毛斯倫(もすりん)橋   林 さぶろう


  

 タクシーを降り立ったところで、哲夫はすぐさま工場の表の異常に気づいた。普段は別に気にもとめない見慣れた光景なのに、今朝はいつもと違って見えた。
 あらためて確かめると、地面と密着していなければならない出入り口のシャッターが、斜めになって片方に一〇センチばかりの隙間ができている。戸締まりは自分が間違いなく閉めたはずであったのにと、不審な思いで手動式のシャッターに手をかけ、ちからまかせに引き揚げた。喧しい擦過音とともに、二十坪足らずの作業場に日が射し込み、同時に哲夫は我が目を疑った。
 作業場の中ほどに据え付けられて、彼が使っていた汎用旋盤やフライス盤に溶接機、それらが全て姿を消していた。突き当たりの油に煤けた壁の時計だけが、変わらず六時三十分を刻んでいる。
「何やこれ……」
 無惨に割られたコンクリートの欠片が散らばる地面から、無惨に突き出ているアンカーボルト。哲夫は目のまえに起きている状況を、すぐには理解できなかった。
 わけの分からぬまま、とにかく西口駅近くの賃貸マンションに住む、親方のところに電話をかけてみた。ところがどうしたことか、何度かけてみても電話が繋がらない。「ほんまに、どないなってんねん」ぼやきながらも、まるで狐にでもつままれた気分になった。
 思えば昨日の夕方、そろそろ一日の作業を終える時刻だった。いつになく機嫌のよい親方の竹山大造から「久し振りに、飲みにいかんか」と肩を叩いて誘われたのも、いまにして考えてみればおかしい。飲みに連れていくカネがあるなら、滞っている給料のいくらかでも渡してくれればええのに。そんな思いが先にたち、あまり気の進まないまま誘いにのって出かけた。口を開けば、すまんもうちょっと待ってくれ、と遅配の言い訳をする大造が、珍しいこともあるものだと、その時は思った。
 大造は哲夫が普段は滅多に出向かない、西口駅前あたりの盛り場まで出かけた。そこで何軒かの居酒屋やスナックをはしごしてまわるうちに、親方の奢りということもあってつい飲み過ぎて酔いつぶれてしまったらしい。「今夜はここで泊まれ」と、大造に二十四時間営業の健康ランドへ連れ込まれたまでは、おぼろげながら記憶がある。
 醜態をみせてしまった手前、いつもより早く工場に出て、旋盤を回して格好をつければ親方にも言い訳がたつと、わざわざタクシーを飛ばして戻って来たらこの有様だ。おかげで料金千五百四十円を払うときに、焦りながらポケットの底をまさぐり、綿埃とともに掴みだした十円玉と一円玉二枚が、後に残った全財産という情けなさだ。

 経営者である竹山大造が、一夜のうちに工場の設備を処分して、夜逃げをしたらしいことがすでに知れたのか、やがて債権者が押しかけて来た。彼らは居合わせた哲夫を取り囲み、口々に大造をえげつない奴や、と罵った。掴みかからんばかりに、竹山の居所を教えろと迫ったのは、機械工具店の跡取りの若社長だ。日々購入する切削工具類の代金のうち、大半が未払いのまま残っているはずだ。何とかしてくれ、と泣き言を並べ立てるのは、仕事をまわしていた同業のひとり親方だ。支払われるべき手形が不渡りとなれば、共倒れは必至に違いない。足もとに散らばる紫色に焼けた金属の切削屑を、腹立ち紛れに蹴散らして喚いているのは鋼材屋の専務だ。
 そんな騒ぎのところへ、折良く仕事に出かける途中の本間良介が通りかかった。彼が間に入って取りなしてくれていなければ、哲夫一人では収拾のつかないところだった。
「ここでなんぼ喚いてても、埒があきまへんで。この男はただの従業員や」
 割って入った良介の言葉に、それまでの罵声がやんだ。
「住んでたマンションも、三日前に解約してたやなんて計画的やないか」
 怒りの持っていきどころがなくなった鋼材屋が、こんどは良介にくってかかる。
「こらおまえ、竹山の居所がわかったらすぐに知らせるんやぞ。隠したりしたら承知せんからな」
 なおも哲夫の顔を睨み付けた工具店の若社長の捨てぜりふを最後に、押しかけていた連中は不満顔のまま引き揚げていった。
「兄貴、おおきに、お陰でたすかったわ」
 騒ぎがおさまると、哲夫は昨夜からのことをかいつまんで説明し、改めて良介に礼を言った。
「わざわざおまえを外へ連れ出すやなんて、竹山の親っさんも念入りなことやなあ」
 なかば感心した顔で呟く良介は、企業から一般家庭の雑事まで引き受ける、いわゆる便利屋を稼業にしている男だ。親方の大造とも懇意で、以前から仕事に使う道具類の修理などで、よく工場に出入りをしていた。そんなわけで、三十二歳の哲夫にすれば一回り年上の良介を兄貴と呼んで、何かと頼れる相手であった。
「まあ、探すだけ無駄やと思うけど、ひょっとしたら、梅田の場外あたりに現れよるかも知れんなあ」
 良介は、あまり自信なげに呟いた。
「三日も前にマンションを解約してた言うてたけどほんまやろか、こうなったら親っさんがいきそうなところを、探してまわるしかない」
 なかば悲壮なまでの決意をする哲夫に、良介が今日は半日で仕事が終わるつもりだと言い、いきつけの福屋食堂で昼時に会う約束をした。別れ際に哲夫は、良介に当座の電車賃として千円借りた。

 良介と別れたあと哲夫は大造のマンションへいってみたが、鋼材屋の専務が言っていた通り人のいる気配はない。良介が言うように、こんな時には案外ひとやま当てたろう、とか思うに違いない。その足で大造がよく通っていた梅田の場外馬券売り場へいき、開場早々から張り込んでみたが大造は現れなかった。
 戻る途中に西口駅前の商店街へいき、大造が暇さえあれば入り浸っていたパチンコ店をのぞいてみた。そこで何人かの顔見知りを見かけ、大造のことを尋ねてみたが皆が首を横に振るばかりだった。やはり大造はもう、このあたりにはいないのかも知れない。諦めに似た思いが、余計に気持ちを落ち込ませた。

