トラックのバックを報せるブザーの音が通りの方で聞こえた。
土曜日だが野球の練習試合に出かける中学生の長男ハジメの弁当を作っていた真紀子は、こんな早い時間にいったい何事かと台所の出窓から首を伸ばして外を窺った。ガレージの屋根がじゃまになってはっきりとは見えないが、となりに誰かが引っ越してきたらしい。ガレージの片側のヒバの生垣越しに、車体に描かれた引越し業者のマークが見え隠れしていた。へーえ。やっと売れたんだ。真紀子はどんな人が来たのか興味を持ちながらなおも出窓の網戸に顔をくっつけるようにして背伸びした。業者の間を忙しそうに動き回っていた赤いバンダナを頭に巻いた小柄な女性が、生垣のそばで立ち止まりふいに顔をこちらに向けた。出窓の位置から考えても向こうからは絶対に気付かれないとわかっていても、盗み見を咎められたようで真紀子はあわてて亀のように首を引っ込めた。
先に住んでいた一家が引っ越していったあと、長い間となりは空家だった。壊す様子もなくどうするのだろうと思っていると、四ヶ月ほど前から業者が出入りし始めてやがて改築のあいさつに不動産屋の社員がやってきた。しかしリフォームができてからもしばらくはそのままで、オープンハウスの幟だけがやたら元気にはためいていた。それがどうやら買い手がついたらしい。
真紀子たちの家族はハジメが幼稚園に入る前年に引っ越してきた。翌年の秋には次男のマコトが生まれた。ここにきてもう十一年目になろうとしている。結婚してしばらくは子供に恵まれなかったが、真紀子も四歳年上の夫の英治もそれほど焦ることもなく自然に任せていた。そうしてハジメが授かったとき真紀子は三十二歳になっていた。
「かあさん、何してんの」
後ろから声をかけられ真紀子はとっさに窓を閉めた。振り向くといつの間に来たのか、牛乳をコップに注ぎながらハジメが怪訝な目で見ていた。おとなりにね、と独り言のように言いながら真紀子は弁当を包むとはい、とハジメのほうに押しやった。となりがどうしたのさ。と尋ねてはみたもののその答えを待とうともしないでハジメは弁当をリュックに放りこむと、冷蔵庫の冷凍室を開けて麦茶を入れて凍らせてあったペットボトルを頬に当てながら「ちめてー」と嬉しそうな声を出していた。いってきまーす。と玄関に向かう背中に「今日かあさん仕事だから」と追いかけるように言った。
暖簾を頭で左右に分けながら真紀子は台所から顔を出して玄関脇の階段を見上げた。上がって手前のふたつは子供たちの部屋。つきあたりが自分たち夫婦の部屋だ。マコトは土曜日だというのでこのときとばかりに寝坊しているだろう。夫の英治も昨夜は遅かったようでいつ帰ったのか朝まで気がつかないままだった。起こしてもたぶん起きないだろう。
二駅先の商店街にある弁当屋で真紀子は働いている。基本的に土日が休みなのだが月に二回、土曜日も出なければいけない。今日がその出勤日だ。そのかわり平日に一日休みが取れる。その休みこそ真紀子にとっては誰にもじゃまされない貴重な自分だけの時間になるのだ。休みの日に夫をおいて仕事にいくことに難色を示す友人もいるけれど、結婚して二十年以上も経つとたまにはひとりになりたいと思うものだし、それはきっと英治も同じだろうと思っていた。
窓を閉めていてもとなりから引越し業者の威勢のいい声が聞こえてくる。リフトのようなもので二階に家具などを上げているのだろう。低く唸るような音がしている。勝手口から洗濯物の入ったカゴを抱えて出た真紀子は、見るともなしにとなりの庭に目を向けた。ガレージのヒバの生垣が終わったところからブロック塀が境界線のようにお互いを二分している。塀の向こうは隣家の勝手口になるのだろうか、自分のところとよく似たアルミのドアや面格子の嵌った小さな窓が並んでいる。その塀のそばに物干し台があって、真紀子は足元にカゴを置いた。
今日も暑くなりそうだ。まだ五月だというのに梅雨の走りのような雨の日が続いたり、そのあとは真夏のような晴天があったりで体調を崩しそうだ。アルミのフェンスに沿って植えてあるアジサイが小さな花をつけはじめている。このまえの雨の日にはカタツムリを見つけた。子供たちが小さい頃はトカゲだヘビだと騒いでいたものだがもう今では見向きもしない。「キショイ」の一言で片付けてしまう。手早く洗濯物を干して真紀子は家の中に戻った。洗面所にカゴを置きにいって英治が歯を磨いているのに出くわした。
「あら、起きたの」
「うん。となりがうるさくて」
「引っ越してこられたみたいよ。あ、おとうさん。お昼マコトと何か食べてね」
並んで歯を磨きながら真紀子が言った。彼女の急いだ様子に英治は口だけすすぐとあわててリビングへ退散した。化粧をして身支度を整えた真紀子はミニバイクのキーを取りにリビングに顔を出した。新聞を広げていた英治にもう一度昼ご飯の念を押すと返事もまたずに玄関に下りて靴をつっかけながらドアを開けた。門の横からガレージに回ってミニバイクを表に出した。となりではトラックが荷台の扉を開けて停まっている。もう荷物はほとんど運び出してしまったようだ。バイクに跨り見るともなしに眺めていると先ほどの赤いバンダナの女性が小走りで表まで出てきた。真紀子の姿に気付いて足を止めたが真紀子は軽く会釈をしただけでエンジンをかけてバイクを走らせた。走りながらミラーを覗くとその女性はしばらく佇んで真紀子を見送っているようだった。小柄で丸顔で自分よりは二つ、三つ若そうだと思った。
三時までのパートの仕事を終えて、買い物をして帰ってくると四時前だった。となりの家はすっかり片付いたらしくしんと静まっていた。フェンスの内側には植えたばかりのいくつかの木が居心地悪そうに並んでいる。門から玄関までの石畳の両側には以前の住居から持ってきたのだろうか、木々とは逆にこぼれんばかりに咲き揃った赤やピンクのペチュニアの鉢植えがあり真紀子の目を引いた。ガーデニングというものにまったくといっていいほど興味のない彼女だが、それでも花そのものは嫌いではなくたまに近所から分けてもらった苗を植えたりするのだが、そのシーズンが終わればそれで大任を果たしたような気持ちになってしまう。あとはほったらかしだから次の花を咲かせようとしても土が痩せてしまってうまく根付かない。季節ごとの花を丹精こめて咲かせている人を尊敬してしまう。
「おとなり、きれいな鉢植えが並んでいるのね」
両手に提げたスーパーの袋をテーブルに掛け声とともに置いた真紀子はそこにデパートの包装紙に包まれた小振りの箱があるのに気がついた。台所と続きのリビングでソファの腰掛け部分を枕にして寝転がっている英治に「ねえ、これなに?」と声をかけた。
「ん、ああ。となり挨拶にきたんだ。そのときに、どうぞ。って」
頭だけ持ち上げて彼は答えた。
「ふーん。いつ来られたの」
「おまえが出かけてしばらくしてから」
