死刑執行官   奥野 忠昭


 内田健治は、背伸びを二度繰り返してから窓を開け、大きく息を吸い込んで、夜の残滓を思いっきり外に吐き出した。眠けがとれ、かすかに生気が甦ってきた。
 窓枠に両手をかけ、身体を少し乗り出すようにして、外を眺めた。刑務官用の官舎を取り囲んで、低いコンクリートの塀が、万里の長城のように長く伸びている。その向こうに、最近、新築されたばかりの三階建ての瀟洒な家々の群れが連なっている。
 しかし、そのような家は自分たちには関係がない、と健治は思う。おそらくは、健治が退職するまでには、いくつかの刑務所や拘置所を渡り歩き、付属する官舎に住むことになるだろう。しかし、自分の家に入ることはまずないだろう。
 家々の向うには、大きな寺院や、新興神道の教会などが見え、はるか向うには、まだ、陽を受けていない陰だけの山並みが見える。
 風が吹いてきた。油の失せた髪の毛は額をくすぐってひらひらと揺れた。すると、耳元でさわさわと葉擦れのような音がした。髪の毛の音なのか、それとも最近、よく聞こえる耳鳴りなのか。
 健治が少年の頃、母親がよく耳鳴りがする、耳鳴りがすると言って、体調の不良を訴えた。彼女がそういい出すと、健治は、彼女にどう対処したらいいのかわからず、いつもうろたえた。
 だが、健治の聞いている耳鳴りはそれとは少し違うような気がする。第一、耳鳴りなのかどうかさえわからない、極めてかすかな音だ。葉の擦れ合うような音でもあるし、水と水がぶつかっているような音でもある。ただ、この音が聞こえると、やはり不安感がこころをよぎっていく。それは母親が耳鳴りがすると訴えたときの動揺とよく似ているような気がする。
 健治は、くだらない妄想をうち払うように、朝の空気に気持ちを熔け込まそうとする。山並みの上は、すでに朝日を受けて明るい。陽はまだ昇ってはいないが、たなびいている雲は、すでに太陽の光を全面に受けて黄金色の帯をつくっている。さらに、天空では、南洋の磯のようなコバルト色の空が広がっている。
 健治はもう一度深呼吸をする。このすがすがしさをできるだけたくさん吸い込んで、それを武器に、今日一日を何とか平穏に乗り切ろうと考える。
 先程起きた部屋を振り返る。妻の佳子はすでに階下のダイニングキッチンに降りていったようだ。彼女の毛布はベッドの横に丁寧に折りたたまれている。
 ベッドの側にもどり、腰を下ろして、靴下をはき、立ち上がって、クローゼットのところへ行き、上着のワイシャツとネクタイ、背広の上下をとりだして身につけた。官舎から、仕事場までわずか三分とかからないのに、きちんとした私服に着替えなければならない。制服で所外を歩くことはかたく禁止されている。
 階下に降りようと歩きだした。
 階段の横の二部屋は、中学三年生の娘の陽子と高校三年の息子の高志の部屋だ。まだ、何の物音もしない。二人とも熟睡している。
 下に降りると、食卓にはすでに朝食の用意ができていた。佳子は椅子に座り、前を向いてお茶を飲んでいた。湯飲みから、かすかな音が聞こえた。
「おはよう」
「おはよう」
 佳子は動かない。お茶をゆっくりと啜っている。
 椅子に座って朝食を取り始めた。パン、牛乳、果物。
 ふっと、子どもの頃の朝食のことを考えた。いったい何を食べていたのだろうか。茶粥、漬け物、煮干しの焼いたの?
「今度はいつ非番なの?」
 佳子が言って、初めて健治の方を向いた。
 金曜日と言いかけて止めた。どうも、昨日の五時近くの、刑務官室の雰囲気が少し異常だった。看守長で、死刑囚担当主任の山上がいつもとは違っていた。「おい、お茶をすぐに所長室に持ってきてくれ」と、若い看守の田所に言うとき、今までにない緊張した声だった。頬の色も少し青ざめていた。それに、帰りにちらっと見た車寄せのすぐ近くにある客人用の駐車場に運転手付きの車がとまっていた。運転手が、退屈さを紛らわせるためだろう、さかんに羽毛の刷毛で車のほこりを拭っていた。刑務所に運転手付の車が来るなんて珍しいことだ。
「来週の水曜日なら間違いない」
「来週?」
 不服そうな声だ。
「高志のことで一度学校へ行って欲しいの。それに、……」
「高志、まだ大学へは行かないって言っているのか?」
「ええ、アルバイトしてでも音楽をやるって。何とかしてよ。高校も辞めるとまで言っているのよ」
「そりゃ、まずいな」
「よく休むし、試験も受けていないらしいの。その日にオーディションか何かがあって、無断で休んだらしいわ。高校の先生がおかんむりよ」
 一度、高志とゆっくりと話し合わなければならないな、と思う。大学へ行きたくないか! 健治は、ちらっと、自分が大学へ行くためにお金を出してくれと、農業をしている伯父や伯母の家を頼みにまわったときのことを思い出した。二人とも同じことを言った。
「うちの子どもだって誰一人大学へなんどやっていない。それに、どれだけ今まで、お前たちの面倒を見てきてやった。それも、お前が高校を卒業するまでだと思って我慢してきたのだ。それなのに、まだそれ以上に大学だなんて、冗談じゃない。お前は、どこの何様だと思っているんだ」
 父は、健治が五歳の時、病死した。母親は自律神経失調症と若年性の更年期障害で、働くことはできなかった。家計は、健治の家庭教師で稼いだわずかな金と、伯父、伯母の援助で暮らしていた。
「あなた、父親でしょう。ちゃんと、父親らしいことをやってよ」
 佳子は声をあらげた。
 するとまた、例の耳鳴りが頭の芯のところで起こった。水のゆれるような、木が軋るような奇妙な音。不安がよぎり、身体がかすかに揺れた。健治はあわてて、それから意識を逸らそうと、佳子に声をかけた。
「すまない、お前にばかり任せきりで。水曜日には行くよ」
「本当よ、先生にそう連絡しておくわよ」
「ああ」
 朝食を食べ終わった。準備してくれた佳子には悪いが、味はまったく感じられなかった。
 おれはな、おれは、父親から、父親らしいことは何もしてもらってはいないのだ、と健治は思った。

 刑務所の正門まで来た。制服に身を包んだ門番が敬礼をした。
答礼を済ませて、門番の顔を見た。昨日の帰りの門番と同じだった。彼はちらっと健治を見たが、すぐに目をそらせた。気のせいか、彼と目の合せることを怖れてでもいるような、そんな感じに健治には受け取れた。
 刑務官室に入り、ボードの上の名前を押さえ、出勤していることを表示すると、すぐに、ロッカー室に入り、制服に着替え、第三区の舎房に向かった。第三区の舎房は拘置用の棟で、一階は死刑囚のための独房になっている。また、彼らを見張るための監視室には、昨夜の夜勤の鳥越がいる。鳥越はすでに定年までに後三年のベテラン刑務官だが、中学出のため、管理職には付けず、看守部長止まりの平の刑務官である。
 朝の全員点検の前に、彼と引継事項や書類の整備を済ませておこうと健治は考えている。でないと、点検が終わってもすぐに彼は帰宅できない。五十を超えての夜勤はつらいだろうから、一刻も早く帰宅させてやりたい。
 舎房に入ったすぐのところの廊下の中央に監視室があった。室の周りはほとんどがガラス張りで、中には、本部や同じ房にある仮眠室との連絡のための機器などが置かれている。
 鳥越は健治を見ると、ほっとしたような顔付きをし、片手を挙げて合図をした。
「どうです。異常なしですか」
「ううん。まあな」
 少し、浮かぬ声だった。何かあったなと思った。
「どうかしましたか。誰か、暴れでも?」
「いや、おとなしいものだよ。死刑囚を扱うこの棟が一番楽だってみんなから言われているんだから」
「じゃ、どうしました? 何か浮かぬ顔じゃありませんか」
「おい、ちょっと」
 鳥越は彼の口を健治の耳元まで近づけてきた。汗の臭いが、肩や首筋から漂ってきた。
「昨日、夕方、検察庁のお役人さんがやって来たって」
「ええっ?」
 健治は、彼の言っていることがあまり理解できなかった。いや、理解したくなかった。
「田所が所長室にお茶を持っていっただろう。所長の顔が真っ青だったんでおかしいなと思って、門番のところまで誰が来たのか聞きに行ったって。そうしたら、検察庁のえらいさんだって門番が教えてくれたらしいわ」
 ああ、あの運転手付きの車は検察庁のものだったのか。
「ああ、あれ」
「見たのか」
「ええ、帰りにちょっと」
「何のためか、わかってんだろう」
「ええ?」
「わかっているくせに」
「これですか」
 健治は首にちょっと手をあてた。
「そうじゃないの」
「だって、別の用事で来たってことも考えられるんじゃないですか」
「例えば?」
「ううんと、大幅な機構改革をするとか、新しく舎房を建てるとか」
「それなら、所長を呼びつけるよ」
 なるほど、と思った。検察庁から人が来るとなると相当なことだろう。しかも夕方に。以前、死刑執行の通知は夕方検察庁から届けられるのだと聞いたことがある。
 頭の血がどんどんと降りていくことがわかった。
 鳥越は、出口の方を向いて鋭い目を光らせた。
「仕方がないな、それが仕事なんだから」
 やや投げやりのように聞こえた。
「おれが退職するまでにはもうない、と思っていたんだけどな」
「役割は、拘置所専属のメンバーにきまっているんでしょうか」
「あたりまえさ。他に誰がやると思う」 
「じゃあ、我々ですね。山上と私と田所、そうして鳥越さん」
「山上は警備隊長を務めなければならないので、実務は、おれ、あんた、田所の三人さ」
「そういうことになりますね」
「そういうこと。おれはすでに何人もあの世に送って来ているんで、慣れているが、君たちにはちょっときついよ。覚悟しておいてくれ」
「はあ」
 とうとう来るものが来た、と思った。できるだけ早く転勤希望を出し、また、以前のように死刑執行などない刑務所へ戻りたいと思っていたのだが、それは甘かった。
「しかしな、これをやって初めて一人前の刑務官だ。やらない連中なんて屁みたいなものさ」
 鳥越は、相変わらず、出口の方を睨み付けている。鋭い目で、何かに怒っているようでもあるし、悲しんでいるようでもある。
 外を睨み付けていた鳥越の目が一瞬、下を向く。
「鳥越さん、どうして、今までこの仕事をつづけてきたんですか」と尋ねたくなる。が、ぐっと我慢する。それは聞いてはならないことだ。もし尋ねればきっとこう答えるだろう。「何を尋ねる。おれたちがいるおかげで、日本の秩序が保たれているんじゃないか。りっぱな仕事さ」
 だが、それが本心かどうかわからない。
 と、その時、突然、監視室のブザーが鳴った。朝礼十五分前の合図である。
「時間だ。これから、仮眠室の田所を呼ぶが、彼はまだ何も知らないんだ。余計なことは……」
「わかっています。何も言いません」
 鳥越が仮眠室へのボタンを押しつづけていると、「そんなに、びんびん鳴らさないで。わかっていますよ、わかって」などと言いながら、目を擦りつつ若い田所がやってきた。
「おい、目を覚ませ、早う朝の最終点検に行ってきてくれ」
 鳥越が言った。田所は頭を何度もかきながら、眠たそうな目で巡視に出かけていった。
 彼が今度の仕事を聞いたとき、どのような態度をとるのだろうか。一番ショックを受けるのは彼ではないか。刑務官には未だに処刑の仕事があることなんて知らないかもしれない。

