参番館興業  石村 和彦


 たいていの音は、壁の向こうから来た。
 その日、順平の眠りを絶ったのは、鉄板の外階段を踏む幾人かの靴音だった。とても不規則で、一つ一つが妙に重い。
 音はゆっくり二階に上がると、四つある部屋の二つを通り過ぎて、間近になった。三つ目は順平の部屋である。順平はあわてて首だけ起こすと、足の向こうのドアを見つめて身構えた。
 昼下がりの部屋は明るく、静かだった。自分を訪ねる集団などあるはずない、そう言い聞かせてはみるが、布団の下では拍動が全身を打っている。
 しかし靴音は玄関先を過ぎると、隣の部屋の前でふっと消えた。そこはずっと空室で、だからほどなく響いた解錠音は、洞窟でしたたった水滴のように順平の耳には届いた。
「では、これ、渡しますね」
 下に住む、管理人の声だった。好々爺らしい笑みと、顎の関節がぎこちなく動く受け口が見えるようだ。
「お預かりします」
 と、今度は覚えのない声が続いた。よく響く、若い男のものだった。
 これは引っ越しだろうと納得するのと、その主が男であることに失望するのが、ほとんど同時だった。美しい女性だったら、その生活音に聞き耳もたてるだろう。しかしそんなことがあるわけない。この参番館は、負け犬が集まる場末のボロアパートではないかと自嘲すると、重い物がたたみに置かれる感触が伝わってきた。
 眠気が、まだ頭の辺りをただよっている。柱時計を見ると午後二時をすぎたばかりだった。夕方目覚める習慣の彼には、これは丑三つ時に等しかった。布団を手繰ると、壁を通した荷入れ作業も、ほどよい子守歌になっていった。
 しばらくして、順平は夢を見ていた。とてつもなく長細い足のロボットに乗り、山を踏み越えている夢だった。その一歩の上下動が大きくて、山を見上げたり見下ろしたりする見晴らしの変化が楽しかった。しかしその爽快感は、現実のノックの音にかき消された。鳴っているのは、間違いなく足先の向こうのドアである。
 ジーンズにトレーナー姿でさっと跳ね起きると、どなたですかと尋ねながら手櫛で髪を整えた。昼と夜が逆転している彼には、寝間着を用いないという用意があった。
「サイトウといいます。今日、隣に越してきました」
 場違いなほどよく通る、明朗な声だった。
 順平はつっかけの上に足を乗せてドアの間近に立つと、目と目の間隔だけ注意深く開けた。万年床を客人に見せない配慮だったが、夕焼けを背景にやはり両目間隔だけ現れた相手の顔は、頭一つ分上にあった。
 人なつっこい笑顔の皺は意外と深く、自分と同じ三十前後だろうと順平は見当をつけた。顔の彫りは深く鼻筋も通っているが、反っ歯気味の口元は鼠を連想させた。目がぱっちりしているのはコンタクトのせいだろう。初対面のはずだが、どこかで会ったことがあるような気がした。
 男は笑みをたやさず、今日引っ越してきたサイトウだと繰り返し、よろしくお願いしますと言いながら丁寧に頭を下げた。順平も会釈で応え、サイトウにつられるように大きな声で名乗ろうとしたが、
「やっ、やっ、やっ、やっ」
 という思いがけない自分の声に驚いて口をつぐんだ。
 特定の言葉にどもるのも吃音症の特徴だが、彼の場合はとりわけ名前がいけなかった。久しく名乗る必要などなかったので、滑稽なことにその癖すら忘れていたのだった。
 順平は俯いたままゆっくり深呼吸し、落ち着け、どうせ相手は首を傾け赤面する随伴運動をながめて退屈などしないのだから、と言いきかせた。臍下丹田を意識しながら深呼吸し、ヤシマジュンペイ、ヤシマジュンペイと自分の名前を心の中でとなえると、
「八島順平です」
 と、ゆっくり答えた。
 順平は、大きなサンダルに乗った自分の素足と、黒く汚れたサイトウのスニーカーを見つめていた。
「これは、つまらない物ですが……」
 サイトウの声も、申し訳なさげに小さくなっていた。顔を上げると、順平の許したドアの巾から、細長い箱が差し出されている。片手でそれを受け取り、もう一方の手でそっとドアを閉めた。
 暗くなりかけた部屋の中で、順平は包みを破った。箱を開けると、現れたのは何の愛想もない円筒形の、茶色の一輪挿しだった。
これに似たものを百円均一の店で見かけたと思いながら、どこに置こうかと部屋を見渡した。三部屋あるうちの右手は三畳ほどの台所で、これはほとんど洗面所としてしか機能していない。順平の立つ四畳半は玄関つながりといううらみがあったが、ここが寝室になっていた。訪れる人はめったになかったし、一番落ち着く奥の六畳は、ほとんどの時間をそこで過ごす順平にとっては大切な空間だった。
