改札を抜けて顔を上げると、今日の空も晴れわたっていた。
駅から続く歩道橋を降り、低い建物ばかりの周辺を見渡す。法事の開始時刻はまもなくなのに、僕の歩く速度は早くならない。気持ちは焦っているのに、なぜだろう、急ぐ気になれない。地元に帰ってくるといつもこんな調子だ。今住んでいる市内では、用がなくてもせかせかと歩ける。なのにこの町に帰ってきたとたん、僕はマンホールのひとつひとつを、すり切れた横断歩道の白線を、確かめるようにしてしか前へ進めない。
ロータリーには変わりばえのしないソテツの木と、放置自転車が並んでいる。電柱の張り紙には昨日自転車撤去をしたと書かれてある。タクシー乗り場では数台連なっているタクシーからドライバーが三人ほど降りてきていて、楽しげに立ち話している。駅の真正面にあるコンビニと花屋は、この間実家に戻ってきたときに初めて見かけた。どうも明るすぎて、このさびれた駅には不釣り合いな気がする。数年前から閉めているパチンコ屋の前を通り過ぎ、昔からあるケーキ屋に向かった。のろまな自動扉が軋みながら開くと、口紅のはみ出た年輩の店員が箒を手に掃除をしていた。いらっしゃあい。痩せた店員の笑顔がさびしい。ショーケースには、蝋でできているんじゃないのかと疑うほどに艶のないケーキが並んでいる。少しためらったが、硬そうなバームクーヘンを指さして、お供え用にしてくださいと頼んだ。が、店員は、ちょっと待ってねえ、と奥にチリトリを取りに行き、埃をたてて塵を集めた。
快速電車に乗れば今住んでいる市内から一時間でここにたどり着くが、もう何年も盆と正月以外は帰省していない。今日も法事が終わったら、実家には寄らずに帰るつもりで連絡も入れてはいなかった。実家にはどうせ帰っても、嫁に行かない姉への愚痴と、嫁が来ない僕への母の小言で終始する。一人暮らしをしているワンルームマンションはいつも散らかっていて居心地が悪いが、母が鳴りやまない目覚まし時計のように喋りたてる実家はもっと居心地が悪い。どうしておまえは電話もかけてきてくれないの。仕事はどうなの? ごはんは食べてるの? まだいい人はできないの? お父さんも最近身体にガタがきて病院に通い出したし、母さんだって血圧が高くって。畑仕事だっておまえが手伝ってくれたらもっと楽なのに、と延々と聞かされる。確かに父はたくさんの薬袋を仏壇の引き出しに備えてはいるが、相変わらずダジャレも言うし酒もかぽかぽ飲む。一緒に畑仕事をするとわざと僕を突き飛ばして尻餅をつかせ、泥だらけになった僕を見ては子どもみたいにはしゃぐ。まだそんな元気があるうちは、あの家に関わりたくないと考えている。
店員は、掃除が終わるとかかってきた電話に出て話し出した。笑い声までたてて、客なんて誰もいないかのようだ。僕はガラスのドア越しに外を見た。駅前の上には、青一色の空がある。ゲンタの法事には雨が降らないと、以前誰かが言っていた。今日もやはり、昨夜まで続いた雨が今朝方には止んで、三月にしては暑いくらいの晴天になった。店員がやっと受話器を置くところを眺めながら、指を折って年月を数える。わかり切っていても数えてみたかった。十二年だ。十三回忌なのだから当たり前だが、やっぱりゲンタが亡くなってから十二年が経っている。それは、僕たちが高校の卒業式を終えた翌週のことだった。葬儀の日は大雨でとても寒かった。もう着ることはないと思っていた制服の紺のブレザーが、ゲンタの自宅前の道に並んでいた。
のしの字を書き間違えた店員は照れ笑いしながら書き直し、いらないというのにカードにスタンプを押してくれた。手にした箱入りバームクーヘンを見ると包装紙を留めるシールがはがれていたが、とにかくタクシー乗り場まで歩いた。仲間と話し込んでいたドライバーに声をかけ、乗り込んでシートに腰かけながら番地を告げると、タバコくさいドライバーは返事もせずに車を出した。
「県立病院のほうから行っていいですか」
ドライバーがバックミラー越しに聞いてくる。面倒なので、このへんの道知らないのでお任せします、と僕は答えた。行き方を忘れてしまったのは本当だった。県立病院ができたことも知らなかった。駅から実家と反対側に位置するゲンタの家には、タクシーに乗らないともう行けなくなっていた。大学時代から市内で下宿を始めて、僕はすっかり地元の土地勘を失っている。タクシーが緩やかな坂道を登る途中で、道の両脇に生えた背の高い雑草が窓ガラスを撫でた。今から久し振りに会う高校時代のクラスメートの面々を思い出そうと目を閉じたが、記憶の栓がうまく開かなくて、ただ胸の奥がこそばゆくなって目を開けた。雑草の向こうにはどこかの遠い街並みが見えた。いつのまにかタクシーは、小高い場所まで来たようだった。
ゲンタの家に到着したときには、すでに中から経をあげる声が聞こえていた。玄関には黒い履物ばかりが並んでいた。その隅で革靴を脱ぎ、読経の声のする方向へと廊下を進む。なんだか気持ちが急いてきて、バームクーヘンの紙袋をカサカサといわせてしまう。和室の襖は開け放たれ、中には参列者が窮屈そうに座っていた。何人かがこちらを振り返り、また正面に顔を向ける。身を小さくして最後列の端に正座をし、ポケットから数珠を出して手に掛けた。障子のはめられた窓のどこかが開いているのか、風が漂ってくる。
重そうな紫色の袈裟を着た僧侶の脇に、ゲンタの親父さんの小柄な姿が見えた。前列は若干、人の間隔が空いていて、窓辺には何人かの子供と、その母親たちの顔が見える。見渡すと、ここに集まっているどの背中も似通っていて、一見して誰なのか区別がつかない。みな同じようなスーツを着ていて、知らない人ばかりの場所に座っているような錯覚をもつ。十二年前の葬儀では紺のブレザーを着ていた僕らも、法事を重ねるうちに、いつの間にか男は礼服に、女も黒のワンピースやスーツ姿になった。今まではTシャツなんかを着てくる人が必ず混じっていたのに、もう誰もそんなことをしなくなり、正装もすっかり馴染んでいる。僕らも三十歳になったのだから、当然なのかも知れない。
仏壇のほうを首を伸ばして見る。遺影のゲンタはギターを握り、赤いジャケットの胸元から勾玉のチョーカーを覗かせて、照れたようにうつむいている。亡くなる数ヶ月前の学園祭でのものだ。ゲンタのファンの女の子が、演奏を終えて舞台から降りてくる彼を撮った一枚だったという。茶色い髪に下がった目じり、歯並びのいい口元をゆるませて、おうっ宮本、なんて今にも話し出しそうだ。ハスキーなゲンタの懐かしい声を思い出せたことで妙に嬉しくなる。親父さんは葬儀からずっと変わらずこの写真を遺影に使用している。生きていたゲンタがすぐ思い出せる、いい写真だと思う。