真紀子はバイクのミラーに映っていた女性の姿を思い浮かべていた。いつまでも自分を見ていたような気がしないでもなかったことも思い出した。英治の話を聞きながら、どうせなら夕方とか夜に来てくれれば挨拶もできたのにと思った。けれど、夫の英治が家にいて挨拶をしているのならわざわざ妻の自分まで出向いていくほどのことでもないし、顔を合わせたときに礼を言えばいいだろうと思い直した。そうすると今度はとなりの住人のことが気になりだした。
「おとなり、なんて名前なの」
「青木とかいったな」
「独り者じゃないよね。ご主人もいらしたの」
包装紙のテープを爪の先で剥がして包みを開けて、やっぱり洗剤だわ。箱ひとつに大層ねえ。とつぶやいてから「ご夫婦だけ? こどもは」と訊いた。
「奥さんひとりできたよ。旦那さんは単身赴任で福岡にいるんだって」
「単身赴任なのに家買って引っ越してきたっていうの」
真紀子は頓狂な声を出した。英治が鋭く反応して人差し指を口に当てて首を振った。
「なによ」
「聞こえるだろ。それぞれ事情ってものがあるんだよ。家を買ったあとにご主人の転勤が決まったそうだよ」
「そんなことまで話していったの? おとなりさんは」
包装紙をたたむ手を止めて真紀子は冷ややかな目で夫を見た。英治は身体を起こして腕を伸ばしリビングテーブルの上の煙草とライターをつかんだ。煙草を口の端にくわえたまま火をつけないで言葉を続けた。
「このあたりは治安はいいのかって訊くからさ。いいですよだけじゃあ愛想がないだろ」
「はいはい。よその奥さんには親切だもんね」
「ついでにゴミ出しの日とかも説明しといたよ」
真紀子はもう返事をしなかった。だいたいが英治は人当たりがソフトというか誰とでも気軽に話をする。相手が誰であろうが全然気にしない。ずっと前も、駅でばったり会ったからと二軒となりの奥さんと小一時間ほど飲んできたことがあった。なんでも彼女の仕事がうまくいった話を聞いてお祝いに飲もうと誘ったというのだ。今から帰るからと電話をもらって子供たちと迎えに行っていた真紀子は腹が立つやらばからしいやらで、しばらく口もきかなかった。でも本人はなぜ真紀子が怒るのかわかっていないようだった。
万事においてそうだから真紀子はもういちいち怒ったり嫉妬したりするのはエネルギーの無駄遣いだからと、聞き流すことにしている。それに、英治のそんなところも魅力だと思い惹かれたのは他でもない自分なのだ。
「外で吸ってね」
くわえた煙草に火をつけようとした英治を制してから、真紀子は買ってきた食料品を冷蔵庫や冷凍庫に仕分けし始めた。首をすくめて立ちあがった英治はリビングからそのままサンダルをつっかけて庭へ出ていった。その後姿を目で追いながら真紀子はマコトの声がしないことに気がついた。
「ねえ、マコトは?」
庭にいる英治は聞こえないのか反応がない。彼の頭の上を煙草の煙がゆっくり流れていった。真紀子は身体を屈めて台所からリビングの壁にかかった時計を見た。もうすぐ五時になるところだった。まだ心配する時間ではない。きっと英治が遊んでくれないのでどこかで友達と遊んでいるのだろう。米を洗い終えて炊飯器にセットをして真紀子は洗濯物を取り入れるため勝手口から出た。
そのとき、隣家の玄関先で「ありがとう」という子供の声がした。マコトによく似ていたがまさかと思い洗濯物に手を伸ばそうとしたものの、やはり気になるのでガレージから表にまわってみた。案の定門から出てきたのはマコトだった。すぐ後ろに茶色の子犬を二匹も両腕に抱えた女性がにこやかに立っていた。
「あっ、おかあさんだ。おかあさん」
真紀子の姿を見つけてマコトが駆け寄ってきた。腕をつかんで甘えた仕草をしてみせるマコトをたしなめながら彼女は二、三歩歩み寄って頭を下げた。笑顔を見せなければと思いながらなぜか素直に笑みが浮かんでこない。
「はじめまして。青木と申します。青木加代子です。よろしく。」
女性が先に名乗った。真紀子はしまったと思った。自分のほうが先に名乗ればよかったと心の中で舌打ちをした。朝、バンダナで隠れていた髪は彼女が動くたびに頬の横でさらさらと揺れている。腕の中で動き回る子犬をまるで赤ちゃんをあやすようにしながら加代子は真紀子を見て笑った。間近で見る加代子は格別美人ということもなかったが笑うと口元の両端にできるえくぼが印象的で、それがいっそう童顔を際立たせていた。
「池永です。こちらこそよろしく。それにご丁寧にありがとうございました」
と、引越し挨拶の品物の礼を言ってから真紀子は改めてマコトを見た。なぜとなりにいたかの説明をどう訊こうかと言葉を探していた。それに気付いた加代子はマコトをかばうように抱いていた犬を一匹彼に抱かせながら
「この子たちを散歩に連れていこうと外に出したら急にチャコ……あ、チャコはこっち」と、マコトが抱いているほうを示しながら話を続けた。
「チャコが走り出して、そのときマコトくんが通りかかってつかまえてくれたのよね」
「うん」
マコトは得意げに鼻の穴を膨らませてうなずいた。真紀子は「まあ、そうなんですか」と大げさに答えた。初対面とは思えない加代子の気さくな話し振りに本来なら「いいおとなりさんだわ」と自分も気持ちを許すところがあるはずなのだがなんとなくそう思えなかった。さきほどの英治とのやりとりが真紀子の心の隅に引っかかっていた。そしてそのうえ息子まで会ったばかりの加代子と親しげにしているのを見て、自分でもばからしいと思いながらも素直になれなかった。
「マコトちゃん、犬を飼いたいんですって?」
我に返った真紀子は目の前の加代子を見つめながらあいまいにうなずいた。いつそばを離れたのか、子犬を残してマコトはもう家のほうに走っていった。
「犬を飼うまではいつでも遊びにきてねって言ってたんですよ。うちは子供もいないし、わたしひとりで寂しいからって」
「図々しくおじゃましてすみませんでした」
戻りかけながら何度も頭を下げて真紀子はその場を離れた。家に戻ったらまずマコトに注意をせねば、と肩で息を吐いた。
洗濯物は英治が取り入れていた。
「あら、めずらしい。どうしたの」
「どうもしないさ。外に出ていったまま帰ってこないから」
「聞いてよ、マコトったらね」
その当のマコトはテレビの前に座りこんでゲームに余念がない。真紀子の声にちらっと英治を振り返ったがすぐにまた画面に見入っている。ただ、父親から何か言われるのではと心配なのだろう。時折落ち着きなく膝を揺すっていた。
「犬を飼いたいんだろう。それでとなりへ遊びにいったんだって?」
べつにいいじゃないか。と言いたげな英治に真紀子は冷蔵庫の野菜室からキャベツを出しながら首を振った。
「だって、今日越してきたばかりの人よ。だいいち迷惑だし。それに向こうもちょっと変よ。どこの子かもわからないのに家に上げるだなんて……」
赤ん坊の頭ほどもあるキャベツを抱えたまま真紀子は口をとがらせた。
「うちの子だってこと、わかってたんじゃないの。マコトだってそれくらい言うだろ」
