女の部屋  奥野 忠昭


 突然、私は何かに驚かされたように思って眼を覚ました。
 慌ててベッドに両手を突き、身を起こして、周りを見回したが、私を驚かせたようなものは何一つなかった。豆電球からの鈍い光によって、本がぎっしりつまった本箱、その一部を利用して置いてあるカセットデッキ、かなり汚れている窓のカーテンなどがうっすらと見えた。
 枕元の目覚まし時計を見た。午前二時。まだ、三時間しか眠っていない。
 変な夢でも見ていたのだろうか。その中で私を驚かせるようなことが何か起こったのだろうか。しかし、その内容はまったくわからない。何の記憶もない。
 ただ、かすかに女の姿だけが思い出せる。それだけがかろうじて記憶の中に残っている。
 どうもそれは遙か昔、新婚当時の麗子の姿だったような気がしてならない。なまめかしい髪の生え際、乳液のように白い首筋、柔らかな胸元。
 結婚当時、誰でもそうだろうが、夕暮れ近くになるといつも心が華やいだ。もうすぐ家に帰り、麗子に会えるかと思うと心が浮き立った。夜、麗子とともにベッドに寝て、美しい首筋に唇をあてることができるのだと思うと、昼間の疲れなどすぐに吹き飛んだ。
 しかし、今はどうだ。そういうことはめったにない。
 でも、考えてみればそれは当たり前のことで、そんなことが起こればかえって異常なことである。結婚してからすでに二十数年は経っている。娘も二人いる。一人はすでに独立して家を出、もう一人は高校三年生である。
 それにこの地に単身赴任をして来て以来、すでに二年が過ぎた。独り暮らしも地についてきて、家も恋しくなくなった。赴任当初は確かに寂しさがつのり、週末ごとに帰っていたのだが、それが二週間に一回、一ヶ月に一回となり、今はもう数ヶ月に一回ほどになっている。それに家に帰ってもなんとなく居心地が悪い。むしろ早くここへ戻ってきたいと思うほどである。
 二階建てのこの家は街の中心からそれほど遠くない所に建っている。この家は同じ会社に勤めていた社員が親から建ててもらったものらしい。現在、家主は奥さんを伴って海外赴任中で、帰国するまで、留守番がてらにこの家を貸してくれたのだ。ここに住んでからすでに一年半、住み心地は上々である。
 家主はこの辺の資産家の一人息子で、家を引き継がなければならないということで、スープの冷めない距離にこの家を建ててもらったらしい。奥さんの実家もそう遠くないらしい。親同士がひどく気に入って、二人を説得して結婚させたのだという噂もあり、また、彼が、高校生時代から彼女の美しさに惚れていて、彼女はそれほどでもないのに、強引にものにしたのだという噂もあった。さらには、奥さんの父親が株に手を出して多額の借金をしていたのを、彼が、親を説得して金を出させたとか、奥さんはこの町に住むことを嫌がっているのに、家主の彼は決して本社勤務を望まず、ゆくゆくはこの支社に勤務させてもらうことを条件に、今回の海外赴任を引き受けたという噂もあった。
 ただ、私にとってはそんなことはどうでもいいことで、その期間中、ほとんどただ同然でこんな広くて新しい家を借りられたなんて、なんと幸運なことかと彼に感謝している。
 しかし、今、そんなことを考えている場合ではない。明日はまた緊張を強いられる仕事が待っている。疲れを残さないためにも早く眠ったほうがいい。
 そう思い、再びベッドに潜ったが、なかなか眠れない。ふっと意識が薄れ、眠りの心地よさに浸れるようになったかなと思うと、途端、また、起きてしまう。
 こんなことはめったにないことだ。赴任当初からいつもぐっすりと眠れた。十時過ぎにときどき妻の麗子から電話が掛かってきたが、なかなか出ないらしい。それほど寝付きもよく熟睡もする。しかし、今夜は違った。奇妙に意識が冴えている。
 なぜそんなことになったのか思い当たる節はない。ただ、昨晩、眠る前に原始人の心についてのテレビを見た。たいした内容ではなかったが、異常に興奮した。それは、彼らが現代人と比べて、比べものにならないほどの鋭い感覚を持っていて、遠くの音でも、かすかな匂いでも感じることができたのだというものだった。さらに、彼らは、現代人が失ってしまった神秘的なものを感じとれる能力さえ十分に持っていたという。解説者はそれを力説していた。
 私はそれらを聞いて、昼間、行きつけの食堂で「私には予知能力があるのよ」とさかんに吹聴していた四十過ぎのおばさんのことを思い出した。彼女の話だと、二日前に、もう完全に病気が回復したのだという知り合いの人に会ったのだが、その人を見た途端、この人は二日後に死ぬとわかったそうだ。すると、あんのじょう二日後に容態が悪化して死んだということだ。「本当に予想がよく当たるのよ。怖いぐらいよ」とやや興奮気味に言っていた。
 いつもならそんなことがあるものかと一笑にふしただろうが、その時は違った。彼女の言うことが信じられ、うらやましくさえ思った。