 朝礼と昨夜の最終点検が行われる集会室へ行った。管理職にはこの時間が最も緊張するらしいが、中間管理職の健治たちにはどうでもいい会合だ。
 部屋はざわついている。一部の監視任務の者を除いて、夜勤あけの刑務官と今日勤務する刑務官の全員がここに集まることになっている。
 突然、庶務課の若い刑務官が健治に近づいてきて敬礼をした。
「昨日の最終便でこんなのが届いていました」
 彼は一通の手紙を健治に手渡すと、また、敬礼をして立ち去った。 
手紙には付箋が貼ってあって、それは転送されてきたものだとすぐにわかった。宛先は三年前に赴任していた刑務所からだった。裏返して差出人の名前を見た。吉田恭介。ボールペンで書かれていたが、あまり書き慣れた字ではなかった。
 吉田恭介とは、刑務所内につくった短歌の会のメンバーの一人だった。健治は、別に、短歌を専門に学んだ訳でもない。ただ、新聞の短歌欄やNHKの趣味の講座に投稿し、何度か掲載されたことがあるだけである。
 彼は、ここではまだ始めてはいないが、前の刑務所では短歌を通じて受刑者たちと心の交流をはかりたいと思い、所内に、受刑者と短歌会をつくり、何でもいいから心の内を、5、7、5、7、7の言葉で吐き出させるようにしていた。
 吉田は健治の働きかけにもっとも熱心に応じてきた一人だった。彼が最初に書いた歌、「今、母の、歌を書きし同じ手で、われはかつては人を刺したり」というのを今でも覚えている。
 慌てて封を切り、手紙を読んだ。
 吉田の手紙には、刑務所でいろいろ親切にしてもらったお礼が書かれていた。特に、短歌に出会わせてくれたことに心から礼を言っていた。短歌を通じて自分を深く見つめ、自分を表現する喜びを知ったと書いてあった。娑婆に出てからも短歌はつづけているらしい。それに、赤ん坊を抱いて笑っている吉田と奥さんの写真が同封されていた。本当に幸せそうだった。奥さんは短歌の仲間だったらしい。仕事はかなりきついようだが、家族を守るために必死に働いている、二度と罪を犯さないと書いてあった。
 吉田、よかったな、と思わず独り言を言った。しばらくは彼の写真から目を離すことができなかった。
「内田君、内田君」
 ふっと、人の気配がして、二、三度肩が叩かれ、振り向くと、看守長の山上が健治の後ろに立っていた。
「ちょっと用事があるので、点検が終わってから例のところに来てくれ、監視室には別の者を行かせるから」と言った。健治は何か言おうとしたが、彼は川魚のようにすばやく逃げた。
 やっぱりな、と思った。もう逃げられない。緊張のためか、軽いめまいがし、身体がゆらりと揺れた。
 前の扉から所長が入ってきた。ざわつきが静まり、慌ててみんな所定の位置に着いた。
「敬礼」
 矯正長の甲高い声が室内に響いた。みんなはいっせいに敬礼をした。

 退所時刻真近の今、今朝、山上に呼びつけられた同じ部屋に再び、健治はやって来ている。若い看守の田所のことで山上と話し合うためだ。
 今日の勤務はいつもとほとんど変わらなかった。ただ、看守長で死刑囚係主任の山上だけは、いろいろ走り回っていた。
 健治は、朝、この部屋に呼ばれ、山上から死刑執行の通知が昨日検察庁から届いた旨を聞かされた。「執行者は、君、鳥越、田所」にしようと思っていると山上から告げられた。
「いいね、覚悟をしておいてくれ。しかたがないよ、ここへ来た以上はね」と山上は鳥越さんと同じことを言った。
 執行対象者は牟田という男だ。牟田は二度、人を殺していた。最初は、喧嘩をして見知らぬ他人を、二度目は、出所後三年して、今度は二人で強盗に入り、娘の前で、父親を刺し殺した。
 健治は、窓から少し身をのりだした。夕陽が美しい。港に近い西の空は、高層の雲がたなびき、夕陽に映えて柿色に輝いている。上方のほうは雲がなく、深緑が広がっている。それを味わうように飛行機雲が一筋、白く走っていく。
 しかし、美しい景色を見たからと言って、先程聞いた若い田所の言葉が消える訳ではなかった。「私は、辞めさせてもらいます」と、若い田所は、休憩のために監視室から帰って来た健治を、腕をとって、廊下に連れだし、トイレの横の湯沸室に押し込むようにして、興奮しながら言った。山上から死刑執行のメンバーとする旨が告げられたようだ。
「まあ、落ち着け」
 健治は、何度も言った。しかし、彼の興奮がすぐさま健治にも伝わり、声がうわずるのを止められなかった。
「辞めるのはいつでも辞められる、まあ、落ちつけって」
「こんなの、だまし討ちじゃないですか。募集要項の何処に死刑執行の仕事もありますなんて書いてあった? いいことばかり書きやがって。ここに転勤させる時だって、実家に近い方が何かと便利だからとか何とか言うから、それに乗せられてやって来たんじゃないですか」
「君の怒りはよくわかる。君だけじゃない、みんなそんな思いをしているんだ」
 そう言った途端、そうか、心底、この仕事が嫌なら、辞めることだってできるのだと強く思った。仕事をつづけるということは、すべて自分が選ぶことだ。その結果がどのようなことになろうと、それはすべて自分が引き受けなければならないことだ、と健治は思った。
「それに」という思いも付け加わった。刑務官だってそんなに嫌な仕事ばかりではない。数少ないが先程の吉田のように喜んでくれる受刑者だっている。刑務官によって立ち直った犯罪者だってたくさんいる。死刑囚だって刑の執行官を恨んで死ぬとは限らない。
 田所の緊張と怒りで頬をひくひくさせた表情が目の前を覆う。
 とにかく、田所が一時の興奮で簡単に仕事を放棄させたくはなかった。よくよく考えた上でのことなら致し方がない。しかし、このような事態にそう簡単に辞められては困る、という思いが強くした。
「君の気持ちはよくわかるよ。ただ、主任にすぐに言うのだけは待って欲しいんだ。おれがまず伝えるから」
 健治に胸の内をすべてを言ったので少しほっとしたのか、それ以上は逆らわなかった。
「とにかく、少し冷静になってくれ」
 彼はかすかに頷いた。しかし、田所の困惑とも不安ともとれる顔付きが今でも健治の眼の前でちらつく。
 予想した時間どおりにノックの音が聞こえ、扉が音もなく開いて、山上が入ってきた。
「田所が辞めるって」
 健治は、まだ彼が健治の方を向いていない先に言った。
「へえっ、やっぱりな。そう言い出さないかと心配していた」
 眉間に傷跡のような皺を寄せながら、山上は健治を見つめた。
「とにかく、辞表を君に渡すのだけは阻止してきた」
「きょうびの若い者はなっとらん。すぐに辞めるのなんのって。これをやって初めて一人前の刑務官じゃないか」
 山上が疲れ切っているようで、窓際の椅子に頼りなげに座わった。
「それはそうだけれど」
 健治はさらに考えていたことをつづけた。
「あいつ、はずしてやれないか」
「はずす?」
「おやじが危篤とか何とかで」
「ばれたらおれの首が飛ぶよ」
「まだ、正式には上にあげてないんだろう」
「それはそうだけれど。でも、所長は、拘置所専属のメンバーですべてをやってくれと」
「だから、おれと、鳥越さんと、君と」
「総指揮は誰がとる」
「君が兼ねる」
「兼ねるって?」
「上が終わればすぐに下に降りて行けばいいじゃないか」
「スムーズに進めばな」
「すすむって。死刑囚の牟田には責任を持つ」
「悟りきっているように見えても、どうなるかわからんよ」
「大丈夫、おれが保障する。田所を今辞めさせたくはないんだ」
「なんでだ」
「なんでも」
「やらせれば辞めるか」
「九分九厘な」
 山上はしばらく黙った。何も言わないで窓際に来て窓の外を眺めた。きっと、自分が初めて死刑執行に携わった時のことを思い出しているのだろう。
「今日の夕焼けは特別だな」山上は小さな声で言った。
「こんなのはなかなか見られないよ」 
「牟田にも、この夕陽、見せてやりたいな」山上が言った。
「ひょっとして、独房の窓から少しは見えているかも知れないよ」
「だったらいいんだけれど」
 しばらく沈黙がつづいた。
「ところで、おれたち、長いこと、山に登ってないな」
 山上が突然に言った。
「この仕事が終わったら一度山に登るか」山上がつづけて言った。
 どうしたんだ、今頃、山登りの話なんかないだろうと思いながら、心の隅に瞬間だがすがすがしい風が吹き込んだ。
「田所を連れてか」
「そう。あいつ、また、足手まといになるかな」
 山上は小さな声で笑った。
「何とか、頼むよ」
「ううん」
「なあ、何とか」
 山登りのことか、それとも仕事からはずすことか、どちらを頼んだのだかわからなかった。
 山上は、困惑しているようだ。「ううん」と何度も声を出しながら、さらに深く窓から身を乗り出している。
 かなりの時間経った。ようやく夕陽を見ることを止め、山上は健治の方を振り返った。
「よし、田所は省くことにしよう」
 強い声だった。
「そうしてやってくれ」
「そうしよう」
 よかったと思った。うれしかった。
 だが、山上を納得させたら、今度は次の不安が生まれてきた。
「しかし、所長が承知するかな」
「大丈夫、、おれがうまくやるから」山上は自信ありげだった。
 山上は大きく見えた。健治よりも一歩も二歩も前を歩いているように。やっぱり処刑を経験した奴は違う、と健治は思った。

