迪子(みちこ)   上月 明


 電話の対応する声に、ペンの動きが止まってしまった。
「よしざきみちこ、五十歳ですね」
 保護係長の声が耳に飛び込んできた。
 昔付き合ったことがある女も『吉崎迪子』といった。年齢は私より二歳上だったと記憶している。だから五十歳のはずである。人口十万の東野市で同姓同名なんかそんなにいるはずがない。
「住所は北町二丁目の……」
係長の声が続く。もはや疑う余地はなかった。
 顔を上げ電話の応答に気が流された。彼女の死に顔を想像したが、一度だけ迪子の家で会ったことがある母親の青白い生気を失った顔とが重なって脳裏に浮かんだ。
 市民病院から救急車で運ばれてきた身寄りのない女が昨夜死んだと一報が入ってきたのは、始業時間からそんなに経っていなかった。
行路死亡人や身寄りのわからない死亡者の電話は、年間四、五件の割合で警察や病院からかかってくる。調べて身内がいれば遺体を引き渡すが、身寄りのない無縁仏は福祉事務所が縁者に代わって火葬し、市が管理する無縁墓地に納骨していた。
係長は市民病院からの電話を切ると、消防署に電話をかけ救急車で搬送した隊員に当時の状況を聞いている。
「何日も家から出てこないので不審に思った近所の人が……はい……部屋を覗き瀕死の状態で寝ていた彼女を見つけた……はい……救急車の出動依頼が……」
 係長の口から漏れる言葉で、だいたいのことは想像できた。十名いる保護課の職員は、気に留めている様子もなく、自分の仕事に没頭している。カウンター窓口では白髪の老婆が、精一杯の大きな声を出し悲壮感を顔に表し、息子に見放され生活ができないと訴えていた。カウンターにいた隣の市民が老婆の声に驚いて顔をしかめている。職員が面接室に入るように勧めているが、なかなか応じようとはしない。身勝手と思える老婆の態度に苛立ちを覚える。
「他の市民に迷惑がかかるから、面接室に入ってもらって、話を聞いてやらんか!」 
カウンター窓口に向かって強い口調で言ってしまった。突然の言葉に、老婆の対応をしていた職員は、硬い表情で老婆の手を取り無理矢理面接室に引っ張り込んでいた。仕事をしていた職員たちが一斉に顔をあげると、私に視線を浴びせた。
「課長、とりあえず市民病院へ行って来ます。帰りに家に寄って身寄りがいるかどうか近所の人から聞いてきます。もし身寄りや資産がなければ、葬祭扶助を考えなければならないかもわかりません」
受話器を置いた係長が苦笑の浮き出た顔で同意を求めてきた。私は動揺を隠すように何回もうなずき、平常心を装った。
 近年、世の中の不況を表すかのように、年々生活保護世帯が増えている。先月に県の監査があり、生活保護をもっと精査して適用するよう指導を受けていた。係長の表情から葬祭扶助まで出したくないと読み取れた。
「とりあえず市民病院へ行って対応してやってくれるか」
 心が落ち着くのをまってから、係長に指示を出した。
 昨日は妻の命日だった。妻が亡くなってからは再婚はせず、ひとり暮らしを通してきた。自炊が苦手で毎日行き付けの小料理屋で外食をしていたが、命日だけは用事がない限り妻に教えてもらった料理を作ることにしている。
 新婚時代は、妻に教えてもらいながら一緒に料理を作った。今覚えているのはカレーライス、グラタン、ロールキャベツぐらいである。
 昨夜はカレーライスを作ってみた。仕事帰りに買ってきたジャガイモ、玉ねぎ、人参を切って、冷蔵庫に入れていた牛肉と一緒に炒める。それから水を加え沸騰したらあくを取り弱火で煮込む。じゃがいもが柔らかくなるとカレーの元を入れる。ぐつぐつと煮立って湯気を上げ、表面にぼこぼこと穴ができて少しずつとろみが増してくると出来上がりである。
 亡くなって日が浅いころは妻が横に立っているような錯覚を覚えるときもあったが、月日が経つにしたがって、徐々に減少していった。
仏壇に少しだけカレーライスを供えてから、ゆっくりと味わった。

 迪子と初めて知り合ったのは、厚生課に配属されていた頃だから、もう十五年くらい前になる。妻に死なれ気落ちしていた時期である。私たち夫婦には子どもがなかった。ひとりぼっちになってしまった私は、寂しさから逃れるために夜の街を飲み歩いていた。
そんなときに同僚から、「感じのいい女がいる店があるんだ」と声をかけられた。時間つぶしにと軽い気持ちで、誘われるままスナック『みゆき』に飲みに行った。カウンターの中に立っていたのが吉崎迪子だった。
 店の中はL字型のカウンターに付属した十ほどの止まり木があり、天井から色電球に店内が照らされていた。電灯に反射する彼女の白いブラウスが電球の色によって変色した。身体を左右にねじる仕草のときに、あまり大きくない胸の膨らみが顕著にわかる。顔はやや面長で目が細くて微笑んでいるようだ。背が一六〇センチくらいで、どことなしか妻の面影が漂う女だった。