 しかし、それがどうしたというのか。そんなことが今眠れないこととまったく関係がないではないか。変なことを考え始めたものだ。
 まあいい。理由がなくったって眠れないときは眠れない。眠れないなら眠らなくてもいい。そんなことで明日の体調がどうこうなるというほど私の身体は柔ではない。若いときほど馬力はないが、こんなことでへばるような私ではない。
 ちょうどいい機会ではないか。ひとりで、ゆっくりと、自分の時間を楽しめばいい。
 私は、ベッドから降り、電気を点け、部屋を仕切っている開閉ドアを開いて、隣の広いリビングルームへと歩いていった。
 後ろのドアから蛍光灯の光がリビングへも入ってきたが、前には届かず、前の方はほとんど闇だった。
 部屋の側面には大きなテレビのブラウン管がこちらを向いている。ブラウン管の下には小さなグリーン色の電灯が点っていて、それが闇の中で獲物を狙う獣の目のように見えた。テレビを載せている台は、大きな口を開けている洞窟の入口だし、テレビの上の熊のぬいぐるみはほんとうに生きてこちらを窺っているようだ。視線を上に向けると、梁から吊り下げられている人形は猿のようにも思えた。
 背後からは、かすかな風が吹いてきた。いい匂いだ。木の匂いか花の匂いか。きっと、この家からそう遠くないところにある公園からの匂いだろう。あそこにはいい匂いがする木がいっぱいある。二階の踊り場の窓は開けられたままだ。そこから流れ込んできたに違いない。
 へええ、ここがこんなにもものが違って見えるのかと感心した。まるで、初めて訪れた異国の森のようだった。
 すると、また、昼間聞いた食堂でのおばさんの言葉が甦ってきた。
「私、物や人の裏側がよく見えるのよ。今、こんなふうに見えてはいるが、実はこうなんだって」
 彼女の声が私の耳元で何度も響いた。
それを思い出すと、今度はいつかテレビで見た「犬が見ているであろう世界」という映像が思い浮かんできた。それはモノクロの世界で遠くのものは極めて不鮮明だった。まるで死者の世界。犬はこのような世界しか見ていないのかと思うと可哀想でならなかった。色のある世界はなんと豊かな世界であることかと思った。だが、犬には「匂いの世界」というものがある。それはまた人間にはまったくわからない世界で、きっと色のない世界を埋め合わせるに十分な豊かな世界だろう。もしそうなら犬に同情することなどまったくいらない。
 そんなことを考えていると、今度は、この私はどうなのかという疑問が浮かんできた。ひょっとして私のすぐ横に別の世界が広がっていて、多くの人がそれに気づいているのに、私だけがそれを感じられず、ただの形骸だけの世界を見ているのではないか。そう思い出すと、一気にその思いが強まった。と同時に、そうあってはならないという、怖れとも渇望ともわからない変な気持ちが起こった。
 そんなばかなことがあるものか。私はみんなと同じように見え、同じように感じられる。
 だが、そう思ってみても、もっと別の世界があるという思いは決して消えなかった。
 私は立ち止まって深呼吸をした。変なことを考え始めたものだ。いい大人の考えることではない。
 知らず知らずのうちに緊張したのか、口の中がからからになった。
 烏龍茶でも飲んでみようかと、私は、冷蔵庫の方へ歩いていった。その冷蔵庫は家主が置いていったものを私が使わしてもらっている。
 大きな冷蔵庫の真ん中を開けると、そこから光が漏れてきて辺りを明るくした。中を覗くと、上段は空で、中段にはトマトやイチゴなど果物が少し入っていた。下段にだけ、パックされている魚やチンすればすぐに食べられる冷凍食品がかなりの量置かれていた。私は、それらを脇にどけながら、その奥をさらに覗いた。クリーム色のプラスチックの壁が対面に現れた。当然、そこには何もなかった。それでもしばらくの間、ただ奥を覗いていた。こんなことは今までにはめったになかったことなのだが、今は何となくそうしてみたかった。
 ふっと横の壁に目が行った。そこに、手紙ぐらいの大きさの消臭用の紙が貼ってあった。いつも冷蔵庫の中を眺めているのに、それにはまったく気がつかなかった。
 紫色の矢型の模様のついた美しい紙だった。地の色は薄い紺色をしていた。両面テープで壁にしっかりととめられている。きっと持ち主の奥さんが貼ったに違いない。
 しかし、それに少し異常を感じた。貼られている位置がどうも変だ。単に消臭のためならどうして天井の近くに貼ってあるのだろうか。もしそのためだけならもう少し眼の高さに貼ってもいい。これは少し高すぎる。何かを隠すためではないか。
 そう思うと、私は、その後ろを見たくてしかたがなくなった。後ろにはきっと何かがある。
