岸田理恵は夢だと知りながら夢を見ている。階段の夢だ。廃墟のビルに小学生の啓一の手をひいて駆け込み、階段を駆け上がる。うしろから何者かに追いかけられている。階段は複雑に入り組み、曲がりくねって、一段上がるごとに段の高さが高くなる。手をついて身体を引上げないと登れなくなる。だんだん高くなって行く階段を、汗をびっしょりかいてよじ登り、啓一を引きずりあげる。突然、目の前にエレベーターがあった。ボタンを押してみるとドアが開いた。ほっとしてエレベーターで上がる。ドアが開くと、フロアの床が顔のあたりにある。停止位置よりもはるかに低い位置でドアが開いたらしい。
穴の底のようなエレベーターから息子を肩車して外に出す。自分も腕に力をこめてよじ登る。明るく広い空間が目の前に広がる。理恵の勤務先のシャレード化粧品の白いオフィスのロビーだ。蛍光灯に白々と照らされて、見知らぬ人ばかりが行き来している。菅谷本部長が見える。本部長は慌てて走り寄り、早く逃げろ、君がここにいるとまずい、と言う。なにがまずいのかわからない。恐怖感だけがはっきりしている。理恵は啓一の手を引いて必死に逃げた。
窓から外に出ると、細い木の階段がついていた。また啓一を連れて登る。足元を見ると、木の階段の隙間から遥か下に森や畑が見える。遠くに藁葺き屋根や石を載せた木っ端葺きの屋根の集落もかすんで見える。足を踏み外しそうで恐ろしい。曲がりくねって壊れそうな古い木の階段をよじ登ると、汚い窓が目の前にある。子供のころ住んでいた木造文化住宅だ。ガタビシする窓から入り込んで、汚れた畳のうえにほっとして座りこむ。節穴だらけの材木の柱や、すすけた砂壁が見える。体中の力が抜けて行く。やすらぎが真綿のように全身を包みこんだ。狭い台所で母親が米を研いでいる音がする。いつのまにか、自分は幼い女の子にもどっている。
「お母さぁん」
声を出した途端に目が覚めた。
夢だというのに、汗をびっしょりかいて、胸がどきどき高鳴っていた。時計を見るとまだ五時だ。目をつぶったまま頭の中で、夢を繰り返し再現してみた。追いかけられて階段を逃げ回る夢を見るのは何度目だろう。なぜ階段があんなに昇りにくいのか。一人で逃げ回ることもあれば、だれかと一緒のこともある。今日は幼い啓一と一緒だった。しかし、一度も夫の和雄と一緒だったことはない。ディテイルは夢を見るたびに違うが、追いかけられて逃げ回り、階段を上り下りするのはいつも同じ夢のパターンだ。考えているうちに、現実と夢の境がだんだん分からなくなってきた。
息子の部屋で動く音がしている。今日も朝早くからラグビー部の早朝練習があるらしい。いつもは啓一が独りでパンと牛乳の朝食を取って出て行くのだが、今日の理恵は変な夢で目が覚めてしまった。たまには朝食を作ってやろうと思う。ようやく夢を振り払って起きだした。
「お母さん早いねえ。こんなに早起きしたら、会社で居眠りしてしまうんじゃないかな。え、目玉焼きも焼いてくれるの。うれしいなあ」
啓一は調子よく早朝から母親をおだてる。
「今日は朝練休みじゃないの」
「試合が迫ってるのに、休みなわけないだろ」
「授業は休んでもクラブは皆勤なのね」
「そりゃそうだよ。ぼくはK大ラグビー部在学中っていつもいってるだろ」
「授業にはきちんと出て、卒業だけはちゃんとしてちょうだいよ」
「大丈夫。勉強も試験前にはそれなりにします」
コーヒーを入れ、パンと卵を焼いて啓一に食べさせる。こんな早朝でも健康な食欲を見せる息子の口元を見ていると、ひさしぶりにくつろいだ気分になり、満足感が涌いてきた。
息子の朝食がおわると、今度は自分のいつもの朝の支度だ。ゆうべ、寝る前にタイマーをセットしてあった洗濯機から洗濯物を取り出した。毎日、啓一のトレーニングウエアだけでも一抱えの洗濯物だ。夕方二時間ほどヘルパーのおばさんがきて、洗濯物を取り入れて畳み、夕食の支度をしてくれる。だから出勤前に洗濯物を干し、片付けと掃除だけはしておかなければならない。昨日は理恵も遅くなって風呂にはいっていないのを思い出して、いまからシャワーを浴びる時間を計算してみた。なんとか間に合いそうだ。
夫の和雄も起き出してきて、パジャマのまま新聞を読み始めた。和雄は朝から干物か塩ものの焼魚で飯を三杯食べる。五十を過ぎて、朝早くから、よくまあそんなに食べられるものだと理恵はいつも呆れてしまうのだが、和雄はゆうゆうと時間をかけて食べる。週の内一日だけは一時限目から授業があるとかで、その日だけはありあわせの漬物とちりめんじゃこでかきこんで出掛けるが、それ以外の日はいたってのんびりしている。授業するだけが仕事じゃないと夫は言うが、大学で講義があるのは週三日だけなのだから、大学教授というものはなんといい商売なのだろうと理恵はいつもいう。
時間があるのだから洗濯や掃除もすこしは分担してくれればいいと思うのだが、家事一切は理恵の仕事になっている。もっとも結婚した当初は大学院生だった和雄が洗濯や掃除をし、腕利きの美容部員であった理恵が家計を支えていたのだが、皺くちゃのまま干した洗濯物や真っ黒に汚れたままの雑巾で汚れを床になすりつけるような掃除ぶりに理恵がいらだち、いつのまにか家事を和雄からとりあげてしまっていたのだ。
理恵は昨日買って来た鯖をグリルに入れて焼き始め、和雄にお魚見といてよ、と声をかけて風呂に入ることにした。十五分あればシャワーをあびてシャンプーもできる。ゆうべは疲れて風呂に入る気力もなく、それでも僅かに残った職業意識を奮い立たせて、化粧を落とし、寝床の中でナイトクリームでマッサージしながら眠ってしまった。シャワーで体をしゃんとさせて今日の仕事に備えなければいけない。
シャワーをとめ、シャンプーをつけて髪を洗っていると、鯖の焦げる匂いが強くなっているのが気になった。風呂に入る前、和雄に
「鯖、焼いてるからね。見といてよ」と声はかけたが、