「だいたい英ちゃんがマコトのことちゃんと見ててくれないから」
「おれのせいってか? 四年生だぜ、もう。そんなに心配することないよ」
真紀子は英治が何かしゃべるたびに自分のことが否定されているように思えてしかたがなかった。そして何か加代子をかばっているようにとれる言い方もおもしろくなかった。
「マコト、おとなりの犬かわいかったか? マコトも欲しいか」
不機嫌の矛先が自分のほうに向けられてはかなわんと思ったのか、その場をとりなすように英治はマコトに笑いかけた。けれど彼は固まったように身動きひとつしなかった。真紀子はため息をついて英治を見ていたが、ふいにそうだっ、とキャベツをポンと叩いた。そして台所からスリッパの音を立てながらリビングにやってきて、マコトのそばに座り肩を抱いて覗きこんだ。
「おかあさんの友達に犬を飼っている人がいるのよ。今度子犬が生まれたらもらってあげる。絶対、ちゃんと頼んでおくから」
「ほんと」
マコトの顔が輝いた。真紀子は大きくうなずいた。
「ちゃんと面倒みるって約束できるわね」
「うん」
マコトはうれしそうに父親のほうを振り仰いだ。ソファにもたれていた英治もほっとしたようにうなずいた。台所に戻った真紀子は、今夜はお好み焼きだからねと言って、キャベツを掛け声とともに半分に切った。英治は素早く立ちあがると食器棚の上からホットプレートを下ろしてテーブルにセットした。そして真紀子から包丁を受け取ると器用にキャベツを千切りにしていった。いつのころからかお好み焼きは英治の受け持ちになっていた。
六時過ぎに帰ってきたハジメがシャワーを使って出てくるのを待って夕食が始まった。食事中、マコトはハジメにつきっきりでとなりの犬と今度飼う犬の話をしていた。最初は相槌を打っていたハジメもだんだん面倒臭くなってきたのか上の空で返事をするようになった。そして食後、自分の部屋へ引き上げていく兄のあとをマコトは追いかけるようについていった。
「ちょっとまってよ、ねえねえ、となりのおばさんちの犬って……」
「ちっちゃいんだろ。ミニチュアダックスとかって、さっき聞いたよ」
「おかあさんの友達の犬、どんなだろうな。名前、なんてしようか」
「いいよ。なんだって」
ハジメのうるさそうな声とドアの閉まる音が聞こえた。しばらくして、つまらなさそうな顔でマコトが下りてきた。子供たちのやり取りを聞いていた真紀子は黙ってマコトの頭を撫でてやった。それで少し機嫌を直したのか「おとうさんとお風呂入ってくれば?」と言う真紀子の言葉にうなずいて英治の腕を引っ張っていった。
ゴミを捨てに勝手口から外に出た真紀子は何気なく隣家の建物を見上げた。二階の窓に明かりが灯っている以外は真っ暗で、生垣のヒバのむせるような匂いが辺りに満ちているだけだった。
最後に風呂を使い掃除をして出てきた真紀子は、サッカーの試合を観るという英治をリビングに残したまま二階の寝室へ上がっていった。途中で「窓、網戸にしておくからあとで閉めてね」と英治に頼んだが「ああ」と生返事しか返ってこなかった。やれやれとつぶやいて真紀子は布団に寝転んだ。仕事に行っているとこうして寝るのが一番の楽しみのようになってしまった。
しきりに犬が吠えている。どこにいるのか姿は見えないのだが、遠く近くにと声が聞こえる。うるさいなあ、どこの犬なの。と顔を動かしたときに目を覚ました。レースのカーテンだけの部屋の中はすでに明るくなっていた。となりに寝ているはずの英治がいない。いや、サッカーの中継を観ていた英治がいつ寝にきたのかも本当は知らない。真紀子は腕を伸ばして枕もとの時計を手にした。七時を少し回っている。ハジメの野球も休みだしもう少し眠ろうと目を閉じた。再び犬がやかましく吠え始めた。それとともに「ごめんなさい」と女の声が下で聞こえる。
「いやあ、なかなか元気で……」
あとは聞き取れないが確かに英治が応えていた。閉めてと頼んだはずのサッシが網戸のままなのだろうか。真紀子は頭を持ち上げて耳を澄ました。犬の鳴き声に混ざって「名前は……」だの「うちも今度犬を……」だのと話す声が聞こえてくる。英治がとなりの加代子とフェンス越しにしゃべっているのだろう。なんだってこんなに早く起きたのだろう。真紀子は持ち上げていた頭を下ろした。すぐ目の前に英治の枕がある。首筋が凝るというので中央のくぼんだ枕に買い換えたばかりだ。目の高さで眺めると反対側の縁に光が当たって白っぽく見える。顔を近づけると英治の髪の匂いがした。真紀子は少しの間目を閉じていた。
そのときふいに笑い声が聞こえて、真紀子の意識は瞬時に引き戻された。そのままの状態で様子を窺っていたが声はそれ以上は聞こえてこなかった。眠りを中断された真紀子はのろのろと起き上がって服を着替えた。部屋を出ると階段の上までコーヒーのいい香りがしていた。それに誘われるようにリビングへ下りていくと、台所ではいつのまに庭から戻ったのか、英治が鼻歌まじりにコーヒーを淹れていた。真紀子に気付いて「おはよ!」と、やたら明るい声で言った。
「おはよう、早いのね。夕べ、遅かったんじゃないの」
「そうなんだけど、なんか一度目が覚めると寝れなくて。トシだね」
その言葉を鼻で笑って聞き流しながら真紀子は何気なく庭に目をやった。さして広くもない庭は、越してきたときから植わっているキンモクセイやキョウチクトウなどの花の咲く木が葉を茂らせ、ちょうどよい日陰をつくっている。キンモクセイの大きく茂った枝がフェンスを超えてとなりの加代子の庭にまで腕を延ばしている。フェンスの向こうはやわらかそうな芝生が朝日に光っていた。
「さっき、話し声がしていたようだけど……」
「ああ。おとなりさんだよ。庭で煙草を吸ってたら、たいへんですね。って」
何がよ。と真紀子は思ったが口には出さなかった。英治がサーバーを持ち上げて「飲む?」というふうに目で訊いてきた。軽くうなずいて真紀子は洗面所へ向かった。顔を洗って洗濯機に洗剤と汚れ物を放りこんでボタンを押してリビングへ戻ると、テーブルに真紀子専用のカップが置いてあり湯気がやわらかく上がっていた。
「ほかにもしゃべってたでしょ」
ひとくち飲んでから上目遣いで英治を見た。まだ台所にいた彼は自分のぶんのコーヒーカップを持ちながら真紀子の前に椅子を引いて座った。
「犬がいたからね。その話をしてたんだ」
「うちでも飼うとか、言ってたでしょ」
「そうだよ。じゃあお友達になれるかしら。って喜んでたよ」
「誰と?」
「犬とだろ」
「誰が?」
「となりの奥さんがじゃないのか」
「奥さんが、犬と?」
「知らんよ」
どうでもいいだろうと言うように英治は首を振ってテーブルに肘をついた。顔だけ横を向けて庭を眺めている。加代子の家と反対側のとなりには老夫婦だけの住まいが、真紀子たちが越してくる以前からある。そのとなりが例の、英治が会社帰りに一杯飲みに誘ったという女性の家だ。もちろんそこの主人とも顔馴染みだし、子供同士も年があまり違わないのでかつてはよく行き来していた。