 手をのばして紙の端を持ち、手前に強く引いた。紙は少しは抵抗したが、すぐに剥がれた。取れたところの壁を眺めた。やはりそこには何か釘でひっかいたような痕があった。思った通りだ。私はさらに目を近づけ、よく見た。「まさおさん」と書いてあるように思えた。まさおさん、まさおさん、まさおさん、となぐり書きのような文字がかすかに読めた。しかし、それは定かではない。ただ、私にはそう見えたというだけである。但し、線には勢いがあった。それは気合いを入れて一気に書かれたような勢い。心の芯から叫ぶような勢い。ふっと、それを書いている奥さんの姿が思い浮かんできた。日頃の優雅さなどがまったく消え、狂ったように釘を動かしている奥さんの姿。まさおさん、まさおさん。
 私は慌ててそれを打ち消した。変なことを考えるな。それはただの傷ではないか。何かがあたって傷を作ってしまったのだ。それを隠すために消臭用の紙が貼られているに過ぎない。
 まったくくだらないことを考え始めたものだ。あまりにも平凡すぎる。早く烏龍茶でも飲んで、気を落ち着かせ、リラックスして、もう少しましな世界を楽しもうではないか。
 冷蔵庫から烏龍茶を抜き出すと、カップを求めて調理台に沿って蟹のように横歩きをした。
 窓側の側面にはいろいろなものがぶら下げられている。その真ん中辺りにほうろう質のカップがあった。それを取り上げると、烏龍茶を注ぎ、一気に飲んだ。冷たさが息をつまらせた。
 飲んだ後、コップをもとに戻そうとして、ぶら下がっていた電気のひもをなんとなく引いてしまった。小さな蛍光灯が点った。それはせり出している棚の下に取り付けられているのでほとんど流し台だけを照らした。それでも辺りは明るくなり、いつもの台所が現れた。
 私は、しまったことをしたと思った。せっかく、少し変わった世界にいたのに、それを簡単に消してしまった。
 私は、がっかりしながら佇んでいた。しかし、今までの、いつもの世界とは違うという感覚だけは残った。どこかわからないが、やはり今見ている台所が変だった。
 どうも先程取ったカップの辺りが気にかかった。ステンレスのこてや卵をかき混ぜる道具やマグカップなどがぶら下がっていたが、それらがいつもと違って見えた。私は、さらにそれらに目を近づけて一つ一つを眺めた。
 おや、と思った。そこにぶら下がっている「お玉」が変だ。
 ステンレスのお玉が銀色に輝いている。その中の、スプーン状のお玉に目がとまった。底の浅いお玉の中で丸い影がさかんに動いている。よく見るとそれは私の影だった。私の頭が動けばお玉の中の影がゆれた。しかし、それがどうも変だ。私はさらに目を近づけてよく見た。
 艶のある銀色のステンレスは滑らかに曲線を描いている。その表面が鏡のように私の顔を写している。しかし、その顔が逆なのだ。細長くなった逆さの顔。まさかと思い、顎に手を持っていって確かめたがそれも逆に写っている。間違いない。上が下に、下が上になっている。頭があって首があり、額があって眼がある。逆になった私の顔がじっとこちらを見つめている。
 私は驚いた。お玉が風景を逆に写すとは知らなかった。レンズや針穴写真機ならいざしらず、レンズも針穴もないのに、お玉が物を逆に写すとは考えられない。不思議だった。みんなは知っていたことかもしれないが、私にはそれが初めてだった。驚きだった。しかも、それを誰からも教えられず、自分一人で発見したことがうれしかった。いや、それよりも、そこに異常さを感じ取れた私の感覚がうれしかった。ひょっとして、私にも、少しは別の世界を感じとれる能力があるのかもしれない。
 満足するまで何度も逆さになった顔を見つめ、その後、やおら電気を消してから、烏龍茶を返すために、再び冷蔵庫のところへ戻った。ポットをもとに戻し、冷蔵庫を閉めた。
 私はいい気分になり、しばらく、放心したように冷蔵庫の前に佇んでいた。私にも原始感覚が甦ってきている。
 すると後のほうから何かいい匂いが漂ってきた。ふっと無意識に後をふり返った。
 そこには相変わらず闇の部屋が横たわっていた。ただ、ドアを通して漏れてくる隣の部屋からの光が階段の下を強く照らしている。そこだけが、スポットライトをあてられたように明るい。
 それに、その辺りから強い匂いが漂ってくる。しかも、それがなんとなく女の匂いのように思えてくる。いい匂い、鼻の粘膜が甘い蜜の中に溶かされていくような感じだ。
 ふっと、以前、何度か会った奥さんのことが思い浮かんできた。まだ若さを十分残した年齢の奥さんは美人というよりも上品さが顔じゅうにみなぎっていて、魅力的な人だった。それに背が高く、特に身のこなし方が美しかった。踊るような、流れるような。
 そんなことを考えていると、突然、華やかなドレスに身を包んだ奥さんが、歌手のようにゆっくりと階段を降りてくる姿が思い浮かんできた。奥さんの胸や肩、腕などはすべて露わで、滑らかな黄卵色の肌はスッポットライトがあたって映えていた。
 下まで降りてきた奥さんは、これからワルツでも踊るように優雅に身を動かせた。ドレスも髪の毛も軽やかになびいた。「ああ、きれい」と思わず声を出しそうだった。
