側がトイレらしい。奥の左側にももう一つ部屋があり、それらは伯母の家とそっくりだった。
 ところどころに窓があり、入ってくる光のために部屋は明るく、埃もなかった。畳も案外いたんでおらず、先ほどまで人がいたような気配さえ漂っていた。トイレあたりからふっと人が現れそうな感じがするが、恐ろしくはなかった。現れても、それはきっと伯母だろうと思えた。
 伯母はよく奥の部屋で本を読んでいた。ときどき、布団を敷いて寝ている時もあったが、俺が行くとうれしそうに起きあがり、「よく来てくれたね、よく来てくれたね」と何度も言った。戸棚から小さな缶を取り出してきて飴やおかきをくれた。
 伯母に会った最後の日も、やはり飴とおかきをくれた。俺はそれらを部屋にある唯一の家具らしいテーブルの上に腰を下ろし、座って食べた。伯母は俺がテーブルの上に腰をかけても決して叱らなかった。
 俺がおかきを食べていると伯母もテーブルの上に腰をおろし、いっしょに食べた。
 いつも伯母は俺の横に来て、このごろは子供たちの中でどんな遊びがはやっているのかとか、学校ではどんなことをしているのかとか尋ねた。また、こんな話を知っているかと言って、俺が喜びそうな話をしてくれることもあった。
 しかし、その日は伯母は無口だった。俺に寄り添うようにしてただ黙々とお菓子を食べていた。伯母の横顔はいつもより黒っぽかった。それに、かなりはれぼったかった。おかきは塩味がするのだが、塩が身体にはよくないと言って、普段はほとんど食べなかったのに、その日は俺と同じようにして食べた。それがうれしかった。それで、俺はいつもよりも機嫌がよく、ずっとにこにこしていた。両足を長く投げ出し、時々足を揺すりながら食べた。
「あっちゃん、足が長いね」
 伯母は突然食べるのを止め、俺の足をしげしげと眺めた。俺の足は他の子よりも少し長かった。友達からよく「おまえの足は長いなあ」と言われた。そう言われると、他に褒めてもらうものなどまったくなかったので、得意になった。特に女の子から言われるとうれしかった。「あんたの足、女の子みたいにきれい」と言われたこともある。「女の子みたい」と言われたことが気になって、じっくりと眺めたことがあり、そんなことはないと思った。第一、彼女たちよりも黒いし、頑丈そうだった。ただ、皮膚はすべすべしていてみずみずしく、まるで果物の皮のようだと思った。
 俺は、足を折り曲げ、かかとをテーブルの端に置き、足全体がよく見えるようにした。
 伯母はいっそう俺にくっつき、足を眺めていた。
「ほんとうにきれい、若葉みたい」
 俺の足のくるぶしのところに手を置き、掌で包むようにして撫でた。
 伯母の掌は透き通っていて、青い血管が透けて見えた。顔にはそばかすがあり、くすんで黒っぽかったのに比べて、腕の肌は美しかった。特に長くて細い指が動くと、指がダンスしているように思えた。俺のくるぶしの上で美しい指が優雅に舞った。俺は大人の女の指って美しいものだとつくづく思った。若い音楽の先生がピアノを弾いているのを横で眺めたことがあるが、そのときの美しい指の動きとよく似ていた。伯母は、自分の母よりもかなり年上だと思っていたのだが、手を見ていると、かえって伯母の方が若々しかった。
 伯母は腕を軽く背に回し、俺を抱えるようにした。
「かわいいわね、あっちゃん」
 俺を抱く伯母の腕の力が少しきつくなった。
「おばさんも子供産みたかったな、あっちゃんみたいな子」
「産めるよ、まだ。谷口君のお母さんなんか、この間弟を産んだんだよ。お母さんよりもずっと年上なのに」
 伯母は黙っていた。悪いことを言ったのかもしれない。
 伯母は、顔を俺の肩にくっつけ、小さく震えた。
「だめだよ。生きているのがやっとなのに」
 それはほんとうかもしれない。母がいつか言っていた。「洋子おばさんの心臓、かなり悪いらしいわ。もう長くないってお医者さんに言われているの。昭弘、せいぜい、おばさんを大事にしてやってね」
 伯母は片方の手で俺を抱え、もう一方の手で、俺の脹ら脛を撫でた。少しくすぐったかったが、我慢した。
「若いっていいわね、あっちゃんにはこれからいくらでも長い時間があるものね」
 伯母は俺を両手で抱え込んだ。俺は少しいやな気がした。なんだか赤ん坊にされているような気がしたのだ。
 伯母はさらに俺の顔が真正面になるようにした。俺の鼻が伯母の首筋にあたった。
「あっちゃんにお願いがあるの」
 俺は少し緊張した。何だか異様な雰囲気が漂ってくる。いつもの伯母とは少し違うようだ。
