回転儀式   奥野 忠明


 私は、教室から廊下伝いに職員室の前まで帰ってきた。
 三月になったばかりの外気はまだ冷たい。廊下といっても吹きさらしなので、ときどき寒風が頬を撫でて行く。コンクリートの床からも冷気が這い上がってくる。
 出入り口の硝子障子に手をかけて、力いっぱい引っぱった。なかなか開かない。戦前に建てられた校舎は、すでに築・四十年は経っているので、いたるところが傷んでいる。
 ガタガタと大きな音をたててようやく戸を開けると、中に入った。少し暖かい空気が頬や首筋を包んだ。
 向かい合わせに置かれた事務机が列をなして並んでいる。どの机の上にも本や書類がゴミ捨て場のように積まれていて、座れば、向かい側が見えない。
 壁と机の間を、蟹歩きをしながら前に進んだ。途中、掛け時計を見ると、午後の三時二十分を指していた。まずまずの時間だ。これなら後の仕事は何とかこなせる。
 前壁にくっつけて置かれている細長いテーブルの上に、お茶用のポットが置かれている。横の籠から湯飲茶碗を取り出し、お茶をいっぱい注ぎ、自分の机に戻って、ふうふうと息を吹きかけながら飲んだ。
 いつもなら、一日のうち、一番ほっとする時間なのに、今日は緊張がとれない。お茶を飲んでいても、なんだか重苦しい。
 確かに、今日一日、たいしたトラブルもなく子どもたちを帰すことができた。さらに、私が考え出した読むことの指導方法もうまくいった。子どもたちの反応は上々だった。だのに、心は晴れない。
 私は、陰鬱な気分をうち払うように、辺りを見渡した。部屋はがらんとしていて、誰もいない。ただ、教頭の江崎と事務職員の木元さんだけは、一生懸命、書き物をしていた。
 お茶を飲み終われば、すぐに明日の授業計画案に入ろう。大まかな計画を立てておかないと授業ができないタイプなので、放課後、一番にすることはそのことである。
 それに、今日は五時から組合の分会会議が行われ、午後七時半から、闘争に向けての最後の市の執行委員会も開かれる。だから、五時までには仕事を終えておかなくてはならない。
 慌ててお茶を飲み、前の本立てから教材研究用のノートを取りあげた。すると、中から一通の事務用封筒が机の上に落ちた。宛名も差出人の名前もなかったが誰からきたのかすぐにわかった。畑中に決まっている。きっと今日の分会会議のことで何か連絡してきたのだ。
 畑中というのは、私といっしょにこの学校に赴任してきた若い教師で、七歳年下である。だが、彼とはよくうまがあった。二人とも、生いたちがよく似ていたり、詩や小説に興味があったり、組合運動にもシンパシーを感じて、考え方もよく似ていた。学校内の教師の中では一番よく話が通じ合った。それで、週に一、二度はいっしょに帰り、途中、喫茶店で長い時間雑談をした。
 封筒は糊で閉じられていたので、引き出しからはさみを取り出して封を切った。やっぱり畑中からだった。原稿用紙に下手な文字で、「分会会議の打ち合わせをしたいと思います。四時半に私の教室に来てください。村田先生も呼んであります」と書いてあった。やっぱりな。彼は、今度の闘争に、学校中で最も張り切っている一人ではないか。
 以前なら、私も彼に引きずられる形で少しは興奮し、ようし、何とか闘争を盛り上げてやろうと意気込んだかもしれない。しかし、今度は違っていた。落ち着かないというか、心が沈むというか。
 原因は自分でも分かっている。中心都市にある有名な学校から、私を出すことができるかどうか校長に打診してきたことが原因なのだ。
 先日、校長の口から聞かされた。声をかけてきた学校は、「読むことの指導」に力を入れている学校で、毎年、研究会を開き、広い地域から多くの参観者を集めている。そこに赴任すれば「国語教師」としては、一応、一流であると認められたようなものだ。教育界は地味な世界なので、いくらいい仕事をしたとしても、あまり発表する機会もなく、他から認められることもない。研究校に引き抜かれることが唯一の評価かもしれない。
 それに、誘いをかけてきた学校は、PTAや後援会がしっかりしていて、学校独自でアルバイトを雇い入れ、教師の雑用をできる限り軽くしている。これは魅力的なことだった。
 声をかけてきた学校には井手という友人がいる。彼からも、先日、今度の人事で、君を推薦しておいた。もし「上」がその気になったら、ぜひうちに来ないかと誘ってきた。正式な要請ではないので、曖昧な返答をしておいたが、正直、心は動いている。
 だが、今いる学校で、畑中などといっしょに、学校の改革をやっていこうと言い合ってきた手前、もし、私が出るとなると、畑中はかなりの打撃を受けるだろう。信頼していた人間に裏切られたと思うかもしれない。
 それに、私には教育の世界で、いわゆる出世と言われている管理職や管理職的行政職員になりたいという欲望はまったくなかった。体力がつづくなら一生「平の教師」で送りたいとも思っている。私を引き抜こうとしている学校は、世間から言えば「出世のための学校」ともみなされ、多くの管理職を生みだし、何人かは文部省の中枢にまで出ていった。そこに行くことはエリートと言われている道に一歩足を踏み入れることになりかねない。それは自分の思いとは違う。
 やっぱり、行くのはよそうと思った。私の性格から考えても、教師としての在り方から考えても合わない。しかし、そう思ってしまうと、今度は逆に、お前は正直ではない、無理をしている、いい格好をしている、本心は行きたいのではないかといった声がする。
 ええい、まだ間がある。決断するのはまだ早い。後でゆっくり考えればいい。
 冷えた残りのお茶をすすり、連絡を引き出しにしまい、何気なく前を向いた。すると、大きな机に座っている江崎が私を窺うようにしてこちらを見ていた。
 彼と目があった。彼は待ちかねていたと言うふうに手招きをした。嫌な感じがした。管理職から呼ばれたらろくなことはない。
 側に行くと、ちょっと山田君と話しをしたいことがあるのでと言って立ち上がり、校長室のほうへ歩きだした。校長室は学校では密談の場所になっている。私は、しかたなく彼の後につづいた。
 校長は不在で、部屋はがらんとしていた。暖房もなく、大きな机の前には、来客用のソファーとガラス製のテーブルがあり、いかにも寒々とした感じを与えた。
 ソファーに私たちは向かい合って座った。
「各分会の状態はどうかな。今回はかなりみんなはりきっているようだが」
 江崎は口を切った。やっぱり、そのことか。今度行われる「主任制度導入阻止闘争での授業内に食い込むスト」について言っているのだ。
 主任制とは、文部省の方針を末端に浸透させるシステムとして、校長が任命した主任に手当を出し、彼らに一般の教師たちを指導、監督させようというものである。教組は、これに強く反対していた。
「ええ、まあまあじゃないですか」
「それで、うちはどうするのかな」
「まだわかりません。今日、五時から分会会議をするので、それが終わると見通しがつくと思うんですが」
 教頭はいったい私を呼んで何をするつもりなのだろうか。この郡の組合の情勢を知りたいのなら、もっと適当な人物がいるだろうし、分会の様子を知りたいのなら、分会長の堀出さんを呼んで聞けばいい。私は、この小さな市教組の副委員長をやっているに過ぎない。
 副委員長と言えば何か組合の闘士のように聞こえるかもしれないが、市の組合を持続するには何人かの執行委員が必要なので、しかたがなく、学校持ちまわりで委員を選出している。今年は私たちの学校が順番にあたっていたので、ノンポリの教師たちに比べれば少しは組合に協力的であるということで、私が分会から推薦されて副委員長になっただけである。
