田倉家の門をくぐったのは七年ぶりのことだった。
今歩いてきた住宅地とは異なった旧家独特の濃密な空気と静けさが肌にまとわりついてくる。僕は足を止めると、広い敷地内を見回した。
記憶の中ではいつも緑濃く生い茂っていた庭の木々も、四月初旬の今は新芽が出始めたばかりで黒い枝だけが夕空に影絵のようにくっきりと浮かんでいた。だが木々の配置は以前と少しも変わっていない。
僕は秘密の森に辿り着いたような気分に陥った。少年時代の懐かしい気分。未知なる不安と期待に胸が高鳴るような……
僕は深呼吸すると門から玄関に続く敷石を歩き出した。
「かんちゃーん」
上の方から僕を呼ぶ声がする。見上げると、敷石から横に少し入り込んだところに植わっている柿の木の枝に誰かが腰掛けていた。薄暗いなか目を凝らすと、ジーンズをはいた小柄な少女が手を振っている。
従妹の藤子だ。
脳裏にまだ小学生だったころのおかっぱ頭の小さな姿が浮かんで消えた。七年の時を経て現れた彼女はあまり変わっていないように見えた。
僕は安心したような、ちょっとがっかりしたような複雑な気分だった。
「おまえ、相変わらず木に登って。少しは女っぽくなったかと期待してたのに」
僕は柿の木の方に歩み寄りながら、藤子に声をかけた。
「期待はずれで悪かったわね。せっかくお出迎えしてあげたのにぃ」
藤子が両足の脛をバタバタと揺らし、拗ねたような声をあげる。
「それが人を迎える態度かよ」
「じゃぁ、歓迎の意を込めて、ここからかんちゃんに飛びついてあげようか」
「それだけは絶対やめてくれ」
僕は二、三メートルほど上にいる藤子の言葉にギョッとして、思わず後ずさりした。
僕は中学を卒業するまで藤子の家の近所に住んでいた。
この辺りで田倉邸といえば誰もが知っている旧家だった。東京都心部にありながら三百坪の敷地を持ち、ぐるりと巡らした塀の中には、しっとりと落ち着いた緑の草木に包まれて、大正末期に建てられた洋風家屋が重々しく構えていた。現在の邸主は藤子の父、僕の母方の伯父であった。伯父は田倉家の財産の中でもその庭を、とりわけ居間の窓からよく見える前庭の藤棚を気に入っていた。
その長い花房のおごそかさ。なだらかな逆円錐形から漂う優美さ。紫色から白へと流れる上品で奥ゆかしい色合い。
伯父は藤の花が咲くごとに感動して、もし自分に女の子が生まれたら「ふじこ」と名付けようと昔から決めていた、という話は、田倉家の親戚中が知っている語り草の一つであった。そして、どうやら藤子はそんな花の風情とは縁遠く育ってしまったらしい、というのも親戚中が周知している事実であった。
あれは、今から八年前の夏の夜のことだ。
中学三年生だった僕は学校帰りに母を迎えに藤子の家に立ち寄った。ちょうどその頃、父は単身赴任中で僕と母の二人暮しだったので、母は実家であるこの家に来ては伯父一家と一緒に夕食を摂ることが間々あった。そんな時は僕も部活が終わって帰宅してから、徒歩二十分の藤子の家に顔を出し、夕飯を食べて母と帰ることにしていた。
で、その時も僕はお腹を空かせて田倉家の門をくぐった。日はすでに沈み、月が夜空を照らしている。しかし、うっそうと生い茂る木々の陰影から生まれた闇が庭全体を覆っていて、玄関に向かう足が自然と速くなる。
すると、どこからか「かんちゃーん」と呼ぶ声が聞こえた。僕は首を巡らして、柿の木の枝に浮かび上がる藤子の姿を見つけると、木の下まで行って叫んだ。
「おい、こんな暗くなってから木に登っていたら危ないだろ。早く降りてこい」
「はーい、今おりるー」
と無邪気に答えた藤子は高さ三メートルほどの枝から僕めがけて飛び降りたのだ。藤子の思いもよらぬ行動に泡食った僕は彼女を両手と胸で受け止めたものの、その勢いで後ろ向けにひっくり返って地面に背中と頭を思いっきり打ちつけた。「痛てぇー」と唸ったのも束の間、僕の意識は遠のいていった。
立派に花房を垂らした満開の藤棚の下。
一人の女の人がしゃがんでいる。
辺り一面真っ暗だ。
なのに彼女がいるところだけ藤の花の淡い紫に彩
られてぼんやりと明るい。
僕は背後から息を殺して彼女を見つめた。
華奢な背中が小刻みに震えている。
喉を詰まらせるような息遣いが聞こえる。
彼女は止めどもなく泣いていた。
そして、しゃくりあげながら、
「……早く気がついて、早く気がついて……」
と、呪文のように繰り返している。
向こうをむいているので、彼女の顔は見えない。
背中の半分までまっすぐに伸びたつややかな黒髪。
肩から背中にかけてのほっそりして、それでいて
柔らかな輪郭。
藤の花房の上品な色合いとたおやかな枝垂れ具合
が彼女に似つかわしかった。
薄ぼんやりした藤色の空間に彼女のすすり泣きと
つぶやきが溢れている。
「早く気がついて……気がついて……」
彼女は誰なのだろう。
なぜ泣いているのだろう。
僕は彼女を知りたかった。
僕は彼女に声をかけようと身を乗り出した
………
そのとたん、僕は意識を取り戻した。
先程の静けさから一転して、母と伯母と藤子の声が高波のようにどっと襲いかかってきた。
後から聞いた話によると、僕が目を覚ますまでの間、田倉家は大騒ぎになったらしい。
無傷だった藤子は「かんちゃん、かんちゃん」と、僕を揺すぶったものの目を開けないので、「かんちゃんが死んじゃったー」と大声で泣き出した。彼女の泣き声に驚いて家から飛び出してきた母と伯母は、一八〇センチ近い大柄な僕が倒れているのをどうすることもできない。藤子の話から、たぶん脳震盪だろう、呼吸はしてる、やれ、脈も正常だ、下手に動かしちゃいけないと、あーだこーだ言いながら僕の周りをウロウロするばかり。事態をよく飲み込めていない藤子は「かんちゃんが死んじゃったー。藤子のせいだー。ごめんなさーい」と大泣きしてるし、それを聞いた通りがかりの人が何事かと門から中を覗いていくし、伯母は騒ぎを治めようと「藤子っ、かんちゃんは気を失ってるだけだから、泣くのやめなさいっ」と怒鳴り出すし、母は「救急車呼ばなきゃ、早く一一〇番!」と、慌てながら警察に電話をかけしまって、「落ち着いてください。救急車は一一九番です」と優しく諭される始末。そこはもう火事場のような騒ぎだったらしい。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
僕は顔をしかめながら無理矢理頭をもたげて藤棚の方を見た。遠目に見える緑深い藤棚の下には誰もいなかったし、当然季節はずれの花も咲いていなかった。
救急車が到着した。藤子が小柄だったことと、倒れ込んだ地面が伸びた芝生だったことで、僕は軽い脳震盪で済んだらしい。しかし、救急隊員は頭を打ってることだから大事をとって病院で検査を受けるよう勧めた。僕は一日だけ入院することになった。
その日の夜中、慣れぬ病院のベッドに横たわりながら気を失っていた時に見た夢を思い出していた。一体あの女の人は誰だったのだろう。ただの夢にしては妙に心に引っかかった。なぜ泣いていたのか。「早く気づいて」と言っていた。母たちの心配する声が夢になって表れたのだろうか。それとも、あの古い屋敷には藤の木の霊でもいるんじゃないだろうか……
部活の疲労に空腹も手伝って僕の体はくたくただったが、頭だけが冴えてしまって明け方まで眠れなかった。