 今日は昼勤だったので定刻に退所し、まっすぐ家に帰ってきて、リビングでただ何もせずに座っていた。
 妻の佳子の「夕食ができました」と言う声が聞こえた。あわてて隣のダイニングへ行き食卓についた。
 健治の前に佳子が座っている。左右には娘の陽子と息子の高志。こんな風に家族四人がそろって夕食をとるのはめったにない。何ヶ月ぶりだろうか。
「今日はカレー。陽子がつくってくれたの」
 佳子はにこやかに笑った。佳子の笑顔も久しぶりだ。陽子が家事を手伝ってくれたことがよほどうれしかったらしい。
 少年時代、一度、友人の家で健治が夕食をご馳走になったことがあった。学校で必要なものをいっしょにつくっていて遅くなったのだ。
 友人の父親が帰ってきて、家族が、みんなが食卓を囲み、笑い合いながら食事をしていた。ああ、家族というものはこういうものだということを初めて知った。自分の家には家族がないと思った。健治も母親といっしょによく食事をしたが、いつも母親は鬱陶しい顔をしていた。笑ったことなどない。口を開けば、伯父や伯母の悪口を言った。自分ところには米や野菜がいくらでもあるのに、けちでくれないとか、果物をしこたま売って金をもうけたはずなのに、少ししか金をくれないとか。或いは自分の身体の不調と、それがわかってくれない周囲への不満だった。
 明後日殺される死刑囚の牟田も母一人子一人で育ったらしい。彼の母親は、飲み屋に勤めていたので、夕食をいっしょに食べたことがないと言っていた。牟田の母親は彼に愚痴をこぼさなかったのだろうか。彼も家庭団欒を知らなかったようだ。もしも、彼に父親がいて、家庭団欒がしっかりとあったら、死刑囚などにはならなかっただろうか。
ふっと今日手紙をくれた吉田恭介の顔が浮かんできた。彼の家庭はどんなんだろう。きっと、まだ赤ん坊の娘を中心に朗らかな団欒を繰り返していることだろう。恭介、負けるな。それがつづけられるかどうかは君にかかっているのだから、と思った。
 しばらくは黙ってカレーを食べた。娘の陽子が、新しい携帯の話をしている。買って欲しいらしい。お兄ちゃんはどう思うと、兄の支援を求めたが、高志はううんとだけ言ってはっきりとは答えなかった。高志は緊張している。不機嫌な顔をしている。やはり、食事の後、健治と話し合うことが心に引っかかっているのだろう。
 健治も少し、心が重い。どう切り出せばいいのか、迷っている。どう対処したらいいのかさえわからない。大学へ行けばいいのに。自分は行けなかった。お前は行けるのだ。だのに、どうして!
「もう!」陽子はふくれっつらをした。
「あれ、なかなかいいらしいな。仕事場の若い奴らが言っていた」健治が言った。
「でしょう!」陽子がすぐに晴れやかな顔になった。
「田所がそう言っていた。ほら、ずっと前、いっぺん家に連れてきたことがあるだろう」
「知ってる、お兄ちゃんのこと、西川きよしに似ているとか言っていた」
「そう、あいつ」
「似ているものか、そんなの」高志が初めて大声を出し、みんなが笑った。
 あいつなあ、今、仕事を辞めるかどうか悩んでいる。どうしてだかわかるか。明後日、おれたち四人で人殺しをするのや、あいつはそれを嫌がって、……。健治は、心の中で呟いた。
 山上に一度「死刑執行に携わることがあるってこと、家族に言ったことがあるの」と尋ねたことがあった。確か、彼から、すでに三度、死刑執行に立ち会ったことがあると聞いたときだ。「そんなの誰が言うものか。嫁はんにだって言ったことがない」と即座に言った。「墓場まで持っていくわ」とつけ加えた。
 佳子が顔の前で手を振って、だめだめと合図を送って寄こした。
「お父さんは甘いから」佳子が言った。
「そう、お父さんは陽子には甘い」高志が言って、また、みんなが笑った。

