桎梏   西村 郁子


                   
 JRの改札を出たら右、と恭子から教えられていた。わたしは紫陽花の寺を特集したポスターの前で頭を右に向け、バス乗り場の案内板があるのを確認した。梅雨の中休みか、天気はよく空気もからっとしていて気持がよい。
 正午前の改札付近は、どの人も悠久の時を刻むかのようにスローに動いていて、すれ違いざまに何人もの人とぶつかった。駅は線路を跨ぐ格好で二階にありバス乗り場は地上にある。
「そこの一番上から女の人が足を滑らせて落ちて死んだんですよ」
 小走りに階段に足をかけようとした時に注意された。振り向いて声のする方をみたが、わたしを見ている人は誰もいなかった。券売機に向かう老婆がそうだろうかと背中を見守ったがこちらを向くことはなかった。
 ニュースで事故のことは知っていたが、ここだったとは思いもよらなかった。階段を一段降りた。真新しい菊の花束が手向けられているのが見えた。終電で駅についた人たちが、われ先にタクシー乗り場に駆け込んだ時の事故だ。ニュースでは五十四歳、女性とだけ言っていた。その場所を通るとき、彼女の死に贖う意味で頭をさげた。
 バス乗り場には番号がふってあり、行き先を書いた看板が延々と向こうの方まで続いていた。教えられていた乗り場番号は一番遠い所だった。始発ではないらしく整理券がでていた。先客が三人ばらばらに座っていた。ひとりがけの席は左側だけなのでちょうど真中あたりに座ることにした。整理券をポケットに入れて、深くシートにもたれかかった。
 今日ここにきたのは、恭子がリーダーを務めるストレスマネージメントの勉強会に招かれたからだ。わたしの離婚体験を質疑応答の形で聞かせて欲しいと言う。どうしてわたしなのかと訊くと、夫に捨てられてもへこたれずに商売して自立してるからよと言われた。勉強会の内容はメンタルトレーニングのようなものだと教えてくれた。
 わたしも最近、精神分析や心理学の本を立て続けに何冊か読んでいたのでその方面には興味はあった。久しぶりに恭子とも会えるし、いいかなと引き受けることにした。しかし、今になって引越しの手伝いを頼まれた時のように気楽に引き受けるものじゃなかったのかな、と後悔していた。  
 バスはわたしを含めて四人のままで発車した。終点の山の上ニュータウンには十数年まえにも行っている。恭子が新婚当時に住んだ公団住宅があったところだ。転勤で離れたものの再び大阪勤務で戻ることになったとき、古巣に帰ったというわけだ。
 十分もしないうちにバスは市街を通り抜け幹線道路を横切った。川に沿った道が勾配を増し、やがて大きくS字を描く本格的な山道になった。バス正面の料金パネルを見ると千円を越していた。確か前に訪れた時もバス料金の額に驚いた記憶がある。
 後ろの席から鼻歌が聞こえた。ロングアンドなんとかと言っている。昔の事を考え込んでいるまに人が乗ってきたようだ。小学生くらいの声だった。英会話教室なんかで習いそうな曲ではなく、聞き覚えのあるメロディーを繰り返している。振り返りたかったが、声はわたしの真後ろの席だし、興にのって楽しく歌っているので邪魔をしたくなかった。くねくねと曲がりくねった山の道にその曲はぴったりはまっていた。
 着きましたよというしわがれた男の声で目をあける。バスの運転手がマイクで喋っているのだ。バスはニュータウン前と書かれた看板の前で停車していた。乗客はわたしだけだった。
 バスから降りようと、よろよろとあたりを眺めていると、すぐ近くに二階建ての白いコンクリートの建物がみえた。人が集まっているのもあって、恭子が指定したコミュニティーセンターに違いないと思った。門の前には補助かごのついた自転車が十数台停まっており、小さな子どもの声も聞こえてくる。
 頭がまだぼうっとしていて、さっきのロングアンドなんとかという歌が流れていた。ビートルズだった。サイモンとガーファンクルだろうか。歌っていた女の子を見逃したのも失敗だ。やっぱりビートルズだと思った。サイモンとガーファンクルの明日にかける橋と混同していた。
 建物の前にきた。山の上幼稚園と書かれている。二、三歩後ずさって重たい頭を振った。恭子から送られたファックス用紙を取り出す。バス停の名前はコミュニティーセンター前になっている。
 その幼稚園からでてきた女性に尋ねることにした。わたしよりずっと年若い。子どもを連れずに歩いていたら間違いなく独身で通るだろう。彼女は小粒の白い歯をみせて説明してくれた。バス停をひとつ乗り越したらしい。
 住宅街を抜ける近道を教えられた。丘陵地のてっ辺が公団住宅の立ち並ぶ一角で、そこから下に向かってテラスハウスと呼ばれる鉄骨の二階建て住宅が一面に広がっている。恭子の今度の家はこのテラスハウスだ。越してすぐポメラニアンの子犬を買ったと言っていた。団地やマンション暮らしから脱した象徴ということなのだろう。
 この中に恭子の家があるかもしれないと表札を見ながら歩いていると何人かの主婦に怖い顔で睨まれた。見知らぬ人間はセールスか泥棒とでもいいたげである。
 それらしき建物の前で小さい人影がみえた。携帯に何かたくさんぶら下げていて扱いずらそうに耳にあてている。鞄の中でブーブーとわたしの携帯が唸った。マナーモードにしていた携帯を受けると小さい人影が大きく手を振った。
「遅いからバス停まで行こうと思ってたとこよ。迷った」
 耳元で恭子の声が弾んだ。
 わたしはどっちに話しかけようか迷ったまま進む。恭子の顔が見えるようになったので携帯を切って走り寄った。
「ごめんね。寝てしまって終点まで行っちゃった」
 一メートル位の距離で向かい合った。恭子もふけたなと思った。まぶたが痩せて肌がくすんでみえる。わたし自身は、去年更新した運転免許証の写真でそれを感じて大ショックだった。四十歳というのはそういうものなのかと恭子の顔をさらにまじまじと見た。
「ちょっと変更があるの」
 恭子はわたしの腕をとると建物の中に引き入れた。玄関を入るとスリッパに履き替えるようになっている。二階が控え室らしく腕を取られたまま階段をのぼった。
 畳敷きの部屋に男の人がひとりでいた。入り口に背を向けて胡座をかいている。
「先生、わたしの友人の大杉峯子さんです」
 恭子はわたしの腕を取ったまま、男の人の前に回りこんで突き出すようにして紹介した。二の腕が急に熱くなった。恭子の握力が強くなって痛い。
「そうですか。わたしは宮武です」
 立ち上がって、二、三度スーツのしわを伸ばすように上から下へ撫でつけた。仕立ての良さそうなスーツだった。グレーのピンストライプのスーツに水色のシャツ、紺色の千鳥格子のネクタイを合わせているのもお洒落だと思った。
 と恭子が大きな声で、
「大学の心理学の教授で、市のカリキュラムの顧問をなさってるんですよ。わたしたちがこの活動を軌道にのせられたのも先生が教えてくださったからなんですよ」
 どっちに使っている敬語なのか妙な言葉遣いをするので可笑しくなって横目で恭子をからかった。
「先生、まだ彼女に説明してないんですが。先生からおっしゃっていただけますか」
 すりよるような声で言った。
「あ、そうでしたか。うん、大杉さんでしたね。尾野さんからは離婚されてそれから自立をしてきた女性ということだったのだけど、別居されていて離婚はされてないんでしたね」
 宮武はわたしが頷くのを確認して続けた。
「今日は体験をお話いただいて、離婚に際してのストレスマネージメントのサンプルを研究する予定だったんです。大杉さんの場合、離婚ではなく別居というのが問題で、生徒さんたちで研究を進めてもらうつもりでしたが、非常に繊細なところなので、わたしが質問者になります。大杉さんにとって体験を話すことに変わりはないのですが、もともとこの作業は自己診断のようになりますし、もしかしたら大杉さんの潜在的なものを表面に出してしまう可能性もあるんです」
 わたしは恭子の顔を見た。顎が小刻みに上下している。
「矛盾しますが、そう怖がる必要もないですよ」
 宮武がわたしの不安を察して言った。
「つまりカウンセリングのようになるということですね」
 そう言ってわたしは深く考え込むふりをした。
