私たちの望むものは  津木林 洋


 木元武雄が週一回夜間の小説教室の講師を引き受けて三年目の時だった。
 十五人の新入生の中に武雄好みの若い女性がいた。頸が長くて、細い顎をしている。目は愁いを含むというか、何かを訴えるような眼差しをしている。由加里とは大違いだなと武雄は自分の十九歳の娘と比べていた。由加里は武雄に似て大柄で、えらの張った顔をしている。
その女性は自己紹介で、篠田美樹と名乗った。武雄は事務局から手渡された生徒たちのプロフィールをめくった。美樹は娘より二歳年上で、今回のクラスの中では最年少だった。小説を書く動機の欄には、人間を見つめたくてとある。由加里の口からはまず出てこない言葉だなと武雄は思った。
 小説教室は、始めの二回は小説を書く上での基礎的なことを教え、三回目からは生徒達の書いた作品を合評しながら、気の付いたところを指摘するという形だった。
 提出期限を決める時、なかなか手を挙げない生徒たちの中で、武雄は真っ先に美樹を指名した。
「どうです、篠田さん。来週何か提出してもらえませんか」
「わかりました」
 一人が決まると、ほかの生徒たちも次々と手を挙げ、全員の提出日が決まった。
 その日は原稿用紙の書き方や送り仮名について話しているうちに時間が来て、近くの居酒屋に場所を移した。生徒たちの半数ほどが二次会に顔を見せ、美樹も付いてきて端の方に腰を下ろした。
 ビールで乾杯した後、武雄は生徒たちの質問に答えて、三十年近く小説を書き続けていることや参加している同人誌のこと、それに自分の仕事のことを話した。武雄は小さな食品製造会社で、製造管理の仕事をしていた。美樹はレンタルビデオ屋でアルバイトをしているという。
 一人が、「先生はどうして小説を書くようになったんですか」と訊いてきたので、武雄は、母親が元文学少女で、家の本棚には文学全集が並んでおり、子供の頃からそれらを読んで育ったので、そのうち自分でも書いてみたいと思うようになって、といつもの話をした。
「私も一緒です」と美樹が言った。「私の母も元文学少女でした」
「そういう人、結構多いよね」
「私の母の場合、読むだけじゃなくって書いていたみたいです」
「今でも書いてるの」
「いいえ。若い時にちょこっと書いてたみたいですけど、今は全然」
「作品は見せてもらったことがある?」
「いいえ」
 誰かが、篠田さんのお母さんがどんなものを書いていたのか読みたいわと言うと、「それじゃあ、母に頼んで一度持ってきます。私も読みたいし。あればの話ですが」と美樹が答えた。
「小説教室に来たのは、お母さんが勧めたから?」と武雄は尋ねた。
「いいえ、母には内緒です」と美樹は笑った。

 最終の地下鉄で家に帰ると、妻の啓子はすでに寝ており、台所の灯りだけがついていた。
 テーブルの上に一枚の紙が、コップを文鎮代わりにして置かれている。武雄はコップを取り上げ、それにミネラルウォーターを注いで飲んでから、紙を取り上げた。
「一度、由加里に会いに行って下さい」
 大きめの字で、一字一字しっかりと書いてある。
 いよいよ、来たかと武雄は心の裡で舌打ちをした。半年前に、自立すると言って家を飛び出した娘が、実は男と同棲していることが最近わかったのだ。それに怒った啓子が、がつんと言ってやって下さいと武雄に何度も頼んできたが、武雄は、そのうちに飽きて戻って来よるやろとか言って誤魔化していたのだ。
 武雄にとって由加里は苦手な存在だった。売れない小説を書き続けていることを馬鹿にしているし、何より、自宅で三年前までピアノを教えていた啓子の影響を受けて音楽の道に進んだことが大きかった。小さい頃、何とかして文学に興味を持たそうと武雄は由加里に子供向けの名作全集や漫画化された少女小説を買い与えたが、ピアノの音に負けてしまった。中学、高校とバンドを作ってキーボードをやり、卒業後もフリーターをしながら、バンド活動をしているのだ。二言目には、私は誰かさんと違ってプロになると言い、音楽の世界を全く知らない武雄は、心の裡で、なれるもんならなってみろと毒づくことしかできない。
 翌朝、啓子が何も触れないことをいいことに武雄は知らん顔をして家を出ようとしたが、「明日、行って下さいね」という背後からの啓子の言葉に、思わず「ああ」と答えてしまった。時間が切迫している時に重要な事柄を持ち出すのは、いつもの手なのに、それにまんまと引っ掛かって、武雄は仕事中も面白くない気分だった。娘に会いに行ってとは言わなかったのだから、おれの「ああ」は別にそのことを了解したわけではないと思ってはみたものの、いかにも子供じみた言い訳なので、自分でもうんざりした。
 翌日は土曜日で、書きたいものがあったら午前中からパソコンに向かっているところだが、あいにく今は何もない。きょうから書き始めたことにして、由加里に会いに行くのはまた今度ということにしようかと武雄は思ったが、啓子はすでに昨夜由加里に電話をして、武雄が行くことを伝えている。
「行く前にあなたの方からも電話して下さいね」と啓子が言う。
「何でや。おれが行くことはあいつもわかってるんやろ」
「いきなり会ったら、あなたも話しにくいでしょ。だから電話であらかじめ馴らしておいて……」
「そんなこと、する必要がない」
 しかし啓子から渡されたメモには、男の住所と簡単な地図の他に由加里の携帯電話の番号も書かれていた。
 服装はやっぱりスーツでびしっと決めた方がという啓子の言葉を無視して、武雄はジーンズにトレーナーという恰好にした。さすがにサンダル履きは許してもらえず、ウォーキングシューズになった。由加里の大好きなシフォンケーキでも買っていったらと啓子は言ったが、あほぬかせと武雄は心の中で毒づいた。がつんと言うてくれと言ったのは、そっちやないか。何でご機嫌を取るような真似をせなあかんのや。
 地図に従って探したが、コーポ大久保というアパートは見つからず、武雄は目に付いた公衆電話ボックスに飛び込んだ。息を整え、由加里の携帯電話に電話をする。もし出なければ、それを口実に帰ってしまおうと思っていたら、由加里が出た。
「あ、おれやけど、道に迷ってしもたんや」
「今、どこにいてんの」
「わからん」
「そこから何が見える」
 武雄はアクリルガラスに顔を近づけて、通りの様子を伝えると、由加里はコンビニエンスストアの前で待つように言った。
 武雄が店の前で待っていると、角を曲がってジーンズ姿の由加里が現れた。金髪は相変わらずだが、それを後ろで縛っているのは初めて見た。えらが張っているのを隠すため頬の線を絶対に出さなかったのになと武雄は思う。
「説教なしやで」近づいてくると、由加里はいきなりそう言った。
「そんなん、する気ない」
 言ってから、武雄はしまったと思った。がつんと言うのは、説教することではなかったか。説教なしにがつんと言うことなどできるわけがないではないか。
「そう。それやったらええわ」
 武雄はさりげなく娘を見た。半年前と取り立てて姿形が変わったわけではないが、男と同棲しているという話のせいか武雄はそこに女を感じて、いささかうろたえた。
「ピアスはしょうないとしても、その鼻輪だけは何とかせい」
「これもピアスよ」
 由加里は小鼻に通っている銀色の輪を指で触った。左右の耳には二個と三個のリングが付いている。
「牛じゃあるまいし、恰好悪いからそれだけはやめとけ」
「牛なんて陳腐な表現。小説書いてるんなら、もうちょっと気のきいた表現したら」
 むかっと来たが、ここで怒鳴って喧嘩別れをしたら、帰って啓子に嫌味を言われるだろうと武雄は我慢をした。
 由加里が体を翻して歩き始めたので、武雄はその後に付いていった。並んで歩くのも面白くないので、少し後ろから歩く。
「一緒に住んでんのはどんな男や」
「会うたらわかる」
 また、武雄はむっとした。
コーポ大久保は四階建ての小さな建物で、狭い階段を囲むように三つの部屋が向かいあっていた。三階まで上がったところで、由加里が真ん中の部屋の前に立ち、錠を開けた。どうせ碌でもない男だろうと思いながら、武雄は由加里の後に続いて中に入った。
「いやあ、お父さん、わざわざ来ていただいてすいません」
 顎髭を生やした男が満面に笑みを浮かべながら甲高い声を出している。背は武雄より低く、由加里と同じくらいだ。お前にお父さんと呼ばれる筋合いはないと思いながらも、武雄は「あ、どうも」と頭を下げた。
「むさくるしいところですが、どうぞ」
 そう言って、男は武雄の足下にスリッパを揃えた。
「新ちゃん、そんな気い遣わんでもええんよ」
 と由加里が言った。
「そんなこと言うてもやなあ……」
「ええって、ええって」
「ええことない」と武雄は憮然として言い放った。
「すいません」と男は謝り、「ユカリンはちょっと黙っといて」と由加里の腕をつついた。
 ユカリンに新ちゃんか。武雄は心の中で溜息をついた。
 部屋は小さな台所のある一間と奥に八畳ほどの一間があり、どちらもフローリングだった。八畳間の窓際に大きめのベッドが見え、武雄はさりげなく目を逸らした。ベッドの傍には机があり、パソコンと楽器のキーボードと箱形の機械が占領していた。その横に黒いギターケース、床にはラグが敷いてあり、そこにガラストップの低いテーブルが置いてある。思ったより綺麗にしているやないかと、武雄は出て行く前の由加里の部屋の汚さと比べていた。
「お父さん、どうぞ坐って下さい」
 男に言われて武雄はスリッパのままラグを踏んだが、男が脱いでいるのを見て、あわててスリッパを脱いだ。正座するのもおかしいので、武雄はテーブルの前に胡座をかいた。男は武雄の斜め横に正座をした。しかし由加里はベッドに腰を降ろしている。
「ユカリンもこっちに坐ったら」と男が言った。
「こっちの方が楽やから、こっちでええわ」
 由加里は両手を後ろについて、足をぶらぶらさせている。武雄は顔が赤くなるのを感じた。男に、ちゃんと向き合うこともできない親子だと思われているような気がした。
 気まずい沈黙が流れ、由加里がリモコンでテレビをつけた。にぎやかな声が聞こえてくる。
「テレビは消しなさい」と武雄は言った。由加里は口を尖らせながらテレビを消した。
「由加里、この人を紹介してくれなあかんやろ」と武雄は男を見た。
「お母さんから聞いてへんかったん」
「聞いてない」
「宮城新一、二十五歳」
 続きを待ったが、それだけだった。
「宮城です。よろしくお願いします」と新一が頭を下げた。武雄も正座になって「木元です。娘がお世話になっております」と頭を下げた。
「お父さん、何か飲みはりますか」
「私は何でも」
「それじゃあ、ビールにしましょか」
「いや、アルコールはちょっと……」
「そしたらコーヒーは?」
「いただきます」
 新一は足が痺れているのか立ち上がる時、ふらっとした。それを見て、武雄は胡座に戻った。
「ユカリンもコーヒーでええ?」
「うん」
 新一が台所に行くと、武雄はベッドに坐っている由加里に「こっちに坐れ」と小声で言い、自分の向かい側を指さした。
「何で」
「何でもええから、とにかくこっちに坐れ」
 武雄が怖い顔をすると、由加里は仕方がないといった表情でベッドから降り、向かい側に胡座をかいた。胡座はないやろと思ったが、余計なことを言うとまたぷいとベッドに戻りそうだったので、武雄は黙っていた。
 新一が盆に乗せてコーヒーを運んできた。自分たちは揃いのマグカップ、武雄はソーサー付きのカップだった。
「フィルターで淹れたので、ちょっとはいけると思うんですが」と言いながら、新一は粉末ミルクの瓶と砂糖の容器を武雄の前に置いた。
 武雄はミルクと砂糖を入れたが、由加里はミルクしか入れなかった。甘いもの大好きじゃなかったのかと武雄は思い、見ると新一もミルクだけだった。ははんと武雄は小さく笑った。
 香りを嗅ぎながら、少し酸味のあるコーヒーを飲んでいると、「お父さん、小説書いてはるんですよね」と新一が言った。武雄は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
「書いてます」あわてた素振りを見せないようにコーヒーを飲み込んでからゆっくりと答えた。
「一度読ませてもらえませんか」
「面白ないよー」由加里が口を挟んだ。「ごちゃごちゃ書いたあるだけで、何が言いたいのかさっぱり分かれへんから」
 武雄は由加里が自分の作品について何か言うのを初めて聞いた。別に武雄の作品の載った同人誌を隠しているわけではないので読もうと思えばいつでも手に取ることができたが、まさか娘が読んでいるとは思いもしなかった。
「小説を教えたはるとも聞きましたが……」
「教えるような柄ではないんやけど、まあ、人から頼まれたから」
「すごいですねえ。なかなか人に教えるとこまで行きませんもん、すごいですわ」
 おべんちゃらだと分かっていても悪い気はしない。
「新ちゃん、言い過ぎ、言い過ぎ」と由加里が手をひらひらさせる。
「そんなことないよ。ギターにしたってキーボードにしたって人に教えるのは難しいよ。ほら、だいぶ前飛び込んできたあの子、キーボードやりたい言うて……」
 二人はその子が不器用でどうしようもなかったという話を笑いながらする。
 武雄は新一という男が自分に気を遣ってへつらっているのか、純粋に思ったことを言っているのか分からなくなった。顎髭に騙されているような気もする。
 二人の話が終わったところで、「バンドの練習は大体夜?」と武雄は訊いてみた。
「みんな昼間は仕事してますから、当然そうなります」
「みんなて、何人」
「四人です」
「宮城さんの仕事は何ですか」
「喫茶店でウェイターしてます」
「お父さん、余計なこと訊いたらあかんよ」と由加里が言う。
「仕事のことを訊くのが余計なことか」
 由加里はさあというように顎を上げて、あらぬ方向を見ている。
「音楽の方はお金になります?」
「いやあ、なかなか」
「ほら、それが余計や言うねん。お父さんの書いてる小説と同じで、簡単にお金になるわけないやん」
 そら見ろと武雄は思う。
「なあ、僕らがどんな音楽やってるか、お父さんに聞いてもらおか」
「ええー」
「どうですか、お父さん」
 どうせ聞いてもうるさいだけだろうと思ったが、そう言われたら聞かないわけにはいかない。
 武雄が頷くと、新一は嫌がる由加里を急き立てて準備をした。パソコンを立ち上げ、ギターケースからエレキギターを取り出してコードを箱形の機械に繋ぐ。由加里は椅子に坐ってキーボードの鍵盤を押しながら、パソコンの両側にあるスピーカーのボリュームを回して出てくる音の大きさを調整している。
「一番新しいやつ行こか」
「うん」
 由加里がマウスをクリックすると、ドラムの音がスピーカーから響いてきた。それに合わせるように新一がギターを弾き、由加里が鍵盤を叩いた。
 小さなスピーカーとは思えないほど大きな音がし、武雄は思わず耳の穴を指で塞いだ。由加里が何か歌っているが、何を言っているのかよく分からない。鳴っている音楽もいいのか悪いのか武雄にはさっぱり分からない。
 しばらくして新一がギターを弾くのをやめ、由加里も鍵盤から指を離して、マウスをクリックした。ドラムの音が止まる。
 武雄が耳の穴から指を抜くと、「うるさかったですか」と新一が訊いてきた。
「いやあ、大きい音は苦手やからなあ」武雄は言い訳するように言った。
「だから言うたやろ。聞かせてもしょうないて」由加里が不服そうな顔を新一に向ける。
「こんな大きな音を出して近所から文句出えへんのか」
「昼間やからええと思たんですけど……。夜はヘッドフォン使てやりますから大丈夫です」
「練習ていつもここでやってるの」
「いや、みんなでやる時は、スタジオを借りてやりますけど、結構高いんですわ」
「うちらの音楽も聴いたんやから、もう目的は達したんちゃうの?」
 言われるまでもなく武雄はこれ以上ここにいる気はなかった。がつんのがの字も言わなかったが、そんなことを言うのも馬鹿ばかしいと半ば開き直っていた。
 玄関を出るところで、「それじゃあ、まあ、よろしく」と新一に頭を下げた。
「ええ、まあ」と新一も頭を下げる。
「駅まで送っていったら」と新一が由加里に言うのを断って、武雄は部屋を出た。
 六時過ぎに家に帰ると、「あら、早かったんですね。一緒にご飯でも食べて来たらよかったのに」と啓子が言った。
「そんなことする必要がない」
「それで、どうでした」
「どうもこうも、好きな男と一緒に住んでんねんからそれでええんちゃうんか」
「それだけ?」
「それだけや」
「結婚とかの話は?」
「そんなもん早過ぎるやろ」
「早過ぎません。十九といったらもう十分大人です。そういう話は父親であるあなたがしてくれなきゃ……」
「機が熟したら自然とそうなるんとちゃうんか」
「そんな無責任な……。あなた、一人娘のことをちゃんと考えているんですか」
 また来たかと武雄は思った。
「考えてるのに決まってるやろ」
「いいえ、考えてません。あなたは由加里に冷淡すぎます」
「あのな、娘のことを考えてへん父親なんかいてへんねんから心配すんな。由加里はああ見えてもしっかりしてんねんから、ちょっとは娘のことを信頼したらどうや」
「また、そんなことを言って逃げる」
「ここで喧嘩してもしょうないやろ。取りあえずメシにしようや」
 そう言って武雄は椅子に腰を降ろして、テーブルの夕刊を広げた。いつもそうなんだからなどと呟きながら、啓子は夕食の支度を始めた。