 健治と妻の佳子の二人は高志のベッドの端に腰をかけた。高志はベッドの横の彼の学習机の椅子に座って、彼らのほうを向いている。
「おれ、まじめな話するのは苦手やねん」
 高志は彼らを睨み付けた。一気に緊張が走った。先程の団欒はすでにふっ飛んでいる。
 健治は戸惑っている。こんなとき自分はどうしたらいいのかわからない。行為の根拠がない。宙に浮いている。
「まず、高校はちゃんと卒業しろよ。ここまで来て、中退はないだろう」
「しかたがないやろう。テストの日とオーディションの日が重なってしまったのやから」
「先生に言ったら何とかしてくれるのと違うの?」
 佳子が言った。
「先生たちは、自分らの権威が落ちるとでも思っていて、オーディションの日を変えてもらうのが筋だろうとか何とか言うに決まっているし」
「それはできなかったの」
「できるわけはないやろう。ものすごい数のグループが競争をしているのやで。それだけで、熱意がないと見なされて、落とされてしまうわ。もう、何もわかってないな」
 高志は、苛立った。
「学校の先生は、生徒はまず学校があって、その上に余裕があれば他の活動をしてもいいと思っている。それが正論だろう」
「そんなの先生のかってや。生徒はそんなの思ってない」
「それに、お前の学校は一応は進学校や。先生がそう思うのは無理はない」
「進学校と言ったって生徒はいろいろやろ。そら、東大めざしている奴もいる。しかし、おれみたいに音楽めざしている奴もいる」
 音楽をめざすか? しかも高志のやっているのはロックだ。そんなもので飯を食うことができない。彼はいったい何で飯を食うつもりなのだ。何をやっていても飯が食えるとでも思っているのか。
 おれたちの子ども時代とはえらい違いだ。その時代は、すでに日本は戦争の痛手からはかなり復興していた。飯が食えないという奴はほとんどいなかった。だが、やはり貧乏だった。漫画ブームがやって来ていたが、買ってもらえる奴はクラスでも数人だった。彼らから漫画本を借りるため、学校へ行くとき家に迎えに行って、重いランドセルを持ってやったりした。子供用の自転車を買ってもらった奴がいると、家に行って、彼の宿題をみんなやってやった。
 はやく大人になって、ほしいものをいっぱい買いたいというのが子どものころの夢だった。友人の一人が、「おれが金儲けができるようになったら、一番先に車を買って乗り回すねん」と言っていた。生きるためには金がいる。しかも、それは自分が働いて得なければならないことをみんなが知っていた。それに、まだ田圃や畑の多い田舎だったので、放課後、農作業の手伝いをさせられる奴も多かった。だから、仕事はつらいことだということも知っていた。
 特に働き手の父もいず、母親も病気がちで、収入を得る道はほとんどなく、伯父や伯母の家をまわって、米や野菜をもらい、金の援助をしてくれと頭を下げてまわった健治には飯を食うことが簡単なことではないことを身に滲みてわかっている。はやく大人になって金を稼げるようになりたいというのが健治の唯一の夢だった。
 健治は大学へ行きたかったが、金がないので行けなかった。それでも、高校を卒業してこの仕事に就けたときはうれしかった。これでようやく母も自分も人並みに暮らせると思ったからだ。
 あれからずっと、誰にも金のむしんをせずに生きてきた。ありがたいことだ。少年時代に被った屈辱感をもう二度と味わいたくはない。ましてや、自分の子どもたちには、彼が感じたような苦い思いはさせたくはない。そのために、この仕事をつづけている。だのに、健治は、明日から起こるであろう自分の仕事について家族にさえ言えない。これはどういうことだ。理不尽ではないか。
 それに、あれほど自分が行きたかった大学に高志は行きたくないという。高校すら出なくてもいいと考えている。わからない。健治の理解を超えている。
「お前、ロックで飯が食えると思っているのか。天才でもないかぎり無理だ。宝くじに当たるより確率は低い」
「そんなの、やってみなけりゃわからない」
「やってみなくてもわかる」
「わからないよ、宝くじだって当たる奴はいる。買わない奴には当たらない」
「ロックをやるなとは言っていない。大学へ行ったってロックはやれる。好きならやったらいい。だが、食べる道は別に考えろ。お前はサラリーマンの子だ。自営業や社長の子ではない。ロックがだめなら、家業を継げばいいということにはならないんだから」
「そんなの嫌だ。中途半端は大嫌い。やるならとことんやる。でないと後で後悔する」
「だめになったらどうする」
「その時はその時。そんなことを考えていたら何にもできない」
「大学へいけよ。後で後悔するから」
「音楽をやらなかったらもっと後悔する」
「音楽はやったっていい。だけど、大学へは行け、大学へ行ったって、音楽は……」
 そう言いかけて後の言葉を飲み込む。これでは同じことの繰り返しではないか。言わないでも高志の答はわかっている。
 苛立ちが心臓を締め付ける。もう何も言う言葉がない。自分に従うつもりなど彼にはもうとうない。これが彼の親からの自立なのか?
 違うように思う。自立とはこんなことではない。もっと、用意周到な、緻密な計画と積み重ねの作業を経て成り立つものだ。これはただの無謀、わがままでしかない。
 しかし、それをわからせる能力は健治にはない。  
 ふっと、高志にとってこの自分はいったい何なのか、と健治は考え込む。敵対してくるただのうるさい存在なのか? それとも、そうさえ思えない軽い存在なのか?
 では、自分にとって父親とはどういう存在だったのか? もし、健治が高志の立場で同じことを言ったら、父ならどうしただろうか? 健治にはわからない。彼には父のイメージがない。父というものの存在さえ信じられない。焦りのような、自分だけが特異な存在のような気がしてくる。
 そこまで思いが進んだとき、ふと、明後日、死刑が執行される牟田のことが思い浮かんできた。彼もまた父親がいなかった。彼には子どももいない。だから、父親について考えることさえ必要がない。だが、彼だって父親について考えたことがあるだろう。それに、彼にだって父親になる可能性があったはずだ。だのに、彼は父親にはならなかった。いや、きっと、なることを拒んだのだ。あるいは怖れたのかもしれない。自分の中にまだ父親像が育っていない、あるいは奇妙な父親像が育っていると自覚して。
 どういういきさつでだったかは忘れたが、一度、健治が彼に父親のことを尋ねたことがあった。その時の顔付きは今でも健治ははっきり憶えている。憎悪なのか困惑なのか、悲しみなのかわからないすさまじい顔付きになり、しばらくの間、健治を睨み付けていた。それから、「おれは父親のことなんか考えたくない」と地の底からうなるような声を出した。だが、その声は嫌な声ではなかった。むしろ、懐かしい声に聞こえた。
「とにかく、高校は卒業するよ。追試は受けるし、学校には出ていく」
 突然、高志の声が強まり、健治の心は現実へと戻された。
 あまり長く黙っていたので、高志が気を使ったのだ。
「とにかく、高校は卒業するよ」
 だから、今日はもうこれで勘弁してくれないかと言いたげに、椅子から何度も腰を浮かせ始めた。
 それを察知したのか、佳子が「そうして、そうしなさい」と言い、にっこりと高志に笑みを送ると、一気に表情を和らげた。とにかく、急場の危機を乗り越えたと思ったようだ。
 彼女はすかさずベッドから立ち上がった。
「お父さんが学校へ行ってくれるって、後は先生の話を聞いてから。じゃ、今日はこれでおしまい」
 彼女は飛ぶように身をこなして、扉の方へ行き、振り向きざま「高志、お風呂に入りなさい」と明るい声で言った。
「うん」
 えらく素直に高志も立ち上がり「風呂でも入るか」と独り言を言うと、彼も佳子の後を追うようにして部屋を出ていった。
 健治は、ふっと、仕組まれた罠にでもかかったような気がした。
 少し開いているドアの隙間を通して、「おかあさん、この間買ってきて、ここに置いておいたシャンプー、何処へやった」と叫ぶ高志の声が聞こえた。
「ああ、あれ、鏡の横の戸棚の中」
 佳子の声だ。
「あああ。昔はおやじが一番に風呂に入るものと決まっていたものを」と健治は思わず呟いた。
  
「安中ともえは、明日、釈放なんですが」
 若い女性刑務官の野口かずきが、未決拘留者係主任の健治の所へやって来て、困惑げに言った。
 薄い化粧をしているが小麦色の柔らかな肌がほとんど素肌を感じさせる。生気があふれていて、みずみずしさで満ちている。若いっていいな、と思わず思ってしまうほどだ。
「何とかしてやれないでしょうか。住所不定で、身寄りもない女の子をたった百円で世の中に放り出すなんて、信じられない」
 今度は泣きそうな顔になる。健治の一言で本当に泣きかねない。
「彼女、今朝の裁判で執行猶予になったんだったね」健治が尋ねる。
「はいそうです。万引きの常習犯ということなんですが、大した物を盗んでいるわけではないし、懲役六ヶ月、執行猶予二年で釈放です。でもね、釈放と言ったって、所持金百円じゃ昼御飯だって食べられないでしょう。これじゃ、刑務所が『あなたすぐに万引きしてまた帰ってきなさい』と言っているようなものじゃないですか」
「そうだね、本当に」
 彼女の目は、何かにとりつかれた時のように真剣で輝いている。できるなら何とかしてやりたいと思う。安中ともえのためではなく野口かずきのために。
「両親は?」
「父親は病死、母親は蒸発したそうで、施設で大きくなったようですが、吃音と容貌などでどこも雇ってくれないそうです」
「本人は働く気があるのか」
「はい、私をばかにしたり、いじめたりしないところなら、一生懸命働くって。彼女なら適当な所があればきっと働くと思います。このままじゃ、本格的な窃盗常習者になっていくか、場末の売春婦にでもなるしかありません」
「ようし、わかった。当たれるところは当たってみよう。何とかなるかもしれない」
 何とかしてやりたい、また、何とかなるかもしれない、と健治は思った。
 健治は、まず、支援センター長のことを思い浮かべた。健治の年来の友人である。同じ短歌会の同人で、気もよく合う。彼なら、健治のたっての願いということであれば聞いてくれるかもしれない。私的な付き合いを公的なものに利用することは極力避けたいが、今回はいたしかたがない。
 野口ならこれからも長くこの仕事をつづけていくだろう。その中ではきっと挫折することもあるだろう。しかし、彼女の最初の、いわば正規の仕事を超えた行為を成功させてやりたい。それで、心の芯に、仕事の核のようなものをつくってやりたい。仕事への情熱が失いかけたとき、ふっと思い出して、また、情熱を取り戻せるようなもの。
 女性にとってこれから仕事はより大切なものになっていく。加えて、女性刑務官の柔らかな対応が刑務所では必要になってくる。それに、女性刑務官には死刑執行の仕事はない。この仕事をつづけていく上では好都合だ。男女平等ということで死刑執行の仕事も女性にもさせよという動きが起こるかも知れないが、健治はそれには反対だった。死刑執行は女性にはむかない。