 黄ばんだふすまを開いて奥の部屋にはいると、磨りガラスを通して西日が円く映っている。新しい住人の部屋に面している南の壁には、デスクトップのコンピューターが据えられていて、熱帯魚のスクリーンセーバーが優雅に画面を泳いでいる。逆の北側には薄型の液晶テレビがあり、コンピューターの画面と向かい合っていた。部屋の中央にはこたつにもなるテーブルがあって、潔癖な順平らしく、何も置かれてはいなかった。順平にも収集癖はあったが、全てはデジタル信号の蓄積なので、部屋の中は閑散としていた。
 とりあえずのつもりで、順平は花瓶をテーブルの上に置いた。物欲しげに開いた瓶の口が、どうにも落ち着かなかった。
 また、ドアが開く音がして、今度は順平の部屋を過ぎて、その隣の部屋がノックされた。
 これは面白いことになったと、順平は息を殺した。
 部屋の住人は、四十がらみの女である。何をしているのか、いつも地面を擦るような大きな紙袋を両手に持って、どこかに出かけていく。長く垂らした髪は油っぽく、ホームレスに見えないこともなかった。いつか、紙袋を置いて鍵をかけていた女に出くわし挨拶をしたが、女は見向きもしなかった。実際、挨拶どころではなく、生活音もほとんど聞かれなかった。テレビの向こうが女の部屋だが、水洗トイレの音が日に数回、密やかに聞かれる程度だった。
ドアが開かれる音がして、男が明瞭な声で挨拶をしている。
 こちらこそ、よろしくお願いします。
 そんな返答を待っているのだろうが、気まずい沈黙が埋まることはなかった。ほどなく、ドアは閉められた。
いつしか、オレンジ色の夕日は重みを帯びた朱色の光にかわっていた。ここで夕刊と郵便物を取りに出るのがいつもの習慣だったが、男と鉢合わせになるのがおっくうだった。所作なくごろりと横になると、テーブルの上に、夕日の花が挿されていた。
 あやうく声を出しそうになった。何のことはない、磨りガラスに映る夕日と枯れ枝の影が、手前の花瓶にうまく重なって、ちょうど一輪挿しに見えたのである。順平はしばらく見つめていたが、ほどなく腹筋運動をしながら、夕日の花が分かれたり重なったりするさまを楽しんだ。男は何度もドアの前を通り過ぎ、丁寧に一つ一つ安手の花瓶を運んでいる様子だった。
 次に順平が男のことを意識したのは、夜がすっかり夕焼けと入れ替わった頃だった。
 順平はコンピューターに向かっている。ネットを開くと、ネット銀行への振り込みを知らせる文言が十二列並んだ。この日集まった、一件一万円の、占いの依頼である。
 今、順平は順平でなく、占いコーディネーター「佐倉修平」であり、「中国最強」の占い師「傅嵩青(フーソンチン)」だった。何のことはない、いずれも順平が創り出した架空の人物である。さっそく「佐倉」は中国人占い師に相談内容を翻訳して伝え、「傅」は彼の地で異能を駆使した。その結果はインターネットを通して「佐倉」に伝えられ、日本語に直して依頼者に伝えられる。そういう筋書きを、順平が一人で演じているのだった。
 相談内容はどれも似たり寄ったりで、そのでっちあげに頭を悩ますこともない。メールを返信しながら、順平は口笛を吹いていた。しかしその曲名がホルストの組曲「惑星」の一部であることも、口笛を吹いていることすらも、自身は意識していなかった。それを意識させたのが、あの男だった。
 男が吹く口笛の音が、コンピューターの後ろの、壁の向こうから聞こえてきた。自分に対抗して別の曲を吹き始めたのか、いやなやつだ、と順平は思った。しかし、男の吹く切れ切れの旋律が、自分の音に寄り添う感じがあった。ほどなく、男と自分が同じ一つの曲をパート別に演奏していることがわかった。メインテーマを朗々と吹く順平にあわせて、男の音は時にホルンになり、時に弦楽パートになって、順平の演奏を盛り上げていた。順平が自然と男の呼吸にあわせようとしたとき、男の音が近づいてくる気配があった。
 順平は立ち上がった。男と順平は、薄い壁を挟んで一つの曲を作り上げている格好になった。順平はスタンダードになっている美しいメロディーを歌うように奏で、背負いきれない高音部はオクターブ下げて、音程を誤らないように配慮した。男は特徴的な背景のメロディーを器用に拾っていたが、最後はユニゾンでメロディーを奏で盛り上げた。