 小説教室の二回目で、武雄はもっぱら自分がどのように小説を書いてきたかを話し、小説の書き方は自分で見つける以外にはないことを強調した。端の方にいる篠田美樹が熱心に自分の方を見ているので自然と熱が籠もる喋り方になった。
 時間が来て美樹ともう一人に作品の提出を促すと、美樹はバッグの中からコピーの束を取り出した。
 回されてきた作品はかなりの分厚さだ。
「これ、一週間で書いたの?」と武雄は驚いて尋ねた。
「いいえ、以前書いてあったのに書き足して……」
「そやろな、びっくりしたわ」
 もう一人はA4に三枚の小品だった。
 居酒屋で前に坐った美樹に、武雄はいつ頃から小説を書いているか尋ねてみた。
「二年くらい前から」
「どこかに応募したの」
「いいえ。書いても書いても完成しなくって、今回提出したのが唯一の完成品です」
 最初の完成品があんな長いなんてすごいよねえと隣の女性が言うと、美樹は胸の前で手を振り、すごいなんて言わないで下さい、そんなこと言われたら来週来れなくなってしまいますからとはにかんだ。
「誰かに読んでもらった?」と武雄は尋ねた。
「いいえ、今度が初めてです。だから怖くって」
「そやね。最初は誰でも怖いのが当たり前やけど、この教室は小説を書こうと思っている人間が集まっているから、そんなに厳しい批評は出えへんと思うよ。あんまり厳しいことを言うたら、自分に跳ね返ってくるし」
 そう言うと、笑いが起こった。
 次の日、仕事から帰って食事が済むと、武雄は早速美樹の作品を手に取った。「こころ模様」という題で三十二ページあり、最後に、原稿用紙換算百枚と記されていた。
 読み始めてすぐに文章がしっかりしていることに気づいた。正確な描写力と若い女性らしい感覚がない交ぜになって、読み手を作品世界に引き込んでいく。
 作品は一人称で、母親との確執を描いたものだった。水商売に勤めている母親が泥酔して帰ってくる様子や生々しい幼児虐待の場面があり、それと対比するように子供の頃死んだ父親に対する憧憬が綴ってあった。主人公の頑なな反対で、母親の再婚話が壊れるというエピソードの後、主人公が母親と喧嘩をして家を出る場面で終わっていた。
 読み終わって武雄はふっと溜息をついた。三年目にしてやっと才能を持った書き手に巡り会えたという気持ちだった。
 これはたぶん実話か、それに近いと武雄は思った。エピソードにこれだけリアリティを持たせるには実体験がなければだめだろう。もしこれがすべて想像で書かれたものなら、さらにすごいと言わざるを得ない。
 次の小説教室では、果たして武雄の予想通り賞賛の批評が相次いだ。中には、若いのにこんなに上手に書かれたら私らどうしたらええのと言う者や、これだけ書けるんやったら別に小説教室に来る必要がないんじゃないかと言う者まで現れた。
 全員の批評が終わり、武雄の番になった。生徒たちと同様に文章力を誉め、主人公の気持ちが素直に表現できていることを誉めた後で、「ひとつ気になったのは、崇拝する父親の像があまりにも理想化されていて、現実感に乏しいところかな」と付け加えた。賞賛ばかりで天狗になっては困るという気持ちからだった。生徒の作品の批評でそんなことを考えたのは初めてだった。
 美樹は俯いて聞いている。
「それと題名が内容に比べて、いくぶん甘いかもしれない。あと、ところどころ感覚に任せて書き過ぎてしまう箇所があるので、もう少し抑えた方がいいと思う」と言って、武雄は具体的に三カ所を指摘した。
 他に意見はないかと尋ねてから、武雄は、何か言いたいことがあればと美樹を指名した。
 美樹は顔を上げると「もっといろいろ言われると思って昨夜は眠れなかったんですが、きょうはぐっすりと眠れそうです。ありがとうございました」と一礼した。他の生徒たちから小さな笑いが漏れた。
「それから、先生が父親のリアリティに乏しいとおっしゃったのはその通りなんですが、小さい時に父親を亡くした人間にとって父親のリアリティに乏しいのは仕方がないと思うんです」
 美樹の反論は意外だったが、武雄はそれを頼もしく聞いていた。
「そうですね。主人公にとっては作者の言う通りリアリティが乏しくても仕方がないんですが、母親にとってはそうではないから主人公の持っている父親像を訂正するようにさせたらよかったんじゃないかな。そうすれば父親のリアリティも出ると思うんやけど」
「……そうですね。考えてみます」
 もう一つの作品の合評がすんで居酒屋に移動した時、武雄は美樹を隣に坐らせた。そして、赤を入れた原稿を取り出して彼女に見せながら、教室では時間がなくて出来なかった表現上のちょっとした不備や表記上の誤りを指摘した。美樹が、これ、お借りしてもいいですかと訊いてきたので、どうぞと武雄は答えた。美樹が原稿をバッグに仕舞うのを見届けてから、「篠田さん、今回の作品大分実体験が入ってるんとちゃうの」と尋ねてみた。
「大分どころかほとんどそうです」
「ということは、今独りで住んでんの?」
「いいえ、そこだけは……」と言って美樹は笑った。「喧嘩をしたのは本当ですが、家出は嘘です」
「なるほど。それじゃあ今でもお母さんとの確執は続いてんの?」
「今では大分ましになりました。大人になったと言うべきか」
「お母さんの気持ちが分かるようになった?」
「いや、そこまでは……」
 美樹の笑顔を見ていると、どうして由加里とはこういう会話が出来ないのか武雄には不思議に思えてくる。由加里が他人だったらもっとうまく行くかもと思っても、現実にそうなるとたぶんどこにも接点がなくなるだろう。
 次の木曜日、小説教室のあるビルの部屋に入っていくと、開け放した奥の事務室から事務局長が出てきた。
「先生、面会の方が来られてますよ」と意味ありげな笑い方をする。
「面会?」
「ええ、先ほどからお待ちです」
 心当たりがなく事務室に入ると、事務局長が隣の応接室を手で示した。
 応接室のソファーに美樹と着物を着た年配の女性が坐っていた。武雄が入っていくと、二人が立ち上がり、年配の女性が深々とお辞儀をした。美樹の母親かと思いながら、武雄も頭を下げた。
「篠田美樹の母でございます」
 頭を上げてそう言った母親を見て、武雄は思わず声を上げそうになった。まさかと思った。その思いが顔に出たのだろう、母親は微笑みながら「木元さん、お久し振りでございます」ともう一度頭を下げた。
「沢渡さん?」
「沢渡奈津子でございます。今は篠田ですが」
 どうして奈津子がこんなところにいるのか、武雄は頭が混乱するのを感じた。
「東京じゃなかったんですか」
「もうずっと前にこちらに戻って参りました」
「篠田さんのお母さんがあなただったなんて、まさかそんなことが……」
「私も娘から名前を聞いた時は、まさかと思いました」
 美樹は隣で笑っている。
 奈津子の顔は年相応に衰えてはいるが、昔の面影はまだ十分に残っている。二十数年の歳月を飛び越え、武雄は一瞬二十代の若者に還った。
 そう言えば美樹は奈津子にどことなく似ている。美樹に惹かれたのはそういう理由だったのだと武雄は納得した。
 二十数年前、武雄は読書会で知り合った奈津子の他七、八人と同人誌を立ち上げた。奈津子ともっと身近に接していたいと武雄が働きかけたのだ。同人誌は三号まで出したが、同人の城島隆治が「文響」という文芸誌の新人賞を受賞して東京に引っ越すと、奈津子も彼を追って東京に行ってしまった。結局四号を出せずに解散してしまい、その時、武雄の奈津子に対する思いも断ち切られてしまったのだ。一緒に暮らしているという噂を耳にしたが、その後城島の名前を文芸誌で二、三度見ただけで、奈津子の消息も途絶えてしまった。
 混乱した気持ちが収まってくると、いろいろと訊ねたい事柄が湧き上がってきた。しかし、奈津子の苗字が篠田であることが武雄には引っ掛かった。
「先生」いつの間にか事務局長が後ろに来ており、「若い時この方を好きだったんじゃないですか」と冷やかした。
「今も美人やけど、若い時はもっときれかったんですよ」
 そう言うと、奈津子は口に手を当てて笑った。
 小説教室の始まる時間が来て、事務局長が応接室で待っているのも何だからと奈津子に合評に参加するように勧めた。武雄もよかったらと言い、奈津子は美樹と一緒に教室に入った。
 生徒たちに奈津子のことを紹介すると、まさに奇遇ですねと感嘆の声が上がったが、どことなく腫れ物に触るような空気が流れた。美樹の作品を読んだ後なのだから無理もないかと武雄は思った。
 奈津子の前で先生面をするのはやりにくかったが、時間がたつと気にならなくなり、いつもの調子になった。奈津子もすでに作品を読んでおり、若い時と変わらない鋭い批評を飛ばした。美樹には奈津子の血が流れているのかと武雄は羨ましくなった。
 二次会にも奈津子は参加した。武雄の前に奈津子と美樹が並んで腰を降ろした。
「この子から」と奈津子は美樹に視線を向けた。「お母さんの若い時の小説を読ませてと言われた時に、変な感じがしたんですよ。今まで私が小説を書いていたことなんか全然関心がなかったくせに、急に見せてなんて言うから。おかしいと思って問い質したら……」
「白状しちゃいました」と美樹は舌を出した。
「それで、何という先生に習ってるのって尋ねたら、出てきた名前が木元武雄でしょ。私、本当にびっくりいたしました。この子の持っていた案内パンフレットで確認したら、まさしくあなたですもの、懐かしいやら不思議やら言葉が出ませんでした」
「母は嫌がったんですが、私が無理矢理連れてきたんです」
「嫌がったわけではないのよ。ただこういう歳を取った姿でお会いする自信がなかっただけ」
「そう言われたら、私もつらいなあ。こんなに腹が出てきたし」と武雄は腹をさすった。
 ビールが運ばれてきて、奈津子は着物の袖口を押さえながら武雄のコップにビールを注いだ。武雄も注ぎ返す。「何だか昔に戻ったみたい」「いや、ほんとに」そう言いながら乾杯した。
「あれからずっと小説を書いていらっしゃったんですね」と奈津子が言う。
「ええ、まあ、細々と」
「えらいわあ」
「えらくなんかはないですよ。娘には売れない小説ばっかり書いてと馬鹿にされてますから」
「娘さんはおいくつ」
「十九ですね。女房の影響で音楽の方に行ってしまって」
「あら、それは残念ですわね」
 男と同棲していることは、さすがに口に出せなかった。
 訊いていいものかどうか迷いながら、「東京からいつ頃戻って来られたんですか」と武雄は尋ねた。
「こちらに戻ってもう二十年になります」
 おれが結婚した時にはすでにこっちにいたのかと武雄は思った。
 奈津子は、篠田という男と結婚して美樹が生まれ、彼女が八歳の時に夫が亡くなり、それから水商売に転じ、現在小さいながらも難波でバーをやっていると小振りの名刺を武雄に差し出した。「ラウンジなつ 篠田奈津子」とあった。
 奈津子の話で奇妙だったのは、篠田を追いかけて東京に行き、そこで一緒になったということになっている点だった。城島と篠田は同一人物なのかと思ったが、そんなことがあるのだろうかと武雄は不思議だった。
「先生、母の若い時ってどんなんだったんですか」と美樹が武雄のコップにビールを注ぎながら、訊いてきた。
「余計なこと、訊かないの」と奈津子が美樹の腕を軽く叩いた。
「あなたのお母さんも昔はいい小説を書いてたんだよ。それが三つだけ発表してそれっきりになってしまったから」そう言うと、武雄は奈津子の方を向いた。「どうしてあのまま書き続けなかったんですか。書き続けてたらいい線行ったと思うけどなあ」
「いいえ、私には才能がありませんから」と奈津子は手を振った。
「先生、母のこと好きだったんですか」美樹が訊いてきた。
「ああ、好きでしたよ」武雄はあっさりと答えた。「あなたのお母さんは同人仲間のいわばマドンナだったから、みんな好きだったんじゃないかな」
「嘘ですよ、マドンナなんて」
「父はその同人の一人だったんですか」
 武雄は一瞬言葉に詰まった。
「篠田という人は同人にはいなかったと思うんだけど……」と答えながら、武雄は奈津子を見た。
「お父さんは別の同人誌に属してたの」
「だったらその同人誌にお父さんが書いたものを読ませて」
「前に言わなかった? お父さんは評論家タイプで小説は書かなかったの」
「評論でもいいから、読ませて」
「お父さんは評論も何も書いていません」
「本当ですか」と美樹が武雄に訊いてきた。
「いや、ぼくは篠田という人を知らないので……」
「お父さんの話はもういいから、私は木元さんの話を聞きたいわ」
 奈津子にそう言われても、話すことは大してなかった。出てきた料理をつまみながら武雄は、知り合いの紹介で三十歳の時に結婚したこと、すぐに娘が出来たこと、長く続いている同人誌に参加して書き続けていること、そこの先輩の推薦で小説を教えるようになったことなどを話した。
 奈津子は昔の同人誌仲間の消息を訊きたがったが、そこにはもちろん城島の名前は出てこなかった。
 地下鉄のホームで、奈津子と美樹の乗る電車が入ってきた時、「一度、是非お店に遊びに来て下さい」と奈津子が言った。「それから木元さんの最近の作品を読ませて下さい」
「わかりました」と武雄は頭を下げた。
 翌々日の土曜日、小説教室の公開講座があり、それを見に行くという口実で武雄は家を出た。鞄の中には半年前に出た同人誌を入れていた。
 公開講座に顔を出すとつかまって飲み屋に引っ張られそうだったので、喫茶店で時間をつぶし、夕方難波に出た。
 奈津子の話していた目印を頼りに繁華街の裏道を行き、小さいビルの二階に「ラウンジなつ」を見つけた。
 頑丈そうな木の扉を押すと、チリンと鈴の鳴る音がした。
「いらっしゃいませ」奈津子の声だった。
 中に入っていくと、「あら、いらして下さったんですか」と奈津子がカウンターの中から明るい声を出した。着物の上に白い割烹着を着ている。カウンターの中にはもう一人、ピンクのブラウスを着た若い女性がいて、武雄に笑い掛けた。カウンターの手前にはボックス席があり、客はまだ一人もいなかった。
「さっちゃん、あとお願いね」と言いながら、奈津子がカウンターから出てきた。
「仕事があるなら続けて……」
「いや、もう終わるところでしたから」そう言いながら奈津子は割烹着を脱いだ。一昨日よりも派手な柄の着物だった。武雄がカウンターの椅子に坐ろうとすると、「こちらで」と奈津子が奥のボックス席を示した。
 テーブルの角を挟むように坐ったところで、「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」と奈津子が膝の上に指先を重ねて頭を下げた。
「なかなかいいお店じゃないですか」武雄は店の中を見回しながら言った。「始めてどのくらいになるんですか」
「五年になります」
「店を持つのは大変だったでしょう」
「もう必死でしたから」
 その時若い女性がお絞りを持ってきた。
「木元さん、おビールでよろしかったですか」
 武雄が頷くと、「さっちゃん、ビールとつきだしはいつものやつね」
「はい」
 武雄は鞄から同人誌を取り出して、奈津子に見せた。
「あ、作品が載ってるんですね」
 奈津子は同人誌を受け取るとぱらぱらとめくり、目次を見て「巻頭じゃないですか」と感心したような声を出した。
「いや、ローテーションみたいなもんやから」
「後でじっくり読ませてもらいます」
 ビールと小鉢に入ったつきだしが来た。奈津子がビールを注いでくれる。奈津子の前には小振りのコップが置かれ、武雄がビール瓶を持ち上げると、奈津子は両手でコップを持ってビールを受けた。
「それじゃあ、改めて再会に乾杯」そう言って武雄はコップを合わせた。
 奈津子がビールを飲む姿を見ていると、武雄は改めて、二十数年の時を隔ててこうして彼女と向かい合っていることの不思議を感じた。そんなに時が経った感覚はなく、せいぜい十年くらいしか経っていない気がする。しかし、彼女に対する思いは確実に二十数年という時の長さに晒されてしまったと武雄は感じていた。
 奈津子がつきだしを勧め、鶏肉と大根の煮物かと思ったら蕪だった。鶏肉は柔らかく、蕪はほんのりと甘味があった。酒の当てにはなるべく手を掛けた料理を出しており、バーというより居酒屋に近いですわと奈津子は笑った。
 鈴が鳴り一人の客が入ってきた。「ちょっとすみません」と言って奈津子が立ち上がり、カウンターに坐った客に挨拶をしてから、また戻ってきた。
「ぼくはええから、仕事して」
「さっちゃんが相手してくれるから大丈夫」
 そう言って奈津子がビールを注いでくれ、注ぎ終わるのを待って「こんなこと訊くのは何なんやけど、篠田という人物と城島は同一人物なの?」と武雄は切り出した。
 奈津子ははっとした顔をしたが、すぐに静かな表情に戻って「訊かれるだろうと思ってました」と答えた。
「違うんですよね」
「はい。篠田とはこっちに帰ってきてから知り合って結婚したんです」
 あれと武雄は思った。年数が合わない。
「と言うことは美樹さんは篠田さんの子供じゃない?」
「城島の子供です」
 武雄は一瞬言葉に詰まった。
「そのことを美樹さんは知ってます?」
「いいえ」
「こころ模様」の中の理想化された父親像が武雄の頭をよぎった。
「だったら城島は知ってるんですか、美樹さんが自分の子供であることを」
「知りません。妊娠したことを言わずに別れましたから」
「どうして」
「どうしてって訊かれても……。意地みたいなものかしら、その時城島さんには結婚しようとした相手がいましたから」
「いずれ美樹さんには分かってしまうんじゃないかな、戸籍を見たりしたら」
「それもありません。篠田は自分の子供として認知してくれましたから」
「自分の子供じゃないのに?」
「そういう人でした」
 武雄はさっちゃんの持ってきてくれたじゃがバターをほぐして口に入れた。奈津子も黙ってビールを飲む。店内にスイングジャズが静かに流れているのに初めて気づいて、武雄はそれに耳を澄ませた。
「あの子が二十歳になったら本当のことを言おうと決めていたんですが」と奈津子が口を開いた。「でも、いざ言おうとするとなかなか出来なくて。いっそのこと黙っていようかとも思ったり。ただ、私が死んでからあの子が出生の秘密を知ったら、あの子にどう言われるか。ひどい母親だと非難されそうな気がして」
「それで迷ってるの?」
「話したほうがいいでしょうか」
 武雄は少し考えてから、美樹の作品について話した。幼児虐待の場面には触れず、そのほかの日常の場面を話し、母親と娘の確執を丹念に描いた小説だと紹介した。美樹が今でも父親を崇拝しているというところで奈津子は、「篠田は娘に甘かったですから」と小さく笑い、「理想的な父親でしたが、夫としては失格でした」と付け加えた。
「だから本当のことを話すと、彼女を傷つけることになるんやないかな」
「やっぱり話さないほうがいいんでしょうね」
「ただもし私が美樹さんと同じ立場なら、真実を教えてくれたほうがありがたいと思うでしょうね。たとえその時は傷ついても」
「そんなものでしょうか」
 そう言うと、奈津子は黙り込んだ。
 客が何人か続けて入ってきたので、武雄は帰ることにした。飲み代を払おうとしても奈津子は受け取らず、扉の外まで出てきて「娘のこと、よろしくお願いします」と頭を下げた。
 奈津子に会ったことを話すつもりはなかったが、小説教室の二次会で、美樹は奈津子に渡した同人誌を取り出して、武雄が奈津子のバーに行ったことをみんなにばらしてしまった。生徒たちの冷やかしに対して、武雄は、「旧交を暖め合うというのはこういう時に使う言葉、分かるやろ」ととぼけた。
 美樹に作品の批評を求めると、現在、過去、大過去を改行なしに詰め込んで読み手に混乱を与えないのはさすがだと思うが、学生運動をしていた主人公の過去と現在を対比してその痛みを描くという構造そのものが既成の作品をなぞっているようで不満だと美樹は述べた。
「母も私と同じような意見でしたが、作品全体にうっすらと叙情が漂っているのが好きだと言ってました。私はむしろ叙情性はないほうがいいと思いましたが」
美樹の批評の鋭さは奈津子よりも城島譲りかと思いながら聞いていて、武雄はふっと奇妙な感覚にとらわれた。本当の父親は城島ではなく実は自分で、目の前にいる自分の娘の批評を心地よく聞いているような感覚。どこかがほんの少し違っていたら、あり得べき現実だったかもしれないのだ。しかしすぐに武雄はそんな想像を笑って否定した。もしそれが現実だったとしたら、目の前にいるのは美樹ではない別の誰かなのだから。
 美樹の取り出した同人誌は武雄のところには帰ってこず、生徒たちに回し読みされることになった。