 安中ともえの身の振り方については、思ったよりもスムーズにことが運んだ。それを告げたときの野口かずきの笑顔はすばらしかった。無邪気な子どもの笑顔そのままだった。それを見て健治もうれしかった。瞬間だが充実感をおぼえ、こういうことがあるからこの仕事は辞められない、と思ったほどだ。
 だが、沈んだ顔付きの山上が、幽霊のように突然彼の側にやって来て「ちょっと」と、廊下側に顎をしゃくったとき、喜びは一気に吹き飛んだ。これは、今すぐに特別会議室に来いと言う合図だった。牟田のことだろう。だが、ちょうどいい。健治も山上には聞きたいことがあった。
 同時に部屋を出ると怪しまれるというのでこういうときは健治が先に会議室に行き、しばらく経ってから山上が現れることになっている。それで、慌ててトイレにでも行くような格好をして会議室へ向かった。
 少し待っていると、山上が入ってきた。来るなり、「牟田には、死刑の直前の言い渡しということになった。所長がどうしてもそうしろというものだから」と言った。
 普通、一日前に言い渡して、遺書などを書かせるものである。
「今日言い渡して、何かあったらどうする。おまえたち、わしの顔に泥を塗る気かとか何とか言って、かなり殺気だっておられる」
 かわいそうに、所長だって悩んでいるのだ。この間の所長の送別会では、『私は幸運にも心配していた死刑執行は私の時代にはなかった。拘置所が付設されている刑務所に配属を命じられたときにはえらいことになったと覚悟を決めてきたのだが、それが一度もなかったことに一番感謝する』などと挨拶していた矢先ではないか。まるで、誰かが告げ口をしたような具合だ。
「まったく、度胸のない所長だ」
「でも、むしろ人間みがあっていいじゃないか」
「所長があれじゃ、みんなが浮き足立つよ」
 山上が、眉間に深い皺を寄せて見せた。
 そういうものか、と健治は思ったが、山上のように冷徹に言ってのけることができなかった。むしろ、何の感情もなく事務的にやられたのでは、たまったものではない、と思った。
「まあ、所長のことはいいとして、君を呼んだのは田所のことなんだ」
「ああ、そういえば、田所は出てきていないね。どうしたんだ、あいつ」
「彼、おれが出勤するのを待ちかまえていて、とうとうこんなものを渡しやがった」
 山上は健治の机の上に、白い封筒を投げ捨てるように置いた。封筒の上には黒の水性ペンで「辞表」とあった。
「今度のことで、はっきりわかったんだって。自分のやりたい仕事は刑務官なんかじゃないって。仕事なんか何でもいい。アフター・ファイヴこそ重要なんだと思って、たまたまこの仕事を選んだが、それは間違いだったって」
「ふうん」と思った。何を今さら、という気持ちが起こった。甘ったれるな。仕事とはそんなに甘いものではない。きれい事ですまされるものじゃない。それに、せっかく、今度は死刑執行から救ってやったのに。
「仕事は食べるためだけにあるのじゃないって」
「ふうん」
「それで、これはどうする。上に上げるか?」
「それなんだよ、勝手にしやがれという気もあるけれどな」
「ううん」
 健治は再び動揺した。昨日考えたように、仕事を辞めようと思えばいつでも辞められる。もし、辞めないで死刑執行をすればそれは自分の責任である。では、どういう理由でそれをするのか? 
「甘ったれるなよ、本当に」
 山上は、健治を叱りつけるように言い、さらにつづける。
「おれたちは、おまんま食わなければ生きていけないんだ。自分だけじゃない、女房にも子どもにもだ。ライオンだって、家族を守るためには、テリトリーを犯してくるライオンを殺すと言うではないか。きれい事だけじゃ生きられない。取り立てをしたため、中小企業のおやじさんを自殺に追いやった銀行員がいる。首を切って、部下を自殺に追いやった人事部長がいる。そのことで彼らを責められるか」
「………」
 健治が自分が叱られているかのように首をうなだれる。
「彼らを殺すのはおれたちじゃない。死刑を確定したのは裁判官。彼に死刑執行を命じたのは法務大臣だ」
 だったら、なぜ、裁判官や法務大臣が死刑執行をしないんだ、と、健治は心の中で叫ぶ。もし、裁判官が死刑の執行までやらなければならないということになると、死刑の件数は激減するのではないか。
「おれたちはただ彼らを死刑台にまで連れていくロボットだよ。ロボット。そう考えればいいんだよ」
「………」
「そうだよ。そう考えれば楽になる」
 まったく山上の言うとおりだ、と健治は思う。だが、……。
「まあ、でも、そう単純には割りきれんわな。おれも最初はそうだった。田所の気持ちはよくわかるよ」
「だから、今度は彼をはずしてやったんじゃないか。運がよければ、彼は死刑執行などやらないで定年を迎えることだってできるかも知れない。おれたちの気持ち、わからんのかなあ」
「いいや、わかっている。だから、嫌なんじゃないか。何だか恩をきるようで」
 山上は力を込めていう。
「といって、はい、そうですかと、彼を辞めさせる訳にはいかんだろう」と話をつづける。
 健治もまったく同意見だった。なぜなんだろうか? 
 彼を説得したい。今、止めるな、はやまるなと。
 だが、それは本当に彼のためを思ってのことか。それとも、もっと別の思いがあってのことか。
「山上!」健治は大声を出した。「彼にとやかく言うのはもうよそうよ」
 とっさにそう言ってしまった。自分でも思いもしない言葉だった。
「ええっつ」
「こればっかりは彼に任せるべきだと思うよ。彼にとって人生で一番の考えどころだからなあ」
 言った途端、そうか。そういうことなのか、と納得した。だが、それは自分に言った言葉のようにも思えた。
「ううん。ううん」
「なあ、自由に考えさせてやろうよ。だから、もう少し様子を見よう」
「そうだな。もう少しな。……。本当に世話のやける奴だ」
 山上の顔を急激に疲れが覆う。
「ようし、明後日まで待つよ。明後日まで」
 