藤の花を見るといわれの知らぬ神秘性を感じるようになったのはこの頃からである。僕が中学三年生、藤子が小学四年生の夏であった。
中学卒業後、僕は父の単身赴任先の地方都市に一家で移り住み、その地で高校、大学と進学した。そして、今春大学院に編入するために東京に一人で戻ってきたのだ。藤子に会うのも藤子の家を訪ねるのも中学卒業以来のことだった。
「あのときは本当にかんちゃんが死んじゃったと思った」
藤子は枝を飛び降りることなく、器用に幹をつたいながら降りてきて僕の横に並んだ。首を上げて僕を見上げる。
「かんちゃん、身長いくつ? まだバレーやってんの」
「一八五センチ。元バレー部エース、大学リーグ入替戦で負けて四部リーグに降格して引退」
「その顔と背でエースだったら、モテモテだったでしょ」
藤子がニヤニヤしながら聞いてくる。僕は少しどきりとした。周りの人が思うほど、女性との付き合いは多くない。この一年恋愛らしきものとは縁がなかった。それはそれで楽だったのだが、たまに心躍らせる対象がいないのに物足りなさを感じる時があった。
それにしても、五歳も年下のくせに何でも無遠慮に口に出す藤子の困った性格はまったく改善されてないようだ。
「なんちゅーこと言う口だ」
僕は幼い時そうしたように彼女の頬をつねった。
「痛っ……」
彼女の声に思わず手を緩める。昔より幾分つまみにくくなったような気がした。僕は少し戸惑った。
「何すんのよー」
藤子が顔を赤くしながら怒る。彼女の拳が僕のみぞおちに飛んでくる。
すぐムキになるところは昔と変わらなかった。人はそんなに簡単に変わるもんじゃないのだ。僕も少しは大人になって物事を悟ったつもりでいるけど、本質的には昔と変わってないのかもしれない。現に藤子は僕を久しぶりに見たのに、いぶかしむことも驚くこともなく出迎えてくれた。僕が藤子を見て昔と変わらないと思ったのと同じく、藤子も僕のことをそう思っているのかもしれない。
僕は庭の奥に目を遣った。以前と変わらぬ場所に、まだ葉の出揃わぬ藤棚が夕闇にひっそりと埋もれていた。その下に黒髪の女が立っている。声を潜ませ、柔らかな肩を震わせながら……
そんな空想が頭に浮かんだ。
田倉家の夕食は賑やかだった。伯父はしきりに僕に酒を勧める。僕は家庭教師に来たつもりなのだが、伯父と伯母にとっては僕に食事を振舞うのが狙いであるらしい。
伯父と伯母は人好きで世話好きだった。一人暮しをする僕のために便の良いアパートを紹介してくれたのは伯父だし、引越の日に新居に来て部屋の掃除や整理を手伝ってくれたのは伯母だった。そして、「せっかくこっちに住むんだから、週に一度、藤子に数学を教えてくれない? お月謝払うから」と話を持ちかけてくれた。新しいアルバイトを探さなければと思っていた僕は渡りに船とばかりに快く承諾した。そんな現金な僕をこんなふうに歓迎しもてなしてくれる伯父伯母に後ろめたさを感じたが、それも伯母と藤子のおしゃべり攻撃に吹き飛んでしまった。
とにかく伯母も藤子もひっきりなしにしゃべる。七年ぶりに会った僕への質問も最近起きた身の回りの出来事も彼女達には同じ次元のことであるらしい。話題が前後左右今昔にとぶ。雄弁な伯父もこの時ばかりは相槌を打つ役に回ってしまう。今夜の伯父の口はもっぱらビールを飲むことに専念する覚悟のようだ。
「A大学の数学科の大学院だなんて、すごいわねー。勉強熱心なのね」
僕が今春から通い始めた新しい大学院の話に伯母がしきりに感心する。就職する気も起きなくて、なんとなく進んできてしまっただけなので、褒められると恐縮してしまう。だが、そこで藤子が口を挟んだ。
「A大って、エトーの行ってる大学のそばだよね」
「藤子、何ですかっ。先生を呼び捨てにして」
「だって、エトーってなんか頼りないんだもん」
「おまえは年上の人にもっと敬意を払いなさい」
伯父が藤子をいさめる。
「わしの遠縁の娘さんなんだ。去年こっちの大学に受かって一人暮しをしているんだが、田舎の親にとっちゃ大事な一人娘だからもう心配ばかりして。だから、わしが保護者代理を引き受けて、週一回英語の家庭教師としてうちで面倒見てあげてるんだ」
僕は思わず苦笑した。どうやら僕もエトーさんと同じ境遇らしい。
「それがさー、かんちゃん、いまどき上品なピンク尽くめのお嬢様って格好してんのよ」
「女の子らしくていいじゃん」
「えーっ、いまどきイケテなーい。あんな田舎出のお嬢様気取ってるから、カレシに逃げられるんだよ」
藤子の穏やかじゃない発言に、僕は返答に窮してしまった。伯母は即座に藤子の頭を小突いた。藤子は頭をさすりながら「エトー、ごめん」と苦笑とともに呟いた。
家庭教師初日の予定はなしくずしに終わってしまった。ご飯を食べ終えた藤子がまだ酒宴の終わらぬ食卓に数学の教科書や問題集を持ってきて「学校の授業中心に」となにやら言い出した。僕は教科書をパラパラと見て高校三年生の数学なんぞさっぱり忘れていることに気がついた。伯父が横合いから「今日は久しぶりに会ったんだからそんな無粋な物は引っ込めて、まぁ一杯」と酔いに任せて口を挟む。酒気帯びの僕は伯父の言葉をいいことに、
「よし、来週からその問題集をやっていこう。おい、それどこのだ。俺も同じの買って勉強しなきゃ。受験生は大変だぞー。よし、今日は自習だ」
と勝手なことを言って藤子に教科書を突き返した。
「かんちゃん、酔ってる」
藤子が口を尖らせた。
「一度、息子と酒を飲みながら語り合うなんてことをやってみたかったんだよ」
伯母が食堂の後片付けを始めたので居間に酒宴の場を移した伯父が僕にビールを注ぎながらしゃべり始めた。
昔この家で母と夕食をご相伴に預かっていた頃も、伯父はバブル景気で忙しいにもかかわらず、食事時には帰宅して皆と食卓を囲むようにしていた。しかし、伯父とこういうふうに差しで話し合うのは初めてだった。
伯父は僕のことをたった一人の妹の大事な一人息子として、小さい時から目をかけてくれていた。僕のほうでも気さくで長身で格好のいい伯父が好きだった。
伯父は長年営業をやっているためか、話が上手く社交的だ。だが、もし、そうでなかったら、現在伯父達が経営している会社は伯父の父、つまり僕にとっては祖父の死と同時に潰れていたかもしれないのだ。
「わしの親父が、よく同じことを言っていたよ。『おまえが社会人になったら夜は一緒に飲んで帰ろうや』ってね。まぁ、わしが大学四年の時に交通事故で死んでしまったからその夢も果たせなかったわけだが……」
伯父が遠い目をしている。当時のことを思い出しているのだろう。
僕の祖父母は僕の生まれる数年前に車の運転を誤って崖から転落、即死だったそうだ。親族で経営している会社の経営状態が思わしくない時であったから、社長夫妻自らの保険金で借金返済か、と事故の有意性を疑われたらしい。当時せっかく大手企業に就職の決まった伯父も泣く泣くその内定を捨てて、大伯父達と供に残された会社を立て直すのに必死になって走り回ったらしい。今ではこの不況の世の中でもやっていけるだけの安定力を持つ会社になっているが、当時は家も敷地も借金の形に取られてそのまま路頭に迷うのかと心配で眠れないほどだった。そう母がこぼしていたのを覚えている。