読経が終わると、僧侶は袈裟を脱いでみんなの方に向き直り、出されたお茶を一息に飲み干した。十三回忌にこれだけのお友達が集まるなんて、仏さんはさぞかし素晴らしいお人だったんでしょう、と袈裟をたたみながらおだやかに話す。僕の前に座っていた男が振り返った。元バレーボール部のエースだった。知った顔を探すように、ぐるりと首を回してまた前を向いた。あちこちで数人が同じように周りを見渡しはじめる。少し前の列の男が、僕の顔を見て軽く手を挙げた。顔には見覚えがあるが、名前はなんと言ったか。その男の隣にいるのは中村だ。何年か前に大病にかかったと聞いたが、少し痩せたくらいで元気そうに見える。障子越しに入ってくる柔らかい光を背に受けた、部屋の隅に座る女性は、高校生のころクラスで一番人気のあった玲子だ。両脇に子供を二人ずつかかえ、足を横崩しにして首を傾げてゲンタを眺めている。彼女は毎回法事で見かけるが、どうも子どもがひとり増えるたび、体が大きくなっている気がする。十三回忌には今まで以上に多くの人に参加してもらいたいと、先日親父さんが話していたとおり、ここ数年来なかった人の姿も見えて、賑やかな法事になったことに僕までほっとする。
「宮本だろ、変わんないなあ」
隣に座っていた男が僕の耳元に息をかけて囁く。身を引いてそちらを見れば浅黒く脂っぽい顔がある。ほんの少し時間がかかったが、浦田という名前を思い出した。高校のころは野球部で丸坊主だった。いつも下世話な冗談ばかり言っていたお調子者で、文化祭やクラス会のたびに気持ちの悪い女装をしていた。
おう、久しぶりだな。と小さな声で返答し、まだ終わらない僧侶の世間話に耳を傾ける。僧侶が立ち上がって退室すると、おじさんは隣の部屋に食事を用意していますので、とみんなを誘導する。おじさんはにこやかに、ひとりひとりに声をかけていた。髪は以前より白くなったけれど、グレーの髭を伸ばした顔は血色もよく、ずっと若やいで見えた。
ゲンタがバイクに興味を持ちだしたのは、高校二年の夏のころだったと思う。
僕たちの通学路だった橋の下に、大型オートバイが停まっていた。でかいエンジンやマフラーのついた黒のバイクだった。そのうち誰かが片付けるものだと思っていたが、長いあいだ同じ場所にあり続けた。僕らの住んでいた町は田舎だったから、放置自転車だって駅前以外に見ることはなかったし、なにより大きなバイクが荒れ放題の草むらに佇んでいる光景は不自然だった。僕が毎日それを眺めていたのと同じように、ゲンタも気になっていたようだ。だから下校時刻が一緒になったその日、どちらからということもなく触ってみようぜと言い出して、自分たちが乗っていた自転車を放り出し駆け寄った。
近づいて見ると、ナナハンのカワサキGPZだった。
「高いもんなのか?」
「そりゃすげえ高価なもんさ」
ゲンタは興奮気味に答えると、シートにうっすらとついた砂埃を払ってまたがった。ボディーやホイールには多少の傷があったがまだ新しいようだったし、盗まれてここで乗り捨てられたものかもしれない。
「俺ってバイク似合うと思わないか?」
嬉しそうにゲンタが聞いてくる。ハンドルを握りブーンブーンと口で言う。幼稚だなあと僕が笑うと、うるせえ! と言い返しながら、今度は体重を左右に移動させてカーブを切る真似をする。
「ミュージシャンにはバイク好きが多いんだ。オールマン・ブラザーズ・バンドのデュエイン・オールマンも大のバイク好きでさ。デュエインは結局バイク事故で死んじゃったんだけど」
「やな話だな」
「もっとすごいんだ。そのあとベリー・オークリーもデュエインの事故現場と三ブロックも離れてないとこでバイク事故で死んだんだ。気味悪いだろ」
「で、誰だそれ」
ゲンタは好きなバンドの話になると大きな目を見開いて早口で喋る。僕もゲンタに教えてもらって洋楽を聞きかじってはいたものの、次々に飛び出すミュージシャンの名前はごちゃ混ぜになって仕方がない。丁寧に教えてくれるゲンタには悪いと思いつつ、何度も質問した。
放課後には二人でよく中古レコード屋に足を運んだ。銀座商店街とは名ばかりの、短くて暗い商店街の八百屋の二階にある店だった。ゲンタは片っ端から一枚ずつ引き出しては、ジャンルやルーツ、メンバー構成について早口で語った。彼ほど洋楽に詳しいやつは当時はいなかった。そばにいると、少しは自分も音楽に詳しくなれそうな気がして楽しかった。僕は代わりに、釣りを教えた。小さいころから好きで、道具はひととおり揃えていた。それまで釣りをやったことがなかったゲンタは面白がって、日曜のたびに二人で池に行った。安い練り餌にひっかかってくれた魚に、僕たちは一匹ずつ名前をつけた。ファイティング、チャチャイ、ペドロ、と僕が好きな歴代のボクサーの名を取って命名すると、ゲンタはミュージシャンの名をつけた。高校の教師やお気に入りのAV女優の名にしたこともあった。その後僕らは魚を放流する。元気でな、チャチャイ、なんて話しかけながら。休日のゲンタは、破れた穴だらけのジーンズと、歩くとジャラジャラ音を立てるほどのアクセサリーをつけていた。アディダスの上下スウェットにノンブランドの帽子をかぶった僕と並んで釣り糸を垂らしている光景は、きっと妙だったろう。
宮本も乗ってみろや、とゲンタはひょいとバイクを飛び降り、踏み潰した靴を脱いで中に入った小石を探す。そのあとズボンのポケットから曲がったセブンスターを一本取り出し火をつけて、いくか? と勧めてくる。好奇心に負けず断ると、宮本は真面目でかわいいなあ、イヒヒヒ、と笑う。もくもくと煙を吐き出しながら、バイクの腹や後ろを撫でまわしては、免許取るかなあ、と呟いていた。
「あのさ、俺さ、実は彼女ができたんだよな」
再びバイクにまたがったゲンタは、ハスキーな声の語尾を微妙に上げて告白をした。僕が何も言わないでいると、ちらとこちらを窺う。制服の半そでシャツの胸元から勾玉のチョーカーが覗いている。初めて見るチョーカーだ。
「それ、お揃いか?」
冷やかすつもりでそう聞くと、あれえ、なんで知ってんだあ! と素っ頓狂な声を出す。やっぱり、最近急に付き合いが悪くなったと思ってたら、そういうことだったのか。
「知ってるよ、相手はイオリだろ」
