タクシーは急な斜面をバックでくだって行った。
近距離が面白くなかったのか、運転手は駅前の乗り場から一言も口を開かず、真砂子が金山の四辻という行き先を告げた五分後に車を着けたのだ。
そこは新興住宅と旧の村との合流する辻でアスファルトと石畳が一線を引いて分かれている。石畳の登りに足を進めると、生垣の大きな家がすぐにあるからと聞いていた。
上の家々は、斜面を削って平らにした土地にしがみつくように建てられている。人影がみえたので近づいてみると、庭と畑の中間のような場所でゴム手袋のおばあさんがしゃがんでいた。
真砂子が尋ねるとおばあさんは立ち上がって二、三歩道にでた。指が真下を指している。四辻を要に扇状の広い敷地が見えた。近すぎて通りすぎていたのだ。真砂子はおばあさんに礼をいうと坂をおりた。
四辻まで戻ると、石畳から三歩のところに門があった。生垣の木が高くて門が奥まっているので表札が判りづらくなっている。チャイムを押して待っていると、すぐに女の人がでてきた。分厚いレンズの眼鏡の顔で、真砂子の匂いを嗅ぐように確かめると家のなかに通してくれた。
グレーの手編み風のカーディガンに白い前掛けの人は加代子と名乗った。五十年ここで働いているという。加代子は驚くほど低姿勢で真砂子に接してくる。お茶はだすし、お饅頭をもっと食べろと言ってくれる。その間も加代子は真砂子のいる部屋を出たり入ったりひっきりなしに動いていた。
真砂子は自分の雇い主が来るのを待っていた。今日から住み込みの家政婦をするのだが、このくらいの屋敷にふたりも家政婦を雇う必要があるのだろうかと訝しく思う。
玄関から屋敷を半周ほどしたところの座敷に案内されたのだが、とにかく物の多い家だということは分かった。障子の開いた部屋々々には家具調度をはじめ、置物、本や包装紙のかかったままの贈答品、廊下の端には流木の磨きをかけたものから水盤や花瓶が並べられてあった。
ざっと数えても五、六部屋以上はあったが、加代子以外の人は見なかった。人は見ないのだが、気配は強く感じる。鴨居のうえに誰だか分からない肖像写真が額に入って三つある。ひとつは軍服に勲章の男の人で、もうひとつはドレスの女の人が対になっている。残りのひとつはお葬式で使った遺影のようだった。坊主頭のおじいさんの写真でかなりピンぼけのものだ。
隣りの部屋からかさっという音がした。つづいてざざっと襖の縁を掻く音、本かなにかが放り投げられ落ちた音が間断なく続く。真砂子は立ち上がって襖を開けた。ぼすっと何かが部屋の隅に置いてあるダンボールの中に入る音がした。
部屋を見回したが誰も見当らない。気配は感じる。すると、平積みにされた全集本の間から市松人形のような頭が動いた。それが膝立ちになると小学生くらいの女の子が現れた。
「こんにちは。そこで何をしてるの」
子供に話しかける、ゆったりした口調で尋ねた。
「猫が悪戯してたから」
すっくと立ち上がり、両手を前で結んではにかんで言う。思ったより背が高い。声も低かった。真砂子の中で女の子は一瞬にして中学生になった。
足元を温いものが当たった。見れば茶トラの子猫が擦り寄っている。少女と話していたので安心してでてきたのだろう。
少女は掬い獲るように子猫を抱き上げた。肌色の小さな掌球を目一杯広げて子猫は少女の胸の中で暴れている。左右に揺れる腕や猫の納まっている胸をまぢかでみると、少女の身体はさらに成熟していることに気づく。
「お嬢さんお幾つ」
幼いまでの無邪気さと身体のアンバランスがどうしても分からなかった。
「十九です」
子猫を下に置きながら言った。真直ぐのびた黒髪からシャンプーの残り香が漂ってくる。
舌足らずな話し方、化粧気のない顔は透きとおるように白い。やはりどう見ても中学生くらいにしか見えないと思った。
子猫はあれほど嫌がっていたのに逃げもせず、ふたりの足の間で身体を舐めて毛づくろいをしている。見ていると、びたりと動きが止まった。
廊下を歩く音が近づいてきた。
「あれ、香里さんそこにいたの。おばさん探してたんだよ。この人が昨日言ってた住み込みの家政婦さん。真砂子さんです」
加代子はそう言うと真砂子と香里の間に立って、ふたりの手を握らせた。
奇妙なことをさせられて落ちつかず、体を引こうとしたとき、香里の手に力がこもった。香里の柔らかい手の感触がひたひたと心臓にまで伝わっていく。軽いしびれが波になって体全体に広がっていった。急にこの子をいとしいと感じた。香里の目をみて、この子も何か感じていると思った。
「香里さん、茶々をつれて散歩に行ってらっしゃいな」
加代子はそういうと真砂子をもといた座敷に連れ戻した。