僕は伯父のグラスにビールを注いだ。伯父は僕に視線を向けたかと思うと、何か思い出したようにニャッと笑った。そして、グラスのビールを半分ほど一息に飲み干すとまた僕に話し始めた。
「克巳くんは藤の精の話を聞いたことがあるかい」
「いいえ」
僕は否定しながらも、あの時見た夢を思い出した。伯父は意外そうな顔をして、「ほぉ、聞いたことないのか」と漏らした。
「今じゃ田倉家の笑い話になっていることだが。わしが克巳くんと同じくらいの頃、なぜだか知らんが同じ夢ばかり見るんだ。女の人が藤棚の下でメソメソと泣いているんだよ。後ろ向きで顔は見えないんだがな、髪の毛のツヤと華奢な肩、もろそうな体の線から若い女だっていうのは分かるんだ。満開の藤の花が辺りを薄紫に染めていて、忘れられない光景だった」
伯父の夢は僕が見た夢と一致していた。すると、あの藤の女は代々この屋敷に伝わる不思議な現象なのか。僕は自分の体験を言う気にはなれなかった。だが、昔からの一番の疑問を投げかけた。
「それは誰なんですか。何故泣いてるんですか」
伯父は、わしにも分からないよ、という感じで首を振って話を続けた。
「夢を見るたびに今日こそは彼女の顔を見てやろう、どうして泣いているのか聞いてあげよう、と思うんだが、いつも果たせず仕舞い。そんなことがずっと続いていたんだ」
僕は伯父の赤ら顔をまじまじと見た。伯父は屈託のない楽しそうな表情をしていたが、目は笑っていなかった。
「頭に思い浮かぶ女といったら、そいつばかりになって。若さゆえの思い込みってやつだな。酒の場になると、わしの伯父達、ほらあのガハガハ笑いの大おじさんとかに、藤の花の精とか、これから出会う運命の女とか大がかりなことを真剣に言ってたわけよ。もう伯父達は大笑いするは、面白がってけしかけるはで、この話は親戚中に広まってしまって、今では立派な語り草だ」
「その運命の女にはその後出会いました?」
「いや、次第にその夢も見なくなって、わしの頭からその女も消えてしまったからな。うちの嫁さん、あれは藤の精って柄じゃないし。どちらかといえば瓢箪に近いだろ」
僕は実家の庭に下がっている瓢箪を思い出して失笑した。たしかに、あの朗らかで明るい形は伯母のイメージに近かった。
「まぁ、若気の至りで見た夢だ」
伯父は立ち上がると、酔いに身を任せたように窓辺まで歩いてカーテンを開け、次いで窓を開けた。春の夜の薄ら寒い空気が部屋に流れ込む。僕もつられて外を眺めた。
都会の真ん中にもかかわらず木々に囲まれた庭には不思議な静けさがあった。庭の中ほどに、まだ花の咲かぬ藤棚が月明かりに照らされて細く浮かび上がっている。そこには何もいないし、物音一つしなかった。だが、何かの訪れを予感させた。
僕達はそれを待つかのように黙って庭を見続けた。
その晩、夢を見た。
酔いのため帰るのが億劫になり、僕は藤子の家に泊まった。伯母に案内された二階の一室は誰も使っていないらしく、きれいに掃除されているものの重たい空気がこもっていた。今にも溶けていきそうな壁紙。傷痕が残る頑固そうな床板。色の褪めたカーテンが下がった窓の右前に古ぼけたベッドとサイドテーブルが置いてあるだけ。その部屋の時間も温度も色彩も過去のある時点で止まったまま凝っているようだった。その昔誰が使ってたんだろう……酔った頭でそんなことを考えながら、ベッドに倒れ込んだ。そしていつのまにか夢の中に僕はいた。
藤の花が満開で熟しきった花がほろほろと女の肩
や背中に振り落ちる。
彼女は依然しゃがんだまま。
黙って背中をむけている。
黒髪が藤の花が放つ淡い明りを映して輝いている。
その彼女の向かいに男の人がいた。
腰を少し屈めて彼女の様子をうかがっている。
あれは誰?
そう思った瞬間、僕はその男になっていた。
しばし彼女の震える肩を見つめる。
「泣いているの?」
僕はとうとう話しかけた。
「……さびしいの……」
消え入りそうな呟きが漏れた。
そして、
彼女は立ち上がった!
僕の胸は期待と緊張で高鳴る。
だが、彼女は僕に背を向けると、暗闇の中へ去っ
ていった。
ほっそりした、しかし優雅な後姿。
彼女が立ち去った後、ふんわりと甘い藤の花の香
りが僕をそっと包んだ……
「待って!」
夢うつつの状態で僕はベッドから跳ね起きた。窓のカーテンが揺れる。夢の残像か錯覚か、窓の外へ通りぬける人影を見たような気がした。僕は夢中でカーテンを開ける。
かなり使いこまれた木枠の窓は見かけよりも頑丈でしっかりと閉じられていた。硝子越しに煌々と月の光が射しこんでくる。下の庭には藤の木々が細い枝をうねるように広げていた。
一週間後の金曜日、僕は藤子の家に向かうべく大学の研究室を後にした。夕方六時頃になると辺りはもう薄暗くなっている。
最寄のJR『大学前』駅構内の上りホームから下りホームに渡る連絡橋を歩いていた。今日も何人かの女の子達とすれ違う。下りホームの改札を出るとB女子大があるからだ。蛍光灯がジージーいう古ぼけた連絡橋も華やかな女子大生が通ると、あかぬけた出会いの場所に感じられてくる。
この一週間、僕はすれ違う女の子達を何気なく目で追うようになった。あの藤子の言ってた「エトー」さんがこの女子大に通っていると聞いたからだ。
藤子なんかに「エトー」と呼び捨てにされる、田舎出のおっとりした箱入り娘。事情は知らないが彼氏に逃げられてしまった可哀相なお嬢さん。そんな彼女に興味を感じたのだ。もしかしたらこの駅のどこかですれ違っているかもしれない、と思うと気にならずにはいられなかった。しかし、いくら期待しても、顔も知らないのに。脳裏に浮かぶのは何故か夢の中の女の姿だった。……滑稽だな。僕は連絡橋の階段を降り始めた。
ふと、足を止めた。
下のホームに一人だけ場違いのセーラー服姿の学生が見えた。蛍光灯の黄ばんだ光の下で、それが藤子だということが判明できた。藤子が一人の女の人と話している。会話こそ聞こえないがいつもと変わらぬ遠慮のない口調でしゃべっているのが見て取れた。対する女性は藤子の話を真面目に聞いてあげている。淡いピンク色の縁付き帽子を被り、長めの髪には緩くパーマがあたっていた。パールピンクのスプリングコートが、彼女の不自然な帽子にも雰囲気にもよく似合っていた。背丈は藤子より高いが、ほっそりしているので全体的に小柄に見えた。
二人の用事が終わったらしい。ピンクの帽子の女は連絡橋に向かって歩いてくる。僕は階段の半ばにボーっと突っ立ったまま、目だけは彼女を離さずにいた。身体中の血管が妙に大きく脈打っている。僕の身体で動いている器官は視神経と動脈だけのような気がした。
彼女は、たたたた……と階段を駆け上がって、僕の横をさっと通り過ぎた。まるで、顔を見られるのを避けるように。下を向いて、僕の方には目もくれず。
帽子を目深く被っていたので僕には顔がよく見えなかった。ピンクの帽子からはみ出た髪の毛がフワッとなびき、後にはほんのり柔らかい香りが残った。
僕は振り返って後ろ姿を目で追った。彼女は階段を上りきって角の向こうに姿を消した。
あれが「エトー」か。僕はそう決めて疑わなかった。突然視界に入った彼女の姿は、僕の心に大きな波紋を揺り起こした。彼女が残していった雰囲気は先日見た藤の夢と一緒だった。夢の女と同じように彼女も僕を淡い空気の中に置き去っていった。また会いたい……僕はゆっくりと階段を降り始めた。