「このごろの鯖、脂が乗ってないな。まずいのばっかりだ」と新聞を見ながら気のない返事だった。
「脂、よくのってるの買ってきてあるわよ」と受け流して、風呂に入ったのだから、まさかそのまま放ってはいないだろう。もし放っていれば、鯖から落ちた油に火が入るかもしれない。大丈夫かなと心配になっている。
いきなり和雄が風呂の戸を開けて、
「魚、ひっくりかえさんでもいいのか」と言った。
「えっ。さっき見といてって言ったでしょう。放っていたんだったらたいへん」
和雄はあわてて台所へ行った。まもなく、ワッという和雄の声、啓一の、火事になるっという大きな声。理恵は驚いてバスタオルを湯にざんぶりと浸して、裸のまま台所へ走った。和雄がガスグリルを開けたところらしい。酸素が送り込まれて、ガスグリルの上の穴から大きな炎が燃え上がっている。慌てて魚の網を取り出そうとすると、炎は一メートル以上も高く燃え上がる。理恵は動転している和雄の手から炎をあげる魚網を取り上げ、流しにもっていって、濡れタオルを上からばさっとかけた。瞬時に火が消えた。
「魚、焼いてるから見といてって言ったでしょう」と理恵は大声を上げる。
「聞こえなかった」
「脂がのってないとか、まずいとかいってたでしょ。聞こえなかったやなんて、このごろ、家庭に無責任になってるあなたの姿勢のあらわれよ」
理恵の勢いに和雄はおもわずひるんで、びしょ濡れの床を眺め、
「お前、服着てこいよ」といった。
啓一は大きなスポーツバッグを抱えたまま、呆れた顔で母親を見ていた。
下着のまま鏡の前に座って、コットンに青い化粧水を一杯に含ませた。頬の上に載せてひたひたとたたくとひやりとして気持ちが良い。たかぶっていた気持ちも少しずつ静まっていった。化粧品会社の美容部長という仕事柄、夜も朝も化粧の手を抜くことはできない。長年手入れをし続けてきた肌は、てのひらに吸い付くようにぬめりを帯びてしなやかだ。最近たるみの目立ち始めた頬から顎にかけて、とりわけ念入りに化粧水と美容液をはたきこみ、目のまわりのこじわにアイクリームを指先で丁寧に付けて、メークに取り掛かった。今日は頬の上のしみが濃く浮いている。木曜日だからつかれがたまっているのだ。四十八歳という年齢を主張して憚らないしみのうえには、ファンデーションを何度も薄くのばして押え込んでしまう。目尻のうわまぶたに自然の陰に見えるようにシャドウをぼかしこみ、まつげの生え際にごく細いアイラインをいれると、目許の弛みが消えて見える。毎日ストレッチ体操をしていても、鈍くゆっくりと体の線は崩れ始めている。がっちりしたブラジャーとコルセットで体の線を無理やりに作り上げて、その上に薄くやわらかいベージュのニットとつやのある織りのスーツを着せると、突然会社人間の顔になる。背筋を延ばして鏡を見る。鏡に時計がさかさまに映っている。八時の急行に乗るまでに八分間の時間が余っていた。
スーツのまま洗濯物をもってベランダにでると、冬の日がいっぱいにあたっていた。まだ開発されていない雑木林の枝に百舌がとまって、ききーっとないている。もう一羽、朝の光を遮って、黒い影が斜めに空を横切った。くちばしになにかをくわえているのが見て取れた。素早く洗濯物を干しながら、理恵は目でちらちらと百舌を追った。垣根に干からびた蛙が突き刺してあるのをみつけたことがある。今の百舌も餌を雑木林の枝に突き刺してまた忘れてしまうのだろうか。毎日毎日一生懸命餌を探して、つかまえて、それで満足して、そのまま食べもせず忘れてしまうのか。
きょうは和雄も出勤するようだ。理恵の方が先に家を出る。理恵が急いでいることは和雄もよく知っている。それだのに、カッターシャツがない、と大声を出している。急いでたんすの引き出しから一番上にあったシャツを出して渡す。
「違うぞ、これ。これは啓一のだ」
玄関で靴を履こうとした理恵は、またたんすに引き返した。シャツの襟元のタグをよく見た。和雄のシャツは七枚一万円の通信販売で買ったものだが、啓一のシャツは一枚きりだが、一万円以上するブランド物だ。和雄のシャツにもたまに頂き物の生地で仕立てたものもあるが、和雄はもったいながって普段には着ようとしない。啓一はもっぱらトレーナーやセーターで、スーツ用のシャツは一枚しかもっていないが、アルバイトで稼いだ金で何軒かの店を回って選んだものらしい。
理恵が手に取ったシャツは見たことのない上質のものだった。ローン地で、つやのある織り模様が入っている。啓一が買ったのなら、喜んで母親に自慢するだろう。慌ててサイズを確かめた。首まわりも、裄丈も間違いなく和雄の物だ。
「サイズはあなたのよ」
和雄が自分でこんな洒落た高価なシャツをを買ったのだろうか。不審に思ってじっと手に持ったシャツを眺めようとすると、和雄が慌ててそのシャツをひったくった。
「もういい、もういい。遅れるぞ。もういいから早く出ろよ」
理恵は反射的にハンドバッグをつかみ、靴を突っかけるようにして玄関を飛び出した。電車が一台遅れた。これ以上遅れると遅刻する。始業一五分前に会社につくため、いつもは八時発の急行電車に乗るが、今日は一台遅れたのでこの駅が始発の普通に乗った。座ることはできたが駅からは小走りにならないと遅刻しかねない。
座ることができて、ほっとした途端にあのシャツが目の前に浮かんだ。
(あれは……。きっとそうだ)どうしてこんなことに勘が働くのだろう。何度か和雄にかかってきた電話の声を思い出した。少し舌足らずの声。先生いらっしゃいますか、という声と夫の外泊をそのときは結び付けていなかった。和雄の外泊は明らかに女性関係だとは思っていた。いまに始まったことではない。若いころからすれば何人目だろう。職業柄、世間に知れたらどうするのという母親のような心配もある。若いうちはそのたびごとに大喧嘩をしてきたが、どんなにはっきりとした証拠を突き付けても、和雄はそんなことは知らん、お前が勝手に心配してるだけだろ、としらをきる。そのうちに外泊で喧嘩をするのも馬鹿らしくなった。しかし、手にとってまじまじとみたプレゼントとおぼしいローンのシャツを目に浮かべると、どうしても心穏やかではない。