座敷に向かい合って座っていると、香里が茶々に散歩用の紐をつけて廊下を歩いて行った。茶々はまるで子犬のように香里の少し前をとことこと歩いている。
「さてお待たせしました。香里さんとも顔合わせが済みましたし、あとは奥様ですが、今日はお会いになりません。奥様は八十二歳でいらして頭はしゃっきりなさってますが、足腰が悪くて寝たきりなのです。車椅子は使えますが長く座ると腰が痛くなるので食事とトイレくらいしかのりませんの」
話を続けながら分厚いファイルをテーブルに置いた。手書きの覚書のような紙が綴じつけられており、用紙は広告の裏を使ってあった。
もう目が悪くなってといい、眼鏡を取り替えた。
「わたしも七十五になりますもんで、庭の仕事はきつくなりました。それに、奥様に付き添ってなければなりませんので、買い物もお願いしなければなりません。ということで、真砂子さんには奥様のこと以外のすべてをお任せするようになります。いちいち説明するとたいへんなのでこの帳面をみてやってくださいな」
加代子は一字も読まず、また眼鏡を付け替えた。
「香里さんですけども、二十歳になるのかな、けど、まるで中学生のようでしょ。奥様の娘さんの子供なんですよ」
話を終え立とうとしていた。
「あのう、このファイルは読みますが、とりあえず今から何をすればよいか教えてください」
浮かした腰をもう一度おろして、
「今から真砂子さんの部屋に案内しますので、荷物をほどいてください。今日は何もしなくて構いません。ただ、今日から香里さんと一緒に食事をしてくださいな」
香里と一緒にという言葉が真砂子を嬉しくさせた。
真砂子にあてがわれた部屋は裏鬼門にあたる場所だった。真砂子にその知識があったのではなく、加代子がそう言ったからだ。しかし、そこは家政婦にあてがうには不似合いなほど広かった。骨董のような茶箪笥と整理箪笥があり、壁に組み込み式の大きな仏壇のある部屋だった。十畳はあるだろうか。加代子が出て行きがけに、仏壇は使ってないので気にしないでと言い残した。
真砂子はひとりきりになって、改めて途方にくれる。近い過去でもあまり記憶がないのだ。事故の後遺症だといわれていたが、気持ちのいいものではない。白と橙のカプセルが真砂子の常備薬である。その薬を飲むと決まって記憶が遠のく。ここがどこで何をしているのか考えることしきりであった。
加代子に荷物を解くようにといわれたが、真砂子の鞄には着替えすら入ってなかった。家政婦協会から面接にいくようにとここに来たのではなかったのかしらと背筋に汗をかく。だが、香里と出会ってしまったあとで、この家との雇用関係がなくなると思うと耐えがたい寂しさが込み上げてきた。幸い、加代子も気づいてないようだし、真砂子はこのままこの家に住みこむことに決めた。
夕食は昼間の座敷だった。香里は真砂子といっしょだときいて大喜びした。相変わらず子猫の茶々は部屋の中を休むことなく飛び回っている。
「明日からわたしがお食事を作りますが、嫌いなものはありますか」
ファイルの食事のページには、基本的にメニューは自由に決めてよいが、残さず食べるものをと書いてあった。
「お酢が嫌い」
香里は小芋を箸で突き刺しながら答えた。真砂子もお酢の物は苦手だったので好都合だ。
「わたしね、猫だったの」
箸を置いて言った。
聞き違いをしたのだと思い、
「猫がどうしたの」と聞き返した。
「わたし、六十歳まで生きた猫なの。それで長生きしたから人間になったの」
からかう風ではなく、真面目な顔で言っている。
だから少し変わってるんだと真砂子は納得がいった。
「でも歯はどうしたの。普通は抜けてなくなるものだけど」
調子をあわせるような質問をする。
「大事にしてたから」
にっと笑って上下の白い歯を見せた。心なしか歯の先が尖ってみえる。
「天国の道があるから教えてあげる」
食の細い子だった。食べ終えるとそういい残し、自分の部屋に帰って行った。
その夜、子猫の茶々は真砂子の布団の上で眠った。遅くまでファイルを読んでいて、その明かりが気になったのだろう。猫は夜行性だから、付き合ってくれたのかもしれない。
庭のページのところが一番仕事が多そうだった。もうすぐつつじや藤が花をつけるので庭は華やかになるとある。水遣りはもちろんのこと、季節ごとの肥料のやり方もかかれている。また、雑草が茂っているようなところにも、蕗やさつま芋などを植えているらしい。それと、藤棚が満開になると花見のお客が大勢くるらしく、去年の来客リストが添付されていて、客の土産の評価がつけられているのだ。大抵は饅頭だが、小嶋屋とか鶴屋八幡などと詳しく書かれていた。これもまた、真砂子の仕事になるのだろうかなどと考えた。