 わたし自身、夫が離婚を切りだした直後に神経内科に行った経験があった。医師は黙ってわたしの話をきいてくれた。カウンセリングというにはほど遠いものだったが、医師が最後にここに来るべきは旦那さんのほうですよと言ってくれたことだけが救いだった。つい最近知ったのだが心療内科と神経内科は別なのだそうだ。心の苦しみを訴えるのは心療内科のほうであった。
「いいです。先生にお願いします。もし何かあったら先生があと診てくださいますよね」
 三人が同時に笑ったが、宮武はすぐに笑うのを止めて言った。
「連絡先をお渡ししておきます」
 そう言って、名刺を差し出した。
「心配させてしまいましたが、あくまでその事態をどう乗り越えたかという趣旨の質問になりますので別居ということに拘らず、乗り越えたかのところを話してもらうようにします」
 どう乗り越えたのだろうか。十年前のことなのだ。
 恭子の顔をみる。同じことを考えているのか、繋がった視線が心の重みでたわんだように感じた。
 夫から離婚したいと言われた直後、恭子に電話でそのことを聞いてもらった。二時間近い長電話を置いた直後に恭子は子宮から大出血をして救急車で病院に運ばれた。その時恭子は二番めの子を出産したばかりで産院から実家に戻って間もない頃だった。大出血の原因は分娩のときに使用された陣痛促進の点滴にあったと聞いた。恭子は運ばれた病院で一度心臓が止まった。チアノーゼがでていて、その姿をみた恭子の母親が思いっきり頬を叩いたのだそうだ。恭子の名前を呼びながら。それで恭子は目を開けた。そのとき恭子はむこうとこっちの真中にいて、むこうに行きたいと思ったのだそうだ。けれどこっちから名前を呼ばれていて戻りたくないけれど帰らなければならないと思ったと話してくれた。恭子の母親が必死で連れ戻したのであろう。後日電話でそのことを知らされたときは、驚いたと同時に煩わしい話を聞かせたわたしのせいかもしれないと気にした。
 あの日電話口で、どうするの、これからと、恭子が心配そうに訪ねた声がまた耳元で聞こえたような気がした。

 腕時計に目をやった恭子が、そろそろ時間だと言った。鞄を手に宮武が階段に向かう。向かい合っていたときは、初老の男だという大雑把な印象しか受けなかったが、目の前を通り過ぎて行く姿をよくみてみると、猫背ぎみであるが背は高く、髪はウエーブがあり染めているのか白髪は目立たなかった。足が驚くほど長く一直線に滑るように静かに歩く人だった。
 階下に行くと学校の教室くらいの部屋があり、長机がコの字に組まれ、抜けた一辺に演台が置かれていた。二十代から五十代くらいの女性ばかり十数名が、がやがやと雑談をしている。小学校のストレスチャレンジ教室というのが始まりで活動を始めたグループだという。こどもを対象とする場合は市と何らかの団体の契約が必要で、恭子も団体のメンバーである。そこから依頼のあった小学校へ出前講座をするのだそうだ。大人向けというのは、離婚や子育て仕事など共通の問題を抱えた者が集まり、ストレスの解決を目指すものなのだ。こちらが今日のサークルの方で勉強会と思えばよい。       
 最初、わたしはアル中や薬物の中毒患者がするミィーティングの様子を想像したが、この状態をあえて言葉でいうならば、ボランティア的相互カウンセリングとなるのか。会場の緩んだ雰囲気がすぐに伝わってきた。
 宮武がパイプ椅子に腰かけ、膝のバインダーをめくりながら口を開いた。
「最初に断っておくことがあります。今日の大杉さんから聞かせてもらう『離婚からどう立ち直ったか』と言うテーマの離婚を別居と置きかえて話をきいてください。では、大杉さん別居なさった時期と現在までの経緯を伺いますので簡単で結構ですからお答えください」
 わたしは演台に立たされたまま、宮武の方を向いて待った。
「結婚された時期とあなたの年齢、夫の年齢は」
「平成四年、わたしが二九歳、夫は二八歳です」
「恋愛結婚ですか」
「はい」
「どれくらいの期間交際されましたか」
 考えないと分からない。三年、正式には二年半か。
「二年と少し」
 宮武が顔をあげた。
「結婚生活、これは別居されるまでの期間を教えてください」
 また、考え込む。今年で入籍して十二年目だ。いっしょに住んでいたのは、賃貸アパートでの二年半とマンションを買ってからの二年だ。
「三年と少し」
 歳月を過少申告するのはどうしてなのか。理由は分からない。ただそうしたくなったのだ。
「それでは別居前後の事をおっしゃれる範囲でいいので、お話しください」
 最長の思考時間。会場からささやき声が聞かれ始めた。恭子からどんな質問があるかのファックスはもらっていた。この質問にも答えを用意してきたではないか。クールにこう言うつもりだった。直後は苦しく、身の置き場がなかったのですが、時間が経つにつれ夫への気持ちも薄らいでいきました。夫がわたしを拒否した理由は分かりませんが、気持ちは分かるようになったのだと。なのに、わたしはそれと違うことを話そうとしている。
「別居するまでの一年余りのことですけども家庭内別居という形をとっていました。マンションをシェアしたんです。離婚したいといったのは夫のほうで、わたしは離婚したくなかったんです。それで夫を引き留めるために家の中で別居することを提案したんですが、その翌日からわたしを挑発するかのように喧嘩の原因だった職場の女の子と堂々と付き合い始めたんです。彼が怒ったのはわたしがその女の子との浮気を疑って彼女に電話したことでした。お茶を飲んでるだけなのにお前は異常だって、結婚を続ける自信が無くなったと言って」
 宮武はバインダーに目を落としたまま、
「その時、あなたはどのような行動もしくは対処をされましたか。たとえば仕事にのめり込むだとか、友達に相談するだとかね」
 仕事にのめり込むことはなかった。なにせ半月後にはリストラされたのだから。友達には相談した。相談というよりは綿々と吐き出すように夫の非をあげつらっただけかもしれない。恭子はもちろん七、八人には話をしたと思う。大体は離れてしまった夫の心を戻すのは無理だろうと言う顔をしていた。中には、どうしてさっさと離婚してしまわないのだと叱る友までいた。
「母親に電話していました」
 と答えた。
 宮武には当たり前の答えだったのか関心を引かなかったようだ。次の質問を探してバインダーをチェックしている。
「母親に毎日電話していました。友達も一度や二度なら聞いてくれますが度重なるとまたかという顔をします。母にも今日も無事に過ごせたというくらいのことを話すだけなんですが、嫌がらずに相手をしてくれました。自分でいうのも変ですが親離れしていた方だと思うんです。そのわたしが毎日母の声を聞かなければ立っていられないというのは精神がやばかったと思います」
 宮武はずっと俯いている。
 会場の中から質問がでた。演台から一番離れた奥のコーナーに座っている女性のようだ。見たところおなじ位の歳格好だ。スポーツをしているのか短髪で褐色の肌の色をしている。
「実家に帰ろうとは思わなかったのですか。毎日電話で話をするより傍にいるほうがいいんではないですか」
 と詰問口調で言い放って座った。
 自由に質問をさし入れても構わないということだった。彼女が持った疑問は当時も何人もの人に質問されたことだ。その都度答えていたことを繰り返すことになった。
「実家に帰ってしまうと、そこで結婚が終ってしまうように思ったのでしょうか。夫と修復したかったし。わたしが実家に帰ってしまうということは、夫にはいい状況になると思ったんですね。おめおめと引き下がるのが悔しかったというのも大きいです」
 質問者の女性が椅子の背にもたれかかった。
 父親は帰って来ればいいだろうといった。そんな男と一緒にいたって何もならないのだからという意見だった。それに反して母親はわたしが残りたいのならそうすればいいと言った。賛成してもらえたことはありがたかったが、それから母親がしたことは神頼みへわたしを連れて行くことだった。遠方の神社だったり、霊感のあるという何か得体の知れない宗教の教祖のところへ連れていったりした。神社はまだ辛抱できたが、霊感のところでは、教祖に面会する前に必ずカイロプラクティックの治療を受けなければならないと言われた。心身ともボロボロだというのに身も知らぬおっさんに肩や腰を蹴りまくられた。あげくに教祖はわたしの話をきいて色情の因縁のない人はおりませんと一言。母親は賽銭箱に一万円を入れていた。