クラスで噂になっていた。繁華街で手をつないで歩いているのを何人もに目撃されていた。ゲンタって物好きだね、なんて言うやつもいた。
「宮本にだけはちゃんと話さなきゃなあと思ってたんだけど、まだ信じられなくて。俺さ、やっと出会えたって感じなんだよな」
同じ高校の同じクラスで、やっと出会えたっていうのも大げさだなあ、と思っていたら、ゲンタは目を細めて下唇をかみ、一人頷いている。大げさなのはいつものことだった。学校でもオーバーな語り口は周囲の目を集めていた。たとえば休み時間の教室で、教壇に仁王立ちしてこんな言葉を熱く叫ぶ。
「いいか、俺は俺以上でも俺以下でもねえんだ。俺は、俺なんだ」
僕がせせら笑っている横で、クラスの女の子たちはうっとりと聞きほれていたりする。女の子たちは、ゲンタと目が合えば恥ずかしがったし、会話をすれば他の子に冷やかされていた。宮本くん仲良くっていいなあ、などと言われたこともあった。ニキビ面でモテない僕にとっては、まったく羨ましい存在だったが、冷静に聞いていると彼の話す内容はおかしかった。それなのに女の子たちの聞き手がいるとますます調子に乗って、
「傷ついたのなんのと言ったってさ、心はダイヤモンドみたいに硬質なものなんだ」
と、どんどん訳がわからなくなる。確かにゲンタは、成績が悪いことや服装について親や教師になんと言われても、まったく気にしない様子だったし、改めるということがなかった。
フィルターが燃えてしまいそうなほど吸いつくしたセブンスターを靴裏でもみ消しながら、ゲンタはにやにやと気味悪く思い出し笑いをする。
「なんていうかなあ、この愛情はありきたりのもんじゃなくてさ、俺はイオリとさ、めぐり逢うために生まれてきたようなもんなんだ」
おかしなくらい、大きくて垂れぎみの目に力が入っている。声のボリュームもどんどん上がっている。僕がたまらず吹き出してしまうとムキになって、
「あいつがどんなにかわいい女か、おまえにはわかんねえんだろ」
とゲンタは口をとがらせた。
イオリのことを、そこの上の空ちゃん、なんて呼んだ教師もいた。授業中、しょっちゅう窓の外を眺めていたり、骨ばった四角い顔に頬杖をついて明らかに落書きしていたりした。授業での発言はほとんどなかったし、休み時間もふと消えてどこに行ったのか分からない女の子だった。
エラが張った色白の顔には、小さな目と鼻と口が点在していた。なんのスポーツもしていなかったはずなのに、クラスの女子の中で身長は一番か二番に高かった。小柄なゲンタと同じくらいか、ひょっとしたら抜いていたかも知れない。背は高かったが、痩せていた。あと髪が短ければ男子と区別がつかないんじゃないかと密かに考えていたことがある。そんなこと、冗談でも彼女に言ったことはない。そんな冗談が通じるタイプじゃなかった。
僕が彼女と初めて言葉を交わしたのは同じクラスになってすぐだったが、声をかけたことを後悔するほど、イオリは愛想がなかった。切れ長といえば聞こえはいいが、単に小粒の瞳で人を斜めに見る癖があり、それには誰しも緊張させられる。ちいーっす。と僕が言えば、ため息交じりに低い声で、はい。とだけ答えて、ソフトボールが軽々と包めるような大きな手で文庫本を開く。イオリには、独特の雰囲気があった。他の女の子のようにきゃっきゃとはしゃいでいる姿なんて見たことがないし、決まった女子とつるんでいた覚えもない。授業中、イオリの発言の少なさにしびれを切らした教師がからかってみても、もういいですか、などと冷たく切り上げて教室をしんとさせてしまう。あの彼女とどうやって恋が進展するものなのか。リップひとつ塗る様子もなく、長くて黒い髪はただ伸ばされてひっ詰められ、女子高校生特有の、カバンのマスコットも、髪飾りも、きれいな色の靴下も、何も身につけてはいなかった。
将来はギタリストになるのが夢だったゲンタは、イベントがあるごとにその腕前を披露していたし、風呂嫌いなくせになぜか清潔感があった。だから、相手にしてくれる女の子なんてたくさんいたのに、どうしてもイオリがよかったらしい。
「俺たちはさ、共鳴するんだよ」
同じ音楽に、風景に、二人は似た感情を抱くらしい。兄弟のようだとか、半身だとか、盛り上がるゲンタは次々に例える。熱しやすいゲンタとは対照的に静かなところや、他の女子とは少し違った個性的な風体のすべてが魅力的らしい。同じクラスになってすぐからイオリのことが気になりだして、美術部の活動を終えて帰る彼女を校門で待ち伏せては、偶然を装って話しかけたという。
遠いところから警官が、こちらに向かってきていることに気づいた僕は、話の止まらないゲンタの腕を引っ張った。警官は僕の乗っているのと似たダサい自転車で、立ち漕ぎして寄ってきた。そこで何をしておる! という偉そうな怒鳴り声に、バイクを盗んだ犯人だと疑われているんじゃないかととっさに思った。僕らは乗り捨てていた自転車をあわてて拾い、急な河原をかけ登る。土手の上でまたがり直し、しばらく走ってから、誰もついてきていないことを確かめて速度を落とした。
気がつけば、僕らは家の近くまで戻ってきていた。あがった息がおさまるまで、何も喋らず自転車をこいだ。小さな町工場の前を通り過ぎる。工場内で何かを溶接している火花が目の脇に光を残した。
「おいっ宮本見てみろ! 夕焼けがきれいだ! 絶景だ!」
急に話しかけてきたゲンタの声につられて前を見ると、遠くの山の間に浮かぶ夕日があった。視界にあるさまざまなものが夕日の色に染まっていた。そんな当たり前のことを、すごいことのように話すゲンタが僕は好きだった。彼の自転車は障害物をかわすように蛇行を繰り返す。サドルから後ろの荷台にケツをずらし、左右へ大きく揺れながらゆっくりと進む。僕も少し離れて並んで走る。夕日は確実にじわじわと落ちていた。工場の並ぶ通りを抜けると田んぼが広がり、スズメは頭上を行き、もっと遠くに飛行機が、音のわりには小さく見えていた。