 西口駅前から乗ったバスが、緑橋を渡るとそこはもう島ノ内だ。バスは町内へは乗り入れておらず、橋のたもとの停留所で客を降ろすとここから折り返していく。緑橋の鋼鉄製の欄干の柱には、島ノ内橋と記された銘板が取り付けてあるにもかかわらず、橋全体を濃緑色で塗装されているところから、そうよばれていた。
 昼にはまだ間があり、哲夫はバスを降りてから河川敷を歩くことにした。川面は凪いでいるが風は湿気を含んでねっとりと絡み、五月のかかりの陽気にしてはむし暑い。
 町をぐるりと取り巻く堤防に沿って毛斯倫橋まで来ると、対岸の工場から正午を知らせるサイレンが一帯に鳴りわたった。橋のなかほどにむけて、曲線を描いて盛り上がったアーチ橋は、哲夫の故郷である日之影の青雲橋や竜天橋の優美な姿とは比較にならないが、いつだったかこの橋を眺めていて、ふと故郷を思い出したことがあった。
 ここから福屋食堂へいくために、哲夫は橋の手前で堤防の上にあがって通りに出た。
 橋のたもとに島ノ内交番があるが、橋の中央が県境であるところから、界隈では関所とよばれていた。関所の角を右に折れると毛斯倫橋で、また左に折れると緩やかな下りの勾配で島ノ内の町なかへとむかう。
 島ノ内は、町の両側を川の流れに挟まれた中州の町だ。二つの流れは町の外れで合流して、八キロばかり川下で海へと注いでいる。
 毛斯倫橋から続く大通りを、このまま真っ直ぐに五百メートルもいき、道なりに左へ急カーブして再び堤防に上がると、先ほどバスを降りた緑橋にいきあたってしまう猫の額ほどの町だ。
 町を囲む堤防下はいわゆる0メートル地帯で、民家と零細の町工場が額を寄せ合っている。それに業種もまちまちで、殆どが親方を含めて二、三人という具合だ。的場哲夫の勤める竹山鉄工所も例外でなく、経営者である竹山大造と旋盤工の哲夫の二人で仕事をしていた。作業場は板金屋と製缶屋の、三軒棟続きの左端だった。
 かつてこの地は、島ノ内新地なる遊郭があったところらしい。竹山鉄工所の建物も、廓つくりと称される玄関の屋根や、二階窓の飾りを施した手摺りなどが朽ちるがままに残されている。他の零細企業も多くは、このような旧娼家の土間をぶち抜いて作業場にしたものだ。
 町なかの通りは朝から日の暮れるまで、道の両側から吐き出される様々な騒音と埃が渦巻いているが、昼飯どきともなれば一斉に嘘のように静まりかえる。
 福屋食堂のある裏通りは、昨日あたりから道路の補修工事がおこなわれていた。古いアスファルトの欠片や、積み上げられたブロックを避けながら歩いていると、狭い路上に居座る小型ブルドーザーの陰から、いきなり工事現場の警備員が現れて、哲夫のまえに立ちはだかった。
「兄さん、ここらまだ安うでやらせるとこあるて聞いたけど、相場はなんぼぐらいや」
 哲夫と同年代とおぼしき男はヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭いながら馴れ馴れしく話しかけてきた。
「さあ、そんなん知らんけどなあ」
 哲夫はぶっきらぼうに答え、まだ何か言いかけている男を無視して再び歩き出した。アホめが、そんなところがあったら、こっちが先にいくがな。それでなくても寝泊まりしている工場の油臭い二階の部屋でオナニーに耽るのは、我ながら飽き飽きしているところだ。
 くだらない話で呼び止められた事に少々腹を立てながら歩き、気がつくと福屋食堂の傍まで来ていた。
 ここまでやって来たものの、いざ店内へ入ろうとして、思わず気持ちがうしろに引けてしまう。それというのも、毎日の食事はずっとこの福屋食堂を利用していたのだが、ここ数ヶ月のあいだは、賃金の遅配が続いていて月末ごとの支払いも滞ったままだ。
「福屋の大将とは古い付き合いや。わしが保証人やから気にせんでええ」と、大造からいわれるままに飲食代金の支払いを引き延ばしてきたからだ。
 それでも、すでに良介が来ているのか、それだけでも知りたい。店の入り口に近寄り、色褪せた暖簾の切れ目を人差し指で僅かに広げ、そっとなかを窺った。
「こら、入るんやったら、さっさと入らんかい」
 背後からいきなり怒鳴りつけられ、振り向くと巌が立っていた。巌は町内に事務所を構える組の若頭で、自称四十歳だという以外は一切が不詳の男だ。
「巌さん悪いけど、便利屋の兄貴がなかにいるか見てや」
「あほんだら、店に入って自分で見んかい」
 言っておいて、巌は開けっ広げの戸口から店内を覗き「おらんけど、便利屋がどないやねん」と哲夫を振り返る。
 問われるままに、親方の大造が昨夜のうちに工場内を空っぽにして夜逃げをしたこと、ここで良介と会う約束であることなど、昨夜からの出来事をかいつまんで早口に伝えた。
「竹山のバカが、夜逃げしたことは知っとる。まあ、飯を食いながら話を聞こうやないか」
 巌に肩を押されて暖簾をくぐったものの、どうにも気持ちが落ち着かなかった。昨日までにくらべ、いまこうして卑屈な思いをしなければならない境遇の激変に、戸惑わずにはいられない。
 常連客からは、おかんと呼ばれる福屋食堂のカミさんが二人を見て「いらっしゃい」と笑顔をむける。店内には四人がけのテーブルが五つあり、すでに十人ほどの客が居た。青色のヘルメットを被った数人の見慣れぬ男たちは、付近の道路工事に来ている連中らしい。
 食い物の匂いと汗の臭いが混ざり合った店内は、ムッとするほど温い。巌は顔見知りと目が合うたびに「えらい蒸し暑いなあ」と愛想を言い、一番奥まったテーブルに歩み寄った。
 そのテーブルにはすでに先客がいて、薄汚れたタイガースの野球帽を被り、店置きのスポーツ新聞をひろげ見入っている。巌に気付くと「よう」といって顔をあげた。通称カッパと呼ばれている男で、風貌からして七十歳ぐらいかと思えた。
 巌は慣れた動作で、傍らの冷蔵ケースからビール瓶を取り出し、カッパの隣りに腰掛けた。巌が右手を挙げ三本指を立てると、目敏く見たカミさんが、急いでグラスを三個持ってきた。
 さらに巌は「おかん、時間がないねん、はやいこと出来るもん頼むわ」と声をかけた。カミさんが「カレーやったら、すぐや」と答え、巌は「それでええ」と頷く。
 向かいあってテーブルについた哲夫のまえにも、巌はグラスを置きビールを注いで「飲めや」と言って勧めた。
「すんまへん。戴きます」
 哲夫は背中をまるめて礼をのべ、グラスに手をのばした。
「おいカッパ、おまえも飲めや」
「なんや、おまえさんの来るのを待ってたみたいで、すまんなあ」
 皺だらけの顔を、さらにくしゃくしゃにしてカッパが差し出すグラスに、巌がビールを注ぐ。皆が畏怖の念を抱く巌を、おまえ呼ばわりしてはばからないこの男の本名を、哲夫ばかりか界隈の誰も知らない。
 カッパは毛斯倫橋の真下の河川敷に、形ばかりの小屋を建てて寝起きをしていて、川縁に住むところからそう呼ばれている。自分の土地でもないところに勝手に小屋を建て住み着いているのだから、ホームレスに近い、というよりそのものだ。八年前に哲夫が初めて福屋食堂を訪れた時には、すでにいまのように出入りをしていた。自転車にリヤカーを牽引して島ノ内から町外までも足をのばして廃品を集めてまわり、それで得る僅かな収入で暮らしをたてている。もっとも以前は何処にいて何をしていたのかは、当人も一切語ろうとはしない。
 開けっ放しの戸口から、アカ犬がひょこひよこと入り込んできた。この犬は足に怪我をして河川敷にうずくまっているところを、カッパが見つけて手当をしてやってから、そのまま居ついてしまった。アカ犬は涎の染みを点々と床に落として、戸口に近いヘルメットの男たちが居るテーブルへと寄っていく。
「何やこの犬、蹴飛ばしたろか」
 男の一人が、不機嫌な顔でアカを睨み付けて言った。
「その犬は、おとなしいから辛抱したって」
 カミさんが、それとなくアカを庇った。
「おばはん、何を言うてんねん、薄汚い犬が寄って来よったら飯が不味うなるやないか、はよ追い出さんかいや」
 別の男が苛ついた顔で、カミさんに毒づいた。
「こらおまえら、何をがたがたぬかしとるんじゃ、犬一匹で飯が喰われんのなら、とっとと、ここから出て行きさらせっ」
 グラスのビールを、一気に飲み干したカッパが連中に向かって一喝し、男たちは一斉にこちらを向いた。
 カッパの垢にまみれたシャツの袖から伸びるささくれて痩せた腕、乾涸らびた里芋の皮を連想させる容貌は、さらに日焼けをして赤銅色だ。出っ張った頬骨とは対照的に窪んだ目の左片方は、二年このかた患っている眼病のためか、目蓋はほとんど目脂で塞がり潰れている。だが、もう一方の見開かれた右目は鋭く獣じみて相手を威嚇するに充分で、たじろいだ様子の彼らは黙り込んで、ただ箸を動かした。アカは別のテーブルの客が投げてよこした焼き魚の頭をくわえ、カッパの居るテーブルの下へもぐり込んだ。
 そこへカミさんが来て、カレーライスを盛った皿を巌のまえにおいた。立ちこめるカレーの匂いに、哲夫は思わず生唾を呑み込んだ。そういえば、朝から何も腹に入れていない。心なしか、腰のウエストポーチまでが緩んでしまっている。巌がカレーを喰うのを横目で睨みながら、空腹を少しでも紛らわせようと、目の前の薬缶からコップに注いだ麦茶を二杯、立て続けに一気飲みした。
 突然に電話の着信音が鳴り、チッと舌打ちをした巌が胸のポケットから携帯電話を取り出した。何か面倒くさげに短く応答したあと、喰いかけのカレー皿をカッパの前へ押しやった。
「行かなあかん。よかったら喰えや」
「そうか、ほんなら遠慮のう、よばれよか」
 カッパが待っていたとばかりに、スプーンを握ったときには、巌はすでに席を立っていた。カッパがここへ来るのは、顔見知りの誰かが声をかけてくれて、こうやって飯にありつくのが目的なのだ。スプーンと皿がかち合う音を忙しくたてながら、カッパが巌の喰い残したカレーを貪り喰うのを眺めて、哲夫の空腹は頂点に達した。
「こら、おまえら誰に断って路を掘り返しとるんじゃい。舐めたことをしとったら、工事させへんぞ」
 戸口へ向かっていた巌が、突然ヘルメットの連中のところで立ち止まり、低く抑えた巻き舌で男たちを恫喝した。彼らは一瞬、唖然とした様子だったが、押し黙ったままだ。困惑顔の男たちを尻目に、巌は肩をいからせて店から出て行った。
「哲、今夜アザミへ行けや。巌が散財しよるでえ」
「何で、そんなことわかるのや」
 アザミは福屋から十軒ばかり離れて、おなじ道筋にあるスナックだ。カッパがカレーを頬張ったまま顔を近づけて喋るものだから、ほとんど歯の欠けてしまった口から飛沫が飛び散り、哲夫は反射的に手に持ったコップを左掌で覆った。
「いま巌があいつらに、カマシを入れたやろ。連中から話を聞いて、現場監督がすっ飛んで挨拶にいきよるわ。巌のええ小遣い稼ぎや」
 カッパは咳の発作でも起こしたかのように、背を丸めて掠れた笑い声をたてた。
 カッパの話に気を取られていると、横合いから哲夫の目の前に、丼飯とかけソバの鉢が置かれた。いつも昼飯の定番にしているソバ定食で、鉢からは湯気とともに、旨そうな匂いが立ちのぼった。意外な顔で見上げる哲夫に、傍らに立ったカミさんが微笑みながら、いいからお上がり、とばかりに目で促した。
「おかん、実はあの、えらいことになってしもてんや」
 良介から借りた千円も、バス代と電車賃を払ったあと、缶コーヒーを買って五十円玉一個を残すだけだ。実際、いまの飯代さえも持ち合わせていないことを、カミさんに告げねばならなかった。
「ウチのが、哲ッチヤンには何度か助けられてるのや。ご飯ぐらい食べてくれたらええ言うてるし、気い使わんでもええんよ」
 竹山大造が夜逃げをしたことは、当然ながらここにも伝わっていたらしい。
「おかん、悪いなあ」
「遠慮せんと、ご飯たらなんだら言いや」
 カミさんの言葉が、いまは身にしみる。
「天ソバ、あがりい」
 威勢のよい声に目をむけると、ソバの鉢をカウンターの上に置いている大将と目があった。
「大将、すんまへん」
「また婆さんが徘徊いてたら、連れて来てもらわな、あかんよってになあ」
 大将は厨房のなかから、哲夫に話しかけた。
 四十八年前に廓の一郭でうどん屋を始めた八十三歳になる大将の母親が、二年あたりまえから昼夜を問わず徘徊を始めたのだ。いつだったか随分と遅い時刻に、河川敷にいた哲夫が毛斯倫橋の上を歩いていく福屋の婆さんを見つけて連れ帰った事があった。その折りに大将から、婆さんがあのまま橋を渡って大阪側へいってしもてたら、大変なことになっていたかも知れんと、えらく感謝をされた覚えがあった。大将はいまだに、その時のことを恩にきているらしい。
 昼食を喰い終えたヘルメットの男たちが、そそくさと出て行くのと入れ替わりに、今度は良介が入って来た。
「昼前には戻って来られるつもりが、今日はえらい時間が経つのが早い」
 良介は哲夫の顔を見ると、言い訳めいた事を呟きながら、つい先まで巌がかけていた椅子に腰をおろした。彼も福屋食堂に毎日顔を出している常連のひとりで、もう十年もまえに女房に出て行かれたままらしい。
「兄貴、親っさんの行きそうなところ、全部まわって探したけどあかん。ほんまに、どこへ隠れてんのやろ」
「簡単に見つかるようでは、夜逃げにはならんやろ。哲、とにかく仕事が見つかるまで、俺のところを手伝えや」
 良介は最初からそのつもりだったらしくて、決めつけた言い方をした。良介はカミさんに、哲夫が喰べかけているおなじソバ定食を注文してから、ふたたび続けた。
「午後から、犬の散歩が一件あるのや。初めての仕事には丁度ええやろ」
「ちょっ、ちょっと待ってや。兄貴マジか、犬はアカだけにしといてや」
 いくら仕事であっても、犬の散歩はないやろ。これでも自分には、れっきとした旋盤工の技術があると哲夫は不満を顕わにした。
「哲、おまえ飯代もないんやろが、それやったらゼニになること何でもやらな」
 いつになく厳しい顔をする良介に、哲夫はしぶしぶながらも頷くしかない。
「この節は不景気もええとこや。水門そばの飯場も、つぶれてしまいよったらしい。飯場の親方は人夫らの賃金も払わんまま、ドロンしよったらしいがな。殺生なことをしたりよるで」
 そういうと、カッパはまるめた背を揺すって、クヒッ、クヒッと忍び笑いをした。話題を持ち出し盛り上げては、あわよくば食い物をたかろうとする魂胆はいつものことなのに、今日はどういうわけかそんなカッパが無性に腹が立った。

