この屋根の下で  若林 亨


 仕事が盆休みに入ったので久しぶり実家へ戻ってきたら台風が来た。ついさきほど紀伊半島の潮岬付近に上陸したらしい。海は大荒れの状態だった。桟橋に乗り上げた漁船めがけて次々と大きな波が押し寄せていた。街路樹は折れそうなまでにしないでいる。道路が白く見えるのはしぶきのせいだ。地元の住人は全員高台にある公民館へ避難しているという。そして土砂崩れの情報が入る。
「早く雨戸を閉めてちょうだい」
 そう言って母はテレビを消した。台風がまだ四国沖にあって注意報すら出ていない時から母は雨戸雨戸と言っていた。
 隣の部屋で碁を並べていた父が居間へやってきて、今どこにおるんや、とのんきに聞いた。
「上陸しましたよ」
「そうか、きたか。それでどこへ行くんや」
「こっちへ来るんです。直撃です。だから早く閉めて」
「ああ」
 父は気の抜けた返事をして煙草に火をつけた。
「お父さん」
「これ一本吸ってからや」
 この家はもう築七十年を過ぎていた。階段の手すりには昭和五年十月と彫られているので、少なくともその年には存在していたことになるがはっきりしたことは分からない。生前祖父は自分が建てたのだと言っていたが、父によるとどうも疑わしいらしい。築七十年だから当然いろんなところに傷みが出ている。二階の部屋はもうずいぶんと前からピンポン球が転がるほどに傾いているし、そのせいでふすまはぴったりと閉まらなくなっていた。トイレや風呂のモルタルの壁はひび割れが目立ち、はがれているところはガムテープで補強されている。見た目にも汚らしかった。つい先日はトイレが詰まった。水が流れないので業者に見てもらったら、管にトイレットペーパーがぎっしり詰まっていたらしい。配管の傾斜が悪いとのことだが、直そうと思えば玄関から台所を通って納屋まで、家の中から土を掘り起こさなければならない。おおげさな工事になってしまう。
「この前雨戸を閉めたんはいつやったかいな」
 父は煙草を吸い終わった。
「ほんまやなあ。あんたが小さい時はよう閉めてたんやけどなあ」
 母はそう言ってこちらを見るが、僕には記憶がなかった。よく閉めていたと言ってもせいぜい一年に一回か二回のことだろう。しかも二十年以上前のことだ。暴風警報が出れば学校が休みになるので子供の頃台風はちょっとした楽しみだった。強風の中、傘を飛ばして遊んだりしていた。しかし雨戸を閉めたという記憶はない。
 早くしてちょうだいとまたせかされたので父と一緒に二階へ上がった。二階は六畳と三畳と四畳半の三部屋が並んでいる。父は南側のサッシを開けてベランダへ出ようとしたが、しまったと言って一階へ下りていった。どうやら履物を忘れたらしい。
 この家には父と母の他に祖母が二人住んでいる。父方のおばあちゃんと母方のおばあちゃんだ。父方のおばあちゃんは一年前から寝たきりで、介護保険による介護認定が五。かなり呆けていてもう母の顔しか分からなくなっている。僕がいくら耳元で自分の名前を叫んでも「どなたでしたかいな」と顔をしかめるばかりだし、父の名前すら忘れてしまった。母だけを頼りにしている状態で、何の用事もないのに母の名前を呼び続けることがある。始めのうちは呼ばれるたびに飛んでいって世話をしていた母も今ではほとんど無視している。いちいち相手してたら体がもたなくなるぞ、と父に強く言われて手を抜き出したらけっこう楽になったらしい。
 一方の母方のおばあちゃんは居候だ。つい最近まで近くのアパートで一人暮らしをしていたが、足がだいぶ悪くなり、さすがに心配だということで一緒に暮らすようになった。離れの六畳間に住んでいる。こちらは介護認定一で、まったく呆けていない。この家へ来てからはほとんど外出しなくなり身の回りのことは全部母にまかせっきりなのに、ケアーマネージャーの前では、料理も出来ます、体操もやってます、麻雀もやりますと胸を張っている。元気なおばあちゃんと寝たきりのおばあちゃん。ふたりはともに九十を越えている。