プラットホームに電車が入ってきた。藤子と一緒に帰ろう、そう思って僕はホームに立っているであろう藤子の姿を探した。だが、彼女は僕の意に反して改札口のそばのベンチに座っていた。藤子の顔がこちらを向いて、目が合ったような気がした。僕は彼女に手を挙げたが、彼女は僕に気づかなかったのか、視線を下に落として膝上の鞄の中を探り始めた。電車が扉を開けて人々を降ろし、乗せ始めた。
「藤子、何やってんだ」
僕は座っている藤子に近づくと声をかけた。彼女は不意を突かれたように顔を上げた。
「びっくりしたぁ、いつの間に」
驚いた声とは裏腹に、藤子の大きな目は嬉しそうに活き活きと輝いていて、頬は赤みを帯びていた。
「どうした? こんなところで」
僕は藤子の横に座った。停まっていた電車が扉を閉めてゆっくりと動き出した。
「うん、エトーに用があって来たの」
藤子が向かいのプラットホームに目をやった。僕は藤子につられて顔を上げた。ホームの右端に先ほどのピンクの帽子の女が俯き加減で立っていた。
「あれがエトーだよ」
藤子はそのピンクの帽子を指さした。
やっぱり、そうだ。
僕が自分の勘が正しかったことに満足している間、藤子は恥ずかしげもなく大声でエトーを呼んだが、向こうのホームに電車が入ってきたので、藤子の声もエトーの姿も消えてしまった。
「エトーね、昨日うちに来た時に携帯電話忘れていったの。来週来た時に渡してもよかったんだけど、どうしても必要だからって言うから、下校ついでにここまで持ってきてあげたの。見た、全身ピンクだったでしょ」
僕は向かいのホームを見遣った。向かいのホームに停まっていた電車はすぐ動き出した。過ぎ去った後のホームには勿論エトーの姿はなかった。
「かんちゃん、彼女いないの?」
不意を打つ藤子の問いに、僕は向かいのホームから視線を外し、藤子の顔を見た。無遠慮な声だったが彼女の目は意外に真面目だった。
「そんなことおまえに関係ないだろ」
僕は素っ気無く答えて、視線を正面に戻した。こんなガキに答える筋合いはない。
僕は一瞬にして不機嫌になった。彼女がいないことに気分を害したわけではない。藤子の目に、女として僕に探りを入れている様子が見て取れたからだ。藤子からそんな風に男として見られるのは居心地の悪いことだった。
ちょうど電車が入ってきて、僕は立ち上がった。藤子も慌てて僕の後ろについて来る。
「ごめん、かんちゃん。怒らせちゃった? 悪気はないの。ごめんなさい。ごめんなさい」
藤子の泣きそうな声に僕は仲直りすることにした。振り向いて彼女の頭を小突く。
「怒ってないよ。ただ、その無遠慮な口どうにかしろ。泣き虫」
「泣いてないもーん。嘘泣きだもん」
藤子は何の感情も読み取れない声で言い放つと、開いた電車の扉に乗り込んだ。僕は黙ってそれについていくしかなかった。
僕と藤子は並んで吊革に掴まった。濃い夕闇の迫った窓ガラスに僕と藤子の姿が映った。身長差は三十センチもあろうか。筋肉でがっしりして大きい僕と小さくて少年のように肉付きの薄い藤子の姿は、傍から見たらさぞ滑稽なデコボココンビに見えるに違いない。
「昨日、志穂おばさんから電話あったよ。かんちゃんから電話がないけど、あの筆不精息子は元気ですか、って」
「元気元気、って言っといて」
志穂おばさんとは僕の母だ。僕がこっちに来てから様子を教えないので、伯父のほうに探りをいれたらしい。
母は当初僕を伯父の家に下宿させたがっていた。だが僕は一人暮らしをしたかったので、母の願い出を断固拒否した。確かに一人息子が初めて親元を離れて暮らすのだから母親にとっては心配なのだろう。しかし、それじゃ、エトーと同じじゃないか。僕は軽く息を漏らした。
その日の夜、藤子の家から帰ってきた僕は実家に電話をした。すぐに母が出た。僕の近況をひとしきり質問した後、母はこれからの予定を話し始めた。
「連休になったら、東京に行くから。例年どおり兄さんの家に泊まらせてもらうし。今年は二十七回忌になるんだから、克巳も法事に出なさい。あなた、部活だ旅行だとかでずっと出てないでしょ」
母の両親は五月三日に亡くなっている。それから毎年、祥月命日には母方の親戚一同が伯父の屋敷に集まってくる。祖父母はよほど人徳のある人達だったのか、大伯父、大伯母、その子供達がこぞってやって来て霊を弔う。ただ、各々が酒やツマミを持参するところを見ると、その後の親戚一同大宴会が目的とも思えるのだが。
当の僕は、向こうに引っ越してから七年間、母の言うとおりずっと出ていない。学生時代のゴールデンウィークを法事で潰されるなんて、たまったもんじゃない。
しかし、今年は出席してみようか。この間伯父と二人で酒を飲んだことだし……僕はそう考えながら、母はあの藤の精の夢を見たことあるのだろうか、とふと思った。
僕の変な問いに母は笑って答えた。
「私は見たことないのよねー。だけど、昔、兄さんが言ってたのはよく覚えてるわ。あの熱烈さは本当に凄かった。『志穂はそんな夢見ないか、あの藤には何かが宿ってるんだ、俺は信じてる』って妹の私相手に恥ずかしげもなく言うのよね。ちょうど親が亡くなった頃で、兄さんは仕事に追われてて、あんな広い家に十六歳の娘が一人残されてたんだから。藤棚に何かがいるなんて聞いたら夜は怖いし、一人ぼっちは寂しいし、でも家がなくなったらもっと悲しいし……あの頃が一番大変だったわ。しばらくしたら兄さんも藤の話を全くしなくなったけれどね」
母との電話を切ってから、僕は今日藤子が玄関先で言っていたことを思い出した。
「もうじきお父さんの藤の花が咲きそうだよ」
藤子にとってはお父さんの藤、母にとってはお兄さんの藤。じゃ、僕にとっては伯父さんの藤? では僕が見た夢は何だったのだろう。あれは本当に僕の夢だろうか。伯父の夢が無意識のうちに入り込んでいるだけなのかもしれない。藤の花の精っていったい何だ。
いくら考えても答えが出る訳がなかった。
ただ、僕の脳裏に階段を駆け上がるピンクの帽子が浮かんで、離れない。儚くて柔らかな幸せの夢。
だが、あれから藤の夢は見ることはなかった。
その次の週、僕の大学の都合で藤子の家庭教師を土曜日にずらしてもらった。その日は朝から曇り模様で、いつ雨が降ってもおかしくない天気だった。だから、藤子からの電話を聞いて僕は躊躇してしまった。二時過ぎにいきなり電話をかけてきた藤子は、夜ご飯は庭でバーベキューにしよう、と誘ってきたのだ。
「おい、まじか。雨降りそうだぜ」
「大丈夫だって。夜中からって天気予報が言ってたもん」
「おばさんに手間をかけさせてしまうからやめとくよ」
「今日、お父さんもお母さんもいないもん。急用で」
「えっ、誰もいないのか。家にいるのはおまえだけ?」
「そう、襲ったりしないから安心して」
「……ばーか、そうじゃなくて、そんなでかい家に一人で寂しくないか」
僕は母が電話で言っていたことを思い出したから、こんな質問が口を突いて出てしまった。だが、藤子には子供染みた質問に聞こえたらしい。
「はぁ、そんな子供じゃあるまいし、大丈夫です。あっ、寂しいって言ったら、バーベキューしてくれる?」
「それ家の中で焼肉じゃだめなのか」