「親しくなろうと思うのなら、せっせと通うことだな。妻子持ちの俺と違って、おまえは気楽にやれるじゃないか」
 同僚は迪子に視線を送り、私の耳元で小さくささやいた。
スナック『みゆき』は、市街地を南北に分断する東野川に架かっている橋のたもとにあり、ママと迪子のふたりだけでやっていた。職場から歩いて十分ほどの距離で、時間を持て余していた私は、仕事が終わると顔を出した。
いつも五、六人の客が入っていた。親しい客と喋っていることが多いママに代わって、他の客は迪子が対応しなければならないことが徐々にわかってきた。
 視線が合うと近寄ってきて、「ごめんなさいね。あまり相手ができなくて」そう言って笑みを返してくる。「水割りのお代わりしましょうか」と断ってから、キープしている残り少ないウイスキーをグラスに注いでくれた。リザーブの瓶には、まだ少しウイスキーが残してある。
 商売上手な女であれば、新しいウイスキーをキープしてもらうために、残すことはしないだろう。私に余分なお金を使わさないために、気遣っているのがわかる。アルコールが回ってくると、妻と歩んだ過去が思い出され、カウンター内の彼女を見つめる時間が多くなってくる。
 ゆっくり話をしたいと思うが、いつも忙しく動き回っている彼女に視線を向けて、黙って有線の唄を聴き、おとなしく飲んでいることが多かった。
ママから迪子が半身不随が残る母親を養っていくために、スナックに勤めだしたと聞かされた。彼女は明るく振る舞い、三十五歳の年齢とは思えないほど若々しく見えた。

 あの日は寒い日で店がはねる時間まで飲んでいたのは私だけで、ぼつぼつ帰ろうとしたときだった。
「藤沢さん、悪いけど迪ちゃんを送ってあげてくれない。家は北町なのよ。場所わかるでしょう?」
 カウンターの中から、ママが声をかけてきた。突然の言葉に少し躊躇した。
「ママさん、ダメですよ。藤沢さんに迷惑じゃないですか。それに飲んでいるし……歩いて帰れますから」
 店の片付けをしていた迪子は、吃驚した顔をして口をはさんだ。
「大丈夫だよ。そんなに飲んでいないから」
 今日は車で来ていたので、ビールを一本しか飲んでいなかった。顔出しだけしてすぐに帰ろうと思っていたが、彼女と楽しく話し込んでいるうちに長居をしてしまった。
 迪子が自分の車に乗ってくれることを期待する気持ちが浮き出てくる。お得意の客に店の女の子を押しつけて、機嫌を取るやり方はよくあるパターンである。店を出たあとは大人同士の行動であり、店は関知しないといったことなのだろうか。
 スナックに飲みに来る男は、チャンスがあれば店の女と関係を持ちたいと思っている者が多い。たぶん私が飲み代も溜めることなく支払っていたので、上客扱いしているのだろう。
 彼女の迷っている表情の顔を視線でひと舐めし、深夜にふたりきりになれるところはあるのだろうかと、頭の中で地図を広げてみた。
「送ってもらいよ。今日は外寒いよ。藤沢さんだったら安心じゃない。それに風邪でもひかれてお店休まれると困るから」
 五十歳くらいと思われるママの顔から、客に見せる笑みがこぼれ、口の隅から銀色の奥歯が覗いた。
 店の外に出ると冷たい空風が吹き荒れていたが、軽い酔いと、今から迪子が同乗することを考えると、さほど寒さを感じなかった。腕時計は十二時を指していた。
 車のエンジンをかけて待っていると、店の横にある夜光燈に照らされて彼女が出てきた。グレーのハーフコートに帰り間際に店の中で着替えたらしい紺のスラックス姿で首にマフラーを巻き、冷たい空風から顔をそむけていた。車のドアを開けてやると、コートの裾をお腹の前で合わせ持ち乗ってきた。
「すいません。迷惑じゃありませんでした?」
 迪子は私の表情を伺っていた。
「これからドライブをしないか」
 そう言って、返事を聞かないまま発進させた。車は北町とは反対方向に向かって走った。彼女は車の前方を見たままで、何も言わずに座っている。
「毎日スナックの仕事も大変だろう……お客さんから誘われたときは、どうするんだい」
「お客さんもどこまで本気で言っているか、わからないから適当に応えているの。でも本当に誘われても付いていかない。怖いから」
「……今日はどうして付いてきたんだい」と言いそうになったが口をつぐんだ。
「毎日お酒を飲んでいて、身体の調子は悪くならないの?」
 迪子はフロントガラスに顔を向けたまま少し顔を上げ笑いだした。妻もテレビを見ているときなんかに、ちょうど同じように顔を少し上向き加減にして含み笑いをしていた。
