大阪の人間は大抵阪神タイガースのファンだが、中には読売ジャイアンツを応援するファンもいる。私の生家は大阪にあったが、父も兄も生粋のジャイアンツファンだった。父は大阪生まれにもかかわらず、大学が東京だったので、ジャイアンツファンになった。戦前の話だ。兄の場合は、たぶん長嶋茂雄がいたからだと思う。私はそんな二人に反発してタイガースファンになった。大阪の人間ならタイガースを応援するのが筋だろうとどこかで思っていた。
しかしテレビで巨人対阪神戦を観ている時など、一緒にいる父や兄の前でおおっぴらに阪神を応援することが出来なかった。そんな時はもっぱら一人でラジオを聞いて応援していた。
私がタイガースファンになって最初に優勝したのは、確か中学一年の時だった。しかしその年は東京オリンピックが開催され、それで日本中が沸き立っていたので、阪神優勝がすっかり霞んでしまった。私もオリンピックに浮かれて、ああ阪神優勝したなくらいの感じしか持たなかった。
そこからが悪夢の始まりだった。ジャイアンツの九連覇が始まるのである。タイガースは毎年二位か三位でジャイアンツに負け続け、兄に馬鹿にされ続けた。何度試合の結果を巡って喧嘩をしたことか。私はすっかりタイガースファンであることに嫌気がさし、プロ野球はどこのファンでもない立場で見ることにした。
しかし昭和四十八年タイガースが優勝しそうな雰囲気になって、抑えていたファン心理が戻ってきた。タイガースは残り二試合のうち、一つでも引き分ければ優勝というところまで来たのだ。中日ドラゴンズと中日球場で一試合、最終戦が甲子園でのジャイアンツ戦だった。
当時大学を卒業したばかりで名古屋にいた私は、早速中日球場に向かった。国鉄(JR)の駅を降りるとすごい人で、タイガースの帽子を被った連中が大阪弁を話している。外野席しか空いておらず私はレフトスタンドに潜り込んだ。周りはみんなタイガースファンで、新幹線でやってきたという話をしている。
そのうちスターティングメンバーが発表された。藤田平や田淵幸一、カークランドなどの名前がボードと共に読み上げられ、最後の九番に来た。ピッチャーは当然上田二朗だと私は思っていた。上田二朗はその年中日ドラゴンズにめっぽう強く、ほとんど負けていなかった。それが何と、アナウンスされたのは江夏豊だった。えーという声が周りから湧き起こった。何で上田二朗とちゃうねんと誰かが叫んだ。
後で聞いた話によると、江夏は監督に中日戦登板を直訴したらしい。最初の予定では上田二朗だったのが、それでひっくり返ったのだ。もっと後から聞いた話では、江夏は登板前に球団首脳から呼ばれて、勝ってくれるなと言われたらしい。優勝すれば選手の年俸が上がって大変、ということだろう。江夏はテーブルをひっくり返して部屋を出た、という。
相手中日のピッチャーはエースの星野仙一だった。星野は後で、ジャイアンツに優勝させたくないから真ん中ばかり投げたと語ったが、タイガースはさっぱり打てなかった。みんながガチガチになっているのは、レフトを守っている望月充を見ていてもよく分かった。そんなに難しくないライナーでも頭を越されてしまう。バッターは振り回すばっかりでバットに当たらない。先に2点を取られた段階でこれは負けたかなという雰囲気が漂ってしまい、結局2対4で負けてしまった。観客からあーあという溜息が流れ、さあ甲子園やという誰かの声もうつろに響いた。
中日球場の側を新幹線が通っており、タイガースが試合をしていた頃ジャイアンツの選手が大阪に向かうひかりに乗っていた。その車中でタイガースの敗戦を知り、彼等はああこれで優勝間違いないと思ったらしい。
事実甲子園での試合は、上田二朗が序盤で打ち込まれ、0対9で完敗した。
最後にひっくり返されるんじゃないかというタイガースファン共通(?)のトラウマが出来上がったのは、この敗戦のせいではないかと思う。
ちなみにジャイアンツの十連覇の夢を阻んだのはドラゴンズで、星野仙一が胴上げ投手になっている。
それから十二年後、再びタイガースに優勝の雰囲気が出てきた。その年私は結婚したのだが、たまたま女房もタイガースファンで、二人でテレビ観戦をしながらタイガースを応援した。八月から九月にかけて連敗した時は嫌な予感がし、十二年前の悪夢が甦ったが、何とかタイガースは優勝した。二十一年ぶりの優勝だった。
その時冗談半分に、次の優勝は二十年後やなと女房と言い合ったのだが、まさかそれがほぼ当たるとは夢にも思わなかった。途中で一度優勝争いをしているが、トラウマがぶり返す結果となっている。
そして今年、タイガースは開幕から猛ダッシュで勝ち星を増やしていった。勝てば勝つほど不安になってくる。いつか逆転されるんじゃないかと悪夢が甦ってくる。そのためテレビ観戦ではタイガースの攻撃の時しか見ないようにした。守備の場面を見るのはどうも体によくないのである。
マジックが点灯しても信用していなかった。私は独自の安心材料を勝ち数に置き、八十勝を目標にした。八十勝して、それを超えるチームがいたら仕方がないと諦めるのである。だからマジックは眼中になく、あと何勝すれば八十勝かとそればかり見ていた。そしてやっと八十勝に到達した時私はほっとした。これであと全敗しても構わない、それで優勝できなかったら運がなかったと諦めればよい。だからマジック4が出てからもたもたしても全く気にしなかった。
とは言うものの、九月十五日の広島戦は途中で見ていられなくなって、淀川べりのウォーキングに出てしまった。三十分ほど歩いたところで、おっちゃんが一人腰を降ろしてラジオを聞いているのに出くわした。どうやら広島戦を聞いているようだ。私は速度を落としてそれとなく耳を澄ませた。すると、9回裏沖原を敬遠して満塁、赤星がバッターボックスというアナウンサーの声が聞こえてきた。私はよほど一緒になって聞かせてもらおうかと思ったが、相手が変な顔をするだろうと思って、そのまま通り過ぎた。しばらくして、わあという声が聞こえてきた。振り返ると、おっちゃんがバンザイをしているのが見えた。勝ったか、私は喜びがこみ上げてくるのを抑えながらウォーキングを続けた。
時折、あの時中日戦に上田二朗が投げていたら勝っていたかもしれないと思うことがある。そうすればタイガースファンがトラウマを背負い込むこともなかっただろうと。しかしそうなると優勝の感激も今とは全然違ったものになったかもしれない。どちらがよかったか、それは神のみぞ知る、ということだろう。
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