看護婦に呼ばれて、赤石勝子は右足を引きずりながらゆっくりと診察室に入っていった。右足に力を入れると、腫れた膝が痛む。
医者はレントゲン写真を透写装置に挟んでおり、勝子は膝をかばいながら丸椅子に腰を降ろした。
「ほら、ここ」と医者は白く写っている骨の一部を指差した。勝子は身を乗り出して医者の指先を見詰めた。
「ひびが入ってるでしょ」
そう言われれば、白い骨にわずかに黒っぽいひびが入っているように見える。
朝、いつものようにテニス仲間と公園のコートでテニスをしたのだが、その時ネット際に落ちたボールを何とか拾おうとして転び、膝を強打した。すぐには何でもなくそのままプレーを続けたが、家に帰ってから膝が腫れ出した。同時に痛みも来て、急いでここに駆け込んだのだ。
「ここから内出血を起こして腫れてるんですわ。痛いのはそのため。取り敢えず血を抜いたら、少しは痛みが治まりますが、後は安静にしてるのが一番」
「どのくらいで治りますか」
「まあ、一週間から十日ぐらいかな」
「そんなに!」
「それから、もうテニスみたいな膝に負担の掛かるスポーツは止めはったほうがよろしいな」
「ええ! 何で」
十日もテニスができないのはつらかったが、テニスを止めろというのは、納得できなかった。今まで肘や肩、腰を痛めたことはあったが、膝を痛めたのは今回が初めてで、それも単なるアクシデントだという認識しかなかった。がっちりとした下半身だけが取り柄だと思っていた勝子にとって、膝の問題を指摘されたのは意外だった。
医者は再びレントゲン写真を指差しながら、「骨と骨の間が大分狭くなってるのが分かりますか」と言う。正常な状態を見たことないのに、そんなん、分かるわけがないやんかと腹を立てながらも、勝子は「そう言われれば……」と曖昧な答えをする。
「狭くなってるのはクッションの役目をしている軟骨がすり減っている証拠。特に外側の減りが大きいようですな」
「ほっといたら、どうなりますのん」
「軟骨がもっとすり減ってきたら、痛みが出て歩けんようになりますよ。それでもよろしいか」
脅すような言い方に勝子はまた腹を立てたが、本当に歩けなくなるのは困る。
「テニス続けたら、ほんまに歩けんようになりますか」
「何か運動したいんやったら、ウォーキングとか水泳とか膝になるべく負担の掛からんもんにしなさい。それがいややったら、ゴルフとかゲートボールとか」
「ゲートボール?」
嫌な気持ちが表情に出たのを見て取ったのか、医者は笑いながら、
「それならゴルフにしなさい、ゴルフに」
「ゴルフはお金が……」
勝子は呟くように言う。夫の良平はゴルフに凝っているが、もしこの話を聞かせたら、それ見たことかと鬼の首でも取ったように言うだろう。
診察台に横になって、膝に溜まった血を抜いてもらったが、太い注射針の痛みよりもテニスが出来なくなる痛みの方がはるかに大きかった。
いくらか痛みの治まった膝をかばいながら家に帰ると、勝子はまずパートで働いている弁当屋に電話をした。店長に事情を説明し、一週間休ませてほしいと頼んだ。火木土の週三日なので、実質は三日休むだけなのだが、理由がテニスの怪我というのが後ろめたかった。パートに応募した時、週五日というのを三日にしてもらい、さらにテニスのために飛び飛びにしてもらったのだ。
勝子が申し訳なさそうな声を出すと、店長は、ローテーションを組むのが大変だと言いながらも、お大事にと休みを了承してくれた。
電話が済むと、勝子はほっとしてベッドに倒れ込んだ。治るまで家事は一切しないと決め込む。
七時過ぎに娘の真悠が会社から帰ってきた。「あれえ、晩ご飯は?」という声が聞こえてくる。起き出さずに目を閉じたままでいると、寝室のドアが開いた。
「お母さん、どうしたん」真悠の驚いた声がする。勝子はなおも眠ったふりをし、近づいてきた真悠に肩を揺すられて、目を開けた。
「あ、おかえり」
「どうしたん、風邪?」
真悠が勝子の額に手を当てた。ひやりとする。
勝子は上半身を起こし、毛布をめくった。
「転んで膝を打って、腫れてるんや」
ジャージーの裾をめくり上げて膝小僧を出した。また腫れが戻ってきているようだ。
「医者に行ったの?」
「野口先生に診てもうたら、骨にひびが入って内出血してるんやて」
「ひび?」真悠の声が大きくなる。
「ほんのちょっとだけ」
「痛むの?」
「血、抜いてもろたから、だいぶ楽になったわ」
真悠はふーんと言いながら勝子の右膝を触っていたが、急に意味ありげに笑うと、「お母さん、テニスで転んだんでしょ」と言う。勝子は一瞬嘘をつこうと思ったが、考え直し、「お父さんには絶対内緒やで」と口に人差し指を当てた。
「そんなん無理。本当にテニスとちゃうかっても絶対テニスのせいやって思われるわ」
「思うのは向こうの勝手。こっちはしらを切り通すだけや」
「せいぜい頑張って下さい」真悠は澄ました口調で言ってから、「それはそうと、晩ご飯、どうすんの」
「出前があります」
「出前?」
「いややったら、あんた、何か作る?」
「無理無理。会社でこき使われてもうぐったり」
真悠はわざと肩を落として疲れた様子を見せると、「わたし、ピザ頼もうっと」と言って寝室から出て行った。ピザかと勝子は心の裡で舌打ちをする。
再び真悠が顔を覗かせると、「お母さんもピザにする?」と訊いてきた。別の物を頼むのも面倒くさいので、「何があんの」と言ってしまう。トッピングにアンチョビー、イタリアントマト、ベーコンなどと真悠が言うのを遮って、「何でもええから適当に頼んどいて」と勝子は言った。
しばらくして、出前が来た。真悠が顔を見せ、こっちに持ってこようかと言ったが、勝子はそっちで食べると答えて、ゆっくりと起き上がった。右足に力を入れて痛み具合を確かめる。少し痛みがぶり返したようだが、脚を引きずって歩けないことはない。勝子は右足になるべく力を入れないように壁を伝ってキッチンに行った。
ピザの香ばしい匂いがする。テーブルの上で、真悠が箱を開けて切り分けている。見ると、三十センチもある大判だった。
「そんな大きいの、誰が食べんの」
椅子に腰を降ろしながら、勝子は文句を言った。
「残ったらお父さんが食べるでしょ」
「食べるわけないやろ、そんな脂っこいもの」
「そう、それなら私が食べる」
そんなことするから太るんやと思わず言いかけて勝子はあわてて口を噤んだ。真悠の前で太るというのは禁句なのである。勝子から見たらそんなに太っているわけではなく、いわゆるぽっちゃりとした体形なのだが、いつもあと五キロ痩せなくちゃ、ダイエットしなくちゃと言っている。しかしやっていることはそれと正反対なので、勝子は笑ってしまうのである。
たまに食べるとピザもおいしいと思いながら扇形の端を摘んで口に運んでいると、真悠がビールを飲もうと言い出した。勝子はちょっとためらった。膝に悪いのではないかと思ったからだ。しかし、医者は今晩一晩風呂には入らないようにとは言ったが、アルコールを飲んではいけないとは言わなかったはずだ。ただ、自信がないので勝子はコップ一杯だけ飲むことにした。真悠は二本の缶ビールのほとんどを飲み、ピザも半分以上食べてしまった。良平には一切れ残しただけである。
後片づけも真悠がやってくれたが、それがすむと勝子の前に両手を出して、立て替えたピザの代金をちょうだいと言う。
「何言うてんの。ほとんどあんたが食べたんやないの」
「出前取れ言うたんは、お母さんやもん。わたしが頼んだわけとちゃうよ」
そう言われれば確かにそうである。月々三万円の食費を入れさせているので、食事代を別に取るわけにはいかない。
勝子はしぶしぶ真悠にお金を渡すと、風呂に入りたかったら勝手に沸かして入るように言いつけて、寝室に戻った。ジャージーのまま寝てしまうと良平にまた、おばはん臭いことをしてと嫌味を言われるので、パジャマに着替えて、ベッドに潜り込んだ。
うとうとしていると良平の声が聞こえてきた。九時過ぎだった。「晩飯はどうした」と怒鳴っている。あの声の調子では酒を飲んで帰って来てるに違いないから、どうせ晩ご飯はいらんかったと勝子はほっとしながら、目を閉じていた。
しばらくして寝室のドアが開いた。
「もう寝たんか」と良平の声がした。続いて「お父さん、お茶漬けでも食べる?」という真悠の声。「ピザよりもよっぽどええわ」と良平がうれしそうに答えている。
ここぞとばかり良平によいしょしている娘の姿が浮かんできて、勝子は苦笑した。
二時間ほどして良平が寝室に入ってきた。勝子はあわてて目を閉じた。
隣のベッドにどんと腰を降ろす音がする。
「眠ってんのんか」
勝子は眠ったふりをしていた。
「どうせテニスで転んだんやろ」
真悠の言ったことが図星だったので、勝子は思わず笑いそうになった。
「体、痛めてまでやることか」
あんたには分かれへん。勝子は寝返りを打って、良平に背を向けた。
翌朝、勝子はいつもの時間に目を覚ました。隣では良平が鼾をかいている。
「お父さん、起きて下さい」
声を掛けても起きる様子はない。
勝子は上半身を起こすと、毛布をめくって膝の様子を見てみた。まだ少し腫れているようだ。脚を床に下ろし、力を入れてみる。まだ痛みがある。勝子はベッドの間にそろりと立ち、良平の肩を揺すった。良平はうーんと唸って目を開け、サイドテーブルの目覚まし時計を見た。
「何や、まだ六時やないか」
「きょうは、自分で朝ご飯の用意をして行って下さい」
「どういうこっちゃ」
「私は当分安静にしてますから」
そう言って、勝子は再びベッドに潜り込んだ。
「まだ痛いんか」
「野口先生が安静第一って言いはりましたから」
「しょうないなあ」
寝間着姿で出ていく良平の背中に向かって、「真悠も起こして、あの子にも自分でやるように言うて下さい」と勝子は声を掛けた。
「言われんでも分かっとる」
勝子は思わず舌を出した。
良平が出ていって、しばらくすると「何でわたしがせなあかんの」という真悠の不機嫌な声が聞こえてきた。「朝はわたしも忙しいんやから、お父さん、自分でやって」と怒鳴っている。それに対して良平が何か言っているようだが、よくわからない。
そうそう、二人とも、私がいてへんかったら大変やと気づかなあかん、そう思いながら勝子は朝寝の心地よさを感じていた。
二人がばたばたと出て行ってから、勝子は起き上がった。ガウンを着て、ゆっくりとキッチンに向かう。
流しのシンクにはマグカップや白いトレーが放り出されてあった。
家事は当分一切しないと決めたからには一切しないと勝子はそれに目をつむり、食パンと牛乳とバナナだけの朝食を摂った。それがすむと、寝室には戻らずに電話の子機を持って居間のソファーに横になった。電話をする相手は、勝子のダブルスパートナーの高島千秋である。
買い物に出掛けているかもしれないと思ったが、呼び出し音三回で千秋が出た。
「もしもし赤石です」
「赤石さん? あら、きょうはパートとちゃうかったん?」
「実は……」勝子は事情を説明し、少なくとも三回はテニスを休むことを告げた。千秋もひびが入っていると聞いて驚いた様子だった。
「あの後もしっかり動いてたから、まさかそんなことになってるとは全然思えへんかったわ」
「私も大したことないと思ってたんやけど、家に帰ってから腫れてきて……」
「それでギブスとかしてんの?」
「なあんも。安静にしてるしかないんやて」
「それやったら、ビワの葉エキスでも塗ってみる?」
「何それ」
「ずっと前に足首を捻挫した時に、効くいうてもろたんよ。確かに効いたわよ」
「効くんやったら、何でも塗るわ」
千秋は今から持っていくと言って、電話を切った。勝子はそろそろと玄関に歩いていき、錠を外すと、再び居間に戻ってソファーに横たわった。
三十分ほど経つてチャイムが鳴り、千秋が来た。勝子はインターホンで「鍵が開いてるから勝手に入ってきて」と告げた。
「お邪魔します」と言って、千秋が紙袋を下げて入ってくる。勝子を見るなり、「まあ、すっかり病人しちゃって」と笑った。
「しょうないやんか。病人やもん」勝子は自分のパジャマ姿を見て、ちょっとバツの悪い思いをした。
「まあ、そりゃそうやわな」
千秋はあっさりと同意してから、「どれどれ」と勝子の足許に腰を降ろした。勝子は右足のパジャマの裾をめくり上げた。
「これって腫れてんの?」と千秋が言ったので、勝子は左足のパジャマもめくり上げた。
千秋は二つの膝を見比べてから、「腫れてる、腫れてる」と嬉しそうな声を出し、紙袋の中から1リットルのペットボトルを取り出した。茶色い液体が入っている。
千秋はガーゼと脱脂綿と包帯も用意してきて、ペットボトルの蓋を開けると、手に持った脱脂綿に慎重に茶色い液体を湿らせた。ぷーんとアルコールの臭いがする。
「ビワの葉って、食べるビワのこと?」
「そうや。昔から民間療法としてあったんやて」
千秋は茶色くなった脱脂綿を勝子の膝に当てると、ガーゼをして包帯で巻いた。ひやっとして熱が取れていくようである。綿がからからに乾いたら、エキスを足して、一日四、五回やればいいと千秋は教えてくれた。
「お茶も出さんと悪いわねえ」と勝子が言うと、「私が淹れたろか」と千秋が答える。
「それならコーヒーにして」
「わかった」
千秋は勝手知ったる他人の家と歌うように言いながら、キッチンに立っていった。ヤカンに水を入れて火にかけ、棚からレギュラーコーヒーの瓶とフィルターカップを取り出している。
千秋が訊いてきたのはコーヒーミルクの場所だけで、それを教えるとすぐにコーヒーが運ばれてきた。ローテーブルにソーサー付きのカップを置くと、千秋は向かいのソファーに腰を降ろした。二人とも砂糖は入れない。
コーヒーを一口飲んでから、「膝の怪我、今でよかったやんか」と千秋が言う。
「ほんまやわ」と勝子。