 途端、それらはすべて消え、そこにはいつもの見慣れた階段が現れた。奥には電気掃除機さえ見えた。
 何ということだ。お玉の中に逆の写りを発見して少しいい気になっていたのに、今度は奥さんの裸に近い姿を想像して喜んでいるなんて。いくら別の世界を感じることを望んだからといって、これは少しやりすぎではないか。ちょっと女好きの男なら誰しも想像しそうな世界だ。
 しかし、そう思って見ても、階段の辺りが相変わらず気になってしかたがなかった。依然、そこからいい匂いが流れてきたし、何かの気配も感じられる。
 何だろう、この気配は。
 先程の奥さんの幻影がまだ残っている。肩や首、髪の付け根、それらが断片的に思い浮かんでくる。だから、階段の下から眼が離せない。じっと見つづけている。
 すると、今度は、その階段を登って二階へ行ってみたいという欲求が起こってきた。二階には先程の奥さんがまだいるとでも思ったのか。二階の奥さんの部屋へ行って見たい。
 ああ、また、助平根性が出てきた。二階へ行って奥さんの部屋で奥さんの匂いでも嗅いでみたいと思っているのか。いやらしい。なんと俗っぽい欲望のことか。
 私は一応その要求を拒否してみた。しかし、それはおさまらない。
 平俗な欲望ではないという声もする。もっと別のことを望んでいるのだという声もする。しかし、もしかりに平俗な欲望であったとしても、それが何が悪い。自分の心に誠実であって何が悪い。
 二階には二つの部屋があって、一つはベランダへ通じていて、そこは自由に使っていいことになっている。しかし、もう一つは、持ち主の奥さんが使っていた部屋で、絶対中に入ってはいけないということになっている。きつくそう言われている。帰ってきたときに以前のままにしておきたいためだということだ。一ヶ月に一回ほど、奥さんのおかあさんが来て、その部屋を掃除して帰られるが、ドアには鍵が掛かっていて中には入られないようになっている。
 しかし、そんなことは百も承知の上で、ますます二階へ行ってみたくなる。二階が私を呼んでいるような気さえする。
 私は階段の方へ歩き出した。階下の壁にあるスイッチを押すと踊り場の壁に取り付けられている電灯が点った。鈍い光が階段に降り注いだ。私は一歩一歩階段を登っていった。
 踊り場に着き、身体を半回転させると、奥さんの部屋の扉が正面に現れた。鍵のかかったノブが女体の乳房のように突き出ている。私は緊張した。女と初めてデートしたような緊張である。私はそっとノブを回した。抵抗なく半回転して、扉が自然に前にせり出してきた。おやっと思った。鍵がかかっていないのか。恐る恐るドアを引いてみた。ドアは何の抵抗もなく開いた。
 へえっ、こんなことがあるのか。驚いた。きっと母親が鍵をかけるのを忘れたのだ。
 一瞬どうしようかとためらったが、後は何も考えずに中に入った。
 部屋は畳部屋だった。入ったところの左側は闇の壁だが、月明かりのためか、正面のやや広めの窓から、カーテンを通してかすかな光が入ってくる。
 踊り場の壁に電灯のスイッチがあることはわかっていたが、私は電灯を点けなかった。
 足を擦るようにして闇の壁に沿って進んだ。壁には衣装ダンスが二竿置かれていて、その向こうには二メートルほどのクローゼットが置かれていた。
 歩くごとに空気がゆれた。そのたびにかすかな化粧品の匂いがした。それは、毎日、通う列車の中で、若い女から臭ってくる匂いだ。ファンディションの匂いか、クリームの匂いか。はたまた上質の香水の匂いか。いや、これは女の身体から滲み出た体臭の匂いに違いない。女の身体から滲み出てきた汗っぽい匂いが壁や天井にしみついていて、それが今流れ出しているのだ。
 ああ、また「女」かと思った。女の匂いにこんなに敏感になっている自分が不思議でならなかった。若いときはいざ知らず、最近ではほとんど女には興味がなくなっていたのに。
 先月も、家に帰ったとき、妻の麗子と寝床をともにしたが、ベッドに横たわった瞬間、強烈な疲れが襲ってきた。それでも何となく悪いような気がして妻の方を向いたのだが、妻も私の疲れがわかったのか、それとも妻もまた疲れていたのか、「もうそんな年でもないでしょう」と言って私に背を向けた。それを聞いたとたん、ほっとして、すぐに眠ってしまった。あのとき、本当に「ほっ」としたのだ。
 先日、同僚と久しぶりに酒を酌み交わす機会があったのだが、私はそのことを彼に話すと、彼もまた真剣な顔になって「もうだめだ、かみさんとはセックスができなくなった」と嘆いていた。「冗談でしょう」と彼の悩みを受け付けなかったが、他人ごとではないなと思った。だが一方、すぐに、おれは大丈夫だ、まだまだ若いと、それを強く打ち消した。私は彼より四歳は若い。身体も丈夫だ。その気になればいつでもセックスはできる。麗子とセックスができなくなるなんて考えられない。