朝、茶々に起こされた。耳たぶを細い牙で噛んでいる。障子越しの朝日はすっかり高くなっているようだが、家の中はしんと静まり返っていた。
廊下を走って台所まで行ったが、昨夜の片付けのまま洗いおけひとつ動いてなかった。平屋の屋敷は複雑に廊下が繋がっており、渡り廊下ふうの縁側を越えると離れに行けることがわかった。この家の主も加代子もそちらにいると思われる。渡ろうか躊躇していると、後ろから香里の声がした。
「加代子さんはお参りにいってるよ。それと、おばあさんはそっちに行ったら怒るから」
白い木綿のワンピースを着た香里が戻るように手招きした。
「お参りって、どこに」
真砂子は足を忍ばせて香里のところまで戻った。
「坂の下の春日神社。むかしはお寺だったんだって。加代子さんは神様を拝みに行ってるよ」
ファイルの買い物のページで酒屋の場所が地図に書いてあったが、確かその隣りが春日神社だった。その近くに昔ながらの何でも屋もあるらしい。下見を兼ねて、きょうはまず、その辺を歩いてみようと思った。
真砂子は冷蔵庫を覗いた。炊飯器はすでに炊きたてのご飯ができている。冷凍室には食パンもあったので、香里の好きなほうを作ってやろうとたずねた。ご飯がいいと言う。雪平鍋に水を入れ鰹の出汁をとり、乾燥ワカメをもどし、豆腐を細かく切って味噌汁の具にした。それから卵を三つ使って卵焼きを作った。彩りに葱を刻んで混ぜ、砂糖を加えて甘い卵焼きにした。ししゃものパックが冷凍庫にあったので四尾焼き、真砂子の分とで二人分用意して食事の部屋に運んだ。
卵焼きをみて香里は、やったあと声をあげた。今朝の食欲は昨夜とは別人のように旺盛だった。ご飯と味噌汁をおかわりしてくれた。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかった」
食事のあいだも美味しいを連発してくれ、食べ終わってもその賛辞は続いた。
「お腹のなかでも美味しい美味しいって言ってる」
香里のお腹を撫でおろす仕草をみているうちに、涙が込み上げてきた。あり合せの料理にこんなに感動するということは、それまでどんな食事を摂らされてたのだろうか。加代子は優しげに見えたが、文句も言えぬ香里にひどい仕打ちをしてきたのではないのかと疑いが頭をもたげた。その思念が香里に聞こえたかのように、
「加代子さんはお料理が下手なの。卵焼きもすごく塩辛いの。それであまり食べられなかったの」
それには思いあたる節があった。お茶の次にだしてくれたカルピスの味がありえない程濃いかった。飲むことが出来ず、舐めるように啜っていたが結局ほとんど残した。
料理を作る喜びを久しぶりに思い出した気がした。いつが最後だったのか考えたが出てこなかった。
葉のついた枝を持って加代子が部屋に入ってきた。
「おはようございます。香里さんの朝食してくれたんですね。わたしは片山のほうに登ってしきびを採っていました。仏様の御花に使うのを」
立ったまま話し、またすぐ部屋を出て行った。腰は少し曲がっているが、染めているのか髪は真っ黒だし顔の皺もあまりない、七十五歳というのが嘘のようである。
加代子の足音が聞こえなくなると、香里が膝でにじり寄ってきて耳元で囁く。
「飼い殺しなんだって」
「何を……」
「おばあさんが言ってたの。加代子さんを飼い殺すって。どういう意味」
聞き覚えがある言葉だ。そして、なぜかすっと思い出せた。ずっと昔、真砂子の母もこの言葉を使ったことがあったのだ。
母は、もし自分が生涯独身だったら、赤の他人のおばあさんを家政婦に雇って、その人が死ぬまで面倒をみるのだと言った。飼い殺しはそういう意味だと教えられた。だが、久しぶりに聞くとずい分ひどい言葉に思えた。加代子さんが聞いたら、いい気はしないだろう。
「意味はね。加代子さんがここでずっと住むっていうことよ」
香里は答えを聞いても無反応だった。返事を待っていたわけではなかったようだ。今は茶々に紐をかけ散歩に出かける準備をしている。
「香里さん、昨日言ってた天国の道にいつ連れてってくれる」
指を折って考えながら、
「あさって」ときっぱり言う。香里にも予定があるのだろうか。
「今日は大黒さんちにつれてってあげるから」と続けた。
香里について庭にでるとツツジも藤も満開になっている。葉に水滴が残っているところをみると加代子が水遣りをしてくれた後のようだ。初日から寝坊では主に会わないうちに首にされてしまう。