初めて見たイオリの絵は、深く暗いトンネルのようなところに、涙を流した少女がたたずんでいるというものだった。それまで静物画や風景画ぐらいしか目にしたことのなかった僕にとって、それは不思議な絵に思えた。一人で美術部に顔を出すのが恥ずかしいからと、ゲンタは放課後にしょっちゅう僕を誘った。一緒に帰るために彼女を迎えに行くのだった。イオリはいつも、大判のキャンバスに向かって筆やペインティングナイフで油絵を描いていた。使い込まれた木製のトレイに、てかった絵の具をいくつか搾り出し、手慣れた様子で色を混ぜ、キャンバスにそれを置いていく。色が乗ったと思ったらすぐ布で拭き取り、また絵の具を重ねる。それを繰り返しているうちに、人物の顔に陰影が、トンネルに奥行きができていく。絵のことなんてさっぱり分からなかったが、そんな行程が面白くて、廊下からの窓ガラス越しにゲンタと並んで眺めていた。教室にはもちろん他の生徒も作品づくりをしていたが、そこからは雑談や笑い声がこぼれてくる。けれどイオリは、僕らが後ろの廊下で待っていることなんて気にもならないみたいに、閉門を知らせるチャイムが鳴るまで黙って描き続けた。絵の具の乾き具合を指先で押さえて確かめたり、ベンジンの入った瓶をカタカタといわせながら筆を洗ったり。油絵の具の、頭が痛くなるようなきつい臭いが充満する美術部の教室が心地いいみたいに、放課後のイオリは微笑んで見えた。
帰り道は、ゲンタが一人で喋りたてる。授業中よりずっと柔らかい表情をしたイオリは、時々ゲンタのジョークに声をたてて笑う。
「宮本はさ、今、気になってる女の子がいるんだってさ」
ちらと相談したら、その日のうちに僕のいる前でイオリに話された。
「なんなんだよ、その口の軽さは」
「イオリ、誰だか知りたくない?」
ゲンタは母親にまとわりつく子どものように、イオリの前や後ろに回っては顔をのぞき込んでいる。彼女は呆れたように微笑むばかりだ。
「俺はさ、どおんと砕けにいけって言ってんだけどさ」
「ばっかじゃねえのか、もういいじゃねえか」
ふざけて取り上げられた帽子を取り返すみたいに、僕は必死に話題を収束させようとした。ゲンタは面白がって、相談したときの鼻の下が伸びた僕の表情を再現する。僕が追いかける真似をすると、押していた自転車を放り出してゲンタは笑いながら走っていく。
「どっちでもいいんじゃないの」
はしゃいでいた僕たちに、イオリが叫んだ。
「好きなのか、伝えたいかどうかなんて、答えは宮本くんの中にしかないよ」
急に、ゲンタも僕も言葉をなくして、ふざけていたことがなんだか恥ずかしくなってくる。そんなふうに、いつも決まってイオリの発言で話題が終わった。イオリが何か言った後、そっかあ。そうだよなあ。そうなんだけどさあ。それでさあ。とゲンタがまた違う話をし始める。僕は三人で下校するようになっても、ゲンタがイオリと一緒にいて、いったい何が楽しいのか、どうしてこんなにも彼女に夢中なのかが、よく分からなかった。
「お元気でしたか」
ビール瓶を手に、ゲンタの親父さんは溶けてなくなりそうなくらい目を細め、笑顔で話しかけてくれる。あわてて僕はグラスを差し出す。
「はい。おじさんもお元気そうで」
僕がそう言うと、食事の席でも隣りになった浦田が、ほんとほんと、と大きな声で相槌を打ってくる。おじさん若くなっちゃって。だはは。浦田は何がどう面白いのか体を揺すって笑うと、おじさんの前にグラスを突き出す。
「定年になりましてね」
おじさんの履いているスラックスにビール瓶の水滴が落ちる。
ゲンタに、大学受験をしない理由を尋ねたことがあった。するとゲンタは「親父のようにはなりたくない」と答えた。大学出てさ、企業なんかに入るとさ、朝から晩まで小さな箱の中に押し込められて、そんな小さなところが社会だ、なんて勘違いさせられて、せっかく建てた家に家族を置き去りにするんだ。俺は違う。俺はもっと自由に生きたいんだ。親父みたいな悲しい大人にはならない。本当の家族も本当の友だちも持てない、そんなつまらない大人には、絶対ならないんだ。
ゲンタがそう話していたおじさんも、もう定年なのか。改めて時間の速度を知る。そして僕は今の自分を振り返る。楽しそうな大学生活に憧れて進学したが、バイト以外に何をするわけでもなく四年を過ごし、四回生の夏に焦って内定をとった会社に気がつけば現在まで勤めている。小さな会社だがそこには社会の縮図ができあがっているし、会社の人間関係だけで十分しんどい。今、ゲンタの話を聞いたなら、そうは言ってもサラリーマンも大変なんだ、なんて説教してしまいそうだ。これこそ彼の言うところの「親父みたいな大人」になっているということだろうか。
「ところで、宮本くんもいい人はできましたか」
「あ、いえ、あいえいえ」
突然のおじさんの質問に、変な返答をしてしまう。
えっ、結婚まだしてなかったの。いいねー羨ましいねー。隙あらば浦田が口を挟む。そろそろ俺らくらいの年で独身だったら周りがとやかく言い出すんじゃねえの? とやかくうるさい母の顔が脳裏にフェイドインする。俺っちなんてデキ婚だからさあ。いやあ花の独身かあ。
「ご結婚されたらぜひ連絡をください」
おじさんはにこにこしながら会釈をすると、ビール瓶の尻を手で支えて次の来客者の席へと移動する。僕もひとつ会釈を返す。浦田はだはは、と愛想笑いらしきものをすると、右手にトロの刺身をはさんだ箸を、左手に醤油の入った小皿を持ち上げて、長い舌を出して食べた。醤油につからないように、ネクタイの先をカッターシャツの胸ポケットにつっこんでいる。ビジネス街の定食屋に見るサラリーマンのようなこの隣の男と、ジャガイモ頭の野球少年だった浦田を重ねようと試みる。
そういやあさあ、あの子来てないよなあ。ゲンタと付き合ってた子。あれ? いつも来てたんだっけ? えびの天ぷらにかじりつき、衣があちこちに飛んでいる。僕はあぐらを小さくして、さりげなく浦田から距離をとろうとする。やっぱいないんじゃないあの子? けどさ、どうしてるのかねえ。そういやあさあ、いっぺん誰かの結婚式に来てたよな。なんか雰囲気変わっててさあ、ケバくなってて。お前、憶えてない? 浦田が充血した目を近づけてくる。イオリのことをあの子、と呼ばれるたびに無性に癪に障る。浦田から視線をはずし、どうだっけかな、と答える。いまさら周りを見渡してイオリを探すことはしなかった。なぜなら僕はここに着いてからずっと、彼女の姿を探していた。法事の知らせを電話でくれたおじさんにも、イオリが今回来るのか尋ねたところだ。
「七回忌までは確かに来てくれてたんだけど」
同窓会名簿の住所で十三回忌の通知を出したが、転居先不明で戻ってきたという。おじさんは僕に、もし心当たりがあれば探してもらえないかと受話器越しに言った。
「イオリ君が元気にしていることさえわかればいいんです」
おじさんにとって、ゲンタの恋人だった彼女の存在は特別なのかもしれない。正直戸惑ったが、何人かに当たってみた。けれど結局、わからずじまいだった。七回忌のあった年、僕も結婚式パーティーで彼女と会った。しかし翌年から、誰ともぱったりと連絡が途絶えてしまったようだった。