「飲んでいるのはウーロン茶なの、最初は飲んでいる振りをしているけど、途中で入れ替えているの。毎日お酒飲んでいたら身体壊してしまうもの」
「なるほど、そういうことか」
 話を適当に合わせながら、私は前方を注意深く見ていた。少し飲んでいることを考えると、事故には気を付けなければならない。ライトに照らされた黄色いセンターラインが光り、向こうの先まで道路が続いていることを示している。対向車はほとんどなかった。右の前輪がセンターラインを踏みつけて走った。
 ゆっくり話せる場所を探した。深夜に開いているドライブインがなかなか見つからない。記憶では生野峠を越えたところにモーテルがあることは知っていた。ドライブインがなければ、モーテルに入るしかない。身体がどことなしに怠い。仕事の疲れが出てきたこともあるが、やはり飲酒運転をしていることが一番気になる。
 車は生野峠を越えた。少し走ると国道三一二号線沿いに、モーテル『さくらんぼ』のネオンが見えてきた。先ほどからふたりの間には会話が途切れている。どう切り出そうかと迷った。鼓動が少し早くなってきた。迪子は助手席で窓に頭を押しつけている。
「眠っているのか」
「窓の外を見ながら考えていたのよ」
「何を?」
「どうしてこんな簡単に藤沢さんの車に乗ってしまったんだろうって、それも深夜にこんなに遠くまでドライブに来てしまって……男の人の車に乗せてもらうの、お店に勤めだして初めてなの、だから不安なの……」
 言葉が出てこなかった。先ほど入ろうと思っていたモーテルを通り過ぎてしまった。
「スナックに勤めだしたのは生活のためだったの……母とのふたり暮らしで、会社勤めをしていたんだけど、一年前に母が脳梗塞で倒れてからは勤めを辞めて看病をしているの……後遺症が左半身に出たけど何とか身の廻りのことは自分でやれるの、家事や洗濯はできないから……昼間の仕事も考えたけど、やはり夜の仕事の方が収入も多いし、時間的にも都合がよかったの……」
「お父さんは?」
「中学二年生のとき母と離婚して、今はどこにいるかしらない」
 彼女の身の上話を聞かされたら、車の中が湿っぽくなってしまった。
「どこかで休んでもいいか」
肩を動かし疲れた仕草をして見せた。
「休むって、こんなところで?」
「さっき通り過ぎたみたいだけど、モーテルがあった」
「モーテルで休むの?」
 不安な声で聞き返してきた。
「大丈夫だよ。何もしないから」
 迪子の返事を聞かずに車を方向転換させて、モーテル『さくらんぼ』の中へ車を入れた。
「男の人って、初めての女の人とモーテルに入るとき、『何もしないから』って半分以上の人が、そう言うんだって」
裸電球に照らされたガレージに車を納めたとき、彼女は呟くように言った。
返答ができなかった。その通りだったからだ。今まで何人かの女性と初めてモーテルに入るとき、いつもそんなことを言ったことを記憶している。
「入ってしまったんだから、とりあえず、部屋に上がろう」
苦笑が滲み出た顔で、そう言って部屋の方に歩いた。迪子も車から降りる仕草を見せたので、安堵の気持ちになった。ここまできて居直られたら疲れてしまう。明日の勤務を考えると早く布団の中で休みたい気持ちが膨れあがってくる。
 部屋は和室で、畳の上に一式の布団が敷かれていた。部屋のヒーターを最大にしてから、のどの渇きを覚え、卓袱台に置いてあるポットのお茶を飲んだ。ビールの酔いは殆ど醒めていた。
 迪子は部屋の隅に座り、さっきまで着ていたハーフコートを膝の上に乗せていた。
「何もしないから、こっちへ来いよ」
 ハーフコートの端をいじっている彼女にそっと言った。それでも下を向いたまま、いじいじしている。妻も新婚旅行の初夜は、こんな態度をしていた。身体を堅くさせていたのが思い出される。
「でも……ほんとうに何もしない?」
 ゆっくり二、三回うなずくと、迪子はゆっくりした動作で卓袱台のそばに寄ってきた。
「奥さんて、専業主婦?」
 突然の質問にドキリとした。
「そんな話はどうでもいいだろう」 
ぶっきらぼうに応えた。こんなときに、妻のことを出されることに、腹立たしさを覚える。
「いいわねえ。ご主人の給料で生活ができて……」
明るい場所で見る彼女の顔は、店の中と違って目尻の小皺を映し出していた。
「もういない……三カ月前に亡くなったよ」
 強い口調で応えていた。
「ごめんなさい。変なこと聞いてしまって……」
 そのとき、隣部屋から壁越しに聞こえるトイレの水を流す音で、語尾が消されていた。

