克っちゃん   林 さぶろう


 鉄工所の機械工だった僕が定年後の再就職ということで、何とかありついた警備員の仕事だが三年たった今も想像した以上に、それはまったく予測のつかないハプニングの連続でもあった。

 あまりの騒々しさに目を覚ますと、ボリュームを一杯にあげたスピーカーが、何かを繰り返し放送している。朝っぱらから、こう煩くては寝てもいられない。僕はおもむろに肌布団をめくりあげ、そろりとベッドから抜け出た。そのとき、背中をむけた恰好で隣りに寝ている克っちゃんの、スカイブルーのパンティが張り付いた尻がもろ出しになった。僕は面映ゆさに慌てて布団をかけなおしてやる。枕元の腕時計を手に取ると、まだ七時を過ぎたばかりだ。家賃五万七千円の借家だと聞いてはいるが、二階に六畳と四畳半の二部屋ある和室のうち六畳の間の畳敷きのうえに、ちょっと洒落たダブルベッドがでんと置かれていて、枕元にぼんぼり型の電気スタンドと、そのアンバランスさがまた何ともいい。不似合いといえば階下だって十畳くらいのダイニングキッチンなのだが、ふつう一般にあるテーブルとかではなく、脚の短いちゃぶ台と座椅子がふたつ真ん中に置いてある。そのちぐはぐさが、大ざっぱで何事にもこだわらない克っちゃんの性格が窺えて僕は好きだ。
「起きるのん」
 階下のトイレへいこうと襖に手をかけたとき、寝ているとばかり思った克っちゃんの声が背中でした。
「もう、うるそうて寝てられへんがな、あれは何やねん」
「訃報を伝えているのや」
「フホウ?」
「そうや、誰かまた亡くなったんやろ、ここら老人ばっかりやから三日おきくらいに訃報の放送があるんや、ちょっとタバコ」
 まだ眠りから覚めきっていない眼をしばたき大あくびをした克っちゃんは、僕が足元の畳の上から拾い上げて差し出すパーラメントの箱から一本抜き取り口にくわえた。ライターの火を近づけてやると「火が大きいわ、眉毛焦がすやん」と小言を言いながら点けた一服めの煙を、旨そうに吐き出す。
「けど、こんな朝っぱらからガーガーやられたら迷惑やなあ、誰も文句いわへんのかいな」
「年寄りは早起きやし、耳も遠いからこれで丁度なんやろ」
「ふーん、いまどき、こんな有線放送してるとこは珍しいなあ」
 僕は感心してみせるにこと寄せ、ベッドの傍により克っちゃんの唇に軽くキスをした。そのときタバコをやらない僕は、ニコチンの臭いがツンときたが努めて平気を装った。二人が話している気配を察してか、階下でチビがドタドタと脚を踏みならしては、少し遠慮気味にクークーと鼻を鳴らしている。チビは克っちゃんが飼っている雑種の牡犬で、ダイニングはもっぱら奴の居住区域らしい。もっとも女の一人住まいということもあり、中型犬のチビは用心棒役も兼ねているようだ。
「起きるんやったら、ついでにチビを散歩に連れていったってや」
 克っちゃんはそう言い、吸いさしのパーラメントを灰皿に押しつけるとまだ寝るつもりらしく、ふたたび布団を引き寄せた。
 階下に下りていくと、待ちかまえていたチビが飛びついてじゃれてきた。チビは後ろ足で立つと、頭が僕の胸のあたりまでくる。
「おまえ昨夜初対面したとこやのに、えらい懐きようやなあ、そんなんで番犬が務まるんかい」
 僕はチビに話しかけ、頭をひと撫でして玄関脇のトイレに入った。女の住まいらしくトイレのなかはミニ観葉植物の鉢がおいてあり、壁には外国の港町らしい風景画の小さな額がかかっている。僕はカラフルな花柄模様のカバーがかかる便器の蓋と便座を一緒にあげて、用をたしながら片手で滑りの悪い小窓をこじ開けると、虫除けの網越しに表の様子が垣間みられた。
 家の前はちょっとした広場になっていて、草むらの日溜まりに猫がいた。猫は数えると六匹いて、毛並みも色も様々である。ここに来たのは深夜だったから、こんなに猫がいるのを見るのも初めてだ。昨夜森のなかを通ったとき闇のなかに光っていたのは、これらの猫たちの目が光っていたのかも知れない。
 用をたし終えて振り向くと、開けっ放しのドアのまえでチビが盛んに尻尾を振りながら座って待っている。僕がトイレから出ようとすると、待ちきれずにチビは先に立って玄関のたたきに飛び降り、早くしろとばかりに激しく尾をふる。
 克っちゃんに言いつけられた通りに、下駄箱の横にかけてある革製のリードをチビの首輪につなげ、糞を拾うスーパーのビニール袋を持つとガラス戸を開け表へ出た。
 そのとき一時止んでいた放送がまたもや始まった。「こちらは笹原地区老人会です、一丁目十九番地の某さん病気療養中のところ、薬石効無く今朝三時二十分逝去されました。つきましては……」まさしく訃報だ、音源を目で探すと、二十メートルばかり離れたところにある柿ノ木にラッパ型のスピーカーが取り付けてあるのが見えた。学校の運動会などで、よくみかけるやつだ。他にも何カ所か設置してあるらしくて、音が反響しあって響いている。それにしてもいまどき、都市のどまんなかでこういうのは珍しい。それに、数十軒からの民家が建ち並ぶのに、人影が皆目みあたらないのも妙だ。
 チビがいきなり駆けだして、危うく躓きそうになりながら、石ころの突き出た未舗装の路を引っ張られて走ると、家と家との間の隙間みたいな狭い道をチビは勢いよく左へ曲がる。細い路地はすぐに突き当たり、そこからさきは高さ二メートルばかりの台地になっている。丸太を横にして造った段々を一気に駆け上がろうとするチビは、リードを持つ僕が遅いので思うように進めずに前足で懸命に土を掻く。
 段々を上りきると風景が一変して、エノキやムクの木が絡み合うように生い茂る森が広がっている。森の奥は鬱蒼としていて、市街地にこんな場所があるのが不思議なくらいだ。この森の存在は以前からうすうす知ってはいたが、こんなに深い森だとは知らなかった。
 すぐそこに耐震スレート葺きの二階屋根が見えて、位置から察すると克っちゃんの家あたりだ。さらに目を転じれば農家の名残をとどめる家屋や、土蔵などがここから望めた。克っちゃんの住むこの場所は、かつてこのあたりがまだ田園地帯だったころの古い集落なのだ。おなじ市内に住みながら、僕がこのあたりに来るのはこれが初めてだった。
 リードを持つ手をチビに引っ張られて次第に森のなかへ進と、幹に大きな瘤を持つムクの巨木の根元に屈み込む人影があった。年配の婦人で、猫を相手に何やら語りかけながら餌を入れたプラスチックの平たい容器を地面の草むらに置いている。さらに驚いたことに、そのまわりに十数匹はいるだろう猫が取り巻いている。巨木から大蛇のように湾曲して垂れる枝にも、黒毛の猫がいて近づく僕を威嚇するように睨んでいる。振り向いた老婦人は僕に気付くと会釈をし、僕もまた軽く頭をさげた。老婦人が手を差し伸べると、チビは飛びついていき盛んに尻尾を振って喜んでいる、チビの様子からして、きっと近隣の住人に違いない。
「ここはまた、えらい猫が多いところですなあ」
「よそからこの森へ犬や猫を捨てにくるんや、犬はいつのまにかここから出ていってしまいよるけど、なんでか猫はみなここに居ついてしまいよる。あんまり小さい子猫やとカラスに襲われてよう餌を探しよらんで、こうして餌をやりにきとりますんや」
 老婦人は言いながら腰を伸ばし、人の良さそうな笑いをうかべた。
「それにしても、これだけ木々が茂っているのに、小鳥の鳴き声がしませんが……」
「ほとんどの小鳥の雛はカラスに喰われてしまう。それでも僅かに生き延びた小鳥は、こんどは猫らに捕って喰われ、この森に小鳥はおらんようになってしもた」
 老婦人はそう言うと左手を腰にあてがい、反っくり返るようにして笑った。
「へー、そんなこともありまんねんなあ」
 僕は大袈裟に感心して見せ、笑顔を崩さずにいる老婦人と別れてその場を離れた。僕はチビに引っ張られるかたちで、さらに森の奥へと足を踏み入れた。ときおりカラスの声に混じって、ギギギイと得体の知れない何かの啼き声に気持ちが怖じ気づき、さらに奥へいこうとするチビのリードを強引に引っ張り、もときた方角へと戻ることにした。
 考えてみればスピーカーの大音量のわりに人影のない集落も、街のなかに突然に現れるこの森も何だか現実離れしていて、けったいなところだ。けったいと言えば、六十三歳の僕と、三十歳だという克っちゃんとの関わりも、思えば大概けったいな関係に違いない。