ところでここんとこ宮本の会社はどうよ? 浦田が、すでに破れている紙おしぼりでてかった口の周りを押さえながら話しかけてくる。俺っちん会社もやばいぜ。っていうか社員もみんな食いものにしてるしさ。ま、かくいう俺っちも出張費とか金券ショップ利用で賢く浮かしてんだけどさ。うんうんうん。僕が相槌を打たなくても、ひとりで顎を小刻みに突き出し頷いている。他の席にいた人が、ビールを注ぎにやってきた。するとそれに続いて何人かがビール瓶を手に移動しだした。軽く会釈してグラスを差し出すと、懐かしいなあ、と一人一人と短く話す。次の人が回ってきたら、グラスに入っていたビールを一口含んでまた差し出す。どの顔も面影を残したまま、みんな三十歳のそれになっている。僕も同じように見えるのだろうか。
――お前からしたら、みんなおっさんに見えるだろうな。
僕はふと遺影を眺めて、心の中で話しかける。ゲンタは相変わらず、十八歳の顔をしている。
葬儀の日以来、イオリと顔を合わせることは長い間なかった。毎年、おじさんのところには一人で手を合わせに来ていたそうだが、僕たちが集まる日は避けていたらしい。だから最後にイオリに再会したのは友人の結婚式パーティーだった。僕らは二十四歳になっていた。
高校時代のクラスメートが妊娠して、結婚式はあわてて執り行われた。僕たちが招かれたのは繁華街のダイニングバーを借り切って催された二次会だった。師走に入ったばかりだというのにひどく寒い日で、僕はもらいたてのボーナスで買ったコートを着ていた。入り口で店員に番号札と交換にコートを手渡し、見知った顔の集まるテーブルをゆっくりと歩いて探す。春にゲンタの法事で会ったやつらもいれば、高校の卒業式ぶりの同級生もいた。垢抜けない高校生だった友達が気取ったスーツや化粧を施し並んでいることに妙な感じを受けながら、座る席が空いていないので店の奥まで進んでしまった。薄暗い明かりの中で、目立たない一番奥の席にイオリがいた。彼女の周りだけが空いていた。
「久しぶりだね」
僕は腰を下ろしながら、少し緊張気味に挨拶をする。葬儀以来だったので、昔のようには話しかけづらかった。周囲も僕と同じように感じていたからこそ、その席が空いていたのだろう。彼女は全体に大きく曲線をつけた髪を茶色く染め、華奢な身体のラインがはっきりとわかる黒のスーツを着ていた。胸元は襟が大きく開き、鎖骨のくぼみに沿ってゴールドのネックレスが光っていた。赤い口紅をひいている彼女は、僕の知るイオリの面影とはずれていた。
「ほんとだ。久しぶり」
昔と同じように僕を斜めに見上げ、抑揚のない口ぶりでイオリは返答した。すぐに僕だと分かってくれたことは嬉しかったが、イオリはそのあとソファーに深くもたれて黙りこくり、何本も続けて細いタバコに火をつけた。
ろくに会話も成り立たないままパーティーが始まった。元同級生だった新婦はおなかの大きくなったところを隠すためか、赤いフリルだらけの生地のいいネグリジェのようなドレスを着せられている。ビュッフェ形式の食事に周りがいっせいに席を立つ。イオリはまるで興味がないようにぼんやりしていた。タバコ、吸うようになったんだね。精いっぱい努力して話しかけたが、声もなくただコクン、と頷かれただけだった。
パーティーも半ばにさしかかったころ、司会者が新婦にマイクを向けた。結婚に際して、新郎に望むことは、お願いはなんですか? 高校生の頃、気の弱い男性教師の背中にピンクチラシを貼り付けて走り去ったのがこの新婦だった。新婦はえーっとお、と小首をかしげて考える。ビールのグラスはいつまでも空だった。席が奥まっているので店員が気づいてくれない。イオリはテーブル上のスタンドに立てられたキャンドルをぼうと眺めて上の空だったし、イオリの反対側の友人はまた向こうの友人と話をしていて、僕は仕方なく質問に答える新婦を見つめていた。私が彼に望むことは、と新婦はわざとらしいほど恥らいながら、お腹を両手で撫でて口を開く。私が彼に望むことは、私を置いて先に死なないでほしいということです。あらあら、おめでたい席で。司会者がオーバーに困ったふうをする。だって、私の望みは本当にそれだけなんですもの。新婦はまっすぐに新郎を見つめる。周囲からはその場をさらに盛り上げようと甲高い声や口笛がかかる。
話題が変わるまで、イオリのほうに視線を向けてはいけないと、しばらくのあいだ動けなかった。新婦はイオリを招いておいて、どうしてそんな言葉を吐くのだろうとその無神経さに腹立たしくなる。
「宮本くんは今なにしてるの」
ふいにイオリが話しかけてきた。意識していたことを見透かされたようでどきりとしたが、彼女は昔と変わらずけだるそうに、どっちでもいいけど、とでも言いたげな目をしていた。
「医薬品の会社で営業してる」
「宮本くんが、営業ねえ」
高校生のころから僕は口下手だった。今の仕事が本来向かないことは自分でもわかっている。
「イオリはどうしてるの」
「また無職になるから、しばらく実家」
どうして辞めるの? と聞こうとしたが、躊躇した。リアクションに窮する答えが返ってきたらどうしようかと口が重くなる。ちょうどボーイが通ったのでビールのおかわりを頼むと、私も、とイオリが言う。
「この席、店員さんがなかなか来てくれないから、ビールがあたらないね」
僕と同じことを考えていた。
「宮本くんってお酒好きなほう?」
「イオリは?」
「大好き」
「それならこのあと飲み直さない?」
自分でも意外だった。重要な場面では出てこない言葉が、口をついてさらりと出てきた。しばらく沈黙ができて、言うんじゃなかったと後悔しだしたころに、彼女はいいよ、と無表情で同意した。
二次会がお開きになって、出口で新郎から小さなお菓子の包み紙をもらい、店の表でますます盛り上がっている友人たちを横目に、イオリと僕は駅の反対側に歩いた。とうとう最後まで宮本くん以外の誰とも喋らなかったよ、と彼女は残念そうにつぶやいた。きれいになったからじゃない? 軽口をたたいてから焦ってイオリの顔を見る。聞こえていないかのようにつまらなさそうに口角が下がっている。しかし本当に、あの飾り気のなかった昔と比べれば、きれいになったと思う。
「久しぶりにみんなに会うから、いつもしない化粧もしたのよ」
