七夕の客   泉 りょう


 生成りの麻地に藍で「游」と店の名を染め抜いた真新しい暖簾を出しながら、裕子は空を仰いだ。今にもひと雨きそうな、どんよりとした曇り空だ。きょうも蒸し暑くなりそうだった。
 車一台がやっと通れるほどの前の道を、ランドセルを背負った男の子がひとり行く。三年生くらいだろうか、その背を見送りながら裕子は思う。登校の時刻はとうに過ぎているのに、別段急ぐふうでもなく、アスファルトの地面を見つめながら歩いていく。
 道を挟んで斜めに向かい合うかたちに小さな公園がある。フェンスの向こうには等間隔にポプラが植えられている。高い位置に揃って密生した葉は、そよとも動かない。その下に少年が差しかかって、裕子は我に返った。もうじき工務店から開店祝いの七夕飾りが届く。
 再び何かを始めるということが、自分の人生に起こるなんて思いもよらなかった。
 裕子は長い間、大学の図書館に勤めていた。三十を過ぎて、遅まきながら得た職場だった。無我夢中で働いて五十を越えた。本が好きというだけで選んだ職業であったが、それ以外の世界を知るきっかけもなく、自分ひとりの身を養うのはこの仕事であると疑いもしなかった。
 それが一昨年の人事異動で、畑違いの学部事務室に遣られた。長引く不況と少子化の影響は、裕子の勤める大学も無関係ではありえなかった。業務の合理化が叫ばれて久しかった。この異動は裕子にとって、まさに早期退職勧告であった。
 鬱々と一年過ごした。二年目に退職を決意した。小料理屋を始めることになったのは、ひょんなきっかけからだった。長年行きつけの店で「こんなお店、やってみようかな」と、ふと漏らしたひとことを店主が聞きつけた。「いい物件がありますよ」。重大な何かが決まるときは、案外こんなふうに、いとも呆気なく事が進んでいくものなのかも知れない。今にして裕子はそう思う。
 裕子は店の中に取って返した。十坪ばかりの店内は、四人掛けのテーブル席がふたつ、あとはカウンターに五、六人も掛ければいっぱいになる。明日の開店を前に、きょうは特別な客を招いていた。
 裕子は奥の厨房に入った。洗い場の蛇口から水が漏れていた。締めが甘かったのだろう。締めなおそうとレバーに掛けた手が止まった。水はポタポタと落ち続ける。この光景、かつて見た――
 夕飯の支度をしようと、裕子は台所に立っていた。「今から帰る」と夫から電話があった。三歳の淳はテレビの幼児向け番組を食い入るように見つめている。裕子は水道の蛇口をひねる。勢いよく水が迸り出る。両の掌を合わせて水に差し出す。飛沫が跳ねている。飛沫はシンクを飛び越え、エプロンを濡らす。赤いコットンのサロンエプロンに、血液のような染みが広がっていく。
「ママ、おなかがすいた」
 いつの間にかそばに来た淳がスカートの裾に纏わりつく。本能的に何かを感じ取っている。この子は過敏だ。貪欲に求め過ぎる。裕子は邪険に淳の手を払いのけ、蛇口を締める。締め方が緩かったのか、蛇口からポタポタと水が漏れ出す。早く支度を始めなければと思うが、裕子はそこから目をそらすことができない。
 あの日、裕子は家を出た。
 おなかがすいた、と言う淳にひときれのビスケットを与え、お気に入りのビデオをつけた。「ちょっと商店街まで買い物ね」と言い聞かせ、頭を撫ぜた。淳は丸く澄んだ目で裕子を見上げて、こくりと頷いた――
 裕子は蛇口をきつく締め直しながら、かつて自分が下した決断、取り返しのつかない決断のことを思った。
 きょう淳は来てくれるだろうか。
 あれから無我夢中で働いた。淳や夫を思い出さなかったと言ったら、嘘になる。けれど思うということを自分に禁じてきた。そんな資格は自分にはない、と思ってきた。ふたりが裕子を恨み、呪い、そしていつか忘れ去られることが、初めから存在していなかったもののように、忘れ去られることこそが、裕子の望むことだった。