 克っちゃんとの馴れ初めを語るならば、いまから二カ月まえのある夜のちょっとした出来事までさかのぼる。以前から馴染みだったスナックに、僕はその夜もいつものように顔を出していた。電車の駅や商店街などからも離れた、いわゆる場末という雰囲気そのものの店だったが、事が起きたのは十時をまわって、店内がそろそろ混んでくるころだった。些細な理由で客と諍いを起こしてしまったのだった。
 僕はその日の朝に、勤め先で自らの不注意から単純なミスやらかして気分的に落ち込んでいた。自己嫌悪が増幅して、いらいらがつのっていた事もたしかだった。ところが原因は些細なことでも、結果は大事になることも往々にしてあるものだ。
 ちょっとした小競り合いが、他の客を巻き込んで乱闘となったのだ。投げられた椅子がボトル棚を壊し、額から血を流す者が出るに至って、ついに救急車に警察がかけつける事となった。結局パトカーに乗せられてK署へ連行されたのは、取り押さえられるまで暴れていた僕一人だけだった。血をみることで僕のなかの野生が騒いだのだろうが、後悔しても後のまつりで、喧嘩の鉄則である三十六計を忘れていたのだ。
 K署では簡単な身元確認と顔写真を撮られ、騒ぎの当事者としての取り調べは明日ということで、僕はそのまま留置場へ放りこまれた。連れていかれた房は六人くらいの先客がいて、房の広さからみて定員ギリギリと思える混みようだった。これら先客たちの視線を一身に集めながらなかへ入ると、僕のくるのがわかっていたように場所が空けられていた。皆にちょこっと頭をさげて腰をおろしたところは、何とトイレの真横であった。
 四月になったばかりでまだ肌寒く、板張りの床は体温を遠慮なく吸い取ってゆく。誰かがトイレを使用するたびに、体を捻るように横に倒して通路を開けてやり、おまけに用を足している音までが容赦なく耳に入る。酔い醒めの寒さも手伝い、先ほど係の警官から渡された毛布を頭から被った。高い鉄格子のある窓越しに塀の外を走り去る車の音が、聞いていて妙に切ない思いにかられた。留置場はK署の真裏にあって、コンクリート塀の向こう側は西行き一方通行の裏通りで、僕はしょっちゅうそこを通っていた。それが、まさか塀の内側から、そこを通る車の音を聞くことになるとは。
 もっとも自分はすでに定年退職した身だし、いまさら失うものは何もない。二十五年まえに家出をした女房に次いで、ここ数年の間に子供らもそれぞれ家を出てしまったし、家に居るのは僕と愛猫のウーラだけだ。そや、ウーラに餌をやらなあかんのや、可哀想にいまごろ真っ暗な部屋で、僕の帰るのを待っているやろな。どっちみち、たかが飲み屋での諍いや、ちょっとお灸をすえられて放免いうとこやろ。
 膝小僧を抱え込み、そんな物思いに耽っていると、いきなり脇腹をつつかれ「おい、呼ばれてるぞ」と押し殺した声で横に居る男が僕に囁いた。顔をあげ薄暗い蛍光灯の明りのなかを透かすと、房の奥まったところから手招きしている奴がいる。すると、いままで思い思いに陣取っていた連中が体をずらせ、みるまに通り道ができたではないか。
「立つな、這うていけ」
 立ち上がろうとする僕に、誰かが押し殺した声で注意した。あとで知ったのだが、むやみに房のなかで立ってウロウロすると係の警官に叱られるらしい。僕は四つん這いになって、手招きをした男のまえまでいった。
「おっさん、何やらかしてここへきてん」
 背中を壁にもたれさせ腕組みをした男は、僕を見下すように横柄な尋ね方をした。年の頃は四十歳くらいだろうか、はだけたシャツの襟元から彫り物が見え隠れしていて、堅気の人間ではなさそうだ。
「暴行傷害及び、器物損壊いうところかなあ」
「ほう、なかなかやるやんけ、ほんで相手はどうなってん」
「何人か救急車で運ばれていきよったようやが、あとは知らん」
 ぼそぼそと僕が喋るのを、皆が耳をそばだてて聞いている。
「よっしゃ、おっさんここへ来いや」
 男の口調は命令的で、他の者たちは誰も逆らおうともしないところをみると、こやつはこの場のボスなのだろう。皆が少しずつ体を譲ってくれて、男のそばに一人分の寝場所が出来た。そのうち元の場所に置いたままだった毛布も、リレーで僕のところに運ばれてきた。そのために当初僕の前にいた初老の男は、ふたたびトイレの真横で体を縮め俯いている。
「あいつは下着泥やって捕まったんや、ええ歳こいてしょぼい奴や」
 男はそう言って、その男を顎でしゃくった。そのあと男は自らを蛭田と名乗り、所属する暴力団の組を名乗ったあと「まあ、ここで会うたも何かの縁や、困ったことがあったらいつでも相談にのったるがな」と場所を忘れているような口振りだ。僕はどう返答をしてよいのかわからず、取りあえず「大山軽石と言います、よろしく」と自己紹介をしておいた。
 翌朝の朝飯どき、蛭田は僕の朝食のトレーにそっとパック入りの納豆を置いた。
「俺、納豆は苦手なんや」
「ほんなら、これをどうぞ」
 僕は好きでない牛乳を蛭田のトレーに載せたが、これらの動作は監視の目を盗んで素早くやらねばならなかった。
「すまん、腹が減っていては取り調べに耐えられんからな、なんやったらあいつの分も食うか」
「もうよろしいわ、そこまでしたったらあの人が可哀想や」
 下着泥君の朝飯まで取りあげるという蛭田を、僕は慌てて制して言った。朝飯の喝あげなどをして、もしも監視の警官に見つかったらえらいことになるだろうが、蛭田はそこのところはちゃんと心得ているらしく言葉だけで実際に行動にでる様子はない。
 もっとも、ここでは殺人に傷害など罪状が重いほど一目おかれる存在であり、逆に痴漢行為や引ったくりで捕まった者は蔑まれるばかりか、こうした虐めがあるのを知った。
 時計がないので正確にはわからないが、取り調べのために呼び出されたのはたぶん午前十時ごろからではなかったかと思う。
「あんた、俺の親父と同い年やで、まあ、元気過ぎるんは結構なこっちゃけど、ちょっとは歳をわきまえたらんかい」
 年若い刑事は努めてそうしているように、苦々しい顔で僕を睨み付けた。それから「ちょっと待っとれや」と言って席を立ち、しばらくしてロビーの自販機で買ったカップ入りのコーヒーを両手に持って戻ってきた。
 刑事は僕にコーヒーを勧めながら、職業や喧嘩に至った経緯などを聞かれただけで、その日はふたたび留置場へ戻らされた。ウーラが気がかりなので、どうしているか様子が知りたく、娘か息子に電話をかけさせてくれるように頼んでみたが、これは無視された。
 房でふてくされていると、外から「軽ちゃーん」と呼ぶ女の声がした。僕には昨夜のスナックの馴染み客だとすぐにわかった。数人がいるらしくて、それぞれが塀の向こう側の路上から叫んでいるらしい。
「おっさん、えらいもてようやなあ、はよ返事したらんかい」
 蛭田に冷やかし半分にそそのかされ、遠慮がちに「おーい」と叫ぶや、たちまち係の警官が飛んできて「静かにせんかっ」とえらい剣幕で怒鳴られた。
 しばらくして、今度は面会人だと呼び出された。意外なことに、僕が勤めるカモメビルの清掃部のヘッドである海牛だった。彼女と僕は清掃部と警備部の違いはあるものの、派遣元はおなじ会社でリーダーシップが優れているところから、警備部のヘッドも兼ねているようなところがあった。
「警察から会社に知らせがあったんやて、それで様子をみにいってくれいうて部長から連絡があってんや、あんた歳に似あわん血の気が多いねんなあ」
 海牛はそう言って八十キロあるという巨体を揺すって笑った。笑うと唐獅子みたいにあけた口から、奥歯のほとんどに施された金冠がこぼれて光った。海牛は帰り際に「何か美味しいもんでも食べえや」と、五千円札を僕の手に握らせた。
「ここで美味しいものを、食べろと言われてもなあ」
 手にした札をしげしげと見つめる僕に、立ち会いの警察官が外からの出前がとれることを告げた。
 海牛が帰ったあと、さっそく昼飯にと二人前のかつ丼を注文し、ついでに赤出汁もつけた。世話になった礼のつもりで、蛭田にもカツ丼を馳走することにしたのだ。
 昼食時になると、頼んでおいたカツ丼が房に届けられた。
「すまんのう、官の飯に飽きてたとこや」
カツ丼をまえにした蛭田は相好を崩して喜んだ。官給弁当を食べている他の者らの羨望の眼差しを集めながら、僕と蛭田はカツ丼を頬張った。
「留置場のなかも、やっぱりカネかあ」僕がそう漏らすと「地獄の沙汰も何とか言うやろが、ムショでもカネのない奴は惨めなもんや」蛭田はわけ知り顔で言った。
 結局その日は釈放されずに、僕は留置場で二日目の夜を迎えることとなった。予想が外れて塞いでいると、昼間にカツ丼を奢ったせいか蛭田が愛想よく盛んに話しかけてきた。
 彼の話によれば、関東から進出してきた大型スーパーの建設にからみ、出入りの業者らから総額一千万円の挨拶料を要求したことが、警察の知るところとなって捕まった。「前科があるよってに、こんどはちと覚悟せなあかんかもなあ」と言って舌打ちをした。話し興じてくると京都刑務所だの松江刑務所だのと各地の話も出て、その方面の体験も豊富のようで、ここでボスにまつりあげられるのも頷けた。
 僕は話を合わせるつもりで、子供のころに山菜採りにいっていて皆とはぐれて谷間の道を辿るうち、山裾にいきなり巨大なコンクリの塀に囲まれた建物にいきあたり、それが刑務所で驚いた記憶がある、いまはない舞鶴刑務所の話をした。
「おっさん、どこの出身や」
「若狭でっけど、どうかしましたんか」
「俺も青葉山の麓の村や」
 蛭田はそう言ったあと「そうか、若狭か」と懐かしげに呟いた。
「ほう、そうでっかいな、あの辺りから学校に通うてくる友達がいてて、何度かいったことがありますわ、汽車の線路ぎわに深そうな溜め池があるかと思うと、ぽつんと農家があったりして、いつ来るかわからん汽車が通るのを何時間も待ってたことがあったなあ」
「おっさん、よう知ってるやないけ、ここでそんなヒトに会うやなんて、もう涙がでるわ」
 蛭田は身を乗り出し、僕の手を握って言葉を続けた。
「俺の家の真裏が線路で、小さなSLが思い出したように貨物を引っ張って通るねん、バンバンバンと煙を噴き上げて両側が切り通しの勾配を登ってきよる、登り切ったところに待ちかまえていた子供らが機関士に手を振ったると、むこうもこの地点でガキらが手を振るのんを心得ていて手を振りよる、他愛ないことやけどなあ」
「一度だけ切り通しを汽車が通るところに出くわしたけど、機関車の排気音が反響しあって、ほんま、バンバンバンと畳を叩くような音があたりにこだましてたなあ」
「その線路も俺の家も、のうなってしもたし、もう過ぎた話や」
「あの辺りはここ二十年ぐらいの間に、すっかり様変わりしてしもたようやなあ」
 僕の相槌を最後に蛭田が黙ってしまい、思い出話は途切れた。
 しばらく経って、蛭田が不意に僕の耳に口を近づけて囁いた。
「懲役にいっているあいだ、俺の女をみたってくれや」
 いきなりそんなことを言われてもと、言葉を失う僕に、
「あんたを見込んで頼むわ、同郷のよしみやないか、聞いたってや」
 蛭田は僕の耳元に口をつけんばかりに囁くものだから、もろに息が耳たぶにかかってゾクッと身震いをした。
「名前は克子いうねんけど、俺より十歳年下の三十や」
 ここでは監視を意識して、話は短く単刀直入に交わす。
「蛭田はんがそう言いはっても、相手の気持ちもあることでっせ」
「心配はいらん、自分で言うのも何やけど、こんな俺には勿体ないくらいデキのええヤツや、ちゃんと話を通しておくがな」
 僕は頭から蛭田にからかわれているものと聞き流したが、自分の女のことを話すとき、強面の顔が垂れパンダのようになる、女にはしんから優しい男なんだろう。話し声を聞きつけたのか、監視の警官が来て房のなかを睨み付け、蛭田とのヒソヒソ話は中断した。

 翌日の十時ごろになって、僕は房から呼び出されて裁判所へいくことを告げられた。他にも四人が呼び出されたが、蛭田はそのなかにはいなかった。留置場を出るとき蛭田は「頼んだぜ」と目で言い、僕もいきがかり上から目で頷き返した。
 両手錠をはめられたときには観念した思いで開き直っていたが、いよいよ出発の際に五人が一列に腰縄で繋がれると、初めてどうしようもない屈辱感を味わうこととなった。
 留置所からは署の建物のなかを通らずに、裏口から外に出て本館と道場とに挟まれた中庭を歩かされた。護送車はバス通りに面したK署の表玄関脇に停まっていて、我々が本館の横合いから現れて護送車に乗るまでのほんの一瞬のあいだ、K署を訪れる一般市民に目撃されることになる。
 僕はこれまでにもK署を訪れて、署内に入ろうとしたところで偶然にもこの光景に出くわしたことがあった。居合わせた何人もが一斉に立ち止まり、自分たちとは異種の者を見る目つきで、そこから決して近寄ろうとはせず、それでいて好奇心に満ちた眼差しを向け続けるのだ。
 あのときのことを思い出すだけで僕は身の竦む思いで、顔をみられないように肩を丸め俯き加減に自分の靴先をみて歩いた。ところがいよいよK署の表玄関脇にさしかかると、こんどは誰か知っている奴にみられていないか、移送を予測して誰かきてくれているのではないか、などと考えだして、それを確かめたい思いに駆られるという矛盾に陥った。
 護送車のステップに足をかける直前、僕は我慢しきれずに玄関の方にむけてほんの一瞬顔をあげた。驚いたことに、間近に若い女がいて目があった。目があったと思ったときには、僕はもう護送車に乗り込んでいた。女のショートカットに日焼けした浅黒い顔、くりっとした大きな瞳だけが印象に残った。
 これが僕と克っちゃんとの最初の出会いであった。あとから知ったのだが、彼女はこのとき面会にきて僕らが護送されていくのを目撃し、もしかして蛭田がそのなかにいるかも知れないと近くまで寄ってきていたのだった。
 裁判所に着くと腰縄に手錠を解かれ、略式判決で三十万円の罰金刑を言い渡された。判決の言い渡しはあっけないほど簡単で、晴れて自由になった僕を貰いさげにきていたのは、昨日についでまたもや海牛だった。
「一人欠けるとローテーションが狂うよってに困るんや、明日は休まんと出てこなあかんで」
 海牛の小言めいた話しかけにも、僕はひたすら素直に頷き、まさに平身低頭であった。海牛が立てかえて払ってくれた罰金の三十万を即刻返済しなければと思うその一方で、蛭田の女とはしらないままK署で護送車に乗り込む間際に目撃した女のことが、妙に心に引っかかっていたのもまた事実であった。

 あの日から一ヶ月たって、克っちゃんと再会することになった。僕が遅番の勤務についたばかりの、午後の三時ごろだった。カモメスーパーの正面出入り口付近を巡回していた僕は、いきなり立ちはだかった背高の白人から話しかけられて往生していた。レジ係の女の子らはお客の精算が済むと、胸元に両手を重ねて米搗きバッタみたいにお辞儀をする。そのたびにチラチラと横目で視線をむけるが、こちらが救いを求めようとすると、目を逸らせて助けてくれそうにもない。大阪万博ではコンパニオンの経験があるという、唯一の英会話が出来るヘッドの海牛は先ほど勤務あけで帰ったばかりだ。進退窮まっているときに、ふらりと現れて横から助けてくれたのが克っちゃんだった。相手はスーパーの事務所は何処かと尋ねていたとのことだが、僕に通じるよしもない。
「あの、大山軽石さんですね」
「あ、はい、大山ですが、おかげで助かりましたわ」
 いきなり物怖じするようすもなく話しかけてくる女に、僕はなぜか緊張してしまった。僕が大山だとよくわかりましたな、と感心すると、K署で護送車に乗る僕と目があったのを、しっかり覚えていたとのことだった。女は未決囚として市内H町の拘置支所にいる蛭田から、僕に会いにいくように勧められてやってきたと言い「克子といいます」と自己紹介した。
 僕は彼女をビル二階の飲食街にある喫茶店セーヌに案内して、そこで改めて、留置場で蛭田の世話になったことなどを話した。さらに英語が達者ですねえと、さきほどの外人との会話を褒める僕に、あれはフランス語だと、何食わぬ顔で言った。相手は僕に対して日本語ではなしかけていたらしいが、あまりに辿々しくて緊張していた僕にはペラペラペーラとしか聴こえなかったのだ。同時にフランス語がしゃべれるとは、たいしたモノだと妙に感心すると同時に、どういうヒトなんだろうとも思った。
 TシャツにGパンというラフな装いの彼女は、制服姿の僕をつくづくと眺めて「なかなか、様になってるわ」と笑って言った。「なにが可笑しい」と問うと「別に」と答えてさらに笑うので、つられて僕も笑ってしまった。
 しばらく話し合ったあと僕は勤務中でもあり、克っちゃんは今日のところはスーパーで買い物をして帰ると言い、互いに再会を約束して別れた。