ツツジは花が終ったら摘んでいくようにと書かれてあった。なだらかな斜面に沿って何十株ものツツジが白やピンクの花を咲かせている。早咲きの分は茶色に変色し始めており、がくだけを残し摘み取られているのもあった。桜の大きな木が緑の葉をみっしりつけていた。こぶしにもみじ、柿の木と無造作に植えてあり野趣あふれる山の庭といったところだ。
香里は藤棚の下のベンチに腰掛けて何かぶつぶつ言っている。藤棚は手をかけており、竹で編んだ棚が清々しい。下をコンクリートにして安定もよくガーデンテーブルが置けそうだった。
近寄っていくと白黒の猫がいた。よく見ると十匹くらいはいるだろうか、葉陰から次々違う模様の猫が出入りし、あたりは猫だらけだった。香里が六十年生きた猫であっても不思議はない光景だ。
「どうしてこんなに猫がいるの」
「山に捨てられるの。ほんとは春日神社に捨てられるんだけど、ここまであがってきて住みつくの」
「香里さんがいるからかなあ」
「そうだけど内緒。大黒のおじいさんが餌をあげてるの。わたしがお願いしたから」
ご近所とも顔見知りになっておかねばならないと思った。
柿の木ともみじの間から新興住宅街が一望できる。大きなすり鉢状の土地になっていて、ドミノを並べたような家の屋根はどこも同じ橙色をしている。そこは上とは異なりアスファルトに舗装された道に木は一本も植わっていない。玄関先で園芸をしている家はたくさんあったが、プランターに土を入れたどこにでもあるものだ。
「あっちは沼だったの」
香里が肩を並べてきた。真横から顔をみる。どこかで見たことのあるような懐かしい思いがした。足元の土がくずれて香里がバランスを崩した。とっさに体を抱きすくめたのだが、想像以上に重い。土のはいった袋を持ち上げているようだった。
ふたりで藤棚のベンチに座った。藤の花にクマ蜂が集まっている。
「おばあさんと加代子さんだけなの、ここに住んでる人は」
「ちょっとまえはおじいさんもいた。大下先生」
「大下先生って」
「おじいさんのこと。大学の先生だから」
真砂子は少し立ち入ったこと聞こうと思った。
「香里さんのお母さんやお父さんはどうしたの」
すると飽きれるように、
「昨日言ったでしょ」と言われた。
猫なのだ。
香里は変わってる。しかし、真砂子も人のことはいえない。自分がどうしてきたのか覚えていないし、家族がいるかいないかも分からないのだ。そして安田という男が真砂子を探しあててくる理由もわからない。わかっているのは、その名を名乗る男がきたら逃げるように居場所をかえているということだけだ。
香里を庭に残して買い物にでた。加代子が台所で煮炊きものをしていたが、真っ黒な汁の中に大根を投げ込む様を見て朝の話が嘘ではないように思えた。遠慮がちに奥様にはいつお会いできますかと尋ねたが、そうだねと言ったきり返事がなかった。
ここの坂はとても急でつっかけでは滑って危なかった。下から来る人は膝に手をあてて辛そうに歩いている。自転車の人も押して歩いている。二百メートルほど下ると春日神社のあるT字路に突当たる。右に行くと酒屋があり、酒屋の自宅の庭には杉の木の皮を剥いだ鯉のぼりの竿が立てられてあった。店には三十代の主人がおり、鯉のぼりは主人の子供のものなのだと思った。身なりは野良着でさっきまで畑仕事をしていたのか鋤が置いてある。何代もこの土地に住む人たちはほとんど田畑を持っているようだ。改修を繰り返しているような家が多く、全体に金持ちなのだろう。主人は真砂子を見て会釈をした。真砂子も会釈を返す。大下家の家政婦を名乗ろうかと思案していたら奥に行ってしまった。
酒屋をでて左に歩いていった。左右どちらに行っても下り坂は続いており、行こうとしている方は新興住宅街の入り口にあたる。店舗住宅でヤマザキパンの看板がかかっている。前までくると、台をこしらえてじゃが芋や玉葱をザルに盛って売っていた。狭い入り口をはいるとパンのワゴン、ハムやちくわを陳列する冷蔵のラック、一番奥にマグロの塊が入った冷蔵庫が置かれてある。狭い店内に次々客が入ってくる。品数は少ないのに品選びが良いのか客のかごにはどんどん商品がいれられた。
店は夫婦で切り盛りしているらしく、二人の間には余分な会話は交わされない。真砂子の目を引いたのは主人と同じ位背の高いおかみさんだった。バレーボールの選手並みの長い手足をしていた。短い時間に観察した結果は、波長の合う店だということだった。余分な愛想がないのが良い。マグロの塊が売れて次々と柵に切られていく。出直していたら売切れると思い真砂子は最初の買い物をした。白いビニール袋を手首に掛けて店を出たところで加代子たちの分を計算に入れてないことに気づいた。しかし、家主に目通りも叶っていないのに勝手におかずを買ってはいけないようにも思った。必要ならまた出直せばいいのだ。