三ヶ月後の六月末に開かれる女子ダブルスシニアテニス大会のことをふまえているのだ。ダブルスペアの年齢の合計が百歳を超えているというのが参加条件になっている。二人は七年前から参加しているが、去年初めて準決勝に進出したのだ。しかしそこで初参加のペアに完敗した。相手は百歳ぎりぎりで、特に一人が四十代半ばで、かつてインターハイで活躍したことがあると聞いて、勝子も千秋も納得はしたが、逆にそれが二人の負けじ魂に火を付けた。自分たちの力をぶつける恰好の相手を見つけた感じだった。それから九ヶ月、打倒AKペアというのが二人の合言葉になった。
千秋はテニス仲間の噂話や二人が以前通っていたテニススクールのコーチの話、果てはワイドショーをにぎわしている芸能人の噂話までして、昼ご飯に冷蔵庫にあった生麺で二人分のラーメンまで作って、それを勝子と一緒に食べてから帰っていった。
勝子はテレビを見ながら、時々膝の脱脂綿にビワの葉エキスを足したりして午後を過ごした。
七時のニュースを見ていると、真悠が帰ってき、居間に入ってくるなり、「何、この臭い」と鼻をひくひくさせた。勝子は事情を説明し、ペットボトルに入ったエキスを見せた。
「そんなもの、効くの?」
「効くから塗ってんの」
「何だか怪しい」
「つべこべ言うてないで、洗濯しなさい」
「何でえ」
「あんた、膝を怪我してる母親にやらせる気? それとも朝やる?」
真悠は「はーい」と嫌そうに返事をしてから、自分の部屋に入っていった。
少し経ってジャージー姿に着替えた真悠が出てき、風呂場の横に入った。洗濯機の回る音が聞こえてくる。
「洗濯がすんでから、出前を取って」と勝子は大声を出したが、真悠は返事をしなかった。
出前の寿司を真悠と二人で食べていると、良平が帰ってきた。
「何や、きょうも出前か」
「こういう時は、出前って便利やわ」と勝子は鉄火巻きを摘んだ。
「毎日毎日、出前ばっかり取ってたら、赤字になるぞ」
「だったら、お父さん、作って」
「アホか」
良平は洋服箪笥の部屋に行って着替えてくると、勝子の向かいに腰を降ろした。
「膝はどうやねん」
勝子は千秋の持ってきてくれたエキスを塗っていることを話した。
「ええ加減、テニスなんか止めたらどうや」
「何でそんな話になんの」
「テニスでそうなったんやろ」
「違います。階段を踏み外して転んで……」
「真悠から聞いた」
勝子は思わず真悠を見た。真悠は小さく舌を出した。
「たまたま靴先がコートに引っ掛かっただけです。怪我も大したことないんやから」
「それで、毎晩出前か」
勝子は一瞬言葉に詰まった。
「とにかく私は絶対テニスを止めませんから」
「何でやねん。たかが遊びやろ。せやのに週三回もやって。今更どう頑張ってもプロになられへんねんで」
「それならお父さんもゴルフ、止めなさいよ」
「おれのゴルフは仕事や。ゴルフのお陰で、仕事がうまいこと行ってるんや。分からんのんか」
良平は機械部品を扱う小さな商社で、営業部長をやっている。以前は毎晩零時近くまで飲んで帰ってきたが、最近は不景気のせいか早く帰ってくることが多くなった。それでも土曜や日曜日には接待ゴルフと称して出掛けている。
「それなら私のテニスは」そこで言葉に詰まった。うまい言葉が出てこない。良平も真悠もこちらを見ている。
「私のテニスは……生きることと一緒」
「何や、それ」馬鹿馬鹿しいというように、良平は巻きずしを摘んで口に入れた。
「テニスは私の生きがい、ということ」
勝子は澄まして答えた。
「そんなこと言うてて、ええんか。膝を壊して歩けんようになってもおれは知らんぞ」
勝子はどきりとした。医者の言葉を聞いたのかと思った。
「ええ、ええ。歩けんようになっても、お父さんに面倒見てもらう気はありませんから」
「言うたな。その言葉、忘れんなよ」
「忘れるもんですか」
「もう、ええ加減にしてよ」と真悠が口を挟んだ。「二人ともええ年してみっともない。膝が動けへんようになったら、テニスやりたくてもでけへんねんから、お母さんの好きにさしといたらええやんか」
さすが娘やと思っていると、真悠がこちらを見た。
「お母さんも自分の年齢を自覚して、体いたわらなあかんわ。転ぶいうのは疲れてんのとちゃうの。私も週三回は多すぎると思うわ」
「その通り」良平が頷いている。
勝子は知らん顔をして、マグロの握りに箸を伸ばした。
夕食が終わると風呂を沸かし、真っ先に入って、勝子はベッドに潜り込んだ。
体を動かしていないから、なかなか眠気がやって来ない。勝子は良平との会話を反芻し、テニスって私にとって何やろうと考えた。
勝子は中学校の頃からテニスをやりたいと思っていた。友達がやっているのをコートの外からずっと眺めていたことがある。誘いを受けたが、勝子には部活をする時間がなかった。小学校四年の時に、肝臓を悪くした父に代わって母が朝から晩まで働き詰めになり、五歳年下の妹の面倒と家事一切を勝子が引き受けたからである。中学に入って父が亡くなっても、母の働きのお陰で高校に行けたが、アルバイトを始めたこともあってテニスはもちろん出来なかった。
勝子がテニスを始めたのは、子育ての手を離れた四十歳になってからである。週一回のテニススクールに通い始め、すぐに夢中になった。スクールの仲間とコートを借りて練習を始めると、またたく間に週一回が二回三回となり、更年期が始まる前などは、日曜日以外毎日テニスコートに立っていた。
更年期を何とか乗り切れたのもテニスのお陰だと勝子は思っている。テニスなんて関係ない、時期さえ来れば治るんだと良平は能天気に繰り返していたが、更年期のつらさを知らない男のたわごとだと勝子は歯がみする思いだったのである。
結局、あの人には私が何を言っても、私のテニスに対する気持ちなんか分かるはずがない、というところに落ち着くのだ。
一週間経って痛みも治まり、勝子は念のために膝サポーターを付けてパートに出た。朝の十時から昼の三時まで、弁当屋の調理場で、客の注文を受けて弁当を作るのである。二人のパートで捌くのだが、昼時は戦場のようになり、膝を意識することもなく働いた。
翌朝、起きてみると、心なしか膝が腫れているような気がする。しかし痛みがないので、勝子は自転車に乗ってテニスコートに向かった。
公園の一郭にあるコートでは、すでに四人がボールを打ち合っていた。勝子がコートに入っていくと、千秋がボールを打ち返しながら、「大丈夫?」と声を掛けてくる。
「ビワの葉、効いたみたいやわ」
「そうやろ。あれ効くねんから」
勝子は念入りにストレッチをしてから、千秋の相手と替わってもらった。一週間もテニスを休んだのは、何年か前テニス肘になった時以来だった。正月でも休むのは、せいぜい三日くらいだ。
千秋の打ったボールを軽く打ち返す。スイートスポットに当たる乾いた音がして、黄色いボールがネットの上をひゅっと越えていく。光の当たった緑色のコートにボールが弾み、それが打ち返されて再び飛んでくる。それをまた打つ。その度に、一週間分の鬱屈が飛んでいった。
練習試合が始まって勝負にこだわり出すと、きょうは無理をしないでおこうと思ったこともすっかり忘れて、勝子は走り回った。千秋に「動き、ええやん」と言われて、ますます調子に乗ってしまった。
しかし、特別膝に負担を掛けたわけでもないのに、三試合目に痛みが出てきた。何回か屈伸運動をしても、痛みは引いてくれない。千秋が「すぐに帰って、ビワの葉エキス塗った方がええわ」と言ったので、仕方なく勝子は二時間分の割り勘料金を払ってコートを出た。
家で膝にエキスを染み込ませた脱脂綿をあてがっていると、歩けんようになるという医者の言葉が甦ってきた。勝子はかぶりを振った。きょうは膝サポーターだけしかしていけへんかったんが悪かったんや。ちゃんとテーピングしてがっちりと膝を固定したら痛みなんか出えへん。
エキスをずっと塗っていると、真悠や良平が帰ってきた時に膝をまた痛めたことがばれてしまうので、勝子はずっと前に買った本を見ながら、残っていたテープで膝をテーピングしてみた。しかし膝を曲げると、やはり痛みが走った。今度家事放棄をしたら総攻撃を食らうのは間違いないので、勝子は痛みを堪えて家事をこなし、夕食の時もにこにこしていた。風呂に入る前に寝室で膝に巻いたテープを外し、見つからないようにゴミ箱に捨てた。
翌朝も痛みが残っていたらどうしようと心配だったが、幸い痛くなかったので、勝子は残りのテープ全部を使ってテーピングをし、その上にサポーターを穿いて弁当屋に行った。痛みも出ずにパートの仕事を終えると、帰りにテーピング用のテープを買い、デパートの大きな書店で、「自分で治すヒザ痛」という本を買った。そこには膝痛予防には太腿の内側にある内側広筋(ないそくこうきん)と呼ばれる筋肉を鍛えればよいと書いてあった。
勝子は早速本に載っていた内側広筋強化のトレーニング体操というのを、風呂に入る前に始めた。
まず、膝のストレッチをしてから、両膝でクッションをはさみ、それを落とさないように軽く屈伸をするのである。本には、十回を一セットとして、二セットやるようにと書いてあった。
良平はそれを見て、「また膝が痛なったんか」と冷やかしたが、勝子は「予防です」と一言答えただけで、屈伸運動に集中した。
スクワットが功を奏したのか、それから痛みが出ることもなく、テニスの練習時間もすぐに四時間に戻った。最初のうちは予防のためにテーピングをしていたが、巻くのに時間が掛かるのとテープ代が馬鹿にならないのでそのうち止めてしまった。ただ、内側広筋を鍛える体操だけは毎日欠かさず続けた。
四月に入ってすぐの土曜日、勝子がパートの帰りに買い物をして帰ってくると真悠がいた。土曜の昼間に家にいることなど珍しいと思っていると、話があると言う。勝子はテーブルに買い物袋を置くと、「何やのん」と尋ねた。真悠は居間のソファーに坐って、音を絞ったテレビを見ている。
「それ、片付けてからでええわ」
「そうか」
勝子が冷蔵庫の野菜室にキャベツやブロッコリーを仕舞っていると、「実は、会うてほしい人がいてんねんけど」と真悠が言ってきた。勝子はどきりとした。今まで娘が男と付き合っていると感じたことは何度かあったが、家に連れてくるのは初めてである。
「誰? 男の人?」
「うん」
「ええよ。いつでもどうぞ」
「お父さんはいつがええかな」
「帰ってきたら、訊いてみ」
良平はこの日も接待だと称して、ゴルフに出掛けていた。
勝子はことさらゆっくりと牛乳や卵を仕舞いながら、「どんな人?」と訊いてみた。
「普通の人」
普通はないやろと思ったが顔には出さず、「家に連れてくる言うことは、結婚しようと思ってんの」とずばりと訊いた。
「さあ」
さあって、それなら何で連れてくんのと言いかけたが、あんまり言ってへそを曲げられたら困るのでそれ以上何も訊かなかった。
七時少し前に良平がゴルフバッグを担いで帰ってきた。ハーフ五十を切ったとはしゃいでいる。服を着替えてテーブルの前に腰を降ろすと、「ビール」と勝子に言った。
「向こうで呑まず?」
「一杯だけや。きょうはおれが運転しなあかんかったからな。ずっと我慢の子や」
勝子が冷蔵庫から缶ビールを出していると、「私も呑もうかな」と真悠が言う。
「呑め、呑め」と良平。
結局勝子も呑むことになり、真悠が三つのコップにビールを注いでいく。良平は手を伸ばして注ぎ終わったコップを取ると、一息に呑んでしまった。勝子は缶ビールをもう一本取り出して、良平のコップに注いだ。
食卓にはトリ貝の酢みそ和え、菜の花のお浸し、きんぴらごぼうなどの鉢がある。良平はトリ貝を箸で摘んで口に入れると、「これはいける」と言いながらビールを呑んだ。
「お父さん、来週の土曜日、ひま?」と真悠が言った。
「土曜日? あかんあかん、ゴルフや」
「そしたら日曜日は?」
「日曜日は空いてるけど、何や」
「男の人、連れてくるから、会うてほしいんよ」
良平は手に持っていたコップをテーブルに置いた。
「それって親に挨拶に来るということか」
「まあ、そういうこと」
「結婚すんのんか」
「その方向」
「何や、その方向って」
真悠は知らん顔をしてビールを呑んでいる。良平が勝子の方を見た。
「お前は、その男と会うたことあんのんか」
「私もきょう聞いたばっかり」
良平は眉根に皺を寄せ難しい顔をしていたが、すぐに表情を緩めると、
「まあ、ええやろ。おれが品定めしたろ」
「やめてよ、品定めなんて」と真悠が高い声を出した。
「何でや。そんなこと当然やろ」
「お父さんが品定めしたところで、決めるのは私なんやから」
「それなら何で連れてくるんや」
「勝手に結婚したら困るでしょ」
「そらそうや」
良平が男のことを尋ねると、香田隆という名前で二十九歳、スポーツ用品会社勤務、合コンで知り合ったと真悠は答えた。会社の名前はキミノで、結構名の通った会社である。勝子はどういう家の息子か知りたかったが、真悠ははっきり知らないから詳しいことは会うた時に聞いてと言うばかりだった。
香田がやって来たのは、日曜日の午後一時過ぎだった。真悠の携帯に電話があり、最寄りの地下鉄の駅まで真悠が迎えに行った。勝子も良平もいつもはジャージーのような部屋着なのだが、この日は、勝子はオフホワイトのブラウスに茶色のスラックス、良平は紺色のジャケットを着ていた。
錠の開く音がしたので勝子が急いで玄関まで出ていくと、真悠に続いて香田が頭を屈めるようにしてマンションのドアを入ってきた。かなりの長身で、紺のスーツを着ている。目が細くて、勝子は雛人形の内裏びなを連想した。見ようによっては男前といえなくはない。
「ようこそいらっしゃいました。わたくし、真悠の母親でございます」
勝子が両手を揃えて頭を下げると、香田は「あ、どうも。お邪魔します」と長身を窮屈そうに折り曲げた。