やがてハジメとマコトが起きてきて、それぞれの予定を好き勝手にしゃべりだした。兄のほうは友達と自転車で遠出をするらしい。すぐにマコトが「ぼくも」と言ったがハジメはそれを無視した。マコトは救いを求めるようなまなざしを英治に向けた。
「じゃあ、この前オープンしたあのでかいスーパーにでも行くか」
読みかけていた新聞を脇に退けて英治はマコトを見てから壁の時計に視線を移した。まだ九時にもなっていない。そのとき庭のほうから犬の鳴き声が聞こえてきた。
「あ、チャコかな。トンコかな」
飲みかけの牛乳のコップをテーブルにおいて、マコトはあわてて椅子から下りた。
「だめよ。ちゃんと食べてしまいなさい」
いつになく厳しい声で真紀子がたしなめた。ちょっとだけ……と言いながらマコトは庭に面したテラスへ裸足で出ていこうとしたので、もう一度真紀子が叱った。その声に驚いたわけでもないだろうが犬の鳴き声までもがぴたりとやんだ。ハジメが黙ってふたりを見ていた。
「なにもそんなに言わなくても……」
マコトをかばうように英治が口の中でぼそぼそとつぶやいたが、真紀子は聞こえない振りをして台所に姿を消した。何がどうというのではない。たとえば反対側の老夫婦のもとに犬がいてマコトが遊びに行くのなら止めはしないと真紀子は思った。昨日越してきたばかりの加代子のことをどれだけわかっているのかと自問してみても、何ひとつ知っていることなどない。普通の常識を持ち合わせているだろうごく平凡な主婦だと思う。相手が真紀子に対して失礼な態度をとったとか、眉をひそめるような行動に出たとかいうわけでもない。むしろ、マコトに親切にしてくれていた。それでも、と真紀子は首を振った。
トーストをかじっているマコトに英治が「食べたら出かけるよ」と言っているのが聞こえた。洗い物の手を止めて「十時でないと開かないんじゃないの」と訊き返した。
「いやあ、日曜日だから早くに開くんじゃないか。きっと」
応えてから、コーヒーカップを持った英治が台所へ入ってきて横から手を伸ばし流しへカップを置いた。チラッと真紀子が目を上げると英治が何か言おうと唇を動かしかけたがすぐに口をつぐんでその場を離れた。入れ替わるようにハジメがやってきて、ペットボトルに冷蔵庫から出した麦茶を注いだ。それから、食パンにバターをぬってちぎったレタスとハムとトマトを手早く挟み、ラップでくるんで食品の保存袋に入れると「いってきまーす」とリビングを出ていった。「あ、いってらっしゃい。気をつけるのよ。夕飯は?」あわてて声をかけた真紀子に「食う」とひとこと返ってきた。
英治もマコトと出かけるところだった。こちらはハンバーガーを食べてくるらしい。
「おかあさんの分、買ってきてあげるよ。何がいい?」
「なんでもいいけど……じゃあ、チーズバーガー」
玄関でふたりを見送り、ガレージの門の開く音を耳で確かめてから真紀子はリビングへ戻り、読み散らしたままの新聞やチラシを片付け掃除機をかけようとしたとき、チャイムが鳴った。玄関まで行き、片足だけサンダルをつっかけて、「どうしたの。忘れ物?」と言って勢いよくドアを開けた。「あらっ」と声を出したのはドアの向こうにいた加代子だった。英治だと思ってみせた笑顔を真紀子は一瞬にして息を吸い込むように身体の内に隠した。振り返りながらもう片方の足にサンダルを履いた。手でドアを支えて下部に付いてあるストッパーを足で下ろした。
「突然ごめんなさいね」
軽く頭を下げた加代子の口元にできる指で突いたようなえくぼが目を引く。真紀子はぎこちない笑みを向けた。
「今夜、主人が赴任先から帰ってくるんです。それでこのへんで大きなスーパーか何かありません? 昨日、駅前の商店街へは行ったんだけど、お魚屋さんと八百屋さん以外はあんまりこれといったお店がなくて……」
「ご主人、単身赴任なさってたんですか」
英治から教えられて知っていたが真紀子は改めてそう尋ねた。
「ええ。三日ほど休みを取って」
そうなんですか。と頷きながら真紀子は加代子が車の運転をできると聞いて、マコトと英治が出かけたショッピングモールの場所を身振り手振りで教えた。あそこならファミリーレストランもファーストフードの店も揃っているから。と付け加えた。うちのも今行ってるんですよ。と言おうとしてやめた。加代子は礼を言って帰っていった。その姿が真紀子の家の門を出てガレージの前を通り生垣の向こうに消えるまで真紀子はじっと見ていた。
掃除機をかけ終え、二階のベランダに子供たちの布団を干し、猫の額ほどの庭の植木に水をやっているとガレージのほうで犬の鳴き声がした。真紀子はホースを置いて水道の栓を締めると台所の出窓の下を通って表にまわった。
真紀子のミニバイクだけが残されたガレージに、見覚えのある子犬が二匹うろうろ地面を嗅ぎまわっていた。加代子の犬たちだ。柵の隙間から入ってきたのだろうか。真紀子は少し離れたところからマコトが呼んでいた名前を口にしてみた。子犬たちは転げるように駆け寄ってきた。しゃがんだ真紀子の膝に前足をかけ、しきりに尾を振っているものと、差し出した手に鼻をつけて確かめるように匂いを嗅いでいるのとがいる。どっちがチャコでどっちがトンコなのか真紀子にはわからない。どちらの名前を呼んでも二匹がそろって反応する。それにしても、と彼女は顔を上げた。家の中にいたのではなかったのか。
買い物に出かけた加代子がどこか、ベランダのサッシとかを開けたままにしていったのだろうか。まさか誰かが侵入したというのではあるまい。足元にじゃれつく子犬たちの首のあたりを撫でながら、さてどうしたものかと真紀子は思案した。買い物だけだろうからそんなに遅くはならないだろう。室内で飼われていたのだからやはり家に入れておいたほうがいいかもしれない。だいいち、このまま放っておいて表通りへ出ていかれて車に轢かれでもしたら、いくら勝手に家から出てガレージに入りこんでいたといっても加代子にしてみれば納得できないかもしれない。真紀子は立ち上がり水道のところまで行こうとした。二匹は前になり後になって飛び跳ねながらついてくる。それを見て真紀子はふっと表情を緩めた。こんなふうに自分に纏わりついてくれるなど、ハジメはもとよりマコトだってめったにないことだ。
バケツに水を汲むと、雑巾を固く絞ってチャコだかトンコだかわからないが、とりあえずすぐそばにいた一匹を抱きかかえると前足から拭きはじめた。小さな足を握るように雑巾でくるんで交互に拭き、それがすむと勝手口のドアを開けて台所へ放り込むように手を離した。子犬は身軽に床に降りると立ち止まり、身体を勢いよく振るわせた。二匹目の足を拭きながらそれを見た真紀子は眉をひそめた。