帰り道はあえて新興住宅街を通った。香里が言ったように沼を埋めて出来た土地なのだろうか。アイスクリームをスプーンで抉ったような楕円の窪地になっている。造成から分譲まで一気にしたとみえて、上から見たときと同じく似通った建築の家ばかりだった。
この辺り一帯がぶどうの産地らしい。国道沿いには無人のぶどう直売所が点在しているのをタクシーの中からみたが、ここに来て畑らしきものをみていない。どこかにあるはずだと山の上を見上げた。すり鉢の縁になるところに大下邸がある。昨日、間違って上がっていった道以外に庭のほうから出られる小道がみえた。本道とは一段さがってあり、その斜面は断層のように切り立っている。そこに数本の杉が植わっていて道に目隠しを施したようになっていた。さらに山上に目を移すと、ぶどうの棚がみえたが、畑とはとてもいえるものではない。その横に朽ちた小屋があり、人の動くのがぼんやりとわかる。
真砂子は杉の葉を目印に住宅街の道をぬって歩いた。大下邸の真下までくると、小道に繋がる手作りの階段があった。住宅街の終点になるU字溝を跨いでしっとりと湿った土に足をのせる。右手に広い休閑地があり樹高十メートルはあろう高木が主のように一本だけ屹立していた。羽形の小さな葉のわきから淡紫色の花房をつけている。真砂子には木の名前が分からなかったが、気になる木だった。
階段を登りきると杉の木立の正面にでた。そしてそこには庭箒を担いだ香里がいた。
「何してるの」
上を睨みつけている香里に言った。
「茶々の復讐してる」
見あげると大きな白黒の斑猫と目が合った。香里の話では、この辺りのボス猫で茶々をみるといつもいじめるのだそうだ。だから香里が箒で叩いて懲らしめてやるのだと。
かさこそとビニール袋を擦り合わせる音がした。手にぶら下げていたマグロをみると、茶々が底を破って齧っているところだった。こらっと引き上げて中身を確かめると養生紙の上から歯型をつけられただけだった。茶々に悪さをしているという気はなく、細く鋭い爪で真砂子の体をよじ登ってくる。香里はまだ斑猫と対峙したままで、こちらに気づいていない。見られなかったら平気かと歯型の部分だけちぎって茶々に与えた。
その途端、木の上の斑猫が動いた。猛然と下向きにおりてくる。箒を振り上げた香里の頭上で一気に飛び降り、迂回して茶々のマグロめがけ走ってきた。あっと香里が小さい声を出す。マグロを見られた。だが、言い訳するまもなく、茶々はマグロをくわえて威嚇の声をあげた。堂々として迫力のある姿だった。いつも追いかけられている茶々が反撃している様をみて、香里は大いに喜んだ。
さらに、念願の一撃を斑猫のお尻に僅かだがかすめることができ満足げだった。
「買い物がてらこの辺を探検して……」
そう言いかけて、香里の後ろに二階建てのハイツがあるのに気づいた。覚えのある建物だった。頑強そうなコンクリートの矩形を山土の中に埋め込んだだけの簡潔な造りだ。部屋は六戸で二階部分は各戸ごとに専用の階段がついている。間取りがどうなっているのか分かる気がした。昔このようなところに住んでいたように思うのだが、いつ、誰と住んでいたのかという記憶は戻ってこなかった。
鶯が鳴いた。頭のすぐ上のようだ。ここでは時計が止まったように感じる。香里も猫も真砂子もこの時空に組み込まれた景色のようなもので正負いずれの感情も肉体から削ぎ落とされ、一刻一刻、何かが溶かされていく。真砂子は心地よさと焦燥感を同時に味わっていた。気がかりなことがあるのにそれを忘れてしまっている時の気分だ。
「大黒さんのところに連れてってくれる」
朝の約束を思い出して言う。
「おじいさんもうすぐ帰るの。血のおしっこが出るから病院で手術するんだって。でも、おじいさん、手術したら死んでしまうの」
穏やかでないことを口にした。そこに鍬を担いだ老人がおりてきた。痩せた体に地下足袋を履いている。
鶯がまた鳴いた。
「鶯が鳴いてますね」
真砂子は大黒のおじいさんに向かって言った。老人は真砂子に無表情の顔を向けただけで行ってしまう。聞こえなかったのだろうか、それとも無愛想なのだろうか。手術で死ぬのなら死んだらいいと腹の中で思った。
香里と老人は完全に無視しあっていた。真砂子がこの老人を大黒のおじいさんと勘違いしていたかと思っているとき、
「大黒じいさんが小屋に行っていいって」と、唐突に言った。