 五月の連休の谷間、武雄が仕事から帰ってくると、啓子がいなかった。家の中は灯りもついておらず、夕飯の支度も全くされていなかった。冷蔵庫を開けてみるとスーパーマーケットで買ったままのパックとか野菜が詰め込まれていたので、何か急用でも出来たのだろうと思ったが、それならそれでメモくらい残しておけばいいものをと武雄は腹を立てた。
 しばらく待っても帰ってこないので、冷蔵庫からビールと漬け物を出し、取りあえず空腹を抑えた。疲れているので何か作ろうという気も起こらない。
 啓子が帰ってきたのは、九時過ぎだった。台所に姿を現すと、「何か食べた」と訊いてきた。
「どこ行ってたんや」
「由加里が妊娠したんですよ」
「妊娠?」思わず声が高くなった。
「そうですよ。由加里から来て言う電話があって行ったら、青い顔してるのよ。気分が悪くてむかむかするって。すぐにぴんと来て病院に連れて行ったら、案の定。もう八週目に入っているんですって」
 啓子はどことなく楽しそうである。
「それでどうするんや」
「どうするって産むしかないでしょう」
「まあ、そりゃそうやけど、由加里はどう言うてるんや」
「何も言ってませんよ。妊娠ていうことを受け入れるだけで精一杯なんだから」
「相手の男はどう言うてるんや。あの……宮城とかいう男は」
「だめ、だめ。おろおろするばっかりで何の役にも立たないんだから」
 啓子がこきおろすのを聞くと、逆に武雄は宮城に同情したくなってくる。いきなり父親になるんですよと言われて、はい、分かりましたと答えられる男はなかなかいないだろう。結婚していた自分でさえそうだったんだから、ましてやまだ結婚していない宮城にとっては、なおさらだろう。
 服を着替えてきた啓子が遅い夕食を作り始めた。手を動かしながら、いつ二人に会いに行くかという話をする。
「おれもか」
「当たり前じゃないですか」啓子は包丁を持ったまま、武雄の方に振り返った。「あなたがもっと早くがつんと言って由加里を連れ戻してきたら、こんなことにはならなかったんです」
 八週目なら、同棲を知った時にはすでに妊娠していたんだから意味ないだろうと思ったが、武雄は黙っていた。
「それで、おれは二人に会って何を言えばええんや」
「何をって、結婚じゃないですか。お腹が目立たないうちに二人を結婚させなくちゃ」
「うーん」
「何を考えているんですか。お腹の大きい花嫁なんて、親が恥をかくんですよ」
「おれは別に構わないけどな」
「あなたは構わなくても、私が困ります。どういう娘に育てたのかと馬鹿にされるのは、母親である私なんですから」
 結局、連休最後の日に由加里と宮城に会いに行くことになった。
 その日は朝から、着ていく服装のことで啓子と揉めた。啓子は、きょうばかりはスーツを着てネクタイを締めて、ばしっと威厳を示す恰好をしていかないと、と言い、武雄は、そんな相手に緊張感を与えるような恰好ではなく、相手がリラックスして本音を話すような服装の方がいいと主張した。しかし啓子は頑として譲らず、武雄は慣れないネクタイを締めることになった。会社では対外的な仕事ではなく、工場内の仕事なので、いつも楽な恰好で通勤しているのだ。
 昼前の出掛ける時になって、電話が掛かってきた。啓子が出る。由加里からかと思ったが、そうではなかった。「ええっと、どちらさまでしょうか。もう一度おっしゃっていただけますか」と聞き返している。
「篠田さまですか。はい、しばらくお待ち下さい」
 啓子が話し口を手で塞ぎながら受話器を突き出した。
「篠田さんていう女の人から」
 美樹か奈津子かと思いながら、武雄は受話器を受け取った。
「もしもし」
「あ、木元さん、突然お電話を差し上げてごめんなさい」
 奈津子だった。
「いえ、構いませんよ」
「今お邪魔じゃありませんか」
「いいえ、全然」
「実はあれから私、いろいろ考えまして。あの子に本当のことを言おうかなと」
「そうですか。私もその方がいいと思いますね」
「それでお願いがあるんですけど、木元さんに立ち会っていただこうと思いまして。私があの子に話す時に」
「それは構いませんけど、二人だけで話し合う方がいいんじゃないですか」
「話そうとしたのですが、やっぱり出来なくて。それで木元さんに来ていただいて、自分を追い込もうかと」
「そうですか。分かりました。立ち会いましょう」
「よかった。木元さんに一緒にいていただければ、私、心強いですわ」
 次の日曜日に店のあるビルの前で待ち合わせ、そこから車で奈津子の家まで行くことになった。
 受話器を降ろすと、「さあ、行きますよ」と啓子が声を掛けてきた。
「小説教室の生徒や」言い訳をするように武雄は言った。
「そうですか」
 啓子は気にする風もなく、玄関に向かった。
 武雄は気が重かった。この前は何の結論も出す必要がなかったが、今回は何らかの結論を出さなくてはならないのだ。啓子の欲しい結論は結婚して子供を産むというものだが、由加里にしても宮城にしてもそう簡単に賛成するのかどうか。それにおれ自身が、と武雄は思う。啓子の結論に同調していないのだ。望まれもしない子供を産んでも誰も幸せにならないのではないか。子供にとっても不幸だという気持ちがどこかにある。
 二人を迎えたのは、宮城だった。由加里はベッドに横になっている。
「どうしたの。気分が悪いの?」
 啓子が由加里の顔を覗き込む。由加里が小さく頷くのが見えた。
 テーブルを挟んで宮城と相対した。宮城は正座をしてテーブルに目を落としている。
「それでどうするか決めた?」と啓子が言う。
「え?」
「え、じゃないでしょう。どうするの」
 宮城は黙り込んでしまう。
「そんな頭ごなしに言うてもあかんやろ」と武雄は静かに言った。「ここはまずひとつひとつ確認していこうやないか」
「何ですか、その確認て」啓子は武雄にも突っかかるような言い方をする。
「まあまあ、ちょっと落ち着け。まずは由加里の気持ちや。由加里が産みたいと思っているかどうか」
「何を言うんです。産みたいに決まってるでしょ」
「どうや」
 武雄はベッドの由加里に声を掛けた。しかし由加里は目を閉じたまま、じっとしている。
「中絶なんて絶対許しません」啓子が甲高い声を出した。
「そうは言うてもなあ、育てるのはおれたちじゃなくてこの二人なんやぞ」
「あなた、孫の顔を見たくないんですか」
「それとこれとは話が別や」
「別じゃありません。あなたは由加里が可愛くないんです。だから孫の顔を見たくないと……」
「誰もそんなこと言うてないやないか。おれかて孫の顔ぐらい見たいわ」
「だったらどうしてそんな中絶を勧めるような言い方をするんですか」
「誰も中絶なんか勧めてないやないか」
 武雄は大きな声を出した。
「あのう」と宮城が恐る恐るといった感じで口を挟んだ。「ユカリンはまだ迷ってるみたいですけど、僕は産んでもいいかなと」
「当たり前でしょ。男なら責任取らなきゃ」
 啓子の一撃に宮城は首をすくめた。
 啓子はベッドに目をやると、「絶対に産まなきゃ駄目よ。中絶なんかしたら勘当です」と言い放った。勘当とはまた大袈裟なと思ったが、武雄は黙っていた。
「産むと決めたら、すぐにでも結婚しなきゃ」
 啓子がそう言うと、宮城が顔を上げた。
「お腹が目立たないうちに結婚式を挙げた方がいいわ。今から申し込んですぐに出来るところを探さなきゃ……」
 由加里が突然上半身を起こした。
「結婚式なんか挙げへんから。それに私、まだ産むと決めたわけとちゃうんよ」
「何言ってるの。中絶なんかしたら後でどんなに後悔するか……」
 啓子が立って行って由加里の肩を押さえ、寝かしつけようとしたが、由加里はその手を振り払った。
「もう帰ってえな。私の知らんとこで何でもかんでも勝手に決めんといて」
「誰も勝手に決めてないでしょ」
「決めてるやん」声が裏返っている。
「由加里」と武雄は言った。「もうそれくらいにしなさい。お母さんかてお前のことを心配して言うてんねんから」
 由加里は毛布の端を両手でつかむと、頭から被ってしまった。
 結局何も決まることなく帰ることになった。玄関のところで、「ユカリン、今精神的に不安定なんです。落ち着いたら二人で話し合って結論を出しますので」と宮城が申し訳なさそうに言った。
「中絶だけは絶対にやめてよ」
「はい」
 家に帰って武雄は啓子から、冷淡だの父親としての自覚がないだのとさんざん文句を言われた。挙げ句には、何の役にも立たなかったと武雄のスーツ姿にも文句をつけたので、武雄は反論する気も起こらず、黙ってやり過ごした。

 日曜日、武雄はこの前のスーツを着て出掛けることにした。ワイシャツを一回着ただけでクリーニングに出すのがもったいないということもあったが、何より厳粛な態度で臨んでいるということを形で表したいという気持ちが強かった。
「あら、きょうはスーツでお出掛けですか」
 啓子が皮肉混じりに言った。
「クリーニングに出す前にもう一回ワイシャツを着ようと思ってな」
「ネクタイを締めるのをさんざん嫌がったのは、どこのどなたでしたっけ」
 武雄は知らん顔をして玄関に向かった。
「晩までには帰ってくる」と奥に向かって大声で言ってから外に出た。
 ビルの前にはすでに奈津子が待っていた。細身のジーンズにオフホワイトのサマーセーターを着ている。着物の時に比べ、ずいぶん若く見えた。
 奈津子は自分の車で来ており、並んで広い通りまで歩いた。
「私、まだ迷っています」と奈津子が言った。「ようやくあの子との関係が落ち着いてきたのに、また波風を立てる必要などないのではないかと」
「決心がつかなければ、私はいつでも途中で帰りますよ」
 大通りに停めてあった車を奈津子が運転して、彼女のマンションに向かった。
 マンションの地下駐車場の一郭に車を停めると、そこからエレベーターで十二階に上がった。
 奈津子の部屋は一番端だった。
「決心がつきました?」と武雄が訊くと、奈津子は頷いた。
 玄関には天井まで届く靴入れがあり、壁紙と同じ白い扉には全身の映る鏡がはめ込まれていた。
「美樹、お客様よ。挨拶しなさい」
 奈津子が呼び掛けると、廊下に沿ったドアが開き、美樹がジャージー姿で現れた。化粧っ気のない顔をしている。
「あ、先生」そう言うと、美樹はあわてて引っ込んだ。
「先生が来るんだったら、最初からそう言ってよ」不満そうな声が聞こえてくる。
「別にその恰好でいいから、早く出てきなさい」
 そう言ってから、奈津子は武雄をリビングルームに案内した。二十畳ほどの広さで、レースのカーテン越しに光が射し込んでいる。
 武雄は光の当たっているソファーに腰を降ろし、紅茶でよろしい? という奈津子の問い掛けに、頷いた。
 奈津子が三人分の紅茶をいれてテーブルに置いたところで、美樹が姿を見せた。デニムのミニスカートに赤いTシャツを着ている。口紅をつけ、目もすっきりとしている。
「先生、きょうはどうしたんですか」
 美樹は奈津子の隣に坐りながら、武雄の服装を物珍しそうに見ている。
 武雄は奈津子に目をやってから、「きょうは立会人ということで、お母さんに頼まれて」と答えた。
「立会人?」美樹は奈津子を見た。「何のこと」
 奈津子は紅茶を一口飲むと、「前から言おうと思ってたんだけど、あなたのお父さんのことよ」
「お父さん? お父さんがどうかしたの」
 奈津子がまた紅茶を一口飲んだ。
「今から言うことを、びっくりしないで聞いてよ」
「何? 何なの」
 美樹が警戒するような目を奈津子と武雄に向けた。
「実は、あなたの本当のお父さんは別にいるのよ」
「本当のお父さん? それ、どういうこと」
「篠田孝道は実の父親ではなく、実の父親は別にいるの」
「うそ。どうして」美樹が目を見開いて奈津子を見た。
「本当にごめんなさい」奈津子は横向きのまま頭を下げた。
「まさか、先生が私の本当の父親……」
「いや、違う、違う」武雄はあわてて手を振った。
「だったら、誰」
 武雄は奈津子を見た。まだ頭を上げない。武雄が城島の名前を口にしようとした時、奈津子が顔を上げて、「城島隆治という人よ」と言った。
「誰、その人」
「昔、私や木元さんと一緒に同人誌をやっていた人」
「先生はご存じだったんですか」
 美樹が非難の目を武雄に向けてきた。
「城島があなたの父親だというのは、つい先日お母さんに聞いたばっかりです」
 美樹が黙り込んだ。
 しばらくして、「そんな話、私は信じないわ。仮にそれが本当だったとしても、私には関係のないことだもの」と言うと、美樹は立ち上がって、自分の部屋に行ってしまった。
 おれがいたことで、却っておかしくしてしまったかと武雄は思った。
「すみませんでした」と奈津子が言った。
「これでよかったのかな」
「私はこれでよかったと思ってます」
 玄関に向かう途中で、武雄は美樹の部屋の前で立ち止まって耳を済ませたが、何の物音も聞こえなかった。
 車で送っていくという奈津子の申し出を断って、武雄は玄関を出た。
 次の小説教室に美樹は出席しなかった。
 翌日、残業で遅くなって十時頃帰宅すると、啓子が「篠田さんという女の人から電話がありました」と言い、「ここに電話してほしいそうよ」と紙切れを武雄に渡した。携帯電話の番号が記されている。
「篠田さんて、教室の生徒さん?」
「そうや」
 武雄が食卓に用意されていたカボチャの煮物を電子レンジで温めようとしたら、「電話しないんですか」と啓子が訊いてきた。
「もう遅いやろ」
「まだ十時じゃないですか」
 武雄は明日掛けようと思っていたが、そう言われたらしないわけにはいかない。子機を使って自分の部屋から掛けるのもおかしいので、居間の電話を使った。
 受話器を取って、紙切れを見ながらボタンを押す。
「もしもし、木元です」
「先生、昨日は行けなくてごめんなさい。ちょっと用事があったものですから」
 美樹の声はいつもと変わらず、別に沈んだところは感じられない。
「いや、別に構わないですよ、そんなことは」
「あのあと母からいろいろ聞きました。城島さんのことを」
「そうですか」
「それで、先生にもお聞きしようと思って」
「城島のこと?」
「はい」
 会って話したほうがいいと考えて、梅田の大きな書店の前で、二時に待ち合わせることにした。
 受話器を置くと、「またデートですか」と啓子が皮肉っぽく言った。
「そんなええもんと違う。人生相談や」
「他人の人生相談に乗るんだったら、由加里の人生相談にも乗ってもらえたらありがたいんですけど」と皮肉が続く。
「それはお前に任せてるやろ」
「私にばっかり任せないで下さい」
「おれの言うことなんか全然聞けへんねんから、相談も何もないやろ」
 もっとあの子を理解してやって下さいという啓子の言葉を聞き流して、武雄は遅い夕食を食べた。
 翌日家を出ようとすると、啓子も外出着を着て玄関に出てきた。由加里のところに行くと言う。まさか一緒についてくる気じゃないだろうなと思ったが、反対方向の地下鉄に乗ったので、武雄はほっとした。
 待ち合わせ場所に現れた美樹は大胆な花柄のスカート姿で、教室で見慣れたパンツ姿ではなかった。
「印象が違って見えるね」
「ちょっと気分を変えようと思って」
 地下街を歩いて、比較的大きめの喫茶店に入った。奥のボックス席に腰を降ろし、コーヒーを注文した。
「それでどう。お母さんの言うことに納得した?」
「納得も何も、まだぴんと来ませんから」
「お母さんはどういう風に話したの」
 美樹は奈津子から聞いたことを一つひとつ思い出すようにしながら話した。城島隆治の才能に惚れ込んで、東京の彼の許まで押しかけていったこと、何とか彼を世に出したいと奈津子が働いて彼には書くことだけに専念させたこと、彼が頑固で何度か書き直しのことで編集者と喧嘩したこと、そのことで奈津子とも喧嘩したこと、奈津子の存在が重荷になって彼が他の女性を求めてしまったことなど。
「母は城島さんが転がり込んでいる女性のアパートに乗り込んだそうです」と言って、美樹は笑った。「母はそのとき私を妊娠していたんですが、何も言えずに引き返してしまったんです。わざわざ話して城島さんを苦しめることはないって。その時、一人で育てる決心をしたって母は言ってました」
「それで今のあなたがあるわけか」
「でも、それは本当でしょうか。城島さんは母が妊娠していることを知りながら母と別れたんじゃないでしょうか。母は私が城島さんのことを悪く思わないように嘘をついているんじゃないかと……」
「それは分からない。私が聞いた限りでは、嘘をついているようには思えなかったけど」
 美樹はコーヒーを一口飲むと、「先生、城島さんは本当に才能があったんでしょうか」と訊いてきた。「新人賞を取ったのは聞きましたが、そんな世に出したいほどの才能だったんでしょうか」
 難しい質問だった。あの時、城島を羨んだのは確かだった。しかし彼と自分との間にそんなに才能の差があるとは思わなかったし、新人賞くらいなら自分でも取れると思っていた。ただ、奈津子が城島の作品を高く評価していたのは事実だったし、彼の才能に賭けたことも理解できた。
「あの時の同人仲間では群を抜いていたのは確かだったよ。お母さんが彼の才能を見抜いて世に出したいと思ったのは分かる気がするなあ」
「先生はどう思ってたんですか」
「私の場合、やっかみがあったから、正当に評価できるわけがないでしょ」
 そう言って、武雄は笑った。しかし美樹は笑わずに真面目な顔で頷いている。
「彼の作品を自分で読んで、確かめてみたらいいんじゃないの。お母さんが持ってるでしょ」
「そうしようと思ったんですが、母は別れる時に全部捨ててしまったらしいんです」
「だったら私が持ってるやつを貸してあげようか」
「お願いします」
 それから武雄は、美樹の質問に答えて、奈津子や城島と同人誌を作るに至ったいきさつや城島の人となりを話した。無口な方だったが、話すと面白く、時に毒舌をふるったりしたこと、一見クールなようだが、意外と情にもろかったことなど。もっとも、これは二十五年も前の話だからと武雄は付け加えることを忘れなかったが。
 美樹と地下鉄のホームで別れ、家に帰ったが、まだ啓子は帰っていなかった。武雄は乱雑に詰め込まれている本棚の中を探し回って、三号でつぶれた同人誌のうち城島の作品が載っている二冊と新人賞が掲載された文芸誌を見つけた。他にも彼の作品を文芸誌で読んだことがあるが、それは見つからなかった。図書館で読んだか、誰かに貸してそれっきりになったかと思いながら、武雄は同人誌の創刊号を手に取った。色褪せた黄色の紙に、「蒼穹」と太字で印刷してあり、文字だけの何の変哲もない表紙だった。金がなかったため表紙に凝ることが出来ず、見た目より内容で勝負だとうそぶいていたことを思い出した。
 作品は全部で五編あり、巻頭は城島隆治でその次が沢渡奈津子、最後が武雄自身のものだった。編集後記を自分が書いている。意気込みだけは誰にも負けないというようなことを書いており、武雄は苦笑した。
 自分の作品をぱらぱらと読んで恥ずかしくなり、すぐに城島の作品に移った。ひとつひとつ彫刻刀で刻んでいくような文章で、最初は読みにくいが、徐々に読み手を引き込んでいく力があった。あの頃彼の文章に影響されるのが嫌さに、なるべく違う文章を書こうとしていたのを武雄は思い出した。
 奈津子の作品は若い女性の感覚をきめ細やかな文章で綴っており、当時武雄は城島よりむしろ奈津子の方が才能があると思ったほどだった。
 文芸誌は、表紙に新人賞発表の文字があり、目次の最初に城島隆治の名前があった。「君の凍える場所」という題名で、確か大学の自治会を舞台にした作品だったと武雄は記憶している。受賞の言葉には、下手な作品を拾っていただき、とあり、書き続けることで埋め合わせをしたいと結んであった。
武雄は中身を読むことはせずに閉じ、他の二冊と共に教室に持っていく鞄に収めた。
 啓子が帰ってきたのは午後七時前で、武雄の顔を見るなり、「あの子ったら、何を考えてるんだか……」と怒り始めた。余計なことを言うとこちらにとばっちりが来そうだったので、武雄は黙ってテレビ画面に視線を戻した。
「きょう行ったら、やっぱり堕ろそうかななんて言うから、そんなことをしたら親子の縁を切るわよって怒ってやったの。そうしたら、それでもいいって。もう呆れてしまって」
 夕食の支度をする音が聞こえてくる。
「それでどうしたんや」
「怒るばっかりでは何だからと思って、どうして産みたくないのって訊いてみたのよ。そしたら、まだ子供に縛られたくないなんて言うから、私、かちんと来てしまって。でもここで怒ったら駄目だと思って、それなら私たちが面倒を見てあげるからって言ったのよ」
「まさか本当に面倒を見るつもりか」
「いいじゃないですか。自分たちの孫なんですから」
 勘弁してくれよと思ったが、口には出さない。
「それでもあの子渋ってるのよ。それで、子供嫌いなのとかいろいろ問い詰めたのよ。そうしたら宮城くんがバンドコンテストのことをちらっと漏らして……」
「バンドコンテスト?」
「七月にあるんですって。それに出られなくなるから、今回は産みたくないらしいのよ」
 武雄は思わず立ち上がって、台所に行った。
「それは本当か」
 啓子は卵を溶く手を止めて、
「ええ。それで私が、コンテストと子供とどっちが大事なのって大声で言ったら……」
「コンテストやて?」
「それが、黙り込んで答えないの。コンテストは毎年あるけど、子供はこの機会を逃したら二度と出来ないこともあるのよって言っても、黙ってるだけ。宮城くんが、お母さんの言う通りやから、今回はコンテスト諦めよって言ってくれて、ようやく納得したみたい。我が子ながら本当に疲れました」
「それでおれたちが子供の面倒を見るというのは、本当か」
「あの子に頼まれたらそうなるでしょうね。でも、実際に赤ちゃんを自分の腕に抱いたら、そんなことすっかり忘れてしまうんじゃないかしら」
「そんなものか」
「そんなものですよ」
 そう言って啓子は再び卵を溶き始めた。武雄は納得しがたいまま、テレビの前に戻った。