 父がスリッパを持って再び上がってきた。
「おまえ、閉め方知ってるんか」
「閉め方って、引っ張り出したらええんやろ」
「そらそうやけど、結構難しいんやで」
 そういうと父はベランダへ出て、戸袋に手を突っ込んだ。細かい雨が勢いよく部屋の中へ入ってきた。
「おまえ今年でいくつになったんや」
 一枚目の板を反対側へ滑らせながら父が言う。そんなことも知らんのかと思ったが、考えてみると僕も父の年齢を知らない。たしか昭和七年生まれのはずだから七十才前後のはずだが、すぐには出てこない。地元の信用金庫で定年まで働き、それから関連会社へ移って五年ほど働いたあとは全くの年金生活者になっていた。自治会の役を引き受けたり地域の防犯運動や美化運動に参加したり近くの囲碁クラブへ行ったりで、そこそこ忙しくしているようだ。家の中のことは何もしてこなかった人だが、最近は寝たきりのおばあちゃんの食事の世話と風呂トイレの掃除、それにごみ出しを受け持つようになった。
 雨戸は二枚目の板がうまく滑らなかった。何回やっても真ん中あたりで止まってしまう。だんだんいらいらしてきて、ふたりしてえいやあとばかりに思い切り引っ張ったら今度は元へも戻らなくなってしまった。あきらめて先に北側を閉めた。こちらは気持ちよく滑ってくれた。
 木槌を持ってきてくれと父が言う。中途半端なままの雨戸を叩いて元へ戻すのだという。
 一階へ下りて事情を説明すると母は、お父さんに頼んだのが悪かったわとため息をついた。そして手ぶらで二階へ上がり雨戸の前に立つと、どんな状態であるかを確かめもせずにいきなり雨戸の下のほうを両手でつかんで、よっ、と力を入れた。重たい荷物を持ち上げる時のように腰に力を入れているようだった。二回繰り返して手を離した。
 引っ張ってみると雨戸は拍子抜けするぐらいにスムーズに滑ってぴたりと合わさった。
「わたしの仕事を増やさないでくださいね」
 母は機嫌が悪かった。男二人が何をしてるんだといわんばかりの冷たい言い方だった。よけいなことは言わなくていいのに父が「お母さんはご立派でございます」とからかったものだからますます母はいらついて、「おばあさんの食事が出来てますよ」と父をにらみつけた。それからこちらにも顔を向けて、「しっかりしてや。うちの長男はあかんたれかいな」と嫌味を言った。
 雨戸を閉めた途端に風雨が強くなり、大雨と暴風の警報が出た。離れの二階にも雨戸がついているが、物置きに使っている部屋なので閉めなくてもいいということだった。その離れに寝泊りしている元気な方のおばあちゃんが母屋へやってきた。毎日食事の時間になるとやってくる。それ以外はほとんど離れにいて、テレビを見たりラジオを聞いたりしながらうつらうつらしている。居候ということでやはり遠慮しているのだろう。
「今日はまだ出来てへんで」
 台所の母にそう言われると、ほなまた来ます、と離れへ戻っていった。
 隣町に住んでいる弟から電話がかかってきた。三人で明日こっちへ来ることになっているのだという。弟夫婦には二歳になる男の子がいる。かなり人見知りする子で、父や母には慣れてきたものの、僕などは年に一、二回しか会わないものだからすぐに泣かれてしまう。今のところは二親等までしか付き合えないらしい。
 今雨戸を閉めたところだと言うとかなり驚いていた。弟の方はまだ普通の雨らしい。山ひとつ超えただけでずいぶん違うものだ。