 児童虐待が世の中で問題視され、私はその対策に頭を痛めていた。今日は児童相談所等の関係機関が寄って対応の打ち合わせ会議があり、予定を一時間以上もオーバーしてしまった。すでに退庁時間が過ぎ閑散とした厚生課の自席に戻ると、手早く机の上を片付け職場を出た。
 週に二、三回のペースで仕事が終わると、『みゆき』に通った。迪子は掃除と開店準備をするために、六時に店に来ていた。ママや客が来るのは七時頃で、六時半から七時までの三十分間が彼女とふたりきりの時間が持てた。そして、店のはねる十二時頃まで飲むときが多かった。
『みゆき』に着いたときドアの下から明かりが洩れ、店の中からドアを通して歌声が聞こえてきた。ドアを押すと天井から吊るした赤い電灯が目にしみこんだ。
「いらっしゃい」
 迪子の声だった。目が合うと右手を軽く揚げカウンターの止まり木に腰を下ろした。彼女は水割りでいいかと断ってからグラスにウイスキーとウォーターを注いだ。迪子の仕草をじっと目で追っていた。
 そのとき横に座っていた男がアルコールの回った顔を突き出し、忙しく動き回っている彼女を呼び止め、タバコがきれたと言って一万円札を出し、「釣りはいらない。取っておけ」と欲望のみなぎった目を向けていた。
なおも男は迪子に「店が終わった後、食事に行かないか」と誘いをかけている。私の心中は穏やかではなかった。
 彼女の視線が瞬間私に向けられた気配を感じたが、私の視線はカウンター内のボトル棚に向けられたまま動かさなかった。
「母親が病気で寝ているの、だから早く帰らないといけないの」
 迪子は顔に笑みを浮かべて男の相手をしている。
「病気で寝ているのは、お母さんじゃなくて若い男じゃないのか」
 男の声は彼女を離そうとはしない。男がトイレに立ったとき、ママが「お客さんに失礼じゃない。生娘じゃないんだから、母親のことを出さずに、うまく断れないの」と、たしなめていた。迪子は渋々うなずいている。
「横の客がしつこく誘ってくるの、だから最後までいてほしい」
彼女はママに聞こえない小声で訴えた。私は迷った。
「……店を辞めろよ。飲んだくれの男からお誘いの声がかかるんだろう」
「だって……生活があるもの、手のかかる母親を抱えて昼間は働けないもの」
「そのうち、たちの悪い客から逃げられなくなるかもしれないし、ママさんだって、どこまで助けてくれるかわからないだろう」
「でも……藤沢さん結婚する気あるの?」
「…………」
私は次の言葉を失った。結婚について真剣に考えたことはなかった。モーテル『さくらんぼ』で迪子と肉体関係を持ったとき、彼女の表情は硬く緊張していたが、男が初めてでないことはわかった。別に処女であることを期待したわけではない。中年の域に入っている迪子が、ある程度の性的経験を持っていることは当然のことかもしれない。
 結婚の話となると構えてしまう。妻が亡くなり、やっとその寂しさに慣れ、独身生活になじんできた。結婚の話となれば親戚中を巻き込んだ儀式の中に、また放り込まれるのかと思うと憂鬱になってくる。それにまだ妻の面影が胸の中にどっかりと居座っている。彼女の姿に妻の面影が重なり合うことがその証拠かもしれない。
 週に一回は迪子と店が終わるのを待って、隣接市に入ったところにあるモーテルに行った。県道から細い道を入った山裾にある白い壁が塗られた部屋数が十ほどしかない平屋建ての建物だった。中は六畳程の部屋に二人が座れる簡易な応接セットとダブルベッドが置かれていた。
 彼女を引き寄せると、せき止められていた一週間分の欲望を一気に吐き出した。暗闇で抱く迪子は妻と何回も錯覚した。
 女の匂いが充満した部屋で、果てたあとの気持ちよい疲労感に包まれていると睡魔に吸い込まれそうになる。添い寝をしている彼女は、すでに暗闇に白く浮き出た身体をベッドの上に投げ出していた。

 ある日迪子は、生理が予定日を過ぎてもないと言った。妊娠したと思うと、私の気持ちは沈んだ。仕事を休んで、ぐずついている彼女を隣町の産婦人科医院に連れて行った。待合室で診察が終わるのを待っている間、新しい生命のことが頭を埋め尽くした。『中絶』という言葉が頭の中で膨張していく。
 妻が初めて出産したときのことを思い出した。妻は結婚後すぐに妊娠した。何もわからないまま、通勤途上で目にしていた産婦人科の開業医院で診察を受け、その医院で出産した。生まれてきた子どもは死産だった。結果に押し流されていたのか、言い訳に聞こえる医師の説明をほとんど受け入れることができなかった。
 新しい生命を絶ってしまった現実に、お互いやるせない気持ちを和らげるために、何軒ものお寺を訪れ嬰児の供養を行った。それからしばらくして、妻は働きだした。近くのスーパーへパートに出ることによって、気を紛らわそうとしている姿が痛々しかった。その妻も、私を残して交通事故であっけなく死んでしまった。