 次の小説教室に美樹が姿を現したので、武雄は城島の作品が載っている三冊を手渡した。
「ありがとうございます」
 そう言うと、美樹は早速文芸誌をめくり目次を見てから中を読み始めた。それ、何なのと隣の生徒が覗き込む。美樹は、ちょっと読みたいものがあったからと口ごもりながら文芸誌を閉じ、他の二冊と一緒にリュックに仕舞った。
 二次会の居酒屋の前で、美樹は「早速読んでみます」と言って帰っていった。
 次の時、美樹は三冊を返してくれたが、城島の作品については何も言わなかった。二次会では、もっぱら武雄と奈津子の作品について話した。武雄にしても生徒たちの前で城島のことを話題にするのは躊躇われたので、ちょうどよかった。美樹は奈津子の作品にはいたく感心した様子で、「どう。お母さんのこと、ちょっとは見直した?」と武雄が尋ねると、「ええ」と真面目な顔で頷いた。
 武雄の若い時の作品を読みたいということで、二冊の同人誌は生徒たちの間で取り合いになった。「若書きやから、そのつもりで読んで」と武雄は二冊を渡した。
 日曜日の夜、自室で武雄が次の合評作品を読んでいると、「篠田さんという方から電話」と啓子が子機を持ってきた。城島の作品について話があるのだろうと武雄は点滅しているボタンを押した。
「もしもし」
「夜分遅くすみません」美樹ではなく、奈津子の声だった。
「いいえ、構いませんよ」
「実は城島のことなんですが、あの人、今癌に罹っているらしいんです」
「癌?」
「ええ、それも末期癌らしくって」
「一体、誰から聞いたんですか」
「文響の編集部に電話をして、副編集長の矢口さんに聞いたんです。矢口さんは昔城島を担当していた編集者で……」
「文響に電話した?」
「実は、娘が城島の作品の感想を送ろうと編集部に電話をしたら、矢口さんに城島は体を悪くしているから送っても返事はもらえないと言われたらしくて。それで私が電話をして、何とか詳しいことを聞いたんです」
「もう駄目だということですか」
「いえ、矢口さんも詳しいことはご存じなくて、癌が転移しているから末期じゃないかとおっしゃって」
 少しの間、沈黙があった。
「私、一度お見舞いに行こうかと……」
「連絡したんですか」
「いいえ。……そこでお願いがあるんですが、木元さんから城島に電話をしてもらって、私が行くことを伝えていただけませんでしょうか」
「家まで行くの?」
「駄目でしょうか」
「行かない方がいいと思うけど」
 奈津子が黙り込んだ。
「取り敢えず、私が電話をして向こうがどういう状態なのかを確かめてから、その後のことを考えましょうか」と武雄は言ってみた。
「そうですね。それがいいですわ。是非お願いします」
 武雄は奈津子から城島の電話番号を聞き、電話を切った。
 外線ボタンの光が消えた子機を手にしたまま、武雄はしばらくじっとしていた。昔の城島の姿が甦ってきて、末期癌という言葉とうまく結びつかなかった。武雄の作品を酷評する城島の言葉がその声の調子と共に脳裡に浮かび、武雄は苦笑した。
 翌日、武雄は夕食がすむと子機を持って自分の部屋に行ってドアを閉めた。椅子に深く腰を降ろして、どう切り出したらいいものかと考えたが、どんな言葉も浮かばなかった。
 相手は病人だからあまり夜遅くなってもという思いに押されて、武雄は紙切れに書かれた電話番号を見ながらボタンを押した。
 呼び出し音が何回か鳴り、ひょっとしたら入院中で自宅には誰もいないかもと思った時、電話がつながった。
「もしもし」女性の声だった。
「もしもし。城島さんのお宅でしょうか」
「はい」
「私、昔ご主人と同人誌を一緒にやっていた木元という者ですが、ご主人はいらっしゃいますでしょうか」
「キモトさんですね。しばらくお待ち下さい」
 保留のメロディが流れてくる。武雄は急に動悸を感じた。
 少し経ってメロディが突然切れ、「もしもし」と男の低い声が聞こえてきた。
「もしもし、城島か。おれや、木元や」
「よう、木元か。久し振りだな」城島の声が高くなる。思っていたより元気そうな声だった。
「二十五年ぶりかな」
「そうなるかな」
「突然電話をしてびっくりしてるかもしれんけど、実はお前が癌に罹っていると聞いたので、お見舞いに行こうかと思って」
「誰から聞いた」
 警戒感のこもった口調になり、武雄はあわてた。「実はおれ、こっちで小説を教えてるんや。小説教室みたいなところがあって」
「ほう」
「そこの生徒がやな、お前の新人賞を取った作品を読んで、ファンレターを出そうとお前の住所を編集部に問い合わせたんや。それで副編集長の矢口さんという人が教えてくれて」
 どうして生徒が新人賞を読んだのかと訊かれたら、テキストとして使ったと答えようと思っていたが、城島は「ああ、そういうことか」と納得した声を出した。
「ファンレター、届いてないか」
「届いてない」
「そうか。……それでどうなんや、癌のほうは」
「まあまあかな」
「末期て聞いたけど」
「どうかな」と城島は笑った。「肺から大腸に転移して、まだ骨盤に残っているから末期と言えば末期かな」
「手術はしたんか」
「二回な。片肺取って大腸も三十センチほど取った」
「調子はどうなんや」
「今のところ新しい抗ガン剤が効いて、調子がいいけどな」
「そうか。それで見舞いに行きたいんやけど、どうや」
「わざわざ遠くから来てもらうことはないよ。こうして電話だけで十分だから」
「近いうちに東京に出張することになるから」と武雄は嘘をついた。「そのときに一度会えないか」
「………」
「久し振りに顔を見たいし、生徒のファンレターも渡したいし……」
「わかった。そういうことならどこかで会おうか」
「外に出られるのか」
「ベッドで寝ていると思ったのか」と城島は笑った。「ただ、調子の悪い時は外出は無理だけどな」
「出張の日が決まったら、電話をするわ。その時会う場所と時間を決めようか」
「わかった」
「久し振りに声を聞いて、よかったわ」
「わざわざ電話をくれてありがとう。おれもうれしかったわ」
 電話を切ると、武雄はひとつ深呼吸をした。思わず知らず入っていた肩の力が抜けるのを感じた。
 土曜日、武雄は啓子が買い物に出掛けている間に奈津子に電話を掛けた。いるかなと思ったが、すぐに彼女が出た。城島に電話したことを話すと、「元気でした?」と訊いてきた。
「声からは元気そうに思えたけど」
 武雄は城島との電話でのやりとりを話した。
「あなたの名前を出さなかったのは、まずかったかな」と武雄は言った。
「いいえ、構いません。私の名前を出したら、あの人頑固だから一切拒否するかもしれませんし」
「私もそれを心配したんや。……それで会うのはいつにしましょう。今はまだ体の調子がいいようだから、なるべく早いほうがいいと思うけど、一週間後の土曜日はどう」
「お店は閉めますので、もっと早くして下さい。あの人が外出できるうちに」
「……土曜日でないと、私、会社を休めないんですよね」
「木元さん、一緒に行って下さるんですか」
「ええ、私はもちろんそのつもりですよ」
「木元さんがご一緒して下さるんなら、私、どれだけ心強いか……」
「城島に嘘をつきたくはないんで」
「ありがとうございます」
 日にちが決まったら連絡するということで、電話を切った。
 啓子が帰ってこないうちにと武雄は早速城島のところに電話を掛けた。しかし出てきた奥さんは、彼が病院に行っていることを告げた。武雄は夜にでもまた電話をすると言って、受話器を置いた。
 城島から電話が掛かってきたのは、夕方だった。食事の用意をしている啓子に代わって受話器を取ると、城島だったので武雄は驚いた。
「電話をもらったそうだけど」
「よくこっちの電話番号、分かったな」
「はは、木元は古いな。今時の電話はいろんな機能があるんだ」
 城島から掛けてくると分かっていたら、子機で受けるべきだったと武雄は思った。
「この前話した出張の日が決まったんで、そちらの都合を聞こうと思って」
 そう言いながら、武雄は啓子の方を見た。流しで野菜を洗っている姿がこちらを向くことはない。
「いつ」
「来週の土曜日」
「……来週は病院に行かないから、いつでもいいよ」
「そしたら二時頃はどう。場所はそちらの都合のいい所で」
 考え込んでいるのか、しばらく沈黙が続いた。
「大阪からならJRの八王子で会おうか。駅の改札口のそばで」
「わかった。来週の土曜日、午後二時にJRの八王子やな」
「もし、体調が悪くなったらその時は電話をするから」
「わかった。それじゃあ来週の土曜日に」
 電話を切ると、「出張って何のことですか」と啓子が訊いてきた。やっぱり聞こえてたのかと心の中で舌打ちしながら、
「実は、若い時一緒に同人誌を作っていた男が癌になってるから、見舞いに行こうと思ってるんや」
「今電話をくれた人?」
「そうや。前に話したことないか。城島いうて文響新人賞を取ったことがある……」
「新人賞を取った人がいたというのは聞いたことがあるけど」
「そうや。そいつが今癌に罹ってるんや」
「それで出張なんですか」
「出張いうのは嘘や。大阪からわざわざ見舞いに行く言うたら、向こうも恐縮するやろ。そやから会社の出張のついでに見舞いに行くということにしたんや」
「八王子って、東京ですか」
「そうや」
 啓子は納得がいかない顔付きをしている。
「嘘も方便やないか」
「城島という人と全然交流がなかったのに、癌だと分かった途端、わざわざ東京までお見舞いに行くんですね」
 武雄はどきりとなったが、「若い時に一緒に文学を志した友達いうのは、全然音信がなくてもすぐに昔に戻れるもんなんや」と誤魔化した。
 翌日曜日、啓子が由加里のところに出掛けるのを待って、武雄はJRの案内センターに電話を掛け、土曜日午後二時前に八王子に着く乗り方を教えてもらった。それをメモしてから、今度は奈津子に電話をし、日時と場所を告げ、メモを見ながら新幹線の時刻を教えた。
「それでは切符は私が買っておきます」と奈津子が言った。
「いや、直前に体調が悪くなって中止になるかもしれないから、当日買いましょう」
「わかりました」
 余裕を見て発車時刻の三十分前に、新大阪の乗換口の待合所で会うことにした。
「それから、城島にはあなたと一緒に行くとはまだ言ってないんやけど、言っておいたほうがいいですか」
「だめです」即座に奈津子が答えた。「私が一緒に行くと言ったら、おそらくあの人は会ってくれないでしょう」
「城島を騙すようなことはしたくないんやけど……」
「私が直前になってお願いしたということにして下さい」
「あなたがそう言うんなら、そういうことにしましょう」
 電話を切ろうとして、武雄はファンレターのことを思い出した。
「美樹さんが城島に手紙を書いているんなら、その手紙を持ってきて欲しいんやけど。城島に小説教室の生徒の書いたファンレターを持っていくって言うたから」
「書いているかどうか私は知りませんが、一度あの子に訊いてみます。ただ、書いていても渡してくれるかどうか分かりませんけど」
「もらえなければ、もらえなかったと城島に言うだけやから気にしないで下さい」
 もう一度時間と待ち合わせ場所を確認してから、電話を切った。
 夕方帰ってきた啓子に、武雄は土曜日に東京に行くことを告げた。啓子が生返事をしたので話す順番が逆だったかと思いながら、由加里の様子を尋ねた。悪阻も治まってバンドの練習も再開しているようだった。そんなことをして大丈夫かと言おうとしたが、だったらあなたが行って注意して下さいと言われそうだったので、武雄は口を噤んだ。
 木曜日、小説教室の二次会がお開きになった時、席が離れていて話すことが出来なかった美樹が「先生、もう少しいいですか」と声を掛けてきた。
「ああ、いいよ」
 生徒たちが掛けてくる冷やかしの声に手を振りながら、武雄は再び座席に腰を降ろした。
「母が城島さんの見舞いに行くのは、先生が勧めたんですか」
 美樹がいきなり尋ねてきた。
「いいや、お母さんが行きたいと言うから、私が仲介の労を取っただけです」
「母は会って何を言うつもりなんでしょうか。私のことを話すつもりなんでしょうか」
「さあ、私は何も聞いてないから」
「母は今でも城島さんのことを思っているのでしょうか」
「それも分からない。お母さんに直接訊いた方がいいんじゃないかな」
「そんなこと訊きたくはありません」
「お母さんが見舞いに行くの、反対なの?」
「いいえ、それは母の自由ですから。ただ、私のことは言って欲しくないんです」
「わかった。そのことはお母さんに言っておきます。……ということは、手紙を書く気はないいうことやね」
「手紙は書きます」
「あ、そうか」
「手紙は一読者として書きます」
「私がお母さんと一緒に見舞いに行くのは聞いてるよね」
「はい」
「それじゃあ、私たちと一緒に見舞いに行きませんか」
 美樹は目を見張って武雄を見た。
「どうして私が行くんですか。行くわけないでしょう」
「やっぱり駄目か。作品だけじゃなく、直に会うのもいいかなと思ったんやけど」
「会いたくありません」
 地下鉄の最終時刻が迫ってきたので、居酒屋を出た。