 裕子は冷蔵庫からキャベツを取り出して葉をむしり始めた。ミニトマトを水にさらす。マグロのブロックは刺身用に、エビはワタを抜いて天ぷらにしよう。と今日のメニューを頭に思い浮かべ、調理の手順を考えた。
 早めの昼食を取っていると、「コンチハ、山田工務店です」と、歯切れのいい声とともに、店の引き戸が勢いよくガラガラと開けられた。振り返ると、青々した笹が戸をくぐって現れた。次に姿を現したのは、それを斜めに抱えた、店の改築工事中に何度か見かけた工務店の青年だった。
「この前の道、軽トラックでもいっぱいいっぱいで」
 と、額に汗の粒を光らせながら言う。大通りに車を止めて、そこから抱えて来たと言った。入り口に立てかけると、天井まで届く高さになった。
「わあ、立派ねえ」
 近付いて裕子は笹の葉に手を触れてみた。つい今しがたまで地面に生えていたような瑞々しさがまだ残っていた。つん、と青臭い匂いが鼻先を掠めた。胸を締め付ける、せつない匂い――
 つかの間の梅雨の晴れ間の空に、七夕飾りが揺れている。ブランコの前の土の窪みにはまだ水溜りが残って、白い雲を映していた。
「おおきくなったら、せいぎのみかたになります じゅん」
 文字の書けない三歳児は、教師の字で願い事が記されてあった。幼稚園の参観日の日、裕子は「チューリップ組」の教室の前にそれを見つけた。
「淳、正義の味方になれるかなあ?」
 と問いかけると、淳は大きく頷いて、
「なれる! ぼくウルトラマンになれる」
 と、「シュワッチ」と、決めのポーズをして教室に飛び込んで行った。
 入園した日は「ママはここで待っていてね。そうして寒くなったら中で待っていてね」と、引き離される予感があるのか、くどいほどそう言って、裕子の手を握りしめて離さなかった。教室で若い教師に無理やり抱き取られると、「ママーぁ」と両手を裕子に差し出し、必死でもがいていた。あの入園の日からたったの数ヶ月。子供の成長に目を瞠る思いだった。
 けれど、あのときの淳の声。あの小さなからだ全部で裕子を求めた淳の声を、それから後の二十年の間に何度聞いたことだろう。
 仕事で神経をすり減らし、疲れきった夜。早く眠ろうとするが、そんな夜に限ってなかなか眠りは訪れない。水割りのウィスキーを何杯も空にして、ようやく眠りが訪れそうな気配がする。と、夢とうつつの境目に、あの淳の声。またはっと目覚める。
 職場のコンピューターに新着図書のデータを入力する作業に忙殺されている時。同僚たちのなにかちょっとした騒ぎ声の中に、あの淳の声を聞く。ぎょっとして辺りを見渡す。――淳はいない。
 シャツの袖で汗を拭いながら、青年は「それから、これ、社長からです」と、床に置いた風呂敷包みを大急ぎで開けて、中から角樽を、祝いの水引のかかった朱塗りの酒樽を取り出した。
「まあ」
 裕子は声を上げた。こんなふうにれいれいしく祝われることに、慣れていなかった。
「車だから、まあ一杯、というわけにもいかないけど、一杯、麦茶でも、どう?」 
 精一杯の感謝を込めて、そう青年に勧めた。が、青年は、
「いえ、急ぎますんで」
 と、カウンターの正面に角樽を置くと、慌しく立ち去って行った。青年がいくぶん荒っぽく引き戸を閉めたせいで起こった風が、しばらく笹の葉を揺らしていた。それを見つめながら、裕子は、淳も彼のように額に汗して働く青年になっただろうか、と思っていた。青年をなぜもっと強く引き止めなかったのだろう。わけもなく、後悔に似た思いにとらわれていた。
 客を迎える準備もあらかた整った。カウンターの隅に腰を下ろして、刷り上ったばかりのメニューに、透明のビニールカバーをかける作業をしていた。ふと、いろ紙の短冊の束に目が止まった。さっき、青年が笹といっしょに持って来たものだった。何か書いてみようと裕子は思った。