 待合室で妻のことを思いながら、今にも迪子が出て来るであろう診察室のドアに視線を向けていた。
 受付窓口が開いて看護師に呼ばれた。医院には内縁の夫であると伝えていた。診察室に入ると診察を終えた彼女が、丸椅子に座り膝に視線を落としていた。医師から診断結果は単なる月経不順で、妊娠の兆候はないとのことだった。安堵感に浸され、医師の言葉が耳から半分素通りして外へ流れ出た。
 気持ちが落ち着いてくると月経不順を伝えるために、私を診察室に呼び込む必要があるのだろうかと不審が芽生えた。視線を医師に向けていると、総合病院で健康診断を兼ねて精密検査を受けておくべきだと、念を押す言い方をした。医師の真剣な眼差しに迪子の身体に何か異常があるらしいということを感じとった。
「別にどこも痛くないんだから……大丈夫よ」
帰りの車の中で、彼女は精密検査を受けるのを拒否した。
「医者が言っているんだから、検査を受けたほうがいいんじゃないのか」
私は医師の言葉に圧迫感を受けていた。迪子が拒否することが理解できなかった。ひょっとしたら結果を聞くのが怖いのかもしれないと思った。
「自分の身体のことを真剣に考えろよ。まだ人生は長いんだから」
彼女の体調不良に、幾ばくかの原因が私にあるのではないかと思うと、このまま知らん顔を決め込むことはできなかった。
 迪子を隣接市の総合病院に連れて行くと、一日かけて精密検査を受けた。結果を聞くために私と彼女は診察室へ通された。
 部屋の空気がキーンと張り詰め鼓膜に圧迫感を与える。目の前の大きな透写板に腹部を輪切りにした何枚ものレントゲンフイルムが貼られていた。薄くなった頭髪をバックにした五十歳くらいの医師は、眉間に縦皺をつくり、食い入るように見つめてから、ゆっくり振り返った。
「子宮に腫瘍が見られる。若いから進行も早いので、すぐに入院して手術をする必要がある。良性で心配いらないから……」
医師は手に持っていたペンでフイルムを押さえ、迪子に優しく症状を伝えた。一通りの説明が終わると看護師に検査室でもう一度、彼女の採血をするよう指示を出した。診察室を出て行こうとする迪子の潤んだ目が私を捕らえた。
 医師は腫瘍は悪性で子宮の摘出が必要だと告げた。
「先生……助けてやってください」
 口の中が乾き語尾がかすれてしまう。医師は口元を強く閉め自分を納得させるように何回もうなずき、電話で病棟詰め所に空きベッドの確認をしていた。
 母親をひとりにさせるのは心配だからと言って、入院を拒んだ彼女だったが、母親を市内の特別養護老人ホームに短期入所させることで納得した。迪子は三日後に入院することになり、この病院でも私は内縁の夫であることにした。

 迪子はベッドの上で上半身を起こし点滴の針を刺したままの腕で、脂が浮いた髪の毛を梳いている。まだ手術から一週間ほどしか経っていない。
「もう赤ちゃんを産めなくなってしまったわ……」
 弱々しい沈んだ声が静寂な病室の中に吸い込まれ、聞き取りにくい。私は笑顔で明るく振る舞おうとしたが、力強さが失われてしまう。
 目の前の赤味を失った白い顔は、交通事故で病院に運ばれ応急処置の甲斐もなく、霊安室に寝かされていた妻の顔と似ていた。白い顔を見ていると、何らかの結論を出さなければと思うが、なかなか踏ん切りがつかない。
 妻が死んだ頃、与論島の砂浜を一緒に歩いたときのことが、よく夢に出てきた。妻の面影が残る与論島なら何らかの結論が見出せるような気がした。
「退院したら、与論島へ行こうか」
 私は彼女に問いかけた。
 迪子は、手術から二週間後に退院した。
彼女と大阪空港から奄美大島を経由して与論島に向かった。妻と新婚旅行に行った思い出の場所だった。機体が雲の上に出ると、陽光が一筋となって空席の目立つ機内を照らした。迪子は窓から見える白い雲と青い空を黙ったまま見つめている。
 飛行機は雲の中へ潜り、窓の外が真っ白になり何も見えなくなってしまった。雲から抜けると機体は降下し与論空港に着陸しようとしている。窓から青い海の中に浮かぶ緑の島が眼下に見えた。
 閑散とした空港には人の気配が感じられない。空港建物の屋上に『ようこそ与論島へ』の看板が目についた。
飛行機が着陸を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。そのメロディーは私の心を揺り動かした。隣席の迪子も目をつむり聴き入っている。