出掛ける間際の出来事で、和雄にしてやられたとおもうと、なおさら腹が立つ。こんどこそはただではおかない。家からほうり出して、慰謝料はもちろん、毎月の給料も差し押さえしてやる。最近たまにはテレビなどにも出て、なにやらちゃらちゃらしゃべっている少しは世間に知られた顔をたたき潰してやるなどと考えていると、いや、違うって。誤解だよ。あれは出版社からの貰い物さ。なにを勘違いしてやきもちやいてるんだ。おまえもまだかわいいとこがあるんだな。頼むから機嫌直して。などと、わざとらしく機嫌を取る和雄の姿が目に浮かび、腹も立つが、なにかばかばかしく、おかしいような気もする。和雄の手の内はよく分かっているのだ。
本当は理恵もいまさら離婚するというのもわずらわしく面倒なのだ。夫に浮気されて離婚したなどというと、会社でも恰好が悪い。大学教授を夫にもった美容部長というのが理恵の肩書でもある。この肩書があるから、婦人雑誌のグラビアにでたり、新製品の発表会で会社の顔になっていられるのだ。だからいままでも、ずるずると和雄の浮気を許してきたのだと思い当たった。
なにごとにも不器用な和雄に付きまとわれて、いわばまわりの状況が押しやった結婚だった。それでも、和雄に女が出来ると、気にしているわけでもないのになぜかたちまちわかってしまう。そして、胸を煮え立たせるのだ。胸が煮え立つ、そのことにさらに腹が立ち、騒ぎ立てずには納まらなくなる。いつのまにか和雄に愛着が湧いたのか、この生活に愛着があるのだろうか。この日常に。窓の外に流れる景色をぼんやり眺めながら、理恵は取りとめもなく考える。結婚して二十年以上たつと、浮気も離婚するしないのという騒ぎまでが日常になってしまうのか。
理恵は若いころ、そのころはまだ課長だった菅谷本部長に、夫の浮気に悩まされている話をうっかり洩らしてしまったことがある。男たちほど頻繁ではなくとも、仕事のあと軽く飲みながらの打ち合わせは月に何度か欠かせない。酒が入っていて、つい口が滑ってしまったのだ。菅谷は、これからは女も仕事を取るか、家庭を取るか選択しなければならないんだなあ、と言った。途端に理恵は口を滑らせたことを後悔した。菅谷は女も、と言ったが、男にそんな選択を迫ることはない。理恵が離婚をすれば、家庭より仕事を選んだ女というレッテルを貼るだろう。離婚を口にしたときのまわりの反応が目に浮かんだ。夫。家族。親戚。会社。友人。その反応や大騒ぎ、それにどれだけのエネルギーを使わなければならないか。考えるだけでぞっとした。
仕事も家庭も自分の日常であり、その日常が自分を作っている。いまさらそんな自分を変えたくなかった。日常を変えたくなかった。和雄も、いつも自分の浮気を徹底して否定することを考えると、同じ思いに違いない。同僚や友人たちからも、仕事を持つ女を妻に持った夫というやっかみと同情があるのだろう。和雄もまわりにとやかく言われたくないのだ。菅谷の言葉を聞いたときに和雄の気持ちが理解できた。そのときから和雄は理恵の奇妙な戦友だった。
菅谷のことばで理恵は本気で離婚を考えることを止めた。胸の中で離婚を転がしてみることはある。和雄に離婚の言葉を投げ付けることもある。あんたなんかいつ出て行ってくれてもいいのよ。とか、さっさと荷物まとめて出て行ったら。などと理恵がいうと、和雄は、こわいなあ、そら、普通俺が言うセリフやで。と首をすくめて見せるだけだ。まったく本気にしていない。もちろん理恵も本気ではない。日常を守る戦友が砦に砂袋を積み上げながら口喧嘩をしている。
通勤電車の三十分は貴重な一人きりになれる時間でもある。しかし今朝はさすがに文庫本を取り出す気にもならない。気持ちを静めようと目をつぶると夢の中のバラックの部屋でほっとした気持ちが蘇ってきた。のんびりしたい。何もかも忘れて、安心してほっと休みたい。日のよく当たる雑木林の中で、一日中ぼんやりしていたら、どんなに気持ちがよいだろう。海辺でもよい。何にもない原っぱの真ん中でもよい。会社もなく、家事もなく、仕事のことも考えず、大事にしている日常なんか、丸めて捨てて、のんびり寝て、笑っていたい。それだのに、理恵は夢の中でも必死になって階段をよじ登っている。
「おはよう。何ぼんやりしてんねん」
我にかえって見上げると、目の前に菅谷本部長がつり革にぶらさがっていた。仕事に気持ちを切り替えるきっかけだ。
「おはようございます。そうそう、今朝、部長の夢、見ましたよ」
「僕をいじめてる夢やろ」
「いいえ、部長とデイトしてる夢、デイトしてる夢」
笑いながら素早く臨戦態勢をととのえる。ぼんやりしていてはいけない。
「どや、来期の計画、もう提出したか」
「一応はね。でも、難しいわ。来期の傾向がほんと読めないのですよね。他社でもびっくりするようなものがヒットしたりね」
「三万円の皺取りクリームか。こんな時代でも金持ってる奴は持ってるんやな」
「わたしの担当じゃないですけど、中級品はもうぜんぜん売れませんしね。スーパーマーケット専用の大衆品はどんどん安くなっていって、原価ぎりぎりだし。それにしても、美容部員の適正配置の件、本部長からも人事に念をおしてくださいよ。もう、美容部員自体が昔の三分の一もいない上にこの前のリストラではしっかりしたいい子ばかり希望退職してしまって、困ってるんですよ」
「人事にも内勤や営業とちょっと違う事情を考えてくれとは言ってある。美容部員は土曜日曜が出勤やろ。内勤の子とちがって時間も休みも不規則や。目標も厳しいし、突然やめるとも言わずに消える子も増えてきた。就職さきが少ないからって言って、我慢する時代でもないんやなあ」