 哲夫が良介の便利屋を手伝い始めてから、すでに二ヶ月ちかくが経っていた。その日も仕事を終えて戻る途中に緑橋を渡ったところで哲夫は良介の軽トラから降りて、そこから河川敷を流れに沿って歩いた。
 昼間の余熱がまだ残っているなか、汗ばんだ肌を撫でる川風がここちよい。ここから毛斯倫橋までの河原一帯は、テニスコートやベンチなどがところどころに設えてあり、河川敷公園と呼ばれている。歩くほどに陽は彼方のビル群のむこうに隠れて、それまで赤茶色に染まっていたあたりの景色がみるみる色を失い、水面だけがほの白く迫り上がってくる。川縁のすべてのものが、昼と夜に表情を変える瞬間だ。哲夫は一日のなかでも特にこのときの眺めが気に入っているが、いまはとてもそんな気分ではない。
 実のところ早く本来の職である旋盤工の勤め口を探さねばと、このところ真剣に考えていた。この二ヶ月のあいだ、良介のところで何とか辛抱をしてやってきた。だが思えば思うほどに、便利屋の仕事は自分には向いていないようだ。
 家庭の大掃除から、空き地の草刈りに墓石洗い。溝の泥あげに板塀の防腐剤塗り替え、果ては果物屋の配達などは、大きな西瓜を二個も抱えてエレベーターのない団地の階段を駆け上ったり、かなりきつい作業をこなしてきたつもりだ。しかし、そろそろ限界だ。良介から払われる日当は時給六百円で、一日の平均労働七時間としても、四千二百円である。ましてや、毎日それだけの仕事があるとは限らないのだ。月のうち十日ぐらいは僅か三、四時間ばかりの作業でその日が終ってしまうことも多く、そのうえ、まる一日あぶれる日が何日かはある。月の平均収入は七万から八万円前後というところで、これでは、滞った福屋とアザミの支払いもままならない。曲がりなりにも旋盤工としての自負があるだけに、あまりにも情けなかった。
 それでも、いざこの町から出るとなると、億劫になってしまう。それに寝場所までついた働き口は、そう簡単にありそうにもない。
 竹山大造が夜逃げをしてからも、哲夫はそのまま空っぽになった工場の二階に居座りを続けていた。ところが今度は執拗にやってくる、カネ貸しの取り立てに悩まされることとなった。
 大造は見境なく、高利の金融にまで手をのばしていたらしい。なかにはそろそろ寝ようかという時刻に押しかけて来て、哲夫にまで脅迫まがいに大声をあげて凄んだりした。
 彼らのあまりの執拗さに居たたまれずに、時にはカッパの小屋へ逃げ込むこともあった。そんな哲夫の窮状を見かねた良介が、彼の住む長屋へ来るように計ってくれた。
 哲夫は良介の好意に甘えるかたちで、十日まえにその空き部屋に引っ越したばかりだった。
 良介の長屋は築後かなりの年月が経っているらしくて、外観は建物全体が斜めに歪んで見えた。良介の他に住人は居らず、表通りの町工場や商店が倉庫として使っているらしい。哲夫に当てられた部屋も、長年のあいだ物置代わりに使われていたようだ。部屋に染み付いた黴の臭いと、排水が悪く大降りの雨が降ればすぐに土間が浸水して、履き物が水没するのを辛抱すれば他に言うことはなかった。そんなことよりも、こんな状態がいつまで続くのか、という不安と焦りに追い立てられるのが辛い。
 二つの川の流れが出会う、ちょうどV字形に突き出た堤防の先端をかすめて架かる新幹線の鉄橋を、鋭い金属音を立てて電車が走り抜けた。堤防なりに右に曲がると落日に映える毛斯倫橋が姿を現す。橋の側面を燃えるような緋色に染めて今日最後の日が沈む。そんな、いつもながらの風景のなかに女の姿があった。
 川縁に佇む女は、そろそろ灯りがともり始めた対岸の街並みをぼんやりと眺めている。さらに近づいていくと、気配に気付いたらしく女がこちらを振り向いた。
「今晩は」
 咄嗟に哲夫はそう言って会釈をした。つられるように微笑み返した女をみて、哲夫は自分とおなじ三十歳前後くらいと思ったが、このあたりでは見かけない顔だ。
「日が翳ると、川縁は夕涼みにもってこいや」
「あの橋を渡ったら、もう向こう側は大阪なんやねえ」
 人懐っこい哲夫の話しかけに気を許したのか、女はオレンジ色の照明が点り始めた橋を眺めて言った。
「ずうっと昔、ここら辺にモスリンを織る工場があったんやて、それであの橋を毛斯倫橋と呼ぶようになったらしい」
 小さな灯りを点した曳舟が目の前をゆっくりと下っていき、航跡による高波が川縁にうち寄せるのを女は珍しそうに眺めている。そのうちアカが現れて、低空で河川敷を掠める蝙蝠をさかんに追いかけ始めた。
「アカ」哲夫が呼ぶと、アカは一瞬こちらを向いて立ち止まり、転げるように二人の足元へ走り寄って来た。
「可哀想に、足に怪我をしたんやねえ」
 女は屈み込むと、人懐っこく尾を振ってまとわりつくアカの頭を撫でながら話しかけ、少しびっこを引く前足の片方をさすってやっている。
「犬かて、動物の好きな人間はようわかるんやなあ、こいつ初対面やのに、ぜんぜん警戒しよらん」
「この犬野良やろ、一生懸命に生きているんやねえ」
 哲夫はその犬はちゃんと飼い主がいる、と言いかけてやめた。いわば飼い主のカッパも野良同然だから、女の言うことは当たっている。鼻先をくっつけんばかりにしてアカに語りかける女を見て、もう少し居たい気持ちもあったが初対面では話題もなく、その場を離れた。毛斯倫橋の手前に設えてある、コンクリの階段をあがり切って堤防の上から振り返ると、薄闇のなか女はまだその場に屈み込んでアカを相手にしているのが見えた。
 大通りに出て関所のまえまで来ると、なかからアザミのママが出てくるところだった。
「ママ、また花を飾りに行ってたんか」
「今日は、ちょっと遅うなってしもて」
 関所内の正面にある机の上に置かれた大きな花瓶には、いつも色鮮やかな季節の花が飾られてあって、それは通るたびに外からでも見えた。ママはたびたび関所へ顔を出しては花を飾っているらしく、口さがない連中のなかには、お巡りのなかにママと懇ろの相手がいるに違いないなどと、勝手な噂をふりまく者までいた。
「遅うまでカラオケやってるやろ、こんなことでもして、ちょっとは目こぼしをして貰わなやってられへん」
 言ってから、ママは少し照れたように笑いを浮かべた。
「ママ、いっぺん顔見せなあかんのやけど、いまグリコやねん」
 哲夫はママに、本来ならあとで店に行くと言いたいところだが、ここのところ金欠で飲みに行く余裕などない。それに、以前からの支払いも滞らせたままだ。格好つけると、あとで難儀するのがわかっているから、グリコの商標、つまりお手上げ状態だと正直に言った。
「早いこと、ちゃんとした仕事が見つかったらええのにねえ」
 肩を並べて歩きながら、ママは逆に哲夫を気遣ってくれた。
「それより哲ッチャン、竹山の社長からは連絡あんの」
「あるわけないやろ、ほんまに殺生な親っさんやで」
 竹山大造の夜逃げも知らずに、もぬけの殻の工場に戻ってきたあの朝のことは、哲夫にしてみれば思い出すだけでも腹立たしい。
「三日まえやったかなあ、社長お店へ顔見せはったんよ」
「ママ、それほんまか」
「それが、久し振りやいうのに私には挨拶もそこそこで、居合わせた巌さんとずっと話し込んではったわ」
 夜逃げをした大造をいまさら社長呼ばわりでもあるまいにと一瞬白けたものの、ママの話は哲夫にとって意外なものだった。
「ママ、こんど親っさんが顔を出しよったら知らせてや。言うたりたいことが、しこたまあるよってに」
「ええよ。こんどまた社長が来はったら、そっと知らせたげるわ」
 哲夫の真剣な顔に、ママもまた声を潜めて約束をした。

 哲夫が関所の前で、アザミのママに会ってから五日が経っていた。その日も生い茂った庭木の枝払いと、どぶ板の補修などの仕事を終え、そろそろ仕舞い支度にとりかかったときに、ズボンの尻ポケットに突っ込んだ携帯電話が鳴った。この携帯電話は、現場での連絡用に良介から持たされているものだ。今日は一人での作業だったので、てっきり良介からの連絡かと思いきやママからだった。
「哲ッチャン、今夜お店に社長が来やはるんやて、巌さんから社長が見えたら待たせておけ、言われてるんや」
「おおきに、ママ恩にきるわ」
 電話を切ったあと「しこたま文句いうたる」思わず怒りが口をついて出た。
 しばらくして、別の現場での仕事を終えた良介が迎えに来た。軽トラの助手席に乗り込んだ哲夫は、興奮気味に今夜アザミに竹山大造が来るらしいと、さきほどママから電話があったことを良介に話した。
「来やがってみい、俺はもう承知せえへんで」
「夜逃げをしたにしては現れるのがちと早い、それとも自己破産が成立したんかなあ」
「俺の給料も払わんと、のうのうとアザミなんかへ顔出しやがって」
「あんまりカッカせんと、話は落ち着いてせな。ほとぼりも冷めてへんのに、なんでいま現れたんか理由があるはずや」
 気色ばむ哲夫を、良介はちょっと気がかりな表情で忠告をした。