 では、あのとき麗子を抱かなかったのはなぜなのだろうか。麗子は本当はセックスを望んでいたのではないか。あの態度は麗子の本心ではなく、ひょっとして私を試すためのポーズにすぎなかったのではないか。
 ああ、もういい。そんなことを考えるのはもうよそう。女を感じるためにこの部屋にやってきたわけではない。もっと別の何かを求めてここへやってきたはずだ。しかし、それはいったい何か。
 漂ってくる甘い汗のような匂いをうち払いながら、部屋の中をあちこち歩き回った。
 部屋はほとんどかたづけられていた。箪笥やクローゼットを開いてみたがみんな空だった。箪笥の上の紙箱には使い残された化粧品が無造作に入れられていたが、見つけたものといえばそれぐらいだった。他には何もなかった。
 しかし、私は、まだこの部屋には重要なものが残っているという気がしてならなかった。私を驚かせるような何か。
 眼をあちこちにやりながら探った。しかし、そのようなものは何もなかった。部屋は依然としてがらんとしているし、見るべきところはみな見た。私はがっかりした。そんなものはないのかもしれない。初めてそう思った。
 しかし、それでも私は必死で目を凝らした。すると、畳の一角が、辺りよりも少し白っぽいのに気づいた。おそらくはそれは、そこに何かが置かれていた跡なのだろう。そこだけが日焼けせず、新品のときの青い畳表のままになっている。きっと、机か整理箪笥が置かれていたのだろう。よくあることだ。しかし、それが気になってしかたがなかった。
 私は、ひざを折り、すねのくるぶしを支えにして、しゃがみ込んだ。腕のすねを畳に擦りつけ、その青白いであろう箇所をさらによく見た。すると、畳が周りよりも少し浮いていることがわかった。
 立ち上がって、身体を向かいの畳に置き、再び、身体を低めてその畳を見ると、確かにそこだけが浮いている。
 少しだけ高くなっている端のところに二本の指先をかけ、上に持ち上げようとした。しかし、すぐに指が滑り、失敗した。再び同じことを繰り返し、ようやく、畳の端を、こちら側の畳の縁より高くあげることに成功した。その瞬間、五本の指をすばやく畳の下に入れ、今度は畳全体を持ち上げた。
 黴の臭いとも埃の臭いともつかない悪臭が漂ってきた。闇色の木の床が露わになった。眼を落とすと、そこにB5の紙でも入りそうな事務用の封筒が仄かに見えた。やっぱり。私の予想がぴたりとあたった。
 だが、次の瞬間には、怖れとも困惑ともとれる気分が生じた。私はしてはならないことをしている。彼女が誰にも見せたくないもの、そこに密かに隠し持っているものを私が今暴こうとしている。
 だが、そう考えれば考えるほど、中身を見たいという誘惑に駆られた。中にはきっと私には何の興味も起こらない家の権利書とか、盗まれてはいけない証書あたりが入っているのに違いないと思ったのだが、それでもやはり見たかった。
 封筒を拾い上げると、上にあげ、眼の前で振ってみた。やはり何かが入っている。
 封がされていなかった。袋は開けられたままだった。中を覗くと、厚紙のようなものがあった。掌を受け皿にして、それを逆さにした。掌に少し厚めの紙切れが数枚落ちてきた。床に落とさないようにしっかりと受けとめた。それは写真のようだ。大きさは幅七センチ、横十センチぐらいの長方形。
 やはり写真だった。しかし、写真の中身はほとんどわからない。何となく人の顔のようなものや身体のようなものが映っていたが、あとは暗くてさっぱりとわからない。部屋の電気を点けて見ようかと思ったがそういう気にはなれない。それはやはり暗闇の中でわずかな光を頼りに見たかった。
 灯りになるものがないか捜したが、何も見つからない。
 畳をそっと壁にもたせかけ、封筒と写真をしっかりと握り、それを持って、半ば閉まりかけている、今先程入ってきた扉を開けた。踊り場の豆電球で見ようと思ったのだ。
 部屋を出た。持ってきた写真の一枚を光の下へ突きだした。モノクロの写真だった。
 奥さんが毛布から上半身をのり出して、ベッドに横たわっている。上半身は裸だった。私は唾を飲み込んだ。この家の持ち主の奥さんがこんな姿で立ち現れようとは思わなかった。
 滑らかな首筋、柔らかさが滲み出ている肩の曲線、白い肌が写っていた。よわよわしい光の中でもそれらはくっきりと浮かんできた。中央のやや大きめの乳房の陰影が特に眼をひいた。陰影がはっきりしていて、しかも、汗の穴まで写し込んでいる。そのシャープな画像は、最も上質な果肉が、光にあてられたときに瞬間に見せる透明な柔らかさを感じさせた。あるいは、陽が落ちてしまったあと、空の真上がわずかな間、青く透き通るのだが、それにも似た美しさを想像させる。