 結婚前の妻とデートのとき待ち合わせの喫茶店で流れていた曲だった。いつも妻とは日曜日に会うことにしていた。ショッピング街のショーウインドーを見て歩き、疲れると喫茶店に入ってコーヒーを飲み、またぶらぶらとショッピングを楽しみ、たまに映画を見た。夕方に食事をしてから、さよならと言って別れるデートの仕方だった。
 妻はいつもぽつりぽつりとしか口をきかなかったし、私も特に意識して話さなかった。妻はそれでかまわないという感じだった。気が向くとお互いの生活や職場の話をしたが、どれもこれも断片的な話になってしまう。
ほとんど毎週会って街中を歩き回っていた。妻が先に立ち、私がその少し後ろを歩いた。妻の髪型はいつも私の好きなポニーテールで、歩く度に髪が揺れ白く伸びたうなじが、髪の間からリズミカルに顔を出し、退屈させなかった。
妻は私より二つ年下で、市役所の近くにある金物会社に勤めていた。昼休みのときに顔を合わせ、話をするようになった。そしてデートへとすすみ、二年後に結婚した。すぐに妻は妊娠し会社を辞めた。

 冬だというのにまだ強い陽射しと、島を取り囲む真っ青な海がふたりを迎えてくれた。空港は拡張され建物の一部は新しくなっていたが、周囲の景色は八年前を再現させた。海岸の側にあるホテルは白く輝いている。
 少し休んで海辺に出かけた。幅一メートルほどの道の側に赤いハイビスカスの花が所々咲いている。迪子へ視線を向けた。彼女の笑顔は新婚旅行当時の妻と同じだったが、ぎこちない作りものであるような気がした。
「あんたら本土から来たのかい?」
通りすがりの中年の女は足をとめ、声をかけてきた。
私は『本土』という言葉に違和感を抱きながらも、ひと目で地元の人間とわかる黒く焼けた肌と濃い眉の顔に、軽くうなずいた。
「この時期に珍しいね……ハイビスカスも夏だったら、葉が見えないくらい、真っ赤な花が咲き乱れるんだがねえ。今は気温が低いから、あまり咲かないんだよ。夏の海水浴シーズンだと、本土から人が押し寄せて島の人口が二倍にふくれあがるんだが、今は季節はずれで閑散としているよ」
 普段着からして近くの主婦のようだった。
「そちら、奥さんかね?……色が白いねえ」
 女は彼女に視線を向けた。迪子は黒く焼けた顔に向かって軽く頭を下げた。ぶっきらぼうに声をかけてきた女に逞しさを感じた。もしこの女が『子宮摘出』と宣言されたら、悠然と構えた表情でおれるだろうか。そんなことを思った。
 海辺に出ると、一面が真っ青な海、どこまでも続く白い砂浜に緑の蔓性の植物が所々海辺近くまで這って模様を作っている。砂浜に腰を下ろし投げ出した足の近くまで、白い泡を発たせ波が押し寄せてくる。砂浜は亜熱帯林と真っ青な海に囲まれていた。
「もう赤ちゃん産めないのね……」
 水平線に視線を向けたまま、迪子は呟いていた。私は聞こえないふりをした。波の音だけが耳をふさいだ。
「いいのよ……」
「何が?」
「わたし……」
「世の中には子どものいない女性なんて、沢山いるじゃないか」 
 彼女への慰めとして、ありきたりの言葉で口調を強めてしか言えなかった。
一度は親になって、わが子をこの手に抱くことを夢に見てきた。息子とキャッチボールをしてみたいし、娘の晴れ姿を見てみたい。そんなことが、脳裏に浮かんだ。私は頭を振って掻き消そうとした。
東シナ海から駆け抜ける潮風が身体を揺り動かした。あたりは黄昏が訪れ海岸線に沿って植えてあるソテツの隙間から、西の空が朱色に染まり、海面に反射しているのが見える。私たちは立ち上がり来た道を戻った。
 ホテルの部屋の窓を開けても、寒さを感じさせない。南の島に来たという実感を湧きたたせた。夕闇に包まれた海に漁船らしい灯りが点在して見える。
「あの漁船は何を獲っているのだろう?」
 隣で夕闇の風景に目を向けている迪子に声をかけた。潮騒の音が生暖かい潮風と一緒に、窓から部屋の中に吹き込んでくる。
「……海辺を歩きたい」
彼女の声に視線を向けると、窓から流れ込む闇を受けた顔半分が精を失っているように見える。
 海岸へは、点在する外灯の明かりが案内してくれた。ふたりとも靴を脱ぎ、裸足で波打ち際に沿って浜を歩いた。ひんやりした冷たさが足裏から伝わってくる。海岸沿いの道に設置されている外灯の光が、ほのかに足下を照らしている。
 黒い海が潮の香りを漂わせていた。沖の方に点滅する浮標灯が、どうにか空と海の境界を示している。足の指に砂がまつわりつく。潮騒の音に包まれながらゆっくり歩いた。
「ねえ、結婚する気ないの?」
 鼻にかけた声で話しかけてきた。
「うん……」
 気の抜けたような声になってしまう。
「母が聞いてくるの、あなたとのことを……店のお客さんだと言ってあるんだけど……」
 気が沈んだ。
「ねえ、結婚しようか」  