 長屋まで戻って来ると、まだ軽トラが完全に止まりきらないうちに、哲夫はせっかちにドアを開けて飛び降りた。いつもなら荷台に積み込んであるアルミ製のスライド梯子や道具類を降ろすのだが、今日ばかりは良介が呆気にとられているのを尻目に、哲夫は路地の奥にむかって慌ただしく駆け出した。
 道路脇に放置され破れたゴミ袋が放つ腐敗臭、生活排水が流れ込むドブと汲み取り便所の臭い。この街の放つさまざまの臭気が、長屋の狭い路地には終日澱んでいる。
 自室のまえまで来た哲夫は乱暴に引き戸を開けてなかへ入ると、シャツを脱ぎと作業ズボンとブリーフを同時に脱いで土間の隅に置かれた手押し一輪車の把手に引っかけた。臆面もなく素っ裸になった哲夫は、入り口の庇の下へふたたび出た。庇は路幅を殆ど覆うかたちで張り出していて、先端を朝顔の蔓が這い上がる丸太のつっかい棒で支えてあるが、いまにもずり落ちそうなほど傾いていた。夕方とはいえ、まだ高い日射しを遮って庇の下は涼しく、哲夫はそこで散水ホースで汗にまみれた身体を流した。通りからも目につくために、良介からは「格好が悪いからやめておけ」と小言を言われた。それでも全身に水をかぶる爽快感は格別で、さらには銭湯代の節約でもあり、夏のあいだは続けるつもりでいた。汗を流し終えると顔にローションを塗り、頭髪に櫛を入れて念入りに身だしなみを整えた。元親方の竹山大造に会うために、身なりを気にすることなど毛頭ないが、場所がアザミの店では、汗臭い体のまま出かけるのは気が引けた。
 それにしても大造は、なぜいま現れたのか。良介の言うとおり、まだほとぼりの冷める時期ではない。もしも債権者や高利貸しの取り立て屋に見つかったら、ただではすまないだろう。哲夫はそんな事を思う一方で、大造が夜逃げをして以来の再会に複雑な思いのまま、まだ明るみの残る通りをアザミへと急いだ。
 アザミのドアを開けると、いつもはママが一人で切り盛りしているのに、珍しく新顔のホステスが居る。カウンターのなかから「いらっしゃい」と声をかけるホステスの顔を見て哲夫は驚いた。なんと、このまえに河川敷で会った女ではないか。
 ママは哲夫の顔を見ると、店の奥へ向けて目配せをした。時間が早いためか、他に客は居ない。ドアに背を向けたボックスの背もたれから、茶色の帽子を目深に被った男の肩が見える。哲夫には一目で、それが大造だとわかった。近寄っていっても、大造は物思いに耽っているのか身じろぎもせず、肘をついた右手の指の間に挟んだタバコの灰がいまにも落ちかけている。
「親っさん」
 哲夫が声をかけると、大造はピクリと肩を震わせて傍らに立つ哲夫を見上げた。
「どういうこっちゃねん。これは」
「哲か、ま、座れよ」
 ふたたび語気を強めて問いかける哲夫に大造はやっと口を開き、ここで哲夫と出会うのは予期していなかったようで硬い笑顔を向けた。
「この俺まで騙すやなんて、やりかたが汚なすぎるやないか」
 哲夫は座れと言う大造の言葉を無視して、さらに食ってかかった。
「すまん、哲、おまえのことはずっと気になってたんや」
「気になってたんなら、なんで給料も払わんとドロンするねん。殺生やで」
「時期がきたら、おまえにもちゃんと訳を話して詫びるつもりやったんや」
 大造はときおり上目使いで哲夫を見上げては、やっと聞き取れるくらいの声で言い訳を繰り返した。哲夫にすれば、何もわざわざ言い訳を聞きに来たのではない。それよりも、未払いの給料を払えと迫った。
 その時ドアが開いて、三人連れの客が入って来た。店内は俄に騒つき、三人連れはボックス席に背をむけるかたちで、カウンターに並んでかけた。そのあとから、一足遅れに巌がやって来た。大造は巌を見るなり、慌てて腰を浮かせてお辞儀をした。
「何や哲、来てたんかい。そや、ついでにおまえも一緒に話を聞けや」
 巌と大造の話なら自分は関係ないことと、席を離れかけた哲夫を巌は引き止め、ふたたび大造の横に座らせた。
「哲、カネ儲けの話や。それも朝から晩まで旋盤まわして何ぼとかの、チャラついた話やないぞ」
 巌の話す仕事とは、トラックの運転手だった。しかも夜中に二時間ばかり乗って一万円、それも現金払いということだ。
「どや、ええ話やろが。それで、こいつも一緒に組むんや」
 巌は自分と向き合って座る大造を顎でしゃくり、おもむろにタバコを取り出してくわえた。大造が素早くライターを差し出して、巌のくわえたタバコに火をつける。
「巌さん、ちょっと待ってや。この親っさんにはえらい目に遭わされてるよってに、また一緒にやるのはなあ」
「そう言うたるな。哲、心配せんかてカネは俺がちゃんと払たるわい」
 巌はそういい捨てると、三分の一ほど吸ったタバコを乱暴に灰皿に押しつけ、手洗いへ立った。
 大造のもとでは、時給千二百円で一日旋盤にへばりついても、一万円たらずにしかならなかった。それが、たった二時間ばかりトラックのハンドルを握るだけで、一万円もの報酬とは、考えるまでもないうまい話だ。だがいまひとつ、巌が何を積んでどこまで運ぶのかを詳しく語らないことが、哲夫にすぐの返事を躊躇させた。
「哲、なんも心配せんでええから、俺についてこんかい」
 巌は手洗いから出てくると、哲夫の顔を見据えて言った。さらに「ええなあ」と言って、生返事を繰り返す哲夫の背中を勢いよく叩いた。
「どないでっか姐さん、ちょっとは慣れましたかいな」
 そのあと巌はカウンターのなかの女に向かい、一転もの柔らかな口ぶりで話しかけた。女は客の相手をしながら、巌に顔をむけて僅かに微笑んだ。照度を抑えた明かりのもとで見る女は、濃いめの化粧が映えて哲夫には女優のように美しかった。
「俺が払うよってに、哲と竹山に飲ませたれ」
 巌は、客のカラオケに手拍子をとっているママにそう言いつけると、席へは戻らずにそのまま店を出て行った。巌が居なくなると、先ほどからあの女が気になっていた哲夫は、ボックス席からカウンター席へと移った。そこへ、ママが新入りの女を呼び寄せて哲夫に紹介した。
「圭子です。このまえはどうも」
 女は、はにかむような笑顔をむけておじぎをした。
「圭ちゃんか、よっしゃ、近づきのしるしに、なんぞ旨いモンでも喰いにいこや。何がええ」
「ちょっと哲ッチャン、そういう話はちゃんとおカネを稼いでからにして頂戴」
 ママは二人がすでに顔見知りであることに、意外な顔をしながら口をはさんだ。哲夫は肩をすぼめて圭子の顔を窺うと、彼女は黙って微笑んだ。
 それまで一人ボックス席で飲んでいた大造が、賑やかな会話に誘われたのか、のっそりと立ち上がり哲夫の傍へ寄って来た。
「哲、こうしてまた俺とおまえが一緒に仕事をするのも、腐れ縁ちゅうもんやないか。まあ、仲良う頼むわ」
 大造は手に持った自分の水割りグラスを、哲夫の持つグラスにちょこっと当て並んで隣りの椅子に腰をおろした。
 なにが腐れ縁や。それはこっちの言うセリフやないかい。いまの惨めな暮らしも、もとはこの男の夜逃げからだと思うと、そう簡単に哲夫の怒りはおさまらない。
「なあ、親っさんよ、それで俺の未払いの給料はいつ払うてくれるんや」
 哲夫が切り出すと、途端に大造は憮然として黙ってしまった。もともと今夜ここへ来たのは、大造とこの話をつけるためだった。哲夫にすれば、これまでの未払い賃金の支払いなくして大造との和解などあり得ないのだ。
「こうなったら、俺は一銭もチャラにする気はないからなあ」
 哲夫は語気を強め、大造を睨み付けた。そのあとも、哲夫はしつこく未払い賃金のことで大造に食いさがった。一旦は横に腰をおろしたものの、哲夫の追及に居心地を悪くしたのか、まもなくして大造は先に帰ってしまった。
「ママ、圭ちゃんは巌さんの紹介でこの店へ来たんか」
「何でそんなこと、聞くのんよ」
「さっきの巌さんと圭ちゃんを見てたら、何となくそんな気がしてんや」
「哲ッチャン、そんなこと気にかける暇があったら、自分の事を心配せんかいな」
 カラオケの大音量を幸いに哲夫が話しかけると、ママは余計なことを詮索するな、という顔をして言った。

 明くる日、昨夜の深酒がたたってか、哲夫は仕事の現場へいってからも、何度か嘔吐を繰り返した。頭がふらつき、朝から何も喉を通らずに缶ジュースばかりを飲んだ。いくら巌のおごりとはいえ、ちと調子にのりすぎたと、いまさらに悔やんだ。しかも、こんな時に限って、広大な空き地を囲む柵のフェンス張りで、現場を見た途端にうんざりしてしまい、仕事など投げ出して帰ってしまいたい気分だった。
「哲、えらい顔色が悪いが、大丈夫か」
「昨夜、ちょっと飲みすぎたかなあ」
 良介が案じ顔で問いかけてきたのを機会に、哲夫は昨日のアザミで巌から誘われた仕事の一件を、このさい相談してみることにした。あとになって持ち出すよりも、その方がよいと思ったからだ。
「早いこと借金を返して、すっきりしたいのや」
「世の中そんな甘い事ないぞ、そこらへんのことは、ちゃんとわかってるんやろなあ」
 哲夫の話を聞いた良介は多くを語らず、そういったきり黙ってしまった。その話はそれから一日の仕事が終わるまで、話題になることもなかった。
 午後になってからは、哲夫の二日酔いも次第に回復した。その日は良介と一緒ということもあって、哲夫の午前中における不調にもかかわらず、日が暮れきらないうちに仕事を終えて戻って来られた。
 夕飯にはまだ早いこの時刻、例によって散水ホースで汗を流したあと哲夫は少し川縁を歩く気になった。近くの酒屋で買い込んだ、缶ビール二個とチクワを入れたビニール袋をさげ堤防へ向かった。
 昼間の熱気がまだ残るなか、汗ばんだ肌に河川敷を通る風は心地よかった。川面を眺めているうちに、何となく圭子のことを思った。このまえみたいに川縁にひとりで佇んでいはしないかと、それらしき姿を期待してあたりを見まわしてみたりもした。
 そのうち橋の真下にあるカッパの小屋に近づくと、そこいらじゅうにアルミ缶がぶちまかれていて、それらのアルミ缶を一つ一つ足で踏み潰していたカッパが、哲夫に気付いてこちらをむいた。
「なんや哲、また取り立てに追われてんのかい」
 哲夫は返事の代わりに袋から取り出した缶ビールの一つを、カッパめがけて放ってやった。
「ほう、こらまた雨でも降らにゃええが」
 片手で器用に受け止めたカッパは、大袈裟に驚いて見せて、そのまま地べたに座り込んだ。
「えらい言われかたや、俺がビール持ってきたんが、そない大層なことかいや」
「そうかて、えらい気前がええやないかい。何があったんじゃ」
 腑におちない様子のカッパに、哲夫は昨夜アザミで巌から持ちかけられた仕事話を打ち明けた。このまえ良介に忠告されたこともあって、いまだに決心がつかずにいる哲夫は、誰かにこの事を話さずにはおれないのだ。
「たった二、三時間トラックのワッパを握るだけで、これだけくれるんや。ボロい話やと思わへんか」
「巌がおまえを誘うとはなあ。それで仕事の内容を、よう確かめたんかい。話にのるのは、それからでも遅うはないやろ」
 哲夫が人差し指を立てるのに目をやりながら、カッパは旨そうに喉をならせてビールを流し込んだ。
 カッパがそういうには、理由があった。以前に恐喝事件を起こした巌が、警察の手がまわりそうになった時のことだ。少しのあいだ預かってくれと言って、何かビニールにくるんだ包みを、カッパのところに無理矢理預けていったことがあったらしい。
「その時には別に気にも止めんかったが、あの野郎、よりにもよって拳銃を置いていきやがってん」
「その話はまえにも聞いたがな。カッパも警察へ引っ張られたんやろ」
「そうや、巌のやつモッテいかれた途端にゲロしやがってからに、極道の風上にもおけんやっちゃ」
 夕闇のなか上半身裸にステテコ姿のカッパは、向こう脛や腕のあたりをしきりに叩いて、寄ってくる蚊を追い払いながら話を続ける。物欲しげに周囲をうろつくアカに、哲夫は手に持ったチクワをちぎって投げてやった。
「わしは、何にも知らんかったと、しらを切りとおしたんや。それでも十日間も留め置かれてからに、えらい目に遭うたがな」
「けど、今度はそんな心配はいらんと思う。夜中にトラックを転がすだけの事や、仕事の中味はちゃんとわかってる」
 カッパの思い出話を聞きながら、巌に対するカッパの物怖じしない態度が、哲夫には何となくわかる気がした。
「おまえは、何でも安請け合いするよってになあ。人の良すぎるのもバカのうちや、よっぽど腹をくくってかからな、あとで思わん怪我をするぞ」
 カッパのぶしつけなもの言いにも、いまの哲夫は聞き流せた。
「話は変わるが、アザミに新顔の女が来てるらしいなあ」
「うん、名前は圭ちゃんいうて、あの店には勿体ないくらいの別嬪や」
「なんでも、その女は巌のところの組長のこれらしいやないか」
 カッパは小指をたてた拳を、哲夫に向かって突きだした。
「えらい詳しいけど、そらほんまかいや」
「なんでも神戸あたりでクラブのホステスしてたんを、見初めて連れて来たいうことや。アザミなら目がとどくし、都合がええがな」
 カッパは情報通だと言わんばかりに、得意げな顔で喋った。
 それから小一時間ばかり、とりとめのない世間話をして過ごした。哲夫は腹の空き加減から、そろそろ晩飯を喰いにいく気になって腰をあげた。
「哲、気いつけな、ヘラヘラ鼻の下のばしてアザミへ通わんこっちゃなあ」
 カッパは別れ際に、からかうように笑って言った。
 カッパのやつ、あの女は組長の愛人やとかええ加減なことを言いよってからに、けど待てよ、そういうたらこのまえアザミで巌が圭ちゃんのことを姐さんと呼んでいたな、やっぱりカッパの言うのは本当なのか。
 あれこれと考えながら堤防上へあがる階段のあたりまで来たところで、哲夫は川縁に佇む人影に気付いて立ち止まった。夕闇を透かして見れば何と圭子ではないか、この時間になぜ彼女がここに居るのか、普通ならもう店に出ている筈である。
「圭ちゃん、いま時分どないしてんな」
「あっ吃驚したわ、もう」
 傍まで寄って声をかけると、圭子は一瞬肩をびくつかせ、ひどく驚いた表情をして見せた。
「ごめんな、驚かすつもりやなかったけど、えらいしんみりとした顔して川を見てるもんやから」
「あらそう、夜景を見てただけやのに、ここへ来てぼーと川向こうの街並みを眺めてると色んな事を考えたりするんよ。あのネオンがいっぱい輝いているのは、どの辺になるのかなあとか。世界には、こんな川を渡るだけで命がけのところもあるやろ。自分がもしそんなんやったら、命をかけても渡れるやろかとか考えてみたりして……」
「圭ちゃんみたいに、そんな深いことは考えへんけど、俺も川を眺めるのは好きやなあ」
「あっ、もうこんな時間や、お店に遅れるう、哲ッチャン、あとからお店へ来てな」
 さらに哲夫が話しかけようとすると、彼女はいきなり慌てた様子で、小走りに階段を駆けあがって堤防の向こう側へと姿を消した。
 圭子と別れたあと哲夫は福屋食堂へいき、早喰いで夕食をすませたあと、急いで長屋の自室へ向かった。
 哲夫は部屋に戻り着くなり、敷きっぱなしの万年布団を壁際に押し寄せた。さらに、その下の畳を僅かに持ち上げて、その隙間から茶封筒を取りだした。封筒のなかには良介のもとでの稼ぎ分から、僅かずつだが蓄えたカネが入れてあるのだ。二千円のときもあれば、千円の日もあったが自分で天引きして蓄えていた。もし、ここから出ていくにしても、先立つモノはカネである。哲夫はそれを切実に感じていて、これまで密かに貯めてきたカネがそれでも五万いくらかにはなっていた。そのなかから、千円札十枚を抜き取ってポケットへねじ込むと、ふたたび表へ飛び出し駆けだした。
 アザミへいくと哲夫はカウンターの端へママを呼び、ポケットから取り出した千円札ばかりで一万円をそっと差し出した。哲夫にしてみれば、飲み代を滞らせたままで店に顔を出すのは気が引ける。そこで、幾らか入金して払う気持ちのあるところを示しておかねば、という思いに他ならなかった。
「ママ、一応これだけ払っとくわ」
「ええのん、巌さんから誘われた仕事は、まだ返事してないんやろ」
 ママは受け取った千円札の皺をカウンターのうえでのばしながら、カネに困っているはずの哲夫が、僅かなりとも未払いのツケを支払ったことに気を遣った。
「滞っているのは十二万七千円やから、一万円を引いて、あと残り十一万七千円や」
「わかった、残りの分はもうちょい待ってや」
 哲夫はわざと調子よく振る舞って、圭子の居るカウンターのなかほどへと席を移した。
「絶対に来てくれると思てたんよ、嬉しいわ」
 目の前でつくった水割りを勧めながら、アイラインを濃いめにひいた瞳で見つめられるだけで、哲夫は身近にこんな美人がいるのが夢のように思えた。
 そのあとはもうお決まりで、カラオケでデュエットをするなど、久し振りに哲夫は気分がよかった。十時近くになって大いに盛り上がっているなか、また巌がやって来た。
「今晩は事務所の当番でっさかい、帰りはアキオにでも送らせまっさ」
 巌は哲夫の隣りの席にかけると、圭子を手招きし呼び寄せて囁いた。
「圭ちゃんやったら、俺が送ったげまっさあ」
「哲、ワレ誰に口きいとるんじゃあ、そんな口きくのは十年早いわい」
 ふたりの会話を小耳にはさみ、つい何気なく哲夫が言ったことに巌は居丈高に凄んだ。
「ちょいと、何を大きな声だしてんの、圭ちゃんは私が一緒に送って帰るから」
 ママが寄ってきて、とりなしてくれた。
「哲、女が欲しかったら気張って仕事をせえや。ゼニ稼いだら何ぼでも、ええ女を世話したろやないか」
 驚いて謝る哲夫に巌はわざわざ耳元へ顔を寄せて、いつもの地声でがなり立てた。哲夫はますます萎縮して、肩をすぼめながら頷くより他なかった。巌はそのあとも落ち着かない様子で居たが、しばらくして店から出ていった。
 哲夫はその夜、日付が変わって午前一時の閉店になるまで居続けた。最後まで居残っていた客とともにアザミを出てからも、哲夫は表に立って圭子の帰りを待った。今夜はもう、巌が現れることはない筈だ。
 しばらくして、店のなかから圭子とママが現れた。ママは先ほどの巌に対する哲夫の軽口を咎めたが、責任を持って圭子を送っていくからと説き伏せると黙って帰っていった。
「ラーメンでも喰いにいこや」
 大通りまで出れば、流しの屋台が居る。店での会話で、彼女のアパートが大通りを渡った向こう側にあると言っていたから、ちょうど具合がよいと思った。ところが誘ってみると、彼女は逆に河川敷へいこうと言った。この時刻になって川縁へ涼みにいくのはどうかと思ったが、彼女が少し酔っているので夜風に吹かれるのもいいかもと、結局二つ返事でいくことにした。
「俺おっちょこちょいやからなあ、いらんことを言うて巌さんを怒らせてしもた」
「あいつのことは言わんといて、好かん。それより哲ッチャンは、もうここに来て長いの」
 道すがら自販機から缶入りの茶を買って、歩きながら話しかけると、圭子の方から哲夫のことを尋ねた。
「そやな、初めて毛斯倫橋を渡って来てから、もう八年になるかなあ」
「結構ながいこと、いてるんやなあ」
「まあな、けど梅田の場外馬券売り場で、竹山のおっさんと知り合いになって誘われてへんかったら、ここへは来てへんかったやろな」
「哲ッチャンは、ギャンブル好きなん」
「それほどでもないけど、一時期はまり込んでたときがあってなあ」
 圭子が話しにのってきたので、哲夫は自分のことを話題にした。
「最初は馬券売り場で、竹山のおっさんと顔なじみになったんや。そのうち挨拶だけやなしに話をするようになって、俺が旋盤工やてわかると、それまで貰てた給料より時給にして二百円ようけ出すからウチへ来いと誘われたんや」
「へぇー、スカウトされるなんて凄い」
 圭子は大袈裟に、感心してみせる。
「ところが当のおっさんは夜逃げをしてしまうし、ちっとも凄いことあらへん」
「私も宮崎から出て来て五年になるけど、このあたりへ来たんは初めてやわ」
「えっ、やっぱりそうか、それで宮崎のどこや」
「私は高千穂やけど、やっぱりて何でよ」
「いや、いま先に巌さんのことを、好かん、て言うたときに懐かしい気がしたんや、もう忘れかけてた、俺の故郷の訛りと似てたから」
「それで哲ッチャンは、どこなんよ」
「俺は日之影や、高千穂やったら隣の町やないか。この間も福屋で飯を喰うてたら、テレビの旅番組で高千穂峡とか夜神楽を映してたわ」
「ほんまあ、懐かしいわあ、私こっちへ出てくるまでは、バスセンターのところの土産物店で働いてたんよ」
「あのあたりはたびたび行ったけど、俺は高校を中途でやめて出てきたから、向こうで会うわけないわなあ」
 言い終わると哲夫は手にした缶のプルタブを引き開け、半分ほどを一気に喉へ流し込んだ。
「私ね、いつか高千穂に帰ったら、小さな喫茶店を始めるのが夢なんよ。夢で終わりそうやけど」
「いや、夢やなくて一緒に故郷へ帰ろか」
「それは、帰ってみたい気持ちは、すごくあるけど……」
「何も迷わんでええがな、飛行機に乗ったらあっちゅう間や」
「それはそうだけど、哲ッチャンの言うようにそんな簡単にはいかないのよ」
「カネならこれから頑張って稼ぐよってに、帰ったら天岩戸神社かトンネルの駅あたりの古い空き家を買い取って、民芸風に改装して店を出すのや。そら観光客にうけるで」
「哲ッチャンは、ほんまにええ人やねんなあ、そんなに言われたら、たとえ夢でも嬉しいわ」
「夢やない約束や、カネが貯まったら二人でここを抜け出して高千穂へ帰るんや、なっ」
 素直に喜ぶ圭子をまえにして、つい哲夫の喋り口にも熱が入った。