あとの犬も同じように床に降ろされるとブルッと身体を振った。それから、ものめずらしそうに台所からリビングへと短い足を忙しそうに動かしながら移動していった。となりの和室に入られると嫌なので真紀子はあわててふすまを閉めた。二匹はそんなことには目もくれずにリビング中を爪の音を立てながら歩き回っている。そのうちどちらかがテレビ台の下からマコトが遊んでいたゲームのコードをくわえて引っ張り出そうとし始めたので、真紀子は膝をついて近寄っていき、子犬を手で退けながらゲームの本体やコントローラーを台の奥に押し込んで、これはお兄ちゃんのだからだめよ。と睨んだ。なんだかマコトが小さい頃、ハジメの持っているものをほしがってはそのたびに「お兄ちゃんのだから訊いてからね」と言い聞かせていたのと同じではないかと、真紀子は苦笑いをした。
飽きることなく遊ぶ子犬たちを眺めていると、時間のたつのを忘れてしまいそうになる。ふと壁の時計を見るともう一時に近かった。とたんに真紀子は空腹を覚えた。おかあさんの分も買ってきてあげるよ、と言っていたのはいいが遅すぎないだろうか。それとも混んでいて何をするにも時間がかかるのだろうか。この子達のご飯も気になったが勝手に食べさせるわけにもいかない。それにドッグフードなどないのだし。「早く帰ってくればいいのにね」真紀子は子供に語りかけるようにつぶやいた。
そのとき、表に車の停まる音がした。続けてドアの閉まる音が前後して二度聞こえた。あっ、帰ってきた。真紀子がそう思ってたち上がるより早く、子犬たちがそろって吠えながら勝手口のほうへ走り出した。
「すみません。ごちそうさまでした」
外で加代子らしき声がした。真紀子はドアを開けようとした手を思わず引っ込めた。さっきの続けて聞こえたドアの音は加代子の車だったのか。どうして加代子と一緒なのだろう。いや、たまたま帰りが同じだったというのならあり得ることだ。しかし確かに「ごちそうさまでした」と彼女は言った。三人でハンバーガーを食べてきたとでも言うのか。勝手口のドアを開けて外に出て、おかえり。あら青木さんも一緒だったの。とはすぐには言えないと真紀子はその場で迷っていた。足元では、チャコとトンコが主人の気配を感じてしきりに尻尾を振りながら甲高く吠えている。
しかたなく真紀子は二匹を掬い取るように抱きかかえてドアの取っ手を回した。ガレージを覗くとちょうど英治が車を入れているところだった。まだ道端にいたマコトがすぐに真紀子に気付いたらしく手を振ろうとして、母親の腕の中の子犬たちを見て今度は驚きと嬉しさの混じったような顔で「おかあさん!」と叫んでから、振り向いて加代子を呼んだ。
車から降りてきた英治は真紀子が抱いている子犬たちを見て、おっ、と少し身体を引いたけれどすぐに目じりを下げながら両手で犬の頭を撫でまわした。
「どうしたんだ。預かったのか」
「ちがうわよ。勝手に入ってきたのよ。危ないからうちの中に入れてたんだけど声が聞こえたから……」
ごちそうさま。っていう声がね。と言いたいのを飲みこんで英治を見つめた。しかし、当の英治はそれには応えずに顔を犬の鼻先に近づけながら「バイバイ」と言っただけでそそくさと勝手口から入っていった。呆れて見送っていた真紀子をガレージの外でマコトが呼んだ。同時に二匹が腕の中で身を乗り出すように暴れ出した。生け垣のそばに加代子が恐縮した表情で立っていた。
「申し訳ありません。ご迷惑だったでしょう」
真紀子から子犬たちを受け取りながら加代子は同じ言葉を何度も繰り返した。暑いだろうからとベランダのサッシを網戸にしていったのがいけなかったのかもしれない。ちゃんと閉めたつもりが網戸に隙間があってそこから出ていってしまったのだと思う。でも、道路をうろうろしないでおとなりに入っていったから、よかった。と二匹の間に自分の顔を埋めて頭を下げた。もともと真紀子は文句を言うつもりはなかったし、意外と賢い子犬たちのことを一言ぐらい褒めようかとも思っていたのだが、あまりにも自分を責めて今にも泣き出しそうな加代子にかける言葉をなくしてしまった。
「あの、ご飯まだだから。ワンちゃんたち」
やっとそれだけ伝えた。言いながら、ワンちゃんという言葉になんとなく嫌悪感を覚えた。加代子は二匹をしっかりと抱きかかえて帰っていった。
「チャコとトンコ、うちにいたの?」
「そうなのよ。ガレージでね、遊んでたのよ」
「チェッ。ぼくもいればよかった」
マコトは口を尖らせてそう言ってから、思い出したように手にしていたハンバーガーの袋を「これ、おかあさんの分」と差し出した。それからちょっとにやっとして
「おとなりのおばちゃんも一緒に食べたんだよ。買い物に来ているのをおとうさんが見つけたんだ」
「一緒に食べましょうって、おとうさんが言ったの?」
「そう」
マコトはすまして答えた。
真紀子は深いため息をついた。英治が言いたくないのなら言わなくてもよいが、言ったからといってそれくらいのことでいちいち腹を立てたりはしない。子犬にかこつけてその場を逃れるような態度をとることのほうが気に入らない。サンダルを後ろへ蹴り上げるように脱いで台所へ戻るとわざと大きな音で椅子を引いた。リビングにいた英治は横目でチラッと見ただけで何も言わずにテレビの画面に視線を戻した。ハンバーガーをかぶりながら真紀子は夫の少し薄くなった頭頂部を凝視していた。
夕飯時にとなりからニンニクと肉を焼くいい匂いが漂ってきた。久々に主人が帰ってきたのできっと今夜はステーキなんだろう。と真紀子は勝手に決めていた。同じように匂いを嗅ぎながらハジメもマコトも「ステーキが食いたい」と騒いでいた。
「はいはい。おとうさんに言ってね」
適当にあしらいながら真紀子は食事の支度にとりかかった。
片づけがすんでゴミを持って勝手口を出たとき、つい隣家へ目が向いてしまう。芝生に部屋の明かりが漏れてそこだけ白く浮かび上がっていた。かすかにテレビの音らしきものが聞こえてくるがそれ以外は静かなもので、あの子犬たちも寝てしまったのかもしれない。
加代子の夫という人を見てみたいとふと思った。
布団に入ったとき、すでに寝息を立てている英治のパジャマの裾から手を滑り込ませて誘ってみたが、うるさそうに寝返りを打っただけで応えてくれそうもなかった。しばらくの間、その背中に鼻面を埋めるように寄り添っていたが英治は背中全体で拒絶しているかのように身動ぎもしなかった。真紀子はしかたなく仰向けになり、外の灯りでぼんやりと明るい部屋の天井を見つめていた。英治のいびきが耳障りで眠れそうになかった。無理に目を閉じると見たわけでもないのに英治と加代子が親しげにハンバーガーを食べている情景が浮かんでくる。マコトを真ん中に、まるで家族のように笑い合っている。考えすぎだわ。真紀子はそれを振り払うようにうつ伏せになり枕を抱えて無理にでも眠ろうとした。
次の日、英治や子供たちを送り出して自分もパート先に向かうためミニバイクのエンジンをかけていると、「奥さん、おはよう」と後ろで加代子の声がした。ヘルメットを被ろうとしていた手を止めて真紀子は振り返った。ディズニーアニメのキャラクターのエプロンをつけた加代子が紙袋の底に手を添えて持ち上げながら近寄ってきた。「これ、明太子。昨日主人が買ってきたの。召し上がって」と、紙袋を真紀子の腕に押し付けるように渡した。