香里が歩きだすと茶々が従った。すると、ハイツの階段や杉の木立から数匹の猫がわっと飛び出してきて、一列に香里の後に続く。昔読んだ童話のハーメルンの笛吹きを思い起こさせた。
ブドウ畑のわきの小道には午後の日光がたっぷり注がれており、初夏の湿気のない空気と相まった風がそよいでいた。中程で香里がしゃがみ込んだ。真砂子を待ち受けるためである。すると、後に続いていた猫たちが体を土に擦りつけたりしながら同じように体を横たえた。
気がつくと、香里の場所に真砂子がいる。大黒老人の小屋に近づくと板で囲った四角い溜池があった。二トントラックの荷台くらいの大きさで黒い小魚が泳いでいる。
次の瞬間、猫たちが一斉に池に飛び込んだ。カワウソのように敏捷に泳ぐ猫。魚を獲っている。完全に頭を水の中に浸けて潜っているのだ。薄茶の大きなトラ猫が八の字を描いて潜っている姿を凝視していたら、がばっと、その顔を水面にだした。人間の顔になっていた。
顔に冷たい濡れたものがさわった。真砂子が目を開けると子猫の茶々が頭の上を行ったり来たりして遊んでいる。布団の中で真砂子は混乱していた。大黒老人のところで猫たちが泳いでいたのを見ていたのではなかったか。だが、朝だった。屋敷はやはり静まりかえっている。台所に行ってみたが、そこは昨日の朝と同じだった。昨日……、今日なのか、わからない。香里か加代子に聞かなければ。
しばらく台所に立っていると、少しずつ違っていることが分かってきた。洗い桶の伏せている場所だったり布巾の干し方だ。冷蔵庫をあけるとそれは歴然となった。卵のパックが買い足してあった。さっそく香里を喜ばそうと特大の卵焼きを作った。ウインナーにじゃがいもの粉ふき、味噌汁の朝食が用意できた。香里を呼びに行こうと思ったが部屋を知らない。この家の人間は真砂子の視野からはずれると壁の中に吸い込まれたみたいに気配を消してしまう。
『香里』と強く念じてみる。茶々が足に擦り寄ってきた。にわか祈祷師に落ちがついたようで真砂子は笑った。
「何を笑ってるの」
香里が傍にいて言う。
「うわぁ、びっくりした」
胸に手を当てて流しに寄りかかった。香里は髪を三つ編みにしていた。水色の清楚な木綿のワンピースが良く似合っている。
「卵焼きだ。うれしい」
香里がとび跳ねる。
食事をする座敷に朝食を運び膳の前に座ると、香里は箸を高く上げてから卵焼きにつきさした。黙々と箸を動かす香里の膝で茶々が時折り、くの字に曲げた手を伸ばした。
「ねえ香里さん、昨日……」
と、言いかけたとき加代子が部屋の前を通りかかった。
「おはようございます。香里さんの朝食してくれたんですね。わたしは片山のほうに登ってきました」
加代子はずれた眼鏡を上げながら言った。額にもうっすら汗が滲んでいる。
手には仏様の御花に使うしきびを持っていた。今日のしきびには白い小さな花がついていた。加代子に迂闊なことを聞かれて不審に思われては立場が危うくなる。そう思って言葉を飲み込んだ。
部屋に戻って加代子に渡されたファイルを読み始めた。庭仕事のところは昨日読んだ通りだった。順にめくっていくと、後ろの方に加代子の落書きのような乱れた筆跡のページが出てきた。家系図のような図式があり何代もさかのぼってある。この屋敷もその昔は大勢が住み、活気に溢れていた頃があったのだろうと想像した。もしかしたら、加代子はこの家の誰かと恋に落ちたなんていうロマンチックな話があるのではと、ひとりにんまりした。
背中に気配を感じて振り向いた。何もなかった。ただ仏壇が扉を固く閉じて静まりかえっているだけだ。使わなくなった仏壇というのもおかしな話だと思った。宗旨がえをして仏壇を買い改めたのなら筋が通るかもしれないが、前のものをそのままにしておくのは縁起のよいものではないはずだ。人様の事情に口を挟む筋合いはないのだが、そこで寝起きさせられるのだから少しぐらい意見を持っても許されるだろう。もちろん陳情する気などないが。
まだなにか出てきはしないかと、ファイルをめくってみた。「せきしゅんふ」とひらがなで題された日記とおぼしきページがでてきた。真砂子は悩んだが読まずに閉じた。加代子の私的なことを覗いてはいけないと思ってではなく、もう少し答えを知らずに推理を楽しみたいぐらいの感覚だ。明日か明後日には読むだろうと思う。さらにページをめくると一面に付箋紙を貼ったページがでてきた。付箋紙本来の用途ではなく、そこに保管してあるのだ。白紙のページに隙間なく貼られた付箋紙はファイルの外にはみ出さず収まっている。
真砂子はそれを一枚剥いで仏壇の縁に貼り付けた。これで日にちを確認すればいいと思いついたのだ。黄色い付箋紙によって真砂子はこの屋敷に自分も存在するんだという実感をはじめてもてたような気がした。