 運転席のラジオが、午後八時を告げた。巌から告げられた、仕事の集合時間だ。先刻から気が焦っている哲夫は、思わず舌打ちをした。ハンドルを握る低床四トン積みトラックは、巌の指示で宵の口にレンタルで借り出したものだ。圭子との約束を実現させるためにも、哲夫は巌に誘われた仕事に加わりカネを稼がねばと決心をしたのだった。ところが初日だというのに、事故渋滞にひっかかり思わぬ時間をくってしまった。さらには指定された場所への、地理に不案内だったことも災いした。やっとの思いで目的地へ乗り付けた時には、約束の時間を三十分近くも過ぎてしまっていた。
 外灯の消された工場の門から、閉ざされた守衛所のまえを通過して暗い構内を徐行した。両側に黒ぐろと影を落として並ぶ建物の一つから、いきなり人影が走り出てきた。
「哲、あれほど言うたのに遅れやがって、何を考えとるんじゃい」
 運転席を仰いで怒鳴ったのは、竹山大造だった。巌なら致し方ないが、いまさら大造から頭ごなしにものを言われる筋合いでもない。哲夫はムッとしたものの、窓を開け無言で運転席から右掌を顔の前にやり、睨みあげる大造に謝る素振りをしてみせた。窓から入り込む風に汐の匂いがして、海が近いのがわかる。
 大造が現れた建物の、正面入り口のシャッターがのろのろと上げられ、そこに作業着姿の巌が立っていた。巌は哲夫を見るなり「バックで突っ込め」と怒鳴るように声をかけた。
 トラックが建物のなかへ入ると、ふたたびシャッターがおろされた。なかには、すでに三台のトラックが並んで止められていた。哲夫は誘導されるままに、乗ってきたトラックをその横に並べて止めた。巌と大造、それに巌の配下で哲夫も顔見知りの、アキオと呼ばれている坊主頭の男がいた。
 建物の内部を見回すと一つだけ点る水銀灯の明かりのなか、錆び付いた天井クレーンが影を落す足もとには、砂に埋もれかけた軌道が見え隠れしている。片隅には埃を被り朽ちかけた鋳型枠がころがっていたりして、かつてはここが鋳物工場だったらしいことが窺えた。
「哲、約束の時間はきっちり守らなあかんぞ。ええ加減やと、思わんヘタをうつからのう」
 遅れたことを詫びる哲夫に、巌は抑揚のない言い方をしたあと「いまから、あれを積むのや」と建物の奥を顎でしゃくってみせた。哲夫がその方向に目を凝らせると、わずかに明かりが届く建物の奥に、黒っぽくドラム缶が並んで見えた。
 巌の合図とともに、突然にエンジン音が響いて、ドラム缶の陰からフォークリフトが現れた。坊主頭のアキオがドラム缶を少し傾けると、見知らぬ男が操縦するリフトは、前に伸びた二本のフォークをその隙間へ差し入れてドラム缶をすくい揚げ、そのまま転回して哲夫が乗ってきたトラックの荷台に積み込み始めた。慌てて飛び乗った哲夫は、荷台の後ろから積み揚げられるドラム缶を、順次運転台寄りへと移動させなければならなかった。
「おい、素手で触るな。これをはめてやれ」
 荷台に上がってきた巌が、厚手のウエス手袋を投げてよこした。哲夫はその手袋をはめると両手でドラム缶の端を持ち、腕にちからを込めると同時に、腰に反動をつけて手前にドラム缶を僅かに傾けた。さらにその状態のまま、ドラム缶を回転させながら移動させるのは、不慣れな者には酷く骨のおれる作業だった。
「巌さん、昨夜ケッたんとちがいまっか。なんや腰がふらついてまっせ」
 歪めた顔を真っ赤にしてドラム缶と取り組む巌に、大造が冗談めかして声をかけた。
「おおよ、昨夜の女久し振りにケッたったら、しつこいのなんの」
 ケッたとは女を抱いたいう意味で、このあたりの労務者のあいだでよく交わされる隠語だ。まさか、その相手はあの圭子と違うやろな、ふたりの会話を耳にした哲夫は、ひどく気にかかった。余計な想像を打ち消そうと、それから必死でドラム缶をころがした。
 四台のトラックに、ドラム缶を積み込む作業は、かれこれ一時間近くもかかった。巌はリフトを操縦していた男に労をねぎらい、胸ポケットから二つ折りした一万円札を無造作に取り出した。男はちょこっと頭をさげてカネを受け取ると、傍に居る哲夫たちにも愛想笑いを浮かべて足早に立ち去った。男の姿が消えると、哲夫は巌に問うてみた。
「あの男、どこのモンでっか」
「リフト乗りが居らんよってに、職安の表に立ってて声をかけたら話にのってきよった。どっちみち、知らん人間の方が具合がええ」
 巌は言ったあとで「これからが本番や、気を引き締めてかかれ」と、哲夫ばかりか他の二人にも向かって檄をとばした。
「ところで、このドラム缶の中味は一体何ですねん」
「哲、喋りすぎやぞ、黙って言われた事だけやらんかい」
 とたんに鋭い目つきをする巌に、哲夫は慌てて口を噤んだ。
「行くぞ」巌の合図に、アキオが照明を消した。シャッターが巻き上げられ、それぞれが自分の持ち込んだトラックに乗り込み、順番に建物の外へ移動させた。ふたたびシャッターが閉じるのを待って、巌の先導で四台のトラックは、夜更けの工場街へ走り出た。いき先を聞かされないままに、一番うしろにつけて走る哲夫は、先行車を見失うまいと間隔を保つのに懸命だった。
 市街地を抜けて一時間ばかり走り、山間のパーキングエリアに車を入れて小休止をした。そこで巌は三人に向かって、林道へ入ったらライトを消すように指示をした。疑問や質問を一切寄せ付けぬ雰囲気に、皆は一様に黙って頷いた。
 パーキングを出発してしばらく走り県道から外れて林道に乗り入れると、そこで指示された通りにライトを消した。車幅ぎりぎりの道は、木々の枝が車体を擦る音が意外に激しく感じる。哲夫は前をいく大造が運転するトラックの、時たま点る制動灯の灯りを目当てにあとを追った。ともすれば星明かりでさえ、両側から繁る立木の枝に遮られるなか、雑草に埋もれて白っぽく続く轍の跡を外すまいと、ハンドルさばきも慎重になる。
 大造のトラックが停止した。先導する巌のトラックが止まったらしい。大造がトラックから降りるのを見て、哲夫も運転席のドアを開けた。
「足もとに、気いつけえ」
 大造が振り向いて叫んだときには、すでに哲夫は草むらに降り立っていて、足を滑らせかけて慌ててドアにしがみついた。山肌にへばりついた道の片側は、灌木に遮られてよくわからないが、かなり険しい崖っぷちであるらしい。よくこんなところへ無事に車を乗り入れられたものだと、我ながら哲夫は感心すると同時に、いまさらに恐怖心がわいた。どこかずっと下方で、微かに水の流れる音がする。
「見当をつけてたんはこのあたりや。よし、ここに決まりや」
 巌が三人を振り向き、声を抑えて言った。巌とアキオが、荷台の側板を倒して車上にあがった。続いて大造が荷台にあがるのを見て、哲夫も慌てて側板を倒して荷台によじのぼった。
 何も知らされないまま運んで来たドラム缶だが、巌がそれを投棄する目的であることは、哲夫も途中からうすうす感づいてはいた。
「ここからドラム缶を蹴り落とせ」
 巌の押し殺した号令に、哲夫は一瞬躊躇したがすぐに腰を踏ん張ると、手をかけたドラム缶を腰にちからを込めて、まえへ押し倒した。呻きに似たかけ声とともに、ドラム缶はもんどり打って崖下の闇に消え、灌木をなぎ倒す音だけが遠のいて聞こえた。そのとき、小さな光りがひとつ浮かびあがったかと思うと、すーと落ちていくように目の前をよぎって二メートルほど崖下の草むらで明滅した。
「蛍や、蛍が飛んでるわ」
「もう、今頃飛んでるんは幽霊蛍いうてな、光り方も弱いやろ。死ぬまえの蛍をそう呼ぶのや」
 哲夫の声を聞きつけ、大造が自分のトラックの荷台から答えた。言われてみれば、たしかに普通の蛍にしては、放つ光が橙色がかって弱々しい。
「こら愚図愚図せんと、早いことやらんかい」
 話し声を聞きつけた巌が、ふたたび叱咤した。
 それからもドラム缶を蹴落とすたびに、橙色の光りが幾度となく闇に浮んでは草むらに消えた。