 電話の後はますます風が強くなった。時折、家ごとさらってしまいそうなほどの突風が雨戸を叩く。こんなにも簡単に家が揺れるものだとは知らなかった。地震とはまた違った感じの軽い横揺れだった。寝たきりのおばあちゃんは今台風が来ていることを分かっているのだろうかとふと思った。ベッドの上で上半身を起こし、父の運んでくるおかゆを口いっぱいにほおばってかくりかくりとあごを動かしている。九十を超えるまで病気らしい病気をしたことがなく、薬の世話になったこともほとんどなかった。今も神経の薬を一錠飲んでいるだけだ。三年前に家の中で転んで腰を打ってからうまく歩けなくなり、一年前からは車椅子にも乗れなくなった。最近急に弱りだし、下の世話も必要になってきた。おしっこは管を通して袋へたまるようになっている。それでも食欲だけは十分にあり、調子のいいときは一口ずつ「あーおいしい。あーおいしい」と声を出したりする。
「すんませんなあ、ぜいたくさせてもうてます」
 これは僕に対する数少ない言葉の一つだ。
 父に代わっておかゆを食べさせてみた。やってみるかと言われて素直に従ってみたが、これが意外と難しい。おばあちゃんはなかなか口を開いてくれないのだ。辛抱強くやらなあかん、と父が横から口を出す。なるほど何回かスプーンを持っていくうちにふーと口を開けてくれることがある。よし今だとばかりにおかゆを含ませようとしたが、おばあちゃんが激しく首を振ったのでおかゆは全部前掛けの上へこぼれてしまった。
「何してんねん、もっとていねいにやらんとあかんやないか」
 そう言って父が再び食べさせようとしたが、おばあちゃんはそれから首を振るばかりでいっこうに食べようとしなかった。
「おかしいな。もういっぱいなんやろか」
「いつもこれ全部食べるんか」
「ああ、足りひんぐらいや。おかしいな」
「無理に食べさせんでもええんちゃうの」
「おかしいな。どうしたんやろ」
 あきらめていたところへ母がやってきた。おかゆが三分の一ほどしか減ってないのを見て、あきれた顔になった。
「今日はもういらんみたいやわ」
 父が言い訳気味にそういうと、母は父からスプーンを奪い取り、「はーい、まだありますよ」と声をかけながらかなり多めにおかゆをすくっておばあちゃんの口元へ持っていった。一度拒否されると今度はスプーンの底を二度三度と唇に当て、自分も大きな口を開けて「はーい、はーい」と促す。
 するとおばあちゃんはスプーンをほおばった。今まで首を振っていたのが嘘のように、大きく口を開けて自分から勢いよくスプーンをほおばった。
「おいしいでしょう」
 母からそう問い掛けられるとうなずいてまた大きく口を開ける。
「こつがあるんやな」
 父は感心していたが、母は「こつなんかありません」とぴしゃりと言った。
 元気なおばあちゃんが再び居間へやってきていつもの場所に座る。四人で夕飯を食べ始めたのは八時前だった。ずっとテレビがついているのでにぎやかなようだが実際はだれもしゃべっていない。上陸してからも衰えることのない台風の情報を見ながらもくもくと食べている。父と母とふたりのおばあちゃんは毎日こんな風に静かに食事をしているのかと思うとさびしいような悲しいような、それでいて映画のワンシーンに迷い込んだような不思議な気分になった。
 父がごはんのおかわりを頼んだ。声に出して言うのではなく、空になった茶碗を母の前へ差し出すだけだ。母も黙って半分ぐらいごはんを入れ、そこへ熱いお茶を注いで父に戻す。
 停電したのはそのときだった。真っ暗になってみんないっせいに蛍光灯を見上げた。
「停電したんとちゃうか」
 父がまじめに言うので、
「それ以外に何があるねんな」
 と僕は突っ込んだ。
「珍しいわね」
 と母が言った。
「暗い暗い、真っ暗になった。どうしたんや」
 隣の部屋から寝たきりのおばあちゃんが叫ぶ。はっきりとした力強い声で、暗い、暗い、と繰り返し叫ぶ。