 克っちゃんとの二度目の再会は、わずか三日後にやってきた。昨夜のことスーパーの十時閉店まで、あと一時間を残す九時まえだった。
「ちょっと警備のヒト、売り場主任が探してたよ」
 セーヌでアブラを売っていた僕のところへ、帰り支度をしたスーパーの女店員がやってきて教えてくれた。
「あ、早く入り口のダンプ退かしてよ」
 急いで階下の売り場へいった僕をみつけるなり、売り場主任は金切り声で命令した。何事かと言い付けられるままに正面玄関までいくと、なんと大型ダンプが店内への出入りを阻む恰好でデンと居座っているではないか。わざわざダンプで買い物にくる奴がいるのかよう、第一この通りはバス以外の大型車は通行禁止のはずなのに、僕はまるで山のように聳えるダンプカーをみあげて唸った。ここで驚いている場合ではないと気を取り直し、僕は急いでサービスカウンターまでいくと、アンプをオンにしてマイクを握った。この時間帯になるとレジ係以外の女店員は、大方が帰ってしまっているのだ。僕は正面入り口のダンプを退かせてくれるように、との店内放送を二回繰り返し、ふたたびダンプのところへ引き返した。
 しばらくして、ビニールの買い物袋を両手に提げて急ぎ足で現れたのが克っちゃんだったので、僕は思わず「えーっ」と素頓狂な声をあげていた。
「すんませーん、すぐ退けますから」
 僕に会釈して運転席に乗り込んだ克っちゃんは、勢いよくドアを閉めるとエンジンがかけられ、彼女は窓から顔をつきだして何か言ったがエンジン音と車体の振動で聞き取れない。咄嗟に僕は、ダンプの運転台に手をかけてよじ登った。
「大山さん、車を置いてまた戻ってきます」
 克っちゃんの言葉に頷き、ゆるゆると動き出したダンプから後ろ向きに飛び降りた僕は、背後に置かれていた牛乳パック回収ボックスにしたたか腰を打ちつけてしまった。しばらくはその場で顔をしかめつ腰をさすりながら、排気音を轟かせて走り去るダンプの尾灯をただ見送った。
 やがて戻ってきた克っちゃんは、スーパーの営業が終わる十時まで二階の喫茶セーヌで時間をつぶして待っていてくれた。
 本来なら飲食店などの閉店にあわせて、ビル内の点検を終える十一時三十分が勤務の明けなのだが都合のいいことに、ここ二晩ばかり研修中の警備員がいて二人体制での勤務だったのだ。そこで僕は研修中の新顔に「何かあったら連絡してくれ」と言い残して、克っちゃんの待つセーヌへとエスカレーターを駆け上がった。

「もう吃驚したわあ、あんたみたいな見目麗しき女性が、でっかいダンプに乗ってるやなんて」
 飲みにいこうという克っちゃんの誘いで、居酒屋『飲み太郎』のカウンターに肩を並べて座ると、僕は素直に驚きを述べた。克っちゃんは「ふふ」と含み笑いをする。
「蛭ちゃんに大山さんはええヒトやから困ったら相談せえ、必ずのってくれはると言われてんよ、あのひと何でも一途やから」
 克っちゃんはそう言いつつ、警備員の制服から私服のジャンパーに着替えた僕を、改めて頭のてっぺんから足もとまで観察する。
「刑が確定したら、今度はダイケー送りかも知れん言うてたわ」
「ダイケー?」
「大阪刑務所や」克っちゃんはそっけなく言い、半分ほど残ったジョッキをかたむけると一気に飲み干した。
「そら蛭田はんも苦労しやはるやろ、可哀想に」
 大阪刑務所の過酷さと待遇の劣悪さは、受刑者の間でも悪名たかいと、何かの折りに聞きかじったのを思い出して相づちをうった。でも克っちゃんは僕の言ってることなど聴いている様子もなく、店員を呼びつけて焼酎の湯割りなんかを注文している。アルコールはかなりいける方らしく飲みっぷりからして、とてもついていける相手ではなさそうだ。
「カツ丼を御馳走になったんやてね、蛭ちゃん喜んでいたわ、大山さんは頼れるヒトやいうて」
 カツ丼を奢ったぐらいで大袈裟な、それにやくざ稼業の連中に、できることなら関わりたくはない。一夜干しのカレイの身から両側にあるギザギザのヒレを剥がしていた僕は、聞こえぬ振りをして両手を使って大袈裟に囓りついた。適当な焦げめと塩味のついたヒレのパリパリ感はまんざら捨てたものでもない。
「こら、ジイさん聴いてんのかい、蛭ちゃんから頼まれてんやろが」
 応答しない僕に腹を立てたのか、彼女の言葉使いがいきなり荒っぽくなった。酔いがまわってきたらしくて、僕を睨み付ける目が座ってきている。すでにビールの大ジョッキを二杯、腹が張るからと焼酎の湯割りにかえてからすでに四杯、いま彼女の持つグラスには店員の勧める何処だかの地酒が注がれていて、並の者ならこのピッチで飲んで酔はない方が不思議である。
「頼まれたって、なにを……」
「アホか、おまえなあ、何しらばっくれてんのや、この、もうろくジジイ」
 克っちゃんは僕の脛を横蹴りしながら、しきりに毒づいた。蹴られながら僕はどう答えたものかと悩んだ。頼み事の意味がさっぱりわからないのだ。もしかして、保釈金の都合をしてくれとかの意味と違うやろなあ、あのとき蛭田に軽はずみな受け答えをしたことを、いまになって悔やんでみたりした。
 そのうち、これだけ酔っぱらって、と彼女の帰りが心配になりだした。まさかこの状態で、どでかいダンプを運転して帰るなどとは言わないだろうが、そんな僕の心配をよそに、彼女は飲むのを止める気配もないどころか、ラストオーダーの注文を聞きに来た店員に地酒の二合徳利を頼んだ。僕はもういいからと、片手を振って密かに店員に合図を送るが、こちらを振り向いた克っちゃんに「何してんのん」と頬に平手打ちをくわされた。
「ジイ、軽石って、浅間山にでも登ったら、そこいら中にごろごろ転がってそうな名前やん」
 ああ、僕はいつだってこの名前で肩身の狭い思いをするのだ。ヘッドの海牛にも初対面の折りに、軽ちゃんか、踵でもこすりとうなる名前や、と言われ、そのときからだ、いまの職場で軽ちゃんの呼び名が定着したのは。
 閉店時間がきて店を追い出されたとき、すでに克っちゃんは僕の肩をつかまらねば真っ直ぐに歩けないくらい酔っぱらっていた。これからどうしたものかと、僕は克っちゃんの扱いに困り切っていた。こんなになっても彼女はまだ飲むつもりらしくて、どこか開いている店はないのかなどと喚いている。盛り場であるにもかかわらず、ここらは十一時を過ぎると、あらかたの店は看板となり人通りも絶えてしまう。
 そんなとき突然に、彼女が車のところへいくと言いだした。僕はやれやれという思いで、駅前にたむろするタクシーのところを目指して歩いた。彼女をタクシーに乗り込ませれば、これで愛猫のウーラが待つ自宅へまっすぐに帰れる。僕の帰りが遅いので、ウーラのやつ、さぞや機嫌をわるくしているだろう、早く帰ってやらねばと気が急いた。
 タクシー乗り場までくると、僕はまたしても克っちゃんにいきなり後ろから膝小僧の真裏を足蹴りされ、体がカクンとなって尻餅をつきかけた。
「アホんだらっ、誰がタクシーに乗る言うてん」
 こうなると、酔っぱらっているほうが勝ちだ。もはや逆らうすべもなく、肩にもたれかかる克っちゃんが指し示す方向へとふたたび歩いた。バス通りに出て三十メートルばかり前方に、歩道に片足駐車のダンプがみえた。それをみて僕は驚いた、なんとK署のまん前ではないか、普通では考えらないことをするヒトだ。
「一番安全な場所やんか、文句あんのん」
 完全にビビってしまっている僕に、克っちゃんはロレツのおぼつかない口で一喝した。
 ダンプの傍までくると、克っちゃんは助手席のドアを開け、酔っているとも思えぬ身軽さでひらりと運転台に乗り込んだ。ま、ここで仮眠するなら、彼女の言うとおりに一番安全なところに違いない。
「ふー一件落着か」そうつぶやいて立ち去ろうとしたとき、いきなりドアが半開きになって克っちゃんが顔を突きだして喚いた。
「ジジイ、おまえが運転するんや、はよ乗らんかい」
 克っちゃんに怒鳴られ、僕は慌ててダンプの運転台によじ登り乗り込んだ。克っちゃんにキーを渡されたものの、僕はダンプの運転などしたこともないのだ。
「はよ出さんかい」
 またもや克っちゃんに怒鳴られるままに、キーを差し込みエンジンを掛けた。たちまちエンジン音と腹の底に響く振動とに、僕は怖じ気づいたが、こんな若い女が操るのに、やってやろうやないか、妙な男の意地に囚われた僕は戦車を動かすような思いでクラッチを踏み込み、ミッションのレバーをローに入れた。
 動き出した途端に、K署へ戻ってきたパトカーを踏み潰しそうになり、つんのめるように急停車をした。「アホ、ちゃんと運転せんかい」克っちゃんに叱られながらも、とにかく何事もなかった事に安堵をした。そうなるとクソ度胸がつき、深夜で行き交う車が少ないのを幸いに、あたりを睥睨する具合の運転台からの眺めに、ある種の爽快感を持ち始めていた。
 十分ばかり県道を走ると脇道にそれて川縁にでたが、場所的にはI川らしい。克っちゃんの指示で、木立の茂みの際にダンプを寄せて止めた。彼女のナビゲーションにより、無我夢中でダンプを走らせてきたが、本当に彼女がこんなところに住んでいるのだろうかと不審に思った。
 真っ暗な木立のなかを、克っちゃんは先ほどまでの酔態は嘘のような足取りで先を歩いていく。買い物をしたビニール袋を両手に提げた僕は、遅れまいと必死でその後を追った。上を仰いでも木々の茂みに遮られて星も月もなく、なにか深い森の奥へと分け入っていくような得体の知れない不安に襲われた。木の根っ子に躓いて危うく転びそうになるが、克っちゃんはそんな僕にかまわずにドンドン先にいってしまう。真っ暗な木々の茂みから、獣の目なのか幾つもの光るものがこちらを窺っている。僕は至って怖がりで、こんな時いらぬ想像までするからなおさら恐怖感がつのり、思わず先をいく克っちゃんに「ちょっと待ってえや」と半べそをかいて情けない声をあげる始末だ。
 森を抜けたと思ったら、視界に星空だの外灯だの建ち並ぶ民家だのがパッと一度に飛び込んできた。まわりに気を取られていると、いきなり段々になっていて足を取られそうになりながら克っちゃんのあとを追う。二階建て三戸いちの右端の家が、克っちゃんの住む家だった。彼女のあとについて玄関に入るや、大きな犬が転がり出てきて克っちゃんに飛びついてじゃれている。
「チビ、今日はお客や、ちょっとジジイやけどな」
 飼い主の帰宅を喜びまくる犬に、克っちゃんは人間に対するように話しかける。とうとう犬にまで、僕は爺さん扱いになってしまっている。
 僕は上がりかまちにビニール袋を置くと、そこで退散するつもりだった。しかし彼女は「靴を脱がせろ」と言ったかと思うと、今度はコップに水を汲んできて飲ませろと言う。勝手のわからないダイニングキッチンで、犬にまとわりつかれながらうろうろとしているうちに、すっかり帰るタイミングを失っていた。
 寝室へいくという彼女を支えて二階へ階段を上がり、襖をあけるとベッドがあった。ベッドに腰をおろした彼女は、シャツを脱ぎ捨て、続けて腰を浮かせてジーパンを膝までズラせた。酔ったうえでの大胆さはわかるが、目のやり場に窮した僕は彼女が着替え終わるまで部屋から出ていこうとした。それに先ほどからウーラのことが気がかりで、あわよくばこのままずらかることも考えていた。
「ジイ、ボケっと立ってんと脱がせてや」
 僕を睨み上げた克っちゃんの罵声がとんだ。ああ、これでチャンスを失った。いま何時やと思うてるのや、ええ加減にしてくれよ、さすがの僕もムッとして克っちゃんを睨みかえした。あられもない恰好のまま、克っちゃんはジーパンの絡まった両足をバタバタさせている。一体どういう展開やねん、心中ぼやきながらも僕は彼女の前に跪き、恐る恐るジーパンに手を掛けると一気に引き脱がせた。
 克っちゃんはベッドのうえに脱ぎ捨ててあった、キャミソールを頭からすっぽりと被って着た。それが寝間着のつもりらしいが、寝乱れたらどんな情景になるのかと、つい想像をたくましくした。彼女はサイドボードからブランデーのボトルを取り出すと、ベッドを背もたれに畳のうえにあぐらをかいて座り込んだ。
「ジイ、これから飲むぞ、ツマミ買うたるよってに持ってきてや」
 もう堪忍してくれよ、僕は辟易しながら階下へおりてキッチンに置いたままのスーパーの袋を持ってきた。袋のなかから取り出したイカの薫製の封をきりながらも、露わになっている克っちゃんの太股や、スカイブルーのパンティがなんとも面映ゆい。
「ジイおまえ、俺の面倒みたるて蛭ちゃんと約束したんやろ、きっちりみたらんかいや」
 ブランデーをひと舐めしては、ポンポンと彼女の口をついて出る威勢のよい男言葉は酔い癖なのだろう。
「ジイ、やっぱり男やな、ええとこあるやんけ」
 さてこれからどうしたものかと考えていると、いきなり股間に微妙な感触があった。克っちゃんが伸ばした右足をもたげ、親指のさきっちょで僕の股間のシンボルをつついているのだ。
 なんということなのか、三年もまえから諦めていたのに、並の裏ビデオぐらいではもう何の反応すらしなかったモノが、奇跡といってもいい現象に、我ながら驚きと感動がわきあがった。
「ジイ、上等やんか」
 克っちゃんはそう言うなりベッドに這い上がると、先ほど着たばかりのキャミソールを脱ぎ捨てて仰向けになった。膝を折り反動をつけて足首までパンティをずらせ、膝をのばすのと同時に勢いよく下肢を跳ね、足首を離れたスカイブルーの布切れはふわりとベッドの向こう側へと消える。いかん、いくら男と女のいきつくところとはいえ、成り行きでは済まされんぞ。僕の目に映る克ちゃんの裸身に、蛭田の顔がフラッシュバックする。
「ジイ何もたもたしてんの」
 克っちゃんの挑発的な姿態をまえに、せっかく回復の兆しをみせている男性機能が、躊躇することでその機会を永遠に逃すことになるやも知れない、六十三歳の分別とやらが大いに戸惑い揺れた。