 このところ、哲夫はどうも気分がすっきりしなかった。異常に脂汗をかくのと、身体全体が怠いのは、八年ぶりと伝えられる猛暑のせいばかりではなさそうだ。それでも、仕事には休まずに出かけた。その日は遠方に住む不在地主からの依頼で、郊外にある空き地の草刈りと周囲の溝さらいだ。容赦なく照りつける日射しと熱気のなかでの作業は、それでなくても不調気味の体にはかなりこたえた。
「おい、一服しようや」
 良介の声に、哲夫は待っていたとばかりに立木の陰までいくと、崩れるようにその場にへたり込んでしまった。
「哲、どこぞ悪いのと違うか、いっぺん診療所へいって診て貰えや」
 良介が心配げに寄って来て、手に持った缶コーヒーを差し出した。
「大丈夫や、ちょっと寝不足気味なのかなあ」
 缶コーヒーを受け取り片手で首からかけたタオルで額の汗を拭うと、哲夫は無理に笑顔をつくって答えた。
「ま、頑張るのもええけど程々にしとかな、身体つぶしたら元も子もないやろが」
 良介が言うのは尤もで哲夫は返事のしようもなく、黙って缶コーヒーを口もとへ運んだ。頭のふらつきや目がチカチカするのも、睡眠不足のせいなのはわかりきっている。
 それでも、手っ取り早くまとまったカネを蓄えるには、巌に誘われた夜中の仕事しかない。もっとも哲夫は些かも、それを後悔してはいなかった。圭子と交わした約束を一歩一歩実現に近づけるのを思えば、このぐらいのことは苦労のうちではなかった。
 体は不調がちであっても、気持ちのうえでは毎日に張りがあった。それに仕事のあるときは、巌も約束をした分の報酬をきっちりと払ってくれている。もっとも巌が仕事の現場へ顔を出したのは最初のうちだけで、その後はほとんどアキオが来て采配を振っていた。
「哲、よもやおまえ、アザミの圭子とかに熱あげているのと違うやろなあ」
 良介は並んで横にしゃがむと、そう言って哲夫の顔を覗き込んだ。
「アホな、兄貴どこからそんな話になるのや」
「河川敷でおまえと圭子が逢うているのを、ちょくちょく見かけるとカッパが話してたからな。いらんお節介かも知れんけど、あの女に関わり合うのは、ほどほどにしておくのやな」
 それだけ言うと良介は「さあ、もうひと息頑張ろか」と哲夫の肩を叩いて立ち上がった。
 カッパの奴いらんことを喋りやがって、腹の中で哲夫は憤慨したが、良介もそれ以上は話題にせずに現場へ戻って行った。小休止をしたおかげで少しは気分の良くなった哲夫は、脱ぎ捨てていたアポロキャップを拾いあげ良介のあとを追って立ち上がった。

 台風の影響と思われる夜来の大雨は朝方一旦小降りになったものの、ふたたび激しい降りになった。この雨にたたられ、良介の便利屋も今日はやむなく休業したが、それでも巌の仕事はあった。
 哲夫が建築廃材を満載したダンプを、目指す堤防から二キロばかり離れた道路脇の空き地に止めてから三十分ばかりが経過した。横にはおなじく大造と、アキオの乗るダンプが順に並んで止まっている。本来なら、ここから二十キロばかり離れた山間部まで運び込み投棄する筈であった。それを、わざわざこの雨で足もとの悪い山中まで運ばなくても、増水した川へ流してしまえば今夜のうちに海までもって行ってくれる。こんな巌の一言で、こうやって待機しているのだ。
 それに、この距離ならもう一往復は楽に出来るから、明晩に予定していた分の仕事も片づけてしまえる。さらにショベルカーやダンプのリース料も半分で済むし、巌にしてみれば一石二鳥に違いない。
 胸ポケットの携帯電話が鳴った。今夜は自ら出向いて、指揮をとっている巌からだった。いまから一台ずつ間をおいて堤防へ向かい、橋を渡ると左折して堤防上を走り、流れが分岐するあたりで投棄せよと指示をしてきた。
 右端に止まっていたアキオのダンプが、先発で走り去った。十分ばかりして、大造のダンプが動き出した。雨しぶきのなか遠ざかるテールランプを見送り、哲夫はエンジンを始動させていつでも発進できる状態にした。突然に貧乏揺すりが起こり、気持ちを落ち着かせるためにタバコをくわえて火を点けた。そのとき巌から車を出せと指示があり、哲夫はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 雨足は弱まる気配もなく、哲夫はせわしく動くワイパーの向こうに目を凝らせた。やがて目前に堤防が迫り、橋に向かう上り坂に差しかかると再び巌から指示があった。なぜかノイズが入り聞き取りにくいが、消防がパトロールをしているから、しばらく脇道へそれて待機しろ、と言っているらしい。目前に黄色の点滅信号が迫っていて咄嗟にハンドルを左へ切り脇道へそれ、そのまま交差点近くの道路脇に駐車して次の指示を待つことにした。
 消防がパトロールをしているということは、水嵩が警戒水域に達しているのだろう。一瞬、カッパのことを思った。毛斯倫橋の下にある小屋は、すでに流されているかも知れない。
 極度に緊張を強いられたときの癖で、下腹がキリリと痛んだ。そのうえ先ほどから何度も胸底が圧迫感に襲われて不快だったのが、げっぷとともに多量の胃液がせり上がって口の中に溢れた。たまらずに窓から顔をつき出し吐いたが、強烈な酸味と苦味が混じり合った唾液がいつまでも口のなかに残った。
 それからしばらくして、指示した道順をフルスピードで目的地へ向かへと巌から指示がきた。腕時計を見ると日付が変わって、十二時を少しまわったところだった。
 行き交う車もなく、一気に橋を渡ったところで左に急ハンドルを切って堤防の道へ乗り入れた。増水した川の流れを横目に、ライトを消して車幅いっぱいの地道を走るのは容易なことではなく、哲夫は焦る気持ちを抑えながら必死の思いでハンドルを操った。
 やがて、流れの分岐点に着いた。水流は堤防の突端に激しくぶつかり、ふたつの流れに引き裂かれている。この双方の流れは、ここから三キロばかり下った島ノ内のはずれで、ふたたび合流しているのだ。
 堤防の突端は、そこだけ車がUターンできるほど幅広になっていて、ここから河川敷へと続く工事車両用の道が、ほとんど濁流に没している。哲夫は荷台を川縁に向けて、慎重にダンプの方向を変えた。後方を確認するために窓を開けて顔を突き出すと、雨しぶきが容赦なく顔を濡らした。まるで地鳴りのような水流の響きは、いまにも堤防が決壊するかの錯覚にとらわれ、そのまま引き込まれてしまいそうな恐怖感に襲われる。
 堤防の内側には、広大な敷地を有する浄水場があるだけで、付近に民家はない。この地域は、隣接する市の飛び地になっていて、それだけ監視の目も届きにくいと思われた。
 それにしてもええ場所を見付けたもんや、哲夫は巌の抜け目のない段取りに感心した。荷台をあげ切ると積載物をすべてずり落とすために、二、三回僅かに上げ下げを繰り返して荷台を揺すったあと、急いでもと来た道を引き返した。公道へ出たところで巌に投棄を終えたことを告げ、もう一往復するためにふたたび積み込みの現場へと急いだ。
 一向にやむ気配もなく降りしきる雨の中、周りを目隠しパネルで囲った現場へ着くと、ショベルカーの運転士が最後の積み込みを行うために待っていた。古い廃工場を取り壊していて、跡地にはマンションでも建つのだろうか。哲夫が運転士の誘導する場所にダンプを停めるや、彼は早速ショベルを操り、積み込みを始めた。この男も、巌がどこからか連れて来たのに違いない。早く作業を終わらせようと気が急くのか、積み込み方も荒っぽい。アームの先端に取り付けたバケットが、木材やスレートなど何もかも一緒くたの瓦礫を掬い揚げては、ぐるりと回転をしてダンプの荷台の上で勢いよく放す。そのたびの衝撃で、車体が軋んで大きく揺れた。
 二度目の積み込みをして、ふたたび投棄場所へ向かいながら巌に連絡をとると、大造ら先行の二台は、すでに作業を完了したということだった。巌は市の職員の見張りもうろついているから気をつけろ、と忠告をしたあとで、これで最後やから絶対にヘタをうつな、と怒鳴るように叫んだ。了解と答えて、橋に向かって堤防の勾配を一気に加速して上りかけたときだった。バックミラーに、回転する赤色灯が映った。
 慌ててパトカーにつけられている、と巌に告げると、橋を渡ったら左折せずにそのまま真っ直ぐに走れ、と指示をしてきた。バックミラーを気にしながら橋を渡り、指示通りに真っ直ぐに走った。幸いパトカーは橋の手前で、私鉄の鉄橋が架かる川下へ向けて堤防上の道路を右折していったらしい。哲夫はひとまず安堵すると、巌の次の指示を待つことにした。しかし速度を落としてはいるものの、このまま進んで競馬場の前を過ぎるとすぐに二つ目の堤防に突き当たってしまう。道はそこで右に折れ、堤防沿いに市街地に向かうために人目にもつきやすくなる。
 指示を待ち、次第に焦りはじめたところに巌から連絡があった。堤防の直前で左折して護岸工事用の地道を走って堤防上に出ると、その場ですぐに投棄せよと指示をした。
 この豪雨のなか、たまに通るといえば、増水を警戒するパトロールカーぐらいだ。哲夫は対向車や後から来る車がいないことを確認すると、ためらうことなく左にハンドルを切って地道へ乗り入れた。堤防に上がるとすぐさま方向を変えながら、慎重にダンプの荷台を川縁に向けて後退させた。気持ちは焦るがブレーキを利かせるタイミングが一瞬遅れると、ダンプもろとも濁流に呑み込まれてしまう。全身の神経を集中し、ここぞと思うところでブレーキを目いっぱい踏み込むと一気に荷台をあげた。
 対岸の堤防上で、赤色灯が明滅した。付近には両岸を結ぶ橋がないからすぐに追われることはないが、この地点は隣接する都市との境界が複雑に入り込んでいるところだ。一刻も早く、この場所から離れるに限る。泥濘んだ地道から脱け出たところで消防団の小型消防車とすれ違ったが、哲夫は無事に仕事をやり遂げた充実感もあって、とりわけて気にかけることもなかった。くわえたタバコに火をつけると、最初に吸い込む煙の旨さを味わいながら、おもむろに携帯電話を取り出した。こちらがかけるより先に呼び出しが鳴り、無事に作業を終えたことを告げるまえに巌の怒声が耳をつんざいた。
「なにをやっとるんじゃ、うしろを見てみんかい」
 何事かと振り返ったキャブの後部窓から、伸びきったシリンダーの白く光ったロットが目に飛び込んだ。あかん、荷台を下げ忘れている、哲夫は動転した。
「どアホが、目立つことをしやがって」
 耳にあてた携帯電話から、さらに巌の罵声があびせられた。思わぬ失敗に狼狽えてしまった哲夫は、激怒している巌の指示を聞かぬまま、携帯電話を助手席のシートに放り投げた。
 慌てて荷台をさげながら、すでに監視のパトカーに見つけられているのではと、不安に囚われながら夢中でアクセルを踏み込んだ。