 伯母は俺をぐっと引き寄せ、息が詰まるほどきつく抱きしめた。力を入れたためだろうか、苦しそうな息が額の上に降りそそいだ。心臓の鼓動が伝わってくる。それでも俺を抱く力を緩めない。伯母に残された最後の力を振り絞っているように思えた。
「おばちゃん、赤ちゃんを産んだことがないでしょう。だから赤ちゃんにおっぱいをやったことがないの」
 伯母は、突然、毛糸のセーターをたくし上げ、白いメリヤスの下着もたくし上げた。
 突き出された胸の肌は少し骨張っていたが、青白くて美しかった。乳房はさらに生気に満ち、ふっくらと突き出ていて、透き通った果実のように輝いていた。乳暈は紅色で、大きな花のように見えた。
「あっちゃん。おっぱい吸って」
 柔らかな肉魂が頬や鼻先に心地よく触れてきた。母親とはまったく違う匂いがする。乳首が額に触れてくすぐったい。
 伯母の言っていることががよくわからなかった。俺が赤ん坊みたいになって、おっぱいを吸えって。考えられない。もう五年生になっていることがわかっていないのか。
「赤ん坊を産みたかったわ。私」
 伯母はおっぱいを俺の額や鼻先にぐんぐんと押しつけてくる。
 俺は両手に力を入れ、伯母の腹や胴体を押すが、びくともしない。
「あいつおっぱいを吸いよった。あんなに大きくなってもまだおっぱい吸いよったんやで」
 突然、耳元であざけりの声が聞こえた。友達の声か自分の声かわからない。 
「俺は赤ん坊と違うわい。もう五年生や」
 乳房が顔に触れないように、伯母の胸を必死で押し返した。
「おっぱいなんか吸えるものか」
 今度は足を跳ね上げ、肩を揺すり、腕を振り回した。
 ついに、俺の力が勝った。伯母は俺を抱えたままテーブルの上に倒れ、その拍子に俺の身体は彼女の両腕からすぽっと抜けた。よかった、助かったという気がした。
 伯母は、頭をテーブルに打ち付け、あああと、悲しみとも苦しみともつかない声を出した。
 俺は、素早く立ち上がり、伯母を振り払うようにして玄関のほうへ歩いていった。
 運動靴を履くと、引き戸を開け、崖のほうへと向かった。
「あっちゃん、あっちゃん」
 後から声がした。
「おばちゃんが悪かった、帰ってきて」
 だが、俺はそれを無視した。
 陽がたたくように降っていた。幹と枝だけになった雑木まで、明るく輝き、ざわついていた。
 俺は崖に向かって真っ直ぐに歩いた。なぜだかわからないが、こうなった以上、一気に崖を登らなければならないと思った。伯母と俺とはもう同じ場所にはおれないと。
 崖を見上げた。崖は俺を誘うように立っていた。
 確かに、この崖は、村で一番高かった。それに、崖下には大きな岩があって、転げれば、岩で頭を打ち、大怪我をしかねない。「おばちゃんの家の崖だけは絶対に登ってはいけない」と、母は口酸っぱく注意していた。伯母にも「もしあの子が崖を登るのを見つけたら、絶対に止めてくれ」と頼んでいたのを聞いたことがある。
 俺は崖の窪みに足を置き、木の根っこをつかみ、身体をぴったりと崖に張り付けた。足に力を入れ、同時に腕にも力を込めて根っこを引っ張ると、身体はふんわりと宙に浮いた。ようし、うまくいった。こんな崖ぐらいたいしたことはない。俺は同じようなことを何度も繰り返し、ぐいぐいと身体を持ち上げていった。真ん中よりも上になったとき、玄関あたりに人の気配がした。伯母が出てきたに違いない。止められるかもしれないと思ったが、何も言わなかった。ただじっとこちらを眺めているふうだ。伯母の視線が背や足に貼り付いてくる。
 俺の身体はとまらない。いつもよりも軽やかに動いた。崖はなんなく登れた。頂上にも簡単にたどり着けた。
「どうだ、おばちゃん。たいしたものたろう」
 俺は得意げな気持ちになった。
「悔しかったら登ってこい。へなちょこのおばちゃん」
 俺は身を反転させ、崖下を眺めた。だが、いるはずの伯母はいなかった。ただ、小さくてみすぼらしい家が、淋しく建っているだけだった。玄関の植木鉢の草花も鮮明に見えたが、水をやり忘れたためだろうか、この間までみずみずしかったそれらは全部しおれていた。
 俺は、なおも得意げな気持ちを持続させながら、玄関に向かって、つばを吐きかけた。
 さらには、身をもとに戻すと、再び、元気よく崖上に向かって登り始めた。陽気な気分に身を浸しながら。
 ………。
 俺は、ここまで思い出したとき、ふと、思考を中断させた。待てよ、という思いがしたのだ。
 おい、少しヘンではないのか。本当に、俺はそんな気分で登り始めたのか?