 城島から体調不良の電話が掛かってこなかったので、土曜日の朝、武雄は慣れないスーツを着て、小説教室に持っていく鞄を提げて家を出た。「出張なのに手ぶらはないでしょう」と啓子が渡してくれたのだ。
 待合所には約束の時刻より早く着いたが、すでに奈津子は来ていた。ベージュのパンツスーツに薄い色のサングラスをしている。向こうから声を掛けてもらえなかったら、見間違えるところだった。
「美樹さん、手紙を書きましたか」
「ええ、ここに」と奈津子はバッグを掌で軽く叩いた。
「読みました?」
「いいえ、昨夜遅くまでかかって書いていましたから」
 指定席が空いていたので、並びの席の切符を買った。奈津子が払うと言ったが、それを制して武雄が支払った。その代わり帰りの切符を買ってもらうことにした。
 ホームのベンチに腰を降ろして、武雄は美樹の手紙を読んだ。原稿用紙七枚に鉛筆で書いた綺麗な文字が並んでいた。『「君の凍える場所」を読んで 篠田美樹』とあり、「私は木元武雄先生の元で小説を学んでいる者です」と始まっていた。学生運動という言葉にはぴんと来ないが、大学の自治会で政治方向の違う人間が対立していく様子はよく伝わってくるし、主人公の両親と亀裂が深まっていくのは共感できるとあり、好きな場面や文章、逆によく分からないところや不満に思う表現が細かく指摘されていた。読み終わって、これなら城島も喜ぶだろうと武雄は思った。美樹自身に関することはほとんど書かれていなかった。
 奈津子もそれを読んだ。
「この前教室で会った時、美樹さんから自分のことは話してくれるなと釘を刺されましたよ」
「それは私も言われました」
 そう言って奈津子は笑った。
 列車が入ってきて、二人は乗り込んだ。座席は八割方埋まっており、切符の番号を見ながら座席についた。
 列車が動き出してすぐに、「東京に行くのは二十年振り」と奈津子が呟くように言った。
「私も同じようなもんだなあ」
 武雄はこの前いつ行ったか思い出そうとしたが、逆に行けたのに行かなかったことを思い出した。新人賞受賞式に、城島から出席して欲しいと頼まれたのに、仕事が忙しいと断ったのだ。奈津子が城島に好意を寄せていることはすでに知っていたので、それを見せつけられるような場には行きたくなかった。あの時出席を承諾していたら、たぶんこうして奈津子と二人で新幹線に乗っていただろう。そう思うと、今、奈津子と東京に向かっていることが不思議な因縁のような気がした。
 奈津子の質問に答えて、武雄は小説教室のことを話した。観念小説からミステリーまで様々な作品が集まってくることや、意外な質問が飛んできて答えに窮してしまうこと、小説とは何かを考えざるを得なくなることなど。話は美樹の書いた作品に行き、武雄はその才能を誉めた。
「あの子は城島の血を受け継いでいるんですわ」
「変なことを訊くようだけど、城島は本当に美樹さんの存在を知らないんですか」
 奈津子が驚いた表情を見せた。
「いや、この前彼女から、城島のことを悪く思わないよう嘘をついてるんじゃないかって言われたんですよ」
 奈津子は納得したように頷いた。
「城島は本当に知りません。城島が知っていたら私としてもどんなに楽なことか」
「やっぱりそうですか」
 しばらく会話が途絶えた後、「私、城島の本を作ろうと思っているのですが」と奈津子が言った。「この二十数年間昔のことに蓋をしてきたんですが、娘が小説を書き出したと聞いた時、やはり蓋をしたまま終えることは出来ないとつくづく思いました。それならいっそのこと若い時の決着を付けてみようかと……」
「決着?」
「ええ。城島を世に出そうと思っていた若い時の気持ちを、本という形にしてみようかと」
「そうですね。それはいいかもしれない。私も協力しますよ。出版社なら小説教室の伝手を頼ってもいいし」
「文響に載った作品だけじゃなく『蒼穹』に載った作品も入れたいんです」
 それから奈津子は「アンダンテ」という武雄の知らない同人誌名を上げた。どうやら東京でも同人誌に参加していたらしい。そこに書いたことはなかったが、その後もし書いていたら、それも載せたいと言う。
 奈津子の様子を見ていると、かつての城島への傾倒振りが思い起こされた。
「私もこんな文章を書いてみたい」と奈津子は文響六月号を手に持ちながら言う。
「どうして人の真似なんかしたがるの。沢渡さんは自分独自の文章を持ってんねんから、それを磨いた方がええんとちゃうの」
 城島を否定することではなく、奈津子自身の位置に引き戻すことで、武雄は何とか奈津子を城島から引き離そうとする。
「私は自分の文章が嫌いなのよ。私の書くものはいじいじしたものばっかり。文章がもっと強かったら、書くものも変わってくるとは思わない?」
「ぼくは沢渡さんの書くもの、好きやけどなあ。いじいじというのは、言葉を換えれば、繊細ということやろ」
「その、繊細が嫌なの。私はもっとどーんとしたものを書きたいのよ。力強い言葉で、森を切り開くようなものを」
 武雄は城島の作品への傾倒を抑えれば、奈津子の気持ちも抑えられると思っていたが、今から思えばそれは全くの逆だったのだ。思いがあるから傾倒するのだ。
 新横浜で横浜線の快速に乗り換えた。乗客が多く、二人は吊革に掴まった。
 あと四十分ほどで八王子に着く。そう思うと、急に心配になってきた。果たして、二十数年経って、しかも二度も大きな手術をした城島を見つけることができるのか。薬の影響ですっかり面変わりしているのではないか。
 奈津子を見ると、落ち着いた様子で車窓の風景に目をやっている。こちらが見つけなくても、むこうが見つけてくれるから大丈夫だろうと武雄は思ったが、城島にどう声を掛けたらいいのかは分からなかった。
 列車は定刻通り二時少し前に到着した。多くの乗客と一緒に降り、階段を下りて改札口に向かう。その途中で、奈津子が立ち止まり、サングラスを外してバッグに仕舞った。
 改札口は天井が高く、武雄は改札を出る前から外に目をやった。それらしい人物は見当たらない。
 改札口を出て、二人で周りに目をやっていると、柱に凭れていた男が片手を上げてこちらにやってくる。武雄はすぐにそれが城島だと分かった。ショルダーバッグを肩から斜めに提げている。頭髪はかなり薄くなり、頬もこけていたが、目の辺りは昔と変わらない。
「よ、久し振り」と城島が言った。
「ご無沙汰しております」と奈津子が頭を下げる。城島は奈津子をまじまじと見て、「まさか一緒に来るとは思わなかった」と言った。
「彼女を連れてくることを言わなかったけど、悪かったな」
「いや、構わんよ。おれも会えてうれしいから」
 城島の表情からはうれしいという感じは窺えなかったが、別に嫌がっているようでもない。淡々とした表情だった。
「元気そうやないか」
「まあな。ここのところ調子がいいんだ」
 城島は、近くにホテルがあるからと歩き始めた。しっかりとした足取りだった。武雄は奈津子を城島との間で挟むように並んで歩いた。城島は大阪を出た時間とか列車の混み具合を尋ね、奈津子がそれに答えた。出張のことを尋ねられた武雄は内心焦りながら、金曜日に仕事を済ませ、きょうは新横浜で奈津子と待ち合わせしたことを話した。奈津子は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに話を合わせてくれた。
 ホテルのティールームに腰を降ろし、コーヒーを頼んだ。コーヒーが来るまでの間、城島が自分の住んでいる立川という町の様子や広告代理店の企画部の仕事の話をした。体調を考慮して、昼を挟んだ五時間くらいしか勤務していないと城島は言った。
「病気になったんは、いつごろなんや」コーヒーが来て、武雄はそれを一口飲んでから訊いた。
「三年前。会社の健康診断で肺のレントゲンを撮ったら見つかって……」と城島は話し始める。右肺を摘出する手術を受けて一旦は治ったが、去年の秋に大腸に転移しているのが見つかって再び手術を受け、人工肛門になったと言う。どこに行くにも人工肛門を衛生的にするためのセットが欠かせないと城島はショルダーバッグを持ち歩いている理由を説明した。転移したのは大腸だけではなく骨盤の中もだったが、手術不可能な場所のため抗ガン剤に頼るしかないらしい。
「髪の毛が薄くなってるだろう」と城島は笑いながら頭を撫でた。「前はもっとひどくてつるっ禿だったんだが、今度の抗ガン剤はまだましで、ちょっとは生えてきたんだ」
 城島の笑いに応えて、武雄も笑おうとするがうまくいかない。
「今の抗ガン剤が効いてくれて、おれはほっとしてるんだ」と城島は言う。これが効かなければ打つ手なしという薬を投与して、検査の数値が下がった時は、主治医と手を取り合って喜んだと続けた。
「おれはどうしても息子が高校を卒業するまでは生きていたいからな」
「息子さんはいくつなの」と奈津子が尋ねる。
「今、高校三年」
「だったら大丈夫やろう。あと一年もないんやから」
「それがおれには長いんだ」城島が寂しそうな笑いを浮かべる。
「そうか。すまん」
「いや、いいよ。そう思うのが普通だから」
 重苦しい空気が流れ、それを打ち払うかのように城島が「実はおれの息子、甲子園に行けるかもしれないんだ」とうれしそうな声を出した。
「息子さん、野球してんの」驚いて武雄は尋ねた。
「うん。今、修倫館高校のエースなんだ」
「シュウリンカン?」
「うん。最近野球に力を入れてるんだ。一昨年の夏は西東京で決勝まで行ったんだけどな。息子が準決勝で完封して、そのまま決勝でも投げていたら勝ったんじゃないかと言われたけど」
「すごいやんか。それで去年はどうやったんや」
「それが全然。三年生が卒業して自分がエースだと慢心してしまって」と城島は話し出す。練習に身を入れなくなり、監督が城島の息子をエースから外してしまった。監督と喧嘩をした息子はすっかりやる気をなくしてしまい、野球をやめると言い、実際休部してしまった。そんなとき、大腸への転移が見つかって城島が手術を受けた。すると息子が再び野球をやると言い出して、今までの分を取り戻すような猛練習をしたらしい。直球のスピードが百四十qを超えるようになって、注目されるようになったと言う。
「プロになれそうなんか」
「いや分からん。しかし今度の夏の甲子園に出られたら、アピールできる絶好のチャンスなんだ」
「出られそうなんか」
「下馬評では確実らしいが、何しろ地方大会は一発勝負だから怖いんだ」
「城島がそんなに野球好きとは知らなかったな」と武雄が笑いながら言うと、「おれだって、息子が野球をやらなければ、ここまで身を入れない」と城島は小さい時からどれだけ息子の練習に付き合ってきたかということを熱心に話した。その話しぶりを見ていると、今の城島を支えているのは、野球をしている息子であることがよくわかった。
 息子の話が一段落すると、城島が武雄に小説教室のことを尋ねた。武雄は、教えることになった経過とか教える内容、合評形式のことなどを話し、「そうそう、城島へのファンレターや」と奈津子に美樹の手紙を渡すように言った。
「これ、私の娘が書いたんです」と奈津子はバッグから原稿を取り出した。
「彼女の娘さんが、たまたまおれの教室に入学してきて……」
「何だって」と城島は原稿を受け取りながら、驚いた表情をした。
「それじゃあ、二人は結婚してないのか」
 何を言っているのか武雄には分からなかった。奈津子もきょとんとした顔をしている。
「おれはてっきり、きみたち二人が結婚しているものとばかり思っていた」
「どうしてそんなこと思ったんや」
「いや、さっき、きみたちが並んで改札を出てきただろう。その時、ああ、二人は結婚していたのかと思ってしまって。それ以外のことは全く頭に浮かばなかった。おれにはとても自然なことのように思えたからなあ」
「そのファンレターの名前を見たらわかるけど」と武雄は城島の持っている原稿を指差した。「篠田ってなってるやろ。それが彼女の結婚した相手の名前や」
 城島は目を落として名前を見ると、「申し訳ない」と謝った。「早とちりにも程があるな」
「考えれば、城島さんが間違われるのも無理ありませんわ」と奈津子が微笑んだ。
「そうやな。こっちが何も言わなかったのも悪いし」
「どうして結婚しなかったんだ」
 武雄は奈津子と顔を見合わせた。
「彼女が大阪に帰ってきた時には、おれはもう結婚していたからなあ」
「私もすぐに篠田と結婚しましたから」
 そうかと言って、城島は黙り込んでしまった。武雄は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「それであなたは」と城島は奈津子に言った。「どうです。幸せでした?」
 奈津子はそれには答えず、娘が小さい時に夫を亡くし、水商売の世界に入って、という話をした。城島は言葉少なに、時々頷きながら聞いている。店の話のところでは、武雄も、なかなか雰囲気のある店でと口を挟んだ。
「癌て、治療費が掛かるんではないですか」と奈津子が言った。「もしよかったら、少し援助したいのですが」
 城島が困惑した表情を見せた。
「娘も大きくなってお金が掛からなくなりましたし、店をやってますから、いくらか余裕があるんです」
「ありがとう。その言葉だけで十分です」
 城島は民間療法の話をし、月二十万円くらいをつぎ込んだこともあったが、今では抗ガン剤が効いていることもあって、二種類の民間療法薬を飲んでいるだけだと言った。ガン保険にも入っていたから、金のことはそれほど心配することはないらしい。
「それでは、本を作りませんか」と奈津子が言った。城島は驚いた顔をした。
「城島さん、自分の作品集を作ってないでしょ。私に作らせてくれませんか」
「こっちに来る時に彼女からその話を聞いたんやけど、おれもそれがええんとちゃうかなと思うんや。作るとなったら、おれも協力しようかなと……」
「申し出はありがたいけど、それはお断りする」城島はきっぱりとした口調で答えた。「おれはもう十年近く小説を書いていない。本を出すというのは、木元みたいに現役で書いている人間のすることだろう。おれなんかが本を出しても、紙の無駄というもんだ」
「どうして。あなたの作品を残したいと思っている人間が一人でもいたら、本にする価値は十分あるんじゃないですか」
「もう一人いてるよ」と武雄は掌を上げた。
「本当にありがたいけど、おれは出す気は全然ないから」
「お金の心配なら、しなくていいのよ。全部私が出します。出したいのよ」
「いや、金の問題ではなく、ポリシーの問題なんだ」
 頑固さは若い時と変わらないなと武雄は内心で苦笑した。
「だったら、二十年前にあなたと別れた時の慰謝料の代わりとして、私に本を出させてちょうだい」
 奈津子が怒ったように言った。城島が小さく笑い出す。
「慰謝料代わりに本を出すって言うけど、それじゃあ逆だろう。どこが慰謝したことになるんだ」
「それがなるんや」と武雄は言った。
「どういうこと」
「とにかくなるんやから、素直にうんと言えよ」
「わからん」
 武雄は奈津子を見た。彼女は城島の方に身を乗り出すようにした。
「その原稿の名前を読んでみて」と奈津子が城島の手許を指差した。城島は怪訝な顔をしながら、手に持った原稿に目をやった。
「しのだみき、でいいんだろう?」
 まさか言うのではと思っていたら、「それはあなたの娘の名前です」と奈津子は言ってしまった。
「どういうこと」
 城島は問い掛ける表情のまま、じっと奈津子を見ている。
 ウェイターがコーヒーのお代わりを聞きに来て、武雄は指を回して三つとも代えてくれるように頼んだ。
「篠田美樹はあなたの子供なんです」
「どうしておれの子供なんだ」
「別れる時に、私は身籠もっていたのよ」
「そんなこと、おれは聞いてないよ」
「言わなかったのは申し訳ないと思っています。でも美樹は間違いなくあなたの子供なのよ」
「彼女は今いくつ」
「二十一です。九月で二になります」
 城島は再び原稿に目を落とした。読んでいるのかと思ったが、原稿をめくろうとはしない。
「どうして今頃そんなことを言い出すんだ」城島は顔を上げると、今までと違った堅い口調で言った。「そんなことを言うためにわざわざ来たのか」
「城島、勘違いすんなよ。誰もお前を責めに来たんとちゃうぞ」
「だったらどうして黙っていてくれなかったんだ」城島は急に大声を出した。周りの客たちがこちらを振り返るのが分かった。コーヒーを持ってこようとしたウェイターが立ち竦んでいる。
「今更おれに言われても、こんなおれに言われても……」そこで言葉に詰まると、城島は口をすぼめるようにして上を向いた。
「ごめんなさい」奈津子が俯いた。
ウェイターがやってきて、素早くコーヒーを入れ替える。武雄はミルクを入れ、熱いコーヒーを飲んだ。
「熱いうちに飲んだらどうや」と武雄は二人に声を掛けたが、二人とも動かなかった。
「城島が怒る気持ちも分からんではないけど、そんなに深刻に考える必要はないんとちゃうか。美樹さんを彼女の旦那が実子として籍に入れて、自分の子供として育ててんから。美樹さんも何があろうと、篠田さんを本当の父親だと思ってるし」
「すまん」低い声で城島が言った。「おれが怒るのは筋違いだったな」
「いいえ、私が悪かったんです。黙っておくべきでした」
「それでどうなんや。本を作るのは」
「それはちょっと考えさせて欲しい」
 城島は溜息をつき、疲れた表情を見せた。
 武雄は奈津子に、そろそろ帰ろうかと声を掛けた。奈津子も同意し、三人は立ち上がった。喫茶店の勘定を奈津子が払おうとすると、城島が自分が払うと言い出し、結局武雄の提案で割り勘にした。
 八王子駅の横浜線ホームまで、城島は一緒についてきてくれた。
 奈津子が連絡用にとバッグから名刺を出し、裏に自宅の電話番号を書き入れた。ファンレターの返事を書きたいからと城島が言ったので、奈津子はその下に住所も書いた。
 列車が来た。
「わざわざ来てくれてありがとう。昔に戻ったみたいで、病気のことを忘れていたよ」と城島が言った。
「がんばれよ」
「連絡待ってます」
 列車に乗り込んで動き出すと、城島が手を振り、武雄もそれに応えた。奈津子は流れていく城島に頭を下げた。
 帰りの新幹線の中で、武雄も奈津子も黙りがちだった。城島の病気のことや出版のことをぽつりぽつり話した後、「美樹さんのこと、よく城島に言うたね」と武雄は言った。
「言うつもりはなかったんだけど、つい出てしまいました」
「城島が返事の中でそのことを書くかもしれへんけど……」
「その時はその時です」と奈津子は笑った。
 新大阪に着いたのは午後八時過ぎで、何か食べていきますかという武雄の問いに、奈津子は、娘が待ってますからと答え、二人は梅田の地下鉄のところで別れた。
 家に着いた時、灯りが全く点いておらず、また娘のところかと思いながら、武雄は中に入った。
 服を着替える前に冷蔵庫を覗くと、すかすかで買い物に行ったような形跡がなかった。取り敢えず腹に何か入れておこうと、武雄は煎餅をつまみにビールを飲んだ。
 しかし十時半を回っても啓子は帰ってこない。疲れていて外に出る気はなかったが、仕方なく靴を履き、近くのコンビニエンスストアまで行っておにぎりを買ってきた。そして戸棚にあった鰯の缶詰を開け、おにぎりを食べると、風呂にも入らず、着替えもそこそこにベッドに倒れ込んだ。
 翌日、昼を過ぎても啓子は帰ってこなかった。さすがに武雄は心配になってきて、何度かためらった挙げ句、由加里の携帯に電話をしてみた。しかし返ってきたのは、圏外か電源が切られているため繋がらないというアナウンスだった。
 武雄は、出掛けるなら出掛けるで行き先のメモくらいは残しておけと腹を立て、心配しているのが分かっているのだから電話くらい掛けてこいと電話機を睨んだ。
 七時のニュースを見ていると、ドアの開く音がしたので、武雄は急いで玄関に出て行った。啓子が靴を脱いでおり、「どこへ行ってたんや」と武雄は怒りを抑えながら尋ねた。しかし啓子はそれには答えず、武雄の横を通って居間の方へ行く。目の下に青黒い隈のできたひどい顔だったので、武雄はそれ以上声を掛けることができなかった。
 啓子は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、コップに一杯注いで一息に飲み干した。そして食卓の椅子にどっかと腰を降ろした。武雄は近づきがたかったため、居間のソファーに坐ってテレビに目をやり、「何かあったんか」と声を掛けた。
「由加里、流産だったんですよ」片肘ついた掌に顎を載せながら、啓子がぽつりと言った。
 武雄は思わず啓子の方を見た。
「いつ」
「きのう大出血して病院に連れて行ったら、切迫流産って言われて治療をしたんですけど、結局流産してしまって」
「由加里は大丈夫なんか」
「平気な顔をしてるけど、参ってるみたい」
「孫の顔を見損ねたわけか」
「あら、あなた、孫の顔を見たかったんですか」
「そりゃそうやろ。何しろ初孫なんやから」
「そんな顔、ちっともしなかったくせに」
 武雄は口を噤み、テレビの画面に視線を戻した。
 由加里は二、三日入院するということなので、武雄は明日の夕方病院に行くことにした。