「あら、いいんですか。ありがとう。主人の好物なの」
「ですってね。ちょうどよかったなって思って……」
え? と真紀子が顔を上げたときすでに加代子は、じゃあ。と言い残して去っていくところだった。
「あ、ご主人によろしくお伝え下さい」
あわててバイクのエンジンを切って後姿に声をかけた。加代子は振りかえると返事の代わりにあげた手をひらひらさせて門の中へ入っていった。ヘルメットと紙袋を持ったまま真紀子はしばらく青木家のほうを眺めていた。一度閉じた門は開く気配もなく家のどこかで子犬たちの鳴くにぎやかな声がしていた。
通勤や通学の時間が過ぎた一帯はあまり通行人もなく、宅配便の軽トラックが通り過ぎていった。気をとり直した真紀子はハンドルにぶら下げていたバッグに手を突っ込んで鍵を探し出すと、玄関を開けて小走りで台所へ行き冷蔵庫に明太子を紙袋ごと押し込んだ。そしてすぐに取って返して再びバイクのエンジンをかけた。ふいに、さっきの加代子の言葉が耳の奥によみがえってきたが深く考えないでおこうとバイクにまたがった。それでもつい考え事をしながらバイクを走らせていたため横道から出てきた自転車に気づくのが遅れた。目の前に自転車を認めた瞬間、真紀子はとっさにブレーキを握りハンドルを切っていた。心臓を冷たい手でつかまれたようだった。まわりの景色など何も見えず自転車だけが突然降って湧いたように現れたと感じた。両足を踏ん張りバイクを支えるのがやっとだった。
「どこ見て走ってんだ。ばかやろう」
男性の罵声で真紀子は目が覚めたようにあたりを見まわした。そしてすでに自転車の男性もいなくて、通りかかりの人が怪訝そうにこちらを見ているのに気がつくと、恥ずかしさがこみ上げてきて逃げるようにその場から走り去った。
その夜遅く帰ってきた英治が風呂から上がってくるのを見計らって、ビールと明太子を食卓に出すと彼は「おっ、となりからか?」と、真紀子がまだ何も言わないうちから訊いてきた。
「そうよ。よくわかったわね」
「そりゃ、明太子っていやあ福岡だろ。博多だろ。ご主人博多に赴任してたんだろ」
なにをわかりきったことを。とでも言うように真紀子を一瞥して英治は椅子に座った。
「となりの奥さんに言ってたんでしょ。好物だって」
「え、あ、ああ。話しの流れで……」
「やめてよね。催促するみたいなことは」
「べつに俺はそんなつもりで言ってないよ」
英治はむきになって反論した。まるで子供みたいだと真紀子は呆れた。向かい合って座りながら彼のコップにビールを注いだ。催促するようなことはやめてと言ったけれど、本当はそれを黙っているのをやめてほしかったのだ。一緒にハンバーガーを食べたこともしかりだ。夫婦だからといって何もかも話す必要はないかもしれないが、少なくともざらついた気持ちを鎮めるにはやはり些細なことでも言ってほしいと真紀子は思った。
英治がビール瓶を持ち上げて「どうだ?」と言うふうに傾けた。真紀子は「ううん、いらない」と断るとテーブルに手をついて椅子から立ち上がった。立ち上がりざまに思い出したように英治に「今日ね……」と、自転車とぶつかりそうになったことを話した。
「ばっかだなあ。ぼやーっとしてたんだろ。もうおばちゃんなんだから気をつけないと」
大丈夫だったか? という言葉を待っていたのに、それより先に呆れたような声で詰られるとは思ってもいなかった。おまけにそれだけ言うと英治はあとのことは訊こうともしないでビールを飲んでいる。しばらく夫の顔を見つめていた真紀子だったが諦めて台所へ行き肉じゃがを温めなおして器に盛り黙って英治の前に置いた。腹立ちまぎれにわざと明太子の皿に器を当てたが、英治は気にもとめないふうだった。
翌日からしばらく雨が続いた。庭のキンモクセイの葉が時折思い出したようにはらりとこぼれる。雨を弾いて緑の色をますます濃くしていくものもあれば、あんなふうに糸のような雨に触れただけでも落ちてしまうものもある。こちらに落ちる分にはかまわないがとなりの庭を汚しては申し訳ないと真紀子は思った。そういえば、明太子をもらった次の日から子犬たちの声も聞こえないし夜になっても灯りがついていない。夫婦で犬も連れてどこかへ出かけているのだろうか。ガレージに車もなかったように思える。英治はとなりが留守であってもそうでなくてもまるで気づかない様子で、真紀子が話題にしてはじめて「ふーん」と興味がなさそうに返事をするだけだった。この間のあれは何だったの? と真紀子はひとりでやきもきしたことを苦笑いするしかなかった。
週末に、不審者が出没しているので気をつけるように。という回覧板が回ってきた。加代子の家の向こう隣の主婦が「青木さん、留守みたいなの」と真紀子に渡した。言われてみて指を折りながらもう五日になるのかな……とつぶやいた。きっと夫が帰るのについて福岡へ行ったのだろう。子供もいないのだから向こうでゆっくりしているのかもしれない。真紀子は夫婦ふたりだけの生活をうらやましく思った。
「変な人がいるらしいから、気をつけるのよ」
塾へ行くハジメのために早めの夕食をとっているとき、真紀子は子供たちに言って聞かせた。英治は土曜出勤でまだ帰っていない。
「大丈夫、大丈夫。心配ないって」
ハジメは箸を持った手を目の前で振りながら真紀子の言葉を打ち消した。
「塾終わったら遊んでないで早く帰ってくるのよ。まああんたは自転車だから大丈夫かもしれないけど」
と、視線をマコトのほうに移した。
「ぼくだって平気だよ。おとうさんだっているし」
「そうね。うちは心強いわね。そういえば、おとなりまだ帰ってないのかしら」
「チャコんちのおばちゃんなら、ぼく見たよ」
おかわり。と茶碗を差し出しながらマコトがうれしそうに言った。真紀子は茶碗を受け取る手を止めて「いつ?」と訊き返した。
「お昼ごろ。佐藤くんちへ行くときにバス停にいたよ」
「あら、そうなの。こんにちはって言った?」
「だって、道路の向こうだし、おばちゃん気がついてなかった」
ああ、そうね。とうなずいてマコトの手に茶碗を渡した。何か用があってバスで出かけたのだろう。回覧板のことを伝えるのは明日にしよう。気をつけていてもいなくても隣家のことなどよほどのことがない限りわからないものだし、いつも耳をそばだてているわけでもないのだから。
マコトに手伝わせて食器を洗っていると、いってきますと出ていったはずのハジメが「おかあさん、傘」と玄関で叫んでいる。ぬれた手を拭きながら台所から顔を出すと、傘立ての中を物色していたハジメは適当な一本を引き抜いて再び「いってきます」と飛び出していった。降ってるんなら自転車はやめなさい。と言おうとして追いかけたがすでに遠ざかっていく後姿しか見えなかった。まだ暮れていない空を見上げて手のひらを受けてみたが雨はそれほど降っていない。駅のほうから小走りで駆けてくる何人かのうちの見知った人に会釈をして中に入ろうとした真紀子は、ひとつの傘に入って歩いてくる夫と加代子の姿に気づいた。心臓が大きく波打った。偶然を装うには少し距離がありすぎる。