「天国の道にいきましょ」
香里が立っていた。クリーム色の木綿のワンピースに着替えている。茶々は目ざとく仏壇の付箋紙に気づき後ろ足で立ち上がって触ろうとしている。
「明日じゃなかったの。昨日そう言ったから」
茶々を抱き上げながら付箋紙の位置を高いところに移した。
香里はゆっくりと首をかしげて大きな目を二度閉じた。
どうせもう一日たったのだろう。真砂子は気にしないと腹に決めた。
天国の道はこの山にあるらしく、香里は四辻の石畳の坂を登っている。素足にスニーカーを履いた香里の足首を見ていて思った。この子は間違いなく子どもだ。足首のぽってりとした肉付きは成熟していないことの証といえる。
人家が途絶えると坂はさらに急になった。茶々は木の幹に飛びついたり、虫を追いかけたりしながら前に後ろにとよく動いた。山の頂上あたりに来ると、よく踏み固められた小道が伸びた雑草の間に見えた。香里は一度振り向くと、にっこりと笑って手を差し出した。茶々が迷子になってはと真砂子は片方の手で子猫を抱き上げカーディガンの中に入れた。ウエストをエプロンの紐で絞っていたのでカンガルーの袋のようになった。茶々はそこを気に入り、顔だけ出しておとなしくしていた。
しばらく行くと山の稜線づたいに棚が作られていた。入り口近くは低くて、屈んで進まねばならなかったが、中程では両手を上げて届くくらいの高さになった。そしてその辺りから握りこぶしくらいの果実がたくさん実っていた。
「ここが天国の道。スターキングがいっぱいなってるの。真砂子さん、肩車して。わたし、そしたら一杯とるから」
香里の身長では手が届かない。この子こんなに背が低かったかと我が目を疑った。
「香里さんこれ誰かが作ってるのよ。採ると泥棒になっちゃうよ」
「えっ」
香里は驚いたように真砂子の顔を見た。その顔があまりに無心だったので、思わず、小さな頭を両手で引き寄せ胸にぎゅっと押し抱いた。
香里の頭を胸から離すと目の前にスターキングを出して見せた。
「どうしたの」
香里は手品を見せられた子どものように目を見張った。
「エプロンのポケットに入ってたの。この木からとっては駄目だけど、自然に入ったのはいいでしょう」
でたらめな理屈を言った。真砂子は子どもを育てた記憶もない。もし育てていたとしたら、どんな母親だったのだろうかと思った。
付箋紙の枚数は順調に増えていった。今で仏壇の縦の縁いっぱいに貼られているが、数えると狂いが生じるので数えたりしない。最初気づかなくて毎日数えていたら真砂子の記憶より一、二枚多かったり、少なかったりが必ずあるのだ。気にしないと決めてからは、多少の狂いは小さなことに思えたし、そうしてからの方が減らなくなったと思う。
真砂子にはもっと気がかりなことがあった。それはこの屋敷の主、奥様に会っていないという事だった。会ってくれないのではなく、加代子や香里の話では何度も会ってるらしいのに、奥様の記憶だけはひとかけらも残ってないのだ。それで頭が痛くなっても白と橙のカプセルを飲むのを止めている。副作用で記憶が消えていると思ったからだが、飲むのを止めてみても奥様のことは何も覚えていない。
最近では加代子と香里が嘘をついているのではないかと疑っている。でもなぜ嘘をつかねばならないのかと考えると矛盾がでてくる。加代子はどちらかといえば鈍な人間だし、香里は真砂子にべったりなついている。奥様と真砂子の関係を悪くしようと企むなど想像できないのである。
食事する部屋の鴨居の上に刺繍の馬の額がある。それが唯一の奥様の記憶だ。その刺繍は、水色の布地に茶色と白色と栗毛の三頭の馬が右を頭に疾走している図であった。
先頭の茶色がおかあさん、真中の白色がおばあちゃん、最後の栗毛がわたしなのと、香里は奥様にそう教えられたと食事のときに何度も言った。
奥様が自分で刺したものらしく、最初は知人の開店祝いのつもりで作っていたのだが、出来上がる頃にその知人と喧嘩をしてしまい、渡さなかったといういわく付きなのだそうだ。
加代子が呼びに来た。下のヤマザキパンの店でマグロの造りを買ってきて欲しいと言う。真砂子は靴を履いて出かけた。
春日神社の横を通り過ぎようとした時だった。道を探して歩く男が見えた。見知らぬ男だが、いやな予感がした。そろそろ安田が来てもおかしくない頃だったからだ。真砂子は反射的に向きを変えて角を曲がった。
ヤマザキパンの店主は毎度といって真砂子に笑いかけた。何も言わないうちからマグロを切り出している。後ろに並んだ主婦がじっと店主の手元を見ている。