 ………。
 いや、違うと、思った。実感はそうではない。俺はむしろ逆の気分だった。あのとき、俺はひどく悲しかったように思う。
 すると、こん度は、先ほど、あれほどありありと思い浮かべた伯母とのやりとりだって、どうも怪しくなってきた。あれではまるで伯母とは仲違いをして別れたようになるのだが、そんなことはなかった。伯母とはずっと、仲がよかった。
 ひょっとして、五年生ぐらいの男の子なら、こんな思いを抱き、こんなことをするだろうといった、既成概念にとらわれて、イメージの流れに任せて、本当のこととは違うことを思い浮かべたのかもしれない。
 それなら、俺はまだ、本当のことを思い出してはいない。では、いったい本当は?
 いつか小耳に挟んだ言葉さえ思い浮かんできた。
「記憶はたびたび嘘をつく」
 俺は、戸惑いながら、しばらくの間部屋の中でじっと佇んでいた。
 何か新しいことが思い浮かんでこないかと、必死で探ったが、先ほど以上のことは何一つ思い浮かんでこなかった。
 そうだ。この家の横にも崖がある。あの崖を登りさえすれば何とかなりそうだ。あそこでなら、ひょっとして何か新しいことを思い出せるかもしれない。
 俺は慌てて部屋を出て、崖下まで歩いて行った。
 崖の表面はコンクリートで覆われていて土肌は見えなかった。しかし、かなり古びていて、至る所に割れ目があり、登る場合にはけっこう足場になるような気がした。
 よし、一つ、これを登ってみるか。
 地上から五十センチも離れていないところに最初の足場があり、そこに左足をかけ、崖のコンクリートに身体を貼り付けた。身体は思ったよりも重たかった。片ほうの足裏に重さを集中させると、足元のコンクリートが少し崩れた。四十年の澱がたっぷりとこびり付いていることがよくわかった。
 だが、一方で、まだまだという気持ちも起こってきた。まだまだ俺は若い。このくらいの崖ならなんなく登れる。
 さらに、右足の足場を探し、手の置き場も探した。おあつらえの場所に穴が開いていた。うまくいった。大丈夫。自信が湧いてきた。同じ動作を何回かくり返すと、かなりのところまで登れた。
 俺は無意識に今まで登ってきた崖を見おろした。
 と、その瞬間、ああっ、と思った。俺の前に不意に葬儀の光景がと思い浮かんできたのだ。
 そうだ、そういえば俺は、伯母の出棺を崖上から眺めていたのだ。
 伯母は、あのことがあってから一ヶ月もたたないうちに死んだ。心臓の発作で。
 伯母の家には何だか行きづらくて、俺は、あれ以来、一度も伯母には会ってはいなかった。
 数人の黒ずくめの大人たちが玄関の脇に並んでいた。親戚のおじさんたちに抱えられた棺が静かに玄関から出てきた。
 俺は、出口から崖の方に運ばれてくる棺を見ながら、その中に、伯母の姿をありありと思い浮かべていた。
 棺の中で、顔のところだけは何にも被われず、伯母はこちらを向いていた。頬は真っ白だが、いつもの顔だった。
 それを見たとき、俺は「あっちゃん、おっぱい吸って」と言って、俺を優しく抱きしめたときの伯母をありありと思い浮かべていた。
 あのときは、伯母は、元気とは言えないまでも、まだ生気が残っていた。伯母の頬から柔らかなぬくもりが伝わってきた。
「どうしたの、恥ずかしいの」
 俺は天井を向いたり、首を横にねじったりしながら、どうしようかと迷った。
 俺は何も答えず、黙って同じようなことを繰り返した。
「いいよ、あっちゃん、ごめん、へんなこと言って」
俺は、お餅のような丸みのおっぱいに再び目を落とした。乳首に目をやった。母親の乳首は大きく突き出ているが、伯母のは豆のように小さかった。俺は、本当は乳首に唇をつけ、思いっきり吸ってみたかった。
「それはそうだよね、恥ずかしいよね、もう五年生だもの」
 伯母は、下着も、上着も元通りにした。