「なんでもありませんよ。ただの停電ですよ」
 負けないくらい大きな声で母は返事をしたが、立ち上がろうとした拍子に飯台にひざをぶつけて食器をひっくり返してしまった。
「おいおい何すんのや、熱いやないか」
 お茶がこぼれて父の方へ流れていったようだ。しかしそういう父もまた慌ててのけぞった拍子に手で飯台の上のものをひっくり返した。食器のぶつかり合う甲高い音が真っ暗な部屋の中に響いた。
「拭くもんないか、拭くもんくれ」
「くれって、そのへんにあるでしょう」
「ないがな」
「あります」
「ないない」
「目の前にあるはずです」
「ない言うてるやろ」
「絶対あります」
「……あっ、あったわ」
 父はふきんで一生懸命ズボンを拭いた。母は手探りに飯台の上を片付けている。
 元気なおばあちゃんは這うようにして寝たきりのおばあちゃんの側まで行くと、
「真っ暗になりましたなあ」
 と声をかけた。
「何があったんや。暗いやないか」
「昔を思い出しますなあ」
「あー怖い怖い。電気つけてえなあ」
「昔はよう停電しましたがな。怖いことあらしまへんで」
「なにしてるんや。電気つけておくれ」
「戦争中はこんなんでしたがな」
 ふたりの会話は全くかみ合っていなかったが、聞いているうちに微笑ましくなってきた。台風の直撃も久しぶりだが、停電はもっと久しぶりだ。正確には思い出せない。ほんとうに経験したのかどうかもあやふやなぐらいだ。
 台所にある懐中電灯は電池が切れかかっているのか、豆球ぐらいの明るさしか出なかった。その鈍い光で仏壇のろうそくを探し出した。ろうそくの炎は驚くほど明るくて、飯台の真ん中に一本置いただけで一気に気分が落ち着いた。しかしその光は隣の部屋までは届かなかった。寝たきりのおばあちゃんは相変わらず停電を怖がっている。
 やはり母の出番だ。ろうそくで顔を照らしながら、停電ですよと何度も何度も伝える。
「電車が来たんか」
「違います。て・い・で・ん・です」
「でんでん」
「て・い・で・ん」
「電車が来たんやろ」
「てーいーでーん」
 全くだめだった。何を言われようとおばあちゃんは、電車が来た、を繰り返す。
 しばらくして「処置なしです」という母の声が聞こえてきた。区切りをつけるために自分自身に向かって言ったようだった。
「あんな風になる前に死にたいわ」
 元気なおばあちゃんがつぶやいた。
 ろうそくは全部で五本。台所、飯台の上、寝たきりのおばあちゃんの部屋、そして持ち歩き用にふたつ。かまぼこ板を蝋台代わりにして、すべて居間から見えるところに置いた。懐中電灯はぼんやりと玄関の床の間を照らしていた。
 ラジオで台風情報を聞いた。かなり早いスピードでこちらへ向かっている。瞬間最大風速四十五メートル。中心気圧は九百四十ヘクトパスカル。勢力はあまり変わらない。
 結局食事は中途半端に終わってしまった。片付けは後にしようということで、とりあえず食器類を台所へかためて飯台の上を整理した。まあ落着こうやないかと父がコーヒーを入れ始めると、普段は全く飲まない母が、私も欲しいと言った。
「ほな私もいただきます」
 元気なおばあちゃんも手を上げる。ポットの湯はまだ湯気が立つほどの暖かさを残していた。エアコンが切れた部屋の中にコーヒーの香りが漂うとさらに蒸し暑くなった。
「おまえこの家をどうするつもりなんや」
 父が突然そんなことを言い出した。低く落ち着いた声で、一瞬あたりを緊張させる。
 満を持して切り出したのかもしれない。ずっと前から思っていたことだろう。家をどうするのかというのはつまり、世間並みに早く所帯を持ってゆくゆくはこの家で暮らしたらどうか、その気持ちはあるのかということだ。大学を出てから十五年間ずっと一人暮らしをしてきたせいで、常にひとりでいることが当然のようになってしまっていた。いまさらだれかと一緒に生活するなんて考えられなかった。だいたいにして息苦しいじゃないかと思ってしまう。どうして結婚してふたりで暮らさなければならないかが分からなかったし、かりに結婚したとしても共同生活は御免だった。