 ただ、私は、今回の主任制導入には反対だった。もちろん学年やいろいろな係りの主任が必要である。しかし、それは調整役で十分であり、主任にわずかばかりの手当を与えて、教師の繋がりを分断して何の効果があるというのか。
 多くの教師たちがまがりなりにも協力しあって、学校は民主的に運営されている。それなのに、教師たちの関係を分断して、主任制を導入し、教育現場をヒエラルキーな組織に変えようというのは許せなかった。
 さらには、昨年には政権党の大汚職事件が発覚している。ベトナムでは解放軍が勝利し、民衆の力で彼ら自身の政府を勝ち取ったというのに、日本では相変わらず、汚職、汚職の連続である。そんな政府が提案してきた主任制などまったく信用できるものではなかった。
 私は、江崎の言葉に触発されて、そこまで考えたとき、再び、問題はそんなことではなく、肝心なのは江崎が何のために私を呼びつけたのかということだ、と思った。
 首をひねって、はやく何かを言ってほしいと促すような仕草をした。
 江崎は気づいたのか、二、三度こっくりをした。
「これでも、私も行政側にかなりの人脈があるもので、そこから得た情報を、ちょっと、君には流しておいたほうがいいと思って、それに……」
「情報?」
 江崎は緊張している私をリラックスさせようとしてか、柔らかな笑顔を私に送ってきた。
「あんたにも少しは役立つかもしれないと思って、それに……」
「それは どうも」
 私は、これをどう判断したらいいのかわからなかった。ただの情報伝達か、そんな訳はないだろう。口ごもって、何か言いそびれていることが気にかかった。
「府の教育出張所の所長は知事の側近の一人だということは君も知っているやろうな。次期の教育長だという噂もあるし」
 そこで江崎が立ち上がって、部屋の隅の小さなテーブルのほうに歩いていった。上の棚からきゅうすとお茶のパックを出すと、ポットからお湯を入れ始めた。私はしまったと思ったが、すでに遅かった。彼は、トレイにお茶を二つのせ、持ってきた。彼に小さな借りをつくったような気がした。
「それに、知事は、革新系の強力な候補をかろうじて打ち破ってなったばっかりや。選挙では政権党にはかなり世話になったやろうし、ここらで、少しは恩を返しておきたいのと違うか。それを察してか教育長はストの切り崩しにえらい熱心になっているらしいわ。それは中途半端やないらしいで。処分も徹底的にやるといっている。自分の息のかかっている出張所の所長や市の教育長にも圧力をかけているという話や」
「はあ」と私は気のない返事をした。
 私に脅しをかけようとしているのだろうか。それとも何か別の意図があるのだろうか。
「ところが今年はどういうわけか、うちの郡でも、T市教組もF市教組もK町教組もえらい張り切っているという話やないか。ここ二、三年で若いやつがたくさん入ってきたからな」
 彼はお茶を飲んだ。ゆっくりと湯飲みをトレイに返すと私を見つめた。顔付きが真剣になっていた。
「それで、折り入って君に頼みがあるんや」
 いよいよ本題に入ってきたなと思った。教頭が私に頼みたいことっていったい何か。
 彼は言いにくそうに、少し間を置いて話をつづけた。
「委員長が困っとるねん。助けたってや」
「委員長って、松崎先生のことですか」
「そうや、あいつとおれとは従兄弟やねん。俺の母親とあいつの母親は姉妹や。あいつ、来年、教頭になる予定や。それはもう出張所の所長とも話がついてる。委員長を引き受けるとき、どうしようかと相談に来よった。教頭になるんやったら組合のこともよう知っとらんといかん。俺もやった。たいしたことやない。いい機会や、引き受けたらどうやとアドバイスを与えた手前、ほっとくわけにはいかんのや。こんなふうに急に郡教祖が強うなるとは思てへんしな。また、こんなに府教委が高姿勢なるとも思ってへんから」
「助けるというたって……」
 私はそれがどういうことを意味しているのかわからずに戸惑った。
「いや、君の立場もようわかっている。だから、闘争は例年並に押さえてほしいのや。いや、少なくとも、そういう方向が出てきたとき、賛成にまわってほしいのや。例年並なら、処分は何とか押さえられる。せいぜい訓告どまりや。履歴には影響せえへん」
「そう言われても。そりゃ、松崎先生が今回のことで管理職から外されるのは心苦しいことですが、といって……」
 私は口ごもった。もし、私が若かったら、「何を言われますか。そんなこと承知できません」と言って、部屋を出ていったに違いない。しかし、委員長の候補を選ぶとき、私より五歳年上の松崎さんがいてくれたことでほっとした。もし、彼がいなかったら、最年長の私が委員長を押しつけられたかもしれない。
 もし教組の指令通りにやれば、地区の委員長レベルでは「減給一ヶ月」ぐらいは覚悟しなければならないだろう。これまでは、例え委員長であっても「訓告」止まりだったが、教頭の話だと、今年はそうはいかなくなるだろうということだ。気の毒だがしばらくは管理職は無理だ。
 もし彼が管理職になることに何らかの意味を見いだし、それをめざしていたとしたら、それを阻む権利が私たちにあるのだろうか。もちろん、阻んだのは教育委員会ということになるのだろうが、実質的には私たちだ。
 松崎さんの窮地を思い、教頭が動くのも無理がないなと思った。もちろん、私は、教頭の言うように「松崎救い」に積極的に動こうとは思わなかったが、頭のどこかには彼への同情心があった。成り行きによっては彼を救う側にまわってもいいとさえ思った。
「わかりました。先生のお気持ちは。では、私はこれで」
 私は、腰を少し浮かせた。
「ああ、ごめん、忙しいときに。それ、よろしゅう頼むわ」
「はあ、聞き置くことにしておきます」
 曖昧な返事をした。
「それに」
「ええっ?」
「校長から、先生の人事のことは聞いています」
「はあ?」
「これは松崎さんのことだけやない。先生のことでもあるんや。悪いことは言わん。今回は自重しておいたほうがいいんと違いますか。へんな横やりが入らんとも限らんのやから」
「ああ……」
 息を飲んだ。言葉につまった。不意打ちを食らわされた思いだ。
「よう考えて行動しなはれや、大事なときやさかいに」
「はあ」
 江崎は薄ら笑いを送ってきた。嫌な笑いだった。
「あなたもしょせん、餌を与えれば喜んでしっぽを振ってついていくただの駄犬や、駄犬は駄犬のように振る舞えばいいんや」そう言われたような気がしてならなかった。
 息が止まり、身体がゆれ、怒りが込みあげてきた。強い怒りだった。
 おれは違う、おれはそんなのじゃないと思った。
「そうやて、かわらへん」教頭の声がした。
「違う、絶対違う」
「だったら、証拠を見せなはれ」
 江崎の声が頭の中で舞っていたが、それがいつしか自分の声に変わっていた。 

 興奮したためか、仕事がはかどらなかった。椅子に座りながら「証拠ならいくらでも見せてやる」と何度も自分に言聞かせた。
 前から熱いお茶を持ってきてすすっていると、少しは気持ちが落ち着いてきた。
 しかし、ずいぶんと時間をくったようだ。時計を見るとすでに四時をかなり過ぎていた。部屋を出たら、いっそう気分が落ち着くかもしれないと思い、少しは早いが、畑中の教室に行くことにした。
 廊下に出た。すでに子どもたちが帰宅したのか、運動場には人影はなかった。
 途中、吉川という体育係の係長をやっている男の教室の近くまでやって来た。廊下をつたって鋭い声が漏れてきた。吉川の声だ。怒鳴っている。かなり興奮しているようだ。