 セーターの上からもおっぱいの形ははっきりと見えていた。俺は無意識に片腕を上着の上にのばしていた。これも無意識に伯母のおっぱいを力いっぱい握った。一瞬、伯母は驚いたが、すぐににっこりと笑った。
「ほんとうに、あっちゃんはかわいいね」
 伯母の掌がすっと俺の足首にのびてきた。柔らかな感触が足首から向こう脛に伝わって、俺の肌が緊張した。掌が何度も俺の足を撫でた。なめらかな感触が俺の心をかきみだした。
 手は上部の方に滑ってきて、ズボンの境目を超え、さらに奥深くに差し入れられ、付け根のところまで達した。そのあたりの俺の肌が特に敏感なようで刷毛で撫でられるような快感を感じた。掌がときどき性器の袋にも性器そのものにもあたった。伯母の掌は魔法づかいのようで、少し触れられただけなのに、頭の芯まで電気が走った。
 伯母の目の前の腕も、おっぱいのようにふっくらとして、美しかった。
「あっちゃんは、これからよね」
 溶けるような肉感が足の付け根の周りを回転し、性器が突起したことがわかった。俺は伯母の掌が性器に当たるようにそっと腰をひねった。溶けるような快感が頭の芯を突き抜けた。
 どうしたことだ、と俺は戸惑った。伯母は驚いたようにズボンから手を引っ込め、足先へと愛撫が移った。
「若いっていいことよね、若いっていいことよね」
 伯母の手は、じっとしておれないように激しく動き、再び、足首から脹ら脛へ、さらに、パンツを越えて、足の付け根に。
「おばちゃんは、もうだめだけれど、あっちゃんはこれからよね」
 伯母は悲しそうな目で俺を眺めたが、俺は何も言えなかった。
 俺も伯母の首に腕をまわし、身体を強くっつけた。伯母の胸が目の前に近づき、大きく揺れ、先ほど見たおっぱいの柔らかさを思い起こした。乳首が立っていて、俺に吸ってほしがっているように思えた。
 伯母のセーターの下に手をかけ、上にずりあげた。伯母は何も言わず、いとおしそうに俺の足を撫でつづけている。ただ、吐く息が少し強くなった。
 首のところまでずり上げると、下着のボタンをはずし、おっぱいを握ってひとつ外に出し、ゆっくりと鼻をうずめた。
 肉の温かみが唇と頬や鼻先に伝わった。首にまわしていた手を前に回し、両手で乳房を挟み込みながら、顔を乳房の中に深く沈め、乳首を吸った。かすかな音が鳴った。
 伯母は俺の背に腕をまわして、きつく抱いた。俺は伯母の中に深く入っていくように思えた。伯母は、ときどき、声でないような声を出し、強い息が俺の首筋に吐かれた。そのうちに、心臓の鼓動が俺の頬にもわかるほどになった。吐く息が苦しそうになり、声もまた苦しさに変わった。
 俺は吸うのを止め、乳房から顔を離した。伯母は、途端に、ひいひいと咳き込んだ。俺から離れると、座っていたテーブルに両手をつき、身体をかろうじて支えた。
 痛い痛いと言って心臓を押さえ、顔を顰めた。咳きは止まらない。俺が慌てて伯母の背中をさすると、伯母は、すぐ横に置いてあった袋の中から薬をとりだし、それを飲もうとした。俺は流しへ走っていき、水を持ってきて手渡した。伯母は黙って薬と水とを交互に飲み、床を見つめたまま、しばらく発作のおさまるのを待った。
「ありがとう、あっちゃん」
 咳き込みの間をぬって、苦しそうに言った。
「だめだねえ、おばちゃんは。すぐ咳き込んだりして」
 伯母の腕には先ほどの力はもうなかった。腕や掌や、見えている肌のすべてから生気が消えていた。
 咳き込みが治まると、再び、俺たちはくっついて座った。
 伯母にはもう何をする気力もなく、掌をテーブルに置き、身を支えるのがやっとだった。
「あっちゃん、心配かけたね、でも、もう大丈夫、帰っていいよ」
 伯母は、顔中に皺を寄せ、悲しそうな表情をつづけた。俺は何か伯母に言ってやりたかったが言葉が見つからなかった。長い間、伯母にくっついたまま座っていた。
「ありがとう、あっちゃん。お母さんが心配するから」
 俺は立ち上がった。靴を履いて、戸を開けると、狂うような悲しさが襲ってきた。それを避けようと、全速力で崖へと走り、一気に壁をよじ登った。だが、悲しさはまったく衰えなかった。