「お店のほうからもね、売上の落ちこみをカバーするために美容部員を回せってやいやい言ってくるでしょう。人件費の要らない店員と勘違いしてるところはこちらも遠慮なく切ってますけど、その上、遅刻するの、行儀が悪いの、たばこを吸うのって苦情ばっかりでしょう。叱ったら、すぐにあの子らやめるっていいだすのだから」
「昔は美容部長いうたら部下に机の横にひざまずかせて自分の指にマニキュア塗らしとったもんやがな。いまはそうはいかんか」
「ええ。わたしが入社したころの坂下美容部長ねえ。お茶の入れ方ひとつでどなられて、こわいひとでしたね。同行で出張すればハンドバッグの私物検査までされて。いまどきそんなことしたら、それこそ大問題ですよ」
「昔はそれで通用しとったんやな。若いもんもそれできたえられて、根性がはいっとった。いまはな、マニュアル作ってな、なんでもマニュアルどおり覚えさして、手間暇かけて、やっとなんとか使いものになるようになったと思ったら、赤ちゃんができたから結婚します、だからな」
「そう言うのはこの頃珍しくもない。あの子なんか入社一年にもならないのに赤ちゃんができたからやめますっていうんですものね。わたしもびっくりして、あなた結婚していたのって聞いたら、これからしようかな、どうしようかなって考えてるんですって、にこにこしてるんですよ。まだ十九でしょ。こっちは負けますわね」
電車の中にはなにか目に見えない境界線でもあるのだろうか。いつの間にか家のことはもう何も思い出さず、会社人間になってしまっている。これも、もう三十年近くのあいだに作り上げられてしまった習性だ。ここから先は夫も息子も何の陰も落とさない。乗り継ぎ駅が近付いてきた。
「菅谷本部長、わたくしお先にいそぎますよ。遅刻したらしめしがつきませんもの」
「現場は厳しいね。御苦労さん」
地下鉄との連絡通路を足早に歩くには真っすぐ前を向かず、少し下を向いて歩く。床のタイルを三メートルほど目に入れて歩いて行くと、タイルが流れて行くような錯覚が起きる。タイルの流れの速さで速度を調節する。歩幅を大きくしてバッグをもっていない左腕でぐいぐい漕ぐようにリズムをとって歩く。走るのはみっともない。人にぶっつかってはいけない。おおきくリズミカルに、タイルの流れを追いながら歩く。
地下鉄の階段を降りると、ちょうど電車が止まっていた。手近の入り口に体を斜めにして片足をさし入れて乗り込んだ。超満員の地下鉄に乗るのはこの姿勢。乗りそんじることがない。いそいだ甲斐があった。一台前の電車だ。立ったまま目をつぶり、人込みに支えられて電車の揺れに身を任せる。疲れている。でも、仕事が始まればそれもまた忘れるのだろう。オフィス街の駅に止まるたびに、すこしずつ電車がすいてゆく。いつのまにか電車は地上に出て工場街の灰色の町のなかを走っていた。
理恵は今日の仕事の段取りを考え始めた。明日は今期最大のイベントである新製品の発表会だ。新製品のアンチエイジングクリームは、皺としみを防ぎ、皮膚の老化を予防するクリームだ。高年齢化と、子離れ後に社会活動が急増する女性のライフスタイルの変化で、ヒット商品になることが予想されている。価格も一万五千円と高めに設定されているが、ターゲットを高所得層の夫人とプロフェッショナルな職業を持つ女性に特化している。この層は十分に購買力をもっているはずだ。
その発表会で和雄の大学の医学部の教授が皮膚の老化の原因である光線と活性酸素の働きについて講演をすることになっている。そのあとで理恵が皮膚の老化を抑止するクリームの効用とターゲットやセールスポイントについて商売に直接結びつく話をし、そのクリームをつかって店頭でできるエステティックを提案し、デモンストレーションをするのだ。ここでどれだけ販売店を説得できるかが、これからの売上を左右することになる。原稿は一応出来上がっているが、もう一度見直して推敲しなければならない。スライドやデモの用意はできているか、チェックもしなければいけない。
仕事の段取りを考えながら、なにげなく前の駅からの乗客をながめている。その中の一人の顔立ちが無意識の中で理恵の記憶を刺激していた。頭の中の九割が仕事の段取りを考えているが、残りの一割がその顔の記憶を追いかけたり、押しとどめたりしている。
長いまつげだ。年齢のせいでまつげの色が薄くなっているが、色素の薄い茶色がかった目に陰を落としている。茶色がかった目の下の皮膚はたるんで黒ずんで見える。もみあげから顎にかけて濃い髭あとが、分厚く張りを失った皮膚に面倒臭そうに散らばっている。長いまつげをしばたいて、窓の外を見ている。工場街の風景が茶色の瞳の前を流れている。瞳は風景の流れに併せて左から右へ、左から右へと流れているに違いない。コートの襟に埋めた短い首は見えない。そこにもたるんだ皮膚と皺が隠れているのだろう。張りの失せた瞼の皮膚は小さな皺を形作り、老化による水分不足が皮膚を乾燥させてくすんだ色に変えている。
電車はスピードを緩めた。降りようとする人々は体の向きを変え始める。新聞を畳む。読みかけの本を綴じる。鞄を膝の上で抱え直す。長いまつげがこちらを向いた。訝しげな表情だ。目を見開いて知っているという顔になる。電車がゆっくりとプラットホームに入る。そのときになってやっとすべての意識が目の前の顔に集中した。山下道夫だ。意識の半分で彼と気付いて見つめていたのだ。心のどこかで驚いてじっと見詰めていたのだ。はっきりした意識で、こちらも少しほほ笑みを浮かべて軽く頭を下げる。電車は止まってドアが開く。人の塊が揉みだされる。山下道夫も揉みだされそうになりながら、抵抗している。理恵は座席からそれを見上げていた。
「元気そうだね。まだあの会社にいるのでしょう? 電話下さい」
道夫は電車の戸口から外へ溢れでる人の奔流にもまれながら器用に内ポケットから名刺を取り出して理恵の目の前に突き出した。理恵は反射的に名刺を受け取った。