 一度、家に帰り、夕食を女房の佳子といっしょに食べてから、再び、職場に戻ってきた。
 食は進まなかった。健治の好物のオムライスをつくってくれていたのだが、胃がなかなか受け付けなかった。まるで苦い薬でも飲むような調子だった。
 今晩は本当は健治の当直には当たってはいなかったので、「家の都合で、当直の日にはどうしても家にいなくてはならない」とか何とかと言って、今日の当直を代わってもらった。家にいる気がどうしてもしなかった。それに、最後の夜、牟田とゆっくりと話しをしてみたかった。
 引継は午後五時半だった。夜勤は各棟で二名だが、死刑囚の独房のあるこの階だけは特別に一階に二名が配置されている。二人は五時半から七時半までの間に、交替で夕食をとる。死刑囚もその間に夕食をすます。七時半から九時半までは自由時間。九時半から点呼、十時就寝という決まりである。看守は十時から翌日の七時までの間を二分して、交互に仮眠をとる。早朝八時半に勤務交替。ただし、その内一名は、連続して昼勤もする。
 自由時間には、ときどき面談と称して、刑務官や教戒師と死刑囚との話し合いが持たれる。だから、牟田を独房から連れだして、この面談室に連れてきても、誰も怪しまない。
 牟田は、先程から小さな木のテーブルを前にして静かに座っている。背筋がすっきりと伸び、その延長線上に首があり、頭を天井に突き刺そうとでもしているように見える。さすがに空手三段の腕前のある男の座り方は違う。高僧でも座っているような感じである。
「おいしいコーヒーを見つけたんだ。サイホンでわかしたのを今日は飲ませてやろうと思って」
「ありがとうございます」
 健治は、窓際のテーブルにサイホンの道具を置き、すでに挽かれたコーヒーを入れ、ポットからのお湯を注ぎ、ランプに火を付けると、香ばしい匂いが漂ってきた。
「いい匂いですね」
 牟田は言った。
「いい匂いだろう」
 まるで、久しぶりに会った友達同士が、ゆっくりと旧交を温めているような感じである。だが、この男にはもう明日の夜がない。自分がそのとどめを刺す。
「お砂糖を入れるのか」
「いえ、フレッシュだけで結構です」
「おれも、そうだ。同じだな」
「私の母親もコーヒーが大好きでした」
「そうか」
 コーヒーを入れたカップを皿にのせ、彼自身の前と牟田の前に置いた。カップから立ち上る湯気がかすかに蛍光灯の光を反射させてゆらめいた。
 佳子に頼んで買ってきてもらったケーキもコーヒーカップの横に出した。
「お前には感心するな。よく勉強するよ。山田教戒師さんも感心しておられた。自分よりもすぐれているって。自分がいつも教えられるって。さあ、ケーキも食べて」
「ありがとうございます。いただきます。担当さんや山田先生にはほんとうにご厄介になりました」
 コーヒーを啜る音が、彼の存在を示すようにかすかに鳴った。
「いろいろ質問をされたけれど、とんちんかんな答ばっかりで、何てばかなやつなんだろうと笑っていたんだろう」健治は言った。
「いえいえ、私のばかげた質問にも一生懸命、誠実に答えていただいてありがとうございました。担当さんは、短歌をやられているとか、やっぱり違いました。鋭い答が返ってきて、おかげでいろんなことを学ばせていただきました。ありがとうございます。」
 彼はそういうと、再び、カップの縁に唇をつけた。
 彼はあるとき、勉強を褒めた健治に「おかげさんで、かなりのことがわかるようになりました。特に、他人のことがよくわかります」と言っていたことを思い出す。
「いや、お前の足許にもおよばんよ」
 それは健治の本心だった。牟田ははるかに知識でも人間性でも自分よりすぐれていると思っている。
「私は、担当さんが好きでした。私のことを一番よく理解してくれてる人だと思っていました。何故そう思ったと思います?」
「そう言ってもらえてありがたいが、そんなことわからんよ」
「もちろん、担当さんは親切で、私たちのことを心底思ってくださる方でした。しかし、それだけではありません。それは、担当さんもおとうさんのイメージがないと言っておられたからです」
「ええっ?」
「いつか、言っておられたでしょう。おれには父親のイメージがないって、それが苦しいって。わかるんですよ、その気持ち」
「ああ」
「おれも、一度でいいから、父親に会いたかったなあって。どんな人だったか感じたかったなって」
 そうしたら、こんなことにはならなかったのに、とつづけそうだった。
 彼は私生児として、母親の籍に入れられている。母親も、彼の父親については一言も言わないらしい。
 彼の最初の事件のことを思い浮かべた。行きつけのバーで飲んでいるとき、偶然、隣に居あわせた若い女の子が、他の客に言いがかりをつけられ、ひどく困っていたそうだ。それを横で聞いていて、いきなりその客を殴りつけた。空手三段の彼が本気で四、五発殴りつけたので、その客が死んだ。
 ふっと、それが、今彼が言ったことと何か関係がありそうだった。まったくどういう関係かわからないが何となくそう思った。
「わかる。わかる。おれも、何度もそう思ったことがあるよ。おれには実際に五歳まで父親がいたらしいのだが、まったく実感がない。父親がおれを抱いている写真もないし、一度、母親に、本当におれに父親がいたのかって尋ねたことがあってね、えらく叱られたよ」
少年時代でも、父親がいたらいいのにと思ったことはほとんどなかった。父親がいないのが当たり前なので、その欠如さえ感じられなかった。
 それでも、父親がいたらなあ、と思ったことが二、三度はある。最も強く感じたのは、大学へ行きたくて、親類の家を回り、金を出してくれと頼みにまわっていたときのことだ。「あの、怠け者の母親に言っておけ、大学へ行かせたければ自分が働いてやってやれって」と怒鳴られたときだ。悔しかった。あの時はさすがに、おやじがおれば、おやじがおればと、父親の不在を強く意識した。
 牟田は何度も頷いた。
「でもね、担当さんは、おかあさんからこんなお父さんだったって聞かされたことがあるでしょう。私にはそれがないんです。母親に父親のことを尋ねると顔付きが変わるんですよ。それはおそろしい顔になる」
「きっと、おかあさんは人には言えない苦しいことがあったんだよ」
「別に、母親を恨んでいるわけではありません。ただ、父親のイメージがほしい」
 牟田は、下を向いた。
「しかし、これもまた自分の甘えですね。イメージがないなら自分でつくればいいものを」
 下を向きながら細い声でぽつりと言った。
「イメージがなければ自分でつくればいいものを、か」
 健治は、彼の言ったことを反芻し、ぎくりとした。ひょっとして、彼はすでにそのイメージをつくり始めているのではないか。彼の起こした事件が、彼のイメージづくりと何らかの深い関係があるのではないか。そんなことは今の今まで思っても見なかったことなのに、いったん思いつくと、今度は、それは確かなことのように思えてくる。
 すると、さらに、二度目の事件さえ、何か関係ありそうに思える。
 二度目の事件とは、金目的で、資産家の家に、仲間二人と強盗に入った。彼には恋人がいたが、交通事故を起こし、おまけに、「任意」にも「国保」にも入っていなかったので、多額の費用が要った。彼は金を得るため、仲間のうまい話にのった。
 金庫を見つけ、家の主と居合わせた娘を縛り上げた。男の女房はたまたま親戚の家に行って不在の日だった。
 金庫は暗証番号式だったのだが、家の主はパニックで、暗証番号を忘れてしまい、彼の言う番号ではことごとく開かなかった。彼らは焦った。この場におよんでなおも家主が反抗していると思いこんだ。
「言わないんなら、娘を犯してやる」
 仲間の一人が叫び、娘の衣服を剥がし始めた。娘は泣き叫び、家主は震え上がった。そのとき、咄嗟に、牟田は、娘を犯そうとしている男に体当たりし、向うに跳ね飛ばしたという。それから、ゆっくり主を睨み付け、心臓を一突きしたらしい。
「どうして、仲間を跳ね飛ばしたのか」という取り調べ官に「昔、母親が犯されるのを見たときのことが思い浮かんできて、咄嗟にそうしてしまった」と言ったそうだ。だったら、仲間を刺せばいいものをと思うのだが、彼は娘の父親を刺した。彼女の目の前で。
「なぜ刺したのか」と何度も尋ねられている。その度ごとに「何故だかわかりません。咄嗟に刺してしまいました」と供述している。しかし、それは認められなかった。最初からいざとなったら殺すつもりで入ったと認定された。「殺しだけはやらないでおこう」と仲間と言い合っていたという供述も認められなかった。
 牟田は落ちついた表情で、最後の一滴を飲み干したようだ。満足げな顔付きをしている。
「もういっぱい、どうだ」
 健治は声を絞り出すようにして言った。
「いただきます」
 牟田は、顔を上げて答えた。健治は、隅のテーブルに行き、ランプをつけ、またサイホンでコーヒーをわかし始めた。
 再び、二人はコーヒーを飲み始めた。湯気が牟田のコップからも健治のコップからもたちのぼり、蛍光灯の光を反射させながらやわらかく天井にのぼっていく。
「担当さんにはたいへんお世話になりました」
 牟田はぽつりと言った。
「いいや、そんなことは言うな」
 健治には掛ける言葉がなかった。
 おれは、こいつを明日殺す、どのようにして殺すかはもうわかっている。だが、何故におれが殺すのか、それがまだわかってはいない。健治は何度も同じ問いを繰り返す。
「ああ、おいしかった。何年ぶりかな」
「そうか、それはよかった」
「ありがとうございます」
「うん、ああ」
 こいつは、明日、死刑執行を言い渡されたとき、どういう気持ちになるのだろうか、どういう態度をとるのだろう。あわてふためき暴れるのだろうか。緊張と絶望のあまり、失神してしまうのだろうか。それとも、平然と死におもむくのか。
 そうして、このおれは? 身体が硬直してきて言葉がでない。これでは覚られてしまう。
「じゃ、今晩はこれで、あとはゆっくり眠ってくれ。一度、お前に、おいしいコーヒーを飲ませてやりたかったんだが、それができてよかったよ」
 健治が笑ったが、きっと笑いになっていなかったと思う。
「担当さん、お願いがあります」
 突然、牟田が言った。
「ええっ」
「今晩、眠りたくはありません。遅くまで起きていたいんです」
「遅くまでって」
 健治はぎくりとした。
「書き物をしたいのです」
「ああ、書き物。それで? 電灯か?」
「はい」
「難しいな」
「はい」
「ううん、しかたがない、午前一時までだぞ」
 最後の晩だ。そういうことを許したって誰も咎めるものはいないだろう。だが、何を、今晩、彼は、寝ずに書こうと思っているのか。
「ありがとうございます」
「後はゆっくり寝ろ」
「はい」
 健治は牟田の背を抱くようにして部屋を出た。掌に彼のぬくもりが伝わってきた。健治はじっくりとそれを味わった。これが最後になるかもしれないと思いながら。

 仮眠の交替時間直前に、健治は牟田の独房を見回ったが、すでに電気は消されていた。格子戸越しに中を覗いたが、彼は、すでに布団の中に入っていた。だが、寝ているのか、目を開いているのかわからない。立っていると、冷気が廊下の空気を濃密にして、息がくるしくなった。
 健治は仮眠室に帰り、目をつむった。
 何故だか知らないが、いやに父親のことが気になりだした。牟田と話し合ったからだろうか。
 必死になって父親の記憶を探った。父の雰囲気、熱気、何か思い出すことがないか。だが、いっさい思い浮かばなかった。ただ、白々とした空白感だけが、霧の向うに感じられた。
 あいつも、ひょっとして、今、原初の記憶を辿ろうとしているのではないか。母親の側にいたに違いない父親の姿を、と健治は思った。