 仕事の帰り、地下鉄を乗り換えて、啓子の書いてくれた地図を手に人に尋ねながら病院を探し当てた。個人病院に毛の生えた程度の規模で、受付で尋ねると三階の三〇二号室だと教えてくれた。
 階段を上がりながら、武雄は会わずに帰ろうかと考えていた。会っても別に話すことはないし、心にもない慰めを言う気もなかったからだ。それでも武雄は足を運んでいき、お腹の大きな妊婦が歩いている廊下を進んで三〇二号室の前に立った。ドアをノックすると、どうぞという男の声が聞こえてきた。
 ドアを開けると、空いたベッドに腰を降ろしている髭面の宮城新一の姿が見え、向かい側のベッドには、由加里が寝ていた。狭い二人部屋だった。
「あっ」新一が立ち上がった。
「わざわざ来んでもええのに」由加里は首を曲げて武雄の方を見ながら言った。顔全体がふっくらとしており、そのせいか目の周りが腫れているように見える。
「どうや、大丈夫か」武雄は由加里を見下ろしながら訊いた。
「別に入院なんかせえへんかってもよかったんやけど、新ちゃんがうるさいから」
 新一が、ここに坐って下さいと空きベッドを示したので、武雄は彼の横に坐った。
「無理したんか」
「無理なんかしてへんよ」突っぱねるようにそう言うと、由加里は上を向いた。
「すいません」新一が小さな声で言う。
「何も新ちゃんが謝る必要なんかないんよ。お医者さんも言うてたやろ、大抵の場合、赤ちゃんの方に問題があるって」
「それはそうやけど……」
 話題を変えるため、武雄は「来月、何やバンドのコンテストがあるんやて」と言ってみた。
「そうや」と由加里はうれしそうな顔をした。「明日退院したら、思いっきり練習したんねん」
「だめ、だめ」と新一が渋い顔をして首を振った。由加里が舌を出す。
「まあ、今度のことも神さまがコンテストに出場せえ言うことなんやろなあ。そやから、まあ、頑張って」
 そう言って、武雄は立ち上がった。
「ありがとうございます」と新一も立ち上がった。
 部屋を出ようとすると、「お父さん」と由加里が呼び掛けてきた。
「うん?」
「頑張るわ」と由加里は指でVサインをした。
 武雄は頷いて病室を出た。
 家に帰ると、夕食の用意ができており、食卓の椅子に腰を降ろした啓子が「元気でした?」と訊いてきた。
「明日からバンドの練習する言うてたわ」
 武雄は椅子を引いて、啓子の向かいに坐った。
「やっぱり。それで、あなた、コンテスト見に行くんですか」
「何でおれが見に行かなあかんねん」
「由加里、何も言ってませんでした?」
「いいや」
「私には絶対見に来てって言ってましたけど……」
「おれは知らん。行きたかったら、お前一人で行ったらええやろ」
 話を打ち切るために、武雄はビールと言って、コップを持った。

 小説教室の二次会が終わってみんなが座敷から出た時、美樹が武雄に話があると言ったので、二人はテーブル席に腰を降ろした。
 ビールはやめてウーロン茶を頼み、それが来たところで、「城島さんから手紙が来ました」と美樹が言った。
「今持ってる?」
 美樹はリュックから封筒を取り出すと、武雄に渡した。二十数年ぶりに見る、角張った特徴のある文字だった。便箋の文字も手書きだ。「私の若かりし頃の作品をお読みいただき、ありがとうございました」で始まっており、内容は美樹の指摘に対する同意と反論が中心で、美樹の批評眼の確かさを誉めてはいたが、どこにも自分の娘云々などといったことは書かれていなかった。
 武雄は安堵したが、手紙を返すと、美樹が「城島さんは私が娘だと知って、どう言ってました」と訊いてきたので彼は驚いた。
「お母さんが話したの?」
「ええ。黙っていることができなくて話したって言ってました」
「それで城島がどう言ったかは話さなかったの?」
「私が訊かなかったから」
「お母さんが話さなかったことを、私が話してもええのかな」
「だめなら構いませんけど」
 美樹の口調は普段と変わりない。武雄は話そうかどうか迷った。嘘をつく気は全くなかった。
「城島はね、あなたが娘だと知って、怒ったんや」
「怒った?」美樹の表情が少し険しくなった。
「いや、ごめん。言い方が悪かった。自分に娘がいると知ってと言うほうが正確やな」
「同じじゃないですか」
「そうかな。城島が怒ったのは、あなたのお母さんが今まで隠してきたせいかもしれないし、自分の命がそう長くはないと思っているせいかもしれないし」
「………」
「今さら知らされても何もできないと思ったからと違うんかな」
「手紙に私のことを何も書かなかったのは、そのためだと言うわけですか」
「たぶんね」
 美樹は黙り込んだ。
「城島が何も書かなかったから、怒ってるわけ?」
「どうして私が怒るんですか」美樹がちょっと憤然となった。「私はただ、城島さんが私のことをどう思っているのか知りたかっただけで……」
「あなたのお母さんも、あなたが事実を知っていることをはっきりと言わなかったから、城島もそこのところを気を遣ったかもしれへんな。どうしても知りたかったら、また手紙でも出してみたら」
「もう二度と出しません」
「そうか」
 美樹はウーロン茶を飲んでから、ふっと笑みを漏らした。
「何がおかしい?」
「母ったら、城島さんに私のことを話したことで、ほっとしてるんです。これで長年の肩の荷が降りたって。でもその荷物って、私と城島さんに渡しただけでしょ」
「そのことにも腹が立つ?」
「ええ、少しは」
 地下鉄の最終電車を待っている時、武雄は美樹に、「お母さんが城島の本を作りたいと思っていることは訊いた?」と尋ねた。
「いいえ」
「言うたらまずかったかな」
「それで作るんですか」
「この前お母さんが城島にそのことを言うたんやけど、断固拒否されてしまって」
 武雄はポリシーの問題という城島の言葉を伝えた。
「城島さんがそう言うの、分かるような気がします」
「どうして」
「何となく、作品から受けるイメージで」
 親子だからと言いそうになって、武雄はあわてて口を噤んだ。

 城島隆治が本を作ることを承諾したということを二週間後の小説教室で、美樹から知らされた。奈津子宛に手紙が届いたと言う。
「お母さん、すごく張り切ってます。連絡が全然来ないから、もう駄目だと思ってたんですって」
「手紙、読んだ?」
「簡単な手紙でした。すべてを任せるということと、費用はいくらか負担するということぐらいしか書いてなくて」
 それから三日後、居間のソファーに寝そべって新聞を読んでいると電話が鳴り、啓子が取って「篠田さんという方から」と子機を渡してくれた。果たして奈津子からだった。
「娘からお聞きかと思いますが、城島さんから手紙が来まして」
「ええ、訊きましたよ」
 武雄は子機を耳に当てながら、ソファーを立って自分の部屋に向かった。
「それで、私、城島さんのところに電話をしまして……」
「直接電話をしたんですか」
「ええ。向こうの奥様ともお話をしました」
 武雄は一瞬どう応えていいものか迷ってしまった。
「城島は奥さんに本を作ることを話しているわけですね」
「もちろんです。奥様からよろしくお願いしますと言われました。費用の方も負担するとおっしゃったんですけど、それは私に持たせて下さいとお願いしました」
「……奥さんというのは、二十年前あなたが乗り込んでいった時の城島の相手と同じ人ですよね」
「そうですよ」奈津子がふふっと笑い声を漏らした。「木元さん、女同士の戦いになると思いました?」
「いや、まあ、思わないではなかったけど……」
「私もそうなって話が壊れるんじゃないかと思いました。でも、隠れてこそこそする気はなかったから、覚悟を決めて電話したんです。そうしたら、昔のことは一切おっしゃらず、城島さんのやりたいようにさせるという口振りでした」
「あなたのことを知らなかったんじゃ……」
「いいえ、私の方から沢渡奈津子と名乗りましたから。城島さんがすでに本のことで私の名前を出していたんじゃないですか、奥様は驚きもせず、ご無沙汰しておりますとおっしゃって……そこで、すぐに本作りに掛かりたいんですけど、どこかいい出版社をご存じではありませんか」
「わかりました。小説教室の事務局長に訊いてみましょう」
 電話を切って、子機を居間に持っていくと、「教室の生徒さん?」とテレビを見ていた啓子が訊いてきた。
「ああ」
「篠田さんていう方、教室には二人見えられるの?」
「いいや、どうして」
「同じ篠田さんで、声とか話し方が違う方がいらっしゃるから」
「あ、それは教室に来ている娘さんの母親や」
「その方も生徒だとおっしゃらなかった?」
「いいや」
「だったら今の電話の方は?」
 しまったと思ったが、
「いちいち生徒の母親だというのが面倒くさかっただけやないか」
「そうですか。それなら構いませんけど」
 そう言うと、啓子は再びテレビ画面に目を向けた。構いませんとはどういうことだと言おうとしたが、余計なことを言って波風を立てる必要はないと我慢して、武雄は子機を充電器に差し込むと、自室に戻った。
 鞄から次回合評する生徒の作品を取り出して読み始めたが、全然頭に入ってこない。武雄は、なぜおれが動揺しなければならないんだと腹を立てながら、ワープロの文字を追った。