「あなたの会社の電話番号は前といっしょかな?」
顔だけこちらを向いて声は聞こえたが、道夫の体はもう電車の外に押し出されている。理恵もなにか言おうとしたが、声が出なかった。道夫の体が人波に押され傾きながら理恵を覆い擦るようにして通り過ぎた瞬間、道夫の体臭が匂った。匂いが二十年の時間を一挙に縮めた。電車の扉がしまった。理恵は呆然として二十年前の時間の中にいた。
道夫は体臭が強かった。抱かれて家に帰った翌朝、床の中で体を動かすと道夫の匂いがした。布団の湿ったぬくもりで匂いは刺激性を帯びていた。そのまま匂いのなかにじっと動かず目をつぶっていた。
電車はターミナルに近付いて行く。あれから二十年は経っている。白髪になり、皮膚がたるみ、背を屈めるように歩くようになっても体臭は変わらないのだろうか。老いと衰えにあらがう男の執念の匂いか。
理恵の頭からは会社のことは飛び去っていた。機械的に改札口を通り、急ぎ足で会社に向けて歩いているが、二十年ぶりにあった道夫が理恵を占領していた。啓一が二十歳なのだから、結婚して二十二年目、そうだ二十二年ぶりなのだ。いくら今日の講演の内容を考えていたとはいえ、すぐに道夫だと、はっきり気がつかなかったのも無理はない。数えてみれば道夫はもうそろそろ六十になるはずだ。いや、もう定年を過ぎたかもしれない。
道夫と別れて和雄と結婚した理由は、単に和雄は独身で、道夫は妻帯者であったからだけとは言い切ってしまえない。あのころは道夫との付き合いをだれにも気付かれないように細心の注意を払っていた。だれにも気付かれはしなかった。菅谷をのぞけば。菅谷は納品のついでに理恵を派遣先に送り届けようと車に乗せ、だれにも聞かれる恐れのない車内で理恵に別れを迫った。
二十三年前の化粧品会社では社内恋愛さえ禁止されていた。普通は上司に見つかる前に、女のほうが会社を辞めるか、別の会社に移っていった。まして派遣先のデパートの課長であった道夫と付き合うのは、道夫にとっても理恵にとっても危険なことに違いなかった。それだけに道夫と会うときには、期待で前の日から気持ちがうわずっていた。道夫の匂いに包まれているときは、同じ薄暗い理恵のアパートの部屋が、まったく違う空間に変わっていた。それは職場とは全く関係の無い夢の中の空間だった。しかし半年たつと道夫との時間が濃密であればあるほど、疲れるようになっていた。人に知られない努力にも疲れる。会いたいと思うときに会えないのにもいらだつ。菅谷は理恵の疲れに気がついたのかもしれない。
デパートを担当する営業一課長の菅谷は社内のだれにも理恵のことを漏らさなかった。厳しいので有名な美容部長やチーフインストラクターに知られたらどんな目に会うかわからない。理恵は脅えて道夫と別れた。道夫との情事に疲れてもいたのだ。菅谷はうまくタイミングを見計らったのかもしれない。その後、高校の同級生だった和雄と再会した。高校時代秀才で知られていた和雄と付き合うのも誇らしい気分だったし、道夫と性格も生活も全く違う和雄が新鮮に感じられた。しかし和雄には道夫に対するようなときめきを感じたことはなかった。和雄が訪れる理恵のアパートの部屋は、なんの変わりもない薄暗い自分の部屋だった。多分、それに安心して和雄と結婚したのだと理恵は思う。
とにかく理恵は安心できる毎日の生活を手に入れることができた。子供ができるまでのつもりだった仕事だが、ようやく和雄が職をえた大学の助手の給料の安さのために子供を保育所に預けて働き続け、そのまま今日まで続いている。そのことを理恵はむしろ幸運だったと思う。夫が大学の助手であるということが、会社で初めて産休をとることを保守的な美容部長や人事担当者に認めさせた一因だった。もちろんデパートを担当する花形のセクションの中でも、理恵は月一千万円以上を売り上げるトップ美容部員だったことが産休を認める最大の理由であっただろうが。
とにかく仕事はおもしろく、チャンスにもめぐまれた。一時期の訪問販売化粧品ブームで先輩たちが引き抜かれてやめていき、おもいがけなく美容部長というポストもあたえられた。家事も要領よく手を抜くことを覚えれば、かえって仕事のストレス解消にさえなる。子育ても保育所と学童保育に預けていたため、子供と一緒にいる時間が少なく、そのために一日中幼児と家のなかにいる母親のようにいらだちもせず、休日には子供と密着して共に過す時間をお互いに楽しむことができた。和雄の浮気癖を差し引いても、まあほどほどの生活といえるだろう。
しかし、ほどほどの生活というのは、これもまた、妙に疲れがたまるのだ。朝、目が覚めたときから疲れが皮膚の裏にじっとりと溜まっているときさえある。疲れが積み重なってくると、こびりついて離れない日常を振り捨てたくなる。
道夫の名刺は裏返しにしてデスクの硝子板の下に挟んだ。仕事の合間にときどき白い名刺の裏に目をやる。昔、道夫と過ごした時間は、あれは確かに日常の普通の時間ではなかった。名刺の裏の白い空間に昔の濃密な時の匂いがある。
今、道夫に電話を掛けたとしても、もうあの濃密な空間は戻って来ない。電車の中で見かけた道夫の張りのない、分厚くたるんだ頬のあたりの皮膚を思い出し、二十年前の道夫のしなやかな皮膚と、そのころ発売したばかりだった男性用化粧品の香りを思いだした。
道夫の名刺のある机の上で、次々と書類が作られたり、読まれたりしている。報告にくる部下が道夫の名刺の上に手をつく。菅谷本部長も新製品発表会準備の進行状況を覗きにきて、道夫の名刺の上をいつもの癖で、指先でとんとんとたたいていた。指の下に道夫の名刺があるとは菅谷も思っていないだろう。道夫の名刺の白い長方形の面積だけが、渦巻いて流れる日常とは無関係に白い。
菅谷本部長からちょっと来てほしいと社内電話がかかって来たとき、理恵は無意識に白い名刺の裏に目を落としていた。