自分の夫を出迎えるのに何を遠慮しているのだろうと思いながらもいまここで笑顔で「おかえり。一緒だったの?」とは、言えない。それならいっそのこと見なかったことにしよう。真紀子は隠れるように門の中へ入った。
玄関のドアを閉めたとたん、ノブが動いた。真紀子は急いでサンダルを脱いで上がった。
「ただいま」
英治はそこに真紀子がいることに何の疑問も持たないようで、彼女に持っていた鞄を手渡すと、「途中で青木さんと会ってさ、傘、入れてもらったよ」と言うと、洗面所で手を洗いうがいをした。真紀子は、そう。とだけ蚊の鳴くような声で返した。
「たいした雨じゃないけど、やっぱり助かるよな」
ずっと留守だと思っていた加代子が戻っていたことにはべつに驚きはしない。たまたま英治と出会ったことだって、本当に偶然なのだろう。英治がそう言うのだから信じるしかない。ただ、黙っていられても今のように言ってもらっても、気持ちがすっきりしないのはどうしてだろう。何でもないことだとなぜ素直にうなずけないのだろう。「よかったわね」と、なぜ言えないのだろう。真紀子は自分で情けなくなってきた。
日曜日の昼近くになってやっと起きてきた英治にコーヒーを淹れてから、真紀子はちょっとおとなりへ行ってくるわ、とエプロンを外した。
「留守なんじゃないのか」
「だって、昨日一緒に帰ってきたんでしょ」
「けど、今日は出かけるらしいよ」
そんなことまで知っているの? とつぶやいて英治を見た。しかし英治はコーヒーカップを片手にテーブルに広げた新聞に目を落としていて、真紀子の言葉には気がつかないようだった。いつまで待っても新聞から目を上げない英治を残して真紀子は勝手口から出ていった。明け方に強い風と雨が降ったせいで車のボンネットにヒバの細かい葉が撒いたように散っていた。
加代子の家のインタホンを何度か押してみたけれど応答はなかった。かすかに家の中で犬たちの鳴き声が聞こえるだけだった。加代子は留守のようだ。
あきらめて戻ったとき英治は窓のそばで庭のほうを向いて電話をしていた。勝手口のドアの音に一度だけ身体をひねってこちらを見たが、すぐに向き直ると「わかった。じゃあ、地下鉄の改札で……うん、2番出口。今からだから三十分くらい、かな。じゃ、あとで」と話して携帯電話を切った。真紀子は黙って夫を見ていた。誰から? と訊くつもりの声がのどの奥で絡みついているのがわかった。声は音を伴わずただ口を動かしただけだった。突っ立っている真紀子に気づいた英治は取り繕ったような笑みを見せた。
「大学時代のともだち。仕事で出てきてたんだって。今夜には帰るらしいけどおれのこと思い出して電話くれたんだ。ちょっと出てくる」
「誰?」
「小川だよ。ほら、三年ほど前一度来たろ?」
「ああ、ああ、そうね。そんなことあったわね」
「晩ご飯、いいよ。久しぶりだし、飲みに行くし」
「うちに来ていただけば?」
「いいよ。新幹線の時間もあるだろうし」
そう言い残して英治は二階へ上がっていった。テーブルに置いたままの携帯電話を手にとって、真紀子は本当に小川という人物からなのか調べようとしたけれど、では、いったい何を疑っているのかと問いかけてみたが、自分でその答えを出すことをためらった。二階で英治が呼んでいる。真紀子は携帯電話をその場において「はあい」と返事をしながら階段を上がっていった。
日中はパートで留守にしているし、帰ってきてほっと一息入れてお茶など飲んでいるうちにもう夕方になってしまう。その間をぬって加代子の家を訪ねるのだが、あいにくいなかったり、それならと夜に行ってみても会えなかったりでその週も半分過ぎてしまった。加代子は働いているのだろうか、わりと頻繁に家を空けている。朝早くに犬たちを散歩させているときにでも、と思うのだが真紀子には朝の一分でも貴重だからついギリギリまで寝てしまう。
そんなある日、梅雨の晴れ間の夏を思わせるような暑い日だった。パートから帰った真紀子がバイクをガレージに入れようとしているとき、加代子が外出するところに出くわした。あいかわらずさらさらの髪を揺らして、黒を基調にしたアンサンブルにこれも黒の大胆な花柄の、裾が波打つようにひらひらしているスカートを穿いていた。華奢なかかとのミュールが加代子の細い足によく似合っていた。Tシャツにジーンズ、日焼け防止のための綿の長袖シャツ姿の真紀子は自分の姿と比べて一瞬声をかけるのをためらった。先に加代子が「おかえりなさい」と笑顔を見せた。日傘を持つ手の指が透けるように白い。真紀子はなぜか作り笑いしかできなかった。もう一度会釈をして行こうとする加代子をあわてて呼びとめた。回覧板が回ってきたときから一週間以上が過ぎている。いまさら内容を話しても、と思ったがこれからも自治会や隣組からいろんなお知らせだってあることだしと、手短にその中身を知らせた。
「あら……治安はいいほうだって聞いたから安心してたのに」
そう教えたのは英治だ。加代子は眉をひそめて真紀子を見た。自分が責められているようで真紀子は申し訳なさそうにうつむいたがすぐに
「以前はこんなことなかったのよ。旧くから住んでいる人ばかりで……」
言ってしまってから、しまったと唇をかんだ。それではまるで新参者が悪いと言っているようなものではないか。けれど加代子は気を悪くした様子もなく
「何かあったらおたくのご主人に助けていただくわ。よろしくね」
どこまでが本気なのかお愛想なのかわからないまま、さらりと言って小首をかしげた。
「たいして役に立たないかもしれないけど」
真紀子はあいまいに微笑んだ。加代子は、じゃあ。と日傘を傾けながら駅のほうに向かって歩き始めた。彼女が三軒先の家の角を曲がって少し遅れて日傘もその角に隠れてしまったとき、真紀子は明太子のお礼を言ってなかったことを思い出した。追いかけて言うには大層すぎるし、と踏み出しかけた足をその場に留めた。
今度いつになるかわからないが会ったときに礼を言おう。明太子はとうに英治の胃の中に消えてしまったが、あれから何度かスーパーへ行くたびに真紀子は売り場の前で立ち止まる。明太子に罪はないけれど見ていると腹が立ってきて、そんな自分に苦笑いをしていた。
夜、塾から帰ってきたハジメが二丁目の公園にパトカーがきていたと教えてくれた。二丁目というのは駅から五、六分歩いたあたりで新しい家が多く、駅から近いわりには静かな環境が売りになっている。バイクで主に裏道を利用する真紀子はあまり駅のほうへは行かないのでそのあたりの地理には疎いが、樹木がうっそうとしている公園のことなら知っていた。今のように公園としてきちんと整備される前に子供たちとセミ取りに行ったことがあった。あのころはちょっとした森のようだったと覚えている。