 ひとつおいて右隣の女性が手を上げた。宮武は少し考えてから、どうぞと言って発言を許した。
 二十代後半か。さっき道を教えてくれた若い母親に雰囲気がよく似ている。同世代というのは違う世代からみると似て見えるものなのかもしれない。髪型や服装が世代を表しているのは間違いない。
「どうして、あなたのほうから離婚しようと思わなかったのですか」
 とか細い声だが正論を投げかけてきた。この質問も何度訊かれただろうか。夫に三行半を突きつけられないわたしは考え方がおかしいのだろうかと悩むこともあった。
 好きだったからと答えたこともある。悔しさ、もしくはわたしを再評価するまで許すものかという執着。どれもこれも近くてはずれている気がする。
「みなさん、離婚なさった人でも別れた理由が曖昧な場合もあります。大杉さんは別居という状況を継続されています。ここが大きな違いです。離婚していれば曖昧だろうが結果がでてます。彼女はまだ、結果がでてない」
 宮武は会場を見回して皆の表情を確かめていた。最後にわたしのところで止まり、
「ひとりになられてからの話を伺います。さあ、みなさん。ここからがストレッサーが何であるか、ストマネのチャレンジ教室で学んだことが発揮される訳です」
 会場から安堵するような笑いが起きた。皆も緊張していたのだ。
「夫が引越しの業者を呼んで荷物を運びだしていったのは、マンションのなかで事実上の別居生活にはいってから一年半くらい経ったころです。当初の苦しみは薄皮を剥ぐように和らいでいきましたが、さっきも言いましたが最初の数ヵ月はのぞいてのことです。夫がわたしを無視する状態が続くと関係が修復される期待を持てなくなり、その結果復縁のことばかり考えることがなくなった。余儀なくそうなったのだと思います。今度はどうやって生活していこうかという問題が大きくなりました」
「気づきですね。近視眼的視野から目を転じたわけです。大杉さんは余儀なくという言葉を使われましたが、その状態になることは無意識に予測をしていたはずです。復縁というのがテーマであり大杉さんのストレッサーであったということです」
 宮武はわたしの回答がうまい具合に導けたとばかりに講義じみた話し方をした。わたしも無意識という言葉にちいさく声をあげてしまった。ついこの前ユングの本を読んだばかりだったからだ。でも同じことが何度も繰り返し書かれているみたいで、その本を読み出すとすぐに眠ってしまった。今はベッドの枕もとに置いた子機の台座にしている。
 無意識といえば、結婚して間もないころ職場のある女性から結婚を決めた理由を尋ねられた。
 わたしはこの人と結婚しなければ別れられないと思ったのだと答えた。するとその人は食いついてきた。それは絶対におかしいことだ。結婚するときに別れるという前提をつける人はいないというのだ。わたしはそれでも自分が変なことを言っているとは思わず、きょとんとしていたと思う。わたしの中では、交際中何度も別れたり元に戻ったりを繰り返し、簡単に縁が切れないということは行くところまで行かねばならないからだと信じていた。夫が善人で安らげる人だなんてまったく思っていなかった。
「夫は出ていく前に何通かの手紙をよこしてきました。離婚を求めるもの、マンションに残るのか出て行くのかを問うもの、残るならローンや経費は払えという内容でした。わたしも手紙で答えました。離婚は慰謝料百万と半年間月々十万を支払ってほしいと。マンションはわたしが残ると返事を書きました」
 宮武が続けてと促した。
「マンションに残るという返事ができたのは、母の言葉があったからです。夫の提案はわたしにマンションを維持する経済力がないのを知ってのうえです。きっとわたしが出て行くとおもっていたでしょう。母にそのことを話すとマンションのローンはわたしが払ってやるから残りなさいって。そうしたいんでしょと言ってくれたんです」
 わたしはみんなの反応を確かめた。興味を惹かれ、先を知りたいという表情がみてとれた。
 わたしの結婚がパワーゲームだったとしたら、マンションに残ると宣言したときに力は対等になれたような気がした。今、当時を振り返って話をしていても、意表をつかれた夫の固まった顔がまざまざと蘇ってくる。
「ローンを背負うことになってから、仕事の選択肢が違ってきました。今までどおりのОLをしていては話になりませんので、飲食の仕事のかけもちしかないと思いました。偶然なんですが、実家の駐車場を改築して近所の主婦がくるような茶店を母が作っていました。予定では母の妹が店をするはずだったのですが、姉妹喧嘩して宙に浮いてしまったのです。母はわたしにそこで商売をすればいいと言ってくれました。実績もなにもない店ですから、朝から開けても客はきません。それで、夜は居酒屋でアルバイトをしたんです」
 恭子が手を挙げた。
「お母さんがローンを支払ってくださるというのを断ったのですか」
 そこのところは恭子にも詳しく話してなかった。
「幸い、一度もローンのお金を出してもらうことなく今日まできました。失業保険やアルバイト代で半年は生活できました。夫は離婚に応じないのなら一円もお金は出さないと言って出て行ったんですけど……。半年後に店が繁盛してなければ、もうひとつ仕事をしなければローンは払えないと深刻でした。母のお金を使わせるのも悪いと思いました。父の退職金を半分もらって店の造作や自分の妹との同居なんかを考えていたようです。父と母も十数年来の家庭内離婚状態で弟たちが大学進学のころでも父は二十万円しか所帯のお金を渡していませんでした。予備校やらの教育にかかるお金は叔母に出してもらってたんです」
 宮武が加わった。
「お母さんが作った茶店は、大杉さんの叔母さんが商売をするためだったのですね。そして、お母さんと叔母さん、叔母さんもお独りでしょうね、この話からすると。は、同居するはずだった。お父さんと離婚なさったんですか」
「数年後に父とは離婚しました。けど、叔母とは同居しませんでした」
 また演台の向かい側に座る短髪の女性が質問した。
「仕事で毎日通うのなら、実家のお母さんと同居しようとは思わなかったのですか。マンションを売ってしまって。わたしなら別れた夫の匂いのするマンションに残るのは、いつまでも断ち切れないようで辛いと思うのですが」
 彼女の質問は常にわたしの奥底にあるものを銛で突くような一撃を与える。彼女が関心をもっているのは、わたしと夫ではなく、母親との関係みたいだ。
 案の定、宮武が止めた。
「商売という新しい挑戦が、夫にしがみついていたわたしを解放してくれたという気がします。ひと月たつごとに売上も増えましたし、常連客もでき、店の休みの日にはバーベキュウやサーフィンに誘ってくれました。そのときのわたしには影があるとよく言われましたが、中には付き合ってほしいと言ってくれる人までいたりして。楽しい思いができるとは思いがけないことでした。わたしもまだいけるんだと自信も回復しました」
 まばらな拍手が起こった。
 宮武がわたしと替わってスピーチをする時のように直立の姿勢で拍手の終るのを待っている。
「大杉さんの体験について一番他の人と違う点を言いましょう。彼女は夫のことで悩み考えるとき、こうしたかったわたしがいる。という捉えかたをして話していました。既成の良し悪しに従うのではなく、決断のとなりに自我をもたせているということです。時間とともに距離をおいて見ることができ、コーピングに成功したのですね。大杉さん、今日は貴重なお話をありがとう。もともとストレスマネージメントの力のある方だと思います。頑張ってください」
 無事終ったことを喜びに恭子が近寄ってきた。わたしは拍手を合図に止めさせられたような気がしてならなかった。ここでいうなら逆に大きなストレスを背負った結果となった。短髪の女性の方をみると、すぐ視線が合った。わたしに怒りを感じているかのような目でみてくる。
「あの人、怒ってるみたいなんだけど」
 恭子に耳打ちした。わたしが指した先に短髪の女性を確かめると言った。
「タキさんね。彼女も自分の母親との確執が大きなストレスになった人だから、敏感になったのかもしれないわね」