 ハプニングな一夜が明け、僕はいま、こうして何かえたいの知れない森のなかをチビの散歩の付き合いをしているのだ。
 チビの吼える声に我にかえった僕は、昨夜からの出来事のひとつひとつを思い出し、その余韻にうつうつとしながら木立の奥に目を走らせた。目につくのは、機敏に木立の合間を駆け抜ける猫の姿のみで一向にチビは現れない。
 前方には墓地らしき石塔がいくつか窺えるが、廃墓なのか蔓草に絡められ斜めに傾いたり、横倒しになって落ち葉に埋もれたりしている。昨夜ダンプを降りて通ったのは、この森だったのか、昼間でもいい気持ちはしないのに、よくもまあ克っちゃんは平気でこんなところを夜中に通るものだ。足で踏み固められてできた道をたどれば、ダンプのところに行き着くはずだ。歩きながら子供の頃に山野で遊んだターザンごっこを思い出して童心に戻り、頃合いの小枝を折り短剣代わりに振り回しながら歩く。
 五分くらい歩いたのか車の通る音がして、いきなり道路に出た。目の前をI川の流れがあり、僕の勘はあたっていたが、ダンプは荷台の後部が道路と林の境界をなすフエンスの垣根に食い込み、垣根の支柱が大きく曲がってへこんで傾いていた。「下手くそが」僕は呟きながら自嘲した。
 ふたたび森のなかを引き返す途中でチビをみつけた。「チビっ」呼ぶとさっと体を木立のなかへ褐色の体を翻して駆けだし、僕もその後を追った。すぐに木の根っ子に足をとられ、そのはずみに勢い余って転んだ。チビは振り返って僕が倒れているのをみて、トコトコと傍まで戻ってきた。立ち上がって膝をさすりながら目をやると、目の前にあるエノキの大木の根元に白菊の花束が置かれているのに気付いた。置かれてからかなりの日にちが経つのだろう、ほとんどが枯れてしまっている。仰ぎ見ると、覆い被さるように繁った枝が太陽光を遮断していて薄暗く、この場所に居るだけで陰気な気分になりそうだ。一刻もはやくこの場所を離れようと、チビの首輪にリードを繋ぐとあとも振り返らずに歩いた。
 もとの道に出たところで、ゴルフのパターを振り回しながら歩く中年男と出くわした。ちょっと構えたが、挨拶を交わすと地元の者とみえ、気さくに話しかけてきた。
「この奥はあんまりいかん方がええで、首吊りの名所やよってに」
「そんなこと、ようあるんでっか」
「ここ十年ぐらいのあいだに、五人が木の枝からぶら下がりよったかなあ」
 男はそう言って、笑いながらいってしまった。そのあと僕はすごく嫌な気分に襲われ、チビより先に立って帰りを急いだ。
 帰り着くとチビはさっそく玄関脇にある蛇口の下に置かれたポリの洗面器に溜まった水を飲んでいる。僕は蛇口をひねり、ほとばしる水で顔を洗い、ついでに洗面器の水で足を洗ってやった。
 チビは洗い終えるのを待ちきれない様子でリードを解いてやると、玄関の上がりかまちを一気に跳びあがり、そのまま二階へ階段を上っていった。
「ジイ、牛乳もって上がってきてや」
 二階から克っちゃんの声がして、僕はキッチンへいき冷蔵庫から昨夜買ってきた牛乳のパックと、目についた大きな陶器のカップを持って二階へあがっていった。
 克っちゃんは、まだベッドに俯せになったままで両手で枕を抱え込んでいた。僕をみると横へ来てちゃっかりと寝そべっているチビを手で押しのけて起き上がり、そのままベッドの上であぐらをかいた。克っちゃんは、僕の渡したパックの牛乳に口をつけてグビグビと豪快に飲み、さらに傍で涎を垂らさんばかりに尻尾を振りまくっているチビにも、少量の牛乳をカップに注いで飲ませている。
「ジイも牛乳飲んだら、飲み過ぎにはこれが一番やで」
 そう言い、克っちゃんはチビが飲み終わったあとのカップに、今度はなみなみと注いで僕に勧めた。えーっ、どうせならチビより先に飲ませてくれよ、何で犬とカップを共用せなならんのや、それに僕は牛乳が苦手なのだが、克っちゃんに逆らう気などは毛頭ない。そこで、薬を飲む要領で目をつむり、先ほどチビが舐め回したカップを口に近づけ「えいっやっ」と内心の気合いで一気に飲み干した。
「せやけど街なかにこんな森があるなんて、ちょっと信じられへんなあ」
「森のなかに笹原廃寺址と記した石柱が建ってるのん、見かけんかった」
「それ何なん、アルプスの少女ハイジなら知っとるけど」
「カルウ、全然おもろないわ」
 このカルウは軽いであり、僕の名前である軽石のカルウを引っかけたのは明白だ。克っちゃんは僕を、いかにも軽薄なヤツだと小馬鹿にした顔つきをする。いかん、彼女は僕が下手な駄洒落を言っていると勘違いをしている。そして改めてハイジの意味を尋ねる僕に、克っちゃんは今度はちゃんと真面目な顔で説明をしてくれた。
「白鳳時代このあたりに、奈良の法隆寺に負けんくらいな大きな伽藍の寺院が建ってたそうで、その遺跡が裏の森やねんて」
「ハクホウ?、あんまり聞かんけど、そらいつの頃の話や」
「むかしむかしの、そのまたずうっと昔のことじゃったげな」
 克っちゃんは、日本昔話のナレーションを真似た言い方をし、こうなったら、僕はもう子供扱いに等しい。
「克っちゃんは物知りやなあ、僕は学がないからそういう事はほんま知らんわ」
「こんなん、小学生でも知ってるわ」
「あ、そうなんや」と僕、どだい僕と克ちゃんとでは、互いの常識に隔たりがありすぎるように思う。僕は話題を変えることにして、ヤブ蚊に吸われた腕を掻きながら、ダンプを止めたところまで見にいってきたことを告げた。
「村のなかは道がむかしのままで狭いから、ジイには無理やと思い遠回りしてあそこに止めたんや。いつもはこの近くの空き地を駐車場に契約して止めてるんや」
 あれだけ酔っぱらっていたのに、僕の運転の未熟さを承知してちゃんと注意をはらっていたことにいたく感服し、このヒトは並の女ではないと思わず尊敬してしまう。
 克っちゃんはあぐらをかく太股に、相変わらずもたれかかるチビを押しのけベッドからおりて窓をあけた。無数のヤブ蚊に蛾の死骸が付着している防虫網のサッシを開ければ、森の木々の枝がすぐそこに迫り、手を伸ばせば掴めるほどに近い。
「せやけど、いまのジイさんはほんまに元気がええなあ、蛭ちゃんもえらい思惑はずれをしたもんや」
 何だ何だ、本気でジイさん扱いしやがって、思わずキッとなる僕に構わず克っちゃんは窓を背に立ち、さらに愉快そうに続ける。
「けど二回目のときは、無理して腹上死せえへんかと、こっちも正直いうてビビッたわ」
 くったくない笑いとともに、克っちゃんは背伸びと大あくびを同時にし、頭上で両手を繋ぎ体を捻るようにうしろへ反りくり返る。それでなくても下半身はスッポンポン状態のキャミソールが、さらに持ち上がって臍までが丸見えになり、目の持っていき場がない僕の視線は宙に泳ぐ。
「一年ぐらいまえからかなあ、とうとう機能的にはオシッコをするだけの器官になり下がったかと諦めてたんや、それが突如復活するとは、ほんま奇跡や」
「おめでとう、微力ながら役に立ったと思うと、私もええことしたんや、気持ちはわかるけど、いっぺんに無理せん方がええよ、蛭ちゃんが出てくるまで焦らんと楽しんだらええやん」
 三十三歳も年下の克っちゃんに諭され、僕はもう、ただただ感激するばかり。
「なんか汁物が欲しいなあ、よし、久し振りに一丁みそ汁でもつくったろかい」
 克っちゃんのつぶやきに、ハッと我にかえり急にウーラのことが気になった。そろそろ帰らねばと言うと、朝食を食べてから帰れと克っちゃんは引き止めた。気持ちは有り難かったが、先ほど彼女のくちから蛭田の名を聞いた途端に背徳の念にかられ始めたこともあって、とにかく一旦は帰らねばと、チビの頭をひと撫でしておいて階段を駆け下りるとそのまま表に飛び出した。
 ここから自宅までどうやって帰ったものかと思案しながら、両側に古い民家が並んだくねくねと続く狭い道を歩いた。途中に昔ながらの佇まいの酒屋とかタバコ屋をみかけて、何となくタイムスリップしたような気分だ。ところで克っちゃんの家をあとにしてから、まだ誰にも出会っていない。やたら森に棲むカラスの鳴き声だけが、いつまでも僕を追ってくる。
 突然に、またスピーカーの放送が始まった。どこそこに送迎バスがくるからお集りください、とか言っているから葬儀への参加を呼びかけているのだ。亡くなっていきなりの葬式はありえないから、最初の放送とは別の死者のものなのだろう。
 放送が終わりきらないうちに、行く手の家の戸が開いて黒い衣装の老婦人が現れた。と思うや、あちらの家からも、こちらの枝道からも黒衣装の人が湧いたように現れ、まったく人気のなかった狭い道は、たちまち数十人からの黒装束であふれ返った。
 僕は息を潜め無言で黒装束の一団を追い越し、しばらく歩くとやっと通りに出た。点滅し始めている青信号を急いで渡り、振り返れば僕のきた道の左角に特定郵便局があり、表で警備員の男が大儀そうに大あくびをしている。右側は喫茶店でその隣が自家製のパン屋、二十メートルほど向こうにはコンビニがある。僕はそれらの街並みを一つ一つ確認して、ここが自分の住むA市内であることを確認しようと努めた。
 近くにバスの停留所があったが、時刻表をみるとこの路線系統からは直接に僕の住む地区へいく便はない。ここから四つ目の停留所がJRのI駅になっていて、そこで乗り換えるにしても一時間に一本のバスが、十分まえに通ったばかりだった。
 仕方がない、歩くと二十分以上はかかりそうなJRの駅までウォーキングを決め込むか、となかば覚悟を固めたときだった。滑るように走ってきたマジスタが、僕のまえにすうっと停まった。助手席のウインドーがするするとさがり「乗りいな」と声がかかった。
 ブレザーもスラックスも白色で固め、黒色のシャツに黒のサングラスという出で立ちの海牛が、巨体をシートに委ねてこちらをみて笑っている。一瞬僕は、香港映画に出てくるマフィアを連想したが、いいところで会ったとばかりに「すんまへんなあ」と言いながらドアを開けて乗り込んだ。
 海牛の住まいは市の東北部あたりの、代々続く旧家だと聞き及んでいたから、ここで会ったのは偶然であっても不思議ではない。かつて海牛と同姓の市長がいたことを思い出し尋ねてみると、彼女の伯父になる人物だったとかであったから、地元ではかなりの名家ではあるらしい。
「軽ちゃん、妙なところで会うやないか、朝帰りかいな」
 海牛の指に光っている高価そうな指輪の宝石に見入っていた僕は、いきなりのぶしつけな問いかけに言い淀んでしまった。
「昨夜、『飲み太郎』であんたが若い別嬪さんを口説いてんのを、セーヌのマスターが見てたんやて」
「えっ、口説くやなんて、そんな、あれは偶然知り合いの子に会うて話してただけでんがな」
 あの店にマスターが来ていたのは知らなかったが、情報が早すぎるやないか、海牛にケータイで報告を入れやがったに違いない。何でもベラベラと喋りやがって、まさか、あれから僕らの後をつけて来たのと違うやろな、プライベートなことをつつかれると、つい気をまわして良からぬ想像をしてしまう。
「まあ、ええがな、それよりコマ劇場のチケットがあるんや、どや、たまにはつき合いいな」
 ああ、またその話かと、僕は内心でうんざりする。海牛は五木ひろしの大フアンだとかで、関西公演の折りには大阪京都はいうに及ばず、ときには広島や名古屋あたりまでも追っかけをやっているんだそうだ。それ自体は僕に関わりのないことなのだが、困ったことに彼女は一緒に観にいこうと、さかんに僕を誘うのだ。これまでにも誘いを受けるたびに、あれこれの理由をつくっては断ってきたが、僕にしてみれば傍迷惑としか言いようがない。
「ヘッド、サブの前田さんと一緒にいうのやったら、お断りですわ」
 途端に海牛は複雑な笑みを浮かべて、溜息をついた。
「軽ちゃんも男の癖に、何時までも根にもってんと、ええ加減に仲なおりでけへんのかいな」と海牛。
「絶対に、あきまへんわ」と僕。
 前田というのは海牛の配下で、清掃部のサブリーダーを勤める五十歳の女のことだ。僕はこの女とまったくソリが合わないというよりも、どういうわけか生理的に受けつけないのだ。警備部といっても、夜間はセコムに任せてあるから、僕らの仕事は早朝の解錠と終業後の施錠をするのが仕事の本命だ。もっとも業務上は詳細なところで清掃部と常に密な関係にあるため、僕と前田のことを憂慮した海牛は、事あるごとに仲を取り持とうと腐心するのだ。
「このまえのエスカレーター止め忘れの件なあ、ちゃんと口止めしたるよってに、あんたが自分で話さんかぎりあの事は終わりや」
 ああ、やっぱりでた、海牛はこういうとき、決まって僕がうっかりミスをやらかしたときの事をさりげなく持ち出すのだ。
「すんまへん、ヘッドにはいつも迷惑をかけて」
「そんなん気いつかわんでも、私で収まることなら、ちゃんと収めるがな」
 海牛はガハハと笑いながら、大きく左へハンドルを切ったため、僕はバランスを崩して思い切り彼女の肩に寄りかかった。仄かなオーデコロンの香りに反して、助手席のシートがいつの間にか居心地の悪いものになっていた。
 結局のところ、海牛は僕をカモメビルまで送ってくれて、そこからは昨夜から置きっぱなしの通勤用自転車で帰途についた。向かいの銀行の看板時計は十時三十分を指していて、僕の帰りを待ちわびてウーラも怒っているに違いない。ウーラの機嫌を取り繕うつもりで自宅近くのスーパーに立ち寄り、特上のマグロとヒラメの造りを買った。帰宅してみると案の定ウーラはご機嫌斜めで寄りつこうともしない。この時を境に、僕とウーラの主従関係は逆転してしまった。