 吉川はこの学校では最古参で、管理職からの信頼が厚い。年は私とほとんど違わないのに、いやに落ち着いている。彼はけっして反組合の立場をとらない。処分の伴わない組合の行事には嫌な顔もせず、むしろ積極的に参加してくれる。人との付き合い方もうまい。若い教師たちの相談にも親身になってのってやっているということだ。これまでずっとストには参加してきた。しかし、今回のストにはひょっとして参加しないかもしれない。教頭の江崎はきっと彼にも何か言っているはずだ。今回は、彼はその意向を受けて、スト不参加に動くのではないか。
 彼は来年必ず転勤しなければならない。自分の行きたい学校に転勤させてもらうには管理職の覚えがいいことが最も重要な条件である。彼の奥さんも働いていて、かなりのハードな仕事らしい。それで、保育園の子どもの送り迎えや、スーパーでの買い出しは彼が引き受けているということだ。家から遠いところへでも飛ばされたらたいへんである。
 それに、彼の奥さんの親元は地元の名士らしい。校長の親類もたくさんいるという。誰かから聞いたが「自分は校長などにはなりたくないのだが、親類の手前、ならないとかっこがつかない」と言っていたということだ。
 これらを考え合わせると不参加になる危険性は十分にある。
 彼の教室の前までやって来た。窓にはカーテンが引かれている。しかし、いくらでも隙間がある。私はそっと中を覗いた。黒板を背にして吉川が立っていた。がっちりとした体格はいかにも体育教師らしい。
 彼の前には小さな児童がひとり神妙に立っていた。一目見て、私のクラスの児童・田村清子の弟であることがわかった。
「今までに何度注意しているんだ」
 吉川の声が聞こえた。その度に吉川が興奮していくのがわかった。これは危ないなと思う。あそこまでボルテージを上げるともうストップがきかない。
「以前にしたとき、約束したね。今度したらただでは置かないって。さあ、後ろをむいて」
 強い口調で言い、背を彼に向けさせ、尻を突き出させた。
「いいね、約束だ」
 彼は小さな尻をかなりの力でたたいた。鈍い音が鳴り、田村の弟はよろけた。予想通りだ。吉川は配慮して叩いたつもりだろうがこれはれっきとした体罰である。
 しかし、この程度の体罰なら許されてもいいと思った。やってはいけないことをやれば、強い叱責を受けるのが当然だということをわからせなければならない。
「もう二度とするな。今度はこの程度じゃすまないぞ」
 田村の弟はこっくりと頷いた。
 私がまだ新任教師であった頃には日常的に見かけた光景である。だが、最近は体罰の問題が新聞にも取りあげられ問題になっている。
 田村の弟、どんな悪いことをしたのかな、授業中にさわいだのか、誰かをいじめたのか、などと思いながら、その場を離れ、私は再び歩き出した。
 学校農園が見えるところまで来た。農園は冬枯れで、植物が何も生えていなかった。
 ふと、今日の朝、畑中から受け取ってしまった小犬のことを思い出した。今、学校農園のそばの小屋にいる。会議からの帰りに寄って、何とかしようと思っていたのだが、一度様子を見ておく必要がある。ちょっと寄ってみよう。
 畑中は「犬を飼いきろう」という実践をやっている。彼はテレビで長野県のある学校が「クラスで牛を飼いきろう」という実践をしているのを見てひどく感動して、この実践を思いついたらしい。犬を教室へ持ち込んで子どもたちに飼わせようというのである。
「いろいろ問題が出てくるよ」
 最初、彼からその実践を聞かされたときに言った。
「それがいいんですよ。子どもたちが何かをやろうとしたら必ず問題が生じる。問題をいかに解決するか、みんなで相談して解決させていく。それがほんまものの教育ですよ」
 それから、延々と彼の実践の良さについて説いて聞かされた。クラスがまとまること、問題解決の力がつくことなど。
「ぜひ、先生もやってみてください。おもしろいから。子どもも喜ぶし」
 彼に会うごとに私も犬を飼う実践をするように勧められた。
 今朝、私の顔を見ると、ちょっとちょっと、と言って彼の教室の前まで連れていって、段ボール箱に入れてあった小犬を抱き上げ、私に手渡した。子どもが学校へ来るときに拾って来たというのだ。
「ぜひ、先生もやってみてくださいよ」
 彼は小犬を押しつけるように手渡してきた。小犬は私の腕に移されると、驚いたようにあちこちを見回した。ときどき、丸い顔を私の胸板に擦り寄せ、温かさが伝わった。
 私は、彼の純粋な情熱や問題発生を怖れない行動力には感心しているが、自分がやるとなるとまた別問題である。私にはすでに「読むことの実践」がある。
「いや、おれはまだやる自信がないよ」といい返事をしなかった。すると彼は即座に、再び実践の良さを言い始めた。
「わかってる、わかってる」と彼の言葉を遮った。「とりあえず、犬だけは預かっておくよ」と言った。
 小犬は、まん丸な目や小さな耳をしていて、たまらないほどかわいかった。返す気にはならなかったのだ。
 犬を引き受けたことで、彼はきっと「犬を飼いきる」実践を始めるだろうと思ったに違いない。
 しかし、それは少し甘い、犬を引き受けたからといって、一度も犬を飼う実践をするとは言わなかった。「おれはやらないよ、甘い、甘い」などと独り言を言いながら歩いた。
 学校農園の端にある物置小屋に着いたので、扉を開けて中に入った。
 中は暗かったがすぐに慣れた。小犬は奥にいた。ひもがブロックに巻き付けられている。小犬は私を見つけてきゃんきゃんとないたが、近づくと、尾っぽを振って、小型のドッジボールほどの大きさの丸い身体を足やすねにすり寄せてきた。まったくかわいかった。
「よしよし、会議が終わったらもう一度来てやるからな」と小犬に言い、頭を何度も撫でてやった。
 何とかしなけりゃいけないなあ、と思った。私が飼うか。

 畑中の教室に着き、そっと扉を開け、中に入ると、畑中と堀出さんがこちらを向いた。村田がいないで、代わりに分会長の堀出さんがいたのでびっくりした。
 堀出さんはたいへん能力のある三十代後半の独身女性である。組合運動にはきわめて熱心で、民間教育運動の地域のリーダーでもある。
 だが、畑中とはかなり考え方や性格が違っていて仲が悪かった。堀出さんに言わせれば「畑中はトロ(トロッキスト)だ」ということだった。それで、この会には堀出さんは呼ばないことにしていた。
「おお、これは珍しいね、統一戦線でも成立しましたか」
 私が言った。
「それがたいへんなのよ、この際、なりふりかまわずってとこよ」堀出さんが言った。
「吉川先生も、村田先生も落ちる(脱落する)って。堀出さんに『どうしよう畑中さん』と泣きつかれたものだから」
 畑中は大きな目を垂れさして、得意げに言った。
「ええっ。村田先生が落ちるって。本当?」
 吉川は落ちる可能性は予想していたが、村田が落ちるとは思わなかった。村田は、数年前、奥さんが年老いた両親の面倒を見なければいけないということで、九州のほうからこちらに移ってきたひとである。吉川とはほとんど同年齢だが、組合運動には好意的だった。九州では組合の役員をしていたということで、私たちは非常に信頼していた。
 彼ら両名が落ちるとなると、年齢の高い女性たちは総崩れになる。頼りがいのある教師ということで彼女たちは彼らを尊敬している。
「それは困ったな」私が言った。
「村田先生、隣のU校の平野先生とどうも深い仲になっているらしいの。それを吉川先生に嗅ぎつかれて。彼、校長に報告したらしいわ。事務職の木元さんがそう教えてくれた。教頭の江崎先生の声が大きいものだから、校長室でのやりとり、みんな筒抜けだって」