真悠が「これ、履いて」とスリッパを香田の足下に揃える。香田は「ありがとう」と言ってそれを履いた。
居間では良平が立ち上がって、勝子たちを迎えた。
「さあ、どうぞ」良平は香田にソファーを勧める。香田はどうもと呟きながら向かいに坐り、その横に真悠も腰を降ろした。勝子は坐らずに「香田さん、お昼は?」と尋ねた。
「いえ、まだ」
「それじゃあ、すぐに用意しますから」
勝子はキッチンに行った。用意すると言っても、冷蔵庫から出前で取った寿司桶を二つ出すだけである。居間で食べようかと思ったが、吸い物とかお茶の用意があるのでキッチンのテーブルに置き、割り箸や取り皿、コップを並べた。
勝子が呼ぶと、三人は立ち上がってこちらに来た。四人掛けの丸テーブルで、香田はどこに坐ろうかと迷っていたが、真悠が良平の隣の椅子を引いて坐らせた。
「勝子、ビール」と良平が言った。勝子はきょうのために用意していた瓶ビールを冷蔵庫から出した。栓を抜いて渡すと、良平は「お酒、行けるんやろ」とビール瓶を香田のコップに近づけた。
「ありがとうございます」
香田は両手でコップを持って、ビールを受けた。良平は香田のコップに注ぎ終わると、自分のコップには入れずにビール瓶をテーブルに置いた。香田さん、早よ、注ぎ返さなと勝子ははらはらして見ていた。
一瞬間があってから、香田はビール瓶をつかむと良平のコップにビールを注いだ。良平は大きく頷いてそれを受けている。注ぎ終わった香田が真悠とちらっと顔を見合わせたのを見て、勝子は、真悠がテーブルの下で何かの合図を送ったに違いないと睨んだ。
香田はスポーツ用品の商品企画の仕事をしており、プロスポーツの選手にも会うという話をしている。良平は選手の名前を聞いて、ほうと感心している。
仕事の話が一段落したところで、「香田さんのご家族は?」と勝子は言ってみた。
「両親と妹が奈良に住んでます」と香田は答えた。会社に勤め始めた頃は香田も一緒に住んでいたが、仕事が忙しくなってくると通勤時間が惜しくなり、今は中央区のワンルームマンションを借りていると言う。
「父は亜細亜印刷という会社の役員をしてまして……」
「ほう、そりゃすごい」
「役員といってもただの平取ですから」
「いや、平でも亜細亜印刷の取締役なら大したもんやわ。なあ」と良平は勝子を見た。
「そうですとも」
勝子には聞いたことのない会社だったが、良平が本気で感心しているところを見ると、大きな会社だろうとは想像できた。
良平が空になった香田のコップにビールを注ぎ、香田もすぐにビール瓶を取って注ぎ返す。香田がビールを一口飲んだところで、「香田さんて背が高いわねえ。いくつあんの」と勝子は尋ねた。
「百八十五です」
「すごい。何かスポーツをやってはった?」
香田が戸惑った表情を見せ、真悠の方を見た。真悠は渋い顔をして、わずかに首を振っている。
「どうしたん。私、何か変なこと言うた」
「いいえ、別に……」香田はあわてて手を振った。「実は、テニスを少々……」
「あら、テニスやったはったん。実は私もテニスしてんのよ」勝子は勢い込んでしゃべった。香田の存在が急に身近になった。
「……ええ、聞いてます」小さな声で香田が答える。
「今もやってはんの」
「今はもう仕事が忙しくて……」
「何で。しやはったらよろしいのに」
「いや、時間がなくて……」
「いつ頃してはったん」
「中学、高校、大学と……」
真悠が香田の腕を引っ張っている。香田は真悠の方を向き、「ほんとのことやから」と言い、再び勝子の方を見た。
「実は、その頃プロを目指してまして、アメリカにテニス留学をしたこともありまして……」
「すごい。本格的やないの」勝子の声が一段と高くなる。
香田はインターハイで優勝したこともあり、テニス留学は四年に及んだと言う。プロになることを断念したのは、才能のなさを感じたことと膝の故障だった。最後の一年間は膝の故障との戦いだったらしい。膝の故障と聞いて、勝子は少し前に自分も膝を痛めたことを話した。内側広筋を鍛えるスクワットを毎日続けていると言うと、香田は、自分も同じ運動をしたと答えた。
「それで、もうテニスはしやはれへんの」
「年に一、二回はしますが、あんまり……」
「どうして。もったいない。どこでやっても大歓迎されると思うけど。私らのところに来てもらいたいくらいやわ」
「お母さん、プロまでなろうと思った人間が草テニスをやって楽しいわけないやろ」
「いやいや、そんなことないですよ」と香田が大袈裟に手を振った。「テニスは楽しいですよ。ただ僕の場合、苦しかった思い出が付いて回るんで、なかなか純粋に楽しめなくて……」
「プレーするのがあかんかったら、勝子、コーチしてもろたらどうや」と良平が冷やかすように言った。
「余計なこといわんといて、お父さん。コーチなんかしたら余計に苦しいことを思い出すやんか」真悠がきつい声を出す。
「何でや。そんなことないやろ。ええやないか、なあ、香田さん」
香田は曖昧な笑顔を浮かべている。勝子は素早く三ヶ月後のテニス大会までの日数を数えた。週一回として、今からなら十回は教えてもらえる。
「香田さん、コーチしてもらえません?」と勝子が尋ねた。
「お母さん、何調子乗ってんの」と真悠が睨んだ。
勝子は真悠の言葉を無視して、三ヶ月後のテニス大会の話をした。去年負けた相手にどうしても勝ちたい、自分たちよりレベルの高い相手に勝つにはどうしたらいいかと尋ねた。香田は真剣な顔で頷きながら聞いている。勝子は、二年前までテニススクールに通っていたが、そこが廃止になって以来近くに通えるところがないので、ずっと教えてもらっていないということまで話した。
「そんな、まともに相手せんでええよ」と真悠が言う。「ただの草テニスやのに、コーチまでつけて練習してどないすんの」
「週一回でいいんですけど」
「お母さん、ええ加減にして。香田さんは仕事で忙しいんやから、無理に決まってるやろ」
「三ヶ月くらいなら、コーチやってもいいですけど……」
香田が執り成すように言った。
「そんなお愛想言わんでええよ、香田さん」
「ほんと?」と勝子が訊く。
「ええ」
「決まり」
勝子はビールを香田のコップに注ぎ、食べて、食べてと寿司桶を香田の前に押しやった。真悠が憮然とした顔をしている。
次の日曜日から早速教えてもらうことにし、コートが取れたら時間を連絡することにした。
結局、結婚のケの字も出ずに、香田は真悠に送られて帰っていった。
「両親に初めて挨拶に来て、何か頼まれたら断られへんに決まってるやん。そこにつけ込むなんて、お母さん、サイテーやわ」と帰ってきた真悠がむくれた。
「何言うてんの。お母さんはやな、香田さんの人柄を見るためにわざとコーチをお願いしたんや、そんなこと、分かれへんの」
「うそばっかり」
まんざら嘘とばかりは言えなかった。勝子の中に、そういう気持ちがほんの少しはあったのも事実である。
勝子は早速いくつかのテニスコートに電話で当たってみた。日曜日はどこも予約で一杯だったが、河川敷のコートが午後三時から空いていた。嫌がる真悠に電話をさせ、勝子が話した。コートの近くに駐車場があるので、香田は車で来ることになった。
翌日、公園のテニスコートにやって来た千秋に、昨日のことを話した。
「すごい、すごい」と千秋は目を見開いた。「そんな人が真悠ちゃんの旦那さんになるなんて、真悠ちゃん、ちゃんとあなたのことを考えてたんやねえ」
「そんなこと、ないわ」
「いや、そうに決まってるわ。お母さんがテニスフリークやから、それに合う相手を見つけてきたんよ」
真悠の態度から見て、それが間違いであることは分かっている。たまたま知り合った香田の経歴を聞いて、真悠は戸惑ったのではないか。こういうふうにコーチをしなければならなくなると分かっていたから。
「日曜日、来れる?」
「行く、行く」
「言うとくけど、特訓するんよ」
「わかってるわよ」
どうも千秋は真悠の結婚相手に興味があるようだ。「あの真悠ちゃんも結婚するような年になったんやねえ」と言う。
真悠は小学校までは、時折勝子と一緒にテニスコートに来て、見よう見まねでラケットを振っていた。このままテニスに興味を持って一緒にやってくれたらと勝子は期待していたが、中学に入るとおしゃれに夢中になり始め、全くテニスをしなくなった。
「もう二十八やで。ええ加減に嫁に行ってもらわな、こっちがしんどいわ」
「そんなこと言うて。真悠ちゃんが出ていったら二人きりになって寂しいで」
「何言うてんの、あんたとこなんか、ずっと二人やんか」
「最初から二人と、途中から二人は全然ちゃうよ」
「まあ、私は大丈夫やけど、家の人は寂しがるやろな」
「そんな強気も今のうちだけ」と千秋が笑った。
日曜日はテニス大会の特訓なので、他の仲間は誘わなかった。
土曜の夜、香田とのデートから帰ってきた真悠は、コーチ料を払わなあかんよと言ったが、たぶん受け取らないだろうと勝子は思っていた。
翌日、ソファーに寝そべって女性雑誌を読んでいた真悠に、一緒に来ないと言ってみたが、真悠から、何で行かなあかんのとふてくされたような答えが返ってきた。
千秋と並んで自転車で河川敷に行くと、香田はすでに来ていて、フェンスの外のベンチに坐って、プレーを見ていた。横には、ラケットの形をした幅の広いバッグがある。
勝子たちが近づくと、香田は気づいて立ち上がった。グレーのトレーニングウエアを着ている。わあ、ほんとに大きいと千秋が呟いた。
「こちらがペアを組む高島さん」
千秋が「どうぞよろしく」と頭を下げる。
「こちらこそ」と香田もお辞儀をする。
「聞きましたよ」と千秋が香田の腕を叩いた。「真悠ちゃんと結婚しやはるんやてね。目が高いわ。真悠ちゃんてほんとええ子よ。気だてはええし、可愛いし、しっかりしてるし」
香田は困ったような照れたような表情を浮かべている。
「もうええて。あんまり言うたら、こっちが恥ずかしいわ」
「何で。ほんとのことやんか」
話を変えようと、勝子はコーチ料のことを切り出した。香田はとんでもないと手を振る。千秋も勝子と一緒になって、いくらかでも取ってほしいと言ったが、コーチ料をもらうくらいならやらないと香田が言ったので、コート代だけ負担することになった。
三時になって前のプレイヤーたちが出てき、勝子たちが中に入った。香田は新しいテニスボールの入った缶をいくつか持ってきており、それを開けようとしたので、勝子はあわてて彼の手を止めた。新しいボールを練習ボールにすることなど考えられない。
勝子はここにあるからと二十個ほどの練習ボールの入ったバッグを見せた。
ストレッチをきっちりとやってから、二対一でウォーミングアップのミニラリーをした。次に、ボレー、長いストロークとやって体をほぐした後、一息入れると、香田がいきなり、二対一の試合を提案してきた。香田がシングルコートを守り、勝子と千秋がダブルスコートを守って戦うのである。
「どこを鍛えたらいいのかを見るには、試合をやるのが一番いいですから」という香田の言葉に納得して、試合をすることにした。
香田はトレーニングウエアを脱いで、下に穿いていた短パン姿になった。日に当たっていないのが一目瞭然の白さだったが、太腿や胸の辺りにはがっしりと筋肉が付いている。右膝には勝子がしているのと同じようなサポーターをしている。まだ痛めているのかどうか尋ねると、香田は、膝を痛めたら仕事に差し支えるので念のために付けてきたと笑いながら答えた。
香田の持ってきた新しいボールの缶を開ける。勝子のサーブから試合が始まった。
香田はウエスタングリップからスピンの掛かったボールを返してくる。まずそれが打ちにくかった。千秋のボレーが決まったと思っても、長い手を伸ばしてロブを上げてくる。スマッシュできず、落としてから打ち返すと、いつの間にか前に来ている香田にボレーを決められてしまう。二対一ならそこそこ試合になると思っていたが、結局一ポイントも取れずゲームを失ってしまった。
コートチェンジはしないで、サーブが香田に移った。
香田のサーブはスピンサーブで、バックに飛んでくる。驚くほどの速さはないが、打ち返そうとすると向こうにキックしていくのでラケットにうまく当たらない。かろうじて当たってふわふわと飛んでいくボールを、前にダッシュしてきた香田に簡単にボレーされてしまう。バックサイドを守っている千秋は、サーブボールにかすりもしなかった。
結局四ゲームやって勝子たちの取ったポイントは五ポイントで、ゲームは一つも取れなかった。千秋は「やっぱり強いわ」と感心したが、勝子は自分たちの弱さの方が堪えた。香田が「二対一というのは思ったほどハンディになりませんよ」と慰めてはくれたが。
香田の見るところによると、勝子と千秋の弱いところは技術的にはスマッシュとサーブということだった。特にスマッシュ力のあるなしで、相手に与えるプレッシャーが全然違ってくると香田は言った。
練習ボールの入ったバッグをコートの端に置き、香田がラケットで高いボールを上げた。それを勝子と千秋が交互にスマッシュをしていく。二人ともスマッシュが苦手で、強いボールが前に行かない。それを五回ほど繰り返したところで、香田がこちらにやってきた。
「構え方と足の動きをちょっとやりましょうか」
香田はネットの前で前衛の構えをする。一般的な教え方はこうですよねと言いながら、香田は右足を引いて左手を高く差し上げる。
「しかしこれでは下がるのにワンテンポ遅れるし、ボールをつかむイメージで肘を伸ばしてしまうと、体に力が入ってしまいます」
香田は、左足を半歩ほど前に出してから後ろに下がるステップと、肘を軽く曲げて肘から手首の腕越しにボールを見るフォームを教えてくれた。