「……結婚となると簡単にはいかないよ。親戚中が関係してくる。それくらいわかるだろう」
「わたしが嫌いなの?」 
「そんなことは言っていない。ひとりでは決められないよ」
「わたしのことなんか……飲み屋の女だと思って、遊び女くらいとしか思っていなかったんでしょう」
 彼女の声が徐々に高くなってきた。
「あまり大きな声を出さない方がいい。こんなところで議論する内容ではない」
 私は強い口調で会話の中断を強要した。

 与論島で迪子の口から結婚という言葉が出たことによって、私は彼女にわずらわしさを感じ、旅行から帰ってから一ヶ月近く『みゆき』に飲みに行かなかった。
 迪子は職場に電話をかけてきた。
「会ってほしいの……」
 哀れさが漂うさびしい声だった。このまま彼女を避けていたとしても、何も解決しないことはわかっていた。
 迪子の指定した北町公園には、一本の大きな楠の木があり、淡い緑色の葉が冬の弱い陽射しをさえぎっていた。その日蔭に立っていると、彼女が視線を向けたまま近づいてきた。
 私が声をかけようとすると、
「わたしを捨てる気!」
目に涙を浮かべていた。迪子はここに来るまでに泣いていたのだ。気がおさまるのを、ただじっとまつしかなかった。彼女の気持ちが尋常でないことを悟り、どう声をかけていいのやら迷った。
「どうして、店にきてくれなかったのよう。お客さんから付き合えと、しつこく迫られたんだから、そんな日は必死で帰ったんだから、帰り道に待ち伏せされたこともあるのよ。怖かった」
迪子の濡れた目は訴えていた。黒がかった地味な服装と化粧されていない顔は、十歳以上も年上の老女であるように見えた。
 彼女には母親の世話という使命をおびている。スナックのママさんから、彼女が母親を抱えて経済的に困っていることは聞かされていた。
 深い関係になり、迪子が結婚という言葉を口にしたときから、母親の存在が気になりだした。泣き喚く彼女の姿を見ていると、何らかの策がなければ結果を出すことはできないだろうと思った。
(お金で解決するしかないか……簡単にお金を受け取るまい……母親を巻き込むか……お金さえ受け取れば……)そんなことを考えてみた。
「……お母さん寝ているんだろう。見舞いに行こうか」
 老顔に刺激され胸の奥にしまい込んでいたものが、流れ出てしまったという感じだった。
 彼女は驚いた顔をし首を強く横に振った。今まで迪子の家に立ち寄ったことはなかった。入院や旅行をしたときは、直接老人ホームの職員が母親を迎えに来て短期入所させていた。家の位置は職場にある住宅地図で調べてわかっている。
「次の日曜日に行く」と強い口調で言った。日曜日は店が休日である。別に彼女の了解を取ろうとは思わない。困惑した迪子の表情から、先ほどまでの、きつく睨み付けていた視線は影を潜めていた。

 北町二丁目の表通りから路地を少し入ったところに新しい住宅に両方から挟まれて、迪子の家は建っていた。彼女は家の前で待っていた。苦笑した顔で古びた家を指した。
「これがわたしの家なの、ひどいから驚いたでしょう」
 家は古く屋根の瓦はひび割れしており、庭らしきところに茂っている木々の葉は伸び、ここ数年は手入れがされていない様子だった。
 家に行くことを拒んだ理由が、母親のことだけでなく、家のことも含まれていたことに気づいた。
 ガラス障子を開け玄関に入ると家の中は薄暗く、土間は湿気を帯びており、靴がめり込みそうな感触が足の裏から伝わってくる。夜でもないのに電灯をつけた畳の部屋に案内された。部屋の隅には古びた箪笥が置かれている。
 薄黒くなった襖が半分ほど開けてある。母親は普段寝ているらしいが、今日、私が来ることを迪子から聞かされていたのか、隣の薄暗い部屋に敷かれた布団の上に、両肩まで白髪を垂らし寝巻き姿で座っていた。
 一瞬、私は後ずさりをした。気を取りなおして軽く会釈をすると、母親は麻痺している左半分の顔を右手の掌で隠すようにして頭を下げたが、歪んだ顔半分を窺うことができた。前屈みになったとき、胸元が緩み肋骨が浮き出た胸を見せつけられた。深い皺が刻み込まれた青白い顔から放たれる視線に生気を感じない。薄暗い部屋の中で異様な雰囲気をかもし出している。
 私は見舞品である形ばかりの菓子箱を迪子に渡した。母親に声をかけようと思ったがやめた。どう言えばいいのか……。
「横になっている方が楽らしいの、閉めるわね」
 隣にいた迪子は、そう言って薄黒い襖を閉めてしまった。部屋の真中にある卓袱台には、私の好きなにぎり寿司が置いてある。彼女と遊びに行ったとき、ドライブインで私が食べていたのを覚えていたのであろう。迪子は向かいに座り、コップにお茶を入れた。