 サインペンを持ち出し、キャップを取った。さて、何を願おうか。きょう淳が来てくれますように――違う。店がうまくいきますように――それでもない。
 ずいぶん長い時間そうして迷っていたようだ。結局短冊には何も書けないまま、裕子はサインペンのキャップを閉じた。
 夕方七時をまわった頃、あでやかな臙脂の、大ぶりの蘭の鉢植えを抱えて、きょうのもうひとりの客、杉下が現れた。
「なかなかいい店じゃないか」
 五十を過ぎても変らない痩躯、長身の彼だった。髪に白いものはかなり増えてはいたが。
 裕子と杉下、そしてかつて裕子の夫であり、淳の父親である風間は、大学時代の同級生だった。
 入学して間もない頃、英文学の基礎演習で席が近かった三人は、いつとはなしにいっしょに行動するようになっていた。大学は学園紛争のさなかにあり、講義は休講が目立つようになってきていた。学園封鎖に突入する気配が濃厚だった。三人はどこのセクトにも属さず、ノンポリのそしりを表面上はものともせず、大学に浮遊していた。
 そんな頃、杉下が文芸部に誘われた。
「あそこはアナーキストの巣窟だぜ」
 風間が吐き捨てるように言った。
「おまえこそ。おまえの親しい新聞部のやつ、あれは民青だぜ」
 負けずに杉下も言う。
「どっちもいやだ」
 裕子はそう言う。どこにも所属などしたくはなかった。このままずっと、寄る辺ない自由さだけを武器に、漂い続けていたかった。
 大学は封鎖に突入した。それでも三人は大学で落ち合った。バリケードの隙間をかいくぐって学内に潜り込むのは、子供の頃のワクワクする遊びにも似ていた。
 学部掲示板の「当分の間、休講します」の張り紙が薄汚れたまま風になぶられ、かろうじて張り付いている。その前で落ち合って、たいていは「白十字」という名の、年配のマスターがひとり座っているだけの、煤けた喫茶店に行く。そこで果てしない議論に時間を費やした。不毛とも思える議論。けれど、裕子はいつも彼らに打ち負かされた。議論に倦むと、ビリヤード、麻雀、ボウリング……。有り余る時間をやり過ごすのに必要なあらゆる遊びに打ち興じた。裕子はひとつとして、彼らに拮抗できるものはなかった。裕子は恥じ、劣等感の虜になった。けれど風間はいつも裕子を誘った。
 風間と付き合うことになったのは、自然といえば、自然な成り行きだった。風間と初めて寝たあと、「こいつがさぁ」と風間が裕子のことをそう呼んだとき、杉下の前でことさらにそう呼んだとき、裕子の頬が燃えた。あれはうれしかったのか、恥ずかしかったのか、おそらくはその両方であっただろう。けれどそのとき、裕子ははっきりと激しく風間を憎んだ。
 杉下とは十年ぶりの再会になる。挨拶もそこそこに、そそくさと裕子は厨房に引っ込んだ。きょうはともに飲むつもりであったから、もう料理はあらかた仕上がっていた。三人分の料理のうち、もずくと刺身の皿を二人分、冷蔵庫から取り出してカウンターに並べた。生ビールを注いだ。
「いいのかい、淳くんを待たなくて」
 杉下が問う。
 たぶん、来ない。言いかけて裕子は言葉を飲み込む。口に出すとほんとうにそうなってしまいそうだった。黙って頷く。杉下は裕子を見つめ、
「淳くん、大学卒業見込みが立って、就職も内定もらったらしいよ」
 と言った。
 二十年間、一度も会うことはなかった。三つの幼児の面影が、二十三の青年を思い浮かべる邪魔をする。
 十年前、杉下に淳の写真を見せられた。
 少し大きい詰襟の学生服を、着たというより着せられた感じで、一人の少年が写っていた。背景は学校の正門のようで、おそらくは中学の入学式のおりに写したものだろう。まだふっくらと幼さの残る頬に、幼児の頃の面影をとどめていた。けれど裕子を打ったのは、その表情だった。暗いというより無表情、内面が現れるのを極端に恐れてでもいるような無表情の写真は、入学という新しい環境への不安だけではないものを直感させた。