千秋がロブを上げ、香田がスマッシュをする。それを勝子が横から見た。千秋のボールの上げ方は後ろに行ったり前に行ったりとばらばらだったが、香田は素早いステップでジャンピングスマッシュを決めたりした。勝子と交替で、千秋も香田の動きとフォームを横から見た。
それがすむと、まずラケットを持たずにステップだけを練習する。確かに右足を先に引くよりも、左足を半歩出してその足で蹴るように後ろに下がったほうが、体重移動もスムースで速く下がれる。
それを何回か繰り返してから、ラケットを持って練習した。左手も肘を曲げるほうが上体に力が入らなくて、楽にラケットが振り下ろせる。
「何でスクールでは、こういうふうに教えてくれへんかったんやろ」と千秋が不満そうな声を出した。
「教えてもらったことを鵜呑みにしたら駄目ですよ。人の体って骨格も筋肉の付き方も人それぞれ違いますからね。自分に合うフォームは自分で見つけるしかないんです。教えるほうも感覚を言葉にしているわけですから、どうしてもそこにズレがあるのは仕方がないんです」
勝子はその言葉に目からウロコの落ちる思いがした。今まで誰からもそんなことを言われたことがない。確かに今まで自分はスクールで教わった通りに、なるべくそれに近づこうとしていたが、自分で見つけようとはしてこなかったことに気づいた。
スマッシュの素振りがすむと、香田がボールを上げてくれた。しかしボールを捉えることに集中してしまうと、自分が実際にどういうステップを踏んでいるのか分からなくなってしまう。香田は、いいですよ、その調子と声を掛けてくれるが、ボールがスイートスポットに当たらないので自分ではうまく行っているとは思えない。
香田の足許の練習ボールがなくなると、みんなで拾い集め、また香田がボールを上げる。それを二、三回繰り返すうちに、たまにボールが捉えられるようになった。コートに今までよりも鋭いボールが飛んでいく。
「今のいいですよ」と香田が大声で言う。ちょっとしたフォームの違いで全然違うボールが行くことに、勝子は驚いた。
千秋はまだカス当たりが多かったが、見ているとフォームがスムースになっているように思えた。
練習ボールを打ち終えると、香田はもう一度ゲームをすることを提案し、二対一に分かれた。
香田の意図はすぐに分かった。ゲームの中でスマッシュの練習をさせようというのだった。ロブを多用し、取れるか取れないかという微妙な距離に上げてくる。勝子は左足を半歩前に出すステップを意識しながら、できるだけ取ろうと頑張った。
五時が来て、三人でネットを片付けた。勝子と千秋が香田に礼を言うと、
「きょうやったスマッシュのイメージを忘れないようにして下さい。寝る前なんかに、頭の中でイメージトレーニングをするといいですよ」
と香田が言った。
ちょっと家に寄りませんか、真悠もいることだしと誘ってみたが、いや、きょうはこれでと香田は手を振った。
車で来ている香田とコートの前で別れ、勝子と千秋は自転車に乗った。
「真悠ちゃんと結婚したら、香田さんに毎週コーチをしてもらいましょうよ」と千秋が言う。
「だめ、だめ。そんなこと言うたら、あの子かんかんになって怒るわ」
家に帰ると、真悠は同じようにソファーに寝そべってテレビを見ていた。
「香田さんに、家に来るように言うてみたけど、帰らはったわ」
勝子が声を掛けると、「きのう会うたからええよ」と真悠はあっさりと答えた。
勝子はテニスウエアを脱いで洗濯機に放り込み、スイッチを入れると、いつもよりちょっと濃い目の化粧を落とし、顔を洗った。シャワーを浴びるには、まだ寒い。それから急いで夕飯の準備に取り掛かる。真悠に、手伝うてと言えばやってくれるが、テニスしといて何言うてんのと文句を言うのは分かっているから、頼まない。もっとも、手早く食事を作るのは勝子の特技なので、頼む必要もないのだが。
途中で洗濯物を干し、良平がゴルフから帰ってきた六時半には、五品のおかずがテーブルに置かれていた。
次の練習の時、ストレッチをしてから香田は「ジャッジメントのイメージトレーニングをしましょう」と言い出した。ネットから一メートルほど離れたところに立ち、香田の上げるロブをインかアウトが瞬時に判定するのである。まず十球ほど実際にボールを目で追ってインかアウトを確認してから、次に前を向いたまま、ボールの飛び具合を見て、インかアウトか声を出す。そして後ろを振り返り、合っていたかどうかを確認する。
しかしやってみると、なかなかうまく行かなかった。かなりアウトしたボールをインと言ってみたり、余裕でベースラインの手前で落ちるボールをアウトと言ってみたり。
そのイメージトレーニングがすんでから、ラケットを握ってボールを打つ練習に入った。
そうやってスマッシュがだんだん形になってくると、次はサーブだった。香田は相手のバックを突くスピンサーブを教えようとした。マスターすれば女子ダブルスでは確かに有力な武器になるが、背中を反らせてボールに縦回転をかけるため強い背筋と腹筋を必要とした。おばさんには無理やと勝子は思ったが、香田は譲らない。コートサイドにあるベンチを使って、腹筋と背筋の鍛え方まで教えてくれる。腹筋は腰を痛めないために必ず膝を立て、組んだ両手を額に当てて反動を付けずにすること。背筋は両手を後頭部に当て、これも反動を付けずに上半身を反らすようにすること。どちらも鍛える筋肉に意識を集中すること。これを自分のできる回数分を一日三セットすること。
千秋が「えー」と声を上げたが、香田は気にする様子もなく「腹筋と背筋を鍛えると腰痛防止にもなりますから、一石二鳥ですよ」と言う。
「そりゃそうだけど……」千秋の声が小さくなる。
「とにかくやってみよ」と勝子は千秋に言った。
香田の言葉に従って、勝子はベンチに仰向けになり、膝を立てて上半身を起こした。しかし、十回も出来ない。背筋はもっとひどくて五回がせいぜいだった。テニスをやっているから少しは筋力があると思っていたが、そうでないことを知って、勝子はがっかりした。
その晩から腹筋背筋運動が膝痛予防運動の次に加わった。真悠がいれば、腹筋背筋の時に足首を押さえさせた。真悠は、テニス大会までやでと言いながら、しぶしぶ手伝ってくれた。
香田のレッスンの形がだんだん決まってきた。ストレッチの後、ジャッジメントのイメージトレーニングしてミニラリー。それが終わると、いきなりスピンサーブの練習をして、スマッシュ。次に二対一の試合形式でポーチ、ボレー、インフォメーションの練習と続き、最後にもう一度スピンサーブの練習をした。
香田は、同僚から借りてきたビデオカメラで勝子と千秋のスピンサーブのフォームを映すと、液晶画面に再生して二人に見せ、次に自分のフォームを再生して比べさせた。そうやって直すところを指摘した。
香田の口調も最初の頃に比べたら、かなり厳しくなった。大声を出すことも珍しくない。
「ダメ、ダメ、赤石さん! 相手が外に出されたらコートカバーリングをしなきゃ!」
「高島さん! ボールの追い方が逆! 左側にターン!」
「もっと踏み込んで打つ!」
「ちゃんとパートナーの動きを見て、前に詰めてくること!」
千秋が冗談めかして、「未来のお義母さんに厳しいやんか」と囁いたが、勝子には香田の言い方が全く気にならなかった。ミスをした時は、大声が飛んでくるが、うまくやった時は、「そう、いいですね」とか「ナイス、ナイス」「その調子」などと褒めてくれる。教えることに熱くなっているのが伝わってくるので、こちらまで乗せられてしまうのだ。
真悠と香田の結婚の話はまだ出なかったが、真悠は向こうの家に時折顔を出しているようだった。香田の両親にも気に入られている様子だったし、テニス大会が終わったら具体的な話に入ろうかと香田と話し合っていると真悠は言った。
五月下旬の日曜日、昼食を早めに摂ってテニスコートに行くと、香田は来ていたが、千秋はまだだった。珍しいこともあるもんやと思っていると、十五分ほどして千秋が自転車を飛ばしてきた。
「ごめん、ごめん」と言いながら、コートの中に入ってくる。
「どうしたん」
「赤石さん、ごめん」千秋が両手を組んで謝る仕種を見せる。
「ええよ、そんな大袈裟な」
「違うねん。私、テニス大会に出られへんようになってしもてん」
「え?」
「どうしたんですか」と香田も驚いた声を出した。
「うちの旦那、東京に転勤になるんよ。急に決まって。私、何とか延ばされへんのって言うてみたんやけど、アカンて」
「単身赴任でけへんの?」
「それも言うてみたんやけど、大会のこと話したら、アホかで終わり。まさか五十過ぎて転勤になるとは思っても見いひんかったわ」
勝子はがっかりだった。折角ここまで頑張ってきたのに、すべては無駄になってしまうのかという気持ちだった。
「それじゃあ、すぐに新しいパートナーを探さなあきませんね」と香田が言う。
「今から組んで、うまいこと行くやろか」
「大丈夫ですよ。まだ一ヶ月もあるじゃないですか」
「ごめんね」と千秋が両手を合わせた。
その日の練習には全く気合いが入らなかった。これではいけないと思っても気が乗らず、練習メニューをこなすだけだった。
翌月曜日には、引越準備が大変と言っていた千秋もテニスコートにやって来た。みんなに事情を説明し、誰か勝子のパートナーになってくれないかと頼んだ。しかし誰も手を上げない。千秋が、年齢が近くて技量もそこそこある一人に水を向けたが、彼女は「だめ、だめ、私なんか。赤石さんの足を引っ張るだけやもん」と大袈裟に手を振った。
勝子には、ここにいる六人の内で引き受ける人は誰もいないだろうと分かっていた。テニス大会に出て勝ちたいと思っているのは勝子と千秋だけだったし、勝ちたいために練習試合でもミスを指摘したり、動きを指示したりしたから煙ったがられているのは確かだった。
そのうち一人が、「うちのマンションに引っ越してきた人がテニスやりたい言うてたから、今度連れて来ようか。その人と組んだらどう」と言い出した。
「いくつぐらいの人」と勝子が尋ねる。
「四十半ばくらいやから、いけるんちゃうの」
「テニスはうまい?」と千秋。
「中学高校と軟式やってたんやて。硬式やり出したんは、ちょっと前から言うてたけど」
勝子と千秋は顔を見合わせた。
金曜日の朝、千秋からテニスに行けそうもないという電話が入り、勝子は一人でテニスコートに向かった。
フェンスの外で自転車を降り、並んでいる何台かの横に置いた。その中に赤い見慣れぬ自転車があって、後輪のカバーには「光山加代子」という白い文字が見えた。
中に入っていくと、ストレッチをしている仲間に混じって見知らぬ女性が一人いた。勝子より背が高くて、ほっそりしている。小顔の可愛い顔で、とても四十を過ぎているようには見えない。違う人かと思いながら、おはようございますと勝子は近づいていった。
「赤石さん、紹介しとくわ。この前言ってた人」と一人が言った。
「光山です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。赤石です」
「赤石さんは、うちのメンバーの中では一番うまいのよ」
「そんなことないって」
ミニラリーからボレー、ストロークと練習したが、その間勝子は加代子のショットばかり見ていた。体に似合わずフルウエスタンの厚い握りから、強いスピンボールを打っている。勢いに負けて、返す方が打ち損なうことがしばしばだった。あのフォアハンドは使えると勝子は思った。
練習試合になって、加代子のサーブもフラット系でそこそこ威力があった。ただ、バックハンドは両手打ちだが、ミスをすることが多かった。
時間が来てネットを片付けた後、勝子は加代子に近づいて「ねえ」と彼女の腕を叩いた。
「あなた、試合に出てみる気はない?」
「え?」
「そうよ」とこの前千秋が水を向けた一人が横から言った。「光山さん、いいフォアハンド持ってるんだから試合に出てみたら。いけるんじゃない? 赤石さんとペアを組んでいた人が転勤で引越しちゃうんで、赤石さん、相手を探しているのよ」
勝子はシニアテニス大会の話をし、加代子の年齢を尋ねた。
「四十四になったばかりです」
「よかった。私と合わせたらちょうど百歳やわ」
「え、それじゃあ五十……」
「そうよ、見えへんでしょ」
勝子は左右に体を回して、ポーズを取った。
「ほんと……」
加代子は素直に驚いているようである。
「赤石さん、よかったじゃない、若返って。これで去年の雪辱が果たせるわよ、きっと」
それから彼女は加代子に、勝子たちが準決勝で負けた話をした。相手のペアの一人がインターハイで活躍していたことを聞くと、加代子が「すごいですね」と目を見張った。
「私なんか、一回だけ出たことがありますけど、初戦敗退で……」
「ひょっとしたら相手は同じ人と違う? 秋月いう人やけど……」と勝子が尋ねた。
「いや、私は軟式でしたから」
「ああ、そうか」
ペアになる話がうやむやになりそうだったので、勝子が念を押すと、加代子は「私でよければ」と引き受けてくれた。勝子は日曜日の特訓の話をし、都合を訊くと、大丈夫だと答えたので、河川敷のテニスコートの場所を教えた。
夕方、勝子は千秋に電話をして、加代子のことを話した。
「よかったやん。そんな若い人が見つかって。これで私も心置きなく東京に行けるわ」
「それでいつこっちに帰ってくんの」
「わかれへん。ひょっとしたら定年になるまであっちかもしれへん」
「寂しなるわあ」
「ほんと、私も」
千秋は日曜の特訓に顔を出すと言って、電話を切った。
翌日、パートから帰ってくると、真悠がもう家にいた。テレビの音量を大きく上げて、怒ったような顔でバラエティ番組を見ている。もっと音を下げなさいと言っても聞かないので、勝子は近づいていってソファーのリモコンを取り上げてボタンを押した。