 恭子はタキという女性が会場から出るのを待って、
「彼女のお母さんが離婚するとき、弟だけを連れて家を出たんだって。自分も連れて行ってほしいと頼んだら、小学校があるからお前は連れて行けないって、言われたんだって。彼女が結婚してそれを機に連絡を取り合うようになったそうなんだけど、ひとり目の子どもを死産した時は、コインロッカーに捨てられた子でも生きてるのにってねって言われたそうよ。病院に見舞いもこないし、退院後も旦那さんの実家でお義母さんにお世話してもらったんだって。もうそれ以来絶縁状態になってるっていってた」
「じゃあ、わたしは贅沢だってことなのかな。今から追いかけていって同じような経験があるって言ってやりたいわ」
 興奮するわたしに座るよう椅子を引いてくれた。
「わかってる。実家に居場所があったら言われなくても帰ってるよね。わたしも離婚考えたとき、母親から生活費を入れてくれてるんだから、子どもがもう少し大きくなるまで辛抱しなさいって言われたわよ」
 子宮から大出血をしたあと、これが産後の肥立ちが悪いということか、恭子の健康状態は常に悪かった。子宮が癒着するのでリングを入れたり、またリングが不具合を起こしたりして入院も何度かした。
「死んでくれたらいいのに、って主人に言われたんだよ。体が弱いから……、車ならリコールされても文句はいえないけど、妻に向かって平気でそんな言葉を言える人間と一生いれるわけがない。わたしも実家には帰りたくないし。峯子みたいに生活力を持ちたい。この取り組みを完成させて娘たちと三人が暮らせるだけの収入がもてるまで辛抱よね」
 恭子の夫は恭子のことを無能で世間知らずと見下している。給料もあてがいぶちだそうだ。自分は太ったといっては、ブランド物のスーツをせっせと買うくせに、中学生の娘の塾の費用は難癖をつけて出そうとしない。
「今の取り組みね、教育委員会や小学校からオファーがすごく多くなったの。まだ交通費くらいにしかならないんだけどね。わたしたちは児童対象だけど、他のグループではひとり五千円くらい受講料をとって大人向けのセミナーを開いてる。厳密な規約があるわけじゃなくこの勉強した人なら開いてもいいの。その人たちは結構な収入があるみたいだけどね」
 理想が高く、完璧にしたいというのが恭子の考えだ。商売という感覚は嫌なのだろう。娘の塾の費用は別のアルバイトで捻出したのだそうだ。 
「小学校ではどんなことをしてるわけ」
 以前の転勤先ではPTAの活動で人形劇をしていた。
「ロールプレイングをしてるの。このまえは男の先生に抱きつかれる女子児童の設定だった」
 生々しいと思った。
「先生から許可でたの。テーマがちょっと……」
「もちろん、プランを提出して、許可が出ないとできないもの。ただ、あとから男の先生にきつかったって言われたけど」
 子どもたちに何を教えたかったのかときいた。嫌なことをされたら、声を出そうということなのだそうだ。
「わたし、羽交い絞めにされた時、声がでなかったの。最初のときは出るには出たけど、小さい声で、二度目にはほんとに声がでてこなかった。メンバーはあがってるって思ったみたいだけど違うの。前、旦那に部屋や台所の隅に追いこまれて殴られたり、蹴られたりするって言ってたでしょ。たぶんそれのせいだと思う」
 夫に暴力を振るわれているときかされたのは最近である。が、十数年前の結婚当時から時々あったときいた瞬間は絶句してしまった。
 恭子が夫から逃れられない理由のひとつは経済力がないからだと思う。子どもにとって悪い父親というわけではないし、家族サービスも自己中心的ではあるがしているらしい。実家には夫の暴力のことは話していないので、彼女の親にはできない辛抱じゃないと思われている。
 そう考えると、わたしはなぜ離婚しないのかと思う。理由は分からないがわたしがしようとしないのは確かだ。
「わたし、ずっと離婚しないのはマンションの名義が共有になってるからだって言ってきたの。籍を抜いても連帯保証人の関係は消えないのね。ローンを完済して、大杉の所有分をわたしひとりの名義に書き換えさえすれば完全に縁が切れるし、そのときが離婚するときだと思ってた。でも、八年も九年も離婚せずにいたのは、私自身がこの不安定な状態を望んでるのかもしれないって、さっき話してて思ったの」
 恭子は首を横に振って、
「そうかなあ、最近の電話でも彼の話題なんてまったくでなくなったし、今はお母さんの世話が中心になったからそっちが忙しいからでしょう」
 それは違うと思った。
「去年の正月早々、あれがあったでしょ」
 一月九日の日に電報がきた。配達メモがマンションのドアの隙間に挟まっていて、本体はドアポストの中に落とし込まれていたのだ。
 宛名は夫の名前、差出人はノンバンク系の金融会社だった。表紙は宛名の部分を窓枠状に切り取られてあったので、端を浮かすと本文が読めた。返済について伝えたいことがあるから連絡してくれという内容だった。夫が家を出て行ってから、八、九年経つ。住民票は出て行ったときに移動させていた。夫の郵便物もここ数年はほとんど入らなかった。以上から考え合わせると、夫は借金をし、行方をくらましたと考えざるをえなかった。
 店を閉めて帰宅したのが深夜だったので、電報を握ったまま、ざわざわと胸が騒ぐのをどうしようもなく過ごしたのを覚えている。
「峯子は勝ったんだよ。みごとな立場の逆転だったよね。会計事務所も廃業してたんだっけ。でも、どうして失踪したんだろう。だって税理士さんなんだから、普通に仕事してたら資金繰りに困るってことはないでしょうに」
 最近でこそ、夫の思惑どおりにならなかったのは、わたしの粘り勝ちかなと思えるようになったが、電報がきた直後はわたしも被害をこうむるのではと思い、翌日すぐに離婚の相談をしていた弁護士のところへ飛んで行った。
「三、四ヵ所の金融や銀行でお金を借りてたらしいの。滞納が発覚したのは、ほぼ同じ一月始めなんだけど、大杉が事務所を閉めたのはその前の年の十一月なんだって。以前大杉が働いてた会計事務所の同僚の人に電話で確かめてみたの。大杉はそこの会計事務所から顧客を分けて貰って独立したのに電話一本で済まそうとしたらしいの。所長が電話じゃ分からないから事務所に来なさいっていうことで来たらしいけど、同僚のその彼には詳しいことは言わずに、外国に行って仕事するってメールアドレスは教えてったそうだけどね。たぶん確信犯よね。借り逃げするつもりでやったんだろうね」
 妻であっても連帯保証人でなければ債務はないと弁護士が言った。マンションもローンがたくさん残っているので夫の負の財産に過ぎないそうだ。
「おととしの十一月ごろね。今思えば大杉だったと思うんだけど」
 夜中の二時か三時ごろに電話が鳴った。母親に何かあったのかと思った。当時、母親は実家にひとりで住んでいて、リュウマチがきつくなり摺り足で歩くのがやっとの状態だった。転ぶと自分では起き上がれず、わたしのところに電話して助けを求めてくることもしばしばだった。
 はい、と言って枕もとの子機にでると、はあはあと荒い息が聞こえる。変態電話だと思った。寝てた。と、相手の男は早口で聞いてきた。わたしは、誰、としか言わず黙った。すると、また、はあはあと聞こえてくる。切らずに投げ出してほっておいた。
「変態電話だと思ってたけど、事務所を閉めた時期と一致するのね。いやらしい声かと思ったのも啜り泣きの声だったような気がするし。大杉が追い込まれて、これから返す当てのない金を掻き集めて夜逃げするって夜に、わたしのところに電話して、めそめそ泣いてると思うと、大杉に受けた仕打ちに対する気持が見えなくなっちゃった」
 恭子は真面目な顔で聞いてくれている。そして大きく息を吸い、
「許せたのかな」
 と言った。
「そんな簡単に許せるかなあ」
 いつから話をきいていたのか、宮武がわたしの隣りの椅子を引いて座った。
「許せてないけど消えたという感じなんです。それにまだ、厄介を抱えてわたしの前に現れやしないかっていう心配もある。だから一時的消滅ですね」
 わたしたちの関係は過去にはなってないが、共同体ではなくなったのだと思った。弁護士のお陰で夫の感情や気迫に押される心配はなくなった。何より夫と上手くやっていこうと思わなければ恐れる必要はないのだ。