肩を落として言った。その化粧が逆効果になったみたいだった。腕時計を見るとまだ十時だ。以前付き合っていた恋人と行ったことのあるお洒落なカフェバーを思い出し、いいところに案内するよ、とちょっと気取って先導する。あそこなら落ち着いて話せるだろう。彼女は並んでいる飲み屋の看板や中を覗きながら、遅れてついてくる。
ところが繁華街のど真ん中にあったはずのその店は、コンビニに変わっていた。飲み屋になっていたならいざ知らず、コンビニでは、ここでいい? というわけにもいかず、次の店を探すはめになった。静かな店がいい。そう思いながらも、店構えだけでは中の雰囲気がわからない。外から店の中が窺える何軒かのドアを開けたが、土曜日だからか席の空いている店はなかった。
「赤ちょうちんでいいじゃない」
面倒くさそうにイオリは言ったが、そう言われると今度は居酒屋も見当たらない。
「お酒はいいから、お茶でもする?」
今度は僕がそう提案したが、
「こんな時間に喫茶店もやってないわよ」
と彼女は返した。
僕たちは一緒に泊まるラブホテルを探しているわけでもないのに、気分はそんな感じでやや険悪になっていった。何組も僕たちの横を酔っ払いの集団が大きな声で喋りながら通りすぎる。コンパ帰りのような若い子たちが、今夜はお持ち帰り、なんて言いながらふざけて抱きつき合っていた。結局歩き回った末に僕らが入った店は、どこにでもあるチェーン店のラーメン屋だった。そこにしようと言ったのは彼女だ。引き戸を開けて、奥に客が一人しかいない店内のテーブル席にどさりと腰掛けると、高価そうなコートをくるくると丸めて横の油っぽい丸椅子に置く。この店に胸元の開いたスーツは不似合いだった。黄ばんだ蛍光灯の下で見ると、化粧のとれかけたイオリは疲れて見えた。僕もすっかりくたびれていた。マガジンラックの上にある壁掛け時計は十一時を指していた。
「昔さ、一緒にラーメン屋行ったことあったよね」
「あったね」
「イオリが誰かの展覧会に案内してくれた帰りでさ」
誰かって、クリムトでしょ。そう返答する彼女のそっけない口ぶりに会話が止まる。おかげで出されたラーメンを、まるで残業の後のように黙々とすする。
どういういきさつだったのかは思い出せないが、ゲンタたちのデートについて行ったことがある。それがクリムトの展覧会で、市内に新しくできた美術館のこけら落としのイベントだった。僕には絵画なんてさっぱりわからなかったから同行するのは気がひけたが、館内ではイオリが丁寧に説明をしてくれた。オーストラリアの画家、グスタフ・クリムトの生涯について。その色使いと構成の巧みさ、作品の神々しさや描かれる女性の美しさについて。途中、僕らがふざけて話を聞いていなかったら、彼女は真面目な教師のように息をつき、あなたたちは面白くないわけ? と怒ったように言った。僕は十分面白かった。気に入ったのは金髪の女性が形のいい胸を放り出して、口をあけて眠るエロティックな絵だった。その肉体の生々しさに、観に来てよかったと思っていた。けれどそんなことを言うと叱られそうなので黙ってイオリの説明に頷いていた。ふと、その絵を背に真剣に語る彼女を見て、何故ゲンタが彼女に魅かれていったのか、少しだけ理解できた気がしたことを憶えている。
僕たちはラーメンと一緒に頼んだ生ビールをそれぞれ一杯ずつおかわりした。有線放送のボリュームが小さすぎて、店内は重い空気が漂っていた。僕はラーメンに何度もコショウをかける。餃子のタレにたっぷりとラー油を落とす。ビールと一緒だからか味が薄くて仕方がない。そのうちイオリが笑い出した。入れすぎじゃないの! そう言う彼女のラーメンには食べ放題のキムチがどっさり入っている。それを見て今度は僕が笑った。僕たちは再会してから、やっと笑えた。
「仕事、何してたの?」
「飲食店なんかのね、ロゴのデザイン」
「へえ。やっぱり絵、描いてたんだ」
「絵じゃなくてデザイン」
イオリの口調がきつくなる。
「油絵は?」
「そんなの描いてない描いてない」
彼女は不自然に声を立てて笑い、手をヒラヒラさせて陽気に否定する。
高校生のころ、イオリは油絵で学生部門の市長賞をとったことがある。その絵は学校の玄関に高々と飾られて、全校生徒の目に触れた。僕らの暮らす町で見かける風景に、リアルな猫や人間がたくさん潜んでいる絵だった。一見グロテスクなのに色合いがやわらかで、見ていて飽きることがなかった。市長賞を取るのは大変なことなのだと美術部の顧問は朝礼で話した。あいつの才能に惚れてんだっ、なんてゲンタが浮かれていたことを思い出す。同時に、文化祭のゲンタのギター演奏に、体育館の壁にもたれて聞き入っていた十八歳のイオリの姿も思い出した。演奏が終わって、ステージから降りてきたゲンタは、一目散に彼女のところへ走り寄り、みんなの前で抱きついた。生きてるって感じたよ、そんな言葉を叫んでいた。イオリは恥ずかしがって騒ぐわけでもなく、力尽くで抱きしめるゲンタの背中をぽんぽんと叩いていた。たぶん、僕を含めた他の連中は、そんな二人が羨ましかった。自分が何者なのかも判然としない年頃に、パートナーと、音楽や絵画をすでに見つけていた彼らが、ずっと先のほうを歩いているように思えたものだった。
「せっかく描けるんだからもったいないよ。また描いたら? もったいないから」
僕はなぜかしつこく会話を続ける。
「もういいじゃない」
もういいじゃない、の、どの音にもアクセントがなかった。また沈黙ができた。
「美大は卒業したの?」
「宮本くんさあ、興味持ってる? 私がちゃんと生きてたのか」
僕は好奇心で聞こうとしているのではないことを伝えようと言葉を選ぶ。法事でクラスメートが集まるたびに、必ずイオリの話題が出る。どこかで誰かが見かけた、誰かがイオリと話した、やつれて見えた、やけに明るく振る舞ってた、恋人と一緒だった、不幸せに見えた、やっぱり誰も好きになれないらしい、と。そんな周囲の話し声は不快だった。僕は違う。僕は大切な友人の愛していた人を心配しているだけだ、と本人を前にして、自分に言い聞かせる。
「大学出たわよ。恋人も今はいないけど、いたこともあったわよ」
すっかりラーメンをたいらげたイオリがもう一杯ビールを頼むと、ラストオーダーだと告げられたので僕もビールを注文する。
「そっか。良かった。きっとヤツも心配してると思ってさ」