 そんなことを考えていると父がまた、どうするつもりなんやと聞いてきた。
「ああ」と生返事をした。
「ああではすまんやろう。おまえの問題なんやで。まあこう言ったらなんやけど、おばあさんふたりはもうなごうない。普通に考えたらそうや、年取ったもんから順に死んでいく。おばあさん、すんませんなあ」
「いやいやその通り。もうぼちぼちですさかいに」
 元気なおばあちゃんはそう答えてから、
「ぽっくり行きたいもんですなあ」
 と付け加えた。
「わしらかて年金生活者や。もうそんな年なんや。いまはまだ元気にしてるけど、いつどうなるかわからん。もし体が動かんようになったらその時はどこかの施設で面倒見てもらうつもりでおる。おまえにどうこうせえとは言わん。でもな、そうなった時にこの家はどうするんやという話や。近いうちに立て替えなあかんのは分かっとるやろ。おまえにどれくらいの貯金があるかしらんけど、百万や二百万では家は建たへんで。壊すだけでも百万かかる。おまえがもうこの家いらんっていうんやったら、わしとお母さんがおらんようになってから適当に処分してもええし、もしここで暮らす気があるんやったらそのつもりでいまからきっちりと」
「お父さん、そんな話なにもこんなときにせんでいいでしょう」
 母が止めに入った。父の言っていることはそっくりそのまま母の気持ちでもあるだろう。きっと母のほうが心配しているに違いない。最近はもう何も言わなくなったが、以前は勝手に見合い相手を探して写真と釣書を送ってきたりした。部屋まで説得にやって来たこともある。うやむやに断りつづけていたら、今度はため息ばかりつくようになった。
「あんたの将来を考えると目の前が真っ暗になるわ」
 会えば必ずこれだった。近くに住んでいるのにたまにしか顔を見せないし、親戚の葬儀や結婚式にも欠席して義理を欠いている。母が嘆くのも無理はない。
「わしの知ってる不動産屋にいっぺん見てもらおうと思てるんや。土地は六十坪ぐらいあるさかいそこそこのもんやで」
 暗くて表情がよく分からない分だけ父の言葉はずっしりと重く響いてきた。もう立て替えの時期に来ていることは分かっているが、具体的にどうすればいいかを考えたことはなかった。それが僕に与えられた仕事だということもぴんとこなかった。
「町内でも立て替えが進んでるのよ。おととしは三組の山田さんでしょう。去年は二組の山根さんと吉川さんでしょう。今年に入って重田さんと高橋さん。みんなうちと同じぐらいに古かったわ」
 止めに入ったはずの母がそんなことを言ったものだから父は勢いづいて、小さめの家を二軒建てて一軒を人に貸したらどうや、二階建てのアパートにして家賃をもらったらどうや、一生独身のつもりやったら離れだけで十分やろうからこっちを駐車場にしたらどうや、と好き勝手なことを言い出した。なんの見積もりもないただの言いっ放しではあったが、この家をどうにかしなければならないということだけは充分に伝わってきた。それが僕の考え次第であることも分かった。
 町内の人から続けて電話がかかってきた。停電の確認だった。みんな最近家を建て替えた人たちだったので、
「どこも椅子で食事ができるようにしとかはるわ。絶対そのほうが楽やわ。食べてる時に何回も立ち上がるのって案外しんどいんやし」
 と母は話をぶり返した。
「重田さんのとこは浴室暖房になってて冬でも暖かいんや。いっぺん見せてもろたけど、そらでっかい風呂でなあ」
 父は両手を広げて言った。