 棺は、親戚のおじさんたちに抱えられて、すでに急な階段を降り始めた。
 伯母は必死で顔を上げてこちらを振り返っている。
「さようなら、あっちゃん、おばちゃんはね、あの世へ行っても、きっとあっちゃんのことが大好きだと思うよ」
 ………。
 そうか、やっぱり、そういうことだったのか、と俺は思った。
 今思い出したことがきっと本当のことに違いない。いや、そう思うことにする。
 西日もようやく弱まり出した。風が吹いてきて、辺りの雑草をゆらした。
 意識がいっそうはっきりと現実にかえった。足首が痛み出し、上部の割れ目を握りしめていた掌にも痛みを感じた。
 さあ、もう少しだ。後三回ほど足場を登れば頂上につく。そうすれば、俺はまだ若いのだと立証できる。まだ伯母ではなく崖上の人だと。
 足場を確認し、足を上げようとした途端、上から土が降ってきた。驚いて、崖上を見上げた。
 最初に赤い線の入った運動靴が見え、次に白いストッキングが見え、さらに、樹液をいっぱい含んだ、磨かれた若木の幹のような少女の素足が見えた。
 少女が一人崖上に立っていた。それは先ほどの少女だった。不思議そうに、あるいは警戒するようにこちらを睨んでいる。
 彼女は、片足を振るようにして前に上げた。そのたびに、滑らかな足の後の側面が見え、その柔らかな肌が、土からの照り返しで黄色の乳液のように輝いた。
 まぶしかった。「若い女の子を見ると、まぶしいね」と何度か中年の男から聞いたことがあるが、比喩としても大げさ過ぎはしまいかと思っていたのだが、それは比喩でさえなく、まったく事実であることがわかった。
 あの足首を握りしめたいと狂うように思った。みずみずしい肌の上に俺の掌を重ねたい。かつて伯母が俺にしたように、俺もまた彼女の足の付け根にまで掌を滑り込ませたい。
 少女の足振りがだんだんと大きくなった。
 俺はもう一段上に登るのに都合のよい窪みと手をかける突起を見つけると、一気に身体を持ち上げた。少女の肌が近づいた。産毛さえ見える。
 と、そのとき、大きな石の塊が崖上におかれているのに気づいた。それを少女が今にも蹴り落とそうとしていた。危ない。石をまともに食らえば大怪我をする。
 足が振られ、石の塊が動く。俺は頭を振り、身体を大きく傾けてそれを避けた。と、途端、足下の穴が崩れ、手にも強い力がかかって、身体を持ちこたえられなくなった。横を石塊がかすめたが、バランスを崩した身体は、壁を擦って、地面に転げ落ちた。
 衝撃はそれほどでもなかったが、足や腕に擦り傷は作ったようだ。
 起きあがり、上着に付いた土を払いながら、上を見上げた。
 少女は崖から顔を突き出し、俺の方を覗き込んでいた。
 全身に鈍い痛みが生じ、少し顔をしかめた。それがきっと滑稽な顔になっていたのに違いない。顔をしかめると同時に少女が大声を出して笑い出した。侮蔑している感じではなく、無邪気な笑いだった。明るい声が崖に反射した。
 俺の視線が彼女の目をとらえた。と、彼女は突然、目尻の端に両掌を置き、舌まで出して、あかんべをした。
 危ないじゃないか、何をする、と怒鳴りつけようとしたが、その顔がおもしろかったので俺もつい笑ってしまった。少女は口を突き出し、あかんべをしつづける。
「あんた、鳩が好きなの、いつも公園に行っているよね」
 俺が笑いを止め、彼女にそう言葉をかけようとした途端、彼女は顔を引っ込めた。と同時に姿も消した。
 俺は、慌てて、崖上がもっとよく見渡せる位置にまで下がった。
 だが、崖上にはもう少女はいなかった。敏捷な彼女は、身を翻して、路地の奥に消えたのだ。生い茂った雑草を乗せた崖だけが、以前よりも高々と、俺を遮るようにそびえていた。

 

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