吹き終わると、順平はしばし呆然とした。そして興奮を押さえるように、テーブルの回りを何度も歩いた。男との即興のユニットを、順平は楽しんだ。その余韻で歩いていたが、中心にある花瓶の暗い口を見ていると、もし男が自分と友人になったつもりだったらどうしようと不安になった。男がなれなれしくドアをノックしてきたら……。
「うるさいよっ」
 怒声と共に、階下から突き上げる衝撃があった。下の部屋に住む若い主婦が、柄のようなもので天井を突いたようだった。
 順平は、今度はテレビ画面の前に座ると、大きな誤りを犯してしまったと反省した。無視を決め込もう、そう決心すると、いつかの、買い物袋を脇に置いて鍵をかける女の横顔が思い出された。電源の切れた暗いテレビ画面に、ぼんやりと自分の顔が映っていた。
次の日、コンピューター側の壁の向こうから、昨日のメロディーが聞こえてきた。
 あの男が、口笛で誘っている……。
 順平は腕組みしながら、自分も応えるべきか迷っていた。階下の女が棒で突き上げてきた。気がつくと、テーブルのまわりをまわっていた。
 次の日、ホルストはドボルザークに代わった。その次の日にはチャイコフスキーになった。順平は腕組みしながらテーブルを回った。
 五日目、口笛は鳴らなかった。
 鳴らないと、鳴ってほしい気もあってやはり落ち着かない。順平は寝ころんで、天井のしみを眺めていた。今日は、下の女に突かれることはないなと思ったちょうどその時、
「どこに置いてるの」
 突然の怒声が、畳を通して突き上がってきた。
 またか、と順平はうんざりした。状況はよくわからないが、女の前にはうなだれた男の子がたたずんでいるはずだった。
「どこに置いてるの」
 声色は、一転して怒気を押さえた、低いものになった。情のかけらも感じられない冷ややかな声を、順平は胸で聞いた。 
 男の子が何かつぶやいた。 
「それはいいわけだよ」
 また、怒声が響き渡った。
わけを問いただしながら、何か答えるといいわけを言ったと追いつめる。いつものパターンだった。とすると次に少年の頬が派手に鳴るのが定石だったが、鈍い小さな音がそれに代わった。
「ばんごはんぬきだよ」
 女は冷たく言い放つと、ドアを開け閉めして出て行った。
 静かになった。遠くで、自動車の走り去る音が聞こえた。
「どーんぶり、どーんぶり」
 悲しげな声が畳の下から、しみ上がって来た。虐待部屋の隣に住む、どんぶりさんの声だった。なぜか、「どんぶり」としか言わないその男が、自分なりのやり方で少年をなぐさめているのだろう。
 テレビの音が聞こえない。みんな、男の子の動きに、耳をすませているようだった。
「夕鶴。木下順二作。一面の雪の中に、ぽつんと一軒、小さなあばらや。家のうしろには、赤い赤い夕焼けが空いっぱいに……」
 少年が、朗読を始めた。男の子の読み方は、機械に読ませているような、抑揚のないたどたどしい読み方だった。それが宿題なのか、少年は毎日の朗読を欠かさなかった。朗読は日に三回繰り返されるのが常で、二、三週間して少年の読み方がなめらかになってくると、門前の小僧よろしく順平も自然と唱和することになった。
 順平は意志の力で音を遮蔽し、いつもの習慣に埋没することにした。まずは腹筋で体を動かし、ひと汗かいたところで夕方の朝食をとる。外はかりかりしていながら中はふんわりとやわらかい極上のメロンパンが、最近の定番だった。それをたいらげると、夕刊と大量の郵便物に目をとおす。郵便物はその全てが業者の宣伝だった。何も入らないポストが寂しくて、暇さえあればありとあらゆる企業に資料の請求をしているのだった。とりわけ、マンション関係のものが多いのは、引っ越しを考えている順平が意図的にとりよせたものだった。その全てに目を通すと、いよいよ労働の時間が始まる。コンピューターを開き、中国人になりすまし、絶版情報を集めて、会員にメールを送信した。一日の労働時間は、一時間にも満たない。
 あとは、もてあました人生の時間を、目の前の箱に吸い取らせるだけだった。ありとあらゆる名前を騙って、文字だけの他人と対話する。他人から罵倒されても、心は痛まない。否定されたのは自分の人格ではなく、いつでも消えることのできる二進法の信号にすぎなかった。