「ひとつ訊きたいのですが、あなたの夫とあなたのお母さんの仲はどうでしたか」
「母は結婚に反対でした。大杉が結婚の挨拶に来た時も嫌いだからと会ってくれませんでした。わたしが別れるために結婚すると言ったから承認しただけで、その男を娘婿だとは思ってないと言いました」
「どうして嫌いなんですか」
 間をあけずに訊ねてくる。
「わたしがよく泣かされていたからですね。大杉は絶対に自分の我を通そうとする。わたしもそのタイプでしたが彼には負けます。泣かされても追いすがっていく娘の姿が歯痒かっただろうし、親より恋人に何事も優先するわたしの性格も非難してましたね」
 何度も頷きながら、
「じゃあ、一度も会ってないんですか」
 講義の続きのような雰囲気になってきた。
「いえ、あります。喧嘩になる数日前、大杉は休みの日です。わたしは仕事で夜七時くらいに帰ったけども家にいなかったんです。その時、女の子と遊びに行ってると。勘ですが間違いないと思ってます。なんていうか、そのころのわたし疑心暗鬼になってて。結婚してからずっと夫婦の交渉はなかったんです。最初の二年、大杉は会計事務所に勤めながら税理士の試験勉強してましたので、そのせいだろうと自分に言い聞かせました。でも、税理士になってもセックスレスのままで、なぜ出来ないのか問い詰めたこともありました。大杉は女がそんなことを言うなと逆に怒りましたが。そんなんで、浮気していると想像しただけで気が狂いそうになって、誰もいないマンションからタクシーで実家に行ったんです。実家にはたまたま遊びに来ていた弟夫婦しかおらず、母は友達と出かけているというので十分もそこに居なくて、またマンションに引き返してきました。そのあと母がわたしの様子が変だったときいて心配してマンションまで追いかけて来て、その直後に大杉が帰ってきて会ったんです」
 一気に喋った。宮武は理解できただろうか心配になった。セックスレス、大杉の狡猾さ。あの当時何度この話を繰り返したかと考えた。同情してほしいと感情的に話せば話すほど、人はわたしの性格に問題があるように考えた。一方的に相手ばかり悪いはずはないと言われた。好きで一緒になった人だったら、ここで悪く言うのはやめたほうがよいとも言われた。誰もこんな話、聞きたくはないのだ。
 下水の蓋をとったみたいに、わたしのまわりの空気が汚れたような気がした。
「なるほど」
 宮武も同じ空気を吸ったような顔をした。
「ふたりの様子など、覚えてますか。お母さんはなにか言いましたか」
 母はダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、わたしの話を聞き出そうとしていた。わたしはおそらく休みの日に女の子と遊びに行っている夫を非難していたと思う。それが夫が帰ったとたん、がらりと態度を変え、何事もなかったようにふるまった。喧嘩になったとき加勢してやらねばと思っていた母は呆れたと言う顔でわたしをみた。わたしは真直ぐ母の顔がみれなかった。
「大杉はかなり驚いていました。でも、母に敬意をはらっていました。当り障りのない挨拶だけでしたけれど、気に入らなければあからさまに態度に出す人です。母が帰ってからもわたしに何もいいませんでした」
 母の態度も予想外であった。顔をみたらすぐに帰るのかと思っていたが、堂々として夫の上に立っているようにみえた。実際、夫の媚びた愛想笑いや落ち着かない様子は格上と思った人間にだけ見せるものだった。
「対立関係にはならなかったんですね」
「ええ、むしろ通じ合うものが合ったみたいに感じました。そりが合うというか。わたしとよりはずっと合うみたいに思いました」
 母と夫は気性が似ているのかもしれない。そんなこと、今まで一度も思ったことがなかったが、怒った顔がだぶった。
「先生、お話のところ申しわけないんですが、二次会の席に移っていただけますか」
 タキだった。彼女はわたしにも参加するように言った。穏やかではあるが、目の奥には動かない一点があって悪い予感がする。

 二次会の席は歩いてすぐの寿司屋だった。寿司の出前や仕出し弁当が中心のようでカウンターにあるネタケースには触手の伸びるような魚はなかった。
 酢の匂いに混ざって揚げ油の匂いがした。テーブル席はなくカウンターの後ろが桟敷のような畳敷きのスペースになっている。人数はさっきの半数くらいになっており、机のうえにエビフライがずらりと並んだオードブルの皿が載っていた。
 二次会の幹事はタキのようで、わたしと宮武の席を中央にとって待っていた。宮武は後ろ向きに靴を脱ぎ、狭い隙間をなんなく渡っていった。わたしもよたよたと後を追った。恭子はいったん家に帰ってくるとだけ言い残し、行ってしまったので宮武の近くにいなければ不安だった。
 幹事の席はわたしの前だった。コップにビールが注がれ、すぐに乾杯となった。タキから挨拶を促された。その言い方がなんとも慇懃であとが思いやられた。
 お礼を交えて簡単に今日の感想を言った。体験したことを話したつもりだったのに、新たに気づかされる事があって驚いているし、皆さんの鋭い質問に焦りましたと防御線をはっておいた。心配をよそにタキは自分が主になって動いていることが、いかにも性に合っているとみえて、わたしに目を向けることなく席から席へと移っていた。
 三十分ほどして恭子が戻ってきた。シャワーでも浴びたのか、どことなくこざっぱりしていて艶っぽく見えた。
「今日は旦那の帰り遅いから時間は大丈夫なんだけど、塾に行く娘にお弁当持たせてるもんだから。犬の散歩もついでにいったら汗かいちゃって、まだ髪乾いてないでしょ」
 うなじに手をやって、ふわふわと髪の毛を上げ下げした。髪が浮いた時、肩口に赤い痣がみえた。恭子の夫の唇がそこに置かれていたのかと想像してしまった。
 わたしの隣りにそのまま座ったので、座布団半分ほど宮武の側に寄ることになった。宮武の胡座の膝が腿に触れるので体を縮めると、またすぐ当たってくる。何度かそれを繰り返していた。普通なら席を立ちたくなるのだが、諦めて膝が当たったままにしておいた。
 タキが前に座った。だいぶビールを飲んだみたいで、顔から首すじまで真っ赤になっていた。
「先生、今日の彼女の話で思ったんですけれど、母親との古い問題があるんじゃないでしょうか」
 あるもないもせっせと掘り起こした張本人ではないか。
「それはあるかもしれませんが、誰にだってあるものとも言えます。母親というのは子どもにとって影響力が大きい場合が多いですから」
 わたしが母の話題を避けたがっているのを理解していた。宮武はタキにそれ以上話すなと人差し指を口元に当てた。
 タキは母親と絶縁状態でいることができるのだから良いと思う。彼女を残して出て行った母親だ。もし病気になっても看病しなくても誰も非難しない。面倒は弟がみるのが筋だと思う。母親は彼女を置いて家を出たのだし、時間が経っても母娘の仲を取り戻す努力もしていない。家族は仲が良いものという幻想も持たなくてよいのだ。
 話を止められたのが気に障ったのか、
「誰でもと言いますけど、百人いれば百通りの親子関係があるわけでしょ。問題があると分かっていて避けつづけられる訳がないのに。せっかく彼女もこの機会で気づきを知って欲しいです」
 宮武に食ってかかった。
「タキさんの抱えている問題がオーバーラップしているのですよ。大杉さんの話だって、全部母親を軸にきいていたじゃないですか。サークルの副代表として体験を話す人の奥にある気持ちも理解してあげないとだめです」
 柔らかい口調で言った。
 同じ人の話を聞くのが仕事でも、わたしの弁護士の口調は冷たく突き放すものだった。初めて相談に行ったのは、夫から離婚の話をしたいと電話があったときだった。四、五年前のことである。
 日常の瑣末さに気持ちよく馴染んでいた。日に夫のことを考えることもなくなっていた。気分は独身だというほうが正しいだろう。わたしは半永久的に夫から連絡はないものと思っていた。なにせ夫は一番最後の手紙で、交渉がまとまらず離婚が成立しなくても、ずっとこのままでも構わないと啖呵を切って家を出て行ったのだ。