 清掃部ヘッドの海牛は、これまで二度もエスカレーターを止め忘れるという僕のうっかりミスを握り潰してくれた。それからつい一カ月ばかりまえのこと、思い返すだけで赤面ものだが喧嘩騒ぎで留置所へ放り込まれた折りも、貰い下げに来てくれたのは海牛だった。それには大いに感謝するものの、僕が頑なに前田を拒む理由と、それにもかかわらず海牛が僕を庇ってくれるには、それなりの経緯があるのだ。
 さかのぼれば、僕が定年後に警備員として勤め始めたばかりの、あの日の出来事に起因する。
 僕が派遣されたカモメビルは構造的に内部では繋がっているが、表通りからのスーパーの出入り口と専門店やホールへの出入り口は別々になっている。その日早番勤務であった僕は、三十分後のオープンを控えてエスカレーターを点検するためにスーパーの売り場から一階の専門店入り口付近までやってきた。この場所は地階から最上階の五階部分までが吹き抜けになっていて、各階に通じるエレベーターとエスカレーターが設置されている。そのエスカレーターのまわりに、清掃員らが勢揃いしているではないか。吹き抜けの部分は高さ一メートル余りの手摺りが巡らされ、下部には透明のアクリルボードが張られていて上部の階からは地階までが見渡せる。清掃員らは、これからこのアクリルボードを磨こうとしているようだ。途端にツンと揮発性の刺激臭がして、僕は皆が手に持つガラス瓶の容器に目をやって顔をこわばらせた。なんと、シンナーでアクリルボードの汚れを拭き取ろうとしているのだ。シンナーでアクリル樹脂を拭くなどすれば、化学反応を起こしてアクリル樹脂が溶解するのは、鉄工所時代の知識として持っていた。頑固な汚れを一挙に落とそうとする魂胆らしいが、とんでもないことだ、僕は慌ててその作業を制止しようとした。
「清掃になぜ口出しすんの、関係ないやろ、向こうへいってや」
 僕を睨み返し、激しい口調で反論した女が前田であった。いかにも新入りは黙っていろとばかりに、おまえの忠告など聞く耳を持たぬといった態度で、世界中の男を敵にまわしている、とでもいわんばかりの挑戦的な目つきだ。僕は以前にも、このような目つきをした女にどこかで会った憶えがある。その硬直した心理状態は、対する相手の真意など汲み取ろうとする余裕すら感じられない。普通なら、こういう女には関わり合わないのが最良の策だが、危険物のシンナーを持ち込むなど、下手をすれば僕自身も責任を問われかねない。他の清掃員に小声でヘッドはと尋ねると、まずいことに海牛は公休日だという。清掃部の責任者である海牛が居ないとなると、他に前田に指示を下せる者はいないのだ。海牛に連絡して、現場に来させる手もあるが、そんな余裕はない。とにかく、シンナーでアクリルボードを拭くなどすれば、大変なことになると前田を説得するしかない。
「もう、うるさいなっ、仕事の邪魔をせんといてや、あんたら、こいつの言うことなんか聞くことないで」
 前田の僕を睨み付ける目は険悪なほどに挑戦的で、他の清掃員らはサブリーダーの前田に対する遠慮もあってか、困惑した様子で成り行きを見守っている。僕の察するところ、この女は単に屁理屈をこねているのではない、これまでの過去がどうであったかはともかく、男に対して確執があるのだ。僕を見るこの女の不信に満ちた眼差しは、それを物語っている目だ。自分のおこないに対して、男からの説得や忠告に耳を貸すのは、彼女にとっては許し難いほどの自尊心を傷つけられる行為なのだろう、要するに前田は、僕ではなく男を拒絶しているのだ。
 こうなると制止すればするほどに、彼女は意固地な行動に移るのは必至だ。そうなれば、結果がわかっていて制止できなかった僕の責任はもとより、会社そのものが派遣契約をうち切られ、ここにいる清掃員らも職場を失うことにもなりかねない。
「あんたら、家の電化製品とかの説明書にも、シンナーとかベンジンで拭いたら脱色とか変色すると書いてあるん見たことあるやろ、取り返しつかんことになるで」
 オープンまでに時間がない、客が入ってきてシンナーの臭いがしていたりすれば大変だ。僕は前田の説得を断念して、他の清掃員らに話しかけた。
「軽ちゃんの言うとおりや、サブやめといた方がええんと違いますか」
 戸惑いの表情で事の成り行きを見守っていた、なかの一人の発言をきっかけに、それぞれが手にしたシンナーの容器とウエスを用具箱に戻し始めた。
「責任は私がとるから、筋違いの意見なんか聞くことないんや」
 前田はおなじ理屈を繰り返し、シンナーを染みこませた布切れでアクリルボードを拭き始めたのだ。見ている間に、ボードのシンナーが付着した部分が白く濁り始めた。その手からウエスを取り上げて止めさせる事もできたが、僕はあえて傍観した。そんなことをすれば、こういう女に限ってやれ暴力を振るっただの、やれセクハラだのと、ヒステリックに騒ぎ立てるのが目にみえている。
 そのときの被害としては、後日に前田が実際にシンナーで拭いてしまったアクリルボードの一枚分、六万五千円也の弁償だけで済んだ。もし居合わせた清掃員全員が、前田の指示でもって一斉にシンナーを用いて拭いていたら、その結果は考えるまでもなかった。
 この報告をうけた海牛は数日経ってから、わざわざこの辺りではちょっとばかり高級で通る和風料理屋へ僕を誘い、軽ちゃんのおかげで大事に至らなくて済んだと、こちらが恐縮しかけるぐらいに何度も礼を言った。僕はそのときも海牛に、あのときの前田の態度だけは我慢がならないと激しく非難した。
「ウチのメンバーのなかで、あの子だけが独身なんや、それだけに、つっぱってるようなとこもあるやろけど、堪忍したってや」
「僕かて好き好んで喧嘩しとうない、けどあのヒトは性格悪すぎるわ」
「世の中がこれだけ進んでも、女が一人で生きていくいうのは、いろいろと大変なことやと思うわ、それなりの修羅場にも遭うてきたんやろなあ」
 海牛はしみじみとした面持ちで語り、前田の事はそうカッカするなと諫めたが、僕は前田を許す気にはとうていなれなかった。むしろ海牛が、前田を庇うとするのが僕には疎ましかった。
「ヘッド、あんなエゴイストがサブでいる限り、ここの職場はうまくいきませんよ」
「軽ちゃん、あんたもその年まで人生歩んできたら、わかるやろな。そら何やかんやと気に食わんこともあるやろけど、私に免じてこれからもよろしゅう頼むわ」
 海牛はそう言って、僕に頭を下げたが、僕は承伏できなかった。人生歩んできたから、何がわかるというのか。しかし海牛から頭を下げられ、それ以上に前田のことを非難するのを控えた。もっとも海牛が僕に頭を下げたのは後にも先にもこのときだけで、その後はもっぱら僕の側が海牛に頭を下げっぱなしなのだ。
 