 ネットサーフィンの次はゲームの時間だった。顔のない相手とニックネームで呼び合いながらオセロを楽しむ。この時の順平の名は、ウルフ2251だった。これだけは変えたことがない。まだ、負けたことがなかったからだった。五、六人いためつけると、今度は戦国時代の武将になって天下人をめざすゲームにのめり込んだ。順平はいろいろな武将になって、もう数百回は日本を統一していた。
日の出前になると散歩に出る。澄んだ空気の中をでると、ぶらぶらと丘を下っていく。下りながら、朱色の夕闇に誘われた夜が、群青に追われて朝と入れかわっていく、その様を楽しんだ。
 駅向こうのコンビニが折り返し点で、ここで雑誌の立ち読みをする。いつも夕食の弁当を買うので、店員も何も言わない。あまり仕事熱心にも見えない男で、何も買わなかったとしても立ち読みを許すだろうと順平は踏んでいた。
 七時頃になると、ビニール袋を下げて店を出る。学生やサラリーマンがきっちりした身なりで駅に向かって押し寄せてくる。順平はわざと駅に沿って歩き、清潔な朝の顔をしている人の波に、肩をぶつけながら逆らって歩いた。
 その日順平はろくでもない夢を見た。昔のいじめられっ子にとりかこまれ、順平はうつむいてたたずんでいる。なぜか階下の女もいて、順平を激しく詰問している。いつしか女は引っ越してきた男と入れかわっていて、男は握りしめた花瓶で順平の頭を打ち据えた……。
 目覚めた順平は、ぼんやりと天井のしみを見ていた。
 今日、花を買いに行こう。ふと思いついて、その突拍子のない思いつきが、とても好ましく思われた。花を買うなんて、生まれて初めてのことだった。
 隣の男が、口笛を吹いている。とても小さな音で、自分を誘う意志ではなく、自分で楽しんでいるようだった。曲名は、わからなかった。この男に殴られたんだと思ったら、腹が立った。
 突然、何かが順平の脳裏で閃いた。順平は飛び起きると、隣の部屋に駆け込んでコンピューターの前に座った。常時接続のインターネットを操り、開いたのは「天誅組」というサイトだった。マウスを何度もクリックし、次々とリンクを開いていたが、ふと、指は凍り付いて動かなくなった。そこに現れたのは、隣の男に瓜二つな、若い男の写真だった。
 順平は逃げるザリガニのように激しく後退った。そして、コンピューターの後ろの壁を見つめた。その向こうで、小さな美しいメロディーが奏でられている。男は、確かにそこにいるのだ。心臓の鼓動が、自分の耳に届くようだった。
 男は、人を殺していた。
「天誅組」というのは、少年犯罪を扱うサイトだった。凶悪な事件を起こしながら大した罪にとわれない少年A達の、実名と素顔を晒す、過激なサイトだった。順平はおそるおそるコンピューターに近づき、詰め襟の学生服を着た男と、記憶の中の男の顔をもう一度比較してみた。学生服の目元には横線が入っている。違うところもあるが、特徴的な口元や全体的な印象から、両者が同一人物にちがいないと順平は確信した。
 サイトウと名乗った男は、田所敏一という名だった。男の写真の上には、赤い字で「三重アベック殺人事件」と書かれていた。その字をクリックすると、そこには事件の概要が紹介されていた。 

 三重アベック殺人

 一九九一年六月一五日、午前三時半。主犯の吉川猛(当時一九歳二ヶ月)らは、二台の車に便乗し、噴水公園でこの日の獲物を狙っていた。アベックを襲うと、女性に乱暴されることを恐れて、比較的容易に金を奪えるということで、メンバー内では半ば常習化していた。この日集まっていたのは主犯の吉川の他に三重市内に住む名賀幸司(一九歳)、田所敏一(一七歳)、庄司治(一七歳)の四人。吉川らは、たまたま現れたKさんの車に狙いをつけると、逃げられないよう、前後にピタリと車をつけた。
 婚約者のYさんを同乗させていたYさんは、身の危険を感じ、車をぶつけながら逃げるスペースを確保しようとした。これに激高した吉川らは、もはや金品の強奪は二の次となり、木刀などでYさんの車のフロントガラスを割ると……

 全てを読む必要はなかった。当時、まがまがしい見出しが新聞に踊っていたことは、はっきりと覚えている。少年法の見直しが真剣に論議された、陰惨な事件だった。
 テーブルの上の花瓶を手に取る。順平は大きくため息をつき、花瓶に罪はないからなあと小さくつぶやいた。男の口笛は、まだ続いていた。
 さまざまな花のにおいにむせながら、順平は駅向こうのフラワーショップに足を踏み入れた。会社帰りらしいOLや、カタカナの聞いたこともない花の名前に気後れて、まず男の客の姿を探した。ふと、「どんぶり」という声が聞こえたのでその方に向かうと、見覚えのあるずんぐりした男が立っていた。簡単に包装された赤い薔薇を二本小脇にはさんで、太い指をがま口の上に泳がせている。