「脅かされているということかな」
「そう」堀出さんは頷いた。
 何ということだ。まったく。汚いな、これは。
 もし仮に、私がそんなことを言われたらどうするだろうか、と考えた。決まっている。それを隠すことに全力をあげるだろう。ストなんかどうでもいいと思うに違いない。
 それに、どうせ教組は負けるだろう。誰も主任制を潰せるとは思っていない。潰すつもりなら「無期限スト」ぐらいは打たなければだめだ。それでも駄目かもしれない。あれだけ盛り上がった六十年安保だって、選挙では自民党の圧勝で終わったではないか。
 もし、主任制が悪いのならば、いろんなところで問題が出てきて、どうにもならなくなって改正されるか、あるいは、現場の教師たちの智恵で実質的には何の効力も発しない骨抜きの制度にしてしまうかのどちらかである。そうなったとき、初めて教師たちは勝利したといえるだろう。
 では、私たちはいったい、今、何のためにこんなことをしようとしているのか。
「えらい深刻な顔になったわね。先生にも何かやましいことがあるの」
 堀出さんが、少し笑い顔で言った。
「何をあほなことを」
 言いながら、私は、自分の悩みが見抜かれたのかと一瞬ぎくっとした。
「あら、ごめん。先生かって、何かあるんかと思って」
「あるわけないやろう」
「とにかく、主任制導入がいかに悪いかを訴えていくしかないよ」畑中は言った。
「人数が減っても指令通りに突っ込むか、戦術をダウンさせてもある程度の人数を確保するか、どちらかやね」
 堀出さんが言った。
「いつも戦術ダウンやっておったら、なめられるだけや」
 畑中は口をとがらせた。
「でも、職場が分裂したら、何の意味もあれへんし」
 堀出さんは、視線を私に移した。私の考えを注目している。
 私は、先程の教頭とのやりとりを思い出し、何としてでも指令どおりに突っ込みたかった。
「やるしかないな」
 私が言った。畑中は私を見てうれしそうな顔をした。
「吉川先生も村田先生もその他たくさんの先生が脱落しても。私ら三人になっても」
 堀出さんは困惑した顔になった。
「そうや」
 堀出さんは私から視線をはずした。がっかりしたようだ。
「そんなことにはなれへん。ぼくが説得したるって」私は言った。
 堀出さんは苦笑した。
「とりあえず、今日は、できるだけ多くの人が指令通り行くように持っていくしかないよ」畑中が言った。
「他人にはそれぞれの事情というものがあるんだから、行けない人が出てくるのは当然。行く人は職場の代表として出て行く。行けない人はそれぞれの立場で彼らを応援する。こんな形で職場の統一をはかるより他手がないな」
 これは絶対堀出さんは飛びついてくる考えだと思ったが、予想通りだった。
「それ、いいわね。それ」
「いいやろう、これでいこうよ、これしかないよ」私が言った。
 堀出さんは話のもって行き所がはっきりしたと思ったのか晴れやかな表情に変わった。 
「代表だって、馬鹿馬鹿しい」
 畑中は不服そうだった。頬を膨らませ、不機嫌さを露骨に表した。

 分会会議は予定時刻に始まった。最初、分会長の堀出さんは郡教組の分会長会議の様子や今回の主任制度導入の政府の意図やその粉砕の意義などについて蕩々と喋った。その後、各学校の様子などについての若干の質疑があった。
 郡教組というのは府教組の下部組織で、我々のような田舎の市や町は、独立では下部組織が作れず、郡単位で下部組織をつくっていた。
 堀出さんは時機を見計らって「何でもいいから言ってください。質問でも意見でも」と言って自由討論に入った。
 みんなは緊張していた。この質問や意見の様子で他の人の腹の内が見えてくる。特に力のある教師の腹の内をみんなが知りたがった。
 畑中が最初に手を挙げた。
「とにかく、この辺で、一度ぐらい、まともに指令通りにやりましょうや。いつでも誤魔化してばっかりいて」
 畑中の声は最初からうわずっていた。畑中が興奮している。これは逆効果だ。
「と言っても、それぞれ地域の特殊性があるんですから」と堀出さんはたしなめた。
 堀出さんは私のほうを向いて、曇った表情をした。彼女もまた私と同じことを感じたのかもしれない。
 そのとき吉川が手を挙げた。先程教室で子供をしかっていた男だ。
 私は少し緊張した。彼の発言は分会の流れを大きく左右しかねない。畑中の発言を上手に利用されたら困る。
「畑中先生に聞きたいのですが」
 彼は少し間をとって教師たちを見渡した。自信のある表情だ。やはり畑中の発言をうまく利用するつもりらしい。
「先生は分会で決まったことには従われるつもりがあるのかないのかまず聞いておきたいのです。従うつもりがないのならこんな会議は無駄ということになりますよね」
 畑中は最初から一本とられたような格好になった。彼は困った表情を露骨に表した。即答できない。
「そりゃ、私も分会の一員ですから……従います」声が急に弱々しくなった。
「そうですか、それを聞いて安心しました」
 彼がまた辺りの教師を見てニヤリとした。これで畑中の暴走をくい止められると思ったに違いない。
 彼が座ると同時に今度は私が手を挙げた。立ち上がって辺りを見回すと、みんなが緊張しているのがわかった。特に、畑中は強い視線を送ってきた。
「吉川先生に質問します。こんなことを尋ねるのは野暮なことですが」
 間を取るため一息入れると、いっそう緊張の度合いが高まった。奇妙な快感を覚えた。
「尋ねなくてもいいことなんですが、念のために。吉川先生も分会で決まったことには従うということですよね」
 私はぐっと力を入れて彼を睨み付けた。彼の目の動きを注視した。やっぱり動揺している。効果があった。
 畑中のほうを見やるとつい今しがたの元気のなさが嘘のようにもとに戻っていた。
「もちろんです」
 吉川は力強く言った。すでに動揺を抑えたようだ。自信ありげだった。
 二人の発言は分会の雰囲気を緊張させた。
「お二人の先生にはたいへんいい発言をしていただきました。みなさんも同じように考えていいのでしょうか」
 堀出さんも興奮した調子にかわっている。誰も発言しない。
「いいということですよね」
 何人かは頷いた。
 これで喧嘩のルールが決まった。あとは喧嘩するだけだった。
 そのとき、ドアが開けられ、電話番のため、くじ引きで職員室に残っていた年輩の女性教師が入ってきて、そっと私に近づき、メモ用紙を置くとすばやく出ていった。みんなは私のほうを見た。「至急に連絡したいことがあるとのことで電話が掛かっています。出てください」と書いてあった。
 私は耳元のところで指を回し、電話ということを堀出さんに合図してから席を立った。畑中は不安そうに私を見送っていた。

 校長室には誰もいなかった。電話をまわしてもらい、大きな机の上の受話器を取った。
 電話は、私に来て欲しいと言っている学校にいる井手という友人からだった。
「とうとう『上』を説得できたよ。『新実践国語研究』の今月号に載っている君の実践を読ませたら、校長がえらく気に入って、正式に君を取ろうということになった。それで、君の承諾が欲しいんだ」
 晴れやかな声だった。当然私も喜ぶに違いないと思っているようだ。
 彼の学校ではストはどうなっているのだろうか、きっと、組合などないに等しい存在なのだろう。
「おい、どうした。何かあるんか」
「いや、本当にそんなことになるとは思ってもいなかったもので。それに、そんなに期待してもらっても応えられるだけの自信がないもので」
