このところ常用の腕時計の調子がよろしくない。一年ばかりまえに電池交換したばかりなのに、はや時間の遅れが生じてきたのだ。どうも電池切れがはやすぎはしないか、知人にそのことを話すと電池の寿命なんて大方そんなものだという。自分としては、二年ぐらいは持った気がしていたのだが。
そんなことを思っているときに、テレビで阪神淡路大震災から今年で丁度十年目の特集番組を放映していた。たしか、三万円したこの時計を買ったのも震災の年だった、十年も使ったらもういいか、と思い切りよく屑籠へ時計を放り込んだ。
十年まえといえば自分が文学学校に入った年だ。入校式では同人の先達Oさんからいきなり『せる』誌を手渡されたのも、多くの文学仲間と知り合ったのも十年まえということになる。十年ひと昔というけれど、それが短いか長いかは人それぞれだろうが、自分にとっては文学にかかわりを持ってからの濃密な時は一瞬に過ぎた思いだ。
あの当時は、文校において発表される作品のなかにも震災を題材としたものが多くあって、阪神間に住む自分としても、この体験を書かねばとばかりに震災小説を書いた。筆達者な他の作品に気後れして、机の引き出しにしまい込んだままだった作品をいま取り出して読むと、当然のことながら稚拙さにひとり赤面する。
しかしながら、そうした未熟な文章であっても激震が襲った瞬間や直後の生々しい描写は、十年を経たいま思い出しても書けない迫力がある。そうだったな、そんな事があったな、と改めて思い出しては当時の記憶の風化に愕然とする。
そう思うと過ぎ去った十年間が愛おしく感じられ、屑籠に捨てた時計を再び拾い上げた。もう一度だけ電池を交換してみよう。安価な使い捨て時計で事足りる自分にとっては、三万円も出して時計を買う気になるなんてことは今後あるまいと思えた。
ところで今号は新人二人の作品と、ベテランの書き手との組み合わせという迫力ある内容になった。若い女性のみずみずしい感性のほとばしりと、長きにわたり創作活動にかかわってこられたベテランのコクのある味わいと、まさにいまの『せる』を象徴する誌面を楽しんでいただけたらと思います。
(林)
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