 弁護士にあなたは「何をどうしたいのか」と聞かれたが、わたしから連絡したわけではなく、対応をお願いしたかっただけと答えた。夫と一対一で話せば向こうに有利に運ばれてしまいそうで怖かったのだ。
 向こうはこう言ってました、こっちはこうですなんていう話を伝えるだけのメッセンジャーではないと叱られた。弁護士にできるのは離婚に応じる条件として金額を提示し、交渉することだった。わたしの話を聞き取り、慰謝料の額やその他の条件を書いた内容証明を出してもらった。あとでコピーが送られてきてそれを読んだのだが、わたしには到底書けない威圧感のある文章でこちらが正しいとする確信が練り込んであった。以後は代理人との交渉で、依頼人のわたしには直接連絡しないようにと結ばれていた。離婚を急いでいたのか夫からすぐに電話があったそうだ。事務所に出向いてほしいと弁護士がいうと、それを断り電話で慰謝料の支払いなど拒否したらしい。急いでいた割にはあっさり引っ込んだ。それ以来失踪を知るまで音沙汰なしだった。
「大杉はよく怒りました。一番困ったのは何が気に入らなくて怒っているか分からない時でした。たいがいは口を利いてくれないことが多いです。自分が間違っていてもわたしには謝れないらしいです。気に入らなくなったら、いつでも捨ててやるって空気を出してました」
「あなたはそれでよかったのですか」
「気がつくと、大杉の気に入るように立ち回るようになっていました。おそらくわたしがそうしてなければ、とっくに別れていたと思います。……そうなった原因は、最初に別れよと言われたときですが、普通ふられて泣く時でも、悲しいだけじゃなく、怒りの感情や悔しさなんかが混ざってるものじゃないですか。ですが、そのときに泣いたわたしは、ただ悲しかったんです。可愛がってた小鳥が死んだときみたいな。底に沈んでゆく悲しさだったんです。だから、大杉が戻ってきてくれたときには、その悲しみが数倍になって喜びになっちゃったんです」
 宮武が頷いた。ゆっくり身体を正面に戻すとこの話題から離れていった。
 お開きですとタキが声をあげた。時刻は五時を過ぎたところだ。

 店の外にでると夕日の朱がなだらかな丘陵地にベールをかけたようだった。こんな夕焼けの日にわたしもタキと同じように母に置いていかれたのだ。夕日、弟たちの乗った乳母車、空き地の向こうの道を押して歩く母親。あの構図はすぐにでもキャンバスに描きうつせるくらい鮮明に覚えている。それを走って追いかけたわたしの姿も加えて。
 それまでにも二度ほど短い家出をしていた母だった。理由は父の浮気か、浮気していると疑っていたことだ。わたしは小学校六年生で五歳と六歳のふたりの弟がいた。また家出するなと思った。すたすたと何も言わずに家をでていこうとする。わたしも行くと追いかけて行ったら、叱る時の怖い顔で追い返された。
 その家出も数日で戻ってきた。乳母車を駅に乗り捨て、島根の玉造から出雲大社に行ってきたらしい。行き当たりばったりで列車に乗ったところ、近くにいたグループ客に弟たちが懐いたらしくその人たちに同行させてもらったのだそうだ。
 出雲大社の近くに一畑電鉄が走っていて、その沿線に一畑薬師という神社がある。わたしにそこのお守りを買ってきてくれた。そこは目の神様で視力の悪いわたしにということだった。帰ってきてくれたことで十分嬉しかったのに、そのうえわたしのためにお守りまでとすごく喜んだことを思い出す。帰ってくるまでは、また出て行ったと知った時の父親の怖い顔、小学校の教室でいつ帰ってくるのか、もう帰らないのかと誰にも言えず悩んでいたこと。祖母に電話をしてどうなっているのか聞いたこと。祖母は母親の居所を知っていてわたしに教えてくれなかったのだ。そんな酷いところにいたのに母親の顔をみると全部忘れて喜んでいたのだ。
 恭子が家に来ないかと声をかけてきた。わたしは山の上ニュータウンに連れ戻された。行くと頷いておいて、もう一度夕日のベール一帯を見わたした。

 玄関前に立つとドアの向こうでキャンキャンと犬の鳴き声がきこえた。ドアと開けると茶色の塊が恭子の身体に登るように飛びついてきた。
 玄関ホールは白々とした真新しい壁紙に合わすよう、下駄箱や柱も白に統一されていた。
 わたしにあがるようスリッパを出すと、恭子は先にたって奥に入っていった。すると、いきなり犬がスリッパに噛み付き、大きな獲物を獲ったとばかりに縦横に振り回し始めた。目が合うとさらに激しく振って唸り声をあげた。スリッパ立てに立てている他のスリッパは歯型がついてどれもボロボロになっていて、履くのはためらわれた。かといって、犬からスリッパを取り戻す気にもなれず何も履かずにあがった。
 ひらいたドアの向こうはダイニングキッチンだった。見覚えのある丸テーブルと椅子が壁際に置かれていた。続きの部屋がリビングになっていて、ローソファと大きなリビングテーブル、テレビがすっぽり収まるサイドボードがあり、その上に恭子の夫が衝動買いしたという百号サイズのポップアートが飾られていた。転勤の度に美術運送の別便で搬送している代物だ。
 わたしはキッチンやリビングの隅に目をやった。キッチンにはレンジ台とシンクの隣に隙間があり、リビングにはサイドボードの横に少しのスペースが残っていた。ここに押し込められ恭子は夫の怒りが過ぎるまで身を縮めて耐えていたのだろうか。
 紅茶が入ったからと丸テーブルに呼ばれた。白いデザート皿の上にケーニヒス・クローネの細長い菓子が数本置かれていた。
「これ近くで売ってるの」
 市内の百貨店でしか見かけない包みだったので尋ねた。
「ううん。旦那が会社帰りに買ってくるの。お土産じゃないよ。自分が食べたいから買うの。ラーメンが食べたかったら買ってきて、わたしの作った夕食は食べずにそのラーメンを用意させるんだから」
 恭子の夫はすごい偏食だったことを思い出した。魚、野菜、海草類は全部だめだ。体によいものは嫌いで肉、揚げ物、ジャンクフード、甘い物が好きなのだ。四十五歳ぐらいだったと思うが、そろそろ体に影響がでてきて良さそうだと思った。以前の電話で生命保険の話がでたときに聞いたことがあったのだが、恭子の夫は自分の生命保険に入るのをすごく嫌がるのだそうだ。理由を聞いたと思うが、自分が受け取れない金だから掛け金が惜しいとかそういうことだった。残された家族に思いは至らないのかとあきれた。本人が知らないで済む共済みたいな小さな保険に入るよう薦めたのだが、たぶん入っていないと思う。
「このテーブル懐かしい。あ、このカップもだ」
 丸テーブルやティカップを交互に触った。前に来た時、テーブルは北欧家具で親戚のおばさんからの結婚祝いだと言っていた。カップはウエッジ・ウッドのターコイズというのだったか。一客一万円もすると聞いて驚いたので記憶に残っていたのだ。
 恭子もテーブルについた。長女は塾に行くと言っていたが、下の娘はどこにいるのだろう。
 わたしたちがお菓子の袋を破いていると犬がテーブルの周りをぐるぐる走り出した。わたしの膝で後ろ立ちになるとピンクの舌をみせて、何かをせがむ顔をした。頭をなでてやろうと手を伸ばすと、すっと逃げてしまった。
 犬は恭子とわたしが話していると、吠えて注意を引こうとする。その様子が恭子の長女が四、五歳のときと同じなので思わず笑った。
「何笑ってるの」
 恭子は犬を払いながら聞いた。
「昔、成美ちゃんが小さい時さ、わたしたちがおしゃべりしてると、この仔みたいに割って入ってきたじゃない。それ思い出しちゃった」
「そうだったかなあ」
「わたしにお母さん取られたみたいで、嫌だったと思うよ。早く帰ってって言われたもの」
 恭子は覚えていないなあという顔をしていたが、わたしはよく覚えていた。そんなこと言ってはだめよとたしなめながら、人形遊びをしていた娘のヘアブラシを取って髪を梳かしてやったのだ。なぜ覚えているかというと、わたしの母なら客になんてことを言うのだと前歯を剥きだした怖い顔でわたしを叱っただろうと思ったからだ。
「コーマヘア、コーマヘアって歌ってたよ。英語の歌を習わせてたんだっけ」
「そうそう、その当時ヒッポっていって幼児向けで七カ国語を話せるようにするスクールがあったの。成美もそこに入れてたから」
「それって今でもある。この近くで」
「さあ、どうかな。どうして」