「あーええなあ」
「吉川さんのとこなんか天井に窓がついてて星が見えるんや」
「ほんまに?」
「ほんまやがな。あそこはいまでもふたりで入ったはるがな」
「そんなんはいらんけど、せめてひざ伸ばして入りたいわ」
 父と母は風呂のことで盛り上がっていたが、その隣で元気なおばあちゃんは退屈していた。ティッシュペーパーをちぎって紙縒りを作ることぐらいしかすることがないようだった。そのうち目を閉じた。小さな体が座椅子からはみ出した。
 ろうそくがだいぶ短くなった。風がなくてもろうそくの炎は揺れるものだ。
 ちょっと二階を見てきてちょうだいと母が言った。時折雨戸がはずれたみたいな大きな音がする。わしの仕事や、と父は勇んで立ち上がったが、階段を上る足音はかなりゆっくりだった。一段一段しっかりと板を踏みつけていた。
 ろうそくが一本少なくなるとずいぶん暗くなる。その暗くなった場所を補うために他のろうそくを少しずらせた。今まで明るかったところが急に暗くなると気持ち悪いものだ。そんなことを言うと母は、
「細かいことを言うんやね」
 と驚いていた。母の中では、弟が繊細で僕が大胆、弟がまじめで僕が不真面目、弟が慎重で僕は無鉄砲、そう決め付けられている。
「おーい」
 二階から父が叫んだ。どうやら雨漏りがしているらしい。
「あららら。何箇所漏ってるの」
 母は冷静に聞き返した。
「一箇所やと思う。バケツとタオルを持ってきてくれ」
「バケツなんかいりません。洗面器で充分」
「そやけどもうだいぶ漏っとるで。畳がびしょびしょや」
「お風呂の洗面器で充分です」
 洗面器とタオルを持って上がるのは僕の役目だった。階段の途中で何度もろうそくの炎が小さくなってひやっとしたが、意外と消えないものだ。点になってもまたすぐに復活する。
 天井はかなり広い範囲にわたって黒く変色していた。板の継ぎ目がたっぷりと水気を含んでいる。漏っているのはたしかに一箇所だったが、滴の落ちるスピードは速いと感じた。本当にこの洗面器で大丈夫かと思った。
「おまえが小さい頃はときどき漏ったんや。知らんと寝ててびっくりしたこともあったなあ」
 そう言ってから父は、だいぶ前に屋根を直してもろたはずなんやけどなあと首をかしげた。
「タオルよりビニールシートの方がよかったんとちゃうか」
「そうやな」
「途中でまた違うところから漏ってくるんとちゃうか」
「そうかもしれんな」
「この調子やったら夜中に何回も見に来なあかんのとちゃうか」
「おまえも案外心配性やなあ」
 父は僕の顔を見て笑った。
 状態を母に伝えると、それぐらいなら全く心配ないということだった。
 元気なおばあちゃんがもう寝たいと言い出したので、ついでにみんなの床も用意してしまおうということになった。九時を少し回っていた。
「板の間でよろしいで」
 十分な広さがあるのに元気なおばあちゃんはそんなことを言う。最初はいつも通り離れで寝るつもりだった。ろうそくも持たずに離れへ行こうとするので、あほちゃうか、と母が怒鳴った。
「やっぱりこっちで寝なあかんか」
「あかんかって、当たり前やろ」
「向うのほうが落ち着くんやけどなあ」
「停電してるんやで」
「そやかて目つむったら一緒やし」
「あほなこと言わんといて」
 元気なおばあちゃんも少し意地になっていたが、
「今日一日こっちで寝はったらよろしいがな」
 父のその一言でようやく観念したのだ。
 寝たきりのおばあちゃんの隣に母が寝る。父と僕は居間。元気なおばあちゃんは玄関の六畳間。敷布団が足りないので座布団をつなぎ合わせてひとり分にした。仕切りのふすまははずされているので、大部屋に雑魚寝をするようなものだ。