 杉下から、風間はすでに再婚し、新しい妻との間に女の子がひとりいることを、そのときに知らされた。
「ともかくは、乾杯。開店おめでとう」
 ビールをなみなみと注いだジョッキを杉下が掲げる。よく冷えたふたつのジョッキはカチリと音をたてた。
 きょうの再会をセッティングしたのは杉下だった。裕子が迷いつつ、退職の通知を兼ねた開店の案内を杉下に出したとき、折り返し、彼から電話があった。
「一度会ってみるか」
 杉下はそう切り出した。
「淳くんも成人したことだし、いい機会だと思うよ。これを逃がすともう一生、会うことはないかもしれないし」
 一生会うことはないかもしれない、の言葉が裕子を揺さぶった。五十を過ぎて、あらたな出発をしようとしている自分は、淳に会う資格があるかもしれない、ふとそう思った。淳も成人したと言われて決心がついた。おとな同士として会えるかもしれない、とも思った。
「しかし、今でもわからないのは」
 刺身に箸をつけながら杉下が言う。杉下のジョッキは空になっている。
「よく子供をおいて出る気になったなあ。あの頃はオレも独り者だったからわからなかったけれど、自分の子を持つとなあ。子供ってそりゃあ、かわいいもんだよな。特に女性は、文字通り腹を痛めたわけだろう」
 杉下は酒が入ると饒舌になる。裕子は二杯目の生ビールを注ぎに立ち、ついでに厨房に入る。天ぷらを揚げるつもりであった。
「オレは絶対に反対だ。裕子は風間のところに戻るべきだ。淳くんがいるのに、いったいなんてことだ」
 裕子が家を出て間もなくの頃の、杉下の激しく裕子をなじる口調が甦った。「風間はいいやつだ」杉下はそうも言った。それは裕子にもよくわかっていた。けれどどうしようもなかったのだ。
 大葉にシシトウにサツマイモ、キス、イカ、エビ、と薄く衣をつけたネタを順に揚げていく。天ぷらの皿をカウンターに並べて、再び裕子は杉下の隣に腰をおろした。待っていたように杉下が、少し酔いの回った目をして裕子に問いかける。
「せめて、子供を連れて出る、ってことは考えなかった?」
「淳を連れて出るなんて、考えもしなかった」
 裕子はジョッキに半分ほど残ったビールを飲み干す。口の中に残る苦味を確かめながら、裕子は言う。
「一番大切なものを捨てなければいけないと思った。わたしは人でなしだもの。母親なんかにはなれない、人でなし」
 杉下は裕子の顔をしげしげと見つめた。そして視線を戻し、わからない、というふうに首を振った。
 愛していた。確かに愛していたはずだ。淳を、風間を、愛で満たされたささやかな家庭を。
 あの日、家を出た日、夫からいつものように「今から帰る」と電話があった。「今から帰る」と――。帰ったら、家族揃っての温かい夕餉の食卓が待っている。夫はネクタイを取り、背広を脱ぎ捨て、すぐさまジャージに着替える。淳を抱き上げ、頬ずりしながら食卓につく。淳に野菜も残さず食べるように注意する。淳はベソをかきながら、最後に野菜を飲み下すようにして――。夫は一杯のビールに満足そうに顔を赤らめている。食事が終わればお風呂。淳のはしゃぐ声が風呂場から聞こえてくる。その声を聞きながら食器を洗う。風呂からあがった淳をバスタオルに受け取り、バスタオルごと、小さなからだを抱きしめるようにして拭く。川の字に並べたふとんで絵本を読んでやる。やがて規則正しい淳の寝息が聞こえてくると、決まって夫の手が伸びてくる。
 すべてが仕組まれた何もかもに思えた。普段着のジャンバーを引っかけ、財布だけを握り締めて家を出た。暗い道に吐く息が白かった。街灯に照らし出された足元がつっかけだったことを、なぜか鮮明に覚えている。