 昨夜の豪雨で、カッパは橋下の小屋が流されてしまい、途方に暮れていた。そこで哲夫は空き家のままになっている、もとの竹山鉄工所へいくように計らってやった。そこの二階はかつて哲夫が寝起きした部屋で、まがりなりにも畳の上での寝起きは、カッパにすれば少なくとも十何年ぶりかのことに思われた。喜んだカッパが焼酎などを買って来たため、二人で酒盛りになったあと寝込んでしまっていたらしい。目覚めて携帯電話の時間表示を見ると、午前一時をまわっていた。起き上がるとカッパを起こさぬように、そっと階段を下りて表に出た。長屋のまえまで戻って来たところで、こちらへ歩いて来るアキオと出会った。
「カシラがアザミで、おまえを待ってるんや」
 アキオは哲夫を見ると、有無を言わせぬ調子で言い、先に立って歩き出した。相手の素振りから昨夜のしくじりを巌が怒っているのだと直感したが、いまさら逃れるわけにもいかずアキオのあとについていった。アザミへ着くと、先に店のドアを開けたアキオが哲夫を振り向き、入れ、とばかりに顎をしゃくった。
「哲、何でここへ呼ばれたんか、わかっとるやろなあ。ワレのおかげで、こっちまでヘタを打つとこやないか」
 恐る恐る店内へ入った途端、カウンターにかけていた巌は振り向いて哲夫の顔を見るなり怒鳴った。
「巌さん、すんまへん、謝ります」
「アホんだら、謝って済むもんなら警察も裁判所もいらんわい」
 椅子を蹴って立ち上がった巌の右拳が、哲夫の顔面めがけてとんだ。頬に衝撃と熱感が走り反動でよろめいた哲夫の体を、うしろからアキオが支えた。アキオに支えられた状態で、さらに哲夫は巌に殴られ続けた。ここで死ぬかも知れん、一瞬そんな思いが哲夫の脳裏を掠めた。
「もう、やめたって、死んでしまうやんか」
 圭子の悲鳴にちかい叫びが、次第に朦朧となりかけていた哲夫の耳に聞こえた。

 先ほどから、何度も耳元で名前を呼ばれているのだが、返事をしようにも声が出ない。
「哲ッチャン、気いついたん」
 目を開けると圭子とママが、真上からのぞき込んでいる。哲夫はおぼろげながら、仰向けで床にぶっ倒れている自分の置かれた状況がわかってきた。
 やがて圭子に手を添えられてどうにか身を起こすと、すでに巌もアキオも居なかった。着ているTシャツやまわりの床が濡れているのは、哲夫が気を失いアキオがバケツで水をかけた為らしい。ママと圭子に支えられてなんとか立ち上がったが、巌がまた戻って来はしないかと恐怖心にかられ、すぐにでも出て行かねばと気が焦った。まだ頭がふらつく状態だったが、圭子が付き添ってくれて哲夫はアザミをあとにした。
 巌に散々殴られたあとが、熱をもっているのか顔全体が火照っている。まだ鼻血が完全に止まらず、圭子がティッシュを取り出し丸めて鼻孔に詰めてくれた。哲夫は圭子の肩を借りながら、殴られたあとの鈍痛に「チクショウ」と呻きながら耐えた。火照った顔に夜風がヒンヤリとして心地よく、二人の足は自然に河川敷公園へと向いた。テニスコートやベンチのあったあたりは、濁流が運んできた様々なゴミが堆積していて、あたりに異臭が漂っている。
「これだけどつかれたんは、二十歳のころ街のチンピラに絡まれて喧嘩して以来や。あのときも三対一で散々やられたけど、今日の方が堪えるなあ」
 川縁に人影はなく哲夫は痛さを紛らわそうと喋ったが、目蓋が開け辛くて自分でも顔全体が腫れあがっているのがわかる。口のなかまで切れているのか、唾を吐くたびに足もとに血の塊が飛び散った。
「哲ッチャン、あんまり喋らんとき」
「どつかれながら、いま死んだら圭ちゃんとの約束果たされへんようになる、俺そんなこと考えたりしてたなあ」
 圭子は店から持参してきた濡れタオルを、哲夫の腫れあがった頬にあててくれた。哲夫はそれを受け取り、額と目だけを出して両手で顔を覆った。
「私との約束なんか気にせんとき、どうせ、なるようにしかならんのやから」
 圭子はそう言ってからタバコを取り出して火をつけ、深い溜息とともに煙を吐いた。
「そんな気の弱いこと言うてたらあかん。俺な、体張っても二人で高千穂へ帰ると決めたんや」
「ありがとう、もうええから喋らんとき」
 圭子はそう言って、哲夫を気遣った。

 哲夫がアザミの店内で、巌からこっぴどく殴られてから一ヶ月近くになろうとしていた。その日は仕事の依頼が、軽作業一件であったために良介だけが出かけていた。
 一日が過ぎ哲夫が福屋食堂で早めの夕飯を食べているところへ、良介が仕事先から戻って来た。哲夫とむかいあって掛けると、冷えた麦茶を一杯ぐっと飲み干してから話し始めた。
「哲、診療所の真向かいにある、田中精機を知ってるやろ。旋盤工を募集しているらしいよってに、いっぺんのぞいてみたらどないや」
「兄貴、また、いきなり何や」
「そうかて考えてみい、いまみたいな生活が、いつまでも続くわけがないやろが。おまえは旋盤使うてるのが、一番性に合うてるのや」
「そら、いつかは俺も本業に戻らなあかんと思てる。けどいまはカネ貯めなあかんのや」
「哲、おまえ巌からあれだけやられても懲りんとあの女に関わってるのか、どうしようもないアホやぞ」
 哲夫はまたも圭子のことかと、うんざりしたものの黙って聞いた。
「巌から、あれほどにやられたんは仕事の失敗だけやない。おまえがあの女のまわりをうろちょろするのが、巌のやつには目障りやったんや。金輪際あの女に近づくな、それからアザミにも行くな」
「兄貴、圭ちゃんと俺とは故郷が一緒やからよう話があう、ただそれだけなんや」
「悪いこと言わんよってに、大怪我せんうちに俺のいう通りにせえ」
 哲夫のことを歯痒く思うのか、良介は厳しい口調で言い含めた。いまいくら良介に圭子のことを言っても無駄だと思い、哲夫はそれ以上の反論をしなかった。
 仕事に関して良介の言うことはもっともだが、なまじ旋盤工に戻って勤めるよりも、このまま良介の便利屋と巌の仕事を掛け持ちしていた方が実入りはよい。実際に巌のところは、短時間で旋盤工の一日分を稼げるのがなんといっても魅力だ。そんな思惑とは裏腹に、哲夫は自分のことを親身になって心配してくれている良介の手前もあり、とにかく格好だけでも田中精機へ一度いってみることにした。

 良介の長屋から大通りに出て、毛斯倫橋へ向かうのと反対の方角へ、まっすぐに三百メートルばかり向かうと、堤防に突き当たりその先は緑橋へと続く。良介のいう田中精機はその堤防下にあり、途中には巌の所属する組の事務所などもあった。
 田中精機のまえまで来てみると、良介の言ったとおり工場のスレート壁に旋盤工募集の張り紙がしてあった。貼られてから雨でも降ったのか、所々破れて肝心の時給のところは、穴があいていてよくわからない。哲夫は、少し様子を見てやろうと、真向かいにある診療所の玄関わきから、それとなく工場内をうかがった。
「おまえ、竹山に居てた男やろ」
 いきなり声をかけられて、振り向くと田中精機の社長が立っていた。うしろに右の人差し指に包帯を巻いた、若い工員がついている。表向きは内科診療専門なのに、あたりには他に医療施設がないこともあって、ちょっとした怪我の治療ならやってのける重宝な診療所だ。
「おまえ、NC旋盤使えるか」
 社長は品定めでもするように哲夫の頭から足もとまで眺め回したあと、ぶしつけに問うてきた。
「NCは駄目ですわ。汎用機やったら自信ありますけど」
「ウチはNCの使えるモンが欲しかったんやが、汎用機ならあかんなあ」
 一方的に話しかけてきておきながら、社長はそれだけ言うと包帯の若者をうながして工場へ戻って行った。コンピューターによる数値制御のNC旋盤は、基礎訓練などをしていない哲夫にはすぐに使えるものでもない。何も話さぬうちから断られてしまい、哲夫はあっけにとられて社長の背中を見送った。
 まあ、初めから期待をしてやって来たわけではないからと、自分に言い聞かせて行きかけると、ふたたび工場の入り口から顔を出した社長が哲夫に手招きをして呼んだ。
「巌がなあ、竹山ところの旋盤を五百万で買い取とれ、いうて来たんやが断ったんや。そうしたら今度はフライス盤に溶接機、何もかも一切合切ふくめて、五百万でええから現金で買い取れ、いうて来よった」
 哲夫が傍へ寄っていくと、社長はまたもや独りでに喋り出した。すぐには、なんのことだか理解できなかったが、聞くうちに、竹山大造が夜逃げをする直前のことだとわかった。
「せやけど社長、なんで巌さんがそんな話を持ちかけてくるのかなあ」
「二回目の不渡りを出した時、竹山はんはどうも巌に相談を持ちかけてたみたいやな。ウチは汎用機は要らんし、そんな余裕はないよってに断ったけどな」
「それで、俺の使うてた旋盤なんかは、何処へ持って行ったんやろ」
「さあな、どうせ巌のことや、どこぞの中古機械ブローカーにでも叩き売ったんやろ」
 田中精機の社長から聞く話は、哲夫にとって思いもしない内容で俄には信じ難かった。社長に、からかわれているのではないかとさえ思った。