 いつのまにかラジオは消されていた。台風はどのくらいまで近づいているのか、それとももう遠ざかっているのか分からなかった。相変わらず雨戸は激しく鳴っている。
 寝たきりのおばあちゃんの体の向きを変えるというので、僕と父と元気なおばあちゃんは一本ずつろうそくを持ってベッドの回りを照らした。母は手馴れたものだ。片方の腕をおばあちゃんの腰の下へ滑り込ませそのまま全身を抱きかかえると、よいしょっと声を出して自分の体を半回転させながらおばあちゃんの体も一緒にぐるっと回した。うまくやるものだと感心していたら母はまだ少し不満なようで、もうちょっと回りましょうかと言ってもう一度おばあちゃんの体をひねったが、その拍子に「痛っ」と声を上げてしゃがみ込んでしまった。腰をさすっている。
「無理したらあかんがな」
 ろうそくをぐんと近づけて父が言った。
「いつまでこんなこと出来るやろ。こっちが倒れてしまうわ」
「ほんまやで、もっと自分の体を大事にせなあかん。もしおまえが倒れたらわしが体の向きを変えたるけど、重そうやしなあ」
「重いで」
「最近また重なったんとちゃうか。せめてそれぐらいで止めといてくれよ」
「はいはいはいはい」
 母は腰をさすっていた手でおなかをなで回し、いつのまにかぶくぶくになったわ、と笑った。その笑った息が父のろうそくの炎を激しく揺らした。
「先に寝させてもらいます」
 元気なおばあちゃんが部屋を移っていく。ろうそく一本分、がくんと暗くなった。
「わしも寝るわ」
 そう言って父が離れていくとまたがくんと暗くなった。
 寝たきりのおばあちゃんの骨ばった顔が僕の持っているろうそくの下で異様にはっきりと浮かび上がっていた。まだ起きているはずだと思って覗き込んでみると、たしかに色あせた唇が魚の口のように薄くぱくぱくと動いていた。
 母のろうそくも遠ざかっていく。部屋の中は蛍光灯をひとつずつ落としていくよりもはるかに大きな落差で闇へと近づいていった。

 翌朝には電気は復旧していた。市東部の二万世帯が五時間にわたって停電したらしい。台風は未明に日本海へ抜けていた。
 二階の雨漏りは思ったほどひどくなく、母の言った通り洗面器半分ぐらいで収まっていた。
 雨戸を元へ戻さなければならない。父と一緒に仕舞い始めたが、引っ張り出したとき以上にすべりが悪く、また母の手を借りてしまった。
 明るくて静かな朝だった。青空がまぶしかった。木の葉を揺らす程度のわずかな南風が吹いている。暑い一日になりそうだ。
 弟から電話がかかってきた。母は台所で卵を焼いていて、父は寝たきりのおばあちゃんに砂糖入りの牛乳を飲ませていた。
「ひどかったなあ」
 と僕。
「ほんまほんま」
「停電したからなあ」
「そうらしいなあ。こっちは大丈夫やったけど、子供が興奮して全然寝てくれへんさかいまいったわ」
「来るんやろ」
「うん、十時ごろに行くって言うてたけど昼前になるわ。言うといて」
「ああ」
 弟と会うのは正月以来だから八ヶ月ぶりになる。最近は一年に二度会えばいいほうだ。僕がほとんどこの家へ寄らないから会えないだけで、弟たちは月に一度は顔を見せているらしい。
 雨戸がなあ、と言いかけて止めた。雨漏りのことも言いそうになったが止めた。そういうことは今日これから父や母がゆっくりと話すだろう。僕が伝えることでもない。
 元気なおばあちゃんは自分が寝ていた布団をたたんで部屋の隅へ押しやると、寝たきりのおばあちゃんに、
「おはようさん。昨日は大変でしたな」
 と声をかけた。
「何ですか」
「台風ですがな」
「ほう」
「停電しましたがな」
「ほう」
 母が食後の薬を持っていく。
「寝られましたか」
「なんぞあったんか」
「台風が来ましたよ」
「ほう、そうかいな」
「停電しましたよ」
「ほう、そうかいな」
「はい、お薬です」
「今は朝か」
「朝ですよ」
