「閉店だよ!」その後   益池 成和


 三年続けて高橋真梨子の秋のコンサートに足を運んでいる。いずれも誰か二人を誘い、三人で出かけている。
 クラシック音楽にしろポップスにしろ、あるいは映画鑑賞であったとしても、たいていは一人で行くのが常なのだが、何故か高橋真梨子のコンサートだけは例外になっている。殊に女性に人気の人だけに、誘えば歓迎されることが多いということがある。又それだけに、男一人では行きづらいということもあってそのようなことになっている。 
 それにしても昨年のコンサートのときは、フェスティバルホールの玄関先で顔を合わせた折にはおおいに戸惑ったものであった。その日誘った二人の女性は、とても親しい間柄とは言えなかったからである。一人は以前この欄で「閉店だよ!」と題してエッセイのネタにさせてもらった喫茶『ラブ』のママである。もう一人のほうも、今も八尾のビルの一室でこじんまりとしたスナックを一人で切り盛りしている人である。
 この二ヶ月ほど前、八尾のスナックのママから、京都の仁和寺で行われた南こうせつの野外コンサートのチケットをプレゼントされていた。当日の誘いはそのお返しのつもりだった。そして、ラブのママを誘ってみたのは、気晴らしの足しにでもなればという思いがあってのことであった。彼女は半年前に、母親をながい看病の末見送っていて、そしてその二ヵ月後には、自分の夫までも亡くしてしまっていたからである。
 私は「閉店だよ!」という文で、今はない喫茶『ラブ』の最後の日の様子をここに書いた。が、実はそのときに書き漏らしたことがひとつあった。書き漏らしたというより、書けなかったというのがより正しい表現ではあるのだが。
 それは、その日のマスターがとったひとつの行為であった。長年続いた店の最後の日だけに、客は僅かなお金を払っただけで飲み放題食べ放題で入り乱れ、店の夫婦も挨拶も早々に、席を渡り歩いては、その喧騒の中に好んで紛れ込んでは騒ぎ散らしていた。
 マスターが一人でウイスキーのグラスをぶらつかせながらやって来たのは、店の最後の宴が始まって一時間以上も経ってからのことであった。私は中学の同窓生と一緒の席にいた。ふやけた笑顔で現れたマスターは隣に座り込むと、まずは二人のグラスに酒を注ぎ、感謝の言葉を口にしては何度も頭を下げた。そして、それぞれに握手を求めては抱き合った。
 そこまではよかった。三人で寂しくなるなあと言い合ったあと、ふいにマスターがグラスをテーブルに置いたかと思うと、引きつった赤ら顔をのぞかせたまま、「海岸の樹でやってみたんやけど、死にぞこなったわ。ロープが二回とも切れよるんや」と言いながら、タートルネックの襟の辺りを右手でずり下げた。露わになった浅黒い首には、縄の痕のようなものが一筋横に走っていた。
 行きつけの店を失ってからのラブの飲み仲間のあいだでは、マスターの首筋の事は、本気じゃなかった、一種のパフォーマンスと言うことで落ち着いてしまった。誰も本気だとは思いたくなかったのである。 
 酔いが回ればママ相手に暴言を吐き、女性蔑視の言葉もいとわなかったマスターではあったが、決して恵まれた幼少期を過ごしたわけではない事は常連客の誰もが知っていた。私も何度か本人の口から、親戚の者にだまされた、と言うようなことを聞かされてもいた。
 どういういきさつがあってのことか分からないが、マスターは早くに両親と死に別れ、受け継ぐべき家の財産を親代わりになった叔父にていよく乗っ取られてしまった、とよく言っていた。店の閉鎖もその事が絡んでいて、夫婦で何度も裁判所に足を運んだ末の退去で、最後に店の鍵を手渡した相手が甥の弁護士だったと言う話であった。
 ラブのママは母親のことはもちろんのこと、マスターのこともかつての常連客には誰一人として知らせなかった。余計な気遣いをさせたくなかったに違いない。
 私がこのことを知ったのは、猛暑のお盆の一週間ばかりあとの事であった。ラブが消滅してしまったあとも別の店に場所を移し、一週間に一度は顔を会わす飲み友達からのメールで知ったのだが、マスターの事はその日のうちに、彼女の携帯を通じて瞬く間にかつての常連客に知れ渡った。そして、その事実を知らされた誰もが、もしかしてと思ったという。
 高橋真梨子のコンサートが終わると、三人で八尾のスナックに向かうことになった。八尾のスナックのママも、南こうせつのコンサートで顔を会わせたときには、九月いっぱいで店をたたみ、現在の仕事から遠ざかるようなことを話していたのである。それが、常連客の助言もあって、店名も変え、場所を移して新たな店を始めたばかりであった。
 行ってみると常連客らしき男性が一人、カウンターの隅で陣取っていた。ママの顔を見たとたん、留守を任されていたアルバイトの若い女の子が安心したような顔を覗かせたものであった。そこで一時間半ばかりラブのママと話し込んだ。話し込んだと言うより、彼女の身に起こった半年余りの事を黙って聞いていたと言うべきだろう。
 とりわけ彼女は、母親を三ヶ月以上も毎日のように病室に泊まりこんで看病出来たことに満足感を抱いている様子だった。当然マスターの話も出てきた。
 母親のことも一応の落ち着きを見せたころ、ふいにマスターが海を見に行こうか、とママを誘ったという。ママは断った。一人で行って来たら、と言い添えて。一人で出かけたマスターは車で日本海まで出て、西に移動しながらも毎日自宅に電話をして来たという。数日たって母親の四十九日も控えていたこともあり、電話でそろそろ帰ってくるように言ったところ、マスターは明日戻ると答えた。そのやり取りが二人の最後の会話となった。戻るはずの日、ママのもとに入った電話は現場の警察からのものであった。単独の自動車事故という扱いであった。
 ママはその夜、店の開店祝いも兼ねて、ブランデーと焼酎を一本ずつキープして帰って行った。
 次の日、岩崎宏美のコンサートに足を運んだ。この人も、大阪に来ればここ数年毎回のように出向いている。前夜のものとは違って会場も小さく、舞台装置なども控えめだったが、実にいいコンサートだった。何度か通った彼女のコンサートのうちでも、一番の出来ではなかろうか。
 コンサートは二部形式になっていた。前半は彼女の持ち歌ばかりの言わばヒットメドレーであった。休憩をはさんだあとの第二部は、デビュー三十周年記念のコンサートと言うだけあって、彼女がこれまでのコンサートやレコードで愛唱してきた外国のスタンダードナンバーや、自ら出演したヒットミュージカルの曲など、バラード中心の構成になっていた。
 私は高音のはりがあり、透明感あふれる声に芸術ホールの片隅で一人酔いしれながら、いつの間にか、前夜に会ったママのことを考えていた。そして、早すぎる死といっていい夫であったマスターの事も。
 なぜか無性に哀しくなった。言い様もなく切なくもなっていた。張りのある高音が落ち着いたあと、どうかすると微妙に声が震え、涙声のように響いてしまうこの歌手の声質のせいかもしれなかったが。

 

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