 それでも少しはうとうとしたようだ。監視室からの合図で目がさめた。
 急いで着替えをし、監視室で打ち合わせを済ませると、すぐに集会室に行った。
 型通りの朝礼が終わると、告げられていたとおり刑場に向かった。刑の執行の予行練習をするためだ。関係者が全員、他の職員には気づかれないように、独房棟の一番端にある刑場の入口に集まることになっている。
 扉を開いて中に入ると、コンクリートの廊下はきれいに掃かれ、高いところの窓や天窓から明るく光が入っていた。廊下の奥を見ると、警備担当の刑務官が制服で二人立っていた。さらに、彼らの横に、刑務官など辞めると言って、職場に出てきていなかった若い田所が、きれいに洗われた制服で、ほとんど警備担当者のような格好で立っていた。
 健治は驚いた。何故ここに田所がいるのか。彼は省いたはずではないか。
 山上の袖を引っぱって、ドアの隅に連れていき、耳元に口を持っていった。
「おい、どうしたんだ」
 山上が答える前に、田所は健治を見つけ敬礼をした。健治も思わず同じように敬礼を返した。
「やるってよ、参加させてくれって、今日早くに私宅にまで押し寄せてきやがった」
「へえ、どういう風のふきまわしなんだ」
「自分が辞めたって、誰かがそれをやらなければならないのなら、いやなことを誰かに押しつけたことになる。それは嫌だとか何とか言って。辞めるかどうかは、これをやってから後で決めるって。わからんよ、まったく、若い奴の気持ちは」
「へえっつ。また、殊勝なことを」
「そうなんだ。殊勝なことさ」
「それで、手続きは可能なのか」
「所長を口説いて、ようやくオーケーをとった」 
「まったく、人騒がせな、世話のやけるやつだ」
「ほんとうに」
「そうしたら、……」
「いや、しかし、あいつにやらして、おれがはずれるわけにはいかんだろう」
「それは、そうだな」
「なあ、おれ、やっぱり、やるわ」
「鳥越さんには休んでもらうか」
「そう。何しろ、五回なんだから」
「多すぎるよな」
「うん」
 山上の表情に一瞬だけ明るさが走った。定年間近な人を休ませることができてほっとしたのだ。
 田所は、健治たちの方に近づいてきた。再び直立不動の姿勢をとり、深々と背を丸めた。
「わがまま言って、ごめん…でした」
 健治は彼の頭をかいくぐるようにして彼の掌を捜し、力を込めて握った。
「しっかりやってくれ」
 彼は、今日のことは一生忘れられないだろう。しかし、彼は彼なりに、自分の仕事をやりとげる意味を見つけたのだ。辞める勇気がなくてこの仕事をやるのではない。理由はともかく、自分で選んでやるのだ。
 すでに、田所のほうが自分より一歩先に行っていると健治は思った。うれしかった。しかし、一方、困惑が両肩を強く締め付けた。自分はまだ何も見つけてはいない。
「本当にご迷惑をおかけしました」
 田所の若い息が鼻壁を打つ。男臭いが決していやな臭いではない。
「やる以上は、もう迷惑はかけるな」
 山上が言った。
「はい、一生懸命やります」
 健治は黙ってもう一度田所の手を握った。彼の手は大きくなっている。皮膚のぶ厚い男の手になっている。
 山上は、姿勢を正した。
「まず、囚人が暴れたときの対処について訓練する。警備担当一人、来てくれ」
 警備担当者が一人走ってきた。
「君は囚人の役になって、徹底的に暴れてくれ。我々はそれを押さえにかかるから」
「はい」
「田所、内田、まず、位置について」
 山上の大声が、密閉されたコンクリートの部屋を駆けめぐった。健治たちは、急いで警備担当者を取り囲んだ。

 いよいよ牟田の死刑執行が始まった。
 山上が先頭に立ち、続いて、死刑囚の牟田を挟んで健治と田所が歩い行く。
 腕をしっかりと抱え込む形で、健治は歩いた。牟田の体温が肌に熱線のように伝わってくる。昨夜の温かさと同じ温かさだ。
 警備担当の刑務官が二人、棍棒に手をかけ、少しの動きも見のがさない鋭い視線を送りながら付いてきた。後ろから所長、検事、保健課の医師が歩いてくる、三人三様の靴音がはっきりと聞こえた。
 健治には、見なくても、所長は検事に気を使い、そちらばかりを注意しているのがよくわかった。なにもかも無事に終わってくれ。そう祈りつづけているに違いない。そして、この自分も。
 牟田の身体に動きが感じられた。暴れ出す準備か、震いの前触れか。だが、何もなかった。彼は静かに歩いていく。
 田所を見ると、彼も動きを察知したのか、首の肌をこわばらせている。ひくひくと肩近くの筋肉が動いている。 
「独房棟の玄関から刑場の入口までが最も注意が必要なんだ。ここだけが外部を通らなければならないからな」と山上は先程、何度も注意した。暴れ出したら最初にすることは、彼の口にハンカチを押し入れること。そうでないと、刑の執行が他の囚人たちに知れ渡ることになる。敏感な彼らは動揺し、興奮する。不測の事態も起こりかねない。
 すでに、ハンカチを押し入れる役目も決まっている。警備官の一人だ。
 囚人たちも知っている。暴れるならそこが一番いいことを。
 牟田は暴れるのだろうか。きっと暴れる。自分が今から殺されるというのに、暴れないわけがない。如何に意志が強くても、本能が許さないだろう。暴れに暴れまくって、意識がもうろうとしてようやくわれわれによって取り押さえられ、引きずられるように、刑場の床に乗せられる。その時にはすでに意識が薄れている。
 だが、先程、所長が独房横の会議室で、死刑執行を言い渡した時の牟田の落ちつきようはどうだ。ぜひ、遺書を書くように促したとき、彼は、下着の中からいくつかの封筒をとりだし、所長にそっと手渡した。驚きながら、所長がそれらを受け取り、健治を睨み付けた。「お前、漏らしたな」と言わんばかりだった。
「こんなこともあろうかと思って、日頃……」
 牟田は所長の疑問を読んだように言った。しかし、所長は信じはしないだろう。インキの乗り具合を見れば、いつ書かれたものくらいは所長だっわかるだろう。
「お前、昨日教えたのか」
 耳元で山上が囁いた。
「いやっ」と言ったが、強くは否定しなかった。
 その後、お茶とカステラ五切れ要求し、二切れをおいしそうに食べてから、後の三切れを残される三人の死刑囚に食べさせてやってくれと頼んだ。その後、天窓から見える蒼空と白い雲をしばらく眺めていた。
「さあ」と所長が言ったときも、彼は何の躊躇なく椅子から立ち上がった。
 山上は、ゆっくりと歩く。いかなる微細な動きをも見のがさないように細心の注意を払っている。肩のあたりがときどき左右に揺れ、前後に動く腕のふりも、乱れがちである。
 山上の肩がゆれた。と同時に、田所が動く気配がして、そちらに目を移すと、彼の顔が真っ青になり、息をぐっと飲み込んでいる。身体の震えが伝わってくる。牟田の震えかと思ったが、田所が震えているのだ。
 その瞬間、牟田が身体を大きくねじり、健治と田所の腕がすっぽりとぬけると、振り返りざま一気にグランドのほうに向けて全速力で走り始めた。
 しかし、それは瞬間健治が見た幻にすぎなかった。牟田は歩むのをゆるめ、顎を突き出して空を見上げただけだった。そよりと風が通り過ぎ、五分刈りの牟田の髪の毛を少し揺らした。
 田所は相変わらず、吹き上げてくる嘔吐を耐えている。玄関に付くまで何とか耐えろ、そこで、山上と交替して、時間をやるから。
 田所を見るのを止めた。自分まで、血の気が下がり、嘔吐を感じ始める。
 牟田が健治のほうを向いた。健治はぎくりとしたが、次の瞬間、心がふうっと落ちついた。彼の目が、静謐な湧き水のようだったから。
「お前なあ、おとうさんが死ぬ前、私らがちょっと目を離した隙に、おとうさんの横で添い寝してたんやで。苦しい息をしているおとうさんの顔をじっと見ながら」
 母が父のことを尋ねるごとに言っていたことを思い出す。いくら思いだそうとしても思い出せなかった父の目が、今、牟田の瞳を覗いたとき、おぼろげながら、目の前をかすめた。
 父は、おそらく自分の死がすぐそこに来ていることを察知しながら、うろたえることなく、静かな目で我が子を眺めていたのだと思う。
 おれにはとてもできることではないな、と思う。しかし、それを目の前の牟田がやってのけている。
刑場の入口まで来た。山上は牟田を迎えるようにして立った。牟田も直立不動で立ち止まる。暑くもないのに、牟田の顎やこめかみから汗がしたたり落ちる。水玉のように光る。肩のあたりも汗で染みをつくっている。彼は決して淡々としていたのではない。闘っていたのだ。
 山上もまた同じようだった。鼻汁を垂らしているのかと思うほどに、顎の端から汗を滴り落とした。