 順平は安心して、花を物色した。結局、白い薔薇を一輪つまみあげると、レジに向かった。もう、どんぶりさんの姿はなかった。
 早足に歩くと、ほどなくどんぶりさんの姿が見えた。
「どんぶりさん」
 大声で呼びかけると、どんぶりさんはうつむいたまま立ち止まった。追いついて並んであるいた。
「どんぶりさんも、花瓶、もらったの」
 どんぶり、どんぶりとつぶやきながら、猪首をしきりにうなずかせた。この中年男がどうやって食べているのか以前から興味があったが、答えを引っ張り出す苦労を考えるといつもためらわれた。
 アパートに着くと、参番館の横にある県営住宅との間の砂利道に、男の子が一人で遊んでいた。薄汚れたシャツを着て、ビー玉を投げている。どんぶりさんは少年に駆け寄ると、細い腕をとって、薔薇を一輪握らせた。順平が意図的にのぞき込むと、右のこめかみの辺りがぞっとするほど腫れ上がっている。少年は十分開ききらない瞳でどんぶりさんを見上げると、手にした赤い花びらにむしゃぶりついた。
 その夜、順平は天誅組の掲示板に初めて書き込んだ。

スカトロ大尉○アベック殺人の田所発見!サイトウの名で、となりの部屋に越してきたよ。

 甘い少年法に憤る連中が集う掲示板に、餌を撒いた格好だった。どんな魚がくらいついてくるか、予想はついていた。
 順平は男の生活音に耳を澄ませた。男の行動パターンを記録するつもりだった。
 階下の女が出ていき、男の子の朗読の声が聞こえると、隣のドアから男が出た。小走りで下りる音に続いて、おい、おいと、人を呼ぶ明るい声が響いてきた。
 夕鶴は与ひょうが反物を売りに行く所で中断され、引き戸を開く音が続いた。台所の小窓が開かれたのだった。
「これで何か食べろ」
 男の声は小さくなっていた。少年の声は聞こえない。
「だいじょうぶか」
 少年のこめかみの腫れだな、と順平は思った。「花瓶で、なぐられたのか」
 やはり、少年の声は聞こえないが、男らしい舌打ちの音が響いた。
数時間後、撒いた餌に魚が集まりだした。

ダラリ・マラ三世○快挙!詳細情報希望
月光仮面○確かか?
名無し○血祭りだな
名無し○神降臨!
いぼ男○それが事実なら、血祭りだな
名無し○主犯じゃないが、じゅうぶん許せない。確か、女の首をヒモで絞めたやつだろ
体脂肪○あれだけのことをしておいて、五年で出てるんだよ。後は、俺たちの出番だな
いぼ男○つるしあげ
名無し○初めてのオフだな
名無し○やっと天誅組が機能します
円月殺法○つりじゃないだろうな
体脂肪○つりか?証拠示せ

 これは、反論しなければならないと思った。あわてて順平はキーボードに向かった。

スカトロ大尉○断じてつりにあらず!今も、隣にいるんだよ。Y市内の。証拠は示しようがない。でも、絶対にまちがいない
 
 打ち終わると、順平は大きな仕事を済ませたようにごろりと横になった。この文章の先、どんな意見が集まるのかを想像していた。恐らくは、何らかの行動を起こすことになるだろう。順平は体が火照っているのを感じた。
 サイトはかつてない盛り上がり方をみせていた。二日後、そこにサイトの管理人からの檄文が寄せられていた。

檄○このサイトの管理人です。私は、スカトロ大尉さんの情報は信憑性が高いと判断します。スカトロ大尉さんは、田所がサイトウを名乗っていると書いています。実は田所の母親の旧姓は斉藤です。私はその情報を持ってはいましたが、さほど重要ではないと判断してサイトには紹介しませんでした。ですが、考えてみれば田所が世に潜むにあたって、母親の旧姓を名乗ることは、十分考えられることです。
 みなさん、いよいよこの天誅組が機能する時が来たようです。少年法という名の悪法を、われわれが肉体言語によって補完するのです。
 天誅組同士のみなさん!インターネット・リンチにより、被害者と、今も苦しみ続ける被害者家族の無念を晴らしましょう。
 結集は、十日後。夜七時。JR線Y市駅前です。そこで具体的に何をするか相談して、当日深夜決行です。
 私はかなり遠いですが、何とかかけつけます。とりわけ近郊の方、近隣県の方は、ぜひとも結集しましょう。もちろん、遠くの方も大歓迎です。
名無し○でた!ついに管理人降臨!