余計なお世話だった。選ぶつもりが、自分の口をついて出た言葉にげんなりした。イオリは吸ってもいい? と断ると、先ほどの二次会で見た細いタバコを取り出した。火がつけられると甘い匂いが鼻を撫でた。それ以上、何も話してはくれなかった。だから僕は、その間を取り繕おうとまたつまらない言葉を吐いた。
「ゲンタはよく言ってたなあ、イオリとめぐり逢うために生まれてきたんだって」
言ってみると、そんな言葉はひどい思い込みのような気がするが、十八歳で他界したゲンタにとっては偽りのない、真実そのものだったのだろう。しかしどちらにせよ、有線放送のボリュームの小さい、閉店間際のラーメン屋で話すことではなかった。こんな場所でこんな言葉が、ムードあるひとときを紡ぎだすわけもなかった。
ゆっくりとタバコをもみ消したイオリは立ち上がり、僕の頭をはたいた。その手は子どものころに父親にはたかれた記憶が蘇るほど、大きくてしっかりした手のひらだった。
「今さらそんなこと言うために誘ったわけ?」
彼女は静かにそう言うとコートを手に、暖簾を片付ける店主の横をすり抜けて表に出てしまった。慌てて勘定を払い、彼女の後を追ってみたが、結局見つけることはできなかった。僕も、何のためにイオリを誘ったのか、自分でもよく分からなかった。
橋の下で警官に追いかけられた日の翌週に、ゲンタはバイクの免許を取りに行った。そのころから僕は受験に向けて予備校に通い出した。ゲンタは受験をしないぶん、高校生活の大半を工場でのアルバイトに捧げ、頭金を貯めると、三年生になったころには新車の七五〇CCを手に入れた。そのバイクには大きな背もたれがあった。イオリを乗せるときに彼女が風に飛んでいかないように、わざわざとりつけたのだと説明していた。アルバイト先は卒業しても続けて雇用してくれるらしく、バイクのローン返済が終わったらお金を貯めて、イオリの進学する美大のそばでアパートを借りるんだと話していた。
都会での一人暮らしに憧れていた僕は、市内の大学を志望した。試験に合格した中から最終的に大学を絞った決め手は、受験者にかわいい女の子が多かったことだ。母は、どうしてその大学にするのか、家からなんとか通えないのかと最後まで文句を言っていたが、僕が格安の学生寮を見つけてきたので、しぶしぶ承諾してくれた。
卒業式を終えて、僕が翌日から下宿先に引っ越すという日、ゲンタは深夜からバイトが入っていたにもかかわらず、仲間を集めて送別会をしてくれた。文化祭の打ち上げで行った駅前の、ワンコインで飲める、グラスもカウンターも洗面所も、何もかもが汚れた店だった。
「今日は俺のために集まってくれてありがとう」
ゲンタがふざけて挨拶をする。誰かがおいおい! と突っ込んで、どっと笑いが起こった。親友宮本の新しいスタートに。ゲンタが乾杯の音頭をとると、割れそうなほど勢いをつけてみんなでグラスをぶつけ合った。
送別会ならこれを、と言って、バーのマスターがシャンパンを出してくれた。家族とクリスマスに飲む甘ったるいのじゃなくて、ぷんとアルコールのきつい臭いのするシャンパンだった。ところで君らいくつ? マスターの質問に僕らはばらばらに嘘と本当の年齢を口にする。マスターは見透かしたような目つきをした。僕らがしばらくそこにあったダーツをしたり、お酒のおかわりをして過ごしていると、暇そうにしていたマスターが、ゲームでもしようか、と持ちかけてきた。簡単な言葉遊びだった。もしも勝っていたら僕らのその夜の飲み代はタダになるはずだった。
そのゲームに、ゲンタは三度続けて負けた。他のみんなは抜けていったのに、最後はマスターと二人で勝負をしていた。濃いカクテルを立て続けに飲んだ後、三度目にはテキーラを一気飲みするはめになった。砂糖をのせたレモンスライスを先にほおばり、ショットグラスのテキーラを流し込んだ。
だから店を出たとき、ゲンタの足元は普通じゃなかった。なのに彼はバイクにまたがった。危ないんじゃないか。誰もがそう言う。すると、酔ってるときのほうが安全運転なんだ、とゲンタは言って聞かない。頬を数回手のひらで叩いて、おっしゃっ、と気合いを入れてヘルメットをかぶった。寒さのためかエンジンはかかりにくかった。もうしばらく会えないのかな。僕がそう言うと、ゲンタはまぶたが重そうな酔った目で言った。
「地元に帰ってきたらまた会おうや」
ハンドルに片手をかけたまま、空いたほうの手を頭上で大きく振ってから、深夜の冷えた空気を切ってゲンタは走り出した。
葬儀は横殴りのひどい雨の中、執り行われた。霊柩車が扉を開けて待つ自宅前の道に僕らは並び、みな同じだけ雨に濡れた。ゲンタのおじさんが濡れて額に張りついた髪を直そうともせず、今日の空は私の心のようです、とマイク越しに話していた。おじさんの隣では着物姿のおばさんが、遺影をしっかりと抱きしめて、しゃくりあげて泣いていた。
ゲンタを撥ねた廃棄物回収パッカー車の運転手の話では、バイクは交差点の赤信号を一定のスピードで直進しつづけてきたという。方向指示機を出して曲がってきたパッカー車がクラクションを長く押し続けたにもかかわらず、聞こえていないかのようにバイクの速度は変わらなかった。運転手は急ブレーキをかけたが、風に吹かれた新聞紙が足に絡まるように、彼の身体はパッカー車のタイヤに巻き込まれ、やがてはじき飛ばされたという。ゲンタはバイクを直進させながら、眠っていたのだ。
イオリは僕の斜め前に立っていた。寒さのせいか傘を持つ手を震わせて、スカートからは水滴が落ちていた。足を広めに開いて立ち、日ごろは束ねている黒くまっすぐな髪を、顔全体を隠すように下ろしていた。
涙と雨で顔を光らせたおじさんが、こんなにたくさんの友達に参列してもらえてゲンタは幸せ者でした、ありがとう、と言ったとき、誰かが甲高い嗚咽を漏らした。続いて何人かのすすり泣く声が上がる。僕はイオリの様子を盗み見た。彼女は小刻みに手を震わせていても、ハンカチで目頭を押さえることもなく、最後までしっかりと立っていた。僕らは式の間にも何度か手を合わせたが、本当はどんな祈りの文句も思いつかなかった。まだ、後悔や哀悼なんて現実のものには感じられなかった。そんな僕にとって、イオリは唯一の仲間のような気がした。
その後、大学生になった僕は、慣れない下宿生活の中、ゲンタに会いたいと日に一度は思っていた。彼との些細な会話が詳細に蘇っては、もうその声が聞けないんだと落ち込んだ。ゲンタに伝えたいことが頭の中に積もっていく。ゲンタならどんなふうに答えてくれるのか。そんなことばかりを考えていた。