 夕闇が迫っていた。この四、五日のあいだに、哲夫に巌から仕事の話はなく、連日のように熱帯夜が続いていた。福屋食堂で夕飯を食ったあと冷房のない部屋へ帰っても蚊の餌食になるだけだと、哲夫は夕涼みがてらに河川敷公園へと向かって歩いた。
 それにしても、竹山大造の夜逃げが巌の指図だったとは信じられない。巌も大造にしても、哲夫にはそんな事おくびにも出さなかった。こんど竹山大造に会うて問いただし、それが事実であったなら俺をこんな目に遭わせておいて絶対に許せない。昼間に田中精機の社長から聞かされた、話の一部始終が哲夫の頭から離れなかった。
 日が完全に暮れきると、涼を求めて川辺へ繰り出す人々で河川敷公園は結構賑わう。遠くで打ち上げられる花火の乾いた炸裂音が響き、対岸の空に色鮮やかな光りの輪が浮かび上がるたびに、其所此所からどよめきと喚声があがった。
 そんな喧噪から少し離れた川縁に佇み、哲夫は独り物思いに耽った。田中精機の社長が話した内容が事実ならば、自分だけが何も知らずに居たことになる。ほとぼりも醒めんうちに親方の竹山大造が現れたのも、考えたら巌との間に特別なモノを感じさせる。あれこれ詮索すればするほど、納得がいかないことだらけだった。
 いきなり背後から肩をつかまれ、哲夫が驚いて振り返ると、いつのまに来たのか良介が立っていた。そればかりか、うしろには巌までがいる。
「哲、えらいことや。いましがた刑事が、おまえのことを尋ねて家に来よったんや」
 よほど慌てて駆けつけたとみえ、良介は激しく肩を波打たせて荒い呼吸のまま一気に喋った。
「ぐずぐずしてる場合やない。すぐにここからズラかれ」
 一瞬なんのことか状況が飲み込めずポカンとする哲夫に、巌が抑えた声で命令した。
「警察がマークしとるんは哲おまえ一人や、わかっとるなあ」
 巌の鋭い目は、哲夫を見据えて有無を言わさない。とにかく、この場所に居るのはまずい。と言う巌の意見で、取りあえず現在カッパが住み着いている、もとの竹山鉄工所に身を隠すことになった。哲夫は苦労して畳の下に蓄えたカネが気がかりで、一度長屋の自分の部屋へ戻ると言った。
「警察が、張り込んでいるかも知れん。便利屋、おまえも哲が出ていくまで家には帰るな」
 巌はとんでもない、という顔で二人を見て一蹴してしまった。
「兄貴、なんで俺だけが警察に目をつけられなあかんねん。おかしいやないか」
 巌がいってしまってから、哲夫は良介に食ってかかった。
「哲、巌に逆ろうたらどうなるか、おまえが一番わかってるやろ。こういうことにならなければええがと心配してたんが、ほんまになってしまいやがった」
「俺は巌に誘われただけや、こうなったら警察へ行って何もかも喋ったる」
「哲、落ち着けや、そんなことしたら、あとどういう事になるのかわかってるやろが」
 良介は苦り切った顔で声をひそめ、哲夫を宥めた。
「兄貴、出ていくまえに圭ちゃんに逢いたいのやけど、何とかならんやろか」
 巌の仕事で得た報酬と良介の便利屋を手伝い始めてからコツコツと貯めたカネが、それでも五十万ほどにはなっていた。故郷へ帰っても圭子が喫茶店を開くための資金にはとても及ばないが、せめてもそれをなんとか彼女に渡してやりたかった。
「哲、まだ分からんのか、俺の忠告を聞いてたら、巌からこんな仕打ちをされることもなかったんやないか」
「わかってる、けど、必死で貯め込んだカネが畳の下に隠してあるのや、何とかそれを圭ちゃんに渡してやりたいのや」
「ここを出ていったら、カネがないとたちまちに困るやないか。あとからおまえにカネを届ける方法はいくらでもあるよってに、アホなことやめとけ」
 良介はなかば呆れながらも、真剣な面持ちで哲夫を諭した。
「兄貴が心配してくれてることは、ようわかってるつもりや。けどな、いままで自分の事しか考えんと生きてきたよってに、何とか圭ちゃんの喜ぶことをしてみたかったんや。せやけど俺はその約束も、よう果さんかった。ほんま、しょうもない男やで」
 哲夫の言い知れぬ絶望感が良介にも伝わったのか、彼は無言で首にかけていたタオルを哲夫に差し出した。そのタオルでしきりに目元を拭う哲夫を見ながら、良介は圭子に渡してやるとも、なんとも言わなかった。
 そのあと哲夫は良介と一旦別れて、民家や作業場が建て込む隙間みたいな裏道を抜け、かつて住み込んでいた元の竹山鉄工所へいくと、裏口からそっと体を忍び込ませた。
「もし警察が来よっても、わしがうまいことやったるよってに、おまえは二階へ上がって隠れておけ」
 すでに事態を聞かされていたのか、待ち受けていたカッパに促されて哲夫は暗闇の土間から、手探りで用心深く階段を踏みしめて上がっていった。黴と壁に染み付いた油の臭いでムッとするなか、上り詰めた部屋のなかほどに、カッパの寝床なのだろう毛布が敷いてある。襲いかかる蚊を手で追い払いながら、外の様子を窺うつもりで窓際へ歩み寄ろうと踏み出した途端、足もとの何かを引っかけた。金属音の響きに身をすくめ、薬缶と知り舌打ちをする。
 これからどうなるのやろ。こんなときに遠くで聞こえる緊急車両のサイレンが、哲夫の不安を一層かき立てた。そのとき、誰かが階段を上がってくる気配に哲夫は身構えた。現れたのは圭子だった。
「哲ッチャン……」声をひそめて呼びかけ、暗闇に目がなれないのか、顔を突き出すようにして部屋のなかを探っている。
「圭ちゃん、来てくれたんか」
 まさか圭子が来るとは思いもよらなかっただけに、哲夫は思わず声をあげた。
「大変なことになったわねえ、これからどうするのよ」
「そんなことより、圭ちゃんとの約束を果たされんかったんが口惜しい、ほんまにごめんな」
「謝ることなんかないわ。哲ッチャン、生きてる限りまたどこかで逢えると思うし」
 圭子はそう言ってから、巌に見つかると大変やからと落ち着かない様子だ。咄嗟に哲夫は、圭子の腕をつかみ引き寄せた。部屋の異臭とは相容れない香料の匂いに、哲夫はわけもなく感動した。
「体に気いつけて、何処へいっても元気でね」圭子は哲夫の耳元で囁くと、哲夫の手を解いて階段を下りていった。
 今度のことで、彼女がこの町を出て故郷へ帰るのを諦めることになったら、そう思うと哲夫は何ともやり切れなかった。一人取り残されたような思いになっているところに、階下からカッパの押し殺した呼び声がした。注意深く階段を踏みしめ下りていくと、良介と福屋食堂の大将が来ていた。
「これ弁当や、哲ッチャンが好物の豚カツ、揚げたてをぎょうさん入れてあるしな」
 大将は手に提げた包みを差し出し、哲夫に持たせた。
「餞別いうほどのもんやないけど、気持ちや」
 良介も胸のポケットから取り出したハトロン紙の封筒を、押しつけるように渡した。
「これまでに何人も出ていきよったけど、いつの間にかまた舞い戻って来よる。島ノ内は昔からそんなところや、時期がきたらまた戻っておいで」
 大将がしんみりと言えば、哲夫はふたりに向かって「おおきに」と掠れた声で頭をさげた。とりわけて、ほかに言うべきこともなかった。なぜか今夜に限って、アカが哲夫の足もとにさかんに擦り寄ってきた。
 そこへ巌が顔を出した。手首まで彫れた刺青を隠すためか、いつもは真夏でも長袖のシャツを着ている巌が、珍しく腕まくりをしている。
「いま九時半や、遅うなると却って怪しまれる。これから俺が関所へ行ってお巡りを引きつけておくよってに、そのあいだに橋を突っ走って渡れ」
 巌はカッパに命令すると、ふたたび出ていった。そのとき哲夫の携帯に、竹山大造から電話がかかった。大造は「そこへ行くつもりだったが、警察の目についてもいかんから」と言い訳をした。
「ひとつ聞くけど、あの時の夜逃げは巌さんと組んでのことやったんか」
 哲夫はこれまで胸につかえていた疑問を、大造に問いただした。
「すまん、いずれまた、おまえにも話すつもりやった」
 大造は急に口ごもり「元気でやれよ」とだけ言って、一方的に電話を切ってしまった。一瞬哲夫は手にした携帯電話を睨み付け、そのまま良介に返した。
 皆は黙り込んでしまい、場を取りなすように良介がタバコの箱を取りだして皆に勧めた。哲夫に続いてカッパと大将も応じて、箱から抜き取ったタバコをくちにくわえた。良介が差し出すライターの炎に、それぞれの硬い表情の顔が照らし出された。たまに誰かが鼻汁を啜り上げる音と、煙を吐く溜息みたいな息づかいがだけがして、深紅色の火が暗闇に揺れた。
「いこか」
 カッパの声に、皆は一様に足もとに捨てたタバコを踏みにじって消した。カッパは自転車に繋がれたリヤカーを指して、哲夫に乗るように促した。橋を渡りきるまで被れと、カッパが差し出すドンゴロスの袋は、集めたアルミ缶を入れるやつだ。哲夫は頭からその袋に身をかがめて潜り込み、膝頭を抱いて荷台に横たわった。それでも足がはみ出すために、カッパがさらに折りたたんだ何枚かの段ボールを、上からドンゴロスの袋を被うように重ねた。
 僅かに自転車がくぐれる高さにまでシャッターが引き上げられ、良介が表までカッパの引くリヤカーのあとを押して出た。
「哲、畳の下のカネは俺が間違いなく渡してやる。心配するな、必ずおまえの気持ちが圭子に通じるやろ」
「兄貴、おおきに」
 声を押し殺して話しかける良介に、哲夫は段ボールの下から小さく頷いた。

 関所近くの路上には、まだ夕涼みの人影がまばらにあった。だがカッパの漕ぐリヤカーを引いた無灯の自転車と併走するアカ犬に、人々は特別に関心を払うこともない。
 哲夫は頭から被った袋の吐き気をもよおす悪臭には閉口したが、それにもまして体を折り曲げたままの窮屈な姿勢で苦痛に耐えた。胸元に抱え込んだ弁当の温もりが、一層汗を噴き出させる。次第に激しくなるカッパのぜいぜいという息づかいとペダルの軋みは、毛斯倫橋を渡り始めたらしい。
 ふたたび島ノ内へは、戻ることもないだろう。橋の向こう側には、どんな世界が待っているのか、哲夫には見当もつかない。「生きてる限り、どこかでまた逢える……か」別れるときに圭子が言った言葉を、哲夫はドンゴロスの袋のなかでいま一度呟いてみた。
「哲、橋の真ん中を過ぎたぞ」
 カッパの声がして、リヤカーの振動が軽やかになった。
      

 

 

 

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