「余計なことせんといて」と真悠が勝子からリモコンを取り返し、再び音量を上げた。先程よりもさらに大きい音になった。
勝子はぴんと来て、「香田さんと何かあったんか」と水を向けてみた。
真悠は何も答えずしばらくテレビを見ていたが、やがてテレビを消すと、「みんな、お母さんのせいや」と言って立ち上がった。
「何のこと」
「香田さんが会社辞めるて言い出したんよ」
「え?」
「会社辞めてテニスのコーチになるんやて」
「ええんちゃうの」
「何がええの。コーチ修業のためアメリカへ行く言い出してんねんから」
勝子の頭に真っ先に浮かんだのは、それはすごい、それはいいという思いだった。その後、ゆっくりと、それじゃあ真悠との結婚はどうなるという疑問がやってきた。
「どのくらい行くつもりやて」
「最低二年やて。馬鹿馬鹿しい」
「二年か……。ええやないの、そのくらいやったら待っても」
「よう言うわ。二年も待てるわけないやんか。二年経ったら私、三十よ。お母さん、分かってんの」
「ええやんか。別に三十でも」
「いややわ。私、三十までには結婚するんやから」
「それなら結婚して一緒にアメリカに行ったら」
真悠が呆れ顔で勝子を見た。
「どうして生活すんのよ」
「あんた、貯金あるでしょ。それで二年間くらい生活できんのとちゃうの」
真悠はますます呆れた表情になった。
「何で私が、香田さんのアメリカ生活を支えなあかんの。それにコーチになるより今の会社にいた方がずっと収入がええのに決まってるやん」
「あんたって、夢ないなあ。男のロマンが分からんか」
「アホらしい。何が男のロマンよ。お母さんは香田さんがプロのコーチになって帰ってきたら、ただで教えてもらおうと思ってるだけやんか」
「そうや、あかんか。婿さんがプロのテニスコーチやなんて、夢みたいやわ」
「そもそも香田さんがプロのコーチになんかなろうと言い出したんは、お母さんのせいなんよ。お母さんと高島さんに教えているうちに、テニスに対する気持ちが戻ってきたんやわ。それが分かってたから私、あれだけ反対したのに。そんな人の気持ちも知らんと、能天気にコーチなんか頼むから……」
「何言うてんのん。テニスが好きやからコーチになる、一番真っ当やんか」
「テニス狂いのお母さんと話しても、平行線やわ」
「それでどうすんの。結婚は」
「本当に会社を辞めるんやったら、婚約解消。別れるわ」
「香田さんのこと、好きとちゃうの?」
「それとこれとは話が別」
「あーあ、情けない。好きな男のためなら、たとえ火の中水の中というふうにはなれへんの?」
「娘に、火の中水の中に入れって言う親がどこにいてんのん」
真悠はそれ以上話す気はないというように再びソファーにどんと腰を降ろすと、テレビをつけた。大きな音がまた広がる。
勝子は自分が間違ったことを言ったとは思っていなかった。
珍しく土曜出勤した良平が帰ってきたのは、十時過ぎだった。酒の臭いはしなかったが、ぐったりと疲れた顔をしている。夕食は摂ったが小腹が空いていると言ったので、お茶漬けを出した。
良平はテーブルに置いた夕刊を見ながら、お茶漬けをかき込んでいる。
「真悠が結婚を止めるんですって」と勝子は言ってみた。
良平が顔を上げる。
「別れたんか」
勝子が事情を説明すると、「そりゃ仕様ないな。真悠も二年は待てんやろ」と良平はあっさりと言う。
「私は好きな人と一緒になるのが一番やと思いますけど……」
「そこまで好きとは違う、いうことやろ」
「お父さんは、真悠をいつまでも手許に置いときたいんでしょ」
「三十までには結婚する言うてんねんから、任せといたらええやろ」
焦ってしょうもない男と結婚しても私は知りませんからと勝子は心の中で毒づいた。
翌日、三時からの特訓に千秋もやって来た。勝子は、香田と千秋に加代子を紹介した。
体をほぐしてから、早速香田、千秋ペアと勝子、加代子ペアで試合をした。その結果、香田は加代子のバックハンドの弱点を指摘し、それの克服とスピンサーブの習得を課題にした。
時間が来て、勝子は、香田さんと話があるからと千秋たちと別れた。自転車を押しながら、香田と一緒に駐車場に向かう。
香田は何の話か察しているようで、「何か」というような素振りも見せない。
「昨夜、娘から話を聞きました」と勝子は言った。
「そうですか」
「香田さんが私らのコーチをしたから、テニスに対する情熱が甦ったて、あの子が言うてましたけど、それってほんとのこと?」
「真悠さん、そんなふうに言うてましたか」香田は、少し笑顔を見せた。「実はお二人に教えていて、自分の本当の気持ちに気づいたんです。自分ではプロになれなかったのは怪我のせいやと、そのことを言い訳にして、自分がとことんやらなかったことに目をつぶってたんですわ。商品企画の仕事でいろんなプロの人に会ったりすることがあるんですが、そのときこっちのことも話して、向こうが、怪我さえなかったらプロになれたんとちゃいますかなんてお世辞を言うてくれるのにいい気になって……。あんまりテニスをしなかったのは、そのことに気づきたくなかったからだったんですよね。それで、今度はとことん頑張ってコーチのトップを目指そうかなと……」
「私は賛成ですよ」
「え?」
「香田さんがアメリカにコーチ修業に行かれること」
香田の表情が柔らかくなった。
「実は迷ってるんですよ。真悠さんに大反対されましたから」
「そんなこと気にせんと、自分のやりたいことをやりはったらよろし。やらずに後悔するよりも、やって後悔したほうがなんぼええか」
「どっちにしても後悔ですか」
香田が笑った。
「人生は一度しかないんやし……」
「そうですね」
「私からも、よう言うて聞かせますから、諦めたらあきませんよ」
「わかりました」
家に帰ると、千秋から電話があった。「いい人が見つかったやんか」と言い、「あんまり厳しい指摘をして嫌われんように」と笑いながら釘を刺した。勝子がいつ東京に行くのかと尋ねると、今週中だと答えた。
「またいつか一緒にテニスをしたいわね」と千秋が言う。
「ほんと。絶対しょうな」
「それから真悠ちゃんと香田さんの結婚が決まったら、教えてな。何か贈るわ」
「分かりました」
千秋は東京に行ったらまた電話すると言って、電話を切った。
その晩も良平は日曜出勤で帰ってくるのが遅かった。
「仕事、忙しいんですか」と訊いても、難しい顔で「ああ」と返事するだけだった。
そんな日が続いて四日目、勝子が夕食の準備をしていると、玄関の錠の開く音がした。真悠だと思っていると、靴音が違ったので勝子は急いで玄関に行った。
時間が早いにもかかわらず良平は疲れた表情をしている。
勝子は新聞を受け取りながら、「きょうは早かったんですね」と言ったが、良平は「ああ」と答えただけで自分の部屋に入ってしまった。
いつもなら着替えてすぐに出てくるのに、良平はなかなか出てこない。
気にしながら小松菜を切っていると、良平が出てきてソファーに置いておいた新聞を取って、わざわざキッチンまでやって来た。そしてテーブルの前に腰を降ろして新聞を広げる。娘といい夫といい、話を聞いてもらいたい時のサインが似ていると半ば可笑しくなりながら、「どうかしたんですか」と勝子は言ってみた。
「うん?」
良平が広げていた新聞の陰から顔を覗かせた。
「会社で何かあったんでしょ」
「ああ。会社つぶれた」
「え?」
良平は再び新聞に隠れた。
勝子は鼓動が激しくなるのを感じた。どうしよう、テニスが出来なくなる、そのことが最初に来た。いやいや、そんなことよりもと考え、テニスをするのにそんなにお金は掛からないんやからと別のことを考えようとしたが、頭が回らなかった。
「どういうこと」
「どういうことも何も、会社が二回目の不渡を出して倒産したんや」
良平が新聞の向こうから声を出す。
「それでずっと忙しかったんですか」
そこでようやく良平が新聞を畳んだ。
「そうや。何とか売掛金を回収して不渡が出んように頑張ったんやけどあかんかった」
「それでどうなるんですか。これから」
「分からん」
勝子の頭に、ようやく住宅ローンのことが浮かんできた。月々十万円ほどの返済がまだ八年は続くのである。
「退職金は出るんですか」
「それも分からん。うちの会社、組合がないからどうしたらええのかみんな分かれへんのや。法律では守られているようやけど、実際は出えへん方が多いみたいや」
「そんな!」
退職金は八百万近くはあるはずだ。
「あと三年で定年やったのに、世の中うまいこと行かんなあ」
良平が大きく溜息をついた。
「とにかく退職金だけはどうしても、もらえるようにしてもらわないと……」
「分かってる。会社の連中と一緒に弁護士立てよか言うてるんや」
勝子は夕食の支度に戻ったが、何も作る気がしなかった。出前を取ろうかと考えたが、折角材料も買ってあるのだし、何よりこれからは出来るだけお金を節約しなければならないという思いで、包丁を動かした。
夕食が出来上がった頃、真悠が帰ってきた。
「あら、お父さん、珍しくきょうは早いんやね」
「ちょっとここに坐りなさい」と勝子が言った。真悠は「着替えてくるから」と答えて自分の部屋に行くと、しばらくして薄い部屋着姿で戻ってきた。
「なあに」椅子に坐ると、真悠は良平と勝子に目をやった。二人とも黙っていると、「香田さんのこと?」と真悠が言った。
「そうじゃなくて」勝子は良平を見た。腕を組んで難しい顔をしている。
「実は、お父さんの会社がつぶれたんよ」
「えー、マジ?」
真悠が目を見開いて良平を見ている。良平はゆっくりと頷いている。
「それでどうすんの、これから」
「お父さんには取り敢えず退職金がもらえるように頑張ってもらって……」
「ムリムリ。うちの会社に派遣で来てる人がいてんねんけど、前の会社がつぶれた時未払いの給料さえ貰われへんかったて言うてたもん」
「問題は住宅ローンやから、お父さんにはそれが払い終わるまでは働いてもらわな」
「お父さん、何か当てあんの」
「当て?」
「会社が再就職の手伝いをしてくれるとか取引先の会社に雇ってもらうとか……」
良平は首を振った。
「そうなると難しいんちゃう。年が年やし」
何てこと言うの、勝子は真悠の腕を叩いた。良平は黙っている。
「取り敢えずご飯食べましょ」
勝子は立ち上がって、味噌汁の鍋を火に掛け、沸騰する直前で火を止めると、三つのお椀によそった。それをテーブルに運んで食事を始めた。
「真悠」と良平が箸を持ったまま言った。「香田さんとのことやけど、結婚せえ」
味噌汁を飲んでいた真悠は、お椀を口に付けたまま良平を見た。
「最悪ここを売らなあかんようになっても、お母さんと二人やったら別に小さいアパートでもええんや。せやから結婚せえ」
「何を言い出すと思たらそんなこと」真悠はお椀をテーブルに置いた。「お父さんの会社の倒産と私の結婚は全く関係がないでしょ。結びつけんといて欲しいわ」
「そうですよ、お父さん。結婚はあくまで真悠自身が決めることなんやから。私たちが口を出さんほうが……」
「何や、お前。この前言うてたこととちゃうな。この前は好きな人と一緒になるのが一番や言うて、結婚させたがってたやないか」
「あの時はあの時。今は真悠の言うことがもっともやと……」
この前とは事情が一変したんやから、変わるのが当たり前でしょと勝子は良平に腹を立てた。この前は、いざとなったらこちらから援助できると思っていたのが、今は援助してもらわなければならなくなるかもしれない、に変わってしまったのだ。娘を手許に置いておけば、何かの時に助けてくれるという思いがある。
「勝手にせえ」と怒鳴ると、良平はご飯を掻き込んだ。
その夜、勝子はスクワットも腹筋運動もやる気がせず、風呂に入ると早々にベッドに潜り込んだ。いつもならあっという間に寝入ってしまうのだが、さすがに寝付きが悪かった。
もし夫の再就職が決まらなかったら、今のパートを止めてフルタイムのパートを探さなあかんし、そうなると平日のテニスが出来なくなる。そうなると週たった一回! しかしそれもできるかどうか分からない。フルタイムのため出来なかった掃除とか洗濯を日曜にせなあかんやろし。フルタイムは止めて今みたいに週三回働くとしたら、貯金を切り崩してどのくらい持つやろか。それであと三年間やりくりして、年金はどれくらいもらえるのやろか。それとも貯金を全部ローンの一括返済に回した方が得やろか。生命保険を解約したらどれくらいのお金が返ってくるんやろか。
頭の中で、いろいろな数字が駆けめぐった。
翌日、良平は残務整理と弁護士の件を話し合うために会社に出掛けていった。
勝子は寝不足で頭がぼうっとしており、テニスを休もうかと思ったが、加代子の来る金曜日なので用意して出掛けた。
ストレッチをして黄色いボールを打っていると、次第に体がしゃんとしてきた。
加代子と組んでダブルスの試合をしていると、頭の中のもやもやが飛んでボールに集中し出した。そのため加代子がミスをすると、思わず大きな声が出た。
「中途半端に前に出るからハーフボレーになるんや。出るならもっと思い切って出てローボレーで取らな」
「はい」と加代子が素直に返事をする。
いいコースに決まったボレーを相手がロブを上げて逃げようとする。勝子は練習の成果を試そうと出来るだけスマッシュを打とうとしたが、加代子はすぐに諦めて勝子に任せてしまう。そんな時「折角いいスマッシュを持ってても打てへんかったら意味ないで」と怒鳴った。相手の一人が含み笑いをしているのが目に入ったが、勝子は気にせずに声を出した。
日曜日も勝子は加代子のミスを叱ったが、途中で香田に「光山さんのミスは私が指摘しますから、赤石さんはいいプレーを褒めるだけにして下さい」と言われてしまった。