 いつもより早めに小説教室に行き、事務室で事務局長に出版社のことを尋ねてみた。事務局長が武雄の作品の出版のことかと勘違いしたので、武雄は、癌に罹っている昔の同人仲間の本を出したいからと説明した。事務局長は城島の名前を知らなかったが、そういうことならと一枚の名刺を持ってきた。
「ここはちっぽけなところですけど、なかなかいい本を出していて、良心的ですよ」
 そう言って事務局長は「真眼社社長 長谷川高明」という名刺の裏に紹介の言葉を書いてくれた。
 その名刺を武雄は教室にやってきた美樹に手渡し、母親に渡してくれるように頼んだ。
 日曜日、早速奈津子から電話が掛かってきた。武雄は自室に引っ込まずに居間で話をした。
「社長一人、社員一人の小さなところですけど、社長さんが熱意のある方なので、お願いすることにしました」
「それでいくらぐらい掛かりそうですか」
「ページ数とか装幀によって変わるらしいんですが、大体百万くらい掛かるようです」
「やっぱりそれくらい掛かりますか」
「お金のことなら心配なさらないで下さい」
「いや、あなたにすべてを負担してもらう訳にはいきません。私もいくらか出したいんですよ」
「そういうことなら、お任せします。……それから作品の選定なんですが、私はできることなら全部載せたいのですが、それは無理なので木元さんに選んでいただきたいのですが」
「城島本人が選ばないんですか」
「城島さんはすべて任せると。自分で選ぼうとすると、載せるものがなくなってしまうからと笑って言われたので」
「わかりました。引き受けましょう。そのリストを城島に返して、OKをもらえばいいでしょう」
「それから新人賞受賞作品は文響出版に版権があるらしいので、長谷川さんに版権委譲の交渉をしてもらうことになりました。それで長谷川さんが交渉に東京に行った際に、城島さんのところに寄って、作品の載った雑誌を全部借りてくることに。それが来たらそちらにお送りしますので」
「わかりました」
 武雄は子機のボタンを押して電話を切ると、台所の啓子に、「今度友達の本を作ることになったから」と声を掛けた。
「そうですか」啓子は気のない返事をする。
「それでいくらか出すことになったから」
「どういうことです」啓子は冷蔵庫を閉めると、武雄の方を見た。
「三十万か四十万、出すいうことや」
「そんなお金、どこにあるんですか」
「そのくらいのお金、出せるやろ」
「出せません。どうして人の本を出すのにこちらがお金を出さなきゃならないんですか。そんなお金があるんだったら、あなたの本を出せばいいじゃないですか」
「それならおれが本を出すと思って、金を出してくれ。頼む」
「そんな馬鹿なこと、できません」
 武雄は食卓の椅子を引いて、腰を降ろし、「まあ、お前も坐れ」と斜め前の椅子を少し引いた。しかし啓子はそこには坐らず、向かいの椅子に腰を降ろした。
「最初から事情を話すから、よおく聞いてくれよ」と武雄は話し始めた。今年の教室に美樹が入ってきたこと、彼女の母親が昔の同人誌仲間で驚いたこと、美樹が城島の娘であること、その城島が末期癌で余命幾ばくもないこと、奈津子と城島の見舞いに行った時、彼女が本の話を持ち出したこと。武雄は一切合切隠さずに話した。ただ、自分がかつて奈津子に好意を寄せていたことは伏せたが。
 話を聞き終わっての啓子の第一声は意外なものだった。
「東京には一人で行ったんじゃないんですか」
 不意を突かれて武雄は言葉に詰まった。
「さっきも言うたように、篠田さんと二人で行ったんや」
「どうして最初からそう言ってくれなかったんですか」
「別に隠すつもりはなかったけど、余計なことを言うて気にするとあかんと思たから」
「気にするってどういうことですか。やましいことがなければ、堂々と言えばいいじゃないですか」
「やましいことなんかあるわけないやないか」
 武雄はむかっとなった。
「そうかしら。篠田さんの電話を受ける時の声。いつもと全然違うんだから」
「ええ加減せえ、この馬鹿」
「私が馬鹿ならあなたは何ですか」急に啓子が興奮しだした。「人の子供には親身になるくせに、自分の子供はほったらかし。私が由加里の同棲をやめさせてほしいと頼んでも、何にもせず、挙げ句の果て由加里が妊娠しても知らん顔。あなたが東京に行ってる間にあの子は流産するし、その原因はバンド練習したためなんだから、もっと早く家に連れ戻していたら、赤ちゃんは死なずにすんだのに」
 最後は涙声になり、武雄はうろたえたが、「流産の原因は赤ん坊自身に問題があってんから、バンド練習とは関係ないやろ」と冷静に言ってみた。
「それはお医者様が由加里を落ち込ませないように言っただけなのに、そんなことも分からないんですか」
 そう言うと啓子は立ち上がり、食器棚の中台に置いてある箱からティッシュペーパーを二、三枚引き抜くと、坐り直して目尻を拭った。
「それに流産した後も、一度見舞いに行ったきり、電話も掛けないなんて。そんな父親がどこにいますか」
 一度行ったら十分だろうと思ったが、口には出さなかった。
「まあ、それはおれが悪かったと思うわ」
「嘘ばっかり。自分が悪いなんてちっとも思ってないくせに」
「それならどう言うたらええんや」武雄は大きな声を出した。
「じゃあ今すぐ由加里に電話して下さい」
 武雄は立ち上がった。もちろん電話する気などない。電話機の横を素通りして自分の部屋に行こうとすると、「逃げるんですか」という声が飛んできた。その声を無視して、武雄は自室に籠もった。
 気持ちを落ち着かせようと机の上に積んである本を何冊か手に取ったが、開く気にはなれない。こういう時には音楽を聴くのがいいのだが、書くのに邪魔になるからと音の出るものは置いていない。
 武雄は部屋の中を歩き回りながら、自分の稼いだ金をどう使おうと自分の勝手だという論理で、自分を落ち着かせようとした。
 しばらくして、玄関から誰かが出ていく音が聞こえてきた。武雄が居間に戻ると、啓子の姿はなく、先程まで流し台に出ていた野菜も片付けられていた。
 出ていったかとすぐにぴんと来たが、格別そのことを重大に考えないようにし、ソファーに寝そべるとテレビをつけた。
 二時間経っても啓子は帰ってこない。武雄は食器棚の抽出にある出前のメニューから中華を選んで、餃子とチャーハンと野菜炒めを注文した。
 出前が来て餃子でビールを飲んでいると、電話が鳴った。武雄は口の中のものを急いで飲み込み、受話器を取った。
「もしもし、お父さん」由加里の声だった。
「何や」
「お母さん、家に来てるけど、どないしたん」
「さあ、おれには分からん」
「さあって、理由がなければ家出てくるわけないやんか」
「おれに訊かんと、お母さんに訊いたらええやろ」
「お母さんがしゃべれへんから、こうして電話してんねやんか」
「迷惑やったら、家に帰るように言うてさっさと追い出せ」
「迷惑も迷惑、大迷惑や。コンテストが迫って追い込み練習してんのに、何でお母さんの面倒まで見なあかんの。夫婦喧嘩なんてする歳と違うやろ」
「なあ、由加里」武雄は声をひそめた。
「なに」
「おれって、おまえのこと、ほったらかしにしてたか」
「してたよ。それがどうかしたん」
「それでおまえ、そのこと気にしてたか」
「全然。ずうっとそうやったから、慣れたんと違う?」
「慣れたんか」
「たぶんね」
 武雄は溜息をついた。
「お母さんのことやけど、今晩一晩くらいそっちに泊めたってくれ」
「お父さん、何言うてんの。ここは私の家と違うで。新ちゃんの家やで。母親まで押し掛けて来てどうすんの」
「宮城さんに替わって。おれから頼んでみるわ」
「新ちゃん、今バイト」
「それならおまえから頼んで、一晩置いたってや」
「何で私が夫婦喧嘩の面倒を見なあかんの」
「まあ、そう言わずに頼むわ」
「もう、しょうないなあ。一晩だけやで。明日になったら迎えに来てよ」
「明日になったら、お母さんの方から出ていくから心配すんな」
「ほんとやろね」
 大丈夫やと念を押してから、電話を切った。
 しかし、次の日武雄が仕事から帰ってきても、啓子の姿はなかった。由加里のところに電話する気もなく、武雄は出前を取って食事を済ませ、シャワーを浴びて早々に寝床に入った。啓子がいないお陰で、エアコンの温度を下げることができると武雄は蒲団の上で大の字になった。
 啓子が家を出て三日目になると、さすがに暢気に構えていられなくなった。武雄は迷った挙げ句、由加里に電話をした。
「お母さん、まだそっちにいてんのか」
「新ちゃんと相談したんやけど、しばらくお母さんにこっちにいてもらうことにしたわ」
「どういうことや」
「料理とか掃除とか洗濯とか、お母さん、やってくれる言うからそうしてもらおうかなと。その方が私も練習に専念できるし」
「そんなこと言うてんのか」
「お父さんには悪いけど、そういうことになりましたから」
「勝手にせえ」
「お母さんと話す?」
「話すことなんかない」
 叩き付けるように受話器を置いて電話を切ったが、武雄は誰に対して腹を立てているのか自分でも分からなかった。啓子の家出がしばらく続くとなると、根本的に考え直さなあかんと武雄は取り敢えず洗濯をしようとしたが、全自動洗濯機の使い方がよく分からず、マニュアルを探す羽目になった。結局見つからず、洗剤の表示を見ながらカップで白い粉を入れ、大体これだろうと適当にボタンを押した。
 テレビを見ているとブザーが鳴った。行って洗濯槽の蓋を開けると、きちんとできている。武雄は籠に洗濯物をそのまままとめて入れ、二階の物干しに上がった。夜で誰にも見られないので武雄は気楽に啓子のショーツやブラジャーを干した。
 翌朝、洗濯物を見に行くとまだ生乾きだったので、履いていく靴下だけを外した。朝食くらいは自分で用意しなあかんなと思いながら、会社近くの喫茶店でモーニングセットを食べた。
 きょうは小説教室があるので定時で会社を出て、直接都心に向かった。いつもなら一旦家に帰り、軽く何かを食べてから行くのだが、きょうは帰っても仕方がない。武雄は教室のあるビルの近くで、ラーメンを食べてから教室に入った。
 いつもより早かったので生徒はまだ一人も来ていなかった。武雄は椅子に坐ってきょうの合評作品に目を通した。
 六時半が近づくと人が集まり始め、開始時刻を少し過ぎたところで、美樹が入ってきた。美樹は武雄と目が合うとわずかに微笑んで頭を下げ、いつもの斜め前の席に腰を降ろした。武雄は彼女を見ると、ほっとした。
 合評が始まると、いつにもまして武雄は熱心に話した。生徒の一人が、「先生、何かいいことあったんですか」と言うほどだった。
 二次会でも武雄は飲んでしゃべり、十一時を過ぎてみんなが帰ると言っても腰を上げず、美樹を引き留めた。
「篠田さん、書いていますか」いつもより飲み過ぎて、舌がうまく回らない。
「この前提出した作品を書き直してます」
「あれは書き直す価値のある作品だ。うん、それはいい」
「先生、酔ってます?」美樹が笑いを堪える顔付きで覗き込んでくる。
「まだまだ酔ってませんよ」そう言って武雄はコップのビールを飲み干した。美樹が、大丈夫ですかと言いながら残っていたビールを注いでくれる。武雄はそれを半分ほど飲んだ。
「書き直した作品はどうするの。もう一度合評会に提出しますか」
「文響の新人賞に応募してみようかなと……」
「城島の後を追いますか」
「そんなんじゃありません」
「そうですね。そんなんじゃないですね。失礼しました。篠田美樹は篠田美樹。城島隆治は城島隆治。誰が何と言おうと、間違いなくそうなんだ」
「先生、酔ってるでしょ。もう帰りましょ」
 美樹が武雄の腕を取った。
「篠田美樹にもう一言言っていいかな」
 武雄は片方の腕を取られたまま、もう一方の手の人差し指を立てた。
「何ですか」
「篠田さんは城島隆治のことをどう思っていますか。父親とは思えないのは当然として、全くの他人とも思えないでしょ」
「全くの他人です」
「彼の作品を読んだ今でも、そう思っているわけ?」
「はい」
「だったらどうして文響の新人賞に応募するの。新人賞はほかにもあるでしょ」
「それなら応募するのを止めます」
「いや、私の言いたいのはそういうことじゃないんだ。つまり……」
 美樹が武雄の腕を放した。
「つまり、何ですか」
 酔っているのか考えがうまくまとまらない。
「昔ね、同人誌を始めた頃、あなたのお母さんや城島と本を出すということについて話したことがあって」と武雄は話し始めた。「その中で意見が一致したのは、少なくとも倒される木の価値以上の作品がなければ本にする必要はないということだったんですよ。本を作るには紙がいる、紙を作るには木を切り倒さなければならないからね。木を切り倒さなければ、少なくとも酸素を供給してくれたりして、世の中の役に立つでしょ。まあ、若い時に考えそうなことだけど、たぶん今でもそれは正しいとどこかで思ってるんじゃないかな、三人とも。それでもあなたのお母さんが城島の本を出そうとしているのは、あなたが小説を書き出したからですよ」
「私が?」
「そう。少なくともあなたに城島の作品を手渡すことが、一つの価値になると考えたんじゃないかな。私もそう思うから手伝っているんだけど、女房に言わせれば、何を馬鹿なことをしているということになるらしい。自分のではなく他人の本を作ることに一所懸命になるのが理解できんからだけど。まあ、分からんでもないけど」
 美樹が何か訊きたそうな表情を見せたので、武雄は啓子が家出して娘のところに行っていることを話してしまった。
「母のせいですか」
「いいや、それはきっかけに過ぎなくて」と武雄は今度は由加里のことを話した。バンド活動のことや同棲、流産のことまで及び、お互い相手のことを全く認めないまま今に至ることを話した。
 美樹はしばらく考え込むように黙っていたが、
「娘さん、いつか小説を書き出すんじゃないでしょうか。音楽と文学って敵対するものじゃないと思いますけど」
「私の作品を読んでる限り無理だろうなあ」
 武雄は自嘲気味に笑った。
 美樹に引っ張られて居酒屋を出ると、雨が降っていた。美樹が天気予報当たってると言ってリュックから折り畳み傘を出した。武雄は持っていない。美樹はピンクの傘を広げると武雄に差し掛け、背の高さが違うからと武雄が柄を握った。
 体を寄せながら地下鉄の出入り口に向かって歩いていると、不意に昔のことが甦ってきた。奈津子が東京に行くと言い出して、有力な書き手が二人もいなくなったら同人誌はどうなると武雄が翻意を促したが、結局駄目だった。その時も飲み屋を出た時、雨が降っていた。奈津子が傘を広げ、武雄が持った。触れ合う肩が離れないうちにと武雄は濡れている道を見詰めながら、「好きです」と言ったのだ。
 奈津子が立ち止まり、武雄を見た。
「ありがとう」と奈津子が言った。その目が潤んでいるように見え、武雄はそれ以上何も言えなくなった。黙ったまま環状線の駅まで歩き、それじゃあと手を振って別れた。それが若き日の奈津子を見た最後だった。
 あの時はまだ、この娘はこの世にいなかったのだと美樹を目の端で見ながら武雄は思った。
 傘を貸しましょうかという美樹の申し出を断って武雄は電車に乗り、その途中、洗濯物を干していたことを思い出した。駅近くのコンビニで傘を買い、家に帰った武雄は、急いで二階に上がった。しかし物干しには洗濯物はなかった。一瞬狐につままれた感じがしたが、すぐに啓子が来たということが分かった。自分の下着をあわてて取り入れている姿を想像して、武雄はにやりとした。

 月曜日、仕事から帰ってくると、宅配便の不在通知が入っており、見ると奈津子からだった。本とあるから城島のものを送ってきたのだろう。武雄はすぐに不在通知に書いてある番号に電話をした。
 届いた荷物は思っていたよりも小さかった。段ボール箱を空けると、奈津子の手紙が入っていた。新人賞作品の版権委譲が認められたこと、城島が同人誌を含めて自分の作品の載った雑誌をすべて保管していたこと、そして枚数に拘らずに選定してほしいと記してあった。
 武雄は雑誌の数を数えてみた。全部で十五冊しかない。「蒼穹」の創刊号と三号、「文響」が四冊、それから「アンダンテ」という名の同人誌が九冊。一番新しいのは、アンダンテ二十六号で、今から九年前に発行されたものだった。
 武雄はその号の作品を読み始めた。母親の死を扱ったエッセイ風の作品でなかなかよかったが、驚いたのは文章が平易になっていることだった。エッセイ風だからかと思って他の作品を拾い読みしてみると、「アンダンテ」の作品は大体同じ文章で、「蒼穹」と「文響」が武雄の知っている堅い文章だった。発行年月日順に雑誌を並べてみると、「蒼穹」、「文響」、「アンダンテ」となり、「文響」と「アンダンテ」の間には、四年の空白がある。その四年が城島の苦闘を表しているようで、武雄は心が痛んだ。
 新人賞受賞作品と「蒼穹」の創刊号に載った作品は選ぶと決めていたので読む必要はなく、その他の作品を武雄は一日二編のペースで読んでいった。生徒の作品も読まねばならず、木曜日は小説教室のため一編も読めなかった。
 若い時は反発もあって冷静に読めなかったが、こうしてまとめて城島の作品を読んでみると、その出来不出来はともかくとして、底に流れる熱のようなものは確かに伝わってきた。それはこのところ惰性のように短い作品を年一作しか書かいていない武雄を打った。「アンダンテ」に載っていた城島のエッセイにも、武雄は励まされた。仕事に追われ、まとまった時間が取れない中で書く方法を模索しているとあり、英単語を覚える時などに使うメモ帳をいつもポケットに入れておき、仕事中でも文章が浮かんだ時にはそこに書き込んで、休日にそれを整理すると書いてあった。文章が変わったのはそのせいかとも武雄は思った。もう一つのエッセイには、リトルリーグに入った息子の投球練習に付き合う様子がユーモアを交えて描かれていた。
 読み終えたのは土曜日で、武雄は本に載せる作品を七編に絞った。かなりの枚数になると思ったが、作品の数を減らす気はなかった。
 武雄は奈津子に電話をした。
「やっと選定が終わりましたよ」
「急がせてごめんなさい」
「それでどうしましょう。送り返しましょうか」
「私のところではなく、長谷川さんのところに送っていただけますか」
「きょうは暇ですから、直接持っていきますよ」と武雄は言い、出版社の電話番号を訊いた。
 ゲラ刷りの校正の話をしてから、電話を切ろうとすると、「娘から聞いたんですが」と奈津子が声を細めた。「木元さんのお家、うまくいっていないというのは本当ですか」
 武雄は返答に詰まった。
「娘は私が原因だと言っておりましたが……」
「いや、美樹さんにも言いましたが、娘のことが原因です」
「これからはなるべく電話をしないようにします」と奈津子が言った。「本のこともなるべく私一人でやるようにします」
「いや、そんなに気を遣う必要はないですよ。そのうち帰ってくると思うし、帰ってこなかったらこちらから迎えに行きますから」
「私のことでご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
 電話を切ると、武雄はすぐに真眼社に電話をし、社長に今から伺うと告げ、行き方を訊いた。
 ポロシャツにジーンズを穿き、紙袋に十五冊の雑誌を入れて、武雄は家を出た。
 教えられた地下鉄の駅で降り、そこからまた電話をして、出版社にたどり着いた。一階に雑炊の店があり、その二階のマンションの一室だった。
 社長は丸顔で眼鏡を掛けており、武雄よりもかなり年上に見えた。部屋の中は本が山積で、様々な種類の紙が散らばっていた。若い男がパソコン画面に向かっており、武雄を見るとわずかに頭を下げた。
 社長の机の上も本や書類が山のようになっており、そのわずかなスペースに社長は武雄から受け取った紙袋を置いた。
 丸椅子を勧められ、武雄は腰を降ろした。社長は紙袋から雑誌を取り出すと、武雄の書いた選定リストと照らし合わせて、ページ数をメモした。
「かなりの分量ですなあ」
 終わると、社長はメモを見ながら意外そうな声を出した。
「多過ぎますか」
「予算は大体百万と聞いてますからなあ」
「私も負担しますので、何とかそれでお願いできますか」
「わかりました。そういうことなら私の方も何とか頑張ってみます」
 同人誌を始めた昔の話から、現在の城島のことになり、社長は、彼と会った時、その体調があまりよくは見えず、途中からソファーに横になって応対し、奥さんが体を気遣いながら世話をしている様子を手振り身振りを交えて話した。武雄がこの前会った時はホテルの喫茶店でずっと坐っていたことを告げると、検査の数値が徐々に上がっているらしく、近いうちに再び入院して抗ガン剤の集中治療を受ける予定だと聞かされたという。
 武雄はよろしくお願いしますと頭を下げて、その部屋を出た。
 帰りの地下鉄に乗ったところで、由加里のアパートに寄ってみようかと思ったが、電車に揺られているうちに、家出していると思わずに、忙しい由加里に代わって家事の面倒を見に行っていると思えばいいということに気づいた。そう思うと、途端に行く気をなくし乗換駅を通り過ぎてしまった。
 家に帰って、武雄は居間にあるカレンダーを見た。日付の欄に予定が書き込んであり、バンドコンテストは再来週の日曜日になっている。家事の面倒はその日で終了するはずだから、その日に迎えに行くことにした。