「バスの中で小さな子が英語の歌を歌ってたもんだから。たぶんビートルズ。ロングアンドワインディンロードってあったよね」
 恭子がメロディを歌った。
「そうそれ、ビートルズだったよね」
「ビートルズはわたしにまかせて」
 と胸に手をあてた。
 わたしがビートルズを聴くようになったのは恭子の影響であった。わたしたちが高校の頃ジョン・レノンが射殺された事件があった。そのときの恭子の取り乱した様子は忘れられない。恭子の祖父母の家が鎌倉にあり、お忍びで来日していたジョン・レノンとオノ・ヨウコに出会ったのがきっかけだった。結婚する時、尾野という姓になることを無邪気に喜んでいたのも可愛いと思った。
 最近気づいたことだが、何かに熱狂するといったファン心理というのが、どうもわたしにはないような気がする。おっかけと言われる人たちは特別としても野球ファンや歌手のファンには好きになった対象に入れ込める情熱があるし、ジャンルの別はあってもそういう人はかなり多いと思うのだ。
「もうひとり美雪ちゃんだっけ、どうしたの」
 気になって次女のことを尋ねた。
「友達のところで遊んでる」
「幾つになったんだっけ」
「小学三年生」
 それはそうなのだと思った。わたしが夫と別居した時期であり、恭子が子宮から出血して死にかけた時期、そのときに生まれた子だった。
「美雪の性格はわたしによく似てるの。先に相手のことを優先させるし、お姉ちゃんは旦那に似て、人のことをよく使う使う」
 娘たちが大きくなるまでは死ねないと言ってた恭子だが、小柄で細い体はあまり丈夫ではなく毎年インフルエンザに罹るし、過労で熱を出すこともしょっちゅうだった。
「成美には言われたわ。わたしだったらお父さんみたいな男の人と結婚したくないって。わたし分かってるから離婚してもいいよなんてね」
「子どもの前で旦那を悪く言ったりしてないよね」
「言わない」
「子どもの前で喧嘩したりしないよね」
「上の子は自分の部屋で遅くまで起きてるから、気配でわかると思う」
 恭子は子どもに夫の悪口を聞かせたりしないと思った。けれど長女は夜中に父親が母親に暴力を振るうのを知っていると言う。なぜ長女は部屋から飛び出さないのだろうか。母親と同じように部屋で震えているのか。
「子どもに手を挙げることは」
 それはないと恭子はただちに否定した。恭子の夫は娘たちの言うことはきくのだそうだ。じゃあ塾の月謝も娘に言わせればよかったのではないかと喉まででかかった。
 恭子が髪を手近なゴムで結わえるのをみていた。赤い痣がTシャツの襟元から見え隠れする。
「そこ赤くなってる」
 つつくように指差した。
 あっ、といって左手で左肩をなぞっている。
「旦那だ。わたしを殴ったり蹴ったりして、わたしが泣くと必ず体を求めてくるの。それで殴ったところとかにキスマークを残すの」
「ねえ、もしかしたら恭子も体の関係が切れないんじゃないの」
 フランス映画ばりの命を落とすセックスを想像した。
「全然違う。向こうの性欲が満たされれば、ポイって感じで放っておかれるもの。わたしも早く終われってばかり考えて我慢してるもん」
 わたしと夫とにもセックスがあればと考えたことがあった。かりに職場の女の子と遊んだとしても、わたしはあれほど狂わなかったのではないかと思う。
 恭子を羨ましいと思ったこともある。なぜなら、わたしにとって「ある」ということは存在の肯定、「ない」のは否定なのだ。
 恭子は本当に夫とのセックスが苦痛だという。拒否すればまた暴力を振るわれるかもしれないから我慢する。無いものねだりなのだろうか。恭子も夫が体を求めなくなったらわたしの気持になるのか。それともわたしが心の離れた夫から体を求められた時、恭子の気持がわかるのだろうか。 
 わたしには、恭子のように逆らうと暴力を振るわれるという恐怖感や生活ができなくなるという危機感は結婚生活で全く持っていなかった。結婚後もずっと働いていたし子どももいないという状況面だけではなく、わたしと夫との体格差はほとんど無い。だからわたしは夫に逆らわず従順であるようにみえても心の底から恐れてはいなかったのだと思う。お前には興味がなくなったが仕方なく妻にしてやっているという態度で、他の女の子と遊び始めた夫を黙って見過ごすことが出来なかったのはそのせいだろう。
「子どもがいなかったら離婚していたって思う」
 恭子に尋ねた。
「もちろん、って言いたいところだけど分からない。この前、セミナーで話をしてくれたシングルマザーの人がね、子どもがいなかったら夫にくっついて行っただろうって話をしたの。わたしも旦那と結婚したときの気持ってこの人についていてあげたいって思って一緒になったのね。だから頼ってこられると見捨てられないかもしれない。わたしはシングルマザーみたいにカッコよく自立できなかったけど旦那より子どもが大事だっていうのはすごくわかる」
 そのシングルマザーは自分の息子に父親の悪影響を受けさせないために離婚に踏み切ったのだそうだ。父親は共同経営で事業をしていたのだが、怠慢で商売が上手くいかず、お金にもルーズだったらしい。
 シングルマザーの子どもは一歳かそこらだった。実家に戻ったとはいえ、その時期での決断には勇気がいったことだと思う。親も失敗はすると思う。けれど言葉にするときは子どもの心に残ることも考えてほしい。わたしの母親はわたしを身ごもったから結婚するしかなかったと言う人だった。娘でなかったら避妊もせずにセックスするから悪いのだといってやりたかった。そして娘として、わたしを身ごもって嬉しくなかったのかと問いたかった。
「今好きな人ができたら結婚する」
 今度は恭子が質問した。
「結婚できる状況と仮定しても、しないと思う」
 好きな人はもちろん欲しいと思っている。でもそれは求めているのとは違う。偶然の出会いがあればいいなあくらいである。結婚となるといいなあというのがない。夫との結婚にいい思い出がないからだろう。
 わたしが夫にもったものでいい印象だったのは彼の家族の仲が良いというところだろう。仲のいい家族で育った彼が結婚での唯一の望みだった。    
「わたし思うんだけどね、自分が受けた嫌なことを人にしてしまう、連鎖みたいなものって親子関係にあると思うの。タキさんっていたでしょ。峯子に母親のことで食いついてきた人。彼女、娘と息子がいるんだけどね。娘には躾のつもりだろうけど、きつく当たってるのよ」
 タキの娘は恭子の長女と友達なのだそうだ。おとなしい子で叱られるようなことはしないのに、恭子によると気分で怒ったりしてるらしい。萎縮して親の顔色を窺うようになった娘をうっとうしいから嫌いだと口にする始末だそうだ。子どもが傷つくようなこと言うなと恭子が注意したら、明るい子になってもらいたいだけだと反論されたらしい。
 そういえばわたしの母親も家が貧乏の底のときに産まれたという話を何度もした。祖父が小豆相場で失敗し、商売していた呉服屋を親戚たちに取りあげられ、一家で赤穂の塩田に座を敷いたような小屋に移り住んだんだそうだ。そこで産まれた五人目で初めての女の子が母親だった。そんな大変なときだから祖母も母親には余裕をもって育てられなかっただろうし、辛い幼少時代だっただろう。自分は母親の片腕のように家事を手伝ったり、十代になると自ら女中奉公にでたといった。祖父は男尊女卑のはっきりした人で息子と娘である母に差をつけたそうだ。
 その話をするたび、わたしに同じようにすることを求めた。娘は母親を助けるために存在する。エスカレートすると娘は両親の不仲のあいだに入ってうまく纏めるものだとまで言われた。
 わたしも恭子も早く家を出たいから結婚したというところで通じ合っていた。両親の仲が悪かったことが理由だった。でも、恭子の場合は父親と仲がよく、むしろ父親っ子であった。わたしは小学生のころから父親の悪口をずっと聞かされ、思春期のころには立派な父親嫌悪が芽生えてしまっていた。洗濯物を同じ竿に干すのさえ嫌だった。
 また母は何を考えてか、小学生のわたしにお父さんはお前の事をちっとも可愛いと思ってないと教えた。それは母親も同じだったに違いない。
 わたしが小学校にあがる頃弟が生まれた。その翌年にももうひとり弟が生まれ、それまでわたしを人に預けて働いていた母は仕事を辞めた。