「何? 変な人が出たの?」
「知らない。でも若い女の人が警官に何か話してた」
「そう。いやあね。二丁目ったらわりと近いじゃない」
言いながら真紀子は立って勝手口の戸締りを確かめに行った。ついでに顔だけ覗かせてとなりを窺うと、どの窓にも明かりは灯っていなくて建物の姿だけが黒っぽく浮かび上がっていた。雨の匂いを含んだぬるい空気がふっと鼻先をかすめていったようだ。
週末に真紀子は学生時代の親友と会うことにした。マコトに子犬をもらうと約束をした相手でもある。子供たちのことは英治に頼んで、久しぶりに飲み、食べてしゃべり、日ごろのストレスをこの時とばかりに解消した。ひとしきり思い出話や噂話に花が咲いたあと、真紀子はどうしても胸に引っかかっていたことを彼女に話した。
「真紀子の旦那は親切だしね。それも取って付けたようなんじゃなくて、自然に言葉や動作に出るんだもの。でも考えすぎだよ。傘に入れてもらったのだってたまたまでしょうし、友達に会いに行くってのも本当にそうなのかもしれないじゃない」
「うん……」
「なによう。自分の旦那を信用できないの?」
真紀子は小さく首を横に振った。
「ねえ、それよか、今度温泉に行こうよ。一泊で……。あんたは英ちゃんとのほうがいいかもしれないけど」
彼女はそう言って笑った。そんなことないよと否定しながらも、あまり考えるのはやめようと真紀子は思った。いつもいっしょに行動したいと思うから英治を監視するみたいになってしまうのだ。たまには女友達と楽しくやるのもいいかもしれない。
マコトから頼まれていた子犬のことを改めて頼んで、地下鉄の改札で彼女と別れた。真紀子はそのまま私鉄の乗り場へと向かった。
まだ十時を過ぎたばかりで人波はとぎれることなく続いている。満員の電車に揺られ真紀子の住む郊外の駅についたときも、バスが大勢の乗客を乗せて車体を揺らしながらロータリーを出ていった。英治に電話をして迎えにきてもらおうかと思ったが、もしビールを飲んでいれば無理なことだ。真紀子自身もバイクを置いてきた。歩いて帰る人たちも何人かいることだし、と駅前の信号を渡ってゆるい坂道をほろ酔い気分で歩き始めた。途中、このまえハジメが話していた二丁目の公園のそばを通る。その先にも民家はいくらでもある。それなのにそこに行き着くまでにどこに消えるのか、ついに気がつけば歩いているのは真紀子ひとりだけだった。
公園の反対側は高い塀を巡らせた大きな屋敷が並んでいる。忘れたころに現れる街灯の明かりだけでは樹木の茂った公園の入り口すら、照らし出すことは困難だ。星も見えない夜空より黒い大木が、枝をいっぱいに広げて今にも覆い被さってくるようで、真紀子は昼間見るのとではまるで様子が違うことに怖さを忘れてしばし見入っていた。
坂道が終わると大きな通りに出る。そこから向こうが昔からの住宅街だ。点滅している信号を小走りで渡って、コンビニの暗闇にぽっかり口をあけたように明かりが灯る店の前を通ると、あとは角を二つ曲がれば自宅が見えてくる。もう誰も歩いていなくても心細くはない。
どの家も門灯のほかはほとんど明かりが消えている。たまに玄関に電気がついていたり二階の窓が明るかったりするのを見て、ああ、ここはまだ帰ってくる人がいるのだな。とか、ハジメと同じような受験生でもいるのだろうか。と考える。ふいに足元を何かが横切り反対側の生け垣にもぐりこんだ。真紀子は「ひっ」と引きつった声をあげそうになった。身体を屈めて耳を澄ますとかすかに聞こえる鳴き声から猫だとわかった。野良猫か飼い猫か、飼い猫ならこんな時間までどこへ行ってたの? とドクダミの白く浮かぶ茂みのあたりを覗きこんで話しかけてみたが、猫が隠れた闇は黙ったままだった。
二つ目の角を曲がって、丸く刈り込んだツツジの植え込みが見事な家や、背丈ほどもあるアジサイがいくつも花を咲かせている家や、そして加代子の家の前を過ぎて自宅にさしかかったとき、門扉の片方が開けっぱなしになっているのに気がついた。英治が迎えにでも出てきてくれたのだろうかと甘い期待を抱いて足を踏み入れたとき、玄関のドアが半開きになっていて、その前に英治と彼に寄り添うように加代子が立っていた。真紀子は自分の目を疑った。すぐにはその光景を理解できなかった。英治と加代子は同時に真紀子に気づいたようだった。
「おかえり。変なやつ、見なかったか?」
英治の声がいつになく緊張していた。真紀子はふたりに近寄りながら
「何? どうしたの。なにかあったの」
言いながらさらに前に進み出た。一瞬、英治は加代子をかばうように真紀子の正面に立った。玄関の明かりで見る加代子の表情がこわばっているのがわかった。真紀子はふたりを交互に見ながら、どちらでもいいから今の状況を説明してほしいと次の言葉を待った。
ドアのそばの照明に一匹の蛾がとまっている。真紀子はふたりから視線を動かしてその蛾をぼんやりと見つめていた。「十分ほど前に……」と英治が口を開いたので真紀子はそちらへ頭を動かした。あとを受けて加代子が話し始めた。「変な人にずっとあとをつけられたの。電車を降りて最初はまだ同じ方向に帰る人がいたんだけど、通りからこっちへはほんと誰もいないのね。それで、できるだけ速く歩いてはいたんだけど……」
加代子が言うにはコンビニを過ぎたころからどこから現れたのか後ろから歩いてくる人物がいて、そいつは絶対に追い越すことをしないで彼女が止まると自分も立ち止まり、走り出すと大股であとをつけてきたらしい。
「もう、怖くて怖くて……。家に入ってしまえばいいかなとも思ったんだけど、主人もいないしもし押し入られたらどうしようって。それでさもここが自分の家のように門を開けて玄関のチャイムを鳴らしたの。そしたらすぐにご主人が出てきてくださって……」
英治は真紀子が帰ってきたものとばかり思っていたらしい。だからすぐにドアを開けたのだが結果的にはそれがよかったようで、青い顔をした加代子から事情を聞いて表に飛び出したときには、数メートル先を駅のほうへ足早に歩いていく人物の後姿が見えただけらしい。
「けど、また戻ってきたらヤバイし。それでしばらく様子を見てたんだ。そしたら……」
「わたしが帰ってきたってわけ?」
「そう。おまえは大丈夫だったか? 誰にも会わなかったか」
「うん。べつに」
動揺を隠すためにわざとそっけない返事をした。加代子が不審者に後をつけられたということよりも、機転を利かせて英治が彼女を助けたということよりも、ふたりが寄り添うようにしていたことが真紀子の心に棘のように刺さった。もし、自分が帰ってこなければ彼らはいつまでもそうしていたのだろうか。
もしかして、不審者のこともつけられたことも嘘で、英治と加代子は密かに逢っていたのかもしれない。真紀子はゆっくりと加代子を見た。玄関の明かりに照らされた加代子の頬にえくぼが浮かんでいた。
|