「えーっ、だってせっかくホームセンターでバーベキューコンロ大特価の広告見つけたのに」
「これからコンロ買うのか」
「そうよ、今日と明日が特売日なの。コンロ欲しかったし、藤の花も咲き始めたから外で食べるのもちょうどいいと思って」
藤子のこの突拍子のなさには負ける。僕は諦めて、承諾した。彼女はそんな僕の耳にまたびっくりすることを言った。
「エトーもバーベキューに誘ってるんだけど、いい?」
今度の驚きは嬉しい驚きだった。心臓がドキンと高鳴った。
エトーに会える――それだけで俄然行く気が湧いてくる。急にバーベキューが楽しみになった。「三時過ぎにそっちに行く」と僕は一方的に決めると電話をきった。自分の現金さに思わず苦笑してしまった。
藤子は僕を駅まで迎えに来てくれていた。彼女が言うには、エトーは今日は「お客様」なので後から藤子の家に直接来るそうだ。
上空を見上げると雲は依然濃く重く垂れ込めている。降るなよ、僕は心の中で雲に命令した。
駅前の都市整備計画からこぼれ落ちてしまったような古ぼけてせせこましい商店街で肉と野菜を買った。そして、僕たちは食材を抱えて藤子待望のホームセンターに向かった。商店街から少し奥に入ったこのホームセンターは比較的新しく、しかも二階建てだった。
僕達は入口で、買い込んだ食料をショッピングカートに乗せて、二階に上がった。藤子は上機嫌で僕の横を歩いている。アウトドア用品売り場は隅のほうで《ゴールデンウィークは家族で仲間でアウトドア》フェアを展開していた。
「あっ、これこれ」
藤子が赤字で《広告の品 大特価 三千九百八十円》と書かれた黄色い札の下がった箱を叩いた。そのバーベキューコンロの実物が横に展示されている。
「六人用で、足が取り外しできて折り畳める、持ち手もある、と。うん、安定性も悪くないな。鉄板と網が付いてて……ま、これで十分だな」
僕が品定めをしている間、藤子は黙って僕を見ていた。
「よし、これと、あと炭と着火剤と……」
僕がOKサインを出すと、彼女ははしゃぎながら、
「もうコンロ置くとこ決めてんだ。藤棚の手前にこれ置いて、お父さんが作った白いベンチを引っぱってきて、お花見しながらバーベキューするんだ。いいでしょう。それじゃぁ、紙皿と紙コップ取ってくる」
と別の棚に向かった。僕はバーベキューと藤の花の対比があまり美的には思えなかったが、それはあえて無視して、バーベキューコンロの箱や炭や着火剤や軍手等をカートに積んだ。重たくなったカートを押して藤子のところに行くと、彼女は紙皿と紙コップを手に、何かを見ていた。彼女はすぐに僕に気がつくと、
「見て、かわいい」
と、差し出した。それはつやつやに磨かれた小ぶりの瓢箪の薬味入れだった。僕は伯母のことを思い出し、吹き出してしまった。藤子が怪訝そうな顔をする。僕は以前伯父が言っていた言葉を教えてやった。
「ほんと、お母さんぽい」
藤子は手の中の瓢箪を見ながら笑った。
「だったらさー、志穂おばさんは藤の花っぽいところがあるよね」
「母さんが?」
そんなこと考えた事もなかった。
「うん。若くて綺麗で、すらっとしてて、上品で優しそうなお母様って感じ」
確かに、二十一歳で僕を産んだ母は今でも若くて細くて、母親染みていなかった。しかし、藤か……
「これ、買っちゃおう」
僕が思案の中に入り込んでいくのを防ぐかのように藤子が大きな声を出す。
「お母さんが瓢箪だったら、あたしも瓢箪? これから藤子改め瓢子とでも名前変えようかな」
「いいかもね」
僕は適当に相槌を打つ。たしかに藤子のイメージはあの庭に咲いているような藤の花ではなかった。同じ名前を持つものの、藤の持つ優雅で奥ゆかしい雰囲気は彼女にはそぐわなかった。まだ、母のほうが似合う。
僕は脳裏に夢の情景を思い描く。ぼんやりと内にこもった紫色を放つ藤棚の下に、ピンクの帽子を被った女が立っている……
エトーが藤の精だったらいいのに。僕と彼女にそんな結びつきがあればな。
心の中に小さな火が点り、じんわりと温かい。
「かんちゃん、早くしないと先にエトーがうちに着いちゃう」
藤子に催促されるがままに、僕はカートをレジの方に押し進めた。
「おい、この天気マジでやばいぜ」
ホームセンターを出ると、ポツンと雨粒が当たる。ここから藤子の家まで二十分近くかかるはずだ。僕達は重い荷物を両腕に急ぎ足で歩き出した。しかし、数分経つと、ポツポツと軽くまばらに感じられた雨粒が、急にボツボツと大きく黒い染みをアスファルトの上に付け始めた。
雨脚はあっと言う間に激しくなって、痛さと冷たさが僕と藤子の頭に、肩に、首に、腕に、背中に、路面から跳ね返って足に、容赦なく突き刺さる。
「やーん。なに、この雨。どうにかしてよ」
藤子が誰にともなく助けを求める。
「俺に言われても、どうしようもできねえよ。おまえの日頃の行いが悪いんだろ」
「なんで、あたしのせいにすんのよぉ。かんちゃん、傘持ってきてないの?」
「持ってきてないよ。おまえ、夜中から雨って言ってたじゃん。おまえこそ、なんで持ってこないんだよ」
「だって、天気予報で夜中からって言ってたもん」
僕たちの声に負けじと、雨が威勢よく降りしきる。雨は屋根に、車に、木々に、地面に、僕に、藤子に、バーベキューコンロに、地上のすべてのものにぶつかって、激昂したかのような雨音を作り出す。
「おい、そんなことより炭を守れ。濡れたら使いもんにならなくなる」
炭は取っ手付きのダンボール箱に入っていて、藤子が右手に下げていた。
「だって、どうやって守んのよ。余ってるビニール袋ある?」
「ないよ」
「じゃぁ、どうすんのよ」
「うるせいな。パーカーの中で小脇に抱えろ。少しはマシだろ」
天上界の海底に大穴があいて海水が全部落ちてきたようなザァザァ降りの中、道路の端に立ち止まって、しばし荷物の持ち直し。藤子は羽織っていたパーカーの中で右脇に三キログラムの炭の箱を抱え、左手にホームセンターのビニール袋を下げて歩きにくそうにしている。いつもはそう感じないのに、濡れてますます貧相に見えるせいか、藤子をかわいそうに思った。
「おい、大丈夫か」
「うーん、バランスが悪い。それよりも寒いっ。風邪ひいちゃう」
「家でおとなしく勉強してたらこんなことにはならなかったんだぞ。誰だよ、バーベキューしようなんて言った奴は」
僕は自分が賛同したことを棚に上げて藤子に責任を押しつける。
「なによ、やっぱりあたしのせいにするの。もう、エトー早く迎えにきてよー」
僕の心臓はビクッと跳ね上がった。気持ちを見透かされているような気がした。僕がバーベキューに付き合ったのは「エトーに逢える」からだけなのだ、ということを。藤子はそんな僕の揺らいだ心を知らずに言い続ける。
「エトーのせいだぁ。最近カレシいなくて寂しそうだったから、一緒に楽しいことしようと思ったのに。早く傘持って迎えにきてよー」
彼氏いなくて……こんな他愛のない言葉にも僕の表情は緩んでしまう。彼女に会えるのなら、どんなにずぶ濡れになっても構わないような気がした。
「そーだ、エトー早く迎えにこーい」
僕は藤子につられたように何気なくエトーの名を呼んだ。心の中の小さな火が揺らめく。
道角を曲がった途端、僕の心は一瞬にして凍りついた。
どしゃ降りの中、不思議そうに振り返るピンクのコート!