名無し○おれ、隣の市だよ。ぜったい行くよ。
いぼ男○おれ、隣の県だよ、ぜったい行くよ。
名無し○おれ、北海道。Y市か……。飛行機代もないしな。結果オシエテネ
月光仮面○管理人様。感激しました。私もかなり遠いですが、はせ参じます。田所に、正義の鉄槌を
ダラリ・マラ三世○ただでは殺さない。被害者と同じ苦しみを味わわせてやる。少なくとも三日間は拉致監禁して苦しんでもらわないとな
子泣き爺○現実的な話しろ。これは遊びではない。この書き込みの情報を解析したら、俺たちの素性はばればれ。いやがらせ程度のことしかできないはず
犬小屋○寝てる間に、ちんちん緑色に塗るか。おしっこするときびっくらするぞ
名無し○犬小屋はバカ。でもわらった
かわうそ○かっこ悪い裸の写真とって、ネットに晒すか
糞尿譚○かわうそは発想が下品。男の素性を近所や職場に晒して、そこにいられなくする。こいつは、どこに行ってもいられなくしてやる。
スレッジハンマー○血祭り、ワッショイ。血祭りワッショイ
スカトロ大尉○糞尿譚に激しく同意。決行場所はY駅から徒歩18分。場所は、文化アパート、「参番館」!
 
 不意にノックの音がした。仰天して立ち上がると、
「斉藤です」
 と、明朗な声が呼びかけてきた。
「な、何か、ご用ですか」
 応えながらドアを見て、ぎょっとした。ドアノブの鍵が立っている。閉め忘れていたのだった。あわてて近づいて閉めようとするのと、斉藤が勝手にドアを開いたのが同時だった。
 間近に、長身の斉藤が立っている。甘い香りがいっしょだった。
「さくらんぼです。よかったらどうぞ。山形の実家が送ってきたのですが、食べ切れんのですよ」  
 人なつっこい笑みを浮かべて、つややかに光るピンク色の山を差し出している。
 こいつは田舎者なのだろうか……。突然ドアを開く非礼に怒りながらも、手を伸ばし、甘い香りを発しているパックを受け取っていた。順平は小声で礼を言った。
「ずいぶん、独り言をいうんですね」
 心なしか、男の口調はなれなれしかった。
「独り言……言ってますか」
「言ってますよ。よく聞こえてきます。このアパートはずいぶんよく聞こえますね。周りが静かだからよけいかな」
 順平にそんな意識はなかったので、少しむっとした。
「何と、言ってますか」
 そう尋ねた声は、自分でもわかるくらい詰問調になっていた。
「くそっ、とかね、チクショウとか、よく言ってますね。その度に、こっちが何かしたのかなあって、びくっとなりましたよ」
 言われてみれば、思い当たるフシがあった。想像の中で、昔自分を傷つけた連中に復讐している時に、そんなことを言っているような気がした。順平は赤面していることが自分でもわかった。
 斉藤はにやりと笑って、出て行った。その笑いがどういう種類のものなのかわからなかったが、順平は存分に打ち負かされたようにたたずんでいた。
 山盛りのサクランボは日に日に減り、書き込みは増える一方だった。
 管理人は同士の連判状の雛形を作った。名前を打ち込むと、文字は自動的に行書体に変換される。名前の下には、やはり自動的に赤い指紋が現れて、血判状の体裁になった。ただし、記された名前は、ダラリラマだの、ねずみ男だの、草むしり大好きだの、いずれもインターネット独特のわけのわからないものだった。階下の少年がすらすらと夕鶴を読むようになったころ、連判状が締め切られた。同士は、六十一人になっていた。
 決行前夜、順平は階下の物音に聞き耳を立てていた。七時だというのに、誰もテレビをつけていない。参番館全体が耳になっていた。
 少年の母親が男を連れ込んでいる。
 くぐもったあえぎが、次第に遠慮のないものになってくる。順平はうつ伏せて畳に耳をつけていた。畳に圧迫された逸物が、せつない快感を響かせてくる。今はつばを呑み込む音さえはばかられた。
 突然、ドアを激しく叩く音が女の絶頂を遮った。表で遊ばされている少年に違いなかった。
「うるさいっ」
 逆上した母親が叫んだ。音は、一瞬ひるんだように途切れたが、また続いた。響きが少年の激しい感情を乗せて、順平の頬に伝わってきた。
 母親は大きな足音を響かせると、ドアを開いた。
「入れっ」
 引きつった声に、子どもが暴れるような音が続いた。。
「何で待てないのか」
 母親は息を切らせている。しばらく沈黙が続いた。
「何で待てないのか」
 声は、感情を抑えたものになっていた。ヒステリックな叫び声よりむしろ、女の歪みが感じられた。