「何を言っている。君の実践は説得力があるし、理論的にもしっかりしている。単なる思いつきじゃないよ。うちの学校へ来て思い切った実践を積めばすごいものになるよ」
「そう言ってもらえるのはありがたいが」
「何か、引っかかることでもあるのか」
「いや、引っかかると言うほどのものではないのだが……」
 井手の声には意外だといった感情が出ていた。
「それで、これは正式なものなのか」私が尋ねた。
「正式も正式、校長がすぐに君の意向を聞けというものだから。うちの校長はせっかちなもので」
「本当に申し訳ない。私も校長に相談したいし、こちらの事情もあるのでもう少し待ってくれないか。三日間ぐらい」
「そりゃそうだな。今言って今という訳にはいかんわな。校長にそう言っておく。ただ、自分のやりたいことを思い切ってやるというのもいいことだよ。うちの学校は、学校を挙げて君を応援しようと言うんだから、ぜひおいでよ」
「そう言ってもらうのはありがたい。本当にありがたいよ」
 本心そう思った。口では言い表せないほどうれしかった。しかし、まだ、私には無邪気には受け入れられない何かがあった。
「わかった、いい返事を待っている」
 井手の電話が切れた。ああ、重いものを背負ったなと思った。これはマリッジブルーというものか。それとも一種の転向の問題か。

 会議の部屋に帰ってきて席に着いた。依然として緊張がつづいていた。畑中は私が席に着いたのを見届けると少しほっとしたような表情をした。
 吉川に脅かされているという村田が何かを喋っていたが、何を言っているのかわからない。ただ、やたらと吉川先生のおっしゃることはよくわかりますとか何とか言っていた。
 村田の次に、吉川と同じ体育係の年輩の女性教師、神野が喋りだした。
「私も、吉川先生のお迷いがよくわかります。例え数時間でも子供をおっぽり出して学校を離れるということは教師としては、やってはならないことだと思います。だからといって今度の主任制導入は決して賛成できません。本当に困りますわ。それで、この二つの気持ちに正直になろうとしたら、戦術ダウンしかないんじゃないですか」
 頷いている教師たちがたくさんいた。
 また、これかと思った。ストに反対する理由に必ず持ち出される理由だ。子供を巻き込みたくない。子供の学習権を奪いたくない。そんな教師に限って「日本でも週休二日にならないかな。アメリカやヨーロッパでは週休二日らしいで」などとうそぶいている。
 だが、今の教師の発言から二つのことがわかった。吉川はまだ自分の態度を明確に打ち出してはいない。したがって、村田もだ。ただ、空気は確実に戦術ダウンの方向に向かっている。吉川がそのような流れを作ったのだ。今の教師にしたって吉川の回し者かもしれない。
 堀出さんは私のほうに視線を送ってきた。困っているようだ。先程話し合った案を出す機会を失っている。
 私はテーブルの上に腕を立て、拳を作って、それを軽く折り曲げた。休憩を取ったらどうかという合図だった。届くかどうかはわからない。その場で咄嗟に思いついた動作だった。しかし、察しのいい堀出さんはかすかに頷いた。
 他の学校の様子を見たらどうかとか、組合にとって一番大切なのは団結なのだから、戦術をダウンさせるのは決して敗北ではないとかいった考えが何人かの教師たちから出された。そこで発言が少しとぎれた。すかさず堀出さんが発言した。
「時間も一時間以上もたったので、ここらで十分ほどトイレ休憩を取りたいと思います。その間にもう一度冷静になって自分の態度を決めておいてください。よろしいでしょうか」
 返事をしないまま、みんなはいっせいに身体を動かした。ふうとため息をつくものもいた。
 ようし、いい機会だ。思いついたことをきっぱりとやってやろう。

 ありがたいことに吉川は職員室へは行かずに自分の教室に戻るようだ。私は会議室を出ると、彼の後を追った。教室の前まで来たとき、「ちょっと、お話があるので」と声をかけると、吉川は怪訝そうな表情をしながら振り返り、私を教室の中に招き入れた。
 中は廊下よりも寒かった。首筋から冷たい空気が水のように入ってきた。
 吉川も身を縮め、震えているような格好で黒板の前に立った。蛍光灯のためか、肌のすべてが死体のように沈んでいた。だが、眼だけがしっかりとこちらを睨んでいる。
「何でしょうか」
 すでに警戒心が全開である。
「ええ、ちょっと」私はできる限り暗い声を出した。
 その後、しばらくは沈黙をした。いかにも言いにくそうな態度を表すためだ。
「先程、私、見てしまったんですよ。うちのクラスの田村清子の弟、田村光吉が殴られているのを。私、田村の母親から頼まれていましてね。光吉のことなら何でも必ず伝えてくれって」
 吉川の顔付きが変わった。
「かなりひどく殴られてましたね」
「ええっ?」
「窓越しでもかすかに音が聞こえましたから」
 吉川は、沈黙し、眼をいっそう大きく開き、必死の形相で私を睨む。
「光吉もおかあさんに言っているようですよ」
「では、先程の電話は田村の母親から」
「ええ、まあね」
 私は曖昧にした。そう思えばそれでいい。好都合だ。
 私と田村の母親との繋がりは吉川にもわかっている。離婚して母親が二人の子供を養っているのだが、経済的に苦しくて給食費も払えない状態になったので、私の元クラスの子供の父親がたまたま田村の地域の民生委員をしていたのを、頼み込んで生活保護がもらえるようにしてもらった。それ以後、田村の母親は私に絶大な信頼を寄せている。
「現在では体罰は禁止されていますよね。校長だって、口が酸っぱくなるほど何度も言っておられますよ。光吉はかなりショックを受けたようですよ」
 吉川の顔にはありありと困惑の表情が表れた。唇が歯の中に食い入るようになっている。
「これ、表に出たら困るんじゃないですか」
 吉川は何も言わない。
「でも、心配しないでください。田村の母親だって訳のわからない人ではないし、私も同僚を窮地に陥れるようなことはしたくありませんから」
 吉川はいっそう私を不安げに覗く。
「田村の母親に会うごとに、吉川先生はいい先生だ。光吉君は幸せだと言っているんですから」
 吉川の頬が少しゆるんだ。助かったといった表情が表れたようだ。私はさらに一歩前に進み出た。
「でもね、あなたにも同僚を窮地に陥れるようなことは止めてもらいたいんです。自分はそれから逃れたいが、同僚はそうなってもいいということでは理屈は合わないですよ」
 軽く彼の胸元を掴んだ。
「何のことですか」
「何のことですかはないよ。村田先生のことですよ」
「ああ、ああ」
「ああ、ああ、じゃないでしょう。あんなことを校長に告げに行くのはひどいと思いませんか。プライバシーの侵害ですよ。はっきりと解決してくれるんでしょうね。あれは私の早とちりでしたとか、誤解でしたとか何とか言って。放っておいたら校長が動くよ。そうなったらたいへんだよ。同僚はみんな助け合わなければいけないんでしょう」
 胸元の手に力が入った。
「ああ、苦しい、ちょっとゆるめていただけませんか」
「村田先生にも謝るって約束してくださいよ。でないと、私にも覚悟がありますから」
「わかっています。私は何も村田先生をおとしめようなんてこれっぽっちも思ってはいません。ですから、私のほうも……」
「ああ、わかっています。承知しました。田村の件は誰にも言わないでおきます。田村の母親が何か言ってきても私が責任を持って何とかします。私に任しておいてください」
 さあ、速く処理してきてくれと言わんばかりに、掴んでいた手で彼の体を後ろに押した。彼は少しよろめいた。