 田所は二度吐いた。最初は刑場の入口に到着したとき、山上に彼の役を交替させ、入口の横の草原に走っていき、吐いた。もう一度は、検死のため、顎にかかっている縄を解き、担架に寝かせたときだった。山上は自分の来ていた上着を袋のようにすると、すばやく田所に渡した。渡した瞬間にその中に吐いた。酸っぱい臭いが牟田の汚物の臭いと混じり合い、健治も嘔吐を催した。しかし、必死で耐えた。嘔吐することが牟田に悪いように思ったからだ。
 牟田はいっさい手こずらせることはなかった。むしろ、自らそれを望んでやっているようにさえ思えた。彼に目隠しをしようとしたとき、彼は健治に小声で呟いた。
「見届けてくださいよ。担当さん。りっぱにやってのけますから」
 苦しかった。牟田が二階に上がった所にある祭壇に長いこと手をあわせているとき、首に縄をかけるとき、失神するほど緊張して苦しかった。だが、自分の行為に意味がないとは思えなかった。牟田も必死で闘っている。淡々としているようで、強烈な闘いをしている。それが伝わってきた。他の奴には、悟りきった立派な奴に見えるかも知れないが、そうではない。彼は今、正念場を迎えている。そう思えた。それに共鳴するかのように自分もまた何かと必死に闘っていると思えた。何と闘っているのかわからない。ただ、度々、母の言葉が思い浮かぶ。
「私の前ではうんうんと呻きながら、お前が来ると呻くのをぴたりと止めて、笑顔さえ見せるのやで」
 ひょっとして、牟田は自分で自分の父になろうとしているのではないか。自分の父のイメージを自分で演じようと。
 保健課の医師の検死、検事の処刑の確認、所長の処刑終了の宣言など間、健治たちは放心していた。「ご苦労さん」所長は一人ずつ肩を叩いてまわったが、我々は一言も発せられなかった。ただ、黙ってコンクリートの壁を見つめていた。
 三人は刑場を出た。陽が燦々と降ってきてまぶしかった。夏ではないのに草いきれが強く匂った。
「よくやったよ」
 山上は田所の肩を叩いた。
「仕事っていうものはこういうものだ、なあ」
 山上は健治のほうを向いて同意を求めてきた。
「ああ」
 健治は相槌を打った。
「よし、今度の『土、日』は山登り。内田ともう決めているんだ、なあ、内田」
「ああ」
「山はすがすがしいぞ。下界のことはすべて忘れられる」
 田所はうつむいたまま健治たちのほうは向かなかった。
  
 死刑執行の仕事はつらかった。しかし、思ったよりも動揺はしなかった。牟田が淡々と振る舞ってくれたせいもあるが、それだけではない。やっている最中は気づかなかったことだが、今考えると、牟田がこんなにもりっぱにやり遂げているではないか、負けてなるものかといった奇妙な競争心が生じていたことも事実だ。それに、時々強烈に襲ってくる罪悪感に、少年時代の、親戚中を、米や野菜をもらうために頭を下げて歩いた姿を対峙させて耐えた。さらには、「はよう大人になって、米や野菜を買う金ぐらいは稼いでやる」と思っていたこともつけ加えた。ときには、「お父さんさえ生きていたら、お前にはこんな苦労はかけないですんだのに」と、自律神経失調症の母親が布団の中から痩せた首を突き出して、さかんに涙声で言っていた姿まで。
 突然扉にノックの音がした。どうぞと合図すると、「あら、やっぱり」と野口かずきが健康そうなつやつやした笑顔を覗かせた。部屋が急に華やいだ。
「安中ともえからファックスが来ました。お店からだと思います」
 野口は待ちに待った恋人から返事が来たような明るくて高い声を出した。ファックス用紙が、右手に持たれて旗のように振られた。
「うまくなじんでくれそうかなあ」
「はい」
 野口はファックスを差し出した。まったく下手な字だった。しかも大きくて、文字のならい始めの子どものような字だ。「みんな親切です。よくしてくれます。うれしいです。仕事、がんばります。みんな野口先生と内田先生のおかげです。ありがとうございました。」
 とあった。
「何とかなりそうだな」
「はい。ありがとうございます。先生のおかげです」
「おいおい、いつからおれは君の先生になったんだ」
「まちがいました。内田看守長」
 二人は声を上げて笑った。牟田には悪いと思いながらも笑いは止まらなかった。
 またもやノックの音がし、今度は山上が入ってきた。
「おいおい、こんなところでデートか」
「違います」
 野口は一瞬顔を赤らめた。健治はそれがうれしかった。
「これを見せに来たのです」
「どれどれ」
「いーや。山上看守長には見せないもん」
 野口はファックスを子どものように胸に抱きしめると、「では、私はこれで」と言って、部屋を出ていった。
「若い奴はいいな」
 山上はしみじみと言った。健治もまったく同感だった。
 しばらく、沈黙がつづいた後、山上が言った。
「田所は一人にしてくれて。いっしょには飲みに行かないって」
「そうか。それはそうだよ。こんなときはお互い一人がいいよ」
「そうだな。一人で浴びるほど飲むか」
 山上が寂しそうな声を出した。テーブルの上の半分飲みかけのお茶を無意識に取りあげると一気に飲んだ。それから、扉のほうに向かって歩きだした。
「山には田所、絶対に連れていこうよ」
 彼の背に向け、健治が悲鳴のように言った。
「行くかなあ」
「行くよ。二人で説得すれば必ず行くって」
「そうだな。二人で説得すればな」
 扉の閉まる音がか弱く鳴った。
 
 三日月が黒々とした家並みの上に三つ並んでいる。すべての月は周囲を夜空に溶かしている。
 前方の三階建ての瀟洒な家は、ガウディの家のように歪んで倒れそうだ。
 身体が揺れるのか、風景が揺れるのか、回りは決してじっとはしていない。前後に揺れたり左右に揺れたり。足も自由には動かない。身体がやたらと重く、足が身体をもう支えきれない。しかも、いつもの気持ちのよさは全くない。重い身体の上に、さらに、誰かが覆い被さっているような感覚である。それでも、頭だけは冴えている。自分が何をしようとしているのかはっきりとわかっている。
 携帯電話が普及してから、公衆電話が激減した。なかなか見つからない。かなりの間うろついて、ようやく電話ボックスを探し出し、ほっとして中に入った。家の電話番号を押すと、息子の高志が出た。ちょうどよかった、と健治は思った。
「どうしたの、酔っぱらっているの」
「酔っぱらってなどいるものか」
「酔っているよ。言葉がよたっている」
「いや、酔ってなどいない」
「どうしたの、おかあさんと代わるよ」
「だめだ。今日はお前と話がしたい」
 言葉が一気に直立し、まともになったことを実感した。よたってはいない。息子も、緊張し、息をつめたことがわかった。
「音楽がやりたいのか」
 健治は言った。
「ああ」
「『ああ』じゃだめだ」
「やりたい」
「死ぬほどか」
「死ぬほど」
「そうか、よし、それならやれ」
 健治は驚いた。自分がこんなことを言うつもりはなかった。高校はまじめに行け。大学は絶対に受験しろ。そう言うつもりだった。
「ええ?」
「やれ、死ぬ気でやれ」
 息子はしばらく黙った。
「わるいな、お父さんが僕を大学へやりたがっていることはよくわかっているよ。お父さんは大学へ行けなかったから……」
「お、おれのことはいい」
 すると、突然、例の耳鳴りがかすかに頭の芯で鳴った。しかし、それはいつもとは違っていた。音が鮮明になり、誘われるようにして、記憶の底が持ち上がるような気がした。
 さわさわという葉ずれの音が聞こえ、水の煌めきのようなものが見え、その上に赤いトンボのしっぽさえ認められた。泥のむせるような匂いがし、ちゃぴちゃぴ、ごぼごぼと、何かに水が切られるような音がする。どんどん音が近づいて来て、健治の前でぴたりと止まった。
 健治は小さな舟に一人で乗っているのがわかった。舟はバランスを崩し、大きく左右に揺れた。健治は今にも落ちそうになる。だが、持っていた昆虫網の棒を池の底に突き刺してかろうじて落ちるのを防いだ。あたりはまぶしいほどの「ひし」の葉の緑色に覆われていて、水面がほとんど見えない。
「じっとしていろ、じっとしていろ」という声が突然後ろからする。首をねじって声のほうを見る。頭の毛や顔中を黒い泥が覆い、白いワイシャツも泥で黒くなった男がひしの葉を掻き分けながらこちらにやってくる。泥のくさい臭いが一気に押し寄せてきた。「じっとしていろ、じっとしていろ」舟は再び揺らいだが、次の瞬間、男によって掴まえられ、岸の方へやられた。記憶はそこまでだ。男の顔も、その後のこともよくわからない。しかし、あれが父であったということだけは確信できた。父の思い出の最初で最後の記憶。
「五年間だけ、お願い」
 高志が言う。
「四年じゃないのか」
「四年じゃちょっと心許ない」
「よし、五年、きっぱり五年。後は絶対に援助しないからな。覚悟しておけ」
「わかった」
「よし」
「それで、おかあさんに伝えることは」
「あともう少ししたら帰る」
「あと、もう少ししたらね。じゃあ、気をつけて」
「ああ」
 電話が切れた。電話ボックスの壁に寄りかかり、蹲った。ボックスからのかすかな光で路上の草がゆれているのが見えた。冷気が身を裂いてくる。
 これだけで家などに帰れるものか。もう一軒。まだ開いている店を知っている。
 健治は、電話ボックスを杖がわりにして、ふらつく足で必死に立ち上がった。硝子の壁がガタガタと揺れた。


                        
参考文献・資料 愛と死の壁・ある看守の手記(板井秀雄・角川新書・1956)
   死刑執行人の記録(阪本敏夫・光人社・1998)
   実録・刑務所の中(阪本敏夫・二見文庫・2002)

 

 

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