「何のご用件でしょう。なにしろ明日の準備で忙しいので、申し訳ございませんが短時間でしたら」
「うん」
菅谷は少し口ごもって、
「会議室へ来てくれ。二〇一は空いていたかな」
と、人に聞かれたくない話をするときに使う小会議室を指定して電話を切った。
「二〇一にお茶二つお願いね」
いつもお茶汲み係をする若い事務員に声をかけて、理恵も二〇一へ急いだ。
「寒いな、この部屋は」
お茶が運ばれて来るまでのあいだ、菅谷は部屋の隅でエアコンの調節をしたり、部屋のあちこちの温度の具合を調べたりして落ち着かない。お茶を運んできた事務員が部屋を出ると、閉められたドアに目をやって話を始めた。
「実はな、あの、梅田のデパートのセクションに入っている八代、な。あの子のことやねん」
「八代ですか。この前の人事異動でチーフにしたばかりですけど、よく売っていますよ。先月は全社で売上トップを取りましたが、なにかありましたか」
「いや、今朝、第二営業部の内山課長の奥さんがこられて、内山とな、八代がな、なんや」
「なんやって、なんですか」
「もう一月近く、内山、家に帰ったり、帰らなんだりらしい。朝っぱらからえらい泣かれてな。わしからなんとかいうてくれ、なんとかしてくれ、いうのや。あんた、噂かなにか知ってたか」
「いいえ、そんな、ちっとも。わたし早耳のほうなのですが」
「わしも知らなかった。噂も聞かなかったな」
「第二営業部がデパート担当ですから。でも、昔と違って今はプライベートなことには関与しないことになっていましょう」
「それも場合によりけりや。奥さん帰るときは目を腫らしてて、みんなけったいな顔して見ていたからな」
「それはちょっと困りましたね」
「美容部員の教育は一切あんたの責任や。このままでは具合悪いがな」
「セクションを変えましょうか。でもあの子ひとりで一千万、二人か三人分の売上をもっているんですよ。店頭エステのご指名のお客さまも多いようだし。一般店では月一千万は絶対無理です。いまどき月一千万売る子なんか、他社にもいませんよ。あの子の力が生かしきれないでしょう」
「それでもこんなことになったらほっとくわけにはいかん。やっぱり具合悪い」
「それで内山さんの方は」
「内山は男や。重要な仕事についている。デパートの売上をここまで延ばしてきたのはあいつの功績や。それこそ、いまどき女のことぐらいで仕事を変えるわけにいかん」
「八代こそ貴重な大戦力ですよ。全社の売上金額の六割が高級品、うち八割があの店で、あの店は八代で持っているんです。他社にひきぬかれたらうちのマイナスと他社のプラスでたいへんなことになります。だいたい、いまどき、男だ女だなんていうご時世ですか。内山さん、奥さんが会社にそんなことを言いにくるなんて、自分の家庭のことはきちんとしてもらわないと、それも管理職の条件とちがいますか」
「それは勿論そうや。わしから話はする。あんたも八代によく話して、どうしたらいいか、まだ人事部と相談するのは早いだろうが、それも含めて考えておいてくれよ」
「え、人事部と相談ですか。それはちょっとできませんね。別に今日、明日でなくてもよろしいでしょう。タイミングを見て話はいたしますが」
「そやけど、もし、今日、明日にでも奥さんがデパートへ乗り込んで行って騒動してみい。今日の感じではそういう可能性もあるのや。それこそ化粧品業界の笑いものや。内山や八代だけやない。うちの会社の名前に傷が付く。あんたも経験があるから、話しやすいやろ。あんたはかしこかったからな」
「え、それ、なんの話ですか」
「ま、ええがな。頼むで」
理恵がおもわずひるんだすきに、菅谷は席を立って出ていった。自席に帰った理恵はどうしたものか考えながら、また、道夫の白い名刺の裏に目を落としていた。
八代則子に何を言えはよいのか。先代の美容部長のように仕事も私生活もごちゃまぜにして頭ごなしに命令し、絶対服従を求めても、いまどきの若い美容部員に通用するはずがない。ましてプライベートな話だ。悩みがあれば相談に乗るというのが無難な形には違いないが、プライベートな話は上司に相談などしたくない、といいそうな気がする。だいたい、いまどきの若い人がプライベートな話を上司に相談したりするものか。まして八代則子は自分のことは自分で決めるというタイプだ。内山との関係が今日までだれにも知られていないのは、よほど口が堅いのだ。だらしがないのは内山の方ではないか。
腹立たしいが、本部長に言われて何もせずに放っておくわけにもいかない。かまをかけて聞き出すのもうまくいきそうにない。いっそ内山夫人が本部長をたずねて来たことを率直に告げて、仕事に対する影響から話を進めるほうがよさそうだ。あとは八代の出方をみながら対応するよりは外はあるまい。
理恵は美容部員の入店スケジュール表をみながら八代則子に電話を入れた。
二〇一号室に八代が現れると理恵は自分で熱い珈琲を入れた。
「それで、部長はどうお考えなのですか」
八代は話を聞き終わると、固くしていた体をぐっと伸びあがらせるようにして言った。
「私の考えよりもあなた自身の考えを聞きたいわね」
「それは私のプライバシーの問題ですからお話しできません」
やはり思ったとおりだ。と理恵は舌打ちをしたくなった。本部長が言うほど、簡単に片付くものではない。先代の美容部長は突然ハンドバッグを開けさせて検査し、整理の悪さを叱ったり、噂の一つ一つに耳をすませてあげつらうなど、直接自分とは拘わりがない場合も、理恵はさんざんいやな思いをしてきている。だから、いままで美容部員のプライベートなことにはできるだけ口出ししないようにしているのだ。八代にこういう話をするのは、理恵のいままでの方針にも反する。しかし始めてしまった以上、この話に決着を付けないわけにはいかない。