終わって、香田が「土曜日も練習しませんか」と言い出した。日曜日だけだと大会まで三回しか出来ないので、土曜日を入れて六回したいと言うのだ。会社の倒産がなければ、一も二もなく賛成するのだが、今は土曜日のパートを休むわけにはいかない。
「そこまでしてもらわなくても……」と勝子は答えたが、加代子は「是非お願いします」と頭を下げた。
「私、バックハンドがだんだん分かってきたところだし、赤石さんともっと息が合うようにしたいし……」
「ごめんなさい」と勝子は両手を合わせた。「土曜はパートがあってどうしても駄目なんよ。それでなくても店長には無理を言うてるから」
結局土曜日は香田と加代子だけが練習をすることになった。
退職金は真悠の予想通り一銭も入ってこないことになった。勝子はテニスの練習を休んで、良平と一緒に弁護士のところに行ったり、渋る良平の尻を叩いて労働基準監督署まで出向いて相談したが、会社の資産が残っていない場合にはどうしようもないと言われてしまった。無駄なことに時間を費やすよりもと、良平はハローワークに行って雇用保険の手続きをし、職探しを開始した。
「三十年勤めても倒産したら、紙切れ一枚で放り出されてしまうんや」と良平は勝子に愚痴をこぼした。
勝子は年金がいつからどのくらいもらえるのか社会保険事務所まで行って説明を受けたが、ややこしくてはっきりと分からなかった。銀行や郵便局の通帳、生命保険の証書をテーブルに並べて、もし夫の再就職がずっと決まらなかったらローンを払い続けてどこまで行けるか検討しようともしたが、最悪のことを考えたら本当にそうなってしまいそうなので、取り敢えず雇用保険が切れるまでは考えることを棚上げにしようと決めた。
今できることはなるべくお金を使わないことなので、勝子は月曜日と水曜日のテニスを止めた。そしてパート先の店長にその日も働かせてくれるように頼んだが、人手が足らなくなったらお願いするということで終わってしまった。
真悠はまだ香田と付き合っているようだったが、勝子はそのことに関して何も言わなかった。ただ結婚費用が出せなくなったことをそれとなく伝え、さらに月々入れさせている食費代の値上げを申し渡した。
真悠は、結婚費用については言われなくても分かっていると答えたが、値上げについては「失業保険が切れるまでにお父さんが再就職できなかったら払うわ」と答えた。理屈を言えば、一緒に住んでいるのだから住宅ローンの一部を負担させてもおかしくないのだが、さすがにそこまで言うことは出来なかった。
金曜日のテニスが待ち遠しかった。前日天気予報が午前中一時雨の予報を出していたので気が気でなかったが、朝起きて真っ先に窓の外を見ると薄日が射していたので勝子はほっとした。
蒸し暑くコート上ではだらだらと汗が流れたが、逆にそれが爽快だった。
香田の忠告にもかかわらず、勝子は加代子のミスを叱咤し続けた。金曜日はミスを指摘する人間がいないのだから仕方がないと勝子は思っていた。加代子も勝子の大声を嫌がっているようには見えなかったし、真剣な表情で「はい」と頷き、同じようなミスをしないように必死で体を動かしているように見えたからだった。
ところが日曜日、二対一の試合をしている途中で、香田がこちらのコートにやってきて、ミスをした加代子のバックハンドを直そうと身振り手振りで教えているのを見た時、勝子はまさかと思った。
「きのう練習したように、もっとボールに近づいて腰の回転で鋭くラケットを振り抜いたほうがいいですよ」
香田の忠告に加代子は笑顔で頷き、何度もラケットを振っている。
加代子が自分の叱咤に嫌にならずに付いてくるのは香田に会いたいため? と勝子は考え、そんなばかなとすぐに否定した。しかし香田が土曜の練習を提案した時、加代子はすぐに賛成したし、ひょっとしたら自分が土曜は時間がないことを香田は知っていて、提案したのではないかとまで考えて、勝子はそんな自分を笑った。別にそうであってもええやんかと勝子は思う。それで加代子が練習に付いてくるなら願ってもないことだし、真悠と香田の仲がどうなろうと自分には関係のないことだ。
しかし練習試合が再開されると、勝子は簡単なミスを連発した。香田に「どうしたんですか。動きが悪いですよ。疲れましたか」と言われる始末だった。勝子は顔がかっと熱くなるのを感じた。余計なことを考えるなと思うこと自体が、余計に集中力をそぐ結果になった。
練習が終わって家でシャワーを浴びている時、ようやく勝子は加代子に嫉妬していたことに気づいた。婿さんを取られるという気持ちがどこかにあったに違いない。
風呂場から出ると、勝子はソファーに寝そべってテレビを見ている真悠に、思わず「香田さんとのことどうなってんの。はっきりしなさい」と怒鳴ってしまった。
真悠はぽかんとしていたが、やがて「何か言われたん」と上半身を起こした。
「別に何も言われへんかったけど、いつまでも結論を先延ばしにしてたら、香田さんにも迷惑でしょ」
「私が結論を先延ばしにしてるわけとちゃうよ。私ははっきりしてるんやから。香田さんの方がどうしょうかと迷ってるだけ」
「そんなこと言うてて、他の人に香田さんを取られても知らんよ」
「何、それ」
「そういうこともあるという話」
「そんなこと、あるわけないやん」
「それやったらええけど」
その時良平が帰ってきた。疲れた顔をしている。
「どこへ行ってはったんですか」
「別に」
近くに来た良平の頭から煙草の臭いがする。
「パチンコですか」
良平がえっという顔をした。
「煙草くさい」
良平は開襟シャツの袖に鼻を近づけた。
「その顔は負けたいう顔ですね」
良平は返事をしない。
「なんぼ負けはったんですか」
「……五千円」
「五千円! 私の一日のパート代やないですか。なんでそんな無駄なことをするんですか。もう全く何を考えてるのか分かれへんわ」
本当は一万に違いないと思っているから、ますます腹が立ってくる。
「……新装開店やったから儲かると思てんけどなあ」
「素人が急にやって儲かるわけあれへんでしょ。そんなことも分かれへんのですか。私はテニスを止めてパートを増やそうと思てるのに……。そやのに一方でお金をドブに捨てられたら、どうやって生活していくの。分かってはるんですか」
さらに、仕事が決まるまで小遣いなしと言おうとしたが、良平は反発する様子も見せず、しょぼんとしている。肩を落とした体は以前よりも小さくなっているように見える。勝子の頭に、貧すれば鈍すという言葉が浮かんだ。そうすると急に頭に上った血が降りてきた。香田と加代子の様子を見て、しょうもないことを考えたのも鈍すではないのかという気さえした。
勝子は黙っている良平の横顔をしばらく見詰めてから、
「そんな小さい玉弾かんと、たまには大きい玉を打ったらどうですのん」
「ええんか」良平が顔を上げた。
「ただし月一回。再就職が決まったら、ずっとそれでよろしいけど、決まらなかったら失業保険が切れるまで」
「わかった」
良平が笑った。そうや、お父さんもそうでないとあかんと勝子は思った。
と悟ったものの、良平が仕事がないと言いながらハローワークから帰ってくると、仕事の選り好みをせんとどんな仕事でもやったらどうですのんとか、年齢制限に引っ掛かっても駄目で元々で面接に行きはったらと、つい強い口調になってしまう。真悠もこっちのことには我関せずで、時折酒の臭いをさせて夜遅く帰ってくる。香田とのデートかと思えばそうではなく、合コンに付き合わされたと言う。そんなお金があるんやったらもう少し家に入れなさいと言いたいのを我慢して、勝子はテレビで見た節約料理とか節電、節水の方法を実践した。
寝る前の運動も続けていた。膝が痛くならないのはスクワットのせいだと思うし、以前はたまにあった腰の張りも腹筋背筋運動をし出してからは感じなくなったので、止められなくなった。
金曜日には相変わらず加代子のミスを強い言葉で指摘したが、テニス仲間は、二人の息がかなり合ってきたと言ってくれた。勝子もそれは感じていたが、もっともっとという気持ちがあって、そのことを加代子には言わないでいた。
帰りに加代子と並んで自転車を押しながら、「だいぶダブルスのペアらしくなってきたわ」と勝子は言った。
「ほんとですか。よかった」
「私ってうるさいでしょ。よう嫌になれへんかったね」
「高校の時はもっと言われましたから。何かキャプテンに言われているみたいで、昔を思い出してました」
「高校の時は嫌になれへんかったん?」
「私って鈍いんです。みんなからもよく言われました。何言われても応えないなあって」
勝子はちょっと笑ってから、「香田さんのこと、どう思う」と言ってみた。
「すごく教えるのが上手な人ですね」すぐに答えが返ってきた。「バックハンドの感覚がなかなか掴めなかったのが、この前土曜日一日だけで何か分かってきましたから」
「あの人、私の娘のボーイフレンドなんよ」
「聞きました。結婚されるんですってね」
「何や、知ってたん」
「この前少し話をして……」
勝子は拍子抜けをした。
「プロのプレイヤーを目指していたという話は?」
「聞きました」
「それじゃあ、プロのコーチを目指すというのは?」
「いいえ」
「どうもそうらしいのよ。あなた、どう思う」
「いいじゃないですか。素晴らしいと思いますけど」
「それはあなたがテニスが好きだから言えるんよ。私の娘は全然テニスをしないから、もう絶対反対で……」
「そうなんですか」
「あなたのところ、子供いる?」
「ええ、二人。上が男で下が女」
「いくつ」
「十三と十ですけど」
「そのぐらいやったら、まだええよね。ええ年してずっと家に居てられるのも困ったもんだわ」
加代子は声を出さずに笑った。
勝子のスピンサーブもようやく形になってき、加代子のバックハンドも見違えるようにうまくなった。練習試合で勝子はミスを責めるより、いいプレーをなるべく褒めるようにした。息が合っているのがはっきりと分かるようになり、一緒にプレーをしていて楽しさを感じるようになった。
大会の申し込みの締切が迫ってきたので、そろそろ加代子の年齢を証明する書類を用意する必要があった。そのことを言わなければいけないと思って、日曜日に河川敷のコートに行くと、香田の横にいる加代子はテニスウエアではなくジーンズにTシャツという恰好をしている。足許はサンダル履きで、左足首に包帯が巻かれている。まさかと勝子は思った。
「どうしたの、それ」
「すみません。捻挫しちゃいました」
「僕が悪かったんですわ」と香田が言う。きのうバックハンドでアングルに打つショットを練習している時に、急角度のボールを配球しすぎて足首を捻ってしまったのだ。
勝子の全身から力が抜けた。これで大会出場が出来なくなった。
「誰か代わりに出てくれる人はいませんか」と香田が言った。
「今からでは無理やわ」
「すみません」と加代子が小さな声で言って、頭を下げた。
「そんな、気にせんでええよ。一所懸命練習してそうなってんから」
「残念ですね。これだけ練習してきて、だいぶレベルも上がったと思てんのに、それを試合にぶつけられないのは」と香田が言う。
勝子はすっかり諦めていた。ここでこうなったのもテニスを止めてフルタイムで働けよという天の思し召しではないかという気がしたのだ。
加代子が帰った後、その日は練習メニューをやらずに、香田とシングルマッチをした。普通にやったら勝てるはずがないので、香田の守るのはダブルスコートで、15対0と勝子がワンポイント先行でゲームを始めた。
それでも勝つのは容易でなかった。フラットサーブは封印してもらったが、スピンサーブはキックするし、チャンスに前に出て行くと、左後方に絶妙のロブを上げられてしまう。時にはスマッシュするのに絶好のロブを上げてくれたが、それを練習通りにきれいに打ってもコースを読んでいるのか返されてしまう。
休憩を入れて三セットしたが、結局一ゲームも取れなかった。それでも勝子は楽しかった。一ゲームも取れずにこんな楽しいことは今までになかったことだ。
ネットを片付けてコートを出たところで、勝子は香田に礼を言った。
「折角一所懸命教えてもらったのに、無駄になってしまってごめんなさい」
「いや、別に無駄だったとは思ってませんよ。やっぱりテニスが好きだと分かって、自分ではよかったと思ってます」
「それでどうすんの、コーチ留学?」
「やっぱりやってみようかなと……」
「真悠に言うた?」
「言うつもりです」
「別れるて言われても押し通さなあかんよ。私の見るところたぶん口だけやと思てんねんけど」
「本当ですか」
香田が意外そうな顔をした。
家でシャワーを浴びながら、終わった、終わったと口に出して言っていると、本当に何もかも終わった気になってきた。スクワットも腹筋運動も無駄だったかと思うと、いささか残念だった。
その夜、東京に行ってから初めて千秋から電話があった。一旦社宅に入ってからマンションを探し回って、ようやく見つかったと千秋は言った。東京は言葉がけんか腰みたいに聞こえて、大阪弁が思い切りしゃべられへんのが歯がゆいと言う。千秋が真悠と香田の結婚のことを訊いてきたので、勝子は良平の会社の倒産の話をした。そんな話が出来るのは千秋だけだ。
「ほんと! それは大変やね。これから結婚費用とかかかるのに」
「それはええねん。真悠に結婚費用は出されへんて言うたあるから」
「ご主人、いくつやった」
「五十七。あと三年で定年やったのに」
勝子は退職金が出なかったことや住宅ローンが残っていることまで話した。テニスを止めてフルタイムで働くつもりであることを言うと、千秋は加代子とのペアはどうかと訊いてきた。
「それが昨日練習中に足首を捻挫して、結局大会には出られへんのよ。だんだん息が合ってきて、うまいこと行きそうやったのに」
「それじゃあ、大会には別の人と出んの?」