僕の前方に淡い色彩の傘を差した女の人が振り向いた姿勢で立っていた。傘の下から見覚えのあるピンクの帽子がのぞいている。
「エトー!」
藤子が声を上げて駆け寄る。
僕は硬直したまま黙ってエトーを見つめていた。冷えた心臓が次第に大きく脈打ち始める。
「藤子ちゃん、びしょ濡れ。どうしたの」
エトーは後ろにいる僕を気にしながら、藤子に傘を差しかける。彼女のおっとりした声は僕の緊張した心を和ませた。
「かんちゃんと買出しに行ったら、帰りに降られちゃった。傘持ってないんだもん。エトーちょうど良かった。これ持って」
藤子はずうずうしく、小脇に抱えた炭の箱をエトーに受け取らせる。エトーは文句も言わず炭を持った。
右手が自由になった藤子は、顔にへばりついたびしょ濡れの髪を掻きあげると僕を手招きした。
「これ、従兄のかんちゃん」
僕は彼女達に歩み寄った。右手にコンロ、左手に肉屋と八百屋のビニール袋、雨で髪も顔も服もぐしゃぐしゃ。カッコ悪い。
僕達は雨の中歩きながら自己紹介する。
「浜崎克巳です。藤子がいつもお世話になって……」
「かんちゃん、おばさんみたい」
「うるせぇな、いちいち。エトーさん、さっきは名前呼び捨てで勝手なこと言ってごめんね。びっくりした?」
「はい、少し。あの、江藤涼子といいます。……あの、荷物何か持ちましょうか」
エトーは戸惑った表情で遠慮気味に言った。
「いい、いい、大丈夫」
「エトーは炭を雨から守るっていう大事な使命があるから、それでいいの」
藤子が僕の左手から八百屋の袋を奪う。
「サンキュー、ついでにコンロも」
「嫌じゃ」
エトーが僕達の様子を見て穏やかに微笑む。僕の視線に気づくと、微笑を苦笑に変えて僕を見返した。ピンクの帽子が雨の中に明るさを放っている。もう、天気なんかどうでもよくなってしまった。
僕と藤子はびしょ濡れのまま元気にエトーを引きつれて、凱旋将軍さながら意気揚々と藤子の家の門をくぐる。庭の藤棚は滝のような雨に打たれて萎縮していた。
その日は午後からずっと雨だった。結局、家の中で焼肉パーティをした後、三人でトランプをしたりテレビゲームをしたりした。
エトーは料理から遊びまで始終控えめであったが、ホストの藤子より気が回った。調味料や調理道具の場所も藤子より良く知っていた。
「おばさんがお料理上手だから、家教に来たとき一緒に作って教わってるんです」
棚の奥から擂り鉢を自然に取り出す彼女を見て不思議そうに尋ねる僕にエトーははにかんで答えた。
僕の見ていた限り、エトーはいつも微笑か苦笑を浮かべていた。感情の起伏が少ないのか、表現方法が乏しいのか、どちらにしても曖昧な表情で自己を内側に押さえてしまっているように見えた。自分の感情に素直な藤子がそばにいるから余計そう思えるのかもしれなかった。
エトーと話したい気持ちは山ほどあったが、曖昧な彼女の答えは静かな拒否を表しているようでなかなか近づけなかった。もちろん、逃げた彼氏のことなど聞けそうになかった。
「エトー、そんなあやふやなこと言ってるから、彼氏どっかに行っちゃうんだよ。はっきり言わなきゃ」
こう無遠慮に言える藤子が恐ろしくもあり羨ましくもあった。そして、そんな時もエトーは寂しく微笑しているだけだった。
八時近くになって、エトーがそろそろ帰ると言い出した。
「えーっ、帰っちゃうの? 今日は泊まってたらいいじゃん。外雨だし、明日休みだし。かんちゃんも泊まってくでしょ。ねー、エトー、泊まろうよぉ。藤子一人だと寂しい」
相変らず藤子が自分の思うままに口を開く。昼間、子供扱いするなっと言っていた口から、よくこんな言葉が出てくるもんだ。でも今僕は藤子の意見に賛成だった。
「雨降ってるし女の子一人で帰すの危ないし、でも、もし帰るんだったら、俺も一緒に帰るよ。そのほうが安全だろ」
「あー、その発言、なんかアブナイなぁ」
藤子が僕の台詞に突っかかってくる。声がちょっと尖っていた。以前、周りにいた女たちがこんな声音で騒いでいたのを思い出した。
僕は急に嫌気がさしてきて、藤子の言葉を無視した。
エトーは曖昧に笑ってその場をしのいでいる。藤子がそんなエトーに耳打ちする。エトーが苦笑しながら頷いた。
「わかったわ。藤子ちゃんには負ける……」
僕はまったく面白くなかった。藤子から特別な好意を寄せられるのも嫌だったし、それに加担するエトーの態度も嫌だった。こう考える僕が自分勝手で一番嫌な奴なのかもしれない。
部屋に誰かいる……!
僕は皮膚に異質な空気の流れを感じ目を覚ました。見慣れない天井を見つめながら、自分が藤子の家に泊まっていることを思い出した。
藤子の説得で帰らなかったエトーと僕は、夜中過ぎにそれぞれ空いている部屋で寝ることにしたのだ。僕は何故だかこの前に泊まった部屋を選んでいた。
僕は顔と視線を真上に硬直させたまま、聞き耳をたてる。錯覚かと思った瞬間、息を殺した泣き声が部屋の片隅からわずかに聞こえてきた。耳が心臓になってしまうほど脈を打っている。
「………」
暗闇の中の無言の嗚咽ほど恐怖心を掻きたてるものはなかった。窓の外からは月光も雨の音すらも入ってこない。僕は完全に外部と切り離され、嗚咽とその気配だけが僕の感覚のすべてを犯しているように思われた。
「……こんなにさびしいのに……誰か……」
泣き声とともに漏れる呟き声。この声、どこかで聞いたことがある……!
僕は首を枕から起こして暗い室内を見た。布団の足側のベッド脇にうずくまる黒い人影が見える気がした。
「……藤子か?」
思わず呼んだ名前に反応するかのように、嗚咽も影も急になくなった。周りはただの夜更けの静けさを取り戻していた。夢だったのか? 僕はしばらく仰向けになったまま、心を静めた。確かに泣き声がしたのに。うずくまる人影が見えたと思ったのに……。僕は夢の女に会いたかった。だが、いざ正体を知るとなると恐かった。今も顔が見えなくてよかったと胸を撫で下ろしている。
窓がガタガタと鳴る。カーテンがふわりと揺れる。僕は腕時計を見た。午前四時過ぎ。雨は止んだみたいだった。立ち上がってカーテンを開ける。左右両開きの窓はきちんと閉まっていなかった。細く隙間があいていて、窓の内枠が湿っていた。寝る前にカーテンを引いた時にはまったく気づかなかったことだ。
彼女が出ていったのかも。僕は非現実的なことを考えながら、まだ暗い外に向けて窓を押し開けた。
キィー。蝶番の軋む音が庭に広がる。二階のこの部屋からは庭がよく見下ろせた。わずかに咲くほの白い藤の花。薄明かりを灯したような藤棚の手前で人の振り向く気配がした。
僕は思わず息を呑む。
藤棚の下の人物も開くはずのない窓が急に開いたのでかなり驚いた様子だった。暗くても背格好で誰だか分かった。向こうもそうだったのだろう。窓の下へ歩いて来る。
「克巳くんかい」
聞き慣れた伯父の声だった。必要な書類を取りに伯父だけ家に戻ってきたらしい。今からまた伯母の待つ宿泊先に戻るのだそうだ。
僕は無断で部屋を借用したことを詫びた。