 その頃から、わたしは両親と弟ふたりの家族を外側からみていたような気がする。ぐっと込み上げるものを飲み込んだ。
「お母さんはどうしてるの」
 恭子が尋ねた。七十三歳になる母は介護老人施設で暮らしている。そのような所に入所したのは二年前からだ。
 わたしが店を始めた当時の母はリューマチであったが、旅行にも行けたし、生活に困るような体ではなかった。忙しくなると店も手伝ってくれた。開店して一年半ほどすると、店は毎日忙しい状態になり、仕事が終ると母親は殺されると言って這って母屋にあがって行った。冗談とも本気ともとれてわたしはアルバイトを雇うことにした。
 やれていたことを止めると本当にできなくなる。そういう風にして、少しずつ歩きづらくなり、階段の登り降りができなくなった。転ぶと起き上がれなくなって、それはまるで赤ん坊の逆の道を辿っているようだった。また、その過程で大きな病気を患ったわけではなかった。
 叔母との同居を諦めてない母親は、父親が家にいるうちは同居したくないという叔母の言葉を真に受けて、七十の手前で離婚届を出した。定年後も嘱託の仕事があった父は、離婚しても完全にリタイヤするまで家にいて、辞めてから家を出て行くつもりだった。それを母親は父が家にいることでストレスになり体が治らないからと言って早々に追い出してしまった。
「ケアホームに入ってる。かわいそうだけど家に戻しても面倒みれないから」
 かわいそうという言葉がよく出るようになった。母親の前でも使うことがある。母には他人事みたいに言って苦々しく聞こえるだろうなと思う。
「ほんとにそう。家で看るの大変だと思う。わたしもその時がきたら施設に入るって思ってる。子どもに看させるのは可哀相。それよりうちの親だって施設に入ってもらわないといけないだろうね。もし自分のことができなくなったら」
 最初は家で看るつもりだったが体が不自由になってくると、家でひとりきりでいると不安で気がおかしくなりそうだというので施設に申し込んだ。離婚していたことが入所の時期を早くした。通常半年くらい待機するのに二週間で決定されたのだ。
 家を出された父親は店近くのマンションで暮らしていた。そこは母親のために借りた部屋だった。ストレスで気がおかしくなると、わたしの顔をみるたびに言うので借りたのだ。おかしくなった時の避難場所として。母親がそこに居たのも最初だけでなんだかんだと言ってはマンションに行かなくなり、ずっと空家賃を払っていた。
 わたしが夫と揉めていたとき、わたしの夫よりお父さんのほうがいいではないかと言ったことがあった。わたしは職場の女の子との浮気を問い詰めただけで離婚だと言われ、夫は本当にそのまま家を出て行った。母親は十数年も家の中で別居していながら生活費を受け取り、退職金を半分よこせと言えば大金をあっさり貰うことができた。おまけに体が動かなくなりかけの頃は、電話をかけてマンションに住む父親を呼び出し、食事の世話やトイレの介助をしてもらっていたのだ。
 叔母が同居しないのは、弟のことで母親と揉めた事がまだわだかまっているからだ。大学を出た弟は叔母に感謝の言葉もなく、初給料でプレゼントするということもしなかった。少しは期待していた叔母はがっかりし、そのことを母親に愚痴った。するとあんたは子どもを産んでないから分からないのだと逆にたしなめたそうだ。わたしはそのことを何度も母親に説明し、なぜ弟にちゃんとさせなかったのか聞いた。親ならば見返りは期待しないだろうと言って、全く理解できないようだった。
 また、こんな晩年になってから離婚するというのにもずい分反対した。両親が近くにいてくれないと様子を知るにも二度手間になるじゃないかと言った。だが、弟に命じて離婚届を出してしまったのだ。叔母が駄目になり、父が世話をしてくれるようになると、もう一度復縁しようかなどと言う。
 もう一方で、訪問ヘルパーを留守番か子守りのように勝手に電話で呼んだりした。その人がいい人だとわかると新興宗教のセミナーに車椅子で連れて行かせたりした。
 ある日店に行くと首に数珠の首飾りをかけた女の人がふたり母親の部屋にきて話をしていた。セミナーで会った主催者側の人間らしい。母親は病気が治る石を買おうとしているところだった。母親のまわりにいる宗教を介して知り合った友人たちは皆何かを売ろうとして母親のもとに訪れる。
 いままでのそういった買い物を合計すると高級車が何台か買えるほどだ。父親はなぜ黙ってそんな買い物をさせていたのだろうかと思う。母親に収入源はないのだ。わたしは自分で働いてこそ生活の危機や恐怖と立ち向かえるが、母親はそんなベースがなくても実に堂々と生きてきたと言える。その強さは信仰心なのだろうか。
 わたしは新興宗教の人たちの前で、こんなことを続けるのだったらお母さんの世話をしていけないと脅してしまった。 
「恭子は離婚しても実家に帰りたくないっていうのは親が嫌だから」
 長く黙り込んでいたわたしを心配げに見ていた恭子に尋ねた。
「嫌いじゃないよ。親も自分たちの生活で手一杯だから迷惑かけたくないの。といってもこまごまとしたことでは世話になってるけどね。うちは女姉妹だから親の面倒はわたしが看るって思ってるし。それがね、旦那は、お前は尾野の家の人間なんだから実家のことはするなって言うの。実家の悪口は言うし、お婆ちゃんの見舞いに行くのも許さないって、言うんだから」
 狭量な男だと思った。けれど恭子は世話のかかる夫だと分かった上で結婚した。恭子の夫もいまだに恭子の母性に寄りかかっているように思える。
 それに比べてわたしは自覚がなかった。
 わたしの夫もマザコン気味で女に頼りたがった。それは知っていたが、わたしは夫に対して母性のあるふりをしただけだった。夫が結婚を決めたのは、肺気胸という病気で病院の診察に付き合ったときのわたしの態度が頼れると思ったからだそうだ。恭子のように世話を焼きたいというのではなく、それはただの親切心だった。本当のわたしは恋人に父性を求めていた。最初に付き合った男の人は十数歳も年上だった。彼氏のことをお父さんと呼びもした。
 夫にも最初そう呼んだ。すると、俺はお父さんじゃないときっぱり拒否された。そこで意識するべきだった。
 さらに考えれば、結婚に幻滅しながら愚痴をいう母親をみていて、わたしだったらさっさと離婚する、離婚が悪いことではないと思っていた。
 結婚しなければ離れられないと言ったのは、母親に対する反抗心なのだろうか。

 バス停まで送るというのを断って家をあとにした。
 バスを待つ間、では、なぜ夫に去られた時あれほど苦しんだのだろうかと考えた。その答えも方位磁石のようにゆっくり母親を指した。付き合っているころから夫に振り回されているわたしを見て、夫を嫌って、挨拶にきた夫にも隠れてしまって会おうとしなかった。夫に捨てられるという時、母親にそら見たことかと思われているだろうなと自分が情けなかった。
 あの時、わたしは母親のように夫より優っていなければならなかったのだと思う。親に甘やかされた夫がやりたい事を咎められて素直にきくはずがないのに、そういう人心を操る力量がわたしにはないのに、とにかく誤った行動をとってしまったのだ。
 バスが来た。終点から折り返してきたのだろうか、誰も乗っていない。最終は九時五十分とあったが、夕方から山を下りる人数は極めて少ないだろう。バスは次々とバス停を通過していった。住宅街が途絶え山道へとさしかかった。
 ロングアンドワインディングロード……。運転手に聞こえないように小さな声で歌った。左右に傾ぐバスに身をあずけながら同じフレーズを繰り返した。
 親子の連鎖という言葉が引っかかったままだった。
 わたしは誰にも繋がっていないように思う。人心を握ることのできるのは母親であった。あの夫でさえ認めたではないか。それともわたしに娘がいたなら母親と同じようなことをしたのだろうか。それでしか等しくなれないとしたら嫌だなと思った。
 長く曲がりくねった道を行くと扉があるのだろうか。それとも置いてきぼりにされたところがその道なのか。そんなことを思いながら、また歌を口ずさんだ。


 

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