「私のペアになってくれる人が他にいてると思う?」
「いてへんわね」
「そやろ」
「それでどうすんの、大会は」
「出られへんよ」
「ふーん」
千秋はしばらく黙ってから「ちょっと待ってね」と保留に切り替えた。保留のメロディが響いてくる。
少し経って千秋が戻ってき、「私が出ようか」と言った。
「どういうこと」
「私がそっちへ行くのよ」
「え?」
「前の日にそっちに行って、翌日大会に出るのよ」
「そんなこと、ええの?」
「今、だんなの許可もろたから」
「ほんとにほんと? いやあ、うれしいわ。何か急にやる気が出てきたわ」
「その代わり新幹線代出してね」
「出す、出す」
「冗談よ。こっちが出すのに決まってるやんか。久し振りに大阪の空気が吸えるんやもん」
「そうしたら家に泊まってな。ホテル代まで出してもろたら申し訳ないもん」
「赤石さんとこがそれでええんやったら、喜んで」
「よっしゃ、決まり」
千秋が土曜日の夕方に勝子の家に来ることになり、大会の申し込みを勝子がしておくことになった。千秋は参加費用を出すと言ったが、それだけは負担させてと勝子が頼み込んだ。
早速翌日勝子は地下鉄に乗ってテニスクラブまで出向き、申し込みをした。一度でも大会に出たことのある人は年齢を証明する書類は必要なかった。AKペアが出ているか尋ねてみたが、当日発表するということで教えてもらえなかった。
勝子は最初応接間に蒲団を敷いて千秋を泊まらせようと考えていたが、真悠に訊くと土曜日に香田と会う約束をしていると言うので、その日は香田のところに泊まるように言った。真悠は「何で私が部屋を明け渡さなあかんの」と怒ったが、勝子が「香田さんとじっくり一晩話し合うのもええことやで。それにあんたとこのエアコンが一番体に優しいから高島さんにそこで寝てもらいたいんや」と言うと、渋々承知した。その代わり、シーツも夏蒲団も新しくして洋服箪笥は絶対触らないようにと注文を付けた。
土曜日は朝から雨だった。勝子は弁当屋のパートに出掛け、三時に終わって買い物をして帰ったが、まだ雨は降り続いていた。
家には真悠はおらず、良平がゴルフのクラブを磨いていた。明日、良平がパブリックコースにゴルフに行くついでに、大会会場まで車に乗せていってもらうことになっている。良平にとっては、一ヶ月ぶりのゴルフだった。そのためしきりに雨を気にしていたが、それは勝子も同じだった。雨天順延ということになっているが、もしそうなると千秋が来るのが無駄になるし、もう一度来てくれとは言えないだろう。テレビの天気予報を何度も見たが、曇り時々雨で降水確率が五十%だった。
六時過ぎにチャイムが鳴り、玄関に出ていってドアを開けると、テニスラケット形のバッグを肩に掛け、傘を手にした千秋が立っていた。バッグの所々に雨に濡れた跡がある。
「よう来てくれたわ。濡れたやろ」
「ううん、大したことないわ」
勝子はタオルを取ってきて千秋の肩を拭いた。
「明日大丈夫やろか」と千秋が言う。
「大丈夫。絶対晴れるって」
千秋を真悠の部屋に案内し、そこに荷物を置かせた。
「真悠ちゃんは?」
「香田さんとこ」
「いよいよ、結婚すんの?」
勝子は少しためらってから、香田が会社を辞めてコーチ留学しようとしているが、真悠が大反対している事情を話した。
「そうなんや。それは結構揉めるわね」
「あなたやったら、どうする」
「うーん、私やったら喜んで付いていくけど」
「そうやろ。好きな男のやることを陰で支える気になるやろ」
「て言うか、私、一度でいいからアメリカに住んでみたいから」
「それが理由?」
「あかん?」
「あかんことないけど……」
「真悠ちゃん、何か自分のしたいことあんの?」
「ないない。あの子安定志向なんよ。結婚して子供を育てて、のんびりと行きたいみたいやから。私みたいにパートで自分の時間がなくなるのも嫌て言うてたから」
「それやったら、公務員の男を掴まえなあかんのと違う?」
「そうなんよ。今度の父親の会社の倒産なんか見てたら、余計にそう思てるやろな」
千秋を居間に連れていくと、ソファーでテレビを見ていた良平が立ち上がった。
「こんな雨の日にわざわざ東京から来てもろてすみませんねえ。テニス大会いうても、大したことのないただの草テニスやのに」
千秋が複雑な表情をしている。
「それが余計や言うの。二人で、その草テニス大会を目指してたんやから」
「そやから言うて、東京から来てもらうことないやろ」
「いや」と千秋が口を挟んだ。「私の方からお願いしたんです」
「あ、そうですか。それはどうも……」
「こんな人ほっといて、晩ご飯食べましょ」
勝子は千秋の腕をつかんで、台所に引っ張っていく。「おいおい、それはないやろ」と良平が付いてきた。
明日のために勝子は焼肉を用意した。ロース、カルビ、タンと上等の肉を奮発した。コールスローをたっぷりと作り、サニーレタスや玉葱、トウモロコシ、カボチャなどの焼き野菜も皿一杯に盛った。
「お、豪勢やな」と良平が目を見開いた。「こんなことやったら、毎週来てもろたらどうや」
「いつでも呼んで下さい」と千秋が受けた。
ホットプレートに肉を乗せて焼く。煙が部屋を臭くするので滅多に焼肉をしないのだが、きょうは全然気にならない。途中で換気扇を付け、暑くなってきたのでエアコンも強くした。
千秋は夫のゴルフの話をして良平の話を引き出し、良平の質問に答えて夫の仕事を話した。彼女の夫は、コンビニの新規出店を手掛ける仕事をしている。そこから景気や政治の話になっていく。その合間に、良平のコップが空になると、勝子が手を出す間もなく千秋がビールを注ぐ。勝子はへえと思いながら、その様子を見ていた。良平の失業や真悠の結婚には全く触れない。
食事が終わって、千秋が片付けを手伝うと言うので、並んで皿洗いとすすぎをやっていた時、「高島さんて男を扱うの結構うまいんやね」と勝子は小声で言った。
「どういうこと」
「さっき、うちの旦那にうまいこと失業に触れさせないようにしたやろ」
「ああ、あれ。あれは私のだんなから学んだんよ。男が落ち込んでいる時に同情は禁物。特に仕事の出来る男ほど同情されたら余計に落ち込むんやて。同情よりもプライドを傷つけんようにすることらしいわ」
「へえ。知らんかった」
「そやろ。男ってややこしい生き物なんよ」
明日は三人とも早く起きなければならないので、風呂に入ると、十時前には寝ることにした。千秋が風呂に入っている間、勝子はいつものように居間のカーペットの上に大判のバスタオルを敷いて、スクワットと腹筋背筋運動をした。
夜中、目覚めた勝子はトイレに行った帰り、居間のカーテンを細く開けて外を見た。水たまりに雨が落ちているのかどうか見たが、よく分からない。それで水銀灯の明かりに目を凝らしていると、やはりまだ降っているのが分かった。勝子はがっかりしてベッドに戻り、晴れますようにと祈りながら目を閉じた。
六時前に目を覚まし、勝子は窓の外を見た。地面は濡れているが、雨は止んでいる。よっしゃと勝子は自分に気合いを入れた。このまま天気が持ってくれれば大会は開かれる。
勝子は顔を洗い、汗に強い化粧品でいつもより念入りに化粧をした。
朝食の用意をしていると、「おはようございます」と言って千秋が姿を見せた。化粧をして、すでにテニスウエアを着ている。
「眠れた?」
「ばっちり」
良平も起きてきた。いつもならパジャマ姿なのだが、今朝はもうゴルフウエアを着ている。
「雨が上がったなあ」と良平は喜んでいる。
「雨が降ったら、ゴルフはされないんですか」と千秋が訊く。
「少々の雨やったらやりますけど、やっぱり晴れた日がよろしいなあ。緑の芝生の上を白いボールがすーっと飛んでいって、青い空に吸い込まれる。何とも気持ちがええんですわ」
「それはテニスも一緒」と勝子が言った。「相手のラケットの届かないところに黄色いボールを打ち込む。それが緑のコートに転がっていく気持ちよさ」
「その、相手のいてへんところに打つっちゅうのがいやらしい」
「いやらしいのが面白いんやないですか」
「その点ゴルフは紳士のスポーツや」
「テニスは女に向いてるて言いたいんでしょ」
「誰もそんなこと言うてへん」
千秋が笑っている。
朝食を済ませて早めに家を出た。雨が上がってむっとしている。駐車場に置いてある小型乗用車のトランクに、良平はゴルフバッグを、勝子と千秋はラケットのバッグとスポーツドリンクやタオル、サポーターの入ったリュックを入れた。
後ろの座席で揺られながら、再就職が決まらなかったらこの車も手放さなあかんなと勝子は考えていた。ゴルフに行くために買ったのだから、行かなくなったらいらない。そして空いた駐車場をマンションの他の住民に貸す。それも住宅ローンが払えたら、が前提になる。ローンさえ終わってたらと勝子は考え、改めて退職金が消えてしまったことに腹を立てた。
大会会場のテニスクラブに着いて、勝子と千秋は車から降りた。トランクからバッグとリュックを取り出すと、千秋が運転席の良平に頭を下げた。ウインドーが降りて、良平が顔を出す。
「うちの奴が足を引っ張っても怒らんといて下さい」
「何言うてんの」と勝子。
「ゴルフしながら応援してるで」
良平は手を振ると、にこにこしながら車を発進させた。
「ご主人、ご機嫌ね」
「久し振りのゴルフやからね」
クラブハウスにはすでに十数人の人たちがおり、中にはかなり年齢のいった女性もいた。
フロントで名前を告げると、若い女性の係員が丸い穴の空いた箱を下から出してきた。勝子は穴に手を突っ込んで楕円形のプラスチックの札を一枚取り出した。9と書かれてある。
係員は札を持ってカウンターの横から出てくると、ホワイトボードに貼った大きな紙の下に、マジックインクで書き込みをした。上部には「第十回すずらん杯女子ダブルスシニア大会」と書かれており、トーナメントを表す線が優勝のところまで積み上がっている。全部で二十四組あり、9の字の下に、赤石、高島と名前が入った。一回戦がシードになっていて、勝子はちょっと嫌な感じがした。試合数が一つ少ないのはそれだけ疲れが少なくなるので有利な面はあるが、一度試合をやって勝ち上がった相手とやるのは、試合慣れという面から見たら不利なのだ。
去年負けたAKペアは出ているかと思って見てみると、勝子たちと反対のブロックの中に秋月、加藤という名前を見つけた。勝子はいささかがっかりした。AKと対戦するには決勝に残らなければならないし、向こうも勝ち上がって来なくてはならない。
「赤石さん、決勝に残らなあかんね」と千秋が言う。
「向こうも上がってくるやろか」
「絶対来るって。決勝は私たちとAKペアで決まり。そのために練習してきたんやから」
千秋の強気の言葉とは裏腹に、勝子は不安だった。一ヶ月近くも千秋とペアを組んでいないことで、コンビネーションが前のようにうまく取れるか心配だった。
ロッカールームでトレーニングパンツを脱いでショートパンツ姿になる。いつもは日に焼けるのが嫌で、ショートパンツは穿かないのだが、こういう大会では穿くのである。その方が気合いが入る。勝子が右膝にサポーターをはめていると、
「赤石さん、結構太腿が締まってきたんとちゃう」と千秋が言った。
「この前膝を痛めた時から、防止のためにスクワットをずっとやってたから」
勝子はショートパンツの裾をめくって見せた。
「筋肉が付いてる。すごい」と千秋が勝子の太腿を触った。
「腹筋と背筋もずっとやってたから」と勝子は自分の腹を掌で叩いた。
腕や足、それにとくに念入りに顔に日焼け止めクリームを塗ってサンバイザーを被り、二人はコートに出た。コートは五面あり、そのうち四面が田の字になっていた。それを挟むように簡易スタンドが作られている。試合はそこで行われ、クラブハウスの横にあるもう一面は、ウォーミングアップ用になっていた。すべてハードコートでまだ濡れていたが、所々乾きだしているところも見える。
すでに何組かがウォーミングアップのラリーをしており、その中にはAKペアがいた。
勝子と千秋もストレッチで体をほぐしてから、一組が打ち合っているコートに入って、ミニラリーを始めた。それがすむと、ボレー、ストローク、ボレーストローク、サーブと練習をしていった。
九時前に試合を始めるアナウンスがあって、勝子と千秋は簡易スタンドに移動した。ペアの名前と使うコートの番号がスピーカーから流れ、二人は次に対戦する相手を見ようとコートの近くまで行った。スタンドが濡れていたのでタオルで拭いて腰を降ろす。
試合は一セットマッチで、6対6になったら12ポイントタイブレークを行う。ボールがアウトかセーフかの判定は各自で行うセルフジャッジだった。
それぞれ4球ずつのサーブ練習が終わると、試合が始まった。見ているとすぐにどちらが勝つか分かった。それほど力の差があった。
「向こうが勝つんちゃう」と勝子が言う。
「たぶんね」
勝子はそのペアを注意深く観察した。一人は自分たちと同じ五十代のようだが、もう一人は髪の白さからいって六十は十分越えているだろう。足の動きも遅い。しかしラケットの面を合わせるのがうまく、あまりミスをしない。要注意かもしれないと勝子は思った。
試合は案の定そのペアが6対2で勝った。コートには次のブロックの一回戦を行うペアが入ってき、勝子と千秋は体をほぐすためにウォーミングアップ用のコートに行って、軽く打ち合った。
スピーカーから勝子たちの名前を呼ぶアナウンスが流れた。勝子は鼓動が大きく脈打つのを感じた。
ラケットをバッグに入れ、千秋と並んで歩き出す。コートを出る時、千秋が勝子の目の前に右手を突き出した。勝子はそれを握って二、三回振った。
薄日が射してきており、コートはほとんど乾いていた。気温も上がっている。