「ほんとに驚いたよ。普段は使ってない部屋から人がのぞいているから」
伯父の驚きはそれだけだったんだろうか。他に思い当たることがあるんじゃないだろうか。僕は去りかけた伯父を引き止めるように訊いた。
「ここは昔、おじさんの部屋だったんですか?」
伯父は足を止めて、僕を見上げた。
「いいや。何故だい?」
「……女の人が泣いている夢を見たから」
僕は単刀直入に答えた。伯父はしばらく黙っていた。その間、伯父がどんな表情をしているのか、暗くてまったく分からなかった。
「わしの夢に引きづられちゃいけないよ。克巳くんは克巳くんの夢を見なさい」
伯父は半命令的な口調で僕を諭すと、門の方へ去っていった。
僕なりの夢を見ろと言われても、意図的に夢を見ることなんてできやしない。僕は伯父の放った言葉に途方にくれた。
次の週、四月最後の木曜日、ちょうどゴールデンウィークの始まりであった。藤子から再度、皆でバーベキューをしようとの誘いがあった。
この間とは正反対の上天気。昼過ぎに田倉邸に伺うと、すでに藤棚の周りで伯父、伯母、藤子が下準備を始めていた。伯父自慢の藤はその長い花房に紫の花を鈴なりに咲かせていた。藤棚は昔の記憶さながらに荘厳で美しかった。
僕は辺りを見まわした。『皆で』の中にエトーは入っていないんだろうか。彼女の姿は見当たらなかった。藤子が敢えて呼ばなかったのかもしれない。そう思うと伯父がコンロを組み立てている傍ではしゃいでる姿が小憎たらしい。
伯母が僕の姿を認めて大声で歓迎してくれた。
「かんちゃん、いらっしゃーい。このあいだは雨の中買出し大変だったでしょ。ごめんね、藤子のわがままに付き合わせちゃって」
しかし、言葉とは裏腹に口調は楽しそうだった。
「昨日、志穂さんから電話があって、今日からうちに泊まることになったのよ。予定って重なるもんね」
母が法事のため伯父の家にやって来る。そのことは僕も前もって聞いていた。しかし、詳しい日時は知らなかった。
「何時ごろ来るんですか?」
「確か東京駅に着くのが夜八時過ぎだって。かんちゃんも一緒に泊まっていきなさいよ」
伯母の勧めにお礼を言おうとしたとき、藤子の声が跳びこんできた。
「あっ、エトー、こっちこっち」
僕は伯母に失礼になるくらい、会話を中断して声をかけられた先に顔を向けてしまった。
相変らずのピンクの帽子にサーモンピンクのニットと白いパンツを身に着けたエトーが困ったような微笑を浮かべながら歩いて来る。爽やかな彼女の姿に僕はしばし見惚れた。
伯母も新しい来客に食指が動いたらしい。声をあげて彼女を呼んだ。エトーは僕と伯母のそばに来て、一通り挨拶した後、藤棚を見上げてこう言った。
「すごいですね。こんなに立派な藤初めて」
僕もつられて八分咲きの藤の花を見上げた。
五十センチ以上ある花房が何十本もしな垂れている。その上部は濃藤色に大きく花開いていたが先の方はまだ蕾だった。雲一つない青空のもと、午後の陽を浴びている藤はその姿をあからさまに現していた。露骨だった。
「太陽の光に藤の花が負けちゃいそうだ。俺はもっと上品なのが好きだな」
エトーは首をかしげて僕を見た。
「でも、これもすごいですよね。ほんとに『藤浪』っていう言葉がぴったり。垂れた花房が時折風で揺れるのを見ていると穏やかな春の海を眺めているみたい」
彼女がこんなにはっきりと自分の意見を言ったのは僕にとって初めてだった。
僕は思わず彼女の顔をまじまじと見た。――変なこと言ったかしら――エトーの顔に困惑の表情が浮かんだ。いつものエトーの顔だった。
伯母が伯父に呼ばれて僕たちの傍を離れた。藤子も何かしているのか、こちらには来なかった。しばらくの間、僕とエトーは二人きりだった。
僕は緊張していた。
「江藤さん、連休はどこか行くの」
僕はその場しのぎの月並みな話題を振るのが精一杯だった。
「特にはないんです」
「実家に帰るとか?」
エトーは首を振って微苦笑した。僕に対してではなく、自嘲したような表情に見えた。
「……浜崎さんは藤子ちゃんから聞いてますよね。……私、待ってる人がいるんです」
僕の心は彼女の言葉に鋭く反応する。僕は身じろぎした。それは、あの……
「逃げられた、とかいう……」
僕の言葉に彼女は恥ずかしげに苦笑する。
「ええ、別に逃げられた訳じゃなくて、ここ一ヶ月消息不明なんです。嫌なことがあると、すぐ何処かへ消えちゃうの。そろそろ戻って来てもいい頃なのに……。今回は全然音沙汰がないんです」
「今回は?」
「ええ……、昔から逃避癖があって。一緒にいる時間より待ってる時間の方が長いかもしれない。それでも気を遣ってくれてるのか、いつも旅先から電話や葉書をくれるんだけど……。今回は全くの行方不明なんです」
「それでも待ってるんだ」
ふふ……困ったように微笑むエトーは不幸せには見えなかった。
僕は寂しかった。心に穴が開いたようだった。
せっかく見つけた恋の相手をあっさりと失ってしまった。――あっさりと? 本当に欲しいのなら、その男以上に彼女を幸せにしてやればいいのだ――
そうして僕は気づく。僕の求めてたものはエトーではなくて、恋焦がれ揺れ動く自分の心だということを。それは僕の心を揺さぶる夢の中の女に抱く感情とよく似ていた。
僕はこれ以上自分の心の中に深入りするのはやめて、微苦笑を浮かべながら話す彼女の声を黙って聞いていた。
夜、エトーを駅まで送るついでに、母を東京駅まで迎えに行った。母は僕の姿を見つけると、目を細めて「元気そうね」と安堵の声を出した。約一ヶ月ぶりに会う母はいつも以上に若々しく見えた。
「父さんは元気?」
僕はまだ連休に入っていない父の様子を尋ねた。
「あいかわらずよ。克巳がいなくなったおかげで、二人でのんびりと暮らしてるわ」
母は嬉しそうな口調で話す。僕は実家に自分の場所がなくなるような気がした。だが、夫婦だけでも円満な家庭生活を送れることは息子にとって安心すべきことなのであろう。
田倉家では、すでに母と僕の泊まりの部屋が用意されていた。
「志穂さんはいつもと同じ部屋ね。かんちゃんはその隣」
伯母の声を聞くと、母はお礼だけ言って案内も請わず二階に上がっていった。僕も母の荷物を持ってその後に従う。
母が辿り着いた部屋は以前僕が泊まった部屋、あの藤の女を夢見た部屋だった。
「母さん、そこ……?」
ドアを開け室内に入っていく母に、僕は入口から声をかける。
「ここね、昔、私の部屋だったの。ここに泊まる時はいつも使わせてもらってるの」
母の部屋だったのか。伯父の部屋だとばかり疑っていたのに。雨の日の夜、僕が窓を開けたのを見て驚く伯父の姿が思い出された。
夜中に僕は目を覚ました。しばらくじっと横たわっていた。……やっぱり。誰かが泣いている。悲しそうにグスグスと涙をしゃくりあげる音がする。
僕は布団から起き上がって室内を見まわした。部屋の中には何の気配もなかった。僕は黙って耳を澄ます。
泣き声は隣の部屋から聞こえてくる! あの女は夢じゃなかったのか? 本当にあの部屋には何かがいるのか? 母は?