 私は身体を扉のほうに向け、歩きはじめた。
「よろしく頼みますよ、山田先生」
 こんなに頼りない吉川の声は聞いたことがなかった。
「わかっています。任しておいてください」
 言いながら、嫌な気がした。ばかなことをしているなあとしきりに思う。
「だから、村田先生の件は早急に解決してください、今、すぐにですよ」
「わかりました」
 心が苛立ってくる。はやくこの場を立ち去りたい。もういい。あとは吉川に任せた。
「とにかく、すぐにですよ」
 叫ぶように言うと、障子戸を荒々しく開けて外に出た。

 会議場へ向かう途中、廊下で畑中に会った。口をとがらせ不服そうな顔付きをした。
「捜していたんですよ。どこへ行ってたんですか」
「ごめん、ごめん。ちょっと吉川さんに話に行ってたんで」
「吉川先生と? あいつ、おれたちの妨害ばっかりしやがって。とうとう校長の犬になりやがった」
「いや、いや、そうでもないよ。ちゃんと話せば分かってくれた」
「ええっ? そんなことはありえませんよ」
「ところが、ありえた」
 畑中は私の言うことはまったくわからないというように口を開けたままだった。
 私は彼を無視して会議室に入った。すでにおおかたの教師たちは帰ってきていた。ただ、吉川と村田の姿はなかった。 
「では、時間が来ましたので、会議を続行させていただきます」
 堀出さんは言ってから、先程の議論の概要を説明した。
「要するに戦術をダウンさせて、校内で三〇分の職場集会をするか、指令通り、教組の会場に行って、抗議集会に参加するかのどちらかです。そろそろ、私たちの態度をはっきりさせましょう」
 堀出さんの口調には元気がなかった。すでに勝負があったと判断したようだ。あきらめの匂いが強い。ただ、先程、吉川側についていた教師たちを見回すと、眼をあちこちにやって落ち着きがなかった。吉川も村田もいないので戸惑っているようだ。
「ちょっと」と言って畑中が発言をした。
「休憩の間に、他の学校の様子を知りたくて、友だちのいるいくつかの学校に電話を掛けてみました。A小学校は指令通り、D中学も指令通り、N中学も指令通りです」
 それらの学校は従来から組合の強い学校だったし、校区にも強い革新団体を持っているので教師たちはそうするだろうと初めから予想していた。だから、畑中がそれを報告しても何の反応もなかった。それよりも、その後、私語という形で神野という女性教師がちらっと漏らした言葉のほうが衝撃度が高かった。
「R小学校は戦術ダウンをきめたらしいですよ。友だちから電話が掛かってきて、あんたとこもそうしろって」
 そのとき、吉川と村田がそろって部屋に入ってきた。とうとうやって来やがったな。私は彼らが座るのを待って手を挙げた。
「先程の休憩時間にちょっと吉川先生と話し合ったんですが、こんなことで教師集団が分裂するのはまずい。なんとか避ける方法はないもんかって。統一できる方向で何とかまとめようではないかということで意見が一致しました。ね、そうでしたよね、吉川先生」
 私は吉川を睨み付けながら言った。吉川は驚いたように私を見ていたが、否定せず、かすかに頷いた。
 私は教師たちを見回した。堀出さんと畑中は私が何を言い出すのかと戸惑っているようだ。吉川に賛成していた教師たちは、いっせいに緊張して私のほうを窺う。私はつづけた。
「吉川先生に村田先生の考えを聴きに行ってもらったんですが、私はその結果は知りません。吉川先生、村田先生もそれでいいということでしょうか」
 これにもまた吉川がかすかに頷いた。
「つまりですね、子供が心配だという意見もよくわかります。それで、何人かの保安要員を学校に残して、後は集会に参加する。そういう形でどうかということです。そうして、学校に残る先生の選別は原則、学年単位でくじ引きで決める。但し、事情のある方もあるので、その先生の取り扱いにはついては、いっさい堀出先生、私、吉川先生に一任していただく。事情は十分考慮する。こういうことでしたよね、吉川先生」
 私は、吉川先生というところに力を込めて言った。吉川は先程と同じようにかすかに頷いた。
「吉川先生、もう少しはっきりと言っていただけませんか」
 私が言った。吉川が立った。
「いや、今言ってもらった通りです。やっぱり、何とかみんなの意見が一致できる方法がないものかと思いまして」
 私は驚いた。彼はただ、「山田先生が言われた通りです」ぐらいしか言わないだろうと思っていた。こう言ったほうが自分のイメージが上がると判断したのだろうか。それとも、しかたがないと腹をくくったのか。ただ、彼の表情にはにがにがしさが漂っていた。
「吉川先生は集会には参加されるんですか」畑中が尋ねた。
「私の懸念したことがかなり取り除かれましたので」
「村田先生はどうですか」畑中がまた尋ねた。
「参加します」村田も力づよく言った。
 畑中は驚いたように私を見た。堀出さんも同じ表情だった。彼らの頬は一気に生気を取りもどした。しかし、私はただ、虚しかった。こんなことをして何になる。苦い唾が口いっぱいに広がっていく。
「では、今のご提案について御審議願います」
 堀出さんが言ったがほとんどの者が意見を言わなかった。もうこれできまりだと思ったに違いない。
 堀出さんもそう思ったのか、すぐに会議の内容をまとめ、会議を終わらせた。

 私は教室への帰りがけに、再び小屋へ寄った。小犬の様子を見ておこうと思ったのだ。しかし、小犬はいなかった。首に巻き付けてあった独楽回しのひもはすっぽりと抜けていた。首を振り回してひっぱったに違いない。
 戸を大きく開け、月明かりをいっぱいに取り入れたが、小犬は見えなかった。ところどころに農機具や肥料の袋や一輪車などが無造作に放り込まれていたが、その下のどこにも小犬はいない。戸が閉まっていても小犬が一匹通れるような隙間はいくらでもあった。それらを通って外に逃げたに違いない。
 辺りを捜そうか。きっと近くにいるに違いないと思ったが止めた。小屋にいるのが嫌になって外へ出たのだ。小犬の意志を尊重しよう。もし、ここがいいと思ったらまた帰ってくるだろ。誰かに拾われ、連れて行かれるのなら、それもいいだろう。とにかく、小犬は自分のしたいことをし始めたのだ。それを止めるのはよくない。

 教室に帰ってきて、事務机に座った。身体がどこか軋んでいる。動かすと筋肉と骨とがばらばらになりそうな感じだ。それに、寒い。足先から感覚を麻痺させるほどの冷気が這い上がってくる。
 左斜めの窓を覗くと、遠くに、満月に近い月が見えた。周りを白色の雲がうっすらと取りまいている。凍てついた湖の表皮を思わせる。
 教室に眼を移し、意識的に今日の授業のことを思い浮かべた。私の工夫で子どもたちが活気づいていた。
 私は、新しい方策を考え出した。今までほとんどなされていない方法。しかし、別にたいした方法ではない。ただ、教科書を使わずに、加工を施した文章を与えるだけである。
 今までの「読むことの指導」は、まず教科書を読ませることから始まった。その方法は、百年以上もつづいている。算数、理科、社会やその他の教科は、教科書などを使わずに、ダイナミックな方法が開発されているというのに、国語科だけは相変わらず、百年間以上も、同じ方法の繰り返しである。しかし、つい最近、ファックス用原紙が開発された。今までは、子どもたちに文章を与えようとすれば、ガリ版を使い、いちいち鉄筆で原紙に文字を書き付けなければならなかった。その労力はたいへんなものである。教師が教材など作れる状況ではなかった。しかし、今、ファックス用原紙が発明され、機械の力で、書いた文字を一気に原紙に写し取ることができる。それを輪転機にかければ印刷は簡単である。教科書のようなすでに印刷されたものでも、用紙に張り付け、機械で原紙に印字すれば、たちどころに印刷が可能である。子どもに与える文章は教師が作れる時代になった。とうとう、国語科が教科書から解放される日が来たのだ。