一回生の夏に帰省した時、二人でよく釣りに行った池の前を偶然通りがかり、地面に膝をついて泣き出してしまったことがある。送別会の夜、ムキになってマスターとゲームをすることを、酔ってバイクに乗ることを、僕には止めることができたはずだ。もしも止めていたら、ゲンタのギターも、大げさな言い回しも、イオリを愛することも、今も当たり前のように続いていたはずだった。僕が当たり前のように生きているように、ゲンタも年を重ねていけた。それを奪ったのは、イオリからゲンタを奪ったのは、僕なんじゃないだろうか。膝をついた池のふちに、彼の背中がリアルに浮かんだ。そこに並んで座っていた高校生だった僕が見えた。長い時間、僕は僕らの後ろ姿を見つめていた。誰かに、許されたいと願っていた。
ゲンタが生きていない時間を生きながら、僕は自分を長い間責めつづけた。しかしそれも、月日が経つごとに軽くなっていき、軽くなることにまた後ろめたさがあった。けれど、そうすることでしか僕は年を重ねられなかったようにも思う。就職活動がうまくいかなかったころや恋人に去ってしまわれた時、職場と自宅の往復を単調に繰り返している合間などに、十八歳で他界した彼のほうがずっと幸せだったんじゃないか、と不謹慎にもそう考えることがあった。ギターを弾いて、生きてる実感があったと叫んだゲンタが、そこで切り上げることができた彼が、羨ましかった。
イオリはあの葬儀の日から、どんな毎日を送ってきたのだろう。何故、絵を描くことを止めてしまったのだろう。いや、僕は、いったいイオリの口から、なにを聞き出せば満足だったのだろう。もしかしたらあのラーメン屋で、僕は僕自身のことを話さなければならなかったのかもしれない。彼女がどんなふうに暮らしてきたのかを聞く前に、僕がどんなふうに生きていたのか。そしてゲンタの死を悲しんだ日々が遠いものになっていくことは、薄情なのか、強さなのかを、正直に尋ねればよかったのかも知れない。
今日はろくに休憩も取らずに朝から取引先を駆け足で回った。明日から盆休みに入るので、休暇前の挨拶を済ませておかなければならなかった。休み明けすぐの注文もいくつか取れてほっとした。実家の母に、いつ帰ってくるのかと電話口でうるさく催促されたので、明日から帰省することにした。母は春の法事で地元に帰ったことをどこかから聞き、顔を出さなかったことを怒っている。あの町では昔から何をしても親の耳にすぐに入った。法事の後はそそくさと電車に乗ったのに、いったい誰に見つかったのだろう。
取引先を出ると定食屋で昼食をとり、会社に戻るため駅に向かう。午後からの仕事は早めに終えて、夜は同僚と暑気払いを予定していた。地下鉄に乗って途中でJRに乗り換える。人の流れに乗って早足で歩く。改札の前で手間取らないよう歩きながら定期券を探す。昼食後すぐからどうも胃がもたれるので、何を食べたのか考えたが、ついさっきのことなのになかなか思い出せなかった。JRの駅前では、ティッシュ配りの人の横で、だぼついたジーンズをはいた少年がギターを手にシャウトしている。少年が明らかにコードを間違えたその前を過ぎ、僕は改札を通った。部活帰りなのか女子高生の大群に出くわし、避けるためにホームの端まで歩いた。電車は出たばかりだったので、自動販売機で缶コーヒーを買い、広告ポスターの貼られた壁にもたれて甘いコーヒーに口をつける。丸印のついた箇所に順序良く並ぶ人たちを、その間をぬって走り回る子供たちを眺める。携帯電話を取り出して着信がないか確認していたら、忘れていた仕事を思い出して憂鬱になってくる。同じホームにある私鉄の乗り換えの階段を、たくさんの人がのぼってくる。その中に、女の子を抱いた女性がいる。背は高いけれど、華奢な母親が抱きかかえるには少し大きすぎる女の子は、母親の肩に頭を乗せ、ぐっすりと眠っているようだった。僕は飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に投げ込み、また壁にもたれた。ひとつ手前の駅を電車が出発したことを知らせる電光掲示板に目をやると、先ほどの母親と女の子の姿が視界に入った。赤い靴を履いた女の子の足は力が抜けて、腕も母親の背中にだらりと垂らしている。ショートヘアで化粧気のない母親はジーンズ姿にリュックサックをしょって、女の子を抱えながらもやけに大股でこちらに向かってくる。大切な女の子を落とさないように、真剣な表情をして。息づかいが聞こえてくるようで、僕は視線をそらせなかった。母親の顔がはっきりとわかる距離に近づいてくるまで、僕は待ちかまえるように見つめていた。そこで彼女は立ち止まった。
「久しぶりだね」
先に声をかけたのはイオリのほうだった。昔と同じ少し低めの声でそう言うと、女の子をよいしょ、と抱きなおした。まるで僕とここで再会することが分かっていたような落ち着きようだった。
「この沿線?」
「そう、この沿線」
「そうなんだ」
昔と同じように会話が止まる。僕はイオリのそっけない口調に、なぜだか嬉しくなる。
「驚いたね。お母さんになったんだ」
イオリは眠る女の子の頭に頬をつけて、そうよ、うちの子美人でしょ、と言った。すっかり母親らしい口振りだった。しかし残念ながら、女の子はスイッチを切ったみたいに動かなくて、肩に押しつけられた顔は窺うことができなかった。
「元気そうだね」
「元気よ。宮本くんも」
「ああ」
イオリは口元をしっかりと結んで、にっこり微笑んだ。僕も微笑んだつもりだったが、どんなふうに見えたのだろう。今からこの子とアニメの映画を見に行くの。目が覚めたら映画館でびっくりするだろうけど。彼女は指先でその子の髪をすくった。それは幸せな子どもだね、そう僕が言うと、彼女は頷いた。
女の子を抱きしめる三十歳のイオリは、薄いそばかすが浮いていて、なんの飾りもつけてはいない。けれどその小さめの瞳には昔よりずっと、強い光が満ちている。昔ゲンタが、心はダイヤモンドみたいに硬質なものだ、と言った。十八歳のゲンタがそう言ってみても、ただ大げさでしかなかった。僕は今、その言葉を思い出し、たまらなくゲンタと話がしたくなる。
アナウンスと共に電車がホームに入ってくると、イオリの髪が風を受け、額がむき出しになった。僕らが電車に乗り込むと、発車のベルが鳴り扉が閉まった。僕はそれじゃあ、と手を上げた。動き出した電車の中を、僕はゆっくりと歩きだした。
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