 私は何度も唾を飲み込みながら、写されているものすべてを見のがさないように注意深く見た。顔はレンズの方をまともに向いていて、長い髪を垂らして笑っている。きっとカメラを向けている男にその笑いは送られているのだ。しかし、それは少女のあどけなさなどまったくない、少し哀惜の含んだ満開の薔薇の濃厚さを漂わす笑いだった。うれしさがいっぱいなのにどこか陰鬱さを含んでいる。
 先程、階段の下で、華麗なドレスに身を包んだ貴婦人のような奥さんの姿を思い描いたが、それと重ね合わせて見ると、いっそうなまめかしく思えた。エロスの精だなと、独り言を言った。すると、今度は、若かった時の麗子の肌が甦ってきた。彼女もまた決してこの女に負けない魅惑的な肌や乳房を持っていた。いつも、帰宅するとすぐに彼女をベッドルームに誘い込み、強く抱擁しながら、上着のボタンをはずし、ブラジャーをもぎ取って彼女の大きな乳房の中に顔を埋めた。汗の匂いと温かさが私の頬のすべてから入ってきた。肌にあたる乳房の柔らかさが心の芯を溶かした。顔を埋めることで、乳房の形は見えなくなったが、心の中ではその丸みが実際よりもはるかに明確に浮かんでいた。昼間の仕事の中でつけた埃のすべてが洗い流されて、身も心も新しくなった。しかし、今は、そんな思いがまったく味わえない。
 ただ、今、この写真を眺めていると、かすかにそのときの思いが甦ってくる。あのときの幸福なときめきが私の周りを漂う。
 上半身をこれほど無防備にさらけ出しているのを見ると、よほど写真を取ってくれている人に信頼感を寄せているのだろう。いったいそれは誰か。
 きっとそれは彼女の夫、この家の持ち主に違いない。彼たちは私の新婚当時のような関係にあるのだ。いや、そのときの記念に撮ったのかもしれない。もし、あのとき私に写真の趣味があれば、きっと私もこのような写真を撮っていたに違いない。
 ようやく、次の写真を見る気になった。それで、すでに見た写真を下にし、下にあった写真を上にして、光の下に持っていった。
「えっ」と思った。不意に横から殴られたような恐怖感に近い衝撃が走った。写真に無意識に眼を近づけると、そこには、私がまったく知らない、これも先程の女のと同じポーズを取っている上半身裸の男が写っていた。彼は、若い男のようだった。私がもう数え切れないほどの前に失ってしまっている、下から下から新しい細胞が新芽のように噴き上がってくる肉体を持っていた。表皮の肌がその下からの力を必死でこらえているといった肌の張りが一目で感じられた。スポーツをやっている若者かなとも思ったが、そうではない。若い男なら誰しも持っている肌だった。しかし、彼は彼女の夫ではなかった。いったいこの写真の男は誰か。彼女の夫ではないとするとこれは問題である。こんな状態で写真を撮りあう関係とは、普通の関係とは考えられない。
 だが、ひょっとして、これは今の夫と結婚する前の写真かもしれないと思った。青春の体験を捨てがたく、こうやって持っているのかもしれない。だがそう考えるには無理があった。彼女の顔付きは今に近い。若いときのものではない。では、……。
 先程、冷蔵庫の中で見た「まさおさん」という文字が思い浮かんできた。この男の名が「まさおさん」ではないか。そう思うと。それは間違いなくそうであると思えてきた。何ということだ。落胆とも嫉妬ともつかない奇妙な感情が起こった。
 だが一方で、そんなことは他人のことだ、どうだっていいではないかという思いもした。むしろ、こんなことを嗅ぎ廻り、あれこれ詮索している自分は薄汚く、凡庸な人間に思えた。他人にはそれぞれいろいろ事情というものがあるのだ。彼らの関係をいろいろ憶測したってしかたがない。彼らの関係が例え男女の関係になっていたとしても、自分には何の関係もないことである。例え、これが原因で夫との関係が破綻しようと私にはいっさい関係がない。あるいは、この関係が彼女の秘められた部分として永久に隠されつづけようとそれもまたどうだっていいことである。
 だが、そう思ってみても心の動揺がおさまらない。少し大げさに言えば、突然、あなたは重い病気に冒されていると告げられたような気がする。
 おい、おい、と自分に言い聞かせる。お前だって、麗子以外の女とはまったく関係がなかったとは言いきれないだろう。他人にはそれぞれ大小の違いがあっても「秘密」というものがあるのだ。女だって同じではないか。しかも、彼らは私よりもはるかに若い。考え方も違うのだ。
 しかし、そう考えてみてもいっこうに動揺がおさまらない。怖い怖いという思いにとらわれる。いったい何が怖いのか。女にも性欲があるということが怖いのか。女にも夫以外の男と性交ができるということが怖いのか。女にも若いということへの渇望があるということが怖いのか。
それらすべてであるように思えるし、また、それらとはまったく別の理由であるような気もする。
 私はもう次の写真を見る勇気をなくしていた。いや、動くのさえ億劫になった。それでも、力を振り絞って、もう一度、女の部屋に戻った。