 初めて克っちゃんの家を訪れ、朝帰りをしてからというもの、僕は憑かれたように、たびたび克っちゃんの家を訪れては朝帰りを繰り返した。もちろんのこと、要領も次第に心得て、泊まっても朝の九時にはきっちりと自宅に帰り着くようになっていた。
 あるとき克っちゃんが、僕に蛭田のところに面会にいくから一緒にいこうと誘った。僕は克っちゃんとの関係が蛭田にバレバレになるのを恐れたが、おどおどしている事の方が精神衛生上よくないと、開き直った気持ちでついていくことにした。
 蛭田が拘留されている拘置支所は、僕の住むA市内でも西南部にあり、西北部に居住する僕はこれまで足さえ踏み入れたことのない地域だった。いざ出かける段になって、僕はまさか面会にいくのにダンプで乗り付けはしないだろうと思っていたが、克っちゃんは当然の如くダンプを走らせた。帰途密かに二十七階建てシティホテルの最上階にある、グルメ雑誌でも有名なステーキハウスに彼女を誘うつもりでいた僕は、こんなことなら海牛にマジスタを借りておくんだったと悔やんだ。
 拘置支所に着くと、面会に現れた蛭田は血色もよくて、K署の留置所で出会ったときよりも健康そうにみえた。克ちゃんが蛭田と話しているとき、僕は気を利かしたつもりで、二人の会話が聞こえぬ距離に離れていた。しばらくして振り向いた克っちゃんが、蛭田が僕と話がしたいと言っているから、といって席を譲った。
「お元気そうで、安心しましたわ」
「あいつが、いろいろと世話になっているそうやなあ」
 当たり障りのない挨拶をする僕に、蛭田はニヤリとして言った。
「そんな世話するやなんて、めっそうもおまへん」
「まあ、男と女のするこっちゃ、デキてしもうた事はしゃないわい」
「えっ……」
 克っちゃんは蛭田に、僕とのことも事細かに話しているのだ。蛭田は自分の女に手を出した僕を、絶対に許さないだろう。彼が出所してきたら、僕は殺されるかも知れない、考えただけで思わず失禁しそうになった。しかし、ここに来て黙っているわけにもいかず、どう返答すべきか僕は瞬時の判断をせまられた。
「魔、魔がさしたとしか、言いようがおまへん」
「そうやろ、そうに決まっとる」
 僕の恐る恐るの弁解に、蛭田は垂れパンダの目を細めて頷くと、もっと寄れと手招きをして、僕はさらに顔を近づけた。
「俺は怒ってへんで、むしろあんたに感謝してるんや、あいつも女盛りやよってに、俺が出てくるまで男なしでいけ言うても、そら可哀想過ぎるやないか、なあ、あんたもそう思うやろ」
「蛭田はん、そういうことでしたんか、つまり、僕に克っちゃんのムシよけになれと……」
「察しがええがな、俺もこんなやくざ稼業やってるさかいな、我がの女を同業のモンにちょっかい出されてみい、黙ってるわけにはいかんのや。せっかくキレイになって娑婆に戻った途端に、切った張ったで逆戻りいう事になりかねん、そこえいくとあんたは堅気や、俺さえ黙ってたら切ったはったの勝負せんなん事もない」
 まあ、その世界に生きる者には、それなりのメンツや意地があるのだろうが、僕は聞いていて思わず蛭田に同情した。この男も根はいい奴なんだろう、でなかったら、克っちゃんがあんなにつくすはずがない。
「房の窓から空を見てたら、このごろ無性に子供のころの事を思い出すんや。いまの季節には、よう雑魚取りをしてたなあ、ほれ、線路端の溜め池を知っているやろ、あそこではよう鯰を釣った、汽車がくると機関士が身を乗り出して、釣れたかあ、と声をかけよる、そしたら釣った鯰を高々と差し上げて見せたったもんや。こんな話は俺の村があった頃を知ってる、あんたにしか聞いてもらえんからなあ」
 僕が彼の生まれた村を訪れたのは僅か二、三度で、それほど詳しく知っているわけではない、しかも僕と彼とでは時期に二十年以上の隔たりがあるにもかかわらず、かつて存在していた風景の残像を共有しているのもまた事実なのだ。だからと言って僕がいま彼にしてやれることは、精々思い出話に相槌をうつくらいでしかない。
「励むんはしゃあないけど、その歳でダブルヘッダーはやりすぎやど、無理して命を縮めんようにせえや」
 最後に蛭田はそう言って、またニヤリとした。僕はウッとなったまま、言葉につまってしまった。
 拘置支所からの帰途、僕は助手席で寡黙になっていた。なかま同士の刃傷沙汰を避けるために、僕と克っちゃんとがデキているのを容認する蛭田の心情を思いやると、むかし観た東映やくざ映画の高倉健みたいに蛭田が思えてきて、胸の内がジンと痺れた。
「ジイ、お昼を過ぎたし、何か食べていこうや」
 ハンドルを握りながら、ダッシュボードから手探りでパーラメントの箱を取り出した克っちゃんは手慣れた動作で箱を上下に振り、僅かにのぞいた吸い口を唇の先でくわえて抜き取る。
 蛭田の話を思い出して、切ないまでの彼の心情にハマッてしまった僕は、最初のシティホテルのステーキハウスへいく気持ちなど、とっくに失せてしまっていて、食欲もなく心なし胃もドンと重い。
「そやな、吉牛でもいくか」
 ちょうど左手の前方に橙色の看板が目に入り、突きだしたライターで克っちゃんのくわえたタバコの先に火を点けてやりながら答えた。
「ジイ、女の子を同伴で吉牛はないやろな」
「ダンプで乗り付けるには、ここぐらいがギリギリや」
 克っちゃんは「アハハ」と笑って「それより市役所の地下食堂へいこうな、あそこはメニューが多くて値段が安い」と言い、僕も頷く。
「ジイ、どないしてん、さっきから元気ないやん」
「うん、蛭田はんの顔みてたら、こんな事しててええのんか、そのうち天罰を受けるのと違うかと……」
「そんな柄にもないこと考えんとき、蛭ちゃんはジイに感謝してるんや、これ人助けのコトヨ」
「こうみえても、わりとデリケートなんや……」
「結構気いあかんねんな、蛭ちゃんジイと郷里が一緒なんやろ、ええヒトと知り合えたいうて喜んでたし、蛭ちゃんが戻ってくるまで楽しもうな」
 克っちゃんはそう言って、屈託のない笑顔を浮かべた。その笑顔に、蛭田の呪縛が僕の内からアッという間に吹き飛んだ。カッコつけても、僕の分別はこのぐらいな軽さなんだと思うと急に空腹を覚えた。市役所の駐車場までくると、侵入してきた大型ダンプに係りの警備員が両手を振って制止している。
「おっさん何やっとんねん、ちゃんと仕事したらんかいっ、税金の無駄遣いやいうて投書して首にしてもたろかっ」
 運転席の窓から身を乗り出した克っちゃんの一喝に、サッと両腕を右横にしてゴーのサインを出した警備員は、目の前を通過するダンプを顔面を引きつらせてただ見送る。

 それにしても、克っちゃんは不思議なヒトだ。女ながら大型ダンプを乗り回し、荒くれのダンプ屋どもを相手に引けを取らない仕事ぶりは凄いものがあるが、ジーゼル排ガス規制で買い換えたダンプのローンもまだ大半が残っているらしいのだ。
 いつだったか、僕は克っちゃんに頼まれコイン洗車で、ダンプを洗車していたときのことだった。おなじく洗車にきていた彼女の仕事仲間の男から、そんな話をかいま聞く機会があった。
「やくざな男がヒモについているよってに、あのヒトも頑張らなしゃないわのう」
 ステンレスの派手な装飾バンパーを磨きながら、男はぽつりと言った。
「苦労してるんや」
「端からみて思うほどには、本人はちっとも苦労してるつもりはないのやろ。あれで結構人生を楽しんでいるんと違うか」
 僕は男の言うのも一理あると頷いた。男は克ちゃんとは神戸空港の埋め立て工事で知り合ったと言い、当時克ちゃんは新米のダンプ乗りで、色々と仕事上のアドバイスをしてやったこともあるらしい。
 大手の銀行に勤めていた克っちゃんは、蛭田と知り合ってから、事件を起こして捕まった彼の保釈金を稼ぐためにダンプ乗りになったのだという。男の話に、僕はそのとき克っちゃんのことを、まさに女の鑑みたいなヒトだと思った。

 僕と克っちゃんがデキてしまってから、あっというまに一カ月が過ぎた。彼女のお陰で僕の回復した男性機能はその後も持続し、一度は失った自信をふたたび取り戻していた。
 ある日曜日の朝、隣りに寝ている克っちゃんに、足で小突かれて目覚めた。「ジイの電話やろ」彼女は目をつむった状態で言い、夏布団を首のあたりまで引き上げた。早回しのテープのような般若心経が流れているのは、たしかに僕のケータイの呼び出しだ。朝っぱらから誰や、と愚痴りながらフリチンのままベッドからおりて、柱に打ちつけた五寸釘に引っかけてあるズボンのポケットをまさぐりケータイを取り出してみると海牛からであった。
「軽ちゃん、あんた、えらいことやで、すぐ来てんかいな」
 海牛がひどく慌てている様子なのが、話しぶりでわかった。今週は遅番で午後の三時からの出勤なのだが、あの慌てようからして職場で何事かアクシデントが起きているに違いない。もっとも、海牛には掃除機が吸引しなくなったとか、男子用トイレの便器センサーの故障で水が止まらなくなっても「えらいことで、すぐ出てこい」だから、僕はまたかという気がしたが一応「すぐにいきます」と答えた。ケータイの時刻表示は六時四十五分だった。
「ジイ、その呼び出し何とかならんのん、朝っぱらからお経を聴きたないわ」
 克っちゃんが、布団から不機嫌そうに顔を覗かせた。このお経の着信音はつい一ヶ月前に変えたばかりだ。容認されているとはいえ、れっきとした亭主のいる克っちゃんと、邪淫の罪を犯していることに、懺悔の意味を込めたつもりなのだった。
「日ごろのおこないを、僕なりに反省し懺悔する意味でこれに変えたんや」
 答えながら急いで衣服を着けようとするあまり、トランクスの前と後ろを逆に履いているのに気づいて、片足立ちでよろけながら履き直す。
「しょうもな、そんなんを懺悔の値打ちもない、いうねん」
「えらい古い歌を知ってるやんか、それより今朝は訃報の放送がないなあ」
「カラスの鳴きようからして、昨夜から今朝にかけて絶対に年寄りが死んでんで、なんなら賭けてみる」
「生憎やけど、賭け事をするなと親の遺言や」
 衣服を着終えた僕は軽口をたたき、布団から顔だけ覗かせている克っちゃんにキスをして部屋を出た。階下にいくと、待ちかまえていたチビが散歩に連れていってもらえるものと、じゃれついてくる。「急いでるよってに、また今度な」チビを宥めて表に出たところで、克っちゃんの予想通りにスピーカーの放送が始まった。
 克っちゃんの言う通りキッチリや、僕は呟き曇天の空を仰いで、この程度なら雨はこないな、と予測するとバス通りへむかった。ラッシュの時間帯も関係なく、一時間に一本のバスは七時十五分にコンビニの前にある停留所へくるから歩いても充分に間に合うが、健康のためとジョギングを決め込んだ。しかし五十メートルも走ると脇腹が痛くなり、おまけに息切れが激しくてやむなく急ぎ足で歩いてバス停へむかった。
 この時間帯カモメスーパーの通用口あたりは、順番待ちする商品搬入の車が路上に列をつくり、なかへ進入するにしたがい荷下ろし作業の男たちの怒号が飛び交って騒然としている。
「あ、軽ちゃん、ヘッドが控え室までくるようにって」
 エレベーターのところまでくると、僕をみつけた清掃員の女が小走りに寄ってきて告げた。意味ありげなその目は、何か言いたそうだ。何事があったのか尋ねかけて、ヘタにこいつら相手に喋るとろくな結果はないと口を噤み、やってきたエレベーターに飛び乗った。そこへ閉じかけたドアをこじ開けるようにして、出勤してきたパートの女従業員たちがなだれ込みアッという間に満員になった。気が付くと男は僕一人で、化粧品の香りと人いきれに押し潰されそうになりながら、耐える僅か三十秒が気の遠くなるほどながい。
 事務所やロッカールームは三階に集中しているので、エレベーターが三階に着くと、一斉に降りたつ女たちのあとについて僕も降りた。スーパーの社員食堂の入りぐちに並ぶ自販機の陰に隠れるように、清掃部の倉庫兼控え室のドアがある。
 スチールのドアを開けると、十畳くらいの広さの部屋は片側の壁にロッカーが並び、反対側には掃除機など清掃用具や洗剤の缶などが雑然と置かれている。海牛は中央に置かれた、皆が休憩のときに使う長テーブルに向かって椅子にかけていた。
「軽ちゃん、あんた、いま遅番やったなあ」
 僕が呼び出しの理由を尋ねるまえに、海牛は手元にある何かの書類をいじりながら老眼鏡ごしにじろりと見上げて言った。僕が頷くと海牛は大きな溜息をついて、ふたたび口をひらいた。
「スーパーの正面出入り口の戸締まりを、最後に確認したんは誰や」
「僕ですわ、いつもの通り店内の点検をすませたあと施錠しましたけど」
「それがドアはフリーの状態やったんや、新聞屋がドアの隙間から新聞を差し込もうとしたら、すうっと開いたんやて」
「そんなアホな、ちゃんと施錠したつもりです」
「つもりかいな、あんた、このまえのエスカレーターのときもおんなじこと言うてたなあ」
 ビルの閉店後にエスカレーターの電源を切り忘れて帰る大ポカを、僕はこれまでに二度もやらかしている。その折りにも「ちゃんと止めたつもり」と言い訳をして、海牛から「つもりでは、あかんがな」と大目玉をくっていた。それに今回は施錠忘れという、これまでのミスとは比較にならない初歩的なミスをやらかしたわけで、海牛が怒るのも当然だ。このまえの二つのミスをやらかしたときには、海牛は派遣先のカモメビルにも僕を使用する派遣元の会社にも報告をせずに、黙って握りつぶしてくれたのだった。それはひとえに、前田のアクリルボードをシンナーで拭くという失態を、最小限にとどめたことへの海牛なりの謝意だと僕は理解していたのだ。
 海牛はケント1oを取り出して火を点けると、最初の一服を味わうように大きく吸い、ながながと煙を吐いた。部屋の窓はロッカーの後ろに隠れていて、ないのも同然だからたちまち煙が充満していく。僕はいまの重苦しい空気を、少しでも逃したい思いで壁際へいき換気扇のヒモを引いた。
「ヘッド、別に言い逃れするつもりはおまへん、僕の初歩的なミスですわ、すんまへん」
 ドアの施錠を忘れるなど、警備員としては失格と言われても当然だが、かといって責任をとって辞めればすむというものでもない。もしこの一件がカモメビル本部の知るところとなれば、契約破棄ということだって考えられる。そうなれば、僕を含めた五人の警備員と、十人いる清掃部員の職場を失わせることにもなりかねないのだ。時間が経つにつれ、僕は事の重大さに立ち竦んだまま小便を漏らしそうになるほど気が動転していた。
「問題はうちの連中や、皆おとなやから、そこらへんはわかってるやろけどなあ」
「ヘッド、休憩時間に皆なに詫びさせて貰いまっさあ」
 海牛が目をつむってくれても、他の連中の口までは塞げない、下手な思案は休むに似たりだ。前回の経験から海牛の言葉にピンときた僕は、そう言い残して部屋を飛び出していた。
 ロッカールームや休憩室がならぶ社員用通路を通り抜け、パソコン教室や学習塾があるフロアに出ると、まだ動いていないエスカレーターを二階の飲食店が並ぶフロアへ駆け下りた。
 八時から開店する喫茶店セーヌは、表のドアに準備中の札がかかっていた。息せき切って入ってきた僕をみて、仕込みをしていたマスターが驚いたように顔をむけた。
 僕はマスターに簡単に事情を説明して、八時きっかりに清掃部の控え室へ出前をしてくれるように頼んだ。マスターは最初は開店前の忙しい時に無理だと断ったが「駄目なら、僕は腹を切らねばならん羽目になるんや」と言って土下座せんばかりに泣きついた。マスターは「えらい安っぽい腹やんけ」と言いつつ「ミックスサンド十人前とホットコーヒー二杯、アイスコーヒー六杯それにミックスジュース二杯でええねんな」
 マスターは仏頂面のまま、僕が言った注文の品を伝票に書き込んだ。品物を統一すれば簡単だが、これは皆の好みを考えたうえでの気配りだ。七時四十分を表示している壁のインテリア時計に目をやりながら、僕は間違いなく八時に出前を届けてくれるように念押しをしてから、さらに三千八百円のコーヒーチケットを三枚購入した。途端にマスターは愛想よくなり、間違いなく八時に届けると約束をした。
 購入したチケットの一枚は海牛に、もう一枚は同僚で今朝の早番の警備員に渡し、残り一枚は第一発見者の新聞屋のおやじに渡すことで、この一件の口封じは完了するのだ。しかし問題は前田だ、この性悪女が、僕のこうした根回し事を簡単に受け入れて皆と同調するなどとは考えにくい。第一他人に対して、思いやりなど一片の欠片もないのが、あの女なのだ。僕は前田の口を封じる妙案がないまま、皆の口封じをせんがための行動に追われた。
 ふたたび掃除屋の控え室に戻ってくると、早番の警備員と海牛が、何やら真顔で話し合っていた。僕は先ほど購入したばかりのコーヒーチケットを、海牛と警備員の男に、迷惑をかけたお詫びにと差し出した。二人はこぞって、しょうもない気を遣うなと受け取ろうとしない。
「こんな事ですむとは思てませんが、どうぞ僕の気持ちでっさかい」
 いまにも泣き出さんばかりに声を詰まらせ、二人の手に無理矢理に握らせた。我ながら自己嫌悪に陥りそうなわざとらしい演技だが、相手が受け取りやすい環境にもっていってやればいいのだ。手強いのは、このあとの清掃員たちだ。わけてもサブの前田は、鬼の首でもとったかのように僕の責任を追及してくるのは目にみえている。しかし、この女に取り入ることは、ことある事に彼女と対決し非難の応酬を重ねてきた僕の無条件降伏を意味する、そのような事態だけは絶対に避けねばならない。
 八時になると清掃員らは休憩のために、一旦この控え室に集まるのだ。次々と清掃用具を手にした連中が戻ってきて、一挙に賑やかになる。そこへセーヌのマスターとウエートレスが、大きなトレーに注文の品を載せて現れた。
「コーヒー多めに入れてあるよってに、よかったら飲んでんか」
 マスターは提げてきたポットを指して言い、僕に愛想笑いをしながらウエートレスともども部屋から出ていった。
「これなあ、軽ちゃんからの差し入れや」
 テーブルの上におかれたサンドイッチとコーヒーの訳を、海牛が説明したあと小声で「これは前ちゃんに渡したりや」と言ってさきほどのコーヒーチケットを、ふたたび僕のズボンのポケットにしのばせた。
 皆はテーブルに並べられてあるセーヌの出前のなかから、それぞれが自分の好みの飲み物に手をつけ始めている。
「ドアの施錠を忘れるやなんて、これがイラクやったら略奪がおきてるで」
「そんなもんイラクやのうても、ここら用心悪いのに店のなかスッカラカンになってるがな」
 僕の失態は恰好の話題となり、各人が堰を切ったように喋りだす。
「ほんま、皆さんに迷惑をかけてしもうて、申し訳ありません」
 僕は立ったまま皆にむかい、神妙な面持ちで頭をさげた。
「猿も木から落ちるや、大の男がペコペコしないな」
 サンドイッチを頬張りながら、年配の女が言うと、ここでは一番若手の四十女が「でも、普通に考えて、ありえなーい」と、ありえなーい、のところだけ皆が一斉に声を揃えて唱和してどっと笑う。ハモるな、バカッ、僕は恨めしげに皆を睨み付けているところへ、サブの前田が遅れてやってきて話の輪に加わった。
「エスカレーターの件も入れて、あんたこれで三回目やで、人間のすることやから最初の失敗はまあ、許せるとしても、おなじこと二度やったらアホやんか、それが三度いうたら、もう救いようがないんと違う、ボケがくるんはまだ早すぎるで」
 歯に衣を着せぬ前田の一言に、ふたたび皆がどっと湧いた。この女め、口から手え突っ込んで、臓物引っ張り出してガチガチ言わしたろか。僕は腹の中が煮えくりかえる思いながら、相手の挑発にのらぬよう頭をかいて苦笑いをするしかない。これで僕は前田を批判する資格を、自らの失敗で失ったのだ。もっとも一方では、こんな奴にコーヒーチケットなど、捨ててもくれてやるものかと海牛の言葉を無視した。
「そない言うたりな、軽ちゃんは定年なってからも畑違いの職場できばってはんのや、ミスしたからいうて何事もなかったんやから」
 海牛がとりなすように口をはさんでくれて、皆の笑いは治まった。
「あんたら、これやで、わかってるなあ、」
 海牛が皆を見渡して、口元に持っていった右手を横に動かしチャックを閉める動作をした。盛り上がっていた場はシンとなって、あの前田を始め皆が一様に頷ずくのをみて、僕は海牛の統率力の凄さを見せつけられた思いがした。
 