「ほう、もう朝か」
 寝たきりのおばあちゃんは薬をうまく飲み込めない。お茶だけがのどを通ってしまうのだ。母は口の中に指を入れて残っている錠剤をつまみ出し、舌の上に乗せ直してからもう一度お茶を含ませた。
 父は五坪ほどの庭へ出て植木鉢を直していた。割れてしまったものも多くあった。
「何のお役にもたちませんで、すんませんなあ」
 朝食を終えてすぐ離れへ戻ろうとする元気なおばあちゃんが声をかけた。
「あ、そしたらちょっとビニール袋を持ってきて下さいな」
「ビニール袋。大きいのがよろしいか」
「ええ、一番大きいやつを頼みます。それから軍手もお願いします」
 はいはいと元気なおばあちゃんが居間へ戻ろうとしたところへ、黒いビニール袋と軍手とはさみとタオルを持った母が、この際だから全部掃除してちょうだいと言ってやってきた。
「なんや、私の仕事取ったらあかんがな。いまそれを取りに行こうと思てたのに」
 元気なおばあちゃんは苦笑いを浮かべた。
「それはそれは失礼致しました。でも仕事やったらあるやないの。もうすぐひ孫が参りますので、お相手をよろしく」
「そうやった、そうやった。なんか用意しとかなあかんなあ。お菓子でもあるかいな」
「そんなんはいいの」
 弟たちが来るのはまだ二時間近くも先なのにそれまで何をするでもなく、居間の座椅子にもたれかかってうつらうつらしながらじっと待っているのだ。ひ孫の顔を見るとまず、よお来たなあ、お腹減ってへんかと声をかける。それから手招きをして無理やり膝の上に座らせ、重たい重たい、体がぺちゃんこになるわ、とはしゃぐ。そしてテーブルの上に用意してある千円入りの小さなのし袋を握らせて、これで何かええもん買うてやと声をかける。すかさず弟の奥さんがやってきて、いつもいつもすいませんとそののし袋を引き取り、子供に「ありがとう」を何回も言わせる。かわいらしいなあと頭をなで回して顔合わせの儀式みたいなものが終わる。
 これらはみんな昨夜母から聞いたことだ。もうちょっと大きくなって膝の上に乗らなくなったら千円は止めにするらしい。その代わり勉強が出来るようにと図書券を渡し、童話や昔話を読み聞かせて欲しいと願っている。こっちが読み聞かせるのではなくてその逆だ。最近急に目が悪くなり、大きな字を読むのもしんどくなってきた。だから読んで聞かせて欲しいのだと。
「おばあちゃんは童話作家にでもなりたかったんか」
 全くあてずっぽうに母に尋ねてみると、
「それより絵本が好きやったなあ。ちょっと自分でも描いてた頃があったみたいやで」
 ということだった。初耳だ。いつごろのことだろう。結婚する前の大正時代の頃だろうか。それとも戦争中のことだろうか。それともおじいちゃんと死に別れてひとりになったあとのことだろうか。直接確かめてみてもきっと教えてくれない。知らんなあ、忘れたなあととぼけた後に、「そんなことより早よお嫁さん連れてこなあかんやないの」と突っ込んでくる。そして、「わたしの目の黒いうちに頼みまっせ、早よせんと間に合いまへんで」と笑いながらせいてくる。「もう死にます」これを昨夜だけで何回聞いたことか。
 寝たきりのおばあちゃんは母の名を呼びつづけていた。まるで電話の呼び出し音のように一回呼んではちょっと休み、また呼んではちょっと休む。不思議とリズムがついている。母は台所で聞き流していた。
「わたしではあきまへんか」
 うつらうつらしていた元気なおばあちゃんが立ち上がってべッドに寄り添った。
「おーい、ばんそうこうを持ってきてくれ。血が出た、血が出た。一番大きいやつを持ってきてくれ」
 庭からは父の大きな声が聞こえてきた。

 

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