「はい、千円ね。今日のは中トロだからうまいよ」
と、言って袋を差し出した。後ろの主婦と入れ替わりざま、この前はどうもと言って挨拶された。真砂子もどうもと言って頭を下げた。
坂を登りながら、さっき見た男の顔を思い浮かべた。まだ覚えていることに少し安心した。もし、さっきの主婦のように顔を忘れていたら、向こうに見つけられて連れ戻される。
……どうして連れ戻されると思ったのだろう。捕まるではなく。真砂子は記憶にこだわった。それはまるで砂に埋もれたレリーフの残骸のようだった。と、突然、大黒老人の池で潜っていた猫の顔が呼び寄せられたように近くに見えた。水面から顔を出した瞬間に人間の顔になっていた、あれはさっき見た男の顔だ。
真砂子は頭に血が昇るのを感じた。上り坂を急ぎ屋敷に戻る。引き戸を強く横に引いたが動かない。鍵がかかっている。渡されていた合鍵を財布のポケットから出して戸を開ける。むっとする臭気に手の甲で鼻を押さえた。長く淀んでいた空気が、外からの空気に入れ替わろうと奥から奥から、かび臭いにおいとともに流れ出てくる。
加代子と香里の名前を交互に呼びながら廊下を小走りに半周まわった。誰もいない。来たところを振り返ると廊下に真砂子の足型が点々とついていた。白くなるまで埃が積もった廊下。毎朝、真砂子が雑巾がけしていたはずなのに、どうなってしまったのだろうか。
玄関に引き返し、もう一度加代子と香里の名前を呼んでみた。返事はない。また靴を履き表にでた。
庭を探すがいないのはひと目でわかる。この屋敷にはもう気配がなくなっている。
大黒老人の池、真砂子に探せるのはもうそこくらいしかなかった。昨日降った雨で地面は柔らかく、歩くと足底が沈んだ。老人の小屋に続く道はさらにぬかるんでいて、真直ぐに進まない。池だと思ってのぞき込んだ囲いの中は石ころの詰まったただの穴だった。作業小屋の戸には板が打ち付けられて、それ自体もかなり朽ち果てていた。
気配がして後ろを振り向いた。薄茶色の大きなトラ猫だ。しばらく視線が合った。何もかも承知だという顔つきをしている。
真砂子はその猫に、
「知ってるんでしょ、教えなさいよぉ」と言った。
ぬかるみに膝をつき四つん這いになった。泥が動きだす。うっ、うっ、うっうううううと真砂子は引き攣れた声をあげた。さらに泥は動き真砂子の膝が沈み込んでいく。
猫は乾いた場所から動かず、居ずまいをただすように座り、じっと真砂子を見つめつづけていた。
鈍痛がする。
真砂子の意識は体から離れ、天井のあたりから部屋の中を俯瞰している。布団の中の真砂子は腹を庇うように横向きに寝ていた。まだ、覚醒しておらず鈍い痛みに顔を歪めている。
意識が体に戻ろうとしている。肉体を遠い存在に感じているのを中止させようとしているのだ。意識は「自分は真砂子」だと確認の信号を出す。神経がそれを伝え、掌で顔をさする動作をさせて感覚を取り戻す。そうすると、ゆっくり意識は体にはいっていく。
今度ははっきりと目が覚めた。真砂子はお腹に手をあてた。柔らかい脂肪の感触はあったが、腹は平らである。鈍痛も感じない。
布団から起き上がって暗い部屋を見回す。しばらくすると目が慣れて、物が見えてきた。
茶箪笥、整理箪笥、大きな座敷机は壁にもたせかけてある。仏壇、しかし仏壇に貼っていた付箋紙が一枚もない。真砂子は膝で這って仏壇の前に行った。
仏壇の戸は開かれ、過去帳が見える。
声に出して読んだのだが、真砂子の声ではなくコンピューターの声のように切れ切れで抑揚がなかった。
長い時間そこに座っていた。何を思い出そうとしているのか考えていた。しかし思い出したところで真砂子の記憶は命をもたない。ちょうどそれは、波で洗われた貝殻のように再び海に住むことはないのだ。
香里や茶々、加代子、奥様たちは壁の向こうに行ってしまって、二度と会うことはないだろうと真砂子は全身で感じている。まったく今まで、長くいろんなところを転々としてきた。そう思う一方ですべての残像を怪しんでいる。本当はどこにもいけなかったのではないか。
記憶は過去へ、夢は未来へ旅ができるというが、真砂子の頭の中はどうだ。
皺くちゃになった薬袋から白と橙のカプセルを取り出した。水なしで飲み込む。こつこつと喉を通って落ちていった。
加代子の日記まだ読んでなかった。
読んでおけばよかったな。
香里、茶々。
頭のてっぺん、額や目蓋のあたりから粘つくような熱いものが走る。とろりとした液体をかぶったようだ。
もう真砂子の頭は真空になっていた。
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