「わたしは人生の先輩として話をしているのよ。妻子のある人と恋愛して、あなた、幸せになると思うの」
「幸せかどうかなど、わたしが自分で感じることで、部長に心配していただかなくても大丈夫です。結婚なんて幸せと関係ないでしょう。幸せだったらそれでいいっていうものでもないでしょう。部長も結婚していらっしゃいますが、幸せなんですか」
理恵の頭の中を今朝見た夢が横切った。子供をつれてよじ登る階段。開いてもなかなか出られないエレベーター。洒落たデザインの和雄の新しいシャツ。獲物を突き刺して忘れてしまい、新しい獲物を追って飛び回る百舌。しかしためらってはいられない。幸せ論議は今、不利になりそうだ。
「会社だってこういう話を持ち込まれた以上、自分で勝手にしなさいって放っておくわけにいかないでしょう。仕事にも影響してきますからね」
「どうしてですか。内山さんのことは会社や仕事と関係ありません。わたし、だれにも売上で負けていないつもりですよ。どこで仕事に影響するのですか」
「内山課長の奥さんは本部長をたずねて来られたのですよ。本部長も苦慮されています。もし奥さんがデパートにでも来られて大騒ぎになったらどうするの。お店様にもお客様にもご迷惑がかかります。こんな噂が拡がればチームワークにも影響するでしょう。あなたが一番傷付くことになるのですよ」
「いまどき奥さんのいる人との恋愛なんて普通のことやないですか。騒ぎ立てる方がおかしいわ。会社にプライベートな話を持ち込む奥さんが非常識ですよ。本部長も奥さんをなんで叱りはらへんのかわかりませんわ」
仕事中は大阪弁を使ってはならないという美容部員のタブーがいつのまにか忘れられている。八代則子は新入社員のころお店様、ご店主様、お美顔などという美容部員用語に反発していた。たしかに変な言葉かもしれないが、他社が使っているのに、うちの会社だけが変えると、それこそ「お店様」に言葉使いがぞんざいだといわれかねない。そう説明しても、八代はお店様というたびにけらけら笑い続けて、新入社員教育に当たっていたチーフを困らせていた。理恵は八代の方が正しいとひそかに思っていたが、そうもいえず、なおさら困ってしまったものだ。八代は興奮してますますいい募る。
「だいたい内山みたいな、あんなおじん、うっとうしいんや。わたしにちゃらちゃらくっつきまわしてからに、ちょっとかわいそうになったから付き合うたったただけやのに、なんでこんなに迷惑を受けんならんの。わからへんわ」
「八代さん、あなたねえ」
「内山課長には、はっきりと、もうつきまとわんといてくれって言うたりますわ。部長、心配せんといて下さい。こんな迷惑受けてまで、なんであんなしょうもない男とつきあわないかんねん。言うときますけれどね、会社からいわれたからやないですよ。わたしが内山に腹立てているからですよ。もう二度とプライベートなことには口だしせんといてください。今日はセクションからもこっちに手伝いにきてる子がいてて、手ぇ足らんねやから、わたし、もう店に帰ります」
八代則子はドアを勢いよく音をたてて閉めて出て行った。ヒールの足音をたてて駆け出している。理恵はあたまがくらくらしてきた。体中の器官が全部上へ下へと揺れ動いているような気がする。なんということだ。迷惑を受けているのは一体だれなのだ。それにしても、いったいなんという日だろう。火事になりかけた鯖に始まって、あのシャツ、せっかく取って来た餌を突き刺して忘れてしまう百舌。電車の中で二十二年ぶりに出会った山下道夫。道夫の匂い。菅谷本部長のそれとなく脅迫めいた物言い。あげくのはてに八代則子にまで翻弄される。しかし興奮したまま自席に帰っても、まわりに気がつかれると物笑いになりかねない。理恵は冷たくなった珈琲を飲み干して、深呼吸をして会議室を出た。
菅谷本部長にすぐに報告する気にもなれない。八代はもう店に帰っていっただろう。明日の新製品の発表会の準備は整っているのだろうか。さきにこのチェックをしよう。販売促進の担当者に進行状況を聞いてみた。理恵の講義に使うスライドと美容実習の備品の準備がまだだという。理恵は大声を出した。
「どうしてスライドの準備ができていないのですか。もう四時過ぎていますよ。実習備品の用意もまだとは、どういうことですか。みんな、なにをぐずぐずしているの」
「あのう、もう全部揃っているのですが、部長に最終確認をお願いしようとおもいまして」
「わたしがほかに手を取られているときは、あなたがた、一人一人が責任をもってチェックして仕事を進めないと、他部署に迷惑をかけるでしょう。営業企画はいらいらして待っているのですよ。早くしなさい。今すぐ!」
部屋の中に分厚い沈黙が落ちて来た。書類を揃える音とあきらかな敵意が理恵を包んでいる。しかし理恵は手早く準備された書類や物品をチェックし、次々に指示を出して部屋の中に音をたて、凍り付きそうになる部屋の中を掻き混ぜた。部屋の中は再び動きだし、電話を掛けたり、用意された物品を台車で運んだり、大声で話を交わしたりして騒々しくなった。
騒々しさの中で理恵は落ち着きを取り戻した。物事が滑らかに動き、収斂していくときがいちばん心地よい。仕事の時間があるべき形で動いている。何も考えずに流れに身を任せていることができる。椅子に座ってほっとしてデスクの上に目を落とすと、白い名刺の裏と並んでメモがあった。
《山下様からお電話がありました》
短い文面に見入っているときにデスクの上の電話がなった。取り上げると、いきなり菅谷の声が突き刺して来た。
「すぐ二〇一へきてくれ」
しまった。報告が遅れてしまった。と理恵は二〇一へ走った。
「岸田くん。八代にいったいなんというたんや。いま営業部でえらい騒ぎやったんや」
「え、八代がなにをしましたか」
「八代がいきなり内山のところへいってな。見下げ果てたの、男の腐ったの、いうて、大声で言いたい放題や。いうだけいうて、お仕事中失礼しました。帰店します。いうて大きな声で挨拶して、でていってしまいよった。内山は真っ青やったで」