「裕子」
 杉下の手が裕子の手に重ねられる。
「それで君は淋しくはないのか」
 十年前、中学生の淳の写真を見せられたあの日、裕子は杉下とともに一夜を過ごした。風間が再婚したことを言いにくそうに告げる杉下の口調に、かつてあれほど激しく裕子をなじった跡形はなく、ただ若い時代をともに生きた者へのいたわりだけがあった。お互いを分かち合えた、と思えた、いとしい夜だった。けれど再びあの夜は戻らない。杉下に風間と同じ思いはさせない。同じ過ちは繰り返さない。裕子は杉下の手の下から、そっと自分の手を引き抜いた。
「なにか書いて」
 その手で裕子は短冊を取り、杉下の前に押しやった。
 杉下は静かな目で裕子を見つめた。何もかもが、もう取り返しがつかないということを、そのとき裕子はしみじみ悟った。
「商売繁盛」
 黒々と大書して、杉下は帰って行った。帰りがけ、「淳くん、とうとう来なかったな」と言い残して。

 カウンターの天ぷらは、ほとんど手付かずのまま冷めていた。エアコンの低く唸る音がしていた。静かすぎる夜だった。裕子はのろのろと立ち上がると、皿を片付け始めた。
 厨房の洗い場に立った、そのときだった。引き戸の向こうに気配がした。裕子は息を呑んだ。胸苦しい数分、いや数秒のち、引き戸が静かに開けられた。外の暗がりを纏って、丈の高い人のかたちをした影が抜き出て来、店の灯りの中で姿をあらわにした。黒いTシャツにブルージーンズ。癖のない茶色味がかった髪。いくぶん吊り気味の、涼しげな目をした青年。流しの水が大きな音をたてた。
「裕子さんはあなたですか」
 まっすぐに裕子を見据えて、青年が問うた。
「淳……くん?」
 かすれた声が裕子の口から漏れた。青年の眼差しが一瞬揺らいだ。そのことを恥じるように、青年は肩を聳やかせた。
「よく来てくれたわね。もう来てくれないものと思った……」
 やっとの思いで、それだけ言った。あとは言葉にならない。青年は固い表情のまま、頑なに沈黙していた。
「かけて」
 沈黙に耐えかねた裕子が椅子を勧めるのと、青年が口を開くのが同時だった。
「これ、両親から、開店祝いです」
 ジーパンの尻のポケットから二つに折れた金封を引っ張り出した。折れ目を伸ばそうともせず、片手で裕子に突き出した。金封は折れ目のところでお辞儀しているように、ひょこひょこ揺れた。なにかが大きく食い違っていた。混乱した頭のまま、裕子はそれを受け取るしかなかった。
「ご両親は、お元気?」
 ちがう、ちがう。こんなことを言いたいわけじゃない。
「あなたには関係ないでしょう」
 唇の端を歪めて青年は言い放つ。
 青年のその表情を見て、裕子の腹が据わった。青年の振り下ろす鞭を、真正面から受けようと思った。
「あなたは、就職が決まったそうね」
「それも、あなたには関係ない」
「そうね。関係ない。無関係な他人どうしの他愛ない世間話よ」
 青年の目が怒りに燃えた。その顔に見覚えがあった。
 昼下がりの日差しが降り注ぐ児童公園の砂場。プラスチックのバケツと赤いスコップ。せっせと砂を寄せ集めて築いた山。小さな手が固めた山を、誰かの運動靴がぐさぐさと踏み潰す。振り仰ぐ顔――。あのとき、こんな顔をして運動靴の主に掴みかかっていった。ああ、淳だ。わたしの、淳――。
「他人どうしと言われるなら、他人のあなたにお話しましょう。三つで母親に捨てられた子供がどんなふうに成長したかを」
 裕子は突っ立ったままの青年のために、黙って椅子を引いた。青年は無言でそれに従った。裕子も椅子を引いて隣に腰を下ろした。
「僕の記憶の始まりは、心もとない、茫漠とした不安な気持だった。今、目の前に確かにあったものが忽然と消え失せる。確かに手の中にあったはずのものがない。わかりますか? 僕は長いことチック症状に苦しめられた。落ち着きなく、しじゅうまばたきをしてしまうあの症状です」