 しかし、多くの教師たちはそのことにまだ気がついていない。相変わらず、教科書を使い、旧来の方法に固執している。
 教科書を子どもたちからあずかり、教師が加工した教材を与えることで驚くほど多様な授業が可能になった。他教科で開発された方法もいとも簡単に取り入れることができた。
 私は、さまざまな新しい方法を工夫した。子どもたちも喜んでくれている。生き生きとした授業が可能になった。
 今日もまたそういう状態になった。子どもたちの様子を眺めながら、自分の方策に自信を深めた。この方策を多くの教師たちにも広めたい。広まれば子どもたちの読む力は必ずつく。
 井手のいる学校に移れば、今いる学校にいるよりも研究はしやすい。協力してくれる友人もいる。井手は組合運動には不熱心だが、国語教育には熱心だ。第一、私の方策を認めてくれたではないか。今の学校では誰一人私の方策を認める者はいない。畑中だって「犬を飼いきる」実践には夢中だが、私の方策には見向きもしない。堀出さんは自分が所属する団体の方策が一番だと思っている。
 思い切ってかわってやろうか。
 すると、今度は、私の少年時代の記憶が蘇えってくる。
 それは、自分が応援していたプロ野球の中心投手が大嫌いな敵の球団へ移籍した思い出だった。「金のために育ててもらった球団の恩義を忘れやがった」「今まで応援してもらったファンを裏切って、敵の球団に移るとは何事だ」と、みんなは大騒ぎをした。私も同じ考えだった。大人になっても、自分はそんなことだけはしないでおこうと思った。
 行くにしても残るにしてもはっきりとした根拠がほしい。ずるずると流されるような生き方はしたくない。しかし、結論が出てこない。ただ、身体が軋むだけだ。
 突然、廊下のほうから大きな靴音がしてきた。誰かが走ってくる。かなり急いでいるようだ。教室の前で立ち止まった。
「もう帰られました?」堀出さんの声だ。
 私は急いで扉の所に駆け寄り、電気のスイッチを押した。
「ああ、よかった。まだおられて。先生、堀出です」
 堀出さんは障子戸を開け、顔を突きだしてきた。息も弾ませている。
「先生、たいへん。畑中さん、神野先生にとっつかまってえらい怒られてはる。もうほんまにあの子は世話の焼ける子や」
 神野先生とは、先程、吉川について、戦術ダウンを主張していたベテランの女性教師である。
「何かやらかしたのか」
「そうやねん、あの子のクラスの犬、神野先生の教室に入ってきて、後ろに飾ってあった子供の工作におしっこかけやってん。それに、神野先生、畑中さんのクラスの音楽を持ってるやろ。音楽の時間、クラスの子とえらいもめたらしいわ。ピアノを弾いていたら、犬がその音に合わせてやたらなき始めたらしい。やかましいて音楽にならんから外に出してくれと子供に言ったら、犬かって音楽習いたいんやから絶対出せへんというてきけへんかったらしいわ。まあ、そのときは子供らしい考えやと思って我慢してたらしいんやが、子供が神野先生への復讐やいうて犬におしっこをかけさせに来たというんや。それに、神野先生のクラスの子、『隣のクラスは犬を飼っているんやからうちのクラスでも飼わせろ』といって神野先生に詰め寄っているらしいわ。神野先生、犬、大嫌いやろ。犬見ただけでも蕁麻疹が出てくるぐらいやから、えらい困ってはるわ」
「やっぱりな。必ず何か問題が起こると思っていた」
「そう、私も、止めときと喧しく言ったのに、聞きいれんと」
「神野先生か、強敵やな」
「周りの女の先生、みんな神野先生の味方みたい。こんな時期、下手したら、闘争に参加せえへんと言いだしかねんよ」
「それで、畑中のやつどうしている」
「顔、真っ赤にして弁解しているわ。みんなに責めたてられてたじたじやけれど」
「それは困ったなあ」
「とにかく、先生、来てよ。なんとかせんと」
「ああ、うん」
 堀出さんはすでに歩き始めた。私がゆっくりしているのをもどかしそうにおいでおいでを繰り返した。私は何も考えられないまま彼女の後を追いかけて歩いた。歩きながら、どう収めようかと考えた。これはかなりやっかいな問題だ。組合の問題を片づけるよりも難しい。へたをすると学校全員を敵に回しかねない。第一、畑中のやり方に賛同し、自分もやってみようかと思う者は誰もいないだろう。彼は孤立している。ちょうど、私の方策がこの学校では誰からも支持されていないように。ただ、私の方法は誰にも迷惑をかけていない。その分、風当たりは弱い。畑中の方法は周囲と摩擦が起こる。しかもそれを狙っているというのだから始末が悪い。子供に解決させるといったって限界を超える場合だってある。今度の場合がそれかもしれない。
 しかし、だからといって畑中の方法を潰すわけにはいかない。せっかく彼は彼独自の方策をやり始めたのだ。しかも考え方は決して間違ってはいない。ただ、情熱と覚悟が必要なだけだ。彼のやり方を温かく見守ってやるのが先輩教師としての取るべき態度ではないか。それをヒステリックにがなり立てて畑中を窮地におとしめるような態度は許せない。何とかして畑中を救ってやりたかった。しかし、その手だてが見つからない。
「先生、はやく、はやく」
 堀出さんは何度も立ち止まって私を振り返る。 
 ふっと一つのアイディアがひらめいた。
 さきほど、分会会議が始まる前、まだ時間があったので、校舎の裏側の窓から外を眺めていた。すると、神野先生が、大きな袋をぶら下げてゴミ集積所へ運んでいくのが見えた。教室の整理でもしていたのだろうなと思い、ただ何となく見ていた。だが、今、その光景がはっきりと思い浮かんできた。役立つかどうかはまだわからない。ただ、これはいけるかもしれないという勘のようなものが働いた。
「ちょっと待って。トイレをしたくなってん。ここで三分間ほど待っていてくれへんか」
「しょうないな。はようしてや」堀出さんが言った。
 私は、急いで、廊下を少し後戻りして、横に折れた。対面にあった障子型扉を開けると校舎の裏に出た。そこを校舎に沿って裏門の近くへ走った。ゴミ集積場があった。大きなビニールの袋がたくさん捨てられていた。明日はゴミの収集日である。
 ゴミの集積場を見回した。神野先生のゴミ袋はすぐに見つかった。真っ黒なビニール袋が少なかったから。
 中を開いた。やっぱり、私の想像したとおりだ。
 神野先生を黙らせるにはこれしかない、と思った。
 私は、袋の中から大きな紙袋を見つけると中にあった子供の書いた作文や練習用のドリルなどを袋の中に押し込んだ。作文など何度も書かせた場合、教師が読み切れず、長らく放っておき、最後に捨てる場合がある。本来はしてはならないことだが多くの教師は止むを得ずする。私たちはそれを「火葬にふす」と言っている。
 私は子どもたちの書いたものでいっぱいになった袋を腕に抱きかかえ、再び堀出さんのところへ帰ってきた。
 堀出さんは、私が今先程持っていなかった袋を二つも抱えているのに気づき、いぶかしそうに何度か首をひねったが、何も言わなかった。それよりも、時間がかかったことに腹を立てているようだ。
「はようして、はよう」
 再びおいでおいでを繰り返しながら急いで走っていく。
 玄関脇の広場になっているところに着いた。畑中を取り囲んで三、四人の女性教師たちがいる。その中央に神野先生が腕を組んで反り返っている。