「まあ」
「二度とわたしにちゃらちゃらせんといてくれ、とか、いうとったけど、もうむちゃくちゃや。二人とも傷がつかんように、穏便に事を図ろうということで、岸田部長、あんたに依頼したんやで。それが、内山は大恥かいて、これではなんにもならんがな」
「すみません。八代には穏やかに指導しようとしたのですが、正直、わたくしの手には負えませんでした」
「あんたも八代に話しした結果を、すぐに報告してくれれば、わしも手の打ちようもあったかもしれん。なんですぐに報告してくれんのや」
「申し訳ございません。まさかそんなことをするとはおもいませんでしたので、急ぎの仕事を優先させてしまいました」
「あしたの発表会では内山は司会をするんや。あんなに動揺していて、うまいこといくやろうか。いまさら変更するわけにもいかんし」
「八代も実習のインストラクターを担当しています。八代は仕事には関係ないって言い切っていましたが」
「そら、あいつは意地が強いから問題ないやろ。問題なのは内山のほうや。ほんまにもうどないもしゃあない。そやけど、まあ、起こってしまったことは仕方がない。内山も身から出た錆や。とにかく、明日は問題が起きないように、しっかり見といてくれ」
明日の新製品発表会の準備で営業部も美容部もほとんど全員が残業していた。七時過ぎからは講習会場となるトレーニングフロアの大ホールに移って最後のセッティングと点検が行われている。理恵は自席で明日の講演の原稿に最後の手を入れている。ともすれば持ち上がる先程からの不快な感情を圧しつけて、とにかく原稿に没頭していると電話がなった。
山下道夫の電話の声は理恵の耳に暖かかった。今日のような日に、二十二年の歳月をへて、はるか遠くの別の世界からかかってきた電話の声だ。
「相変わらず遅くまで仕事をしてるんやなあ。久しぶりに昔話でもどないです。もう七時やから、そろそろ仕事、終わりますやろ」
今朝の電車の中で、夢の中のバラックでほっとした感覚が蘇ってきた。名刺の白い裏からの誘いだ。そこには穏やかな時間が流れているのかもしれない。穏やかな時間の中に浸ることができるのならば、そうしたい。原稿を机の中にしまいこんで、出て行きたい。
「ごめんなさい。明日、新製品の発表会なんです。まだ全員残業で、多分十時過ぎるのじゃないかしら。終わってからも後始末とフォローで、あと一週間くらいは残業続きになりそうですよ」
「ちっとも変わっていませんなあ。ぼくはもう定年すぎて、気楽な勤め方をしているから、すっかり忙しさの感覚を忘れてしまった」
「羨ましいわ」
「毎朝あの地下鉄にのってますか。ぼくも五年前に会社をかわってから毎朝あの時間にあの線に乗っているのやけど、不思議にいままで会いませんでしたなあ」
「わたしもよくあの時間に乗ります。五年間もどうして会わなかったのかしら」
「ぼくはたいてい一番前の扉から乗るからな。今朝は朝飯を食べずに出て来たので売店で牛乳を飲んだ。それで、あわてて後ろの車両にのって、五年目にしてはじめてあなたと出会ったのだろう。しかし、すぐにあなただとわかりましたよ。少しも変わっていない。昔よりも色っぽくなった。さすがにシャレード化粧品の大美容部長やね」
「なにをおっしゃいます。職業柄、老けることを許されないんですよ。心のほうはそれなりに年を取って、疲れ切っていますのに」
「ぼくはすっかり老けてしもうた。朝はやく目が覚めて洗面所の鏡を覗きこむと、ああ、老人になるというのはこういうことか、と思うことがあるね」
「山下さんがそんなことをいわれるなんて、寂しくなりますわ。自分から老け込んだなんて思うとほんとに年寄りになりますよ」
「ほんまや。一段落されたら一度夕食をご一緒にしてください。楽しみにしていますよ」
「ええ、よろこんで。同窓会ですね」
「同窓会か。よろしいな」
電話の間、理恵は机の上の名刺の白い裏をみつめていた。白い紙のうえに時間が止まってたゆたっていた。受話器をおいて、しばらく白い紙の上を見つめていたが、肩のこりをほぐすように首を左右に振って、仕事に戻った。
ホールの準備が完了したので、最終チェックをお願いします。と内線電話がかかってきた。ホールでチェックをすませ、部員たちが帰宅した後も理恵はしばらく居残って原稿を完成させた。
帰りの電車はすいていた。座って目を閉じていると、目の中の暗闇をベランダで見た百舌が飛んで行く。くちばしにだけ日が当たって光り、くわえた獲物は黒い影だ。何日か後に道夫に会えばなにか変るのだろうか。いまさら、昔の関係が復活することなど、あろうはずもない。日常の生活の中に白い名刺の裏ほどの隙間が開くくらいか。日常の生活の中にではなく、夢の中に。夫の浮気に気がついても変らなかった生活だ。八代則子のように、大声をあげれば変わっていくのだろうか。あのシャツをを突き付けて大声をあげ、道夫にもう一度情熱をかきたててみれば、隙間が大きく裂け、二十三年かかって作り上げた日常が壊れるかもしれない。しかし、壊れた後には、またすぐに新しい日常が芽を吹き、大きな茂みをつくる。何度くりかえしても、同じに違いない。
家に帰りつくと十一時を過ぎていた。和雄も啓一も帰っている。
「遅かったな」
「明日、新製品の発表会で、その準備だったの」
「それは御苦労さん。ぼくもいま帰って来たとこで、鮨を買ってきたのや。ビールでも飲むか」
啓一も加わってビールをあけて、鮨とヘルパーのおばさんが作っていった総菜を食べる。鮨もビールもおいしいと思うと眠くなってきた。あのシャツの話を蒸し返そうかと思ったが、眠気のほうが先だった。今朝のことがはるかに遠い昔のようにおもわれる。
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