 それから一週間ばかりがたち、僕は昨日から早番の勤務についていた。例の施錠忘れのことは、それからも表だって取り沙汰される事もなく、僕は皆には低姿勢で接し、業務では慎重のうえに慎重さを重ねた仕事ぶりだった。
 一方克っちゃんは蛭田の保釈金を捻出するために、稼ぎいい地方の現場へ出稼ぎにいってしまった。そのために、僕は否応なしにチビの世話を任されてしまった。否応なしというのは、出稼ぎに出発してから僕にケータイをかけてきたからだ。
「ジイ、悪いけど、しばらくチビの世話頼むわ」
 克っちゃんは、それだけ言ってケータイを切った。まるでウナ電のように短い喋りだったが、僕は小躍りしたいほど嬉しかった。というのも、僕は三日まえに彼女の家にいったばかりだった。その折りにちょっとした言葉の行き違いで、克ちゃんとは気まずい別れかたをしていた。朝方そろそろ起きようかというときに、ベッドのなかで克っちゃんから「蛭田の保釈金が二百万要る。蓄えが百万あるからあと百万都合しなければ」と聞かされたとき、僕は黙っているのも悪い気がして「いくらか手伝おうか」と言った。
「ジイ私に同情してんのん、もう帰ってや」
 いきなり怒り出した克っちゃんに、僕は追い出されるようにして彼女の家をあとにした。克っちゃんは本気で怒っていたらしいが、帰途、僕は自分の言葉を反芻してみて、変に同情がましいことを口走り、克っちゃんのプライドを傷つけてしまったのかと気づいて大いに反省をした。無神経なことを言ってしまったことを詫びるつもりで、少し日にちをあけて電話をするつもりでいたのだ。
 それにしても出稼ぎにいく話など、克っちゃんは僕に対してはおくびにも出さなかった。早速こちらから折り返し電話するが、電源を切っているのかかからない。僕はコイン洗車場へ出かけて彼女の仕事仲間から、仕事はきついが荒稼ぎのできる受け取り仕事があるのでいこうと思う、とか言っていたことを聞き出した。
 愛猫のウーラは、僕が朝帰りをするたびに拗ねた素振りをするが、チビは飼い主の顔をみなくとも気楽なもので、散歩に連れていくのに僕が訪れるのを待ちわびていて跳びかかって喜びを表す。しかし、まいにち朝と夕方に克っちゃんの居ない家にいかねばならないのは、チビにはすまないが気が進まないことおびただしい。ましてや遅番の日には勤め帰りに立ち寄り、真夜中にチビを散歩に連れ出すことほど億劫なことはない。
 克っちゃんが出稼ぎにいってから、一ヶ月が経った頃初めて彼女からケータイがかかった。
「ジイ、ちょっと会いたいねん、こっちへ出てけえへん」
 克っちゃんは、いつもこうなのだ。相手の都合など考えずに、いきなり連接のない事を言いだし行動するから、つき合う側はいつも構えていることになる。とはいうものの、久し振りに克っちゃんに会えるのだ。僕は翌日が公休なのを幸いに、さっそく出かけることに決めた。留守番をさせるウーラには極上の猫缶を買ってきて機嫌をとり、早めにチビの散歩を終えるとその足で出かけた。
 新大阪駅を夕方六時に発車したこだまは、一時間で岐阜羽島駅に着いた。すでに克っちゃんは、駅正面出口のところにダンプを止めて待っていた。
 克っちゃんは僕をみると「ジイ」と手を振って声をかけてきた。仕事を終えてそのまま駆けつけたという彼女は、上は黒いTシャツに下はモスグリーンの作業ズボン姿だった。改札を出ると、見知らぬ土地ということもあり、僕らはもう何年も会っていない同士のように、オーバーに抱き合い唇が触れんばかりに互いの顔をちかづけあった。
 それから克っちゃんは僕をダンプに乗せると、行き先も言わずに走り出した。途中うどん屋で腹ごしらえをすると、ついでにコンビニへ立ち寄りビールやつまみなどを買い入れた。克っちゃんはハンドルを握りながら、素泊まり二千五百円の簡易宿泊所ぐらしをしていると言い「とても男を連れ込むところではない」と言って笑った。地理に不案内の僕には、どこをどう走ったのか見当がつかないが、三十分ぐらい走ったところの山間部でダンプを止めた。居眠りゾーンと書かれた標識があって、本線の道路と反射板を取り付けたポールで分離してある。すでに灯を消したトラックが一台止まっていて、克っちゃんはその後部につけてダンプを止めた。
 克っちゃんは「チビ元気にしてる」とチビの様子を尋ねたりしながら、コンビニで買い入れた缶ビールを旨そうに飲み始めた。この様子からして、ここで朝まで過ごすつもりらしい。何だか面白くなってきて、僕も缶ビールのプルタブを開け、半分くらいを一息に飲むと旨さが腹の底に染み渡った。酔いがまわると気持ちが大胆になり、どちらからともなくキスを交わした。互いに相手の口に舌を侵入させて絡め合った。
「ジイ、ええやろ」
 ながいキスを終えて顔が離れると、彼女はそう言っていきなり暗がりのなかで、腰のベルトを緩め尻を浮かせながらズボンをずらせ始めたのには、さすがの僕もたじろいだ。そのうち体が不自然にならざるを得ないダンプのキャブという狭い空間が、何となく背徳じみていて逆にコーフンを高めたらしい。僕らは窮屈な態勢で抱き合い、本線を走り抜ける車のライトが、抱き合う互いの顔や半裸の体を一瞬浮かび上がらせる。その破廉恥的な状況がますます刺激を煽り、僕と克っちゃんは互いの欲望をぶつけ合った。六十三歳の分別はおろか、肉体的にはショック死をもいとわぬ過激さだった。
 翌朝は目覚めるとともに、克っちゃんはダンプを走らせた。途中で早朝のためにまだ営業していない道の駅に立ち寄り、互いにトイレをめがけて猛ダッシュした。
 ふたたび車上のヒトとなり、僕は自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開けて克っちゃんに渡してやると、片手でハンドルを握りながら受け取り旨そうに飲んだ。コーヒーを流し込むたびに彼女の喉がふくらみ、ぎゅっぎゅっと鳴るのをみていて意味もなく可笑しかった。
「ジイ、呼びつけてごめんな、おかげでスッキリしたわ」
 飲み干した空き缶を、助手席の足もとにあるくず入れに投げ入れた克っちゃんは、満足そうな笑顔で言い、これでまた当分頑張れるとも言った。受け取り仕事は朝の積み込みが勝負なのだ。一刻も早く積み込み一刻も早く走り出す、一日なん往復できるかで、その日の稼ぎが決まる。
 岐阜羽島の駅には六時まえに着いた。駅正面の昨夜とおなじ場所に僕は降りたった。
「あともう一息やねん、それまでチビのこと頼むわ、そや、また寂しなったら呼ぶけんな」
 それだけ喋ると、克っちゃんは運転台を仰ぎ見ている僕に窓から片手を出して小さく振り、広場をぐるっとまわってふたたびきた道をいってしまった。克っちゃんのダンプが見えなくなるまで見送った僕は、我にかえると早朝の駅にぽつんと一人でいた。時刻表を見ると下り一番の『こだま』までにはまだ三十分もあって、そのためか僕のほかには人影はない。
 帰り着いたらまずチビの散歩と餌をやりにいくか、いやまてよ、ウーラもこのところ構ってやらないものだからおかんむりやしなあ、そや、海牛の土産を買わなあかんかった。ここらは何が名物なんやろ。僕はホームのベンチにかけて、とりとめもない思考をめぐらせていた。