僕は母が心配になって立ち上がった。とりあえず母の様子を覗いてみなきゃ。僕は自分の部屋から薄明かりの灯る廊下に出た。
そのとき、隣の部屋の扉が開いた。黒い人影が出てくる。そのうつろな様子に僕は立ちすくんだ。
「……母さん!」
僕の声に母は正気を取り戻したようだった。目を擦り、鼻をならしながら、僕の方に向き直って「克巳……」と呟く。
「大丈夫?」
僕は声をかけたもののそれ以上の言葉が出てこない。こんなに泣いている母を見るのは初めてだった。
「ごめんなさい。びっくりさせて。昔、父と母が死んだときのこと夢で見たから」
母の濡れた頬が赤く上気している。
「この大きな家に一人で寝てたこと思い出したら、涙が出てきちゃって。もう二十年以上も昔のことなのに」
母は涙をぬぐいながら軽くほほ笑んだ。
「結婚して幸せに慣れて、こんな感情忘れていたわ」
僕は何も言葉を返すことが出来ずにいた。夢に現れたあの女性も寂しいと言って泣いていた……
「起こしてしまって、ごめんね。もう大丈夫だから。克巳も部屋に戻って寝なさい」
母の涙はもう乾いており、幾分ぎこちなさが残るものの穏やかな笑顔が戻ってきていた。ドアノブに手をかけ部屋の中に戻ろうとする。
「一人で大丈夫?」
僕は思わず尋ねた。
「皆いるから、大丈夫よ」
そう言って、母は暗い自室へ帰って行った。
僕はしばらく廊下に立っていた。
廊下の前方、階段に繋がる辺りに小さなシャンデリア風の明かりがともっている。吊り下がったガラスのせいだろうか、薄暗い中にも光と影が網目のように廊下一帯に広がっていた。光源から離れて行くほど陰影は濃くなり、廊下の奥のほうは今にも暗闇と一体化しそうだった。
母の部屋からは物音一つ聞こえない。
僕は部屋に戻ろうと思ったものの、興奮しているのか目が冴えて眠れそうになかった。足音を立てないようにして廊下を歩き、階下のキッチンに向かった。
キッチンの冷蔵庫から缶ビールを一つ失敬する。喉を通り過ぎる冷たさが爽快だ。だが、頭の中はいろいろなことがこんがらがったままだった。
伯父が昔夢に見た藤の精は何だったのだろう……
僕の夢に現れた藤の女は……
少し歩いて頭を冷やそうかという気になって、キッチンを出て廊下を見渡すと、ドアの隙間から明かりの漏れている部屋があった。あそこは確か伯父の書斎だったはず。
どうするという目的もわからぬままに、僕は近寄って軽くドアをノックした。
「どうぞ」と伯父の声が返って来る。
僕はドアを開けた。伯父は窓辺の大きな机につかず、こじんまりした応接セットのソファに座っていた。ガラス板の張られたローテーブルには書類が広がっている。
「どうした? こんな夜中に」
伯父は持っていた本にペンを挟んでテーブルの上に置くと僕を迎えた。
「伯父さんこそ、夜遅くまで仕事ですか?」
「ああ、連休明けに契約を控えてる物件があるんだ。昼間は家族サービスしないといけないからな」
伯父さんは僕が持っているビールの缶を見て口元を緩めた。「ご相伴しようか」と独り言のように口ずさむと立ち上がり、部屋の片隅にある小さな冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
成り行き上、僕は向かいのソファに腰掛けた。テーブルの上には作成途中の契約書案や謄本などが広げられ、先ほど伯父が読んでいた分厚い本がその上に乗っている。
「六法全書なんか、必要なんですか」
僕はその表紙に書かれたタイトルを読み上げた。
「これがないと、やっていけない」
伯父は座りながらそう答えると、プルタブを開け口をつけた。ビールが喉を通過する音が聞こえる。一息つくと、また話し出した。
「転貸借の契約がなかなか進まなくてな。地主が貸すのを渋り始めてるんだ。五月半ばには工事が控えてるというのに、契約書すら出来上がってない状態だ」
僕は書類を汚さないように気をつけてビールの缶をテーブルに置くと、六法全書を取り上げた。ペンが挟まれたページがはらりと開く。赤線が引かれていたり、擦れて薄くなった鉛筆の書き込みがされていたりでかなり使い込まれている。僕は無言のまま、ページをめくった。何かこぼれた跡が乾いてしわの寄った箇所。「S55年8月契約予定」と滲んだ書き込みの文字。剥がれかけた余白の付箋。
「克巳くんは法律を習ったことがあるかい」
「いいえ、まったく。大学の教養でも選択しませんでした」
僕は顔をあげると首を横に振った。数学科に法律は必要なかった。僕は整然なる論理を追求していくことが好きだった。法律の世界はあまりにもこの世の中に従事しすぎていて息苦しい感じがした。
「わしも大学では経済が専攻で、法律はあまり勉強しなかったな。六法全書を開くようになったのは、親父お袋が死んで会社を継ぐようになってからだ」
先ほどの涙をぬぐう母を思い出した。僕は小さく頭を振ってその姿をかき消した。代わりに夢に見た藤の女の姿が浮き上がってくる。つややかに流れる黒髪。涙に揺れる華奢な肩。その姿も急いでかき消した。伯父に悟られるわけはないのに、なんだか決まり悪かった。ビールを飲んで、気を落ち着けた。
「その頃は大変だったんですよね。母もそんなこと言ってました」
さりげなく僕は口を開く。
「ああ」
伯父は頷いた。だが、その後に続く言葉はない。机の上の置き時計が秒針を動かす小さな音が耳につく。僕は言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、さりげなく伯父の顔から視線をはずした。何かその場しのぎになるような会話を見つけようとしたが、言葉にならない思考が頭の中でグルグル回っているばかりだった。しょうがなくビールに口をつける。向かい側からもビールを飲む干す音が聞こえた。伯父は空き缶をテーブルの上に置くと、一息ついて語り出した。
「あの頃は無我夢中だった。葬式に始まり、親父たちの事故の処理、会社の経営状態の危機。その噂を聞いた顧客や銀行は不安不信を募らせ、取り引きをやめたいと言ってくる。不動産業にとって信用が一番大事だから、大伯父と一緒に歩き回って説明して。家に帰っても寝るだけの日々だった」
そして、藤の精の夢を見ていたんですね……僕はそう聞きたかったが、口にするのは躊躇われた。
伯父は立ち上がると、冷蔵庫からビールを取り出した。僕にも勧めてくれたがこれ以上飲む気になれず断った。伯父はそのまま窓際に歩み寄るとカーテンを少し開けた。しばらく外を眺めている。そこからも庭の藤棚が見えるはずだ。だが、僕の席からは夜の闇しか見えなかった。
「忙しさにかまけて、この家に一人残された妹のことを考えてやれなかった。もっとも、そのことに気づいた頃には、志穂はもう結婚してこの家を去っていたがな」
伯父はまだ外を見つめたままだった。こちらに向いた背中はしっかりしてはいるものの、昔よりも丸くなり曲がっているように見えた。
僕は申し訳なくなって目を逸らした。そして、わざとらしく両腕を上げて伸びをすると、伯父におやすみを告げる。
「おやすみ」
伯父の低く穏やかな声を背に、僕は書斎を後にした。
翌日、母のたっての希望で祖父母の事故現場に供養しに行くことが決まった。道すがら花や酒を買い、首都高速に上がる。
都心を出てどのくらい走っただろうか。伯父の運転するセダンはいつのまにか険しい山道に入り込んでいた。辺り一面に霧がかかっていて視界はよくなかった。
僕は助手席の窓から流れる風景をじっと眺めていた。若葉の出揃った木々が霧の中でぼやけて見える。
頭の中に今朝見た田倉家の藤棚の光景が広がる。上から下へとぼかすように濃淡をつけた藤色の花房。それら何十本もの房々は薄日を浴びてほんのりと辺りを紫色に染めているみたいだった。藤の精がそこにいたとしても何も不思議ではないと思えた。
昨夜泣いていた母は今朝はもう普段と変わらない穏やかな笑みを浮かべている。昨夜重たい口調だった伯父もいつもの気さくな態度で皆と接している。
僕は母が昔にそれほどの寂しさを抱えていたとは知らなかった。伯父は、夢を見ていたある時期に気がついたのだろう。藤の精が泣きじゃくるように一人で声を殺して泣く妹の姿に。その抱えた寂しさを気づいてやれなかった自分自身に。伯父は今でもそのことを負い目に感じているのかもしれない。
じゃあ、僕が見た藤の夢はなんだったのだろう。
母が夢の姿を借りて出てきたとは思えない。母は今、父と暮らしていて幸せなのだから。
君は君の夢を見なさい。以前、伯父にそう言われたことを思い出す。
あの藤の女は僕に何を気づいて欲しかったのだろう。一体誰の思いなのか。
僕は考えるのをやめた。意識を外の景色に向けた。
白く霞んだ木々の枝に、紫色の小さな塊がいくつもボワッと浮かんで見える。さっきから目に入っていたのだが、何の疑問も感じていなかった。今、やっと意識的に視線を向けてみて、唐突にひらめいた。
あれは、藤の花だ。
野生の藤が木々の幹や枝に蔦を這わせて、小振りではあるが梢高くしっかりと紫色の花房を誇示しているのだった。
こんな藤もある……
僕は後ろの藤子に目を向けた。
後部座席の真ん中で、藤子は軽く口を開けて眠っていた。起きてたらあんなにおしゃべりな口も、今はただ、あどけなくかわいらしく見えた。彼女の唇に手を遣りたい衝動に駆られ、そんな自分に戸惑いを覚えた。
まだまだ恋の入口には辿り着かない。
僕は藤子から目を反らして、また窓の外を見た。霧に白く覆われた木々が続いている。紫色の小さな塊が白霧に浮かび上がる。僕は目をつぶる。つぶっても僕の脳裏には紫色の塊が浮かび上がってくる。
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