「何もないけど食べて」
 外の明かりがほとんど入らない陰気な部屋で、食事をする気にはなれない。にぎり寿司をひとつだけ口の中にいれて箸を置いた。私は少しためらったが、胸の内ポケットからあらかじめ用意しておいた、お金の入った封筒を卓袱台に置いた。
「これでお母さんに美味しいものでも食べさせてあげろよ……」
 声が詰まり、語尾が揺れた。
「……そんなこと……」
 迪子はそこまで言いかけて口を閉じた。
 この家に来た理由は察しているはずである。母親が隣の部屋で耳をすまして聞いているだろう。
 彼女の目からは涙があふれ出て頬を伝った。肩をふるわせ右手で口のあたりを押さえ下を向いている。声をたてないようにこらえているが、低いしゃくる泣き声が聞こえる。涙が畳に落ちて染み込んだ。外で会う迪子とは違っていた。
「帰る……元気でな」
 感情を抑え冷たく言った。
 私は立ち上り部屋を出て行こうとして、軽く振り返り彼女の姿を追った。迪子は立ち上がる様子もなく、座ったまま肩をふるわせていた。
以後彼女から連絡はなかったし、私も店に行かなかった。

 迪子と別れて五年が経ってからの、突然の電話に驚いた。私は福祉事務所の保護係長に異動していた。用件は「会ってほしい」と言ってきた。
 断ると、「職場や世間に、もてあそんで捨てたことを言いつけてやる」と開き直った捨てせりふに鼓動が高鳴った。
 職務と直接関係ない過去を職場に知られたからといっても、そんなに動揺はしないが、世間に風評が立てば福祉事務所に勤める者として、市民から批判を受けることは明らかだった。
迪子のことを調べてみると、寝たきりになった母親の看病をするために店を辞めていた。収入といえば母親の老齢年金だけである。その年金額も生活保護法による二人世帯の最低生活基準に満たないものだった。生活保護の申請があれば、生活扶助費が支給できる経済状態である。
次の日も迪子から電話があった。
「用件は……」
私は低い声で探るように声をかけた。
「藤沢さん、いい加減にしなさいよ。会うの、会わないの、どうなの?」
受話器から甲高い声が勢いよく飛び出してくる。興奮しているのがわかる。周りの部下たちが聞き耳を立てている気がした。
 余分なことは喋れない。会いたいと言った彼女には、それなりの理由があるのだろうが、もう過去には戻りたくない。
「どうして逃げるのよ。会ってはっきり謝りなさい。そうでしょう。あなたが悪いんだから……」
迪子はなおも甲高い声で一方的に迫ってくる。電話を切ったところで何回もかけてくるだろう。彼女に怒鳴り返してやろうかと思うが、部下たちにそんな上司の姿を見せたくない。
「福祉事務所で話を聞こう!」
 それだけ言って、相手の返事を聞かずに受話器を置いた。
 福祉事務所で会うことは、ワーカーとクライエント、援助者と被援助者とに色分けをしてしまう。迪子の出方によっては、じっくり時間をかけて対応するしかない。できることなら生活保護の適用について話し合ってみようと思った。彼女だって母親を抱えている。無茶をするわけにはいかないはずである。
 一週間経っても迪子は現れなかった。生活保護は本人からの申請に基づいて審査を行い適用している。彼女からの申請がない以上は、こちらから家に出向いて面接する気にはなれない。
 迪子はスナックへ勤めていた関係で知り合い客は多い。福祉事務所に来れば、だれかに声をかけられる可能性はある。昼間、自分の素顔を店の客に見られるのを嫌っていた。
以降、迪子から電話もかけてこなかったし、姿を見ることもなかった。緊張していた私の神経は、日が過ぎるにしたがって和らいでいった。

福祉事務所の入り口に、係長の姿が見えた。
「課長、近所の人に聞いてみましたが、以前は母親も一緒に住んでいたそうですが、亡くなっていました。神戸市の市営住宅に住む母親の妹である叔母と連絡がつきましたが、一人住まいの年金暮らしで経済的に苦しいらしく、遺体の引き取りはできないそうです。身寄りもないらしく、それに納骨する墓も、知り合いの寺もないそうです。どうしましょう?」
係長は私の机の前に立って、困惑した表情を浮かべた。
「母親の遺骨はどうしてる?」
「家の仏壇に置いたままです」
面長で目が細く微笑んでいる顔と、白髪で青白い生気を失ったふたつの顔が、私の脳裏に映し出された。
「そうか……無理を言うようだが寺院に頼んで、お経をあげてやってくれないか。それに遺骨は母親のと一緒に無縁墓地に入れてやろう……」
 私は自分自身に言い聞かすように言った。

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