 ハトロン紙の大型封筒を床に置き、畳を静かに下ろした。最後のところで空気が一気に外に出た。辺りへたくさんの埃を撒き散らしたに違いない。
 部屋はもと通りになった。空気の揺れがおさまり、無音の空間が広がった。
 正面には、やや薄めのカーテンがほんのりと明るく垂れ下がっている。背後からは扉を通して光が入ってくる。
 そのときまたしても「へえっ」と驚くようなことが起こった。
 私の眼前に、先日、家に帰ったときの寝室が、突然、鮮明に浮かんできたのだ。
 こんなところでどうして自分の家の寝室が思い浮かぶのか。
 あの部屋とこの部屋がどこか似ているとでもいうのか。冗談じゃない。部屋のつくりも家具の配置もまったく違う。しかし、その様子がますます鮮明になっていく。まるで、その光景をもっと真剣に考えろというように。
 確かに私は少し脳天気だった。そんなことはたいしたことではないと思っていた。あのことはもう少し深く考えるべきことだったかもしれない。
 先日、自宅に帰っていたとき、あれは、好きなテレビを見終わって、そろそろ寝ようかと寝室に入ったときのことだった。私は、何も考えず、いつもの通り、ベッドの真上の電灯をつけた。途端、確かに「あれっ」という感じを受けた。今までとは違う、えらく変わったなという感じだった。模様替えでもしたのかと辺りを見回したが、背の低い箪笥が以前と同じところにあったし、麗子のスチール製の本箱も、その横の木製の小さな勉強机も前のままだった。何も変わってはいない。気のせいかなと思ったが、やはり違うという感じだ。でも、それはどこなのかわからない。
 そんなことはどうでもいいと思い、ベッドへ入ろうとした。すると、布団や毛布は真新しものに取り替えられていた。おやっと思い、顔をそれらに近づけ、鼻を擦り付けた。ほとんど何の臭いもしない。きっと、毛布も布団も敷布もクリーニングに出されて、今先程敷かれたものに違いなかった。私が帰ってくることを気遣い、麗子が洗い立てのものを敷いてくれたのだ。
 しかし、考えてみると、これは、麗子が、私が使ったこともない別の毛布や布団にくるまって寝ているということだ。もし、私が帰ってしまったら、彼女がいつも使っている布団や毛布や敷布に取り替えるだろう。そう思うと、途端、自分でも驚くほど嫌な気がした。いや、嫌な気分と言うよりも、不安な気分、怖ろしい気分、腹立たしい気分といったほうが正確である。
 何だか変だ。いったいどうしたというのか。いいものをあてがってもらって何が不服なのか、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。しかしそのとき初めて「あまり長い間家を空けるのもよくないな」と思った。
 しばらくベッドの上に座って、見慣れたものを眺めているとだんだんと心が落ち着いてきた。ばかなことに神経を使っているなと思い、横になる気になった。
 しかし、ベッドに入り、正面を向いたとき、またも心の動揺を覚えた。正面にはスチール製の本箱が天井に届きそうなほどの高さに置かれている。
 あれ、あんなところに、と、以前と違うことをまた発見した。上から三段めのほぼ中央部が、本が十数冊抜き取られ、その左右に上から本止めがはめられていて空白になっていた。そこに、かわいい熊のぬいぐるみが二体置かれている。一つは雄の熊で、紺色のスカーフが巻かれ、一つは雌の熊でピンクのスカーフが巻かれている。上着も紺のチェック、ピンクのチェックである。
 それには見覚えがあった。何年か前に彼女の机の上に小さな箱が置かれていた。その箱の中にあったものだ。ちょうど麗子が部屋に入ってきたので「これはどうした」と尋ねたことがある。彼女がその箱をちらっと見ると「他人のものを黙って中を開けないでよ」といつになく強い声で抗議した。その剣幕に驚いて、「すまない、すまない」と謝った。「友だちが誕生日のプレゼントにくれたの」と言ってその箱を私から取りあげてどこかへ持っていった。それ以後、それを見たことがない。
 麗子はぬいぐるみは嫌いだった。娘にも買ってやったのを見たことがない。だから、気にも留めないですっかり忘れていた。そのぬいぐるみはなぜあのときあそこに飾られていたのか。そのときも確かに不思議に思った。しかし、きっとそれはその友だちが家に遊びに来るかなにかで、あなたのくれたぬいぐるみがここにチャンと飾ってありますよと示すためかもしれないし、あるいは、あまりにかわいいので気持ちが変わったのかもしれないと思って、気にはしなかった。それよりも、部屋の異常さの原因がわかったので、むしろほっとしていた。
 しかし、今、再びその光景を思い出すと、何かひどく気にかかる。
 あの位置は、ベッドに入って上を向いたとき、ちょうど目の位置にくる場所である。妻はベッドに入るごとにあのぬいぐるみを見て寝ることになる。