「とにかく、犬を飼う実践は即座に止めてください。明日、保健所へ犬を連れていってください」
 神野先生の声は、道路にまで届きそうだ。
「注意しますよ。迷惑は掛けないように細心の注意を払いますから、今度だけは大目に見てやってください。それに、おしっこをかけられた作品を作った子供には私のクラスの代表に謝りにいかせますから」畑中は言った。
「だめですよ、そんなの。もし、保健所に連れていかないんなら、明日、校長先生に頼んで臨時職員会議を開いていただきます」
「なんで、子供がしでかしたちょっとしたミスで職員会議を開かなければいけないのですか。許してくださいよ」
「ちょっとしたミスですって。あなた、子供が精魂込めて作った作品を何と思っているんです。それに、これをちょっとしたミスなんて言っているあなたの感性を疑うわ。そんなの先生として失格よ。子供のために主任制導入を阻止しょうなんて、かっこいいこと言って、これはどういうことですか」
「まあ、まあ、神野先生のお怒りはよくわかります。でも、外にまで声が聞こえていますよ。部屋に入って話し合いましょう。おしとやかで通っている先生のイメージが台無しですよ。うちの母親たちは神野先生が学校中で一番センスがいいって言っているんですから」
 瞬間、神野先生は黙った。
「さあ、さあ、校長室でも入って。ああ、堀出さん、コーヒーでも入れてやってよ。インスタントでないコーヒー。職員室にあるやろ。あれ、神野先生にごちそうしてやって。それから、畑中君、君ところの吉武のお姉さん、君に会いたいって。来るとき君の教室の前でうろうろしておったんで尋ねたら君に会いに来たって。何か深刻な顔しとったで。私がこれから畑中先生に会うから連れてきてやると言って待たせてあるのや。吉武と言ったらおかあさんが仕事で遅いんでお姉さんが弟の世話をしてる子どもやろ。まだ、中学生やのにえらい子や」
「ええ、吉武のお姉さん?」
「そうや、早う行ったって。すぐ終わるそうや、神野先生にはその間に、コーヒーでも飲んでいただいといて。堀出先生、お願いしますわ」
 私が先に歩き、畑中は私の後につづいた。
「吉武のお姉さん、何の用事かな」
 私は立ち止まった。
「もう帰った。いや、私が用事聞いておいた」
「ええ?」
「これや」
「これって」
「中身、調べてみ」
「これ、神野先生のとこのクラスの子のもんや」
「吉武が拾って持って帰ってきたらしいわ。ゴミ箱に放ってあったて。でも、大事そうなものなので、吉武の姉ちゃん、届けにきてくれたんや」
「ええ、それ、本当か?」
「本当と思えば本当や」
「ええっ?」
 畑中は、しばらく考え、私が何を言いたいのかわかったようだ。
「使えるやろう。これ、お前、運のええやっちゃで」
「ほんまや。あいつ、神野、おれに何と言ったと思う。覚えているやろう。子供の作品をどう思っているのですか、あなたには感性がないって。これ何や」
「使えるやろう」
「使える」
「上手に使えよ。嘘も方便ってことがあるんやから」
「ああ。大丈夫」
「自分の方策は自分で守る」
「わかりました。頑張ってみます」
「後はしらんで。私は顔を出さへんから。堀出さんにも引き取ってもらって。じゃあな」
 私は畑中から離れて再び教室に向かった。歩きながら今言った言葉を反芻した。自分の方策は自分で守るか。
「先生、先生」
 突然、後から声がした。振り返ると、堀出さんが追いかけてきた。まだ何かあるのか。
「先生、電話です。市教組の松崎先生から」
「ええ? 松崎先生から」
 私はぎくっとした。
「緊急用件らしいわ」
「ああ、すぐ行く。職員室やな」
「そう」彼女は頷いた。
 慌ててとって返し、受話器を取ると私の名前を告げた。
 松崎さんも型どおりの挨拶を済ませると言いにくそうな声を出した。
「郡教組から指令が来ました。執行部命令ということです。明日の授業時間に食い込むストは中止になりました。各学校で自主的に職場集会をやってくれということです」
「ええ、それ、どういうことです。なぜ、今なんです。まだ、各学校の集約も終わっていない状況で、なぜ、早々とスト中止指令を出すんです。これじゃ、組合員に説明もできないじゃないですか」
「いや、お気持ちはわかります。でも執行部がそう決めたらどうにもしかたがありませんよ。強行したら組合が分裂する。涙を飲んで戦術ダウンをしたというんですから。ですから、今夜の市教組の執行部会議は取りやめます」
「それだけの説明じゃ、納得できませんよ」
「納得できないといっても、私もそれだけしか聞いていませんから」
「まったく、訳がわからん。こんなことをしているから組合がどんどん信頼を失って行くんですよ」
「ごもっともです。でも、そんな意見は組合大会で言ってください。私、方々の分会に連絡しなければいけないのでこれで失礼します。堀出さんには先生のほうから連絡しておいてください」
 さらに何か言おうとしたが向こうから電話を切った。
「中止なの」
 堀出さんは自分の事務机の椅子から立ち上がって言った。
「そうだって」
「そんなあほな」
 そこにいたみんながいっせいに言った。
 畑中がどう思うだろう。怒るだろうなと真っ先に思った。
「今日の会議、何やったんやろう」
 誰かが言った。本当だ。私が今日したことは何だったのか。
「へっ、へっ、へっ」
 奇妙な声が前から聞こえてきた。江崎教頭の声だ。教頭は職員室の前の大きな机に座っていかにも楽しそうに笑っている。
「それ、今日の五時にはわかっていた」
「五時にだって」
 私は大声を出した。五時というのは分会会議が始まった時刻だ。
「そう、うちの校長はんから電話が入ってな。校長会と郡教組の委員長とのトップ会談で決着がついたって。うちの校長はん、校長会のえらいさんやろう。これ、ぜったい漏らしたらあかんて釘さされたんやけれどな」
「言ってくださいよ。他に漏らしませんから」誰かが言った。
「他に絶対言わんといてや。郡教組の委員長、今度、F市の市長に立候補しよるねん。それで、校長会がそのときは裏で全面的に応援してやるということで決着がついたんや。それで、今回のストは中止。そういうことや」
「へえ、なるほど、そういうことですか」私が言った。
「そんな、あほな」堀出さんがまた言った。
「松崎先生、助かったじゃないですか」江崎教頭を睨みつけながら私が言った。
「へっ、へっ、へっ」江崎教頭の気持ちの悪い笑い声が再び鳴り響いた。
 みんなは無言で帰り支度をしはじめた。帰るとき挨拶もしなかった。
「もう帰った先生は誰やろう。連絡せなあかんわ」
 堀出さんは、さっそく、前の柱に吊してある職員録を見始めている。
 校長室のほうを向いた。畑中はまだ神野先生とやりやっているようだ。なかなか職員室には現れない。
 今日の放課後のことはすべては無駄だった。
 そう考えた途端、私の中で何かがすぽとんと落ちた。いや、私が自ら脱ぎ捨てたのかもしれない。
 委員長も自分のやりたいことを守ったということか。私は何度か同じことをつぶやいた。これでようやく私の態度も決まりだと思った。今夜、自分の家から井手の家に電話をかけよう。
 ひっそりと職員室を出た。廊下に立って、冬空を眺めた。
 黄昏からまだそれほど時間が経っていないのに、月はかなり高くなっていた。地上では風がないのに、雲はすごい速度で流れていく。
 辺りの冷気が深まった。身体が少し震えた。
                        了

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