「もう、まっくらだから……」
「それは言い訳だろう! 何で待てないのか、おまえはっ」
 ぎゃっという短い叫びと、壁に何かが激突する響きが続いた。
「おまえはっ」
「もういいだろう」
 野太い、男の声だった。投げやりな感じだった。
「その目が……」
「もういい!」 
 男が叫んだ。
「今晩、めし抜きだよ」
 そう言い捨てて、母親は男を連れて部屋を出た。
 沈黙が続いていた。どこかで鳥が鳴き、自転車の通る気配があった。
「一面の雪の中に、ぽつんと一軒、小さなあばらや。家のうしろには、赤い赤い夕焼け空がいっぱいに……」
 記憶するほど聞かされた夕鶴は、なめらかに読み進められたが、声にはりはなく、陰鬱だった。  
「おばさん、おばさん、うた唄うてけれ。おばさん、おばさん、遊んでけれ。おばさんおばさん、うた唄うてけれ」
 元気いい子どもの科白が、沈んだ声で読み進められていく。次は与ひょうの言葉だと思った瞬間、あらぬ場所から声が続いた。
「なんだ、なんだ」
 声は、コンピューターの後ろの壁から聞こえた。斉藤が、よく通る明朗な声で、与ひょうの科白を口にしたのだった。
 少年の朗読は一瞬途切れたが、気を持ち直したように続けられた。
「おばさん遊ぼう。おばさんうた唄うてけれ。おばさん。おばさん」 
「何だ、つうか? つうはおらんでよ」
「おらんのけ? 本当け? つまらんのう。どこさ行ったんけ?」
 科白は子どもたちの落胆を表していたが、少年の声ははっきりと生き生きしたものに変わっていた。
「ええやかましいのう」
 斉藤の言いまわしには、玄人はだしの感情があった。斉藤は今、与ひょうになりきっていた。
「わあいわあい、与ひょうどんが怒ったぞう。与ひょう。与ひょう。与ひょうのばか」
 今まで聞いたことがないような、少年のはずんだ声だった。
 順平は、腕組みをしながら、二人の即興芝居を聞いていた。斉藤はもしかしてそういう訓練を積んだのではないかと思えるほどいい味を出している。少年は、相手をしてもらえたうれしさを明るい声にみなぎらせて、ト書きを読む声も生き生きしていた。
「鍋を火に掛けている。つうが奥からすっと出る」
 次が、つうの登場だった。斉藤が女形を演じるのだろうと思ったその時だった。
「まあ、あんた……」
 テレビの後ろの壁から、本物の女の声が響いた。今まで一度も声を聞けなかった、それは紙袋の女だった。
 斉藤も驚いたのだろう。一瞬間をあけて、与ひょうの科白を言った。
「つう、どこさ行ってた」
「ううん、ちょっと……そんなこと、あんた……」
 女の言い回しにも、感情があった。優しい、きれいな声だと順平は思った。
 壁の両側から、与ひょうとつうのやりとりが聞こえる。順平は腰を浮かせて、落ち着かなかった。しばらくして、はっと気づいた。もうすぐ、惣どの科白が来る。
 すると、自分が惣どと運ずをやるべきだろうか。
 心臓はまた激しく打ち始めている。つうと与ひょうのやりとりにはさまれて、テーブルをくるくる回りながら、順平は声を出す勇気を探していた。
「遠くから聞こえているわらべ唄……惣どと運ずが現れる」 
少年のナレーションに続いて、惣どの科白がある。順平は息を大きく吸い込み、惣どの言葉を用意した。
「あれか? あの女が与ひょうの女房か」
 声が、部屋の中で響いた。はずかしい、という感情もあったが、もう一度声を出したいという思いが遙かにそれを上回っていた。
「どーんぶり、どーんぶり」
 まちかまえていたように、どんぶりさんの声が続いた。そうか、どんぶりさんが運ずかと納得すると、順平はその次の科白を声にした。
「ばかはばかなりに、昔は大した働きもんだったがのう。どうしてあげなばかのところへ、あげなええ女房がきたもんだ」
「どーんぶり、どーんぶり」
「おい、運ず、そら嘘じゃあるめえな、その布の話」
「どーんぶりっ、どーんぶりっ」
 順平はどんぶりさんの呼吸をうかがいながら、一心に声を出した。
 やがて与ひょうが布を売り、そそのかされ、つうとの約束をやぶって最後の場面になった。
 飛び去っていくつうをながめながら、与ひょうがつうの名を呼んだ。
 つう……。
 その痛切な、取り返しのつかない過ちに気づいた与ひょうの声が、順平の熱い興奮を散らし、長い長い矢になって胸をつらぬき続けた。