 バンドコンテストの日、武雄は夜由加里のアパートに行くつもりでいたが、カレンダーをよく見ると、小さい字で大阪城野外音楽堂、午後四時半と書いてある。となると啓子がいつ頃帰っているのか分からない。明日の夜にするかと思ったが、仕事から帰ってから行くのも気が重い。どうしようかと思っているうちに時間が過ぎ、武雄は四時過ぎに家を出た。
 駅員にどの駅で降りたらいいか尋ね、武雄は言われた通り一度乗り換えて森ノ宮で降りた。
 構内の案内表示に従って出口に向かい、階段を上がると、掲示板があって音楽堂の催しのポスターが貼ってあるのが目に入った。バンドコンテストという文字が見え、日にちも時間も間違いない。
 外はまだ明るく、昼間の熱気も残っていた。ただ幾分涼しい風が吹いており、それを感じながら、武雄は大阪城内に入っていった。若い男女の群れが同じ方向に歩いていくので、その後をついて行くとドラムの音が聞こえてきてすぐに音楽堂に着いた。武雄はチケットを買って中に入った。
 思っていた以上に大きな会場だった。観客席にまだ日が当たっている。舞台の見えるところまで行くと、耳を圧するドラムの音とエレキギターの引っ掻くような音が鼓膜を震わせた。武雄は顔をしかめ、すぐに引き返したくなったが、我慢をして観客席に向かった。
 大勢の若い男女が座席を無視して舞台の前にかたまり、立ったまま頭の上で手を叩いたり、奇声を発したりしていた。
 観客席の後ろ半分は観客もまばらで、前の背もたれに脚を乗せたりして見ている。さらにその後ろには芝生があり、そこにも何組か若い男女が腰を降ろしていた。
 武雄は壁に沿った階段を中段まで上って、啓子の姿を探した。まさか前の方で立ってはいないだろうと見ていくと、真ん中辺りの一番後ろの席に白い日傘を差して坐っている女がいる。他に日傘を差している者はいない。
 たぶんあれだろうと武雄は階段を上がり、一番後ろの通路に立った。ここまで来ると、屋根がないため上に抜けるのかスピーカーの音も耳を圧するほどではない。武雄は通路を歩いていき、途中で座席の方に体を傾け、啓子の横顔を確認した。
 日傘の後ろに立つと、武雄は布の部分を手で叩いた。日傘が回り、啓子がまぶしそうに目を細めて武雄を見上げた。
「いらしたんですか」
 武雄が来るのを予想していたような声だった。
「ああ」
 武雄は横の通路から回って啓子の隣に腰を降ろした。
 啓子が日傘を武雄の方にも持っていきながら、タオル地のハンカチを差し出した。武雄はジーンズのポケットを探ったがハンカチは持ってきておらず、啓子の出してくれたものを受け取った。額から首筋にかけて汗が噴き出しており、タオル地でそれを拭う。
「由加里はすんだんか」
「次の次です」
 舞台には黒い幕が緞帳のように下がっており、その上方に「IndiesBandContest大阪大会」という大きな垂れ幕が掛かっていた。その前で四人が演奏している。一人がエレキギターを鳴らしながら声を張り上げており、ギターを持った他の二人も体を揺らしながら弾いている。三人の後ろにドラムを叩いている一人がいて、時折シンバルの音が聞こえてくる。何を歌っているのかよく分からなかったが、ここまで離れると音とリズムが心地よく響いた。
 演奏が終わると黒い幕が左右に分かれ、奥にあったドラムセットと入れ替わった。前の方は音の圧力から解放されたようにざわついている。
「由加里たちは練習に専念できたんかいな」
 武雄は前を向いたまま言った。
「ええ。私も時々一緒に練習したりして……」
 武雄は思わず啓子を見た。啓子は澄ました顔で前を見ている。
「練習ってバンドのか」
「そうですよ」
「へえー」
「一緒に演奏するのは楽しいですよ」
「そうか。それはよかった」
 次の演奏が始まり、二人のボーカルが歌詞になっていないような歌を叩き付けている。
「分からん」と武雄が呟くと、「声を楽器として使ってるのよ」と啓子が言う。そう思って聞くと、声の強弱の感じがギターの演奏と合っている。掛け声のようで力強い。前方の若者たちも先程より体の動きが大きく、ほとんどが頭の上で手を叩いている。リズムに合わせて体を動かすのは、確かに気持ちよさそうに見える。
 叫ぶ歌が終わると、啓子が立ち上がって日傘を畳み、隣の席に置いていたバッグを肩から提げた。
「さあ、前に行きましょう」
「ここでええやろ」
 武雄は啓子を見上げながら言った。
「あなたが行かないんなら、私だけ行きますからそこを通して」
 啓子は武雄の膝を脚で押した。武雄は仕方なく立ち上がった。啓子は座席に挟まれた緩やかな階段を下りていく。武雄もその後をついて行き、前方に群がっている若者たちの後ろについた。
 舞台では、キーボードが中央に来るセッティングが行われていた。長く伸びたマイクが鍵盤の上に来ている。武雄は自分が舞台に上がるみたいにどきどきしてくるのを感じた。
 日が陰ってスタンドにもライトが点った。舞台に当たるスポットライトもはっきりしてくる。
「エントリーナンバー五番、ロードオブドリーム、曲はセンシティブグッバイです」
 アナウンスが終わると同時に舞台の袖から、由加里たち四人が手を振りながら出てきた。由加里は茶色のカーボーイハットを被り、丈の短いTシャツにジーンズ、ブーツという恰好だった。化粧が濃い。Tシャツの裾とジーンズの間からお腹が見えている。見ちゃおれんと横を向くと、啓子が畳んだ日傘を大きく振っていた。
 由加里がキーボード兼ボーカルで、新一は右のギター、もう一人左にギターを弾く者がいて、ドラマーが奥に行った。
 はらはらしながら見ていると、由加里のキーボードの演奏から入り、ドラムがリズムを刻み始めた。少ししてギターが大音量で入ってきて、武雄は思わず耳を塞ぎそうになった。しかし由加里が歌い出すと演奏が控え目になり、歌の意味が所々聞き取れるようになった。愛を失った悲しみとそこから立ち直る強さを歌っており、それが美しいメロディラインに乗っている。以前由加里の部屋で聞いた時の印象からやかましいだけだろうと思っていた武雄は意外な感じがして、いささか心を動かされた。
 横を見ると、啓子がハンカチを目に当てている。武雄はポケットから先程啓子から手渡されたタオル地のハンカチを取り出して、彼女の目の前に差し出した。啓子は泣き笑いの表情でそれを受け取った。
 ギターのソロパートでは、新一が腰を折ったり伸ばしたりしながら鮮やかに弾いている。ぼんやりとしているように思えた男が別人のように映り、由加里のやつが惚れたのも無理はないかと武雄はちょっと見直した。
 前のバンドに比べて静かなので若者たちは手を叩いたりはしないで体だけを揺らしている。
 由加里のボーカルが終わると、最後にドラムとギターが激しく盛り上げて演奏を終えた。前を埋めている若者たちと一緒に、啓子も日傘を脇に挟んで盛んに手を叩いた。それを見て武雄も拍手した。
 由加里たちは手を振りながら舞台の袖に引っ込んでいく。啓子がいきなり武雄の手首を握って若者の群れに中に入っていこうとした。
「どこへ行くんや」武雄は抵抗した。
「控え室ですよ」
「それなら後ろを回った方が早い」
 武雄は手首を啓子の手から抜いて、階段を上がっていった。啓子も後からついてくる。横に抜ける通路から下に降りていき、舞台の袖にある控え室の階段下まで来た。人が頻繁に出入りしているが、ガラスドアには「関係者以外立入禁止」の貼り紙がしてある。武雄が躊躇っているのも構わず、啓子は階段を上っていく。武雄も後から続いた。
 控え室の中には大勢の人間がおり、汗と化粧品の臭いでむせかえっている。椅子のある小部屋を覗いたが、いない。横の階段を見上げてこの上かと思っていると、啓子が舞台の裏に向かっていく。
 奥に由加里たちが固まっており、武雄は啓子の後から近づいていった。
「あ、お母さん」
 首にタオルを掛け、手にペットボトルを持った由加里がこちらを見た。他の三人もペットボトルを手に顔を向ける。新一が頭を下げた。
「頑張ったわねえ」と啓子が由加里の手を取って揺すった。
「お父さんが来てるのも見えてたよ」
 由加里のTシャツは汗で肌に張り付いており、目の周りの化粧が流れて黒くなっている。
「なかなかええ曲やったやないか」
「ありがとう」由加里が微笑んだ。「でも、バラード系はこういう大きいところでは不利なんよね」
「この前聞いた時は、もっとやかましいと思ったんやけどな」
「あれと違うよ。あれをやるつもりやったけど、直前になって変えたんよ」
「そんなことして大丈夫なんか」
「大丈夫ちゃうけど、歌いたかったから」
 そう言って、由加里はタオルで首筋を拭った。
「それでどう。東京に行けそう?」啓子が新一に尋ねた。
「いやあ、みんな上手ですからねえ」
「東京って何のこと」と武雄は啓子に尋ねた。
「優勝と準優勝は東京のグランプリ大会に出れるのよ」
「そうやったんか。それならもっと応援すべきやったな」
「落ちたらお父さんのせいかな」と由加里が笑った。
 新一が他の二人のメンバーを紹介してくれる。啓子はすでに顔見知りのようで、二人は武雄に挨拶をし、武雄は「娘をどうぞよろしくお願いします」と頭を下げた。
 二人が引き上げようとすると、「お母さん」と由加里が呼び止めた。武雄と啓子が振り返ると、「次の家出は十月中頃にお願いします」と言った。
「馬鹿やろう」と武雄は怒鳴った。

 由加里たちのバンドは東京には行けなかったが、演奏を聞きに来ていたライブハウスのマネージャーの目に留まって、週一回そこに出演することになった。武雄は見に行かなかったが、啓子が行ってすっかり雰囲気に魅了されてしまい、毎回欠かさず聞きに行くようになった。バンドのメンバーから、お母さん、お母さんと言われて満更でもないらしい。ライブハウス通いの費用を捻出するために、ピアノ教室の先生を引き受けたので、武雄の生活は啓子がいなかった時とあまり変わらなかった。しかし武雄にとって啓子の目が外に向いている方が気が楽だったので、文句を言う気など全くなかった。
 城島の本の作成は順調に進み、武雄も一回だけ校正をした。そんな時、修倫館高校が西東京代表として甲子園に出場することが決まり、城島が試合を見に来ることになった。高校野球大会の組み合わせ抽選の結果、修倫館高校は四日目の第三試合に決まり、武雄は会社を休んで見に行くことにした。
 新聞の下馬評には優勝候補の一つに上げられており、全出場校の名簿を載せた中に、修倫館高校投手城島悟の名前があった。
試合の四日前に奈津子から、本の見本が刷り上がったという電話があった。城島に直接手渡したいために急いだらしい。武雄は真眼社に行って一冊を受け取った。驚いたことに箱入りだった。
「どうしても箱入りにして欲しいと言われまして」と社長が言う。「装幀も有名な方に頼んだんですよ」
 箱は型押しの厚紙で出来ており、薄青色の地に黒で「君の凍える場所 城島隆治 自選作品集」とあった。本の装幀は、箱と同色の地に白い鳩が乱舞しており、その隙間を通して人間の姿が見えるというものだった。
 武雄はぱらぱらと中をめくり、最後に城島のあとがきがついていることに少し驚いた。
「校正した時には、なかったですよね」
「ああ、それは篠田さんが、無理にお願いして城島さんに書いてもらったものです」
 武雄はあとがきを読んだ。

 小説を書かなくなって十年近くになる。書きたいのに書けないというのではなく、書きたい気持ち自体が消えてしまったというのが正直なところだった。だから、二人の古い友人が作品集の出版を持ち掛けてきてくれた時、大いに戸惑った。過去の作品を本にしても、それによって励まされるはずの作者が現在もう書いていないのは大変申し訳ないという気持ちだった。しかし、私の過去の作品を読んだ若い読者からいただいた手紙を読んで、それは思い上がりかもしれないと思うようになった。作品は作者を離れて存在するという単純な事実。それに気づいて私は友人たちの誘いに乗ることにした。打ち捨てられていた作品がこうして新たな光を浴びたことを素直に喜びたいと思う。たった一人でもこれらの作品から励まされたら、作者としては嬉しい限りである。
 最後に拙い作品に光を当ててくれた私の古い友人、篠田奈津子、木元武雄の両氏に感謝の意を捧げたい。それから作品の感想を送ってくれた篠田さんの令嬢美樹さんにもお礼を申し上げたい。
 今は病に小康を得たら、短いものでもいいから書いてみようかという気持ちでいる。

 武雄は家に帰ると、啓子に本を見せた。
「箱入りなんて、なかなか素敵じゃないですか」
「そうやろう」
 費用のことを何か言うかなと身構えていたが、啓子は何も言わず、本を抜き出して中をめくった。
 試合の前日、美樹から電話が掛かってきた。小説教室が夏休みに入っているので、彼女の声を聞くのは久し振りだった。
「先生は明日試合を見に行かれるんですよね」
「そのつもりやけど。あなたは行かないの?」
「どうしようか、迷っているんです。母は何も言いませんが、一緒に行って欲しいみたいやし」
「行けばいいじゃないですか」
「私、恐いんです」
「恐いって、城島に会うことが?」
「ええ」
「それはどういうことかな。城島に会って父親を感じることが恐い、ということ?」
「そうです。……父を二度亡くすことになるのが恐いんです」
「その気持ちは分からないではないけど、父を二度亡くすなんて、私から見れば羨ましい限りだよ。父親が二人もいるなんていう人間は、この世にそうそういないんだから」
「………」
「是非会いなさい。あまり意識せずに、いい作品を書いた作者に会いに行くと思えばいいんじゃないの」
「わかりました。もう少し考えてみます」
 試合当日は晴天で、武雄は昔海水浴に被っていった麦わら帽子を引っ張り出し、タオルとお茶のペットボトルと一緒に紙袋に入れた。
 甲子園に向かう電車は平日にもかかわらず混んでおり、球場前の駅も人が一杯だった。こんなに大勢の人間がいて、うまく会えるかどうか心配だったが、人の波に押されながら待ち合わせ広場に向かった。
 球場の切符売場には長蛇の列が出来ており、警備員が時折笛を鋭く鳴らしている。少し離れた待ち合わせ広場は切符売場周辺に比べて人が少なく、武雄はテント屋根の下に入った。見たところ奈津子の姿も城島の姿もなかった。時計を見ると、約束の一時にはまだなっていない。武雄は空いたベンチに腰を降ろし、タオルで汗を拭いた。
 一時を十分ほど過ぎたところで、奈津子が美樹を連れて姿を現した。
「遅れて申し訳ありません」と奈津子が頭を下げた。
「来たの」と美樹に声を掛けると、彼女は小さく頷いた。
 試合開始予定の一時半近くになっても、城島は姿を見せない。待ち合わせ広場が分からないのではないかと武雄が思い始めた時、中年女性の押す車椅子が近づいてきた。
「城島さん」と奈津子が言った。車椅子に坐った野球帽の男が顔を上げ、肘を肘掛けにつけたまま小さく手を振った。武雄は愕然とした。まさか車椅子で現れるとは思ってもみなかったし、この前会った時と比べてげっそりと頬がこけていたからだった。
「遅れてすみません」と中年女性が頭を下げた。「車椅子で動くことに慣れていないものですから」
 物腰の柔らかそうな人だった。
「大丈夫か」と武雄が言った。
「大丈夫」と城島が手を振った。「抗ガン剤治療を受けた後は大体こうなるんだ。ろくに食えないから脚に力が入らなくて」
 そう言うと城島は野球帽を取った。すっかり髪の毛が抜けていた。
「頭もこの通り。高校野球の応援なら野球帽を被ってもおかしくないだろう」
「それは修倫館高校の野球部のやつか」
「息子のお下がりだ」
 城島は再び野球帽を被った。
「おれはまだまだ死なんよ」と言って城島が笑った。それで少し雰囲気が緩んだ。
「沢渡です」と奈津子が中年女性に声を掛けた。「こうしてお目に掛かるのは二十二年振りになるかしら」
「この度は城島の本の出版にご尽力をいただき、本当にありがとうございました」と城島の妻が深々と頭を下げた。「本来なら私がしなければいけないところなんですが、何しろここ数年は身体のことにかかりっきりで……」
「本のことは私が無理にお願いしたことですから、お気になさらないで」
 そう言って奈津子はバッグからきれいに包装されたものを取り出した。
「見本が出来ましたので、持ってきました」
 奈津子が手に持ったものを城島に手渡した。
「もう出来ましたか」
 城島は包装を丁寧にはがした。薄青色の本が現れる。
「箱入りですか」
 城島は両手で本を持ったまま、しばらく見詰めていた。城島の妻が口に手を当てて、嗚咽を漏らした。
「ありがとう」城島は本を手にしたまま腰を折るようにして頭を下げた。「こんな立派な本が出来るとは思ってもみなかった」
「これで私も二十五年前の宿題がやっと果たせたとほっとしています」と奈津子が言った。
「娘さん?」城島が手を美樹の方に向けた。
「ええ」
 美樹が奈津子の斜め後ろから出てきた。
「あなたの感想文、とてもよかったですよ」
 そう言って城島が握手するように手を伸ばした。美樹は少し躊躇っていたが、「篠田美樹です。お会いできてうれしいです」と城島の手を握った。
「一度、あなたの作品を読ませて下さい」
「はい」美樹が頷いた。
 城島夫妻はすでに前売り券を買っていたので、残りの切符を武雄が買いに行った。修倫館高校は三塁側なのでそこで買い、係員の指示を受けて、十二号出入り口に向かった。
 出入り口を通ろうとすると、二人の係員が近づいてきて、一人が城島の妻と入れ替わって車椅子を押した。そしてもう一人が先導するように前を歩いた。スタンドに出るところは急な坂道になっており、前の一人が引っ張る形で手伝って車椅子を上げた。
 内野スタンドはかなりの観客の入りで、空席はあまりない。全体が白い色に覆われ、日差しが眩しかった。
 車椅子席は三塁側自由席の外野側にあり、一番前の場所はすでに一杯だった。係員は中程のところに車椅子を入れ、「用があったら呼んで下さい」と言って離れていった。側に空席が二つあったので、城島の妻と奈津子が坐り、武雄と美樹は横の金網にもたれるようにして立った。武雄は麦わら帽子を取り出して被った。
 前のが長引いたのでまだ試合が始まっておらず、グラウンドでは修倫館高校のノック練習が行われていた。車椅子席のちょうど前がブルペンになっており、投球練習を見ようと中学生や高校生が金網に群がっている。
 キャッチャー防具を身につけた選手ともう一人が近づいてくると、「城島さーん」という女の子の声がいくつも飛んだ。盛んに写真を撮っている。あれが城島の息子かと武雄はひょろっと背の高い選手を見た。
「私も見に行こう」と呟いて、美樹が横の金網を離れて前の方に近づいていった。
 城島の妻が本を持って立ち上がった。車椅子と座席の間を抜けて前に行くと、美樹の後ろで本を掲げ、「さとる」と叫んだ。美樹が気づき、体を入れ替えるようにして城島の妻を金網の側に立たせた。
 キャッチボールをしていた城島悟が投げるのを止め、金網のところに近づいてくる。女の子たちが金網を揺すりながらはしゃぎ、写真を撮る。
 城島の妻が本を金網に押し当て、何か言った。城島悟は顔を近づけて本を見ると、うんうんと頷いた。城島の妻が後ろを振り返って車椅子の城島を指差す。城島悟がグラブを振ると、城島が両手をメガホンにして「頑張れよ」と叫んだ。
 両チームの練習が終わると、グラウンド整備が始まった。投球練習を見ていた中高生たちは城島悟とキャッチャーがベンチに引き上げると、それぞれスタンドに戻っていった。「彼、かっこいい」と言いながら、美樹も戻ってきた。
 武雄が城島の妻と話している奈津子に目を向けていると、「先生」と美樹が言った。
「うん?」
「うちの母ったら、久し振りに小説を書いてみようかって言ってました」
「ほんとか」
「ええ。それで先生の小説教室に入って勉強し直そうかって」
「お母さんならそんな必要はないわ」言いながら武雄はあることを思い付いた。「お母さんが小説を書いたら、私の入っている同人誌に推薦するという手もあるし」
「そのことを母に言ってもいいですか」
「いいですよ」
「よかった。母と一緒に教室に通うなんてとんでもないって思ってましたから」
 そう言って、美樹は笑った。
 グラウンド整備が終わると、ホームベースを挟んで両チームが整列し、球審の合図で礼をした。修倫館高校の選手がグラウンドに散っていく。城島悟がマウンドに立って、投球練習を開始する。
 アナウンスが相手チームの一番の名前を読み上げる。バッターが打席に立つ。
 球審が指先をマウンドに向けてプレーボールを宣言すると、城島悟が脚を上げて第一球を投げ込んだ。同時に、サイレンの音が球場に響き渡った。

 

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