 ひょっとして友だちとは男性かもしれない。あのとき、友だちと聞いてすぐに女友だちをイメージしたのだが、男性であってもおかしくはない。なぜ、そう思わなかったのか。
 スカーフの端に手書きのイニシャルがあった。雌の熊のスカーフのイニシャルは麗子のRだった。しかし雄の熊のイニシャルはMだった。Mに該当する麗子の女友だちを思いだすことができない。もちろんそれは私のイニシャルではない。
 まったくくだらないことを思い出したものだ。ほんとうになぜ今私がそんなことを思い出すのか。
 女の部屋に行きたいという欲望から始まって、この部屋に来たのだが、どうして単身赴任で残してきた我が家の寝室を思い出すのか。まさか、それを思い出すためにこの部屋にやって来たわけではないだろう。
 嫌な気分が持続する。
 きっと、この部屋にいるのがいけないのだ。入ってはいけない部屋に入って、他人の秘密を暴いたりしたのがいけないのだ。早くこの部屋から出て行かなければならない。
 私は慌ててドアのところへ行き、部屋を出た。階段を降りるとき、足がもたつき転げそうになったが、手すりを持ち、かろうじて身体を支えた。
 ようやく自分の寝室に帰りつき、ベッドの上に座った。それでも気分が落ち着かなかった。
 やはり、先日帰ったときの寝室の光景が再び繰り返し思い浮かぶ。
 洗い立てのシーツ。ペアーのぬいぐるみ。どこかよそよそしい麗子の仕草。
 ときどき、先程見た奥さんの写真の中の表情も浮かんでくる。うれしそうで悲しそうな顔。それに比べてあれほど熱心に見た奥さんの裸の姿は思い浮かばない。
「まさおさん」私は無意識に口に出す。以前どこかで聞いたことのある名前だ。確かにその名前は聞いた。
 それはそうだろう。どこにでもよくある名前だ。誰かが口に上らせたとしてもまったくおかしくはない。ひょっとしてそれは私の知っている男かもしれない。しかし、どのように考えてもそういう名前の男は思い出せない。
 その名前は麗子が言ったのではないか。ふっとそんな考えが浮かんだ。瞬間、ぬいぐるみのイニシャルが目にちらつく。M。まさおさん。
 そんなばかなこと……。私はそれを強く否定した。だが、そうすればするほどその考えが強まった。
 ほんとうにばかばかしいことだ。麗子がもしこのことを知れば、それこそ「お父さん、この頃、おかしくなったわ。病院へでもつれていったほうがいいかもしれないね」と娘たちに言うかもしれない。
 私はあらゆる思考を追い払おうと、考えることを止めた。しかし、駄目だ。さまざまなことが次から次へと思い浮かんでくる。「まさおさん」という文字。麗子の表情。ぬいぐるみ。若い男の肌。「おれはもうかみさんとはできなくなった」という男のこと。
 それらに混じって、ときどき、お玉に写っていた自分の顔まで浮かんでくる。逆さになった顔。逆さになった目。それらがこちらを見ている。
 電話を掛けるしかないな、と思う。麗子の声を聞けばすぐにでも不安は解消しそうだ。聞き慣れた麗子の声を聞けば絶対そうなる。
 しかし、今頃電話を掛ければ彼女は何事かと驚くだろう。緊急の事態でも起こったのかと心配するに違いない。後でそうでないことを知ると、怒りを爆発させるだろう。「いいかげんにしてよ、何時と思っているの」。その声はすでに私の耳元で聞こえている。しかしそれでも私は電話を掛けようと思った。いかに彼女の罵声を浴びようとも、電話を掛けなければならない。
 電話機は私のすぐ横にあった。電話の前で何度も深呼吸をする。電話のボタンを押す。受話器を耳に当てる。呼び出し音が鳴っている。もうすぐ麗子の声が聞こえてくる。早く彼女の声が聞きたい。だが、誰も出ない。
 番号を間違えたのかと思い、受話器を置いて、もう一度掛け直す。しかし、結果は同じことだった。呼び出し音だけが耳の奥で繰り返し鳴りつづけている。
 どうしたことだ。麗子はいないのか。
 出るまで受話器はおかないぞと思い、私は電話機の前で立ちつくす。すると、ふっと、一人の男が私の前に立っているのが見える。深夜、一人、暗闇の部屋に佇んで電話を掛けつづけている。長い間、受話器を耳にあて、ただ呼び出し音だけを聞いている。
 これはたまらないな、と思う。私は、受話器を置き、それを断念しようかと思う。だができない。すぐに受話器を取って、再び、同じ番号を押す。
 部屋がはっきりと見えてくる。カーテンの隙間から月あかりが入っている。ベッドがある。しかし、そこには誰も寝ていない。ベッドの前の机の端に電話機がある。それだけがけたたましく鳴っている。闇の中の無人の部屋で。
 本箱の上から三段めの中央に小さな空白がある。ぬいぐるみの置かれていたところだ。だが、今、そこには何もない。二体のぬいぐるみはすでにどこかへ持ち去られている。
      了

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