次の日、順平は待ち合わせの駅に十五分前に着いた。目印は、駅前にあるサーティーワンアイスクリームのチョコミントを持つことになっている。
 ロータリーの周りに植えられた銀杏の葉が、そこここで踊っている。こんな中でアイスクリームを持っていたら、確かに目立つだろう。しかし、そんな人影はどこにもなかった。落胆よりもはるかに大きく安堵して、順平はスターバックスに入った。
 暖かいキャラメルマキアートを両手に包みながら、順平は二階の窓側の席に着いた。そこから、ロータリーが一望できる。時計を見ると十分前になっている。そろそろ集まりはじめてもおかしくなかった。ここに、六十一人の男女がチョコミントを掲げて立つところを想像した。そうなってほしくないという思いが、今はずっと支配的になっていた。
 しかし、これは来ないのではないかと思った時だった。
 来た。
 サーティーワンの店から出てきた女の手には、青いアイスクリームが握られていた。女は若そうに見えた。辺りをうかがいながら、駅の入り口に立っていた。それを舐めることなく、じっと掲げている。
 順平はあやうく、店のテーブルを回りそうになった。代わりに貧乏揺すりをしながら、軽い気持ちでネットに書き込んでいたことを悔やんだ。
 このまま、素知らぬふりをして逃げようか。
 どうせ、自分だということはばれるわけはない。しかし、ふと自分が「参番館」の名を明かしたことに気づいた。もし連中が「参番館」の場所を聞き出したら、斉藤のネームプレートを見つけるのはたやすいだろう。しかも、自分は斉藤がとなりに越したことまで書いたではないか……。
 順平は、腰を浮かしていた。落ち着けと自分に言い聞かせて、座り直した。からからのノドを潤すと、大きく深呼吸した。
 みんなにあやまろうか。それとも、ほんの小さないたずら程度にとどめてもらおうか。しかし、遠くからわざわざ来たメンバーが、それくらいのことで納得するとも思えなかった。
 建物の隙間から動く電車が見え、人のかたまりがどっと現れた。女は人にもまれながら、じっと立ち続けていた。約束された時間の三分前だった。しばらく様子を見ていたが、女に合流する者はだれもいなかった。
 やがて、女が狼狽し始めたのが、遠目からでもわかった。アイスクリームが溶け始めたのだった。女は最初は手を庇おうと、持ち替えたりハンカチを出したりしていたが、やがてあきらめたようだった。緑色の液体が手からしたたり落ちても、女はじっとしていた。さらに時間が経ち、アイスクリームが溶けきって青い山が見えなくなっても、女は立ち続けていた。
 もう、だれも来ないだろう。順平も安堵したが、女がきがかりだった。手に、粘液質の溶けたアイスがからみついているような気がしていた。
 順平は立ち上がると、店に備えられている紙ナフキンをつかむと、サーティーワンアイスクリームに入った。はやる気持ちをおさえながらチョコミントを注文すると、それを掲げるように持ちながら駅に向かった。
 チョコミントだった物体を掲げ持っているのは、思ったより小柄なおさげ髪の女の子だった。順平の手にしたものを認めると、驚いたように見つめていた。
「ぼくらは、すっぽかされたんだよ」
 順平は紙ナフキンを手渡した。
 女の子は辺りを見回し、ゴミ箱を見つけるとそこに濡れたコーンを捨てた。手をナフキンでぬぐっては捨てながら、
「もう、帰ろうとしてたとこ」
 と、つぶやいた。
 順平は臍下丹田を意識しながらゆっくりと呼吸をし、頭の中で自分の名前を数回唱えた。「おれは、八島順平」
 女の子は最後のナフキンをゴミ箱に捨てると、順平の目をまっすぐ見た。
「ハンドルネームは?」
 順平は一瞬躊躇し、恥ずかしそうに
「スカトロ大尉」
 と、答えた。何も違和感のなかったインターネット上のあだ名が、ここではとても奇異に感じられた。そんな気持ちに共鳴したのか、女の子は少し笑った。
「名前は?」
「コジマ、ミキ」
「ハンドルネームは?」 
 ちょっと仕返しする気持ちで尋ねると、ミキは恥ずかしそうにうつむいた。
「いぼ男」
 順平は声を出して笑った。ミキも笑った。その時、改札から出た一群がどっと二人を押した。順平はなけなしの勇気をふりしぼって、
「めしでも食う?」
 と、誘った。ミキがうなずいたように見えたので、順平は人の波に流されることにした。

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