 克っちゃんに会いにいってから十日あまりが経っていた。その日の勤務は早番で、勤務明けは午前十時だった。実際の仕事は九時に終わり、昼間勤務の女性警備員との引継(といっても、時間内の出来事を簡略に記入した日誌を手渡すだけなのだが)もそこそこに僕はセーヌへ顔を出す。そこで朝のコーヒーを味わいながら、時にはアルバイトの若いウエートレスを相手に世間話に興じることもある。つかの間ながら、仕事を終えたあとのホッとした気分になれる、ひとときでもあるのだ。セーヌに向かった僕は、二階の飲食街でエスカレーターを降り立ったところで前田に出くわした。
「大山さん探していたんよ、ちょっとB1の女子トイレまでいって頂戴よ」
 前田は僕をみるなり、いいところで会ったと言わんばかりに声をかけてきた。最近この女が頼み事をするときに、語尾のアクセントが妙に浮くのが、いかにもわざとらしくて不愉快だ。
「悪いけど僕はもう上がったから、昼勤の警備員に言ってよ」
 僕は嫌なやつに会ったと思ったが、つとめて平静に答えた。
「十時までがあなたの勤務時間でしょう。まだ九時四十分やから二十分あるやないの、人並みに仕事こなされへんのやったら、せめて時間だけでもまともに勤めたらどうなん」
 もう、この女の一言一言がムカつく、僕はすでに心の中でこの女に死刑の宣告をくだしていた。こんな性悪女は、まともな死なせようでは気がすまない。荒涼たるサバンナのまっただ中で人食いライオンに襲われ、ボキボキと骨の砕ける音とともに頭からかみ殺されるのだ。そのあとハイエナがたかり、骸を禿げ鷹がついばむ場面を空想し、ざまあみろ、と日ごろの溜飲をが下げているのだ。
 もっとも内心で憤慨してみても、相手の言ってることは一応筋が通っている。それに、このまえの失態があるだけに、僕は仏頂面のまま彼女のあとについて地階の女子トイレへいった。エスカレーターを降りると正面がドラッグストアで、その横に衝立のように張り出た人工大理石の壁のうしろ側が女子トイレの出入り口なのだ。
 すでに九時三十分にビルがオープンしていて、一般客が入り出すと男の僕が女子トイレに入っていくわけにはいかない。ドラッグストアーのまえから、それとなくトイレの入り口に目を配っていると、七十歳代くらいかと思える女がショッピングカートを片手で引いて現れた。またこのバアさんかと、僕は舌打ちをした。入れ替わりにトイレに入っていった前田が、すぐに出てきて胸のあたりで右手の指を丸めて合図をした。
「おばさん、悪いけどそのバッグのなかを、ちょっと見せてや」
 近寄って声をかけると、相手は僕を睨み付けて拒否をするのを、今度は宥めるように言い聞かせる。
「トイレから備え付けのトイレットペーパーを持って出よるんと違うん、そんなんされたら困るんやわ」
 話しかけながらバッグのカバーをさりげなくめくると、ぎっしりとロール紙がつまっている。
「かなんなあ、こんなんしたら、あとから入ったヒトが困るやんか、これは返してもらうで、ええなあ」
 腰を低くして諭すように言い、前田に顔をむけると待っていたように、前田はばっぐに詰められたロール紙を取り出しにかかった。全部で十五ロールのトイレットペーパーを、前田が回収した。この朝トイレ掃除の際に清掃員らが、補充備え付けたばかりのやつだ。相手は不服面をしたまま、何ら悪びれた様子もなくいってしまった。僕がトイレットペーパーの持ち去りでこのバアさんを咎めるのはこれで三度目で、罪の意識が希薄なくらい始末に悪いものはない。しかし、もっと気に食わないのは、それがいつも前田との連携プレーであることだ。
 前田が回収したトイレットペーパーを持ち、ふたたび女子トイレにいくのを機に、僕は急いでその場を去ろうと動いているエスカレーターを駆け上がった。
 ふたたびセーヌへいこうかとも思ったが、ケチがついたようでどうも気がすすまない。このまま克っちゃんの家に立ち寄り、チビの餌やりと散歩をすませることに決め、一階でエスカレーターを降りた。そこで、さきほどのトイレットペーパーの件を、事務所に報告しておかねばならないのに気づいた。客とのトラブルを避けるため、些細なことでも報告を義務づけられているのだ。昼勤の警備員に頼んで報告書を提出させる手もあるが、前田あたりに職務怠慢だのと言われるのも癪だ。思い直すと僕はふたたびエスカレーターに乗り、三階の事務所へ向かった。
 カモメビルの管理事務所で、トイレットペーパーの持ち去り未遂の報告を済ませた僕は、今年の春から勤めだした若い女子職員を相手にしばらく話し込んだあと、おなじ階にあるスーパーの事務所の前を通りかかった。そのとき、偶然に半開きになったドアから前田の声がした。目を室内にむけると何か所用でもあったのか店長や何人かの男性社員を相手に、笑顔で愛想を振りまいて喋っている前田がみえた。僕はあんなに愛想のいい笑顔の前田を、これまでみたことはない。普段を知るものには、ちょっと想像しにくい彼女の一面を垣間見たようで、何とも複雑な思いがした。

 克っちゃんの家に着くと、チビが待ちかねたように飛びついてきた。飼い主は出稼ぎにいったままで、ぼくが義理のように朝晩顔を出して餌やりと散歩に連れ出すだけなのに、チビの無邪気なほどの喜びようが何だか可哀想だ。
 チビは溜まったストレスを、ここぞとばかり発散するかのように森のなかを駆ける。リードを持つ僕は根っ子に躓いて転ばないように、必至の形相で引っ張られながら走るが、息切れがしてとてもついてはいけない。そこで近頃は、首輪からリードを外してやることにしている。自由になったチビは転げるように森の奥にむかって駆けていき、数分もするとふたたび木立のむこうから姿を現し、僕のもとへ駆けてくる。それでも時々、戻ってくるのがあまりに遅いと、待ちきれずに先に家に帰ることもあるが、そこは犬のこと、しばらくすれば玄関先に姿を現して家に入れてくれと鼻を鳴らすのだ。
 みている間にチビの姿が木立のむこうに消えると、僕はいつもそうするように、その場で腕を振り上げ腰をひねったりとラジオ体操の真似事をする。そうしている間にも、木立の根方や繁茂する蔓草のそこここから、こちらをジッと見つめるものの気配を感じる。森をテリトリーとする無数の猫たちの視線だ、彼らは侵入者が退くまで警戒の見張りを続けるのだろう。
 いつだったか、どうしてこんな薄気味の悪い森の傍に住むのかと、克っちゃんに問うたことがあった。ここは静かだし、ほとんど老人ばかりのこの集落では、ゴミ出し場の清掃当番も、自治会の草むしりも老人たちでおこない、あなた達は居てくれるだけでいい、と言われて、年若の住人は大事にされるらしい。それもあるけど、ここに住む一番の理由は、この森が気に入っているからと、克っちゃんは言った。首吊りの名所だという噂で人を寄せ付けない森の、どこが気に入ったのか僕にはわからない。単に肉体的な関係がデキてしまったというだけで、僕は実際には克っちゃんのことを、ほとんどわかっていない気がする。
 わかっていないのは相性の悪い前田にだっていえる、ビル管理事務所から出てきたとき、偶然に開けられたドアのむこうに僕が目撃した初めて見る前田の姿も、実はこの森のように深い彼女の一面を垣間見たに過ぎないのかも知れないのだ。
 チビはまだ、森のどこかを彷徨いているのか戻って来ない。僕は待ちきれずに、右手に持ったリードを顔の前でぐるぐる回し、まとわりつくヤブ蚊を追っ払いつつ、ゆっくりとした足取りで森の出口へとむかって歩いた。

 九月に入るとローテーションによる僕の勤務は、一週目から遅番勤務で始まった。出勤時間の三十分まえにセーヌに立ち寄り、仕事前のコーヒーを楽しんだあと、タイムカードを打ちに清掃部控え室へむかうところで勤務を終えた海牛とパッタリ会った。
「ちょっと軽ちゃん、こんどの新歌舞伎座氷川きよしの公演やねん、それも初めての座長公演や、なあ、いっぺんぐらいつき合うても罰あたらへんで」
 このあいだまでベテラン歌手五木ひろしの追っかけをやっていたはずの海牛は、いつの間にか若手人気歌手の方に宗旨替えした模様だ。
「帰りにRホテルのスカイレストランちゅうのはどうや、このまえ同窓会でいったけど、洒落ててなかなかええとこや」
 僕が返答につまっているあいだにも、海牛は軽機関銃みたいにポンポンとたたみかけてくる。どうせ前田と僕の手打ちをさせる魂胆は見え透いているが、僕はあの女と同席で、芝居見物やレストランを楽しむなんて、考えただけで体中にアレルギー性の湿疹が出そうだ。結局のところ海牛の指定する日は、親戚の法事があるからと方便を使い、何とか切り抜けたのだった。
 その日、夕方の巡回中に思いがけず、克っちゃんからケータイがかかった。
「ジイ、長いあいだ留守番させてごめんな、いまから帰るつもりや」
「ほんまか、よっしゃ、ほんなら特上の神戸牛を張り込んで、すき焼きといくか」
 いまからだと、克っちゃんが帰り着くのは、どうせ夜中に近い時間になるだろう。久方振りに聞く克っちゃんの声に、僕の応答もつい弾んでしまう。
「ジイ、もっと他のモンを言われへんのん、何か言うとすぐ、すき焼きなんやから」
 ああ、このうんざり加減も、僕と喋るときのいつもの克っちゃんだ。「脱がせて、脱がせて桃色パンツ〜」浮き浮き気分の僕はつい、ひところ流行った『桃色吐息』の替え歌を鼻歌で口ずさみ、すれ違う客が怪訝な顔で振り返っていくのに気付いて思わず赤面をした。
 午後六時ともなると、専業主婦層の買い物が一段落して、これからは電車を降りてくる共働き主婦らに客層が入れ替わる。その僅かな時間だが、客足が一瞬途切れたように店内が閑散となる瞬間がある。僕はそのころを見計らって、精肉売り場へ足を運んだ。さきもって精肉のチーフから本日のお買い得商品を聞いていて、売り切れないうちに予約をしておくつもりだった。克っちゃんの期待に応えるためにも、今晩はどうしても精のつく牛肉で万全を期すつもりなのだ。
 ちょうど精肉コーナーにさしかかった時、こちらへ歩いてくる二人連れの男女に気づいた。どう見ても克っちゃんと蛭田ではないか「嘘っそう」僕の目は点になったまま、思わず小声で叫んでいた。蛭田の押すカートの籠には、買い込んだ様々の食材が見える。克っちゃんはショーケースを指さしては蛭田に語りかけ、二人は立ち止まり、ともにショーケースを覗き込んで談笑している。見ていて、そんな克っちゃんはとても幸せそうだった。懸命に働き稼いだカネが目標に達して、早速蛭田の保釈金を払ってやったに違いない。二人はまだ僕に気付かずに、喋りながら近づいてくる。きっと僕に蛭田の保釈報告とかを述べるために、わざわざやってきたのだ。この状況で二人と会うのでは、あまりにも恰好がつかない。
 その場から急いで立ち去ろうとしたとき、突然胸ポケットから般若心経が流れた。ケータイを耳に当てると、海牛の声がビンビンと鼓膜に響いた。
「あのなあ、昼に話した新歌舞伎座公演へいく話やけど、軽ちゃんの都合に合わせて一週間日延べしたんや、な、今度は嫌や言わさへんで、サブの前ちゃんにもOKとってんねん。あっそれからスカイレストランやけどなあ、コースは予約やねんて、三人まえ予約しとくけどええなあ」
 一方的にまくしたてる海牛に、返事を濁しながら目を上げると克っちゃんと目があった。克っちゃんは僕に気付くと両腕をまえに突きだし、掌を広げて幼児をあやすような仕草で手を振った。僕もケータイを耳にあてたまま、左手をちょこっと挙げて応じたとき、蛭田がこちらをみてニヤッとした。
「軽ちゃん、聞いてるんか、OKやねんなあ」
 海牛の駄目押しに、僕は「はい、OKです」と答えていた。
 

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