 思い出したように、青年は二、三度まばたきをした。
「その不安がどこから来るものか、成長するにつれて、まわりのおとながわからせてくれた。かわいそうに、あの子の母親はあの子を捨てて出て行ったのよ。かわいそうに、かわいそうに……と。捨てられたなんて、自覚もない年頃なのに、ごていねいなこった」
 青年の膝の上で、固く握り締められたこぶしが、ぶるぶると震えるのを裕子は見た。
「やがて新しい母ができた。母は僕に優しく接してくれた。五つの僕は、心の奥深くであなたを殺した。初めからあなたなどいなかったと思おうとした。たった五つで、僕は人生の最初の決断をした。だからあなたに捨てられて僕が不幸せだった、などと思わないでほしい」
 青年は、ひとつ息を吸った。
「それはあなたの傲慢だ」
 眩暈がした。思わず、カウンターの縁を強く掴んでいた。しかし、これこそが自分の望んだことなのだと、裕子はわかっていた。
「僕に会いたいなどと、何を今さら、と思いましたが、そのことを言いたくて来ました」
 言い捨てると、青年は席を立った。裕子は、上背のある肩幅のがっしりとした青年を見上げた。青年はもう裕子と目も合わさず、背を向けて大股な歩みで戸口に向かった。が、そこで立ち往生していた。七夕の笹の一枝が青年の髪に絡まっていた。笹があとしばし、青年をこの場に引き留めてくれた、と裕子は思った。
「短冊、書いて行って。明日は七夕だから」
 裕子は青年の背に声をかけた。
 せめて、と惨めに懇願する年配の女を、哀れに思ったのだろうか。青年は戻ってきた。サインペンを取上げると、迷うことなく、
「独立独歩」
 一気にそう書いた。
 ここにもひとり、孤独な魂を抱えた人間がいる。それはとりもなおさず、自分が生み出したことの帰結なのだ。しかし青年はそれを認めはしないだろう。あなたの願いが叶いますように。口には出さず、裕子は心の中で祈った。
 青年は去った。夜はいっそう深くなった気がした。カウンターの上には、白紙の短冊がたくさん残されていた。裕子はサインペンを取りあげた。
「七夕」
 と丁寧に書いた。
 願うことなど、なにもない。
「天の川」「おりひめ」「ひこぼし」「星まつり」
 続けさまに短冊を取って、書いた。子供の頃の習字の時間のように、文字を書くという、そのことのみに集中して書いた。
 淳と杉下が吊るした短冊は、笹の上のほうで微かに揺れていた。裕子は自分が書いた五枚の色とりどりの短冊を、バランスよく見えるように、ためつすがめつしながら、笹のあちらこちらに散らしていった。星まつりらしく、少し華やいだ。
 しまい損ねた暖簾を取り込みに、表に出た。生憎と曇り空には、天の川はおろか、星ひとつ見えない。高い空に、夜間飛行のジェット機が一機、赤い尾灯を夜空に点滅させながら近付き、遠ざかって行った。それが見えなくなるまで見送ってから、裕子は店の中に取って返した。
 厨房の洗い場に立ち、蛇口をひねった。勢いよくシャワーになった水が迸る。水――あの日もそうだった。やりきれなさを嫌がおうもなく自覚させ、なにもかも洗い流し捨て去ってしまえと迫る、水。けれど水はわたしに近しいものだ、と裕子は思った。人生のおそらく最後に、この仕事を選んだのは、あらかじめ決められていたことなのかも知れない。
 急に激しい喉の渇きを覚えた。裕子は水を両の掌で受けた。背を屈め、掌に口を寄せ、そのまま喉を鳴らして飲んだ。水は尽きることなく溢れ出す。飲んでも、飲んでも、渇きは癒されることがない。

 

 

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