相手ペアはすでにネット前にいた。近づいていって握手を交わす。どちらもにこやかな表情をしている。勝子も笑おうとして、顔が強ばっているのに気づいた。
相手の五十代の方が「ウィッチしましょうか」と言ってラケットを回した。
「スムース」と勝子が言う。スムースになってくれと祈ったが、結果はラフだった。選択権を握った相手はコートを取り、勝子たちがサーブをすることになった。こちらがまだ試合をしていないので緊張していると見て取って、サーブを渡したに違いなかった。多分そう来るだろうと思って選択権を取りたかったのだが、仕方がない。
左右のポジションで2球ずつサーブの練習をしてから試合開始になった。勝子はためらうことなく自分がサーブをすることにした。
ベースラインのすぐ外側に立ち、一つ深呼吸をする。練習してきたスピンサーブのイメージを思い浮かべながら左手でボールを三回突く。レシーバーは白髪の六十代だ。ネット越しにセンターライン付近を見詰めてから、勝子は振り子のように腕を振ってトスを上げた。その瞬間無心になった。体が勝手に動き、練習通りのスピンサーブがレシーバーのバックに入った。相手は返すのがやっとで、ふわっと浮いたボールを千秋が難なくボレーで決めた。
「ナイスサーブ」
千秋がガットを掌で叩いた。勝子はふっと肩から力が抜けるのを感じた。
試合は一進一退だった。心配していた通り、二人の息がなかなか合わず、つまらないミスが重なった。勝子はかっとなる気持ちを抑え、笑顔で、ドンマイ、ドンマイと繰り返した。普通にやれば勝てるはずだという気持ちが焦りを呼び、勝子も無理をしてしまう。それが千秋にも伝わり、その都度勝子は「ねばり強く繋いで行こ」と千秋に声を掛けた。
結局タイブレークになり、最後は相手のボレーミスで勝った。ネットを挟んで相手ペアと握手を交わして、ようやく勝子に笑顔が出た。
スタンドで流れる汗をタオルで拭い、スポーツドリンクを飲んだ。
「危なかったわね」と千秋が言った。
「嫌な予感がしてたんよ。でも勝ってよかったわ。これで何とか波に乗れたらいいけど」
しかし、そうはうまく行かなかった。大して上手とは思えない相手に手こずり、準々決勝は7対5、準決勝はまたもやタイブレークになり、なんとか7ポイントを先取して勝った。
試合の合間にAKペアの試合を見たが、去年と同じように若い方のフラットサーブは速く、動きもいい。大半のポイントをAが取っており、年を取った方は繋ぎに徹している。
AKペアも順当に勝ち上がり、このまま決勝になったら勝ち目がないと思っていたら、ちょうど、昼食休憩になった。
近くのコンビニエンスストアに行くと、テニスウエア姿の人がかなりいて、弁当がほとんど売れている。勝子と千秋は残っていたお握りとお茶のペットボトルを買った。午後一時からすぐに決勝が始まるので、あまり胃に溜まらない方がいいのだ。
クラブハウスで食べてから、すぐに冷房の効いた部屋を出た。
ラケットを持ってウォーミングアップ用コートに行くと、AKペアが打ち合っていた。勝子たちに気づき、若い方が軽く頭を下げる。勝子も頭を下げ、すぐに千秋の腕を引っ張ってコートを出た。
「ウォーミングアップせえへんの」と千秋が訊く。
「向こうでやろ」
勝子は四面コートの方を指差した。逃げてるわけやないと思ったが、敵に背中を見せたのが気になった。
四面コートの方が広々として気持ちがいい。三位決定戦や敗者復活戦の決勝戦が同時に行われるので、それらに出場するペアもウォーミングアップをしている。
一時少し前にアナウンスがあり、勝子と千秋は汗を拭い、スポーツドリンクを飲んでから、一番コートに行った。決勝戦だけは審判がジャッジをすることになっており、タイブレークはなく、6対6になっても2ゲーム引き離さなければ勝てない。
程なくAKペアがやって来た。ウォーミングアップの時のにこやかな表情ではなく、真剣な顔付きをしている。勝子はそれを見て、意識的ににっこりと笑いかけた。しかし二人の表情は変わらない。連続優勝を意識しているのかと勝子は思い、そう思う自分に余裕があると言い聞かせた。
審判は浅黒い顔をした四十過ぎの男性で、このテニスクラブのコーチをしていると自己紹介をした。そしてタイブレークなしの一セットマッチであることを告げ、ポケットから百円硬貨を取り出した。
100という数字の面が表だと説明してから彼は百円玉をトスして、掌で隠す。勝子は自分のサーブが調子がいいのでサーブを取りたかった。
勝子はコインの表裏の選択を相手に譲った。相手が選んでこちらにサーブが回ってきたら、ツキがあるに違いない。
若い方が「表」と言い、審判が掌を開けると裏だった。よしと勝子は気合いを入れ、相手と握手をする手に力を込めた。
四球のサーブ練習も相手に手の内を見せないように、スピードを殺した緩いサーブにした。
高くなった台に腰を降ろした審判が、「只今から第十回すずらん杯女子ダブルスシニア大会の決勝を行います。サーバー赤石、高島ペア。レシーバー秋月、加藤ペア。それでは始めて下さい」と宣言した。
勝子はベースラインの前に立って、相手のコートに目をやった。レシーブは年を取った方だった。鼓動が速くなる。緊張したら息を吐くことに集中しろという香田の言葉が甦り、勝子は三回深呼吸をした。
左手でボールを突いてリズムを取り、トスを上げる。頭の上のいい位置にボールが上がり、勝子は曲げた膝を思い切り伸ばして半回転したラケットをボールに叩き付けた。
スピードのあるスピンボールがセンターラインぎりぎりに飛んでいく。決まったと勝子は思った。
しかし相手はラケット面を合わせると、そのボールをロブで返してきた。ブロックしただけのふわふわとしたボールだったが、深く返ってくる。勝子はスマッシュの体勢から決めてやろうとラケットを振り抜いたが、ボールは相手のコートを大きくはずれてしまった。
勝子はかっとなった。「ドンマイ、ドンマイ」という千秋の言葉も耳から耳へ素通りした。相手にサーブのコースを読まれている。どうしよう。
アドバンテージ側からのサーブで、勝子は、読まれてても簡単に打ち返せないように角度を付けようとサイドラインぎりぎりを狙った。しかしそれがファールになり、仕方なく回転を多くして入れにいったサーブを両手打ちのバックハンドで思い切り叩かれた。それがレシーブエースになり、勝子の頭はますます熱くなった。
何とかサーブで崩してやろうという思いが却って力みを生み、1ポイントも取れずにゲームを失った。
コートチェンジの時、気分を変えるためにベンチの陰に置いてあるドリンクを飲んだ。
「ごめん」と勝子は千秋に言った。
「気にせんと、次から頑張ろう」
しかし一度調子が狂うと歯車はなかなか元に戻らない。三試合やって何とか息が合ってきたはずのコンビネーションも狂ってき、勝子は思わず「もっと早くコートカバーして!」と怒鳴ってしまった。千秋は厳しい顔で「わかった」と答える。丁寧に繋いでいこうとすると、若い方の思い切ったポーチにやられてしまう。
結局千秋のサーブゲームをキープしただけで、勝子のサーブゲームは二度もブレークされてしまった。審判台の横にある黒板に、赤石高島2、秋月加藤5と書かれ、次にキープされると、試合が終わってしまう。
ベンチで休みながら、今年も完敗かと勝子はがっかりしていた。特訓の成果もここに来て生きてこない。来年はもう出られないだろう。テニスが出来るかどうかも分からない。
審判の合図で、勝子と千秋は立ち上がった。相手のサーブは若い方で、ファーストサーブの確率は悪いが速いフラットサーブを打ってくるのだ。
第一球目、速いサーブがバックに来て負けないように打ち返そうとして振り遅れてしまった。ボールがとんでもない方向に飛んでいく。しまったと思ったが、「フォールト」の声で救われた。
その時、「ブロック、ブロック」という声が後ろのスタンドから聞こえた。振り返ると、香田がラケットを握る真似をして立っており、横には真悠が坐っていた。いつの間に来たんやと勝子は呟いた。一緒に来たということは話がついたんやろか。
「コーチ」と千秋が香田に手を振っている。
審判から構えてという声が掛かり、勝子はラケットを両手で握って相手を見た。
セカンドサーブはスピードを殺したスピンサーブで、再びバックに入ってくる。ポーチをされないように打ち返すが、サーバーがダッシュして前に来ており、ロングボレーが深く返ってくる。
「ロブを使う」香田の大声が聞こえてくる。勝子はその声でとっさに前衛の後方にロブを上げた。
「前に行こう、前に」香田の声に導かれるように勝子は前に行き、ハイバックボレーでかろうじて返ってきたボールをセンターに叩き付けた。
「その調子、その調子」
香田が右手でOKサインを出している。隣の真悠も手を叩いている。
1ポイントを取ると、気分的に楽になった。次のレシーブの千秋は、セカンドサーブをいきなりロブで返し、相手もロブを返してきた。それが浅くなり、千秋がそれを角度の付いたスマッシュで決めた。
0対30。次のポイントを取れば、このゲームを取る可能性がぐんと高くなる。勝子はラケットでブロックするイメージを持って、腰を低く構えた。
相手がトスを上げる。ラケットがボールに当たる瞬間、スプリットステップを踏んで上体を起こす。速いサーブがバックに飛んでき、勝子は手首を固めてブロックする。しかし返ったボールがセンターにふわっと飛んでいき、やられたと思った瞬間、相手がボレーをネットに引っかけてくれた。ついていると勝子は思った。
0対40と追い込まれた相手が焦っているのが分かった。力が入り過ぎてファーストサーブは大きくはずれ、セカンドサーブは入れようとしてネットに掛かってしまった。
1ゲーム返して、3対5。次に自分のサービスゲームをキープすれば、相手は焦るはずだ。
しかし勝子はいきなりダブルフォールトをしてしまった。気落ちしていると、「一ポイントに集中して」という香田の声が聞こえてきた。その声で、勝子は自分も勝ちを焦っていることに気づいた。途端に肩から力が抜けた。
次のサーブはコーナーぎりぎりにスピンサーブが決まり、相手のレシーブミスを誘った。勝子は余計なことを考えずに、目の前のボールにだけ意識を集中させた。千秋の動きもよく、次々とボレーが決まった。
4対5。次に相手のサービスゲームを破れば、タイになる。しかもサーブは年の取った方なので、速くはない。
勝子と千秋はリターンダッシュをして攻めていった。相手がロブで逃げようとしても、スマッシュがいいところに決まった。流れが完全に傾いた。
しかし30対40になってブレークポイントを握った時、相手が角度のあるボレーを打ってきた。勝子は必死で走っていき、ボールに飛びついた。その瞬間ごりっという音が耳に響き、同時に深く曲げた右膝に痛みが走った。
ボールは浅いロブになったが、力が入り過ぎたのか相手のスマッシュはベースラインをはるかに越えてしまった。
「やった!」と千秋が叫んでいる。
やっと追いついた。しかしその思いとは裏腹に、勝子は膝の痛みに耐えていた。足を引きずっていると、千秋が近づいてきた。
「どうしたの。痛めたん?」千秋が勝子の顔を覗き込んだ。
「そうみたい」
「大丈夫?」
「分からない」
コートチェンジを促す審判に近づいて、勝子はテーピングをする時間が欲しいと頼んでみた。審判は相手のペアを呼び、了解を求めた。AKペアが「いいですよ」と了承してくれたので、勝子はベンチに腰を降ろして、バッグの中から念のためにと持ってきたテープを取りだした。隣で千秋が心配そうに見ている。
汗を拭ってテープを巻き始めた時、誰かが前に立った。顔を上げると、香田がいた。
「僕が巻きましょうか」
「お願い」
香田は勝子を立たせ、右足の踵の下に折り曲げたタオルを挟んだ。そしてテープを巻いていく。
「話はついたの」
「え?」香田が顔を上げた。
「あの子」と勝子はスタンドにいる真悠を見た。「あなたに付いていくて言うたんでしょ」
「ああ、そのことですか」香田が笑った。「実は、お母さんがこの試合で優勝したら、僕のコーチの才能を認めて付いていくということになったんです」
「何やて」
勝子は思わずスタンドを見た。真悠がいない。どこに行ったのかと周りを見回すと、彼女がコートに入ってくるところだった。
「お母さん、無理せえへん方がええんとちゃう」
「ここで棄権したら、あんた、香田さんに付いていけへんねやろ」
「そりゃそうやけど……」
「だったら最後までやらな」
香田が最後にテープを膝全体にぐるぐると巻いた。踵の下のタオルを取り、「どうですか」と訊いてくる。立っているだけでは痛みはない。少し屈伸すると痛みが走るが、我慢できないほどではない。
「何とかできそう」
しかし不安もあった。「痛みが出て歩けんようになりますよ」何ヶ月か前の医者の言葉が甦る。医者通いになればお金も掛かる。パートも出来なくなる。
「試合できますか」
審判が訊いてきた。勝子は頷いた。
千秋がラケットを手渡してくれた。それを受け取って向こうのコートに行く時、AKペアとすれ違った。勝子は若い方に笑いかけた。彼女は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに笑顔を返してきた。
サーブをする千秋がベースラインのところに立つ。勝子はネットを前にしてラケットを構えた。
その時、薄曇りの空が急に晴れて、夏の日差しがテニスコートに射し込んできた。見上げると、真っ青な空が目に飛び込んできた。勝子は身体が震えるのを覚えた。
審判の合図で、千秋がサーブを放った。相手のリターンボールがセンターに飛んでくる。
勝子は痛みも忘れて、